※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。
奈良時代に鑑真が渡来し、東大寺等に戒壇が設けられて以来、授戒を受けることが正式
な僧侶として認められることでもあったが、鎌倉時代になると授戒は形骸化し、戒律を守
らない僧侶も多くなった。
日蓮のように「末法無戒」を唱え、その現状を是認する者もいたが、逆に危機意識を持
って戒律復興運動に取り組む僧侶も現れた。
戒律復興運動において中心的な役割を果たした僧侶の一人は、西大寺を拠点とした叡尊
だった。その叡尊の高弟で後に関東に拠点を移し、日蓮と同時期に鎌倉で活躍したのが、
良観房忍性である。
忍性は鎌倉幕府から極楽寺を与えられ、戒律の普及だけでなく慈善活動にも取り組み、
持戒の聖僧として、身分の上下を問わず多くの人々から敬われ、その教団は当時の鎌倉で
最大の勢力を持つに至った。
「末法無戒」という戒律を否定する思想を持つ日蓮にとっては、これは受け入れ難いこ
とだった。
忍性は密教僧でもあり、幕府に請われて祈祷を行うこともたびたびあった。日蓮はこれ
に目をつけ、文永8年(1271年)の干ばつに際し、忍性が請雨の祈祷を行った際、以下の
ような挑発を行ったという。
> 七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて
> 二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然
> なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と守敏
> と弘法となり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入
> 道は良観が弟子又念仏者なり、いまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、
> 七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば
> 一向に法華経になるべし
(『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)
日蓮は、「忍性の祈祷により七日の内に雨が降れば、日蓮はこれまでの非を認めて忍性
の弟子となり戒律を守る。しかし、雨が降らなければ忍性とその弟子たちが、一向に法華
経になるべし」と言ったのだという。
果たして七日の祈祷の間に、雨は降らなかった。
それを見て日蓮は次のように書き送ったという。
> 一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだにふらし給はず、況
> やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ、
> 後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道
> をしへ奉らむ
(同上)
祈祷の成否によりどちらの法門が正しいか勝負を決し、負けた方が弟子になるというの
は日蓮が勝手に言ったことであり、忍性がそんな約束に応じていたとは考えにくい。
また、この件についての忍性側の記録は残っておらず、日蓮の書き残していることがど
こまで事実かも、今となっては確認のしようがない。
伝説ではこの後、日蓮が法華経の読経により請雨の祈祷を行い、見事雨を降らせたこと
になっている。だが、日蓮自身はそんなことはどこにも書いておらず、この伝説は後世の
脚色と考えるべきだろう。
この数カ月後、日蓮は幕府に捕らえられ、一度は斬首されそうになったものの、それを
免れ佐渡島に流罪になった(竜の口の法難)。
日蓮は、斬首されそうになったことについて、雨乞いの失敗の件を恨んだ忍性の讒言に
よるものだと主張している。
> 然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまま
> に日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を
> 構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か
(同上)
創価学会をはじめとする日蓮系の教団では、日蓮の記述を真実とし、良観房忍性は慈善
家ぶった偽善者で、その実、日蓮の殺害を企てた悪人ということになっている。
だが、日蓮による他宗の僧侶への批判には、事実とは認め難いものも多く、忍性に対す
る非難もそうした例の一つである可能性は小さくない。
忍性の事績について、現代の仏教学者は以下のように述べている。
> 叡尊の弟子で良観房忍性は十三歳のとき肉食を断つことを誓ったほどで、戒律の研
> 究実践に熱心であったが、社会事業においては師にまさる成績をあげた。一二七四年
> の飢饉、一二八三年の疫病流行のときは弟子たちを動員して大活躍をした。非人の救
> 済、病院の経営、捨子の養育など活動範囲はきわめて広いが、その生涯の総決算とし
> て、寺院の造営八十三、橋をかけること百八十九、道をつくること七十一、井戸を掘
> ること三十三のほか、浴室(公衆浴場)・病室(病院)・非人宿などが数えられ、聖
> 徳太子の業績をしのんで四天王寺に悲田院・敬田院を設けた。一二八七年に建てられ
> た桑谷療病所では二十年間に全治者四万六千八百人、死亡者一万四百五十人で、八割
> までが助かっているが、当時としてこれだけの成績を上げるためには並々ならぬ苦心
> を要したことであろう。また奈良の西大寺にいた頃は、かつて光明皇后が癩患者を洗
> ったと伝えられる般若坂北山の癩病舎を復興して救済したが、手足が不自由で乞食に
> 出られない一人の病人を一日おきに背負って朝、街に連れて行き、夕方には病舎に運
> び、乞食で生活がなりたつようにしてやった。これが休みなしに数年間続いたという。
> さらに特筆すべきことには、忍性は一二九八年には馬病舎を建てている。これも生
> 類に対する限りない慈愛にもとづくものである。
(中略)
> ところが、忍性が鎌倉極楽寺にいたころ、日蓮もやはりこの地にあって、前に記し
> たように建長寺の道隆を攻撃したのみではなく、忍性にも対決を迫ったが、二人とも
> 相手にしなかった。忍性が社会奉仕に身を捧げている事実を知りながら、これを公然
> と非難した日蓮には結局のところ本格的な仏教はわからなかったものであろう。日蓮
> がいわゆる四箇の格言の中で〈律国賊〉と言って罵ったのは他ならぬ世の人から〈医
> 王如来〉として慕われたこの忍性のことだったのである。
(渡辺照宏著『日本の仏教』より引用)
忍性のような人物が、いくら悪口を受けたからといって、それを恨んで人を死罪に追い
やろうとしたとは、私には思えない。
上流の武士から最下層の貧民にいたるまで、多くの人から慕われていた忍性を悪しざま
に言い続けた日蓮に憤った有力者が、彼を厳罰に処すよう幕府に働きかけた結果として、
竜の口の法難にいたり、それを日蓮が忍性によって陥れられたと思い込んだというのが、
真相に近いのではないだろうか。
日蓮が法華経を重視した理由には、それが二乗作仏や女人成仏を説いているということ
も含まれていた。つまり、誰しもが救われるという教えが説かれているからこそ、法華経
は貴いとしたのである。
また、日蓮は「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振
舞にて候けるぞ」(『崇峻天皇御書』真蹟 身延曾存)とも述べている。
鎌倉時代という、民衆をさいなむ災害や兵火が絶えなかった時代に、実際の「振舞」で
万人を救おうとしたのは、日蓮と忍性、どちらだっただろうか?
