2019年6月30日日曜日

御書講義について

 「日蓮大聖人の仏法を唯一正統に受け継ぐ団体」を自称しているだけあって、創価学会
は日蓮遺文――創価学会では「御書」と呼ぶ――の学習に力を入れている。

 創価学会では、年1回、教学試験を実施しており、合格した者には「教授」等の肩書が
与えられる(これも創価学会の中だけでしか通用しない肩書である)。
 そうした肩書を持つ各地域の幹部が講師となって、御書講義が行われている。

 日蓮遺文にはかなり長文のものもあるが、創価学会の御書講義では、1つの文書を最初
から最後まで読み通すのではなく、一部の引用とその説明だけで済ますことが多いようで
ある。

 以下、御書講義の教材用として出版されている『御書をひもとく 要文123選』(創価学
会 男子部教学室 編)を参照し、その問題点を論じる。

 本書は、日蓮遺文からの数行程度の引用と、その解説とで構成されている。ほとんどの
解説に、池田大作の言葉が引用されている。

 また、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に依拠しているため、その瑕疵も引き継いで
いる。つまり、偽書と判明している文書からの引用も含まれている。例を挙げる。


>  師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所
> の音声なり 作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり
>                            (御義口伝、748ページ)

>  日蓮大聖人は、身延で法華経の要文を講義された。その内容を日興上人が綴り残さ
> れ、大聖人の御許可を得て「御義口伝」が完成したと伝えられている。
 (中略)
>  師匠がえ、そして弟子が吼える。師と弟子が共に吼えてこそ、「師子吼」となる
> ことを教えられている。「どこまでも師匠と共に」「どこまでも師匠のために」と、
> 弟子が決然と立ち上がり、広宣流布への闘争を貫くところに、師弟は脈打つのである。
 (中略)
>  池田先生は、「師匠は吼えている。あとは、弟子が吼えるかどうかです。それを師
> 匠はじっと見つめて待っている」と語られている。
>  広宣流布の未来を決めるのは、弟子の戦いである。師匠と同じ心で師子吼し、勝利
> の結果を残すことが、真の弟子の証なのである。

 ※ 「748ページ」は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』の該当ページ。


 引用にもあるとおり『御義口伝』は、「日蓮による法華経講義を弟子の日興が筆記し、
それを日蓮が閲して印可したもの」ということになっている。

 それが史実であるならば、日蓮の思想を論じる上で極めて重要な意義を持つ文書という
ことになるが、結論から言うと偽書である。

 立正大学の教授を務め、日蓮宗の僧侶でもあった執行海秀氏の論文「日蓮教学上に於け
る御義口伝の地位」に、以下の記述がある。


>  ところで本書は古来より真偽の論がある。聖人門下初期の古記録を初めとして、聖
> 人滅後百二・三十年の頃編輯された録内遺文にも漏れて居り、また聖人滅後百八十年
> の頃に出来た八品日隆の本門弘経抄にも周知せられてないものであつて、その後、や
> ゝ降つて聖人滅後二百十年頃完成された円明日澄の法華啓運鈔に至つて初めて引用せ
> られてゐるところである。古写本には聖人滅後二百五十七年の天文八年(一五三九年)
> の奥書を有する隆門の日経本があるに過ぎない。かやうに本書の伝承については根拠
> が明瞭でない憾みがある。
>  のみならず本書には、日蓮聖人滅後十三年、元の元貞元年に成立した徐氏の科註が
> 引用されてゐるが如き、また本書の口伝形態や文体が、南北朝の頃出来た等海口伝等
> に類似する点から見て本書の成立は聖人滅後のものと思はれる。
 (執行海秀著『御義口伝の研究』)

 ※ この論文の初出は、昭和29年(1954年)発行の『印度学仏教学研究』三巻一号。


 『御義口伝』には、日蓮没後、13年経って元代の中国で著わされた法華経の注釈書『科
註』が引用されているというのである。偽書であると断定するには、これだけで十分であ
ろう。

