2019年3月31日日曜日

反社会的な教義


 創価学会は数百万人の信者を擁する巨大教団であり、学会員の人間性も多種多様なはず
である。社会に出て学会員でない人たちとも協力しながら仕事で成果を上げ、それなりの
社会的地位を築いている人もいることだろう。

 地位を利用して折伏等の迷惑行為を行う者も中にはいるだろうが、分別をわきまえ、勤
務先や地域では、他人に迷惑をかけるようなことはしない学会員も、現在では多いはずで
ある。

 しかしながら、創価学会員の中には依然として非常識な者が少なからずいる。
 学会員に対して、「できることなら関わりになりたくない人たち」という印象を抱いて
いる人は少なくないのである。

 戸別訪問や集団替え玉投票などの悪質な選挙違反や、日蓮正宗との泥沼の抗争をひき起
こし、折伏や投票依頼などの迷惑行為を今なお組織ぐるみで推進している創価学会のイメ
ージが悪いのは当然のことではあるが。

 学会員に他人に迷惑をかける者が多いのには、創価学会の教義が影響していると考えら
れる。

 創価学会で「信心の教科書」とされている『人間革命』には、第2代会長・戸田城聖が
詐欺罪で有罪になった学会員に対し、以下のような指導を行ったと記されている。


>  世間法、国法、仏法を三法律というのだが、世間法より国法が強く、国法より仏法
> が強いのです。だからといって、信心していれば国法を犯しても構わぬということは
> 絶対にない。国法を犯せば国法によって裁かれるのは当然である。
 (『人間革命』第七巻)

 ※ 何度も述べてきたが、創価学会のいう「仏法」とは、創価学会の教えだけをいい、
  日本の伝統宗派や、東南アジアの上座部仏教などは「邪教」とされている。


 仏法=創価学会は、国法(法律)や世間法(道徳・常識)に優先するというのが、彼ら
の考え方である。

 戸田城聖は「信心していれば国法を犯しても構わぬということは絶対にない」と言った
ことになっているが、実際の彼の行動はどうだったのだろうか。

 前述のように、学会員が選挙違反を頻繁に行ってきたことはよく知られている。
 昭和31年(1956年)の参議院選挙に、柏原ヤスをはじめとする学会幹部が立候補した
が、この際も戸別訪問等の選挙違反で多数の学会員が逮捕された。

 強引な折伏や選挙違反などの、創価学会員の問題行動を新聞記者に質された際、戸田は
以下のように回答している。


>  いずれにせよ強引に信者をふやして選挙運動に利用しようとしたのではないか。
> 戸田氏 (強引な折伏は)選挙とは全く関係がない。単なる個人的な問題だ。選挙と
> いえば、戸別訪問などで選挙違反に問われた会員がかなりあるが、私は全然違反とは
> 思っていない。信者の知人、親類に頼むのは当り前じゃないか。それだって私が指令
> したのではなく信者が熱心の余りやっているのだ。選挙違反の形式犯はいわば立小便
> などの軽犯罪みたいなものだ。捕まえる方がおかしい。
 (『朝日新聞』昭和31年7月11日付)


 選挙違反で多数の逮捕者を出し、全国紙で何度も大きく報じられたというのに、責任者
の戸田は、言うに事を欠いて「捕まえる方がおかしい」とのたまったのだ。

 法令や社会秩序を軽視する正体を現した妄言である。
 戸田の後を継いだ池田大作は、選挙違反で逮捕された学会員に対し「法難賞」を与えた
という。こういう困ったところは、確かに「師弟不二」である。

 現代社会において、宗教には「よき規範」としての役割が求められている。
 しかし、創価学会は「よき規範」などではあり得ない。彼らの実態は、法律や常識とい
った規範を軽視する反社会的カルトでしかないのだ。


