2019年4月28日日曜日

統一地方選挙(平成31年4月)の結果について

 去る4月7日、21日に、平成最後となる統一地方選挙の投開票が実施された。
 7日は道府県知事、道府県議会議員、政令市の議員等、21日には政令市以外の市長およ
び議員、東京特別区、町村の議員等が選出され、あわせて衆議院の補欠選挙も行われた。

 周知のとおり、前半戦では京都市と大阪市の議会選挙で、公明党の候補者がわずか数票
の差で落選し、「常勝関西」にミソをつけることとなった。

 しかしながら、後半戦では公明党の全立候補者が当選した。
 今年は参議院選挙も実施されることから、学会員の負担を軽減するために、統一地方選
挙では公明党の立候補者を減らす対応を取ったそうだが、それが奏功したのであろう。

 前半戦での思わぬ苦戦に衝撃を受けた各地の学会員たちが奮起したことと、投票率が低
迷したことも、後半戦の「完勝」に影響したと考えられる。

統一地方選における主要な地方議員選挙結果
    (典拠:今回についてはNHK選挙データベース、読売新聞〔平成31年4月23日付〕
        前回については総務省「地方選挙結果調」)

 個別の選挙結果については、すべてを論じることは不可能なので、公明党候補が僅差で
落選した大阪市議会選挙・東成区選挙区と、辛くも全員当選した世田谷区と江戸川区の区
議会選挙に焦点を絞る。

 大阪市議会選挙・東成区選挙区には3議席が割り当てられており、それを今回は4人、前
回は5人の立候補者が争った。東成区の投票率は、53.36%だった(前回は51.76%)。

大阪市議会選挙・東成区選挙区の選挙結果
                      (出典:大阪市選挙管理委員会 公表資料)

 今回、落選した公明党の則清ナヲミ氏は、前回は最下位での当選だった。今回、最下位
で当選した維新の会の海老沢由紀氏と則清氏との得票差は、わずか4票である。

 東成区の投票率は前回よりも1.6%上がっているが、これにより票が上積みされたことが
海老沢氏の当選につながったと見てよいだろう。

 先に述べたとおり、統一地方選後半戦では公明党の候補者はすべて当選したが、その中
には薄氷を踏むような勝利もあった。

 東京都の世田谷区議会選挙(議席数:50)では、公明党の津上ひとし氏が最下位の当選
だった。惜しくも次点だった、すがややすこ氏との得票差は31票だった。

 公明党は、前回の選挙では世田谷区議会選挙に10人を擁立し、全員を当選させたが、今
回は1人減らした9人が立候補した(投票率は43.02%、前回の42.84%より微増している)。
 前回と同じ人数を擁立していたならば、落選者が出ていた可能性は極めて高い。

 また、江戸川区議会選挙(議席数:44)でも、候補者を前回の13人から1人減らしたが、
それでも公明党の中道たかし氏は、43位で辛くもの当選だった。次点で落選した共産党の
須田哲二氏との票差は92票である。

 江戸川区議会選挙の投票率は42.40%で、前回の43.12%よりやや減少している。
 もし、世田谷区や江戸川区の投票率が、あと少し高かったならば、公明党は前回から候
補者を減らしたにもかかわらず、全員の当選は実現できなかったということが十分にあり
得たのである。 

 創価学会・公明党は、現在の得票力と投票率の低迷とを織り込んだ綿密な選挙戦略を立
て、今回の統一地方選挙でも、前半戦で苦汁をなめたとはいえ、後半戦ではすべての候補
者を当選させた。退潮傾向にあるとはいえ、彼らの組織力は現在もなお侮れない。

 反社会的カルトである創価学会と事実上、一体の存在である公明党が、地方議会に大勢
の議員を送り込んでいる現状が、社会にとって好ましいとは思えない。

 そして、そのような事態を許してしまっているのは、有権者の無関心が原因である投票
率の低迷に他ならない。

 一個人にできることなど高が知れていることは十分に承知しているが、それでも創価学
会の危険性を伝える活動を続けなければならないと、今回の選挙結果を見て、改めて決意
した次第である。

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2019年4月21日日曜日

創価学会の光と影

 ほとんどの学会員が、「創価学会は唯一絶対に正しい」と信じているのに対して、それ
以外の大部分の人は、創価学会になどたいして関心がなく、怪しげな新興宗教の一つ程度
の認識しかないか、あるいは折伏等で不快な経験をしたことが理由で、忌み嫌っているか
のどちらかであろう。