 そして『御書をひもとく』において、最も多く引用されているのが、この『御義口伝』
なのである(真蹟遺文からの引用もある)。

 創価学会は、偽書と判明している文書から都合のいい箇所を抜き出し、それを池田大作
への個人崇拝を正当化するために利用しているのだ。

 『御書をひもとく』には、他にも問題のある記述が多くある。もう一例を示す。


>  第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同
> 居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・を
> こして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
>                        (辧殿尼御前御書、1224ページ)

>  文永10年(1273年)9月19日、佐渡の一谷から辧殿(日昭)及び、辧殿に縁のある
> 門下の尼御前に与えられた御手紙。
 (中略)
>  仏道修行は、常に「仏」と「魔」との闘争である。
 (中略)
>  こうした「仏と魔との大闘争」は、生命の内面で常に起きている。成仏のためには、
> 「内なる悪」に勝たねばならない。これを観念のみではなく具体的に実践するには、
> 「外なる悪」と戦い、勝つことだ。
>  悪との闘争が、わが生命を鍛え、浄め、成仏の大道を開く。極悪と戦ってこそ極善
> になるのだ。
 (中略)
>  池田先生は指導された。「広宣流布」は『公転』です。人間革命は『自転』です。
> 両者は一体です。学会は『仏の軍勢』です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。『仏と提婆
> とは身と影とのごとし生生にはなれず』(開目抄、230ページ)です。魔は、狩り出
> し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です」
> 「日蓮一度もしりぞく心なし」との御本仏の仰せを現実のものとしたのが、創価三代
> の師弟の歴史である。強靭な一念を貫く「退く心なき挑戦」こそ、真の仏弟子の道で
> ある。

 ※ 『辧殿尼御前御書』には、日蓮真蹟が現存している(中山法華経寺蔵)。


 仏教でいう「魔」とは、本来は自身の煩悩のことを指す。ところが、創価学会では「外
なる悪」と戦い、勝つことが「真の仏弟子の道」だと教えているのである。

 創価学会の言う「魔」「極悪」とは、彼らの反社会行為を批判したり、池田大作のスキ
ャンダルを暴いたりした、外部のジャーナリストや脱会して批判者に転じた元学会員のこ
とである。

 池田大作は、自分にとって不都合な存在を「魔」と決めつけ、「狩り出し、叩き出し、
打ち破る」べきだと指導したのだ。

 そして、創価学会員たちは、この池田の言葉に従うことが「成仏の大道」だと信じてい
るのである。これがカルトでなくて、何であろうか。


 日蓮はかなりの量の文書を遺しており、その中には「真言はいみじかりけり」と述べて
いるものや、念仏を唱えることを容認しているものまである(補足2 参照)。

 そうした遺文に基づいて、他の宗教とも宥和的な教義を構築することも可能だったはず
だが、創価学会は、それとまったく逆のことを行ってきた。

 日蓮遺文を真摯に学ぶのであれば、それ自体は何ら批判されるべきことではないと思う。
 だが、創価学会は「御書の学習」と称しながら、その実、偽書を根本として、池田大作
への個人崇拝や自分たちとは意見を異にする人びとへの敵愾心を、信者に植え付けている。

 このような反社会思想を繰り返し学習し、「唯一絶対に正しい教え」と信じ込んでいる
のが、創価学会員という連中である。彼らが問題のある行動をとるのは、当然のことと言
えよう。


補足1 御義口伝について

 本文で引用した執行海秀著『御義口伝の研究』の第四章は、「本書の文献学的考察」と
題されており、『科註』引用についてより詳しい説明がなされている。以下に引用する。

>  宝塔品の御義第十条の「如却関鑰開大城門」を釈する下「科註四云」として、『科
> 註』の文が引用せられている。『科註』には新古両本があって、古本は訶山守倫の
> 『科註』であり、新本は平磵必昇の『科註』である。
>  而してこの『御義口伝』に引用せられてゐる『科註』の文は、新本の必昇の『科註』
> である。このことは新古両本の文を対照することによつて明らかである。
 (中略)
>  さて必昇『科註』の修正校訂年月については其の序に、
>   元貞改元乙未弥勒生辰書之
> とあるのである。ところでこの年号は我朝の永仁三年に当たり、聖滅後十三年のこと
> で、『御義口伝』講述年代と伝へられてゐる弘安元年よりは十九年後にあたるのであ
> る。
>  そこでこの必昇の『科註』が我が国に伝来したのは、恐らく足利初期ではなからう
> かと思はれる。而してかやうに聖滅後数十年の後伝来した『科註』の文が、『御義口
> 伝』に引用せられてゐることは年代上の矛盾である。