2019年1月20日日曜日
日蓮と律
※ 今回も日蓮遺文等(古文)の引用やや多め。
日蓮は「律国賊」と主張し、宗派としての律宗だけでなく、本来、僧侶であれば遵守す
べきである戒律そのものまで敵視していた。
> 西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく
> 小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありし
> かば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。
(『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
> 日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成
> 実・律宗なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論
> ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧
> はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・
> 三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒
> を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし
(『聖密房御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、大乗と小乗を分かつものは戒だと述べ、天台宗以外の宗派は戒律という点から
いえば小乗なのだと主張している。
この考え方は、日本に天台宗を伝えた伝教大師最澄に由来する。
僧侶になるとは、本来、戒律を遵守することを意味していた。そして、出家者が保つべ
き戒律は、250にも及んだ。
最澄はこの二百五十戒を一方的に「小乗戒」と決めつけて、それを捨てることを宣言し、
さらに、「大乗戒」に基づいた新しい戒壇を比叡山に設けることの許しを朝廷に求めた。
最澄が主張した「大乗戒」とは、梵網経に説かれている「十重四十八軽戒」というもの
で、戒律の数は58しかなく、それまでと較べると大幅な緩和である。
「十重四十八軽戒」は本来、出家者ではなく、在家修行者向けの戒律だったようだが、
最澄は「日本は大乗仏教の国だから、戒律も小乗のものではなく、大乗のものを用いるべ
きだ」と主張したのである。
最澄の訴えは、彼の死の直後に認められ、比叡山にも新たに戒壇が設置されることにな
った。こうして比叡山天台宗は、奈良の旧仏教勢力からの影響を排し、独自の発展を可能
にする地歩を固めたのである。
最澄が「大乗戒」を主張した理由は、旧勢力と距離を置くことのほかに、実際、250も
の戒律を厳密に守ることが困難だったこともあるという。
「大乗戒」による戒律の緩和は、その後の仏教の堕落を招いたという面もあるにせよ、
事実として鎌倉仏教の宗祖たちは、日蓮を含め皆、比叡山延暦寺で学んでおり、日本の仏
教のあり方を決定した、歴史上、重要な出来事であることについては異論は出ないだろう。
日蓮は、鑑真が渡来したことを契機に設けられた三戒壇、即ち、奈良東大寺、大宰府の
観世音寺、下野国の薬師寺の戒壇は「小乗臭糞の戒」で「其れを持つ法師等は野干猿猴等
のごとし」と罵っているが、彼が天台宗の教義と正統性にそれだけ自信を持っていたこと
の表れなのだろう。
それにしても「臭糞の戒」は言い過ぎではないか、と思われる向きもあるかと思うが、
これは法華七喩の一つ「長者窮子の譬え」に由来している(煩雑になるので補足で説明す
る)。
日蓮が戒律を否定したもう一つの根拠は、最澄が撰述したとされてきた『末法燈明記』
に記された「末法無戒」という考え方である。
『末法燈明記』は現代では偽書だと見做されているが、鎌倉時代においては、実際に最
澄が書いたものと信じられていた。日蓮もそう考えており、日蓮遺文の中には『末法燈明
記』の一節を最澄の言葉として引用しているものもある。一例を示す。
> 伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の
> 弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末
> 法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。
(『四信五品抄』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
※ 最澄が「二百五十戒を捨てた」のは上述したように史実であるが、鑑真の弟子や七
大寺までもが一同に捨てたというのは誇張である。
しかしながら、250もの戒律の遵守を負担に感じる僧侶は、興福寺等の南都七大寺
にも多かったようで、比叡山に大乗戒壇が設置された後は、南都の僧の中にも東大寺
ではなく、比叡山での授戒を希望する者もいたという。
「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」の
出典が『末法燈明記』である。
日蓮の思想をより正確に理解するために、『末法燈明記』に記された「末法無戒」とい
う考え方がどのようなものかを、もう少し詳しくみていく。
『末法燈明記』は、上述のように末法においては「持戒の者有らば是れ怪異なり」とし、
戒律を守らない名ばかりの僧しかいなくなると述べている。その根拠としては、大集経が
引用されている。
> 一切世間には仏宝無価なり。もし仏宝なくば縁覚無上なり。もし縁覚無くば羅漢無
> 上なり。もし羅漢なくば余の賢聖衆をもて無上なり。もし余の賢聖衆なくば得定の凡
> 夫をもて無上とす。もし得定の凡夫なくば浄持戒をもて無上とす。もし浄持戒なくば
> 漏戒の比丘をもて無上とす。もし漏戒なくば剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字の比
> 丘を無上の宝とす。
※ 「無価」とは評価できないほど優れているという意味である。
『末法燈明記』には、この経文が説く「仏宝」から「名字の比丘(名ばかりの僧)」が、
正法・像法・末法のいずれに対応するかが、続いて述べられている。
> この文のなかに八重の無価あり。いわゆる如来に、縁覚、声聞、および得定の凡夫、