 しかしながら、非学会員が執筆した本の中にも、創価学会に肯定的評価をしているもの
もいくらかはある。

 創価学会を評価する理由として、よく挙げられるのが「助け合い」である。
 学会員1世の中には地方出身者が多い。学会員1世は、都市居住1世でもあることが珍
しくないのだ。

 他者との関わりが希薄な都市において、創価学会がムラ社会的な濃い人間関係――互助
や仲間への思いやり――を実現していることに魅力を感じ、入会した者が少なくないとい
うことだろう。そうした濃い関係が、現在でも創価学会の末端組織を支えている。


>  それぞれにドラマがある学会員は、他人の幸せを願い、助け合って生きている。
 (中略)
>  学会員の家族が手術を受けるとなれば、その時間にみんなが集まって題目をあげる。
> 引っ越しも葬儀も応援する。誰かが病気で働けなくなったら、生活保護の手続きをと
> る。夫婦関係の不和、職場の人間関係など悩みがあれば、相談にのって解決する。
>  学会は一つの共同体でもある。
>  学会の現場はきわめて濃密な助け合いのシステムとなっている。
 (中略)
>  社会から創価学会が排他的、顔が一つの組織に見えてしまうのは、学会員同士が濃
> 密な関係にあり、一つの共同体を形成しているからだろう。
 (別冊宝島『となりの創価学会』所収
  米本和広著「荒川区町屋三丁目 下町の学会員さん物語」)


 こうした環境で生まれ育った2世3世にとっても、創価学会特有の密度の濃い人間関係
は、幼少時から慣れ親しんだものであり、アイデンティティーの一部にまでなっているの
かもしれない。

 だが、そこに息苦しさを感じる人もいるだろう。
 創価学会では、個人の住居が座談会などの活動の拠点としても使われている。そうした
家庭では、無遠慮に生活空間に侵入してくる学会員たちのふるまいに耐えねばならないこ
とがままあるという。

 親が熱心な信者であるにもかかわらず、子が創価学会に反発することがあるが、他人に
配慮しない学会員の不躾さが、その理由になることもあるようだ。

 元活動家のブログの中にも、入浴中に浴室に入ってこられた等の経験談を記しているも
のもある。

 学会員同士の距離が近いことによる問題点は、他にもある。濃密な人間関係は創価学会
の搾取的な金集めにも、一役買っているのだという。

 池田大作は、幹部ごとに担当地域を決めて集金額を競わせ、多額の金を集めた者を登用
する一方、実績を上げられない者は冷遇したという(「学会幹部に良心はないのか?」参
照)。

 人間関係のしがらみを金集めのための情報収集に活用することを考え出し、財務で実績
を上げて出世、そのノウハウを全国に広めた幹部がいたとしても不思議ではない。 


>  「組織防衛」にひた走り、ややもすれば(というか相当)硬直化している「信濃町
> 中央(学会本部)」に対し、現場で日々、活動に汗を流している末端の会員は、明る
> く、オープンだと言われる。確かに筆者も個人的に学会員の知り合いは何人かいるが、
> 基本的には「いい人」ばかりである。
>  特に学会活動の中心となっている婦人部の人たちは、選挙になるとちょっとうるさ
> いが、概して明るくおおらかで、世話好きなオバさんが多い。
 (中略)
>  しかし、ある元学会員は、「その『あったかい』とか『世話好き』ってのが、実は
> ミソなんですよ」としたうえで、さらにこう続ける。
>  「確かに組織の末端では、よく『何があったの?』と相談に乗ってくれる。落ち込
> んでいるときは励ましてくれるし、確かに人情味も厚い。しかし、それは逆に言えば、
> 『プライバシー』がないってことなんですよ。そうやってしょっちゅうくっついてい
> るわけだから、家の収入だとか、夫婦関係、子供が抱えている問題とか、いろんな情
> 報がみんな外に漏れてしまう。それを組織がうまく利用しているっていうか、“悪用”
> しているわけです。特に財務の時なんかは、そういった情報が大きい意味を持つ。例
> えば、『あの家は最近、保険金がいくらいくら入った』とかいう話なんてのも内々、
> すぐに伝わるわけだから、幹部が親戚縁者に根回しして、『じゃあ、今回は一千万円
> くらいどうか』と話を持っていくわけですよ。まあ、言っちゃなんだけど、末端の学
> 会員ってのは、“貧乏人でお人好し”が多い。だから、疑うことを知らない。
 (古川利明著『シンジケートとしての創価学会=公明党』)