 日蓮は弘安5年(1282年)に没している。その13年後の永仁3年(1295年)、元代の
中国で執筆され、日本への伝来は室町時代と推測される『科註』が引用されているのだか
ら、『御義口伝』は後世の偽作としか考えられない。

 日蓮正宗では『御義口伝』を教義上、極めて重視してきた。創価学会も破門されたとは
いえ、現在でも日蓮正宗の教義の多くを継承している。

 問題の『科註』からの引用は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』では、741ページに
記されている。

> 第十如却関鑰開大城門の事 補註の四に云く此の開塔見仏は蓋し所表有るなり、何と
>  なれば即ち開塔は即開権なり見仏は即顕実なり是れ亦前を証し復将さに後を起さん
>  とするのみ、如却関鑰とは却は除なり障除こり機動くことを表す謂く法身の大士惑
>  を破し理を顕し道を増し生を損ずるなりと。

 ※ 創価学会版御書では『補註』となっているが、これは誤りで『科註』が正。


補足2 念仏を容認している日蓮遺文について

>  南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の
> 諸仏の名号をも口ずさみ・なるやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にてはある
> べき
 (『法華題目抄』真蹟断片 水戸久唱寺 外11ヶ所)

 ※ 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』948ページ

 あくまでも南無妙法蓮華経を唱えることを優先すべきだが、時々は「阿弥陀等の諸仏の
名号」を口ずさんでよいと、日蓮は述べている。

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2019年6月23日日曜日

創価批判コピペ集‐⑭(「池田大作の女性スキャンダル」他)

◇◆◇ 池田大作の女性スキャンダル ◇◆◇

創価学会の名誉会長・池田大作は、健康な頃はたびたび女性スキャンダルをひき起こし、
週刊誌等で報じられた。創価学会本部には第一庶務という部署があり、池田の身の回り
の世話などを担当していたが、そこには池田に「奉仕」する女性たちも所属していた。

池田は女子部の会合などで気に入った女性がいると、本部職員に取り立てて性奉仕させ、
飽きると幹部の妻にさせた。そして、気がむくと再び呼び出し奉仕させることもあった。

また、お気に入りの愛人を公明党の国会議員に取り立てたこともあった。かつては創価
学会の婦人部には「池田先生のお手つきになりたい」と熱望する女性も多かったという。

池田の守備範囲は広く、創価大の女子大生に手をつけたり、創価高校の女子高生を妊娠
させたりしたが、地方に出むいた際には現地の幹部の妻に性奉仕させることまであった。

※ 池田はレイプ騒動まで起こしたが、学会員はそんな彼を生き仏のように崇めている。



◇◆◇ 創価学会と『月刊ペン』事件◇◆◇

昭和51年(1976年)、『月刊ペン』が創価学会の池田大作会長(当時)の女性スキャン
ダルを報じた。その内容は、公明党の女性国会議員二名が池田大作の愛人だというもの。
創価学会はこれに激怒、公明党を通じて警察を動かし『月刊ペン』編集長を逮捕させた。

『月刊ペン』編集長・隈部大蔵氏は名誉棄損罪で告訴された。この裁判は最高裁まで争
われ、その結果「池田大作は公人に準じる存在なので、そのスキャンダルを報じること
は、事実であるならば名誉毀損罪には該当しない」との判決がなされ、差戻しになった。

隈部氏が差戻し審中に死去したため裁判の決着はつかなかったが、先の最高裁の判決は
名誉毀損の重要判例となり、その後、雑誌等が池田大作のスキャンダルを次々に報じた。
『月刊ペン』の記事についても愛人とされた女性の親族が手記を公表、事実と証言した。

