2019年4月7日日曜日

創価学会員のルサンチマン

  ルサンチマン【(フランス)ressentiment】
   強者に対する弱者の憎悪や復讐 (ふくしゅう) 衝動などの感情が内攻的に屈折して
  いる状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨 (えんこん) 。遺恨。
                             出典:デジタル大辞泉


 ニーチェはキリスト教を批判した哲学者として知られる。彼がキリスト教を非難した理
由は、その信仰がルサンチマンに基づいているからであった。

 ニーチェは、著書『道徳の系譜』において、自己を肯定し、誇り高く、気高くあろうと
する道徳を「貴族道徳」とよび、反対に自分より優れた他者を妬み、否定することによる
道徳を「奴隷道徳」とよんだ。


>  ――道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨 Ressentiment)そのものが創造
> 的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真
> の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によって
> だけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳
> は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めから
> して<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし否と言う。つまりこの否定
> こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転――自己自身に立
> ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向――こそが、まさにルサンチマン特
> 有のものである。すなわち奴隷道徳は、それが成り立つためには、いつもまず一つの
> 対立的な外界を必要とする。
 (信太正三訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』)


 ニーチェは同書で、キリスト教徒のルサンチマンの表れ、すなわち迫害を加えた者たち
への「想像上の復讐」の例として、2世紀末から3世にかけて活躍した神学者・テルトゥリ
アヌスの言葉を引いている。


> 「信仰は、まこと、われわれに、はるかに多くのものを与えてくれる」――と彼は言
> う――「はるかにもっと力づよいものを与えてくれる。救済のおかげで、本当にまっ
> たく別な悦びがわれわれの思いどおりになる。
 (中略)
> ・・・が、キリストの再臨の日、その勝利の日となれば、われわれを待ちうけている
> のは何であるか!」――またさらに彼は、この狂喜した幻想家はつづける。「だがじ
> つにその日にはなお別の光景が見られる。最後の、そして永遠の審判のその日、異教
> の民が期待もしないで、笑いものにするその日には、いとも長く古い時代と、かくも
> 多くのその所産とが、もろともにみな同じ一つの炎に焼きつくされるのである。その
> ときの光景たるや何と壮大なことであろう! どう讃歎すべきか! どう笑うべきか!
> どのように喜ぶべきか! どこでどう躍るべきか! 天国に迎えられたといわれるあ
> れほど多くの高名な王たちが、ユピテルや、また彼らをその目で見た証人たちと一緒
> に、暗黒の下界に呻き苦しむのを見るとき! 同じくまた、主の御名を滅ぼした総督
> (地方代官)たちが、彼らがキリスト教徒を焚殺した凌辱の火炎にもまさる荒れ狂う
> 猛火のなかに燃え熔けてゆくのを見るとき!
 (中略)
> 大法官にせよ、執政官にせよ、検察官にせよ、司祭にせよ、彼らがどんなに寛仁であ
> ろうとも、これほどの見世物を観せ、これほどまで心躍らしてくれる者などいるであ
> ろうか? しかしすくなくともわれわれは、信仰によってこの光景を多少なりとすで
> に心に思い描いてみることができる。


 上記をお読みになって、どう感じるかは人それぞれであろうが、常日頃はキリスト教は
外道と考え、見下している創価学会員の中にも、古代のキリスト教徒が夢想した最後の審
判の光景には、共感を覚えた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 今回、私が長々とニーチェによるキリスト教批判を引用したのは、創価学会もまたルサ
ンチマンに基づいた宗教だからである。

 折伏を受けた経験のある方はよくご存じのはずだが、創価学会員とは他の宗教をすべて
否定し、「そんなものを信じる奴らは地獄に堕ちる」などと、平気で口にする連中である。

 創価学会は、戦後、日本がまだ貧しかった時代、新規に都市部に流入した教育のない階
層を取り込むことで急拡大した。

 資産も学歴もなく、貧しさや病気などの悩みを抱え、持てる者を羨望していた彼らにと
って、「唯一の正しい信仰」を自称し、恵まれた人々が信仰する伝統宗教をすべて否定す
る創価学会は魅力的に映ったのだろう。

 そのような学会員たちの代表こそが、池田大作だった。彼は東京都大田区の生まれで、
新規に都市住民となったわけではないが、貧しい海苔業者の家庭に育ち、満足な教育を受
けられず、結核に苦しんでいた。

 そして池田は、持てる者への羨望と怨嗟とが入り混じった言葉を吐き続け、それによっ
て学会員たちの心をつかんできた。以下に池田語録を示す(すべて山田直樹著『創価学会
とは何か』による)。


 「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって
 自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価
 学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
 (六三年八月三日付聖教新聞)

 「天下を取ろう。それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめ
 てきた連中に挑戦して、最後に天下を取って、今までよくも私をいじめたか、弱い者を
 いじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」
 (六九年『前身』〈幹部用テキスト〉四月号)

 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返
 す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も
 戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 (九六年十一月三日「創価同窓の集い」にて)


 矛盾している言葉もあるようだが、学会員にとっては、自分たち以外のものが権力を振
るって弱い者をいじめるのは悪だが、自分たちが権力を持った場合、何をやってもかまわ
ないのである。歪んだ選民思想のなせる業である。

 創価学会員の選民意識は、彼らが抱えていたルサンチマンの裏返しだった。
 しかし、高度経済成長の恩恵は創価学会員にもおよび、現在の2世3世の信者の中には、
貧しさのために虐げられているといった感覚を持っていない者も、多いはずである。

 それどころか、ルサンチマンむき出しの池田センセイのご指導に、違和感や嫌悪を感じ
る方もいるかもしれない。

 また、社会に出て活躍し、会社等の所属する組織の中に自分の居場所を見つけて、創価
学会の信仰をアイデンティティーの拠り所としては、必要としなくなった者もいるだろう。

 狂信的な親との確執という、新たな苦悩に直面している方も少なくないことだろうが、
何とか乗り越えてカルトによるマインドコントロールから解放され、精神の自由を取り戻
してほしいと思う。

 ニーチェによるキリスト教批判は、真実をついている部分もあるにせよ、一面的に過ぎ
るとの反論もある。

 だが、池田大作が指導してきた創価学会は、彼らが「敵」と見なした人びとに口汚い誹
謗中傷を加え続け、それのみならず「仏敵撲滅唱題」と称する呪詛の儀式まで行ってきた
ことからも明らかなように、キリスト教以上に強烈なルサンチマンによって突き動かされ
て来た。

 他者への憎悪を基盤とする宗教・創価学会が権力を持つ社会が、真に平和で安寧なもの
となるわけがない。

 覚醒した2世3世が組織から去り、創価学会が衰退することは、社会への貢献でもある。
 大乗仏教の菩薩とは、「他者を救うことで自らも救済される存在」である。創価学会か
らの脱会は、真に菩薩行と呼ばれるにふさわしい善行と言えるだろう。

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