> 持戒、破戒、無戒名字、それついでのごとし、各正像末のときの無価の宝とするなり。
> はじめの四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。これによりて明
> らかに知ぬ。破戒無戒ことごとく真宝なり。
仏教とは「仏・法・僧」の三宝を敬うものであるが、『末法燈明記』は「末法において
は戒律を守る者などなく、髪を剃って袈裟を着た名前ばかりの僧がいるだけだが、破戒・
無戒の僧でも真の宝である」と主張しているのである。
日蓮はこうした思想を、彼が尊敬してやまなかった伝教大師最澄が説いたものと信じて
いた。そして戒律を守る僧侶を「野干猿猴等のごとし」だとか「法師ににたる大蝗虫」な
どと嘲ったのである。
さて、話は現代に飛ぶが、創価学会は日蓮正宗から破門されて以降、「戒律を守らず肉
食妻帯する僧侶など敬う必要などない」と主張してきた。
しかし、これは日蓮の思想とは相容れないものである。「日蓮大聖人直結」をうたう創
価学会であるが、自分たちに都合が悪ければ、日蓮の思想など平気で無視する連中なのだ。
前回も述べたように、鎌倉時代を生きた日蓮の主張には、現代の仏教学・文献学により
明らかになった事実に照らせば、幾多の瑕疵があることは否めない。
時代の制約は誰であれ免れることは難しいものであり、それは致し方のないことである。
だが日蓮が「末法無戒」を無批判に受け入れたことは、「時代の制約」のせいばかりとは
言い切れないように思う。
なぜなら、栄西も『興禅護国論』で『末法燈明記』について言及しているが、「末法無
戒」は退けているし(栄西は「持律第一」と称されるほど、戒律に厳格だった)、鎌倉時
代は戒律復興運動も盛んであったからである。
日蓮と同時期に鎌倉で活躍し、彼が敵視した良観房忍性こそが戒律復興運動の立役者だ
った。日蓮と忍性については、次回に論じたい。
補足1 「小乗臭糞」について
本文でふれたように日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、法華経信解品に説かれ
ている「長者窮子の譬え」に基づいている。
「長者窮子」については、ウィキペディアの「法華七喩」の項に概略が記されている
ので、そこから引用する(あわせて若干の解説も付け加える)。
> ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあ
> げく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だ
> と確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるの
> が嫌で逃げてしまう。
※ 息子が逃げたのは、長い流浪生活により卑屈になり、長者の権勢に怯えたからで
ある。法華経には「志意下劣」とある。
> 長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一
> 緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
> そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も
> 立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱
> 心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を
> 任せ、実の子であることを明かした。
※ 「一番汚い仕事」とあるが、法華経には「雇汝除糞(汝を雇うことは、糞を払わ
しめんためなり)」ある。つまり「くみとり」のことである。
> この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切
> の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表し
> ている。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解し
> た内容を釈迦仏に伝える形をとっている。
大迦葉がこのたとえ話をしたのは、「自分たちの資質では、不完全な悟りにしか至れ
ない声聞に甘んじるしかなく、真の悟りを開いて仏になることはできないと思い込んで
いた――これを卑屈な息子にたとえた――が、釈尊から法華経の説法を聞いて、自分た
ちも成仏できるのだと分かった」という感激を表すためである。
法華経以前に作られた大乗経典では、上座部(小乗)を敵視し、その修行者を不完全
な悟りに甘んじる者たちとして見下す面があった。法華経は大乗仏教の立場から、小乗
の修行者を包摂しようとの意図をもって作られたと考えらている。
日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、この法華経の譬喩に基づいているのである。
補足2 禅宗と戒律
日蓮が禅宗を敵視した理由の一つは、禅僧が戒律を重視したからである。『撰時抄』に
次の記述がある。
> 禅宗は又此の便を得て持斉等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、
> いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。
「持斎」とは戒律を守る者のことである。「末法無戒」を主張する僧がいた一方で、戒
律を守る僧が「たっとげなる気色」と敬われていたことも見て取れる。
日蓮は「律国賊」と主張し、宗派としての律宗だけでなく、本来、僧侶であれば遵守す
べきである戒律そのものまで敵視していた。
> 西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく
> 小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありし
> かば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。
(『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
> 日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成
> 実・律宗なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論
> ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧
> はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・
> 三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒
> を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし
(『聖密房御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、大乗と小乗を分かつものは戒だと述べ、天台宗以外の宗派は戒律という点から
いえば小乗なのだと主張している。
この考え方は、日本に天台宗を伝えた伝教大師最澄に由来する。
僧侶になるとは、本来、戒律を遵守することを意味していた。そして、出家者が保つべ
き戒律は、250にも及んだ。
最澄はこの二百五十戒を一方的に「小乗戒」と決めつけて、それを捨てることを宣言し、
さらに、「大乗戒」に基づいた新しい戒壇を比叡山に設けることの許しを朝廷に求めた。
最澄が主張した「大乗戒」とは、梵網経に説かれている「十重四十八軽戒」というもの
で、戒律の数は58しかなく、それまでと較べると大幅な緩和である。
「十重四十八軽戒」は本来、出家者ではなく、在家修行者向けの戒律だったようだが、
最澄は「日本は大乗仏教の国だから、戒律も小乗のものではなく、大乗のものを用いるべ
きだ」と主張したのである。
最澄の訴えは、彼の死の直後に認められ、比叡山にも新たに戒壇が設置されることにな
った。こうして比叡山天台宗は、奈良の旧仏教勢力からの影響を排し、独自の発展を可能
にする地歩を固めたのである。
最澄が「大乗戒」を主張した理由は、旧勢力と距離を置くことのほかに、実際、250も
の戒律を厳密に守ることが困難だったこともあるという。
「大乗戒」による戒律の緩和は、その後の仏教の堕落を招いたという面もあるにせよ、
事実として鎌倉仏教の宗祖たちは、日蓮を含め皆、比叡山延暦寺で学んでおり、日本の仏
教のあり方を決定した、歴史上、重要な出来事であることについては異論は出ないだろう。
日蓮は、鑑真が渡来したことを契機に設けられた三戒壇、即ち、奈良東大寺、大宰府の
観世音寺、下野国の薬師寺の戒壇は「小乗臭糞の戒」で「其れを持つ法師等は野干猿猴等
のごとし」と罵っているが、彼が天台宗の教義と正統性にそれだけ自信を持っていたこと
の表れなのだろう。
それにしても「臭糞の戒」は言い過ぎではないか、と思われる向きもあるかと思うが、
これは法華七喩の一つ「長者窮子の譬え」に由来している(煩雑になるので補足で説明す
る)。
日蓮が戒律を否定したもう一つの根拠は、最澄が撰述したとされてきた『末法燈明記』
に記された「末法無戒」という考え方である。
『末法燈明記』は現代では偽書だと見做されているが、鎌倉時代においては、実際に最
澄が書いたものと信じられていた。日蓮もそう考えており、日蓮遺文の中には『末法燈明
記』の一節を最澄の言葉として引用しているものもある。一例を示す。
> 伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の
> 弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末
> 法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。
(『四信五品抄』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
※ 最澄が「二百五十戒を捨てた」のは上述したように史実であるが、鑑真の弟子や七
大寺までもが一同に捨てたというのは誇張である。
しかしながら、250もの戒律の遵守を負担に感じる僧侶は、興福寺等の南都七大寺
にも多かったようで、比叡山に大乗戒壇が設置された後は、南都の僧の中にも東大寺
ではなく、比叡山での授戒を希望する者もいたという。
「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」の
出典が『末法燈明記』である。
日蓮の思想をより正確に理解するために、『末法燈明記』に記された「末法無戒」とい
う考え方がどのようなものかを、もう少し詳しくみていく。
『末法燈明記』は、上述のように末法においては「持戒の者有らば是れ怪異なり」とし、
戒律を守らない名ばかりの僧しかいなくなると述べている。その根拠としては、大集経が
引用されている。
> 一切世間には仏宝無価なり。もし仏宝なくば縁覚無上なり。もし縁覚無くば羅漢無
> 上なり。もし羅漢なくば余の賢聖衆をもて無上なり。もし余の賢聖衆なくば得定の凡
> 夫をもて無上とす。もし得定の凡夫なくば浄持戒をもて無上とす。もし浄持戒なくば
> 漏戒の比丘をもて無上とす。もし漏戒なくば剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字の比
> 丘を無上の宝とす。
※ 「無価」とは評価できないほど優れているという意味である。
『末法燈明記』には、この経文が説く「仏宝」から「名字の比丘(名ばかりの僧)」が、
正法・像法・末法のいずれに対応するかが、続いて述べられている。
> この文のなかに八重の無価あり。いわゆる如来に、縁覚、声聞、および得定の凡夫、
> 持戒、破戒、無戒名字、それついでのごとし、各正像末のときの無価の宝とするなり。
> はじめの四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。これによりて明
> らかに知ぬ。破戒無戒ことごとく真宝なり。
仏教とは「仏・法・僧」の三宝を敬うものであるが、『末法燈明記』は「末法において
は戒律を守る者などなく、髪を剃って袈裟を着た名前ばかりの僧がいるだけだが、破戒・
無戒の僧でも真の宝である」と主張しているのである。
日蓮はこうした思想を、彼が尊敬してやまなかった伝教大師最澄が説いたものと信じて
いた。そして戒律を守る僧侶を「野干猿猴等のごとし」だとか「法師ににたる大蝗虫」な
どと嘲ったのである。
さて、話は現代に飛ぶが、創価学会は日蓮正宗から破門されて以降、「戒律を守らず肉
食妻帯する僧侶など敬う必要などない」と主張してきた。
しかし、これは日蓮の思想とは相容れないものである。「日蓮大聖人直結」をうたう創