※ 創価学会は、現在も『月刊ペン』裁判は自分たちの「大勝利」だと言い張っている。



解説

 よく知られているように、池田大作は数多くの女性スキャンダルを起こしてきた。
 その中でも特に有名なのが『月刊ペン』事件である。上述のように、この事件について
最高裁の出した判決は、現在でも名誉毀損の重要判例とされている。

 『月刊ペン』で池田の愛人と報じられた渡部通子氏の実姉・藤原郁子氏が、週刊新潮に
手記を発表し、記事の内容は事実だったと証言している。

 姉妹の実家である松島家は、戸田城聖が経営していた大蔵商事(高利貸し)に出資して
おり、その縁で昭和28年(1953年)に池田とも知り合ったという。
 郁子氏が、妹が池田とできていることに気づいたのは、昭和30年のことだった。


>  私は主人とは、昭和三〇年十二月に結婚しました。北条浩さん(後の四代会長)の
> 媒酌で、同じ第七部隊の部隊長だった主人と結婚したのです。
>  親と別れることが辛かった私は家を出る時、通子に、
> 「あとのことは頼むわね」
>  と、くれぐれも頼みました。
> 通子は、気軽に、
> 「いいわよ」
>  と言ったのに、なんと私が松島の家を出てすぐ、私に黙って家を出てしまっていた
> のです。
>  私は、アパートの住所すら教えない通子を探しあて、問い質しました。
>  のらりくらりと言い逃れていた通子は、最後に、
> 「(アパートを借りるのは)池田さんのご意見ですもの」
>  と、白状したのです。
>  その時、二人はそういう関係だったのか、と初めて知りました。
 (『週刊新潮』1996年3月14日号)


 通子氏は、創価学会青年部の幹部だった渡部一郎氏と昭和34年に結婚したが、池田との
関係はその後も続いていたという。


>  その通子は昭和三十七年に長男を出産しました。
>  母から頼まれた私は、当時、巣鴨にあった石川病院へ飛んで行きました。
>  部屋には、池田の次男と同じ名前「城久」という命名の紙がかけられていました。
>  しかし、通子は無言で私の顔を見て涙ぐむのです。
>  そして、やっと、
> 「渡部の所に行ってみて」
>  と、私に言いました。
>  もちろん、私には通子の気持ちがわかっていました。
>  子供が生れたというのに、主人がやってこないのです。
>  生れた子はいったい誰の子なのか――女にとって出産を主人に喜んでもらえない、
> これほど悲しいことが他にあるでしょうか。
 (同上)


 この後、夫妻の住居に向かった郁子氏は渡部氏と対面するが、彼の「もの凄い形相」を
見て恐怖心を抱き、逃げ帰ったと記している。

 渡部一郎氏は、当初、内心の忸怩たる思いを態度に表していたものの、池田に屈服させ
られ、従順になったという。


>  たとえば、剛気と暴勇では人後に落ちない渡部一郎元代議士が、妻の通子と池田大
> 作の関係にむくれかえって、仕事をさぼったりふてぶてしい態度を示したとき、池田
> 大作は、本部広間での理事会の席で渡部一郎をどやしつけた。万座のなかで、雷のよ
> うな声で、
> 「貴様は何様だと思っているのだ!!」
> と怒鳴りつけられ、渡部一郎は失神して倒れてしまった。
(山崎正友著『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』)


 山崎氏は『続々「月刊ペン」事件』で再度このエピソードを取り上げ、渡部氏はこの件
があって以降、「借りてきた猫のようにおとなしくなった」とつけ加えている。

 渡部夫妻はその後も生涯を通じて創価学会にとどまり、両名とも公明党の国会議員を務
めたが、姉の郁子氏は夫の藤原行正氏と共に脱会し、池田大作への批判に踏み切った(藤
原夫妻が脱会したのは、元『月刊ペン』編集長・隈部大蔵氏の死後だったので、裁判では
証言できなかった)。

 池田大作は、自分の欲望を満たすために、多くの人々の幸せを踏みにじってきた。
 その池田を創価学会員は「永遠の師匠」と呼び、彼の言葉を生きる指針にしているので
ある。学会員に平気で他人に迷惑をかけたり、苦しめたりする者が多いのも当然であろう。