補足1

 冒頭の画像は5chで見つけた拾い物。規範を軽視する創価学会の体質を、的確に表現して
いると思う。


補足2 外米獲得文化運動

 昭和31年(1956年)の参院選挙に、創価学会は6人の幹部を立候補させ、うち3人が当選
した(公明党はまだ結成されていなかった)。

 この頃はまだ「F取り」という呼び方はなかったようである。選挙違反容疑で、創価学
会が家宅捜索を受けたことを報じる新聞記事には、以下のように書かれている。

>  同学会では信者以外の支持者を「外米」とよび、外米獲得文化運動と称して信者
> (「内地米」とよぶ)に二十票から三十票ずつの票集めをさせている疑いもあると
> いう。
 (『朝日新聞』昭和31年6月30日付)

 言葉は違えど、やっていることは現在も60年前から変わっていないようである。

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2019年3月24日日曜日

創価学会員の選民思想

 私はこれまでの人生で、何回か創価学会員から折伏を受けたことがある。
 その際に学会員が見せた態度は、こちらがたじろぐ程に尊大で自信に満ちたものだった。

 創価学会員と関わりを持ち、このような印象を受けたのは、私だけではないはずである。
日本の新興宗教について調査研究を行った米国の宗教学者も、以下のように述べている。


>  創価学会を研究する際、公平な態度でのぞむことは非常に困難である。というのは、
> 調査しているさいちゅうに、見たり、聞いたり、読んだりするもの、とりわけ、創価
> 学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害されるから
> である。どうも彼らにはPRの才がないらしい。訪問客をもてなす時でさえ、彼らは
> 信じ切った態度を露骨に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう。ほ
> かならぬこの理由のために、かくも多くの観察者(日本人も外国人も)が、創価学会
> は陰険な運動だと報告しているのもうなずけるのである。
 (H・N・マックファーランド著 内藤豊・杉本武之訳『神々のラッシュアワー』)

 ※ 著者はサザン・メソジスト大学の教授で、牧師でもあった。本書は、日本での二度
  の調査研究(1956~1957年、1963~1964年)に基づいて執筆され、原著は1967年、
  邦訳は昭和44年(1969年)に出版されている。


 著者はキリスト教徒だが、この本は全体として真摯な学問的姿勢に基づいて執筆されて
おり、創価学会への批判は偏見によるものではないと思われる。本書では天理教や、立正
佼成会なども取り上げられているが、他の教団に対しては、上記のような手厳しい見解は
示されてはいない。

 マックファーランド教授は「訪問客をもてなす時でさえ、彼らは信じ切った態度を露骨
に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう」と述べているが、学会員の態
度が「軽蔑しているように見えしまう」のは、彼らが事実、学会員以外の者を軽蔑し、見
下しているからである。

 戸田城聖は「キリスト教でもせいぜい天界まではいけるでしょう。今のアメリカは栄え
ているようであるが、あれは天界の栄えにすぎない」(『人間革命』第七巻)と説いた。

 当時、調査のために創価学会を訪問したマックファーランド教授に応対した学会員も、
天界の境涯にある米国人のキリスト教徒よりも、「地涌の菩薩」である自分の方が格上な
のだと考え、それが態度にも表れたのだろう。


 現代社会では、学問の細分化と技術への応用が進み、経済も国際化し、金融は複雑なも
のとなっている。量子力学の応用である半導体技術や、相対性理論が応用されたGPSを
誰もが日常的に用い、地球の裏側の国で起こった政変が物価にも影響するのである。

 それらすべてを理解し、何が起こっているかを説明できる者、正しい選択はどれかを示
せる者がどれだけいるだろうか。一個人ではとても理解し切れない程の情報があふれ、し
かもそれらが一人ひとりの生活に密接に関わってくる現代社会において、「何が正しいか
を知っている」という確信を持つことは、極めて困難なことなのだ。

 初めて本格的な折伏を受けた際、私は相手の学会員の自信に満ちた態度に気圧されるよ
うな思いを抱いた。これほどの確信を持つ背景には、相当の知的蓄積があるのではないか
との印象を受けたのである。

 今考えると、外部の世界にあふれる圧倒的な情報量に対する自分の知的貧弱さからくる
不安を、相手に投影してしまっただけだったのであるが。

 その時は、相手の学会員がやたらと「科学的根拠」というのを聞いて、「この人は自然
科学全般への幅広い知識と理解があり、それが自信につながっているのではないか」と思
ってしまった。