 濃い人間関係がもたらすのは、助け合いなどの良いことばかりだけではない。自分たち
の中に恵まれた者がいれば、何とかして引きずり下ろそうとする心理も生じやすい。

 内心の妬みを信仰心で偽装し、「幸運に恵まれたのは御本尊のおかげなのだから、御本
尊に恩返ししなければ! 広宣流布のために財務するべき!」と迫る者もいるのだろう。

 学会員は折伏の際、「創価学会は助け合いの組織だ」と言うことがある。 
 彼らは、相互扶助的で麗しい一面だけを印象づけようとし、それと表裏一体のプライバ
シーの欠如や、信心を口実とした足の引っ張り合いについては、外部の人間には語らない。

 創価学会の末端にある濃い人間関係は、2世3世の脱会を阻止するためにも機能してい
る。抜け出したくても抜けられない、蟻地獄のような環境にも見える。

 そのような環境に、本心から居心地の良さを感じている創価学会員が、はたしてどれく
らい居るのだろうか。

 学会員が熱心に折伏を行う動機には、自分たちよりしがらみが少ない生き方をしている
人々をうらやみ、同じドロ沼に引きずり込みたいという願望もあるのかもしれない……。

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2019年4月14日日曜日

書評『親が創価学会』(島田裕巳著)

 『親が創価学会』は、創価学会の家庭に生まれ育った2世が直面する様々な困難に焦点
を当てて執筆されているが、創価学会そのものの解説にもそれなりの紙幅が割かれている。

 著者の島田氏は非学会員向けの概説書として、過去に『創価学会』(新潮新書)をもの
しているが、それと同様、本書も「批判にも擁護にも偏らない」という姿勢で書かれてい
る。

 私は創価批判を目的としてブログを続けているので、本書の主張には同意できない点も
あるが、全体としては優れた内容だと感じた。

 上述のように、本書では創価学会とはどのような団体であるかの解説もなされている。
 具体的には、成り立ちや巨大組織に発展できた理由、日蓮正宗との関係などが記されて
いるが、要領よく的確にまとめられており、その内容には説得力があった。

 また、創価学会の複雑な地方組織について、宮城県や山形県を例として説明されている
など、これまでに出版された創価学会に関する本にはなかった情報もある。

 多額の金銭負担についても言及されており、島田氏は「私の知り合いには、一家で数千
万円を創価学会に出したという人間がいる」と述べている。

 別の個所では、過度な熱狂から多額の金を出すのは「ポトラッチ」――北米先住民が力
を誇示するために行っていた私財の蕩尽――だとも指摘している。宗教学者らしい卓見で
ある(かなり辛辣だとも思う)。

 本書の主要なテーマである、創価学会の2世信者が直面する困難についても、学ぶとこ
ろがあった。

 創価学会は簡単にはやめられない組織だと言われる。2世ならば、なおさらそうである。
 本書ではその理由の一つとして、創価学会が各信者の住所・氏名等の個人情報を把握す
るために設けている「統監カード」を挙げている。

 2世信者が創価学会と縁を切りたいと思い、新たな住所を報告せずに引っ越したりして
も、親が熱心な学会員であった場合、自分の子も信仰を続けることを望み、引っ越し先を
創価学会に届け出るので「統監カード」にもそれが記載され、その結果、新しい住居にも
現地の学会員がすぐ家庭訪問してくるのだという。

 島田氏は「なんとしても創価学会をやめたいのであれば、家族との縁を切るしかない。
そういうことは十分に起こり得る」とまで述べている。

 また、学会員が非学会員と結婚しようとした場合に生じる困難についても述べられてい
る。本書には、創価学会2世の男性と、顕正会2世の女性がつき合い、同棲までしたものの、
双方の親が信仰のことで衝突し、別れることになった事例が紹介されている。


 興味深い内容が多く記されているとはいえ、先に述べたように、私としては同意できな
い箇所も本書には複数ある。

 特に看過できないのは、池田大作に関する記述である。島田氏は池田の印税収入につい
て、過去のインタビューを参照して、次のように述べている。


>  ところが、池田氏本人は、月刊誌『現代』(講談社)の一九八〇年四月号に掲載さ
> れたジャーナリストの内藤国夫氏によるインタビューのなかで、「聖教新聞社からの
> 出版物の印税は、いっさいいただいておりません。それ以外の出版社の場合、いちお
> ういただきますが、税金を払った残りは大学や学園に寄付しております」と語ってい
> た。『人間革命』や『新・人間革命』は聖教新聞社から出版されている。
>  内藤氏はすでに故人だが、創価学会に批判的なジャーナリストで、創価学会批判の
> 本を何冊も刊行していた。その内藤氏が、創価学会の資産形成に池田氏の印税が大き
> く寄与していることを前提に話を聞いている。その点からすると、池田氏の語ってい
> ることは事実と考えていいだろう。