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2019年6月16日日曜日

肩書と成果主義

 創価学会の活動家としてある程度の経験を積むと、たいていの場合、何らかの役職につ
くことになる。

 数人の男子部員・女子部員を束ねる者をニューリーダーと呼び、その後、地区リーダー
等を経て、順次、地位が上がっていく。

 折伏や聖教新聞の拡販等で成果を上げれば、30代で地区部長や白ゆり長になり、数十人
の学会員を統括する立場になれる。

 これらの肩書を得たからといって、手当てが支給されることはない。創価学会の活動家
は無給である。

 しかし、実社会では何の肩書もない人間でも、活動家として頑張れば、「リーダー」と
か「長」などと呼ばれる立場になれるのも事実だ(創価学会の中でだけだが)。

 このことに魅力を感じ、学会活動にのめり込む者も少なくないらしい。一円の報酬も得
られないし、創価学会には、役職が高い者ほど財務やマイ聖教でも貢献しなければ示しが
つかないという組織文化があるにもかかわらず……。

 学歴がないなどの理由で実社会で評価を得られない者にとって、学会活動における肩書
は「補償」――劣等感を埋め合わせるために、別のことで埋め合わせをしようとする心の
働き――なのだろう。

 より上位の肩書を得ることや、配下の学会員に指示を出したりノルマを課したりできる
ことが生きがいになってしまった者が地域の幹部として君臨した場合、その指揮下にある
学会員は、聖教新聞の拡販や折伏などのノルマでつらい思いをする羽目になる。

 学会員・元学会員のブログを見ると、そのような幹部は少なくないようだ。
 それだけでなく、学会活動により実利を得ようとする者が幹部となった場合も、成果主
義の悪弊により、その下の学会員が苦しむこともある。

 創価学会の本部や地方会館に勤務する者は、職員と活動家、二つの立場を兼ねている。
 本部の職員として△△部長である者が、居住地域の活動家としては□□分県長であった
りするわけだ(繰り返すが、□□分県長としての立場からは報酬は得られない)。

 以前、当ブログでも言及したが、池田大作は幹部ごとに担当する地域を決め、金集めの
競争をさせ、それで昇進・降格を決めていた(「学会幹部に良心はないのか?」参照)。

 現在の創価学会でも、地域の活動家としての実績――聖教新聞拡販や広布部員(財務を
する人)の数など――が、職員としての出世とも関係している可能性は高そうである。

 つまり、自分が出世してより多くの収入を得るために、地元の学会員に無理なノルマを
強いる者がいてもおかしくない。

 また、無報酬の一般の活動家であっても、地位が高い者であれば、公明党の地方議員に
なれる可能性はある。議員報酬を得られる身分になれるのである。
 このような野心家も、実績を上げるために無理をする場合があるだろう。

 以上、見てきたように創価学会の活動家の中には、様々な動機から強引なやり方で聖教
新聞の拡販等で成果を上げようとする連中がいる。

 その結果として、前回取り上げた「マイ聖教」――聖教新聞を一家庭で複数部購読する
こと――などの搾取的な愚行が為されているのだ。

 このような実態があるから、創価学会は常識的な人々からは疎んじられているわけだが、
多くの学会員は「この信心をすれば絶対に幸せになれる」と信じ切っており、欲得ずくで
動いている野心家に利用されていることに気づいていない。

 創価学会の組織内で上手く立ち回って実利を得ている者を見れば、一般人なら「宗教を
金儲けや立身出世に利用している」と思うだろうが、熱心な学会員は「信心が立派だから、
あのような境涯になれたのだ」と受け止める。

 カルトにより深くマインドコントロールされた者は、常識ではなくカルトの論理に基づ
いて思考する。常識で考えておかしいことを、そう気づけなくなるのだ。

 創価学会員が、虚名に過ぎない肩書やありもしない功徳やバチで、奸智に長けた幹部た
ちに踊らされるのは勝手だが、このカルトは規模が大きいために、国政から日常生活にい
たるまで、様々なレベルで一般の人々を翻弄し、迷惑をかけ続けている。