 だが、しばらく話してみて、その学会員は自然科学についての理解などほぼ皆無で、そ
れどころか、法華経に何が書いてあるかさえ知らないことが分かった。
 これは、私が対面した一学会員だけについてだけ当てはまることではない。

 創価学会員という連中は、総じて驚くほど知識がないにも関わらず、「自分たちは、他
の人間と違って、何が正しいかを知っている選ばれた存在である」という夜郎自大な自信
を抱いている。

 前回も述べたが、創価学会員は「他の宗教には科学的根拠がない」という理由で否定す
る一方で、彼らの信仰にも科学的根拠がないことを問題視していない。そもそも、そのよ
うな疑問を持たないようにマインドコントロールされている。

 多くの創価学会員にとって、信仰およびアイデンティティーの核心となっているのは、
「創価学会は絶対に正しい。その信仰を持つ自分も絶対に正しく、ただそれだけで学会員
でない者よりも優れた存在である」という思い込みである。

 この妄念を支えているものとして、以下の要素が考えられる。

  ・日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在に祭り上げ、その教えを正統に継承して
  いるのは、創価学会だけだとし、学会員は教えを広める使命を持った「地涌の菩薩」
  だとされていること。

  ・信仰の指導者である池田大作が、世界中から顕彰を受け、称賛される偉人だとされ
  ていること(聖教新聞等の創価学会の出版物の中だけではあるが)。

  ・他の学会員も上記の思い込みを共有し、相互に補強し合っていること。

  ・これらを否定する情報(週刊誌や批判本など)は、すべて創価学会や池田大作の偉
  大さに嫉妬した者たちによるデマだと思い込まされていること。

  ・本当に正しいと言えるのかを検証しようとする知性の欠如(疑うとバチがあり、今
  まで積んできた功徳も消えるという恐怖心を植え付けられていること)。

 「創価学会は絶対に正しい」という思い込みには根拠などない。根拠がないことを「正
しい」とすることは、「智者に我が義やぶられずば用ひじ」(『開目抄』)という、日蓮
の教えに違背している。

 また、それを支える一連のマインドコントロールも、日蓮本仏論のように根拠がないか、
金の力で実現した池田大作の勲章あさりのように価値がないかのいずれかである。

 学会員が強引な折伏をするのは、自分と異なる信仰や思想を持つ者を屈服させることで、
自らの信念が正しいという実感を得ようとしているのだろう。

 信仰の内容が空疎だから、他人をねじ伏せたり、学会活動に没頭することで同じ妄念を
共有する者がいることを確認したりしなければ、自信を保てないのである。


 本来ならば自由にできる時間を公明党の選挙運動などの学会活動に費やし、投票という
政治的な選択の自由を奪われ、本部職員という貴族的な特権階級の高給を支えるために財
務やマイ聖教等で少なからぬ金銭を供出し、精神の自由まで奪われる対価として、「自分
たちは地涌の菩薩で、そうでない者より高い境涯にあり、救いが約束されている」という
妄想の世界に浸り続けている、それが創価学会員という連中なのだ。

 このバカげた選民思想に魅力を感じる人は、創価学会員であり続けるのもいいかもしれ
ない。

 しかしそれは、少しでも知性を持つ者にとって、耐えがたいことのはずである。
 当ブログでも示してきたように、創価学会の教義や、学会員たちがそれを疑わないよう
に行われているマインドコントロールがおかしいことは、彼らが神聖視してきた日蓮遺文
や法華経を読めば分かることだ。

 いや、古文や漢文の書き下し文をわざわざ読まなくても、常識的な判断力があれば、創
価学会がおかしなカルトであることは明白である。

 女子高生を妊娠させたり、レイプ事件を起こしたり、広宣流布を口実に集めた金を自分
個人のぜいたくのために使ったりしてきた池田大作を、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っ
ている創価学会が、まともな宗教のわけがないのだ。

