2019年6月30日日曜日

御書講義について

 「日蓮大聖人の仏法を唯一正統に受け継ぐ団体」を自称しているだけあって、創価学会
は日蓮遺文――創価学会では「御書」と呼ぶ――の学習に力を入れている。

 創価学会では、年1回、教学試験を実施しており、合格した者には「教授」等の肩書が
与えられる(これも創価学会の中だけでしか通用しない肩書である)。
 そうした肩書を持つ各地域の幹部が講師となって、御書講義が行われている。

 日蓮遺文にはかなり長文のものもあるが、創価学会の御書講義では、1つの文書を最初
から最後まで読み通すのではなく、一部の引用とその説明だけで済ますことが多いようで
ある。

 以下、御書講義の教材用として出版されている『御書をひもとく 要文123選』(創価学
会 男子部教学室 編)を参照し、その問題点を論じる。

 本書は、日蓮遺文からの数行程度の引用と、その解説とで構成されている。ほとんどの
解説に、池田大作の言葉が引用されている。

 また、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に依拠しているため、その瑕疵も引き継いで
いる。つまり、偽書と判明している文書からの引用も含まれている。例を挙げる。


>  師とは師匠授くる所の妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所
> の音声なり 作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり
>                            (御義口伝、748ページ)

>  日蓮大聖人は、身延で法華経の要文を講義された。その内容を日興上人が綴り残さ
> れ、大聖人の御許可を得て「御義口伝」が完成したと伝えられている。
 (中略)
>  師匠がえ、そして弟子が吼える。師と弟子が共に吼えてこそ、「師子吼」となる
> ことを教えられている。「どこまでも師匠と共に」「どこまでも師匠のために」と、
> 弟子が決然と立ち上がり、広宣流布への闘争を貫くところに、師弟は脈打つのである。
 (中略)
>  池田先生は、「師匠は吼えている。あとは、弟子が吼えるかどうかです。それを師
> 匠はじっと見つめて待っている」と語られている。
>  広宣流布の未来を決めるのは、弟子の戦いである。師匠と同じ心で師子吼し、勝利
> の結果を残すことが、真の弟子の証なのである。

 ※ 「748ページ」は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』の該当ページ。


 引用にもあるとおり『御義口伝』は、「日蓮による法華経講義を弟子の日興が筆記し、
それを日蓮が閲して印可したもの」ということになっている。

 それが史実であるならば、日蓮の思想を論じる上で極めて重要な意義を持つ文書という
ことになるが、結論から言うと偽書である。

 立正大学の教授を務め、日蓮宗の僧侶でもあった執行海秀氏の論文「日蓮教学上に於け
る御義口伝の地位」に、以下の記述がある。


>  ところで本書は古来より真偽の論がある。聖人門下初期の古記録を初めとして、聖
> 人滅後百二・三十年の頃編輯された録内遺文にも漏れて居り、また聖人滅後百八十年
> の頃に出来た八品日隆の本門弘経抄にも周知せられてないものであつて、その後、や
> ゝ降つて聖人滅後二百十年頃完成された円明日澄の法華啓運鈔に至つて初めて引用せ
> られてゐるところである。古写本には聖人滅後二百五十七年の天文八年(一五三九年)
> の奥書を有する隆門の日経本があるに過ぎない。かやうに本書の伝承については根拠
> が明瞭でない憾みがある。
>  のみならず本書には、日蓮聖人滅後十三年、元の元貞元年に成立した徐氏の科註が
> 引用されてゐるが如き、また本書の口伝形態や文体が、南北朝の頃出来た等海口伝等
> に類似する点から見て本書の成立は聖人滅後のものと思はれる。
 (執行海秀著『御義口伝の研究』)

 ※ この論文の初出は、昭和29年(1954年)発行の『印度学仏教学研究』三巻一号。


 『御義口伝』には、日蓮没後、13年経って元代の中国で著わされた法華経の注釈書『科
註』が引用されているというのである。偽書であると断定するには、これだけで十分であ
ろう。

 そして『御書をひもとく』において、最も多く引用されているのが、この『御義口伝』
なのである(真蹟遺文からの引用もある)。

 創価学会は、偽書と判明している文書から都合のいい箇所を抜き出し、それを池田大作
への個人崇拝を正当化するために利用しているのだ。

 『御書をひもとく』には、他にも問題のある記述が多くある。もう一例を示す。


>  第六天の魔王・十軍のいくさを・をこして・法華経の行者と生死海の海中にして同
> 居穢土を・とられじ・うばはんと・あらそう、日蓮其の身にあひあたりて大兵を・を
> こして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
>                        (辧殿尼御前御書、1224ページ)