価学会であるが、自分たちに都合が悪ければ、日蓮の思想など平気で無視する連中なのだ。
前回も述べたように、鎌倉時代を生きた日蓮の主張には、現代の仏教学・文献学により
明らかになった事実に照らせば、幾多の瑕疵があることは否めない。
時代の制約は誰であれ免れることは難しいものであり、それは致し方のないことである。
だが日蓮が「末法無戒」を無批判に受け入れたことは、「時代の制約」のせいばかりとは
言い切れないように思う。
なぜなら、栄西も『興禅護国論』で『末法燈明記』について言及しているが、「末法無
戒」は退けているし(栄西は「持律第一」と称されるほど、戒律に厳格だった)、鎌倉時
代は戒律復興運動も盛んであったからである。
日蓮と同時期に鎌倉で活躍し、彼が敵視した良観房忍性こそが戒律復興運動の立役者だ
った。日蓮と忍性については、次回に論じたい。
補足1 「小乗臭糞」について
本文でふれたように日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、法華経信解品に説かれ
ている「長者窮子の譬え」に基づいている。
「長者窮子」については、ウィキペディアの「法華七喩」の項に概略が記されている
ので、そこから引用する(あわせて若干の解説も付け加える)。
> ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあ
> げく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だ
> と確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるの
> が嫌で逃げてしまう。
※ 息子が逃げたのは、長い流浪生活により卑屈になり、長者の権勢に怯えたからで
ある。法華経には「志意下劣」とある。
> 長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一
> 緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
> そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も
> 立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱
> 心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を
> 任せ、実の子であることを明かした。
※ 「一番汚い仕事」とあるが、法華経には「雇汝除糞(汝を雇うことは、糞を払わ
しめんためなり)」ある。つまり「くみとり」のことである。
> この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切
> の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表し
> ている。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解し
> た内容を釈迦仏に伝える形をとっている。
大迦葉がこのたとえ話をしたのは、「自分たちの資質では、不完全な悟りにしか至れ
ない声聞に甘んじるしかなく、真の悟りを開いて仏になることはできないと思い込んで
いた――これを卑屈な息子にたとえた――が、釈尊から法華経の説法を聞いて、自分た
ちも成仏できるのだと分かった」という感激を表すためである。
法華経以前に作られた大乗経典では、上座部(小乗)を敵視し、その修行者を不完全
な悟りに甘んじる者たちとして見下す面があった。法華経は大乗仏教の立場から、小乗
の修行者を包摂しようとの意図をもって作られたと考えらている。
日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、この法華経の譬喩に基づいているのである。
補足2 禅宗と戒律
日蓮が禅宗を敵視した理由の一つは、禅僧が戒律を重視したからである。『撰時抄』に
次の記述がある。
> 禅宗は又此の便を得て持斉等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、
> いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。
「持斎」とは戒律を守る者のことである。「末法無戒」を主張する僧がいた一方で、戒
律を守る僧が「たっとげなる気色」と敬われていたことも見て取れる。
2019年1月13日日曜日
日蓮と真言
※ 今回は日蓮遺文(古文)の引用やや多め。
日蓮による他の宗旨への批判の中には、史実に基づかないもの、首を傾げたくなるもの
も少なくない。
真言宗に対しても、その根本経典の一つである大日経を中国に伝えた善無畏三蔵(637
~735年)が、「中国にきた後で、天台宗の肝要である『一念三千』について知り、優れ
た教義であったためにそれを盗み、大日経にも『一念三千』と同様の考え方が、もとから
あったかのように事実を偽って解釈した」と非難してるが、これは史実に照らして妥当性
があると言えるだろうか。
> 善無畏三蔵、震旦に来たって後、天台の止観を見て智発し、大日経の「心実相、我
> 一切本初」の文の神(たましい)に、天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とし
> て、其の上、 印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の
> 釈をつくれり。
(『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
一念三千とは、天台大師智顗(538~598年)の『摩訶止観』に由来しているが、智顗の
様々な教説を整理し、この教義を「終窮究竟の極説」とまでに宣揚したのは妙楽大師湛然
(711~782年)だった。
湛然は「あらゆる事象には『空・仮・中』の三つの側面があると観じる、一心三観・三
諦円融が法華経の三通りの読み方――『三転読』という――に表れているという智顗の説
が、一念三千にも組み込まれている」という解釈を、『摩訶止観』の注釈書である『摩訶
止観輔行伝弘決』で述べ、一念三千を天台の「終窮究竟の極説」としたのである。
日蓮も『摩訶止観輔行伝弘決』から多大な影響を受けていた。