 信教は自由だが、創価学会の信仰とその実践は、良識とは相容れない。
 現在の創価学会は上辺のイメージだけは取り繕おうとしているが、そんなことをしても
馬脚は隠せない。現に、冒頭で引用した50年前の批判が、今なお妥当なのだ。

 学会員が社会の各層に浸透し、公明党が与党になっているとはいえ、インターネットが
当たり前になった現代社会で、完全な情報統制など不可能である。

 創価学会のありのままの実態、事実を知られることが、彼らにとっての弱点であり、情
報の拡散を防ぐことができない以上、創価学会の衰退を止めることはもう不可能だろう。

 そして、それは社会の健全化に資することでもあるのだ。

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2019年3月17日日曜日

折伏(しゃくぶく)について

 現在の日本では、宗教とはあまり関わりのない持たない人生を送っている方が大勢を占
めるが、そういった人でもいずれかの伝統宗派の檀信徒であり、葬儀は仏式で行うことが
多い。

 創価学会は、そのような在り方を「葬式仏教であり、生きた信仰ではない」と否定し、
現在もなお折伏と称してはた迷惑な勧誘を行い、「自分たちだけが正しい信仰だ」と主張
し続けている。

 今回は学会員が折伏の際に、よく主張する内容について検証する。


1.「偶像崇拝は間違い」

 多くの伝統宗派で仏像が信仰の対象とされているが、創価学会は仏像ではなく、文字で
構成された曼荼羅――日蓮が法華経の世界観を図顕したもの――を本尊としている。

 学会員は折伏の際、「仏像を拝むのは偶像崇拝であり、本来の仏教ではない。創価学会
こそが正統な仏教だ」と主張することがある。

 確かに、釈尊は自らの像を信仰の対象にせよとは説かなかったし、そのため、原始仏教
では仏像を信仰の対象とはしなかった。

 だが、創価学会員が上記のような主張をするのは卑劣な欺瞞であり、以下に述べるよう
に三重の意味で矛盾している。

 まず第一に、前回みたように創価学会は「釈尊の教えは人々を救う力を失っている」と
主張しており、都合のいい時だけ原始仏教を援用するのはおかしい。

 第二に、創価学会の曼荼羅本尊は、確かに狭い意味での「偶像」には該当しないであろ
うが、彼らの教義では「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えると祈りとして叶わざるなし」
ということになってる。

 当然のことながら、このような呪物崇拝も本来の仏教とは関係ないものである(何度も
述べたが、彼らの本尊の根拠となっている法華経も、釈尊滅後、数百年後に創作された経
典である)。

 第三に、創価学会が「末法の御本仏」だという日蓮は、「法華経で開眼供養した仏像を
信仰の対象とすべき」と述べている(「佐前・佐後」参照)。

 学会員が「仏像を信仰の対象とするのは間違い」と主張することは、創価学会が日蓮の
教えを正統に受け継ぐ教団ではないことの証明なのだ。


2.「科学的根拠がないことは否定する」

 創価学会員が他の宗教を否定する時によく使うのが、この「科学的根拠」という言葉で
ある。

 確かにどの宗教であれ、神仏や来世など科学的に実証できない概念を信じることが、そ
の根幹になっている。

 こうした実証できない事柄をすべて退け、宗教とは無縁に生きるのも一つの在り方だと
いうことは、私も否定しない。

 問題なのは、創価学会の教義もまた、ほかの宗教と同様、あるいはそれ以上に非科学的
であり、学会員が「科学的な根拠がないことは否定する」と主張するのは、卑怯なダブル
スタンダードだということである。

 伝統的な宗教は、科学が発展する近代以前に発祥している。その教義に非科学的な部分
があったとしても、やむを得ない面もある。

 だが、創価学会は20世紀になってから作られた新興宗教である。それにもかかわらず、
池田大作がデッチ上げた、「護符」と称するただの紙切れを飲むことで病気が治るとぬか
す、インチキなマジナイを組織を挙げて行ってきた。