>  文永10年(1273年)9月19日、佐渡の一谷から辧殿(日昭)及び、辧殿に縁のある
> 門下の尼御前に与えられた御手紙。
 (中略)
>  仏道修行は、常に「仏」と「魔」との闘争である。
 (中略)
>  こうした「仏と魔との大闘争」は、生命の内面で常に起きている。成仏のためには、
> 「内なる悪」に勝たねばならない。これを観念のみではなく具体的に実践するには、
> 「外なる悪」と戦い、勝つことだ。
>  悪との闘争が、わが生命を鍛え、浄め、成仏の大道を開く。極悪と戦ってこそ極善
> になるのだ。
 (中略)
>  池田先生は指導された。「広宣流布」は『公転』です。人間革命は『自転』です。
> 両者は一体です。学会は『仏の軍勢』です。ゆえに魔が襲うのは当然だ。『仏と提婆
> とは身と影とのごとし生生にはなれず』(開目抄、230ページ)です。魔は、狩り出
> し、叩き出し、打ち破るものです。折伏精神です」
> 「日蓮一度もしりぞく心なし」との御本仏の仰せを現実のものとしたのが、創価三代
> の師弟の歴史である。強靭な一念を貫く「退く心なき挑戦」こそ、真の仏弟子の道で
> ある。

 ※ 『辧殿尼御前御書』には、日蓮真蹟が現存している(中山法華経寺蔵)。


 仏教でいう「魔」とは、本来は自身の煩悩のことを指す。ところが、創価学会では「外
なる悪」と戦い、勝つことが「真の仏弟子の道」だと教えているのである。

 創価学会の言う「魔」「極悪」とは、彼らの反社会行為を批判したり、池田大作のスキ
ャンダルを暴いたりした、外部のジャーナリストや脱会して批判者に転じた元学会員のこ
とである。

 池田大作は、自分にとって不都合な存在を「魔」と決めつけ、「狩り出し、叩き出し、
打ち破る」べきだと指導したのだ。

 そして、創価学会員たちは、この池田の言葉に従うことが「成仏の大道」だと信じてい
るのである。これがカルトでなくて、何であろうか。


 日蓮はかなりの量の文書を遺しており、その中には「真言はいみじかりけり」と述べて
いるものや、念仏を唱えることを容認しているものまである(補足2 参照)。

 そうした遺文に基づいて、他の宗教とも宥和的な教義を構築することも可能だったはず
だが、創価学会は、それとまったく逆のことを行ってきた。

 日蓮遺文を真摯に学ぶのであれば、それ自体は何ら批判されるべきことではないと思う。
 だが、創価学会は「御書の学習」と称しながら、その実、偽書を根本として、池田大作
への個人崇拝や自分たちとは意見を異にする人びとへの敵愾心を、信者に植え付けている。

 このような反社会思想を繰り返し学習し、「唯一絶対に正しい教え」と信じ込んでいる
のが、創価学会員という連中である。彼らが問題のある行動をとるのは、当然のことと言
えよう。


補足1 御義口伝について

 本文で引用した執行海秀著『御義口伝の研究』の第四章は、「本書の文献学的考察」と
題されており、『科註』引用についてより詳しい説明がなされている。以下に引用する。

>  宝塔品の御義第十条の「如却関鑰開大城門」を釈する下「科註四云」として、『科
> 註』の文が引用せられている。『科註』には新古両本があって、古本は訶山守倫の
> 『科註』であり、新本は平磵必昇の『科註』である。
>  而してこの『御義口伝』に引用せられてゐる『科註』の文は、新本の必昇の『科註』
> である。このことは新古両本の文を対照することによつて明らかである。
 (中略)
>  さて必昇『科註』の修正校訂年月については其の序に、
>   元貞改元乙未弥勒生辰書之
> とあるのである。ところでこの年号は我朝の永仁三年に当たり、聖滅後十三年のこと
> で、『御義口伝』講述年代と伝へられてゐる弘安元年よりは十九年後にあたるのであ
> る。
>  そこでこの必昇の『科註』が我が国に伝来したのは、恐らく足利初期ではなからう
> かと思はれる。而してかやうに聖滅後数十年の後伝来した『科註』の文が、『御義口
> 伝』に引用せられてゐることは年代上の矛盾である。

 日蓮は弘安5年(1282年)に没している。その13年後の永仁3年(1295年)、元代の
中国で執筆され、日本への伝来は室町時代と推測される『科註』が引用されているのだか
ら、『御義口伝』は後世の偽作としか考えられない。

 日蓮正宗では『御義口伝』を教義上、極めて重視してきた。創価学会も破門されたとは
いえ、現在でも日蓮正宗の教義の多くを継承している。

 問題の『科註』からの引用は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』では、741ページに
記されている。

> 第十如却関鑰開大城門の事 補註の四に云く此の開塔見仏は蓋し所表有るなり、何と
>  なれば即ち開塔は即開権なり見仏は即顕実なり是れ亦前を証し復将さに後を起さん
>  とするのみ、如却関鑰とは却は除なり障除こり機動くことを表す謂く法身の大士惑
>  を破し理を顕し道を増し生を損ずるなりと。

 ※ 創価学会版御書では『補註』となっているが、これは誤りで『科註』が正。


補足2 念仏を容認している日蓮遺文について

>  南無妙法蓮華経と一日に六万・十万・千万等も唱えて後に暇あらば時時阿弥陀等の
> 諸仏の名号をも口ずさみ・なるやうに申し給はんこそ法華経を信ずる女人にてはある
> べき
 (『法華題目抄』真蹟断片 水戸久唱寺 外11ヶ所)

 ※ 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』948ページ

 あくまでも南無妙法蓮華経を唱えることを優先すべきだが、時々は「阿弥陀等の諸仏の
名号」を口ずさんでよいと、日蓮は述べている。

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