ただ、『摩訶止観輔行伝弘決』が成立したのは、西暦765年である。735年に世を去った
善無畏三蔵が、これを参照して「一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とした」というのは、
あり得ない話である。
本邦に真言密教を伝えたのは、真言宗を開いた弘法大師空海であるが、その影響は大き
く、日蓮が属していた天台宗も密教化した(真言宗の「東密」に対して、天台宗は「台密」
と呼ばれる)。
日蓮は、天台宗が密教教典を法華経よりも重視するようになったことについて、第三代
天台座主を務めた慈覚大師円仁を批判している。
> あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大
> 乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最
> も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故
> に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり
> 諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の
> 心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝
> の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に
> 付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候
(『慈覚大師事』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
※ 金剛頂経は大日経と並ぶ密教の根本経典である。仏の慈悲を象徴する胎蔵界曼荼羅
が大日経に基づくのに対し、智慧を象徴する金剛界曼荼羅は金剛頂経に基づいている。
日蓮は、円仁が密教経典である金剛頂経を法華経よりも重視したことについて、「鶴の
首を切ってガマの首につけたようなもので、真言のガマは死ぬだろうが、法華経の鶴の首
は切れない」などと、妙なたとえ方をしている。
だが、日蓮の法華経解釈も、相当に密教の影響を受けている。
『開目抄』においては、盗人呼ばわりしていた善無畏が伝えた法華肝心真言を引用して
「南無妙法蓮華経これなり」と述べている(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。
日蓮のやったことは、彼の言葉を借りるならば「ガマの皮をはいで、鶴にかぶせた」よ
うなものではないかと、私には思える。
日本の中世においては、様々な偽書が作られた。日蓮遺文とされてきた古文書の中にも、
現在では偽書と見なされているものが多い。
現代においては文書偽造は犯罪であるが、中世においてはそうしたことは罪にあたると
は見なされていなかった。「事実や史実を、どのように評価すべきか」ということに関す
る規範のあり方が、大きく異なっていたのである。
中世人であった日蓮もまた、そうした時代性にとらわれていた。その意味では現代の規
範を杓子定規にあてはめて、日蓮を批判するのは酷なのかもしれない。
日蓮遺文から、中世の人々の考え方の一端を学ぶことはできるだろう。実際、鎌倉時代
を専門とする歴史学者にとっては、日蓮遺文は重要な史料だという。
だが、「御本仏大聖人が、歴史を超越した唯一無二の真理を開示したもの」として読む
のは――そうした信仰を持つのも個人の自由とはいえ――かなり無理があると言わざるを
得ない。
補足
以前も述べた通り、私自身は歴史や仏教について専門的な教育を受けたことはない。
鎌倉仏教やそれを生んだ時代背景についての知識も、一般向けの概説書・入門書に頼っ
てきたのが正直なところである。
本文で鎌倉時代の規範意識は現代とは大きく異なっていたと述べたが、こうした知識を
得る上で、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著 講談社選書メチエ)がたいへん役立った。
参考までに、本書から私が興味深く感じた箇所を引用する。
> 日本だけでなくおよそ近代国家といわれるところでは、法律や判例はすべて司法当
> 局が一括して保管することが常識となっている。その蓄積された法源の中から最終的
> にどれを適用するかは、判事の責任であった。
> けれども、鎌倉幕府の裁判制度では事情はまったく違っていた。幕府の法廷には体
> 系的な形での式目や判例の蓄積はなかった。そのため裁判が起こると幕府は、当事者
> 自身に当該訴訟に関わる法律の提出を命じることになった。同じような争点をもつ近
> 接する二つの裁判で、別個の法令が適用されて異なった判決が下されることも、少し
> も珍しいことではなかったのである。
> その結果、当然予想されることではあるが、中世の裁判では式目や判例の偽作が頻
> 繁に行われることになった。「先例」の名のもとに、勝手な判例がでっちあげられて
> いった。この場合、そうした「先例」によって不利益をこうむる相手方は、即座にそ
> れを偽書としてその効力を否定した。だがここでも、偽書イコール絶対悪という発想
> はうかがえない。その相手方もまた、裁判を勝利に導くためなら、法律や判例を偽作
> することにいささかの躊躇もなかった。
こうした事情は、歴史学について専門的な訓練を積んだ人にとっては当然のことなのか
もしれないが、私を含め多くの一般人は、現代の「常識」を前提として、過去を理解しよ
うとする弊に陥りがちである。
鎌倉時代では、訴訟において僧侶が現代の弁護士と同様の役割を担うことがあった。日
蓮もそうした活動を行っていたといわれる。
日蓮による他宗僧侶への批判には、本当に事実か疑わしいものもあるが、その背景には、
日蓮が引用にあるような事態を経験してきたという事情があるのかもしれない。
日蓮遺文を読む際には、彼が生きていた時代の「当たり前」が、現代とは大きく異なっ
ていたことに、十分に留意すべきなのだと思う。
日蓮による他の宗旨への批判の中には、史実に基づかないもの、首を傾げたくなるもの
も少なくない。
真言宗に対しても、その根本経典の一つである大日経を中国に伝えた善無畏三蔵(637
~735年)が、「中国にきた後で、天台宗の肝要である『一念三千』について知り、優れ
た教義であったためにそれを盗み、大日経にも『一念三千』と同様の考え方が、もとから
