佐渡島に配流中の日蓮が、信者に向けて送ったとされる手紙に『弥源太殿御返事』とい
うものがある。
この手紙で日蓮は、自らの出生地である安房の国に伊勢神宮の御厨――神社に寄進され
た荘園――があることを誇り、そこに生れたのは「第一の果報」と言っている。また、天
照大神は「此の国の一切衆生の慈父悲母なり」とも述べている(当該箇所は補足で引用)。
この記述を読む限り、日蓮が神祇信仰を否定していたとは、とうてい思われない。
だが、この遺文には日蓮の真蹟も古写本も現存していない。確実に日蓮が書いたとは、
断定できないのである(偽書だと断定されているわけでもない)。
日蓮は、伝統宗派の祖師の中で最も多くの文書を残しているが、日蓮遺文とされてきた
古文書の中には、偽書であることが明らかになったもの、その疑いが強いものが多数含ま
れている。
日蓮の遺文集の中で最も権威があるのは、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』
である(日蓮の真蹟遺文を最も多く保有しているのも、日蓮宗の中山法華経寺)。
『昭和定本日蓮聖人遺文』では、正編に「真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確
実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統的に重要視さるるもの」が、続編に
「真偽の問題の存するもの」が収められている。
「真蹟現存せざるも真撰確実なるもの」とは、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、
明治8年(1875年)の大火で焼失したもの――「真蹟曾存」と呼ばれる――と、日蓮在世
中に直接その教えを受けた弟子(日興・日進・日目など)による古写本が現存しているも
のとをいう。
続編に収められている「真偽の問題の存するもの」は、実際にはそのほとんどが偽書と
見られているそうである。
真偽が議論になるのは、正編に含まれている「真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統
的に重要視さるるもの」である。このカテゴリーに属する遺文の中には、現在では偽書の
疑いが強いとされている『三大秘法稟承事(三大秘法抄)』も含まれている。
日蓮遺文の真偽について学術的な研究を行っている学者の中には、日蓮系宗派の僧侶も
兼ねている方も少なくないという。当然、その主張にはそれぞれの信仰上の立場が反映さ
れることになる。
こうした問題を回避するために、真蹟遺文のみを参照して日蓮の思想を論じようとした
り、後世の写本しか現存しない遺文の中にも日蓮によるものが含まれている可能性がある
と考え、文体や語彙の厳密な分析を試みたりと、学者の中にも様々な立場があるという。
私は宗教学にも文献学にも、まったくの素人にすぎない。だから学術的なことに関して
は、専門家の研究に敬意を表することくらいしかできない。
しかし、信仰上のことについてなら、一個人として物申すことくらいは許されると思う。
日蓮は他の祖師たちと同様に、信仰の対象となっている人物である。語り伝えられてき
たその事績は、多くの伝説で彩られている。
そうした伝説はほとんどの場合、史実とは言い難い。また、日蓮系宗派の教義の中には、
日蓮の真蹟遺文に根拠があるとは言い難いものもある(日蓮正宗や創価学会が掲げる「日
蓮本仏論」は、その典型である)。
※ 日蓮正宗や創価学会が「日蓮本仏論」の根拠としてきた『百六箇抄』『本因妙抄』
『産湯相承事』は偽書である。
一個人の信仰として、あるいは信仰を共にする集団の内部でなら、史実の裏付けのない
こと、実際の宗祖の教えと異なることを信じるのも自由である(当然だが、「本当の宗祖
の教えは何か」を探求したり、信仰をやめたりするのも自由である)。
例えば、カトリックの信者が聖人の加護を祈ったり、四国の霊場巡りをする人が、「同
行二人」――弘法大師空海が巡礼者に付き添ってくださるという信仰――を信じたりした
からと言って、それを批判するのはどうかと思う。
「日蓮本仏論」だって、個人で信じるだけなら当人の勝手である。
だが、個人での信仰の範囲を超え、他者の内面の自由にまで立ち入ってくるとなると、
話は別である。
思想や信仰を異にする者をも納得させるには、客観的に検証しうる事実や学問的な裏付
けを提示することが必要である。
しかるに創価学会は、何の根拠もない思い込みを「唯一絶対に正しい」と主張して、強
引な折伏を繰り返してきた(昨年11月18日の創立記念日に合わせて打ち出した方針でも、
今後とも折伏を重視するとしている)。
創価学会が「末法の御本仏・日蓮大聖人が説き明かされた世界最高の仏法哲学」だと言
い張ってきた言説の中には、偽書に基づいているものもある。
池田大作がしばしば引用してきた「色心不二なるを一極と云う」という言葉がある。こ
の文言の出典は『御義口伝』である。
『御義口伝』は日蓮による法華経講義を弟子の日興が書き記したもの、ということにな
っているが、日興筆の原本も古い時代の写本も現存しない。それどころか、現代では偽書
と見なされている。
また、日蓮真蹟に由来する言葉であっても、それだけで普遍的真理であることには、当
然ならない。日蓮もまた一人の人間であり、人間であるが故の不完全さや、彼が生きた時
代の制約を免れることはできないのだから(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。
創価学会は、日蓮の思想を成立せしめた歴史的背景や当時の社会事情等の文脈をまった
く無視したり、あるいはご都合主義的な解釈を施したりし、それどころか本当に日蓮の教
えかどうかの検討さえも怠って、自分たちの根拠薄弱で矛盾だらけの教義を「御本仏大聖
人が開示した真理」だとか、「創価学会に入らないと地獄に堕ちる」だとか強弁し、他人
にゴリ押ししてきた。
こうした姿勢は、根拠のある説明を欠いているという点で、彼らの折伏の標的とされた
人々に対して不誠実であるというだけでなく、日蓮の思想を真摯に探求しようという姿勢
を欠いているという意味では、日蓮に対しても不誠実である。
ほとんどの創価学会員は、「唯一絶対に正しい自分」に陶酔しているだけで、他人の迷
惑に対する斟酌や、「本当に正しいと言い切れるのか」を突き詰めようとする知的誠実さ
が欠如した、どうしようもない連中なのだと言わざるを得ない。
補足 『弥源太殿御返事』からの引用(末尾部分)
> 其の上日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼の国は天照太神のすみそめ
> 給ひし国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出だし給ふ。あはの国御くりや
> なり。しかも此の国の一切衆生の慈父悲母なり。かかるいみじき国ならん。日蓮又彼
> の国に生まれたり、第一の果報なるなり。此の消息の詮にあらざれば委しくはかかず、
> 但おしはかり給ふべし。
> 能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあかなくして所願を成就し給へ。女房にも
> よくよくかたらせ給へ。恐々謹言。
※ 本文で述べたとおり、この遺文には真蹟も古写本も現存しないが、信仰上重視され
てきた。創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも収録されている。
また、真偽は定かではないものの、日蓮には比叡山や高野山等に遊学していた頃に、
伊勢神宮に参拝したとの伝承もある。