2019年2月17日日曜日

佐前・佐後

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 日蓮は文永8年(1271年)佐渡島に流罪となり、文永11年(1274年)に幕府から赦免
されるまで、その地に留まった。

 佐渡への配流は日蓮にとって、大きな転機となった。日蓮系宗教で教義上、特に重視さ
れている『開目抄』『観心本尊抄』は、佐渡島で執筆されている。

 また、現在も日蓮系宗教で本尊として用いられている法華経に基づいた曼荼羅――「十
界曼荼羅」「文字曼荼羅」等と呼称される――を、日蓮が図顕するようになったのも、佐
渡島でのことだった。

 日蓮自身、「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とを
ぼしめせ」(『三澤抄』日興写本 北山本門寺)と述べている。

 「爾前の経」とは、天台教学において法華経より前に釈尊が説いたとされる、方便の教
えが説かれた経典のことである。

 つまり、日蓮は「佐渡流罪以降に説いたことが、本当の自分の教えなのだ」と主張して
いるのである。

 こうしたことから、日蓮系宗派では佐渡以降の日蓮の著述を、それ以前のものよりも信
仰上、重要な意義があると認め、「佐前・佐後」という区分を設けている。創価学会であ
れ、日蓮宗であれ、この点は同じである。

 しかしながら、創価学会と日蓮宗とは、大きく教義が異なっている。
 仏像を信仰の対象として認めるか否かも、教義の違いの一つである。

 日蓮宗は仏像を曼荼羅本尊と同じく信仰の対象として認めるが、創価学会は彼らが用い
ている曼荼羅本尊だけが正しい信仰の対象だと主張し、仏像を礼拝することはない(仏像
を否定する教義は、日蓮正宗から受け継いだものである)。

 この信仰上の立場の違いが、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』と、創価学会
が刊行した『日蓮大聖人御書全集』の内容にも影響を与えている。

 日蓮遺文に『木絵二像開眼事』(真蹟 身延曾存)というものがある。日蓮はこの著述で
「仏像や仏画の開眼供養は法華経でなければならない」と主張している。一部を示す。


>  法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏な
> り、草木成仏といへるは是なり
 (中略)
>  法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死
> するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命
> をうばふ


 この遺文では、日蓮は法華経で開眼供養した仏像・仏画について、それを信仰すること
を否定してはいない。問題はこの遺文が、日蓮の生涯のどの時期に書かれたかである。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』では、この遺文の書かれた時期を文永10年(1273年)として
いる。つまり、佐渡流罪中に書かれたということである。

 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも、この遺文は『木絵二像開眼之事』として収録
されているが、執筆された時期は文永元年(1264年)ということになっている。

 『木絵二像開眼事』には日付が記されていない。だから、いつ書かれたかについて、見
解の相違があっても不自然ではないのかもしれない。 

 しかし、日蓮が「佐後」に仏像を信仰の対象として認める文章を書いていたとあっては、
創価学会にとって都合が悪いのも確かである……。

 仏像の開眼供養について言及した日蓮遺文は他にもある。建治2年(1276年)に弟子の
四条金吾へ書き送った手紙には、以下の記述がある。


>  されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千
> の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二に
> は五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは
> 草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木
> と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。
 (中略)
>  此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優塡大王の木像と影顕王の木像と一分も
> たがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ
> 給ふべし。
(『四条金吾釈迦仏供養事』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮は手紙には日付を記していたので、『四条金吾釈迦仏供養事』が建治2年(1276年)
つまり「佐後」に書かれたものであることは間違いない。

 創価学会の本尊に関する主張は、日蓮正宗から破門されて、その総本山大石寺に安置の
「一閻浮提総与の大御本尊」を礼拝できなくなってから、支離滅裂としか言いようがない
ほど混乱したものとなっているが、実は、日蓮正宗の本尊についての教義からして、日蓮
の教えに忠実だったとは言い難いのである。

 創価学会は「本尊の正邪をわきまえないと必ず不幸になる」(『折伏教典』)などと主
張し、謗法払いと称して入信者には仏像等、それまで信仰してきた本尊を捨てさせてきた。

 法華経は多くの伝統宗派で読誦される大乗仏教の重要教典である。創価学会が謗法払い
させてきた仏像の中にも、法華経により開眼供養されたものもあったのではないだろうか。

 その一方で創価学会は「御書根本」を掲げ、日蓮遺文に忠実な信仰を行っているのは自
分たちだけだとも誇ってきた。

 私はブログ執筆の題材とするために、少しばかり日蓮遺文を読んだだけだが、創価学会
に「御書根本」を自称する資格があるとは、とうてい思えない。

 創価学会によると「仏法に背くと仏罰があたる」そうである。「仏罰」なるものが本当
にあるものならば、それを受けるべきなのは、無体な謗法払いをやってきた学会員の方で
あろう。