 内藤氏は『現代』1980年7月号で、このインタビューの反響について記事を書き、清貧
の指導者を演じて見せた池田の受け答えについて、「ウソ八百もいいところ」との内部情
報が寄せられ、池田の「美術品そのほかの創価学会財産の私物化は目に余るものがあるそ
うな」と述べている(「清貧の人? 池田大作」参照)。

 島田氏がそれを知らなかったとは考えられない。
 そもそも、島田氏は前著『「人間革命」の読み方』で、『人間革命』の本当の執筆者は
篠原善太郎氏だったことを指摘している。内藤氏からのインタビューで池田が語った印税
の寄付が事実だったとしても、人のフンドシで相撲を取ったというだけのことである。

 先の引用に続く箇所には「一時期は、池田氏のスキャンダルが頻繁に報道された。ただ、
そのなかに、池田氏が豪遊しているといった類のものはなかった」とあるが、これも事実
に反する(「池田大作のぜいたく」参照)。

 創価学会は、相当に問題のある団体である。はっきり言って、カルト以外の何ものでも
ない。その創価学会について、客観的な内容の本を書こうとすれば、批判的になるのは当
然である。

 本全体が批判的な記述ばかりにならないようにするためには、不自然な形での擁護を挿
入せざるを得なかったのだろう。

 ただ、だからと言って、島田氏が創価学会に完全に取り込まれているとまでは言えない
と思う(池田大作に関する記述は、相当に配慮されているが)。

 島田氏が、一方的な批判には組しない姿勢を取り続けたからこそ、幹部を含めた多数の
学会員からの取材が可能だったのだろうし、その結果として、一般人には知り難い内部情
報が含まれた本の執筆が可能になったことも、事実であろうからだ。

 『親が創価学会』は、異議を申し立てたい箇所もあるとはいえ、創価学会の実態を理解
する上で、少なからず有益な本だと評価したい。

 ※ 『親が創価学会』(イースト新書)は、2019年4月15日付で発行された(実際の発
   売日は4月10日)。

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2019年4月7日日曜日

創価学会員のルサンチマン

  ルサンチマン【(フランス)ressentiment】
   強者に対する弱者の憎悪や復讐 (ふくしゅう) 衝動などの感情が内攻的に屈折して
  いる状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨 (えんこん) 。遺恨。
                             出典:デジタル大辞泉


 ニーチェはキリスト教を批判した哲学者として知られる。彼がキリスト教を非難した理
由は、その信仰がルサンチマンに基づいているからであった。

 ニーチェは、著書『道徳の系譜』において、自己を肯定し、誇り高く、気高くあろうと
する道徳を「貴族道徳」とよび、反対に自分より優れた他者を妬み、否定することによる
道徳を「奴隷道徳」とよんだ。


>  ――道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨 Ressentiment)そのものが創造
> 的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真
> の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によって
> だけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳
> は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めから
> して<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし否と言う。つまりこの否定
> こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転――自己自身に立
> ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向――こそが、まさにルサンチマン特
> 有のものである。すなわち奴隷道徳は、それが成り立つためには、いつもまず一つの
> 対立的な外界を必要とする。
 (信太正三訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』)


 ニーチェは同書で、キリスト教徒のルサンチマンの表れ、すなわち迫害を加えた者たち
への「想像上の復讐」の例として、2世紀末から3世にかけて活躍した神学者・テルトゥリ
アヌスの言葉を引いている。


> 「信仰は、まこと、われわれに、はるかに多くのものを与えてくれる」――と彼は言
> う――「はるかにもっと力づよいものを与えてくれる。救済のおかげで、本当にまっ
> たく別な悦びがわれわれの思いどおりになる。
 (中略)
> ・・・が、キリストの再臨の日、その勝利の日となれば、われわれを待ちうけている
> のは何であるか!」――またさらに彼は、この狂喜した幻想家はつづける。「だがじ
> つにその日にはなお別の光景が見られる。最後の、そして永遠の審判のその日、異教
> の民が期待もしないで、笑いものにするその日には、いとも長く古い時代と、かくも
> 多くのその所産とが、もろともにみな同じ一つの炎に焼きつくされるのである。その
> ときの光景たるや何と壮大なことであろう! どう讃歎すべきか! どう笑うべきか!
> どのように喜ぶべきか! どこでどう躍るべきか! 天国に迎えられたといわれるあ
> れほど多くの高名な王たちが、ユピテルや、また彼らをその目で見た証人たちと一緒
> に、暗黒の下界に呻き苦しむのを見るとき! 同じくまた、主の御名を滅ぼした総督
> (地方代官)たちが、彼らがキリスト教徒を焚殺した凌辱の火炎にもまさる荒れ狂う
> 猛火のなかに燃え熔けてゆくのを見るとき!
 (中略)
> 大法官にせよ、執政官にせよ、検察官にせよ、司祭にせよ、彼らがどんなに寛仁であ
> ろうとも、これほどの見世物を観せ、これほどまで心躍らしてくれる者などいるであ
> ろうか? しかしすくなくともわれわれは、信仰によってこの光景を多少なりとすで
> に心に思い描いてみることができる。


