※ 今回も日蓮遺文等(古文)の引用やや多め。
日蓮は「律国賊」と主張し、宗派としての律宗だけでなく、本来、僧侶であれば遵守す
べきである戒律そのものまで敵視していた。
> 西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく
> 小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありし
> かば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。
(『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
> 日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成
> 実・律宗なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論
> ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧
> はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・
> 三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒
> を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし
(『聖密房御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、大乗と小乗を分かつものは戒だと述べ、天台宗以外の宗派は戒律という点から
いえば小乗なのだと主張している。
この考え方は、日本に天台宗を伝えた伝教大師最澄に由来する。
僧侶になるとは、本来、戒律を遵守することを意味していた。そして、出家者が保つべ
き戒律は、250にも及んだ。
最澄はこの二百五十戒を一方的に「小乗戒」と決めつけて、それを捨てることを宣言し、
さらに、「大乗戒」に基づいた新しい戒壇を比叡山に設けることの許しを朝廷に求めた。
最澄が主張した「大乗戒」とは、梵網経に説かれている「十重四十八軽戒」というもの
で、戒律の数は58しかなく、それまでと較べると大幅な緩和である。
「十重四十八軽戒」は本来、出家者ではなく、在家修行者向けの戒律だったようだが、
最澄は「日本は大乗仏教の国だから、戒律も小乗のものではなく、大乗のものを用いるべ
きだ」と主張したのである。
最澄の訴えは、彼の死の直後に認められ、比叡山にも新たに戒壇が設置されることにな
った。こうして比叡山天台宗は、奈良の旧仏教勢力からの影響を排し、独自の発展を可能
にする地歩を固めたのである。
最澄が「大乗戒」を主張した理由は、旧勢力と距離を置くことのほかに、実際、250も
の戒律を厳密に守ることが困難だったこともあるという。
「大乗戒」による戒律の緩和は、その後の仏教の堕落を招いたという面もあるにせよ、
事実として鎌倉仏教の宗祖たちは、日蓮を含め皆、比叡山延暦寺で学んでおり、日本の仏
教のあり方を決定した、歴史上、重要な出来事であることについては異論は出ないだろう。
日蓮は、鑑真が渡来したことを契機に設けられた三戒壇、即ち、奈良東大寺、大宰府の
観世音寺、下野国の薬師寺の戒壇は「小乗臭糞の戒」で「其れを持つ法師等は野干猿猴等
のごとし」と罵っているが、彼が天台宗の教義と正統性にそれだけ自信を持っていたこと
の表れなのだろう。
それにしても「臭糞の戒」は言い過ぎではないか、と思われる向きもあるかと思うが、
これは法華七喩の一つ「長者窮子の譬え」に由来している(煩雑になるので補足で説明す
る)。
日蓮が戒律を否定したもう一つの根拠は、最澄が撰述したとされてきた『末法燈明記』
に記された「末法無戒」という考え方である。
『末法燈明記』は現代では偽書だと見做されているが、鎌倉時代においては、実際に最
澄が書いたものと信じられていた。日蓮もそう考えており、日蓮遺文の中には『末法燈明
記』の一節を最澄の言葉として引用しているものもある。一例を示す。
> 伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の
> 弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末
> 法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。
(『四信五品抄』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
※ 最澄が「二百五十戒を捨てた」のは上述したように史実であるが、鑑真の弟子や七
大寺までもが一同に捨てたというのは誇張である。
しかしながら、250もの戒律の遵守を負担に感じる僧侶は、興福寺等の南都七大寺
にも多かったようで、比叡山に大乗戒壇が設置された後は、南都の僧の中にも東大寺
ではなく、比叡山での授戒を希望する者もいたという。
「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」の
出典が『末法燈明記』である。
日蓮の思想をより正確に理解するために、『末法燈明記』に記された「末法無戒」とい
う考え方がどのようなものかを、もう少し詳しくみていく。
『末法燈明記』は、上述のように末法においては「持戒の者有らば是れ怪異なり」とし、
戒律を守らない名ばかりの僧しかいなくなると述べている。その根拠としては、大集経が
引用されている。
> 一切世間には仏宝無価なり。もし仏宝なくば縁覚無上なり。もし縁覚無くば羅漢無
> 上なり。もし羅漢なくば余の賢聖衆をもて無上なり。もし余の賢聖衆なくば得定の凡
> 夫をもて無上とす。もし得定の凡夫なくば浄持戒をもて無上とす。もし浄持戒なくば
> 漏戒の比丘をもて無上とす。もし漏戒なくば剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字の比