あったかのように事実を偽って解釈した」と非難してるが、これは史実に照らして妥当性
があると言えるだろうか。
> 善無畏三蔵、震旦に来たって後、天台の止観を見て智発し、大日経の「心実相、我
> 一切本初」の文の神(たましい)に、天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とし
> て、其の上、 印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の
> 釈をつくれり。
(『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
一念三千とは、天台大師智顗(538~598年)の『摩訶止観』に由来しているが、智顗の
様々な教説を整理し、この教義を「終窮究竟の極説」とまでに宣揚したのは妙楽大師湛然
(711~782年)だった。
湛然は「あらゆる事象には『空・仮・中』の三つの側面があると観じる、一心三観・三
諦円融が法華経の三通りの読み方――『三転読』という――に表れているという智顗の説
が、一念三千にも組み込まれている」という解釈を、『摩訶止観』の注釈書である『摩訶
止観輔行伝弘決』で述べ、一念三千を天台の「終窮究竟の極説」としたのである。
日蓮も『摩訶止観輔行伝弘決』から多大な影響を受けていた。
ただ、『摩訶止観輔行伝弘決』が成立したのは、西暦765年である。735年に世を去った
善無畏三蔵が、これを参照して「一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とした」というのは、
あり得ない話である。
本邦に真言密教を伝えたのは、真言宗を開いた弘法大師空海であるが、その影響は大き
く、日蓮が属していた天台宗も密教化した(真言宗の「東密」に対して、天台宗は「台密」
と呼ばれる)。
日蓮は、天台宗が密教教典を法華経よりも重視するようになったことについて、第三代
天台座主を務めた慈覚大師円仁を批判している。
> あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大
> 乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最
> も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故
> に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり
> 諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の
> 心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝
> の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に
> 付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候
(『慈覚大師事』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
※ 金剛頂経は大日経と並ぶ密教の根本経典である。仏の慈悲を象徴する胎蔵界曼荼羅
が大日経に基づくのに対し、智慧を象徴する金剛界曼荼羅は金剛頂経に基づいている。
日蓮は、円仁が密教経典である金剛頂経を法華経よりも重視したことについて、「鶴の
首を切ってガマの首につけたようなもので、真言のガマは死ぬだろうが、法華経の鶴の首
は切れない」などと、妙なたとえ方をしている。
だが、日蓮の法華経解釈も、相当に密教の影響を受けている。
『開目抄』においては、盗人呼ばわりしていた善無畏が伝えた法華肝心真言を引用して
「南無妙法蓮華経これなり」と述べている(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。
日蓮のやったことは、彼の言葉を借りるならば「ガマの皮をはいで、鶴にかぶせた」よ
うなものではないかと、私には思える。
日本の中世においては、様々な偽書が作られた。日蓮遺文とされてきた古文書の中にも、
現在では偽書と見なされているものが多い。
現代においては文書偽造は犯罪であるが、中世においてはそうしたことは罪にあたると
は見なされていなかった。「事実や史実を、どのように評価すべきか」ということに関す
る規範のあり方が、大きく異なっていたのである。
中世人であった日蓮もまた、そうした時代性にとらわれていた。その意味では現代の規
範を杓子定規にあてはめて、日蓮を批判するのは酷なのかもしれない。
日蓮遺文から、中世の人々の考え方の一端を学ぶことはできるだろう。実際、鎌倉時代
を専門とする歴史学者にとっては、日蓮遺文は重要な史料だという。
だが、「御本仏大聖人が、歴史を超越した唯一無二の真理を開示したもの」として読む
のは――そうした信仰を持つのも個人の自由とはいえ――かなり無理があると言わざるを
得ない。
補足
以前も述べた通り、私自身は歴史や仏教について専門的な教育を受けたことはない。
鎌倉仏教やそれを生んだ時代背景についての知識も、一般向けの概説書・入門書に頼っ
てきたのが正直なところである。
本文で鎌倉時代の規範意識は現代とは大きく異なっていたと述べたが、こうした知識を
得る上で、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著 講談社選書メチエ)がたいへん役立った。
参考までに、本書から私が興味深く感じた箇所を引用する。
> 日本だけでなくおよそ近代国家といわれるところでは、法律や判例はすべて司法当
> 局が一括して保管することが常識となっている。その蓄積された法源の中から最終的
> にどれを適用するかは、判事の責任であった。
> けれども、鎌倉幕府の裁判制度では事情はまったく違っていた。幕府の法廷には体
> 系的な形での式目や判例の蓄積はなかった。そのため裁判が起こると幕府は、当事者
> 自身に当該訴訟に関わる法律の提出を命じることになった。同じような争点をもつ近
> 接する二つの裁判で、別個の法令が適用されて異なった判決が下されることも、少し
> も珍しいことではなかったのである。
> その結果、当然予想されることではあるが、中世の裁判では式目や判例の偽作が頻
> 繁に行われることになった。「先例」の名のもとに、勝手な判例がでっちあげられて