 上記をお読みになって、どう感じるかは人それぞれであろうが、常日頃はキリスト教は
外道と考え、見下している創価学会員の中にも、古代のキリスト教徒が夢想した最後の審
判の光景には、共感を覚えた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 今回、私が長々とニーチェによるキリスト教批判を引用したのは、創価学会もまたルサ
ンチマンに基づいた宗教だからである。

 折伏を受けた経験のある方はよくご存じのはずだが、創価学会員とは他の宗教をすべて
否定し、「そんなものを信じる奴らは地獄に堕ちる」などと、平気で口にする連中である。

 創価学会は、戦後、日本がまだ貧しかった時代、新規に都市部に流入した教育のない階
層を取り込むことで急拡大した。

 資産も学歴もなく、貧しさや病気などの悩みを抱え、持てる者を羨望していた彼らにと
って、「唯一の正しい信仰」を自称し、恵まれた人々が信仰する伝統宗教をすべて否定す
る創価学会は魅力的に映ったのだろう。

 そのような学会員たちの代表こそが、池田大作だった。彼は東京都大田区の生まれで、
新規に都市住民となったわけではないが、貧しい海苔業者の家庭に育ち、満足な教育を受
けられず、結核に苦しんでいた。

 そして池田は、持てる者への羨望と怨嗟とが入り混じった言葉を吐き続け、それによっ
て学会員たちの心をつかんできた。以下に池田語録を示す(すべて山田直樹著『創価学会
とは何か』による)。


 「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって
 自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価
 学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
 (六三年八月三日付聖教新聞)

 「天下を取ろう。それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめ
 てきた連中に挑戦して、最後に天下を取って、今までよくも私をいじめたか、弱い者を
 いじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」
 (六九年『前身』〈幹部用テキスト〉四月号)

 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返
 す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も
 戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 (九六年十一月三日「創価同窓の集い」にて)


 矛盾している言葉もあるようだが、学会員にとっては、自分たち以外のものが権力を振
るって弱い者をいじめるのは悪だが、自分たちが権力を持った場合、何をやってもかまわ
ないのである。歪んだ選民思想のなせる業である。

 創価学会員の選民意識は、彼らが抱えていたルサンチマンの裏返しだった。
 しかし、高度経済成長の恩恵は創価学会員にもおよび、現在の2世3世の信者の中には、
貧しさのために虐げられているといった感覚を持っていない者も、多いはずである。

 それどころか、ルサンチマンむき出しの池田センセイのご指導に、違和感や嫌悪を感じ
る方もいるかもしれない。

 また、社会に出て活躍し、会社等の所属する組織の中に自分の居場所を見つけて、創価
学会の信仰をアイデンティティーの拠り所としては、必要としなくなった者もいるだろう。

 狂信的な親との確執という、新たな苦悩に直面している方も少なくないことだろうが、
何とか乗り越えてカルトによるマインドコントロールから解放され、精神の自由を取り戻
してほしいと思う。

 ニーチェによるキリスト教批判は、真実をついている部分もあるにせよ、一面的に過ぎ
るとの反論もある。

 だが、池田大作が指導してきた創価学会は、彼らが「敵」と見なした人びとに口汚い誹
謗中傷を加え続け、それのみならず「仏敵撲滅唱題」と称する呪詛の儀式まで行ってきた
ことからも明らかなように、キリスト教以上に強烈なルサンチマンによって突き動かされ
て来た。

 他者への憎悪を基盤とする宗教・創価学会が権力を持つ社会が、真に平和で安寧なもの
となるわけがない。

 覚醒した2世3世が組織から去り、創価学会が衰退することは、社会への貢献でもある。
 大乗仏教の菩薩とは、「他者を救うことで自らも救済される存在」である。創価学会か
らの脱会は、真に菩薩行と呼ばれるにふさわしい善行と言えるだろう。

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