 いつの日か、すべての学会員に常識を取り戻してもらい、これまでの迷惑行為を反省し
てほしいものである。

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2019年6月9日日曜日

新聞啓蒙とマイ聖教

 池田大作は聖教新聞を「広宣流布のミサイル」と呼んだ。このことからも明らかなよう
に、創価学会は機関紙である聖教新聞の購読者を増やすことを、布教の手段として重視し
てきた。

 一方で聖教新聞は、宗教法人創価学会の収益事業の中核でもある。公称発行部数の550
万部が事実ならば、月一部1,934円の購読料の1年間の累計は、1,276億円にもなる。

 ※ 誤解している人も多いが、宗教法人であっても収益事業に対しては、一般企業より
  は低い税率ではあるが法人税が課される。

 また、聖教新聞の印刷は毎日新聞をはじめとする一般紙が請け負っており、それらの新
聞社にとっては、重要な収益源となっている。創価学会から見れば、マスコミを懐柔する
手段でもあるのだ。

 こうした事情から、学会員たちは聖教新聞の拡販運動に駆り立てられてきた(創価学会
では拡販とは呼ばず「新聞啓蒙」という)。

 聖教新聞販売店を経営するのは、多くの場合、地元の学会幹部であり、配達員のほとん
どは、池田大作が「無冠の友」と呼ぶ末端の学会員である。

 かつては配達員は無給だったが、現在ではわずかだが報酬が支払われている。
 一方、新聞啓蒙は、創価学会の活動家たちが現在でも無報酬で行っている。

 創価学会では、聖教新聞の配達と啓蒙も功徳になる仏道修行とされており、多くの学会
員はご利益があると信じて、そうした活動を行っているのである。

 新聞啓蒙の本来の目的は、外部の人に新たに聖教新聞の読者になってもらい、それをき
っかけとして入信させることだった。

 しかしながら、実際のところ、一般人にカルトの新聞を購読するメリットはない(聖教
新聞は購読者に景品を贈呈するなどの方法で、拡販を行うことはない)。

 商売上のつながり等から、購読に応じざるを得ない例も少なからずあったであろうが、
それにも限りがあり、外部を標的とした新聞啓蒙は、成果を上げにくくなっていった。

 そうした背景から、創価学会の内部を標的として、新聞啓蒙が行われるようになった。
 それが「マイ聖教運動」である。


>  『聖教新聞』の公称部数が多いのは、一家で2部以上購入するよう暗黙のルールが
> あるわけではなく、活動家一人ひとりが信仰を学ぶために「自分用の聖教新聞」を1
> 部購読する「マイ聖教運動」というものがあるからだと思います。実際、私が実家に
> 住んでいた時には家族4人が一人1部購読し、それ以外に友人への贈呈用として1部
> 取っていたので、あわせて5部購入していました。
>  また知り合いの学会員の中には、『新・人間革命』や池田先生の指導を切り抜いて
> スクラップにして研鑚するために一人で2部以上購読している人もいました。
 (野口裕介 他著『実名告発 創価学会』)

 ※ ご存知の方も多いと思うが、『実名告発 創価学会』の著者らはいずれも創価学会の
  元本部職員だったが、どこの民間企業・官公庁であっても「組織人として問題あり」
  と見なされるような騒動をひき起こし、解雇・除名された。
   にもかかわらず、創価学会を擁護しているのである。いじらしいことである。


 創価学会を擁護する側の論理では、「マイ聖教」は教義の勉強用に家族の一人ひとりが
聖教新聞を購読する必要があるためということだが、外部の人間に言わせてもらえば、過
大なノルマを達成するために、組織内に負担を強いているようにしか見えない。