> 丘を無上の宝とす。
※ 「無価」とは評価できないほど優れているという意味である。
『末法燈明記』には、この経文が説く「仏宝」から「名字の比丘(名ばかりの僧)」が、
正法・像法・末法のいずれに対応するかが、続いて述べられている。
> この文のなかに八重の無価あり。いわゆる如来に、縁覚、声聞、および得定の凡夫、
> 持戒、破戒、無戒名字、それついでのごとし、各正像末のときの無価の宝とするなり。
> はじめの四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。これによりて明
> らかに知ぬ。破戒無戒ことごとく真宝なり。
仏教とは「仏・法・僧」の三宝を敬うものであるが、『末法燈明記』は「末法において
は戒律を守る者などなく、髪を剃って袈裟を着た名前ばかりの僧がいるだけだが、破戒・
無戒の僧でも真の宝である」と主張しているのである。
日蓮はこうした思想を、彼が尊敬してやまなかった伝教大師最澄が説いたものと信じて
いた。そして戒律を守る僧侶を「野干猿猴等のごとし」だとか「法師ににたる大蝗虫」な
どと嘲ったのである。
さて、話は現代に飛ぶが、創価学会は日蓮正宗から破門されて以降、「戒律を守らず肉
食妻帯する僧侶など敬う必要などない」と主張してきた。
しかし、これは日蓮の思想とは相容れないものである。「日蓮大聖人直結」をうたう創
価学会であるが、自分たちに都合が悪ければ、日蓮の思想など平気で無視する連中なのだ。
前回も述べたように、鎌倉時代を生きた日蓮の主張には、現代の仏教学・文献学により
明らかになった事実に照らせば、幾多の瑕疵があることは否めない。
時代の制約は誰であれ免れることは難しいものであり、それは致し方のないことである。
だが日蓮が「末法無戒」を無批判に受け入れたことは、「時代の制約」のせいばかりとは
言い切れないように思う。
なぜなら、栄西も『興禅護国論』で『末法燈明記』について言及しているが、「末法無
戒」は退けているし(栄西は「持律第一」と称されるほど、戒律に厳格だった)、鎌倉時
代は戒律復興運動も盛んであったからである。
日蓮と同時期に鎌倉で活躍し、彼が敵視した良観房忍性こそが戒律復興運動の立役者だ
った。日蓮と忍性については、次回に論じたい。
補足1 「小乗臭糞」について
本文でふれたように日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、法華経信解品に説かれ
ている「長者窮子の譬え」に基づいている。
「長者窮子」については、ウィキペディアの「法華七喩」の項に概略が記されている
ので、そこから引用する(あわせて若干の解説も付け加える)。
> ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあ
> げく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だ
> と確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるの
> が嫌で逃げてしまう。
※ 息子が逃げたのは、長い流浪生活により卑屈になり、長者の権勢に怯えたからで
ある。法華経には「志意下劣」とある。
> 長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一
> 緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
> そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も
> 立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱
> 心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を
> 任せ、実の子であることを明かした。
※ 「一番汚い仕事」とあるが、法華経には「雇汝除糞(汝を雇うことは、糞を払わ
しめんためなり)」ある。つまり「くみとり」のことである。
> この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切
> の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表し
> ている。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解し
> た内容を釈迦仏に伝える形をとっている。
大迦葉がこのたとえ話をしたのは、「自分たちの資質では、不完全な悟りにしか至れ
ない声聞に甘んじるしかなく、真の悟りを開いて仏になることはできないと思い込んで
いた――これを卑屈な息子にたとえた――が、釈尊から法華経の説法を聞いて、自分た
ちも成仏できるのだと分かった」という感激を表すためである。
法華経以前に作られた大乗経典では、上座部(小乗)を敵視し、その修行者を不完全
な悟りに甘んじる者たちとして見下す面があった。法華経は大乗仏教の立場から、小乗
の修行者を包摂しようとの意図をもって作られたと考えらている。
日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、この法華経の譬喩に基づいているのである。
補足2 禅宗と戒律
日蓮が禅宗を敵視した理由の一つは、禅僧が戒律を重視したからである。『撰時抄』に
次の記述がある。
> 禅宗は又此の便を得て持斉等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、
> いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。
「持斎」とは戒律を守る者のことである。「末法無戒」を主張する僧がいた一方で、戒
律を守る僧が「たっとげなる気色」と敬われていたことも見て取れる。