 いったい、どの面下げて「他の宗教は科学的根拠がない」などと批判できるのだろうか。
 護符を別にしても、御本尊と称するビニールシートに題目を唱えることで、どんな願い
でも叶うという、彼らの中心的な教義にも、何の科学的根拠もありはしない。

 学会員が安易に「科学的根拠」なる言葉を口にするのは、単に他の宗教を批判するのに
便利だからに過ぎず、彼らに論理的思考能力が欠如していることの現れなのである。


まとめ

 多くの人は他者を批判する際、その言葉が我が身にも当てはまりはしないかと、省みる
ものである。
 上述で明らかにしたとおり、創価学会員にはそうした点が驚くほど欠落している。

 だからこそ、創価学会の教義や実態を知る者が聞けば、「おまエラがそれを言うか」と
のけぞるようなことを平気で主張するのである。

 彼らが口にする一見まっとうな言葉こそが、連中がマインドコントロールによって論理
的思考や内省が出来なくなった、頭がおかしいカルト信者であることを示しているのだ。

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2019年3月10日日曜日

創価学会の二枚舌

 聖教新聞のテレビCMを見れば分かるように、近年の創価学会は対外イメージの改善に
大きく力を入れている。

 かつての聖教新聞には、他の宗教を邪教呼ばわりする記事が毎日のように掲載されてい
たが、最近ではそのような記事は見られなくなった。

 だが、こうした変化を「創価学会が穏健化し、宗教的寛容を身につけた」と受け止める
わけにはいかない。

 学会員から折伏を受けた経験がある方には同意いただけるはずだが、創価学会の排他的・
独善的な体質は、以前と何も変わってなどいない。彼らは上辺を飾ろうとしてるだけだ。

 現在の創価学会が、カルトとしての実態を隠蔽するために弄している美辞麗句の一端を、
まずご覧いただきたい。

 広く浸透している「創価学会は排他的で独善的な新興宗教」とのイメージを払拭するべ
く、『池田大作 名言100選』なる本が出版されている。

 この本は創価学会の外郭出版社ではなく中央公論新社から刊行されており、学会員のみ
ならず、一般層をも読者として想定していると考えられる。

 その内容も、いかにも良識的で、一般からの受けがよさそう、といった感じのご立派な
文言が並んでいる。一部を引用する。


> 信仰と知性

> いかなる宗教であれ、排他や独善に陥らず、その包括性や受容性を維持していくには、
> 良識ある知性の力こそが、必要なのである。
 (『池田大作 名言100選』116ページ)


> 宗教間対話

> 仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教
> 徒である前に、人間である。対話を通して、人間性という共通の大地に目を向け、友
> 情が生まれれば、そこから互いの長所も見えてくる。学び合おうとする心も生まれる
> のだ。
 (同、120ページ)


 著者である池田センセイの、高潔なお人柄がうかがえるご高説である。
 「自分たちが過去にやってきたことを棚に上げて、よくも抜け抜けと」という、憤りを
禁じえないのは私一人だけではあるまい。

 『池田大作 名言100選』にあるキレイゴトの数々は、創価学会の真の実態を覆い隠すた
めの方便に過ぎない。
 そして創価学会は、本音の部分では今でも他の宗教を否定し続けている。

 現在、創価学会が折伏のマニュアルとして用いている『仏法対話のすすめ』という書籍
がある(創価学会の外郭企業である第三文明社から刊行されている)。

 『仏法対話のすすめ』には、かつての『折伏教典』ほど過激な言葉は用いられてはいな
いものの、その内容は相当に排他的である。例えば、こんな具合である。


>  例えば、釈尊の教え残した仏教の中でも、最高峰である法華経も、現在では功徳が
> ありません。それは、釈尊自身が、自分の死後、二千年以後を「末法」の時代といっ
> て、私の正しい教えも功徳がなくなってしまう、と予言しており、現実もその通りに
> なっているからです。したがって、法華経以下の他の経典によっている仏教の諸宗派
> に、功徳がないのは当然でしょう。教えに人を救う力がないために、僧侶は葬式や法
> 事で生活をしているのです。
>  釈尊の教えが人々を救う力を失っている現在、生活のうえに生きている「力のある
> 宗教」は、日蓮大聖人の仏法しかありません。