 言ってしまえば「自爆営業」と何ら変わらない。
 実際、「一人で1部」どころか、10部以上を購読している例もあったという。


>  さらに、こういう依頼を受けることもあります。ある地方議員から、
> 「『一般の学会員でも聖教新聞を10部とる人がいるのだから、あなたたち、選挙も応
> 援してあげたんだし、議員は50部とるのは当たり前よ』と学会婦人部から言われて困
> っているんだ。私は特定の新聞を大量に購入すると、それは政治家の寄付行為を禁止
> する公職選挙法に違反するおそれもあるので、と説明しても婦人部は納得してくれな
> い。福本さん、中央の創価学会幹部にも実情を訴えてくれませんか」
>  という、公明党ならではの陳情も何度か受けました。
>  国会議員の場合は、地元の創価学会組織から、「聖教新聞をとりなさい」という陳
> 情はありません。しかし、その議員秘書の多くが創価学会幹部クラスなため、「事務
> 所で聖教新聞を多数とるべきですよ。啓蒙(拡販)期間なので」
>  と、言ってくることもしばしばありました。こういうことで、聖教新聞の販売ノル
> マを達成しているわけです。
 (福本潤一著『創価学会・公明党「金と品位」』)

 ※ 著者の福本氏は、元公明党参議院議員である。


 ノルマ達成のため、聖教新聞の拡販期間だけ幹部が多部数購読し、期間が終わるとまた
購読部数を減らすということも行われているらしい。

 現在、聖教新聞社の新社屋「世界聖教会館」が、今年の創立記念日(11月18日)での落
成を目指して工事中だが、そのためか、今年は聖教新聞の拡販に特に力を入れるそうであ
る。創価学会のサイトにも、今年の目標として以下の記述がある。


> 「世界聖教会館」の完成を目指して、皆で聖教新聞の拡大に挑戦しよう。特に下半期
> は、聖教拡大に挑戦するメンバーを増やしながら、「新規購読」「長期購読」の輪を
> 広げていこう。


 わざわざ「長期購読」を目標にしているのは、短期間しか購読しない者、すなわちノル
マ達成のために、一時的に購読部数を増やすだけの者が少なくないからであろう。

 どう見ても「マイ聖教」は搾取でしかないし、過剰な拡販ノルマも末端組織を疲弊させ
ているようである。

 だいたい、同じ新聞を一家庭で何部も購読するなど、考えるまでもなく金の無駄だ。
 こういうバカげた慣行があるから、創価学会は頭がおかしいカルトだと世間から思われ
ているのである。

 当初、一応はもっともらしい理屈をつけられていた「マイ聖教」だが、さほど時を経ず
して「聖教新聞は池田先生からのお手紙なので、多くとるとそれだけ功徳になり福運がつ
く(つまり現世利益がある)」と、池田大作への個人崇拝で正当化されるようになったと
いう。

 池田大作を「末法の御本仏」と崇拝する者が多い創価学会の活動家に対しては、この方
が効果的なのかもしれないが、外部の一般人が聞けば、ほぼ確実に異様な印象を受けるは
ずである。

 熱心に折伏を行う学会員は現在でも多いが、創価学会のようなカルトに入って、人生を
無駄にしたい一般人などまずいない。普通の人の理解を得たいのなら、まず学会員が常識
を取り戻すことが先決であろう。

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2019年6月2日日曜日

統監と家庭訪問

 創価学会には、会員の個人情報を管理するための「統監」という仕組みが存在する。
 新規に入会した者については、個人情報を記した「統監カード」を作成し、その者が所
属する「地区」で管理する。

 ※ 前回も述べたが、「地区」とは創価学会の最小の組織単位である「ブロック」を幾
  つか束ねた単位で、数十世帯が含まれる。

 学会員が別の地域に引っ越す際は、それを統監責任者にも報告する。統監責任者はその
者の「統監カード」を新たな住所地の地区担当者に送付する。

 普通の人が転居する際に、市役所等で行うのと似たような手続きを、学会員は創価学会
でも行うのである。
 「統監カード」には、以下の情報が記されているという。


> 1 氏名
> 2 生年月日
> 3 入信年月日
> 4 帰省先住所
> 5 自宅電話番号
> 6 携帯電話番号
> 7 職業
> 8 本尊の安置状況
> 9 『聖教新聞』を購読しているかどうか
> 10 会合への参加状況
> 11 財務をしているかどうか
> 12 歴代の統監責任者
 (島田裕巳著『親が創価学会』)