> いった。この場合、そうした「先例」によって不利益をこうむる相手方は、即座にそ
> れを偽書としてその効力を否定した。だがここでも、偽書イコール絶対悪という発想
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> することにいささかの躊躇もなかった。
こうした事情は、歴史学について専門的な訓練を積んだ人にとっては当然のことなのか
もしれないが、私を含め多くの一般人は、現代の「常識」を前提として、過去を理解しよ
うとする弊に陥りがちである。
鎌倉時代では、訴訟において僧侶が現代の弁護士と同様の役割を担うことがあった。日
蓮もそうした活動を行っていたといわれる。
日蓮による他宗僧侶への批判には、本当に事実か疑わしいものもあるが、その背景には、
日蓮が引用にあるような事態を経験してきたという事情があるのかもしれない。
日蓮遺文を読む際には、彼が生きていた時代の「当たり前」が、現代とは大きく異なっ
ていたことに、十分に留意すべきなのだと思う。
2019年1月6日日曜日
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明けましておめでとうございます。
今年は選挙の年です。4月には統一地方選挙、7月には参議院選挙が実施されます。衆参
同日選挙の可能性も取り沙汰されています。
選挙の結果次第では、つまり公明党が大きく議席を減らしたりすれば、創価学会の衰退
に拍車をかけることになるでしょう。
池田大作が選んだ人、即ち公明党の候補に、自分で投票したり他人に投票させたりすれ
ば、それが「功徳」になり、「ご利益」をもたらすのだというふざけた理由で選挙活動を
する連中がのさばり、選挙結果にも小さからぬ影響を及ぼし続けていることは、候補者の
政策や人柄を見きわめて投票しようとする、多くの有権者の良識や民主主義に対する愚弄
だと思うのは、私だけではないはずです。
また、強引な勧誘をはじめとする悪質な人権侵害を現在も続けている創価学会が、公明
党を介して権力に取りついている現状は、決して好ましいものではありません。
当ブログの影響力など微々たるものでしょうが、邪悪なカルト・創価学会の弱体化にわ
ずかなりとも貢献できるよう、頑張りたいと思います。
広宣部と教宣部
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財務督促あるいは「創価学会仏」の金口直説
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「日蓮」を名乗る前の日蓮
『人間革命』の執筆体制と長期休載
大阪事件
「長男はツギオで、次男はダイサク」
エレベーター相承のウソ
池田大作と戸田城聖の〝遺品の刀〟
◎ 人物
戸田城聖のビジネス(戦前・戦中編)
戸田城聖のビジネス(戦後編‐①)
戸田城聖のビジネス(戦後編‐②)
戸田城聖のビジネス(戦後編‐③)
アル中・戸田城聖
池田城久の死
福島源次郎氏について
藤原行正氏について
藤井富雄氏について
第四代会長・北条浩氏について
幹部の本音
幹部の役得
◎ 教義の矛盾(折伏の被害にあっている方はお役立てください)
私説「五重相対」(創価学会の矛盾)①
私説「五重相対」(創価学会の矛盾)②
私説「五重相対」(創価学会の矛盾)③
私説「五重相対」(創価学会の矛盾)④
仏像を拝むのは謗法か?
蔵の財、心の財
創価学会は仏教ではない①
創価学会は仏教ではない②
創価学会は本当に「御書根本」か? ①
創価学会は本当に「御書根本」か? ②
日蓮と真言宗と池田大作
◎ 日蓮と鎌倉仏教
「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」
「南無妙法蓮華経」の根拠
日蓮と念仏①
日蓮と念仏②
日蓮と禅①
日蓮と禅②
日蓮と禅③
日蓮と真言
日蓮と律
日蓮と良観房忍性
日蓮と神祇信仰
日蓮遺文の真偽問題
佐前・佐後
「日蓮本仏論」について
◎ 創価学会 基礎知識
5chスレ立て用テンプレ1~5(創価学会がカルトである理由①)
5chスレ立て用テンプレ6~9(創価学会がカルトである理由②)
創価用語の基礎知識①
創価用語の基礎知識②
創価学会の財力
折伏大行進の実態
折伏成果の水増しについて
創価学会の実世帯数
本部職員の待遇と創価学会の財力
◎ 書評
書評『内側から見る創価学会と公明党』
書評『「人間革命」の読み方』
書評『創価学会秘史』
書評『創価学会』(田原総一朗著)
おすすめの本
◎ 創価批判コピペ集
①(「創価学会とはどんな宗教か」他)
②(「創価学会が嫌われる理由」他)
③(「創価学会の教え」他)
④(「池田大作ってどんな人?」他)
⑤(「創価学会の『人間革命』」他)
⑥(「創価学会の『財務』」他)
⑦(「創価学会と法華経」他)
⑧(「創価学会の『不都合な真実』」他)
⑨(「創価学会と平和主義」他)
⑩(「創価学会の『折伏(しゃくぶく)』」他)
⑪(「創価学会の『学会活動』」他)
⑫(「創価学会の『総体革命』」他)
◎ その他
「はじめに」および5ch(旧2ch)過去スレ
創価学会とオウム真理教
創価学会が社会から受け入れられない理由
変わらない創価学会
〝福子〟として育てられるということ
誰が公明党に投票しているか?
都議会選挙(2017年)の結果について
衆議院総選挙(2017年)の結果について
平成29年をふりかえって
創価学会の創立記念日
平成30年をふりかえって
明けましておめでとうございます。
今年は選挙の年です。4月には統一地方選挙、7月には参議院選挙が実施されます。衆参
同日選挙の可能性も取り沙汰されています。
選挙の結果次第では、つまり公明党が大きく議席を減らしたりすれば、創価学会の衰退
に拍車をかけることになるでしょう。
池田大作が選んだ人、即ち公明党の候補に、自分で投票したり他人に投票させたりすれ
ば、それが「功徳」になり、「ご利益」をもたらすのだというふざけた理由で選挙活動を
する連中がのさばり、選挙結果にも小さからぬ影響を及ぼし続けていることは、候補者の
政策や人柄を見きわめて投票しようとする、多くの有権者の良識や民主主義に対する愚弄
だと思うのは、私だけではないはずです。
また、強引な勧誘をはじめとする悪質な人権侵害を現在も続けている創価学会が、公明
党を介して権力に取りついている現状は、決して好ましいものではありません。
当ブログの影響力など微々たるものでしょうが、邪悪なカルト・創価学会の弱体化にわ
ずかなりとも貢献できるよう、頑張りたいと思います。