 ※ 功徳とは「来世や現世で幸福をもたらす善行」のことだが、そこから転じて「信心
  によるご利益」の意味でも用いられる。創価学会では、後者の意味で使うことがほと
  んどである。


 釈尊を否定する創価学会に、「仏教」を名乗る資格があるのだろうか。
 法華経が最高峰の教典だという主張は天台教学に由来するが、日蓮が生きていた鎌倉時
代には天台教学には権威があったにせよ、現代の仏教学では、法華経は釈尊滅後、数百年
後に成立したとされている。創価学会は、このことをどう考えているのだろうか。

 それに法華経に「功徳がない」のなら、なぜ創価学会では、朝夕、法華経の方便品・如
来寿量品を読誦するのだろうか。法華経の正式名称である「妙法蓮華経」に南無を冠して
唱えるのだろうか。短い一節ではあるが、突っ込みどころ満載である。
 『仏法対話のすすめ』には、独善的な記述がまだある。


>  釈尊が予告した通りに、末法に出現したのが、日蓮大聖人であり、その教えの通り
> 実践している唯一の教団が創価学会なのです。ですから、釈尊から日蓮大聖人へ、
> 「仏」と「法」のバトンタッチがされており、現在では日蓮大聖人の仏法のみが、人
> びとを救う力がある「生きた宗教」だからです。
>  現実に、日本の仏教の各宗派は、「葬式仏教」と呼ばれているように、葬式や法事
> をするだけの存在になりさがっており、仏教の目的である人びとを救い、仏にする力
> など、まったく失っています。


 創価学会だけが人を救う力がある「唯一の教団」であり、伝統仏教の各宗派には「仏教
の目的である人びとを救い、仏にする力」など、まったくないのだという。これが独善で
なくて、何であろうか。

 『池田大作 名言100選』は、平成22年(2010年)に出版された。
 『仏法対話のすすめ』の初版は平成11年(1999年)だが、第2版が平成21年(2009年)に
刊行され版を重ねている(ちなみに私が入手したものは、2018年発行の第2版第9刷)。

 創価学会は一般向けに出した本には、さも物分かりがよさそうで寛容な印象を与える文
言を並べておきながら、それと同時期に内部向けに出版した勧誘のマニュアル本では、独
善性・排他性をむき出しにしているのだ。まさに二枚舌である。

 創立当時から変わることなく「排他や独善に」陥り続けてきた創価学会には、「良識あ
る知性の力」が根本的に欠落しているのだろう。

 創価学会・公明党がいかに美々しいイメージで外見を飾り、猫なで声で平和や人権を説
こうとも、決して信用してはならない。彼らの本質は、昔と変わらずカルトのままなのだ。


補足 「葬式仏教」についての私見

 「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教のあり方の是非については、様々な意見があろうが、
近代以降の聖俗が分離した社会では、宗教の占める場所が小さくなったのはやむを得ない
ことであり、創価学会のように宗教が大きな役割を占める社会を目指すのは、前近代への
逆行に他ならない。「葬式仏教」の方が、創価学会よりもまだずっと健全だと私は思う。

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2019年3月3日日曜日

創価批判コピペ集‐⑬(「創価学会の迷惑行為」他)

◇◆◇ 創価学会の迷惑行為 ◇◆◇

創価学会員から、強引な入信勧誘や、しつこい投票依頼、聖教新聞の勧誘を受け、迷惑
した経験がある人は多い。しかも創価学会は、こうした迷惑行為を組織的に行っている。

創価学会は現世利益を極めて重視する宗教であり、学会員が他人の迷惑を顧りみること
なく、熱心に入信勧誘等を行う理由も、そうすることでご利益を得られると信じている
からである(創価学会では、ご利益の同義語として「福運」という言葉をよく使う)。

さらに彼らの教義では、「創価学会は唯一の正しい信仰であり、入信勧誘や公明党への
投票依頼は、正しい仏法を広める行為。だから自分だけでなく相手にも福運をもたらす」
「創価学会員は菩薩の境涯にあり、そうでない人よりも高い境地にある」とされている。