 統監は、創価学会の組織運営上、重要な役割を果たしている。
 各地区では、毎月「地区統監」という会議が開かれる。

 地区統監では、新規入信や退会、転入・転出に伴う世帯数の増減を確認し、聖教新聞の
拡販実績や、各学会員の会合等への出席状況や活動実態についても集計する。その結果は、
地方本部を経由して創価学会本部にも報告される。

 それだけでなく、地区統監では新たな活動家づくりについても話し合われるらしい。
 創価学会には、名目上は信者になってはいるものの、活動実態のない学会員も少なから
ずいる。

 そうした者に対して、学会活動への参加を促すために活動家が家庭訪問を行うが、その
標的の選定にも、地区統監で把握した会合等の出席状況が役立てられるらしい。

 要するに、すべての会合に欠席している者よりも、座談会や本幹の中継にたまに顔を出
す者の方が、誘えば活動家になってくれるかもしれないと判断されるのである。


 話は変わるようだが、創価学会の外郭企業・シナノ企画が作成した「Future2」という
動画を、インターネットでご覧になったことのある方もいらっしゃることと思う。

 学会員の芸能人としてよく知られている久本雅美と彦摩呂が司会を務め、創価学会の信
仰に目覚めた青年が、荒んだ境遇から立ち直り、社会から評価されるようになる等のエピ
ソードを紹介する内容である。

 その中に元暴走族の倉地君の自宅を、創価学会男子部の石川が訪問する場面を再現した
箇所がある。


> 18歳のある日 その訪問客は 突然やって来た・・・
> ドンドンドンドンドンドンドン ドンドンドンドンドンドンドンドンドン(ノック音)
> 
> 石川「こんばんはー!倉地くん いますかー!」
> (ドアを開ける倉地くん)
> 石川「やあ!倉地くん!元気!」
> (石川をにらむ倉地くん)
> 石川「創価学会男子部の石川です!」
> 倉地「俺は宗教なんかに興味ねーんだよ!二度と来んじゃねえよ!」
> 石川「今日が都合悪かったらあの別の機会でも全然構わないんだけれども・・・」
> 石川「あ、そうだ!もしよかったら・・・」
> (ドアを閉める倉地くん)


 この後も再三にわたり繰り返された訪問がきっかけとなり、石川の人格的感化力(もし
くは狂信者特有の威迫力)に影響された倉地君も信仰に目覚めることになる。

 倉地君の親も創価学会員だったとのことなので、彼も生まれた時に入会手続きが取られ
ていたと考えられる。

 しかし、彼が「俺は宗教なんかに興味ねーんだよ!」と述べているとおり、創価学会の
信仰を受け継ぐ気持ちはなかった。

 だが、倉地君の親は、彼が創価学会の活動家になることを望み、一人暮らしを始めた際
に倉地君の意思とは関係なく、統監の住所を変更する手続きをとったのであろう。
 だから、男子部の石川が訪ねてきたのである。

 先に述べたとおり、創価学会の家庭に生まれた者は当人の意思に関係なく、親によって
入信の手続きが取られることがほとんどである。

 そして、進学や就職によって親元を離れるのに乗じて、創価学会との関わりを断ちたい
と本人が望んだとしても、親が統監の手続きをしてしまうので、引っ越し先にも現地の活
動家が訪問してくる(そのまま学会活動に引きずり込まれる者もいるだろう)。

 創価学会は、他の新興宗教よりも信仰が継承される割合が高いと言われる。その背景に
は、住民登録に類似した「統監」というシステムを採用し、それを利用した活動家による
家庭訪問が、それなりに効果を上げていることがあると考えられる。

 学会員には非常識な者が多く、指導者である池田大作にもバカげた逸話に事欠かないこ
とから、頭がおかしい集団と思ってしまいがちだが、その組織機構にはシステマティック
な面もあるのだ。

 創価学会の核はあくまでも狂信だが、それを支えるシステムは合理性を備えている。カ
ルトでありながら侮れない力を有しているのも、この二面性があればこそなのだろう。


参考文献
島田裕巳著『親が創価学会』
創価学会問題研究会著『創価学会婦人部』

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