このような洗脳を受けているため、創価学会員は独善的で押しつけがましい態度を取る
ことが多く、自分たちがやっていることがただの迷惑行為だという自覚がない。「創価
学会は嫌がらせなどしない」という嘘八百も、彼らの「内面だけ」では真実なのである。



◇◆◇ 創価学会の「功徳の実証」◇◆◇

創価学会は現世利益をきわめて重視する宗教である。創価学会の信仰を続ければ「死ぬ
前の数年間が、人生で一番いい時期になる」と、池田大作名誉会長は何回も語ってきた。
では「永遠の師匠」とされる三代の会長の、「死ぬ前の数年間」はどうだっただろうか。

初代会長・牧口常三郎・・・学会員による強引な折伏の被害者が、警察に訴えたことが
きっかけとなり、昭和18年、治安維持法違反で逮捕され、その翌年栄養失調で獄死した。

第二代会長・戸田城聖・・・戸田は重症のアルコール中毒だった。昭和33年に肝硬変で
死去(享年58歳)。戸田が作らせた『折伏教典』では「アル中は餓鬼界」とされている。

第三代会長・池田大作・・・平成22年(2010年)5月以降、公の場に姿を見せなくなった。
創価学会は「お元気」と言い張っているが、実際は脳梗塞の後遺症で半身不随だという。

※ 日蓮は「道理証文よりも現証には過ぎず」と説いた。まさにその通りと言う他ない。



解説

 上述のとおり、創価学会員から折伏や公明党への投票依頼等をしつこくされ、迷惑して
いる人は多い。かと言って邪険にすると、連中は何をしてくるか分からない。本当に厄介
なカルト信者である。

 創価学会は「正しい仏法が広まろうとする時、必ずそれを妨げる魔の働きも起こる」と
いう教えで、信者をマインドコントロールしている。

 それだけではなく、「仏法は勝負だから、魔に打ち勝たねばならない」などという指導
までなされている。

 こちらが迷惑しているとそれとなく伝えても、意に介さずに迷惑行為を続けてくる学会
員が多いのもそのためである。

 連中は「魔に打ち勝てば福運がつくし、相手にも功徳を積ませることになる」などと、
本気で信じているのだから度し難い。

 単純に迷惑だからやめてほしいと言っているだけなのに、一方的に「魔の働き」などと
決めつけられては、たまったものではないが、心の奥底までカルトの教義が染みついてい
る学会員には何を言っても通じないことが多いので、連中とは可能な限り関わらないよう
にするくらいしか、現実的な対応策はないのかも知れない……。

 もちろん、創価学会に入会したり、公明党に投票したりすることで、確実に経済的成功
や健康長寿等の「功徳の実証」があるのならば、私とて学会員の要望に応じることにやぶ
さかでない。

 だが、学会員が大好きな「現証」に基づいて、永遠の師匠たる三代の会長の晩年を見る
限り、創価学会の信心には、功徳も福運もないとしか言いようがない。

 創価学会は誰の人生にも起こり得る様々な禍福を、適当な理由をつけて「仏罰」だとか
「功徳」だとかこじつけているだけだ。

 当ブログでもこれまで論じてきたが、創価学会がただのインチキ宗教に過ぎないことは、
彼らが出版してきた『人間革命』や『折伏教典』等を読めば、すぐにわかる。

 例えば『折伏教典』(初版)には、「アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者」は、餓鬼界だと
書かれている。アル中と拝金主義者とは、戸田城聖と池田大作のことではないのか。

 もし来世というものがあるならば、詐欺そのものの悪辣な金儲けをやってきた創価学会
の幹部たちは地獄行きが相応だろうが、信心の功徳で餓鬼界どまりで済むのかもしれない。
彼らにはもったいないくらいの救済であろう。

 『折伏教典』(初版 昭和26年11月20日発行)の一部。
  見てのとおり、たわ言の羅列である。本当に頭がおかしい。

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