2019年3月10日日曜日

創価学会の二枚舌

 聖教新聞のテレビCMを見れば分かるように、近年の創価学会は対外イメージの改善に
大きく力を入れている。

 かつての聖教新聞には、他の宗教を邪教呼ばわりする記事が毎日のように掲載されてい
たが、最近ではそのような記事は見られなくなった。

 だが、こうした変化を「創価学会が穏健化し、宗教的寛容を身につけた」と受け止める
わけにはいかない。

 学会員から折伏を受けた経験がある方には同意いただけるはずだが、創価学会の排他的・
独善的な体質は、以前と何も変わってなどいない。彼らは上辺を飾ろうとしてるだけだ。

 現在の創価学会が、カルトとしての実態を隠蔽するために弄している美辞麗句の一端を、
まずご覧いただきたい。

 広く浸透している「創価学会は排他的で独善的な新興宗教」とのイメージを払拭するべ
く、『池田大作 名言100選』なる本が出版されている。

 この本は創価学会の外郭出版社ではなく中央公論新社から刊行されており、学会員のみ
ならず、一般層をも読者として想定していると考えられる。

 その内容も、いかにも良識的で、一般からの受けがよさそう、といった感じのご立派な
文言が並んでいる。一部を引用する。


> 信仰と知性

> いかなる宗教であれ、排他や独善に陥らず、その包括性や受容性を維持していくには、
> 良識ある知性の力こそが、必要なのである。
 (『池田大作 名言100選』116ページ)


> 宗教間対話

> 仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教
> 徒である前に、人間である。対話を通して、人間性という共通の大地に目を向け、友
> 情が生まれれば、そこから互いの長所も見えてくる。学び合おうとする心も生まれる
> のだ。
 (同、120ページ)


 著者である池田センセイの、高潔なお人柄がうかがえるご高説である。
 「自分たちが過去にやってきたことを棚に上げて、よくも抜け抜けと」という、憤りを
禁じえないのは私一人だけではあるまい。

 『池田大作 名言100選』にあるキレイゴトの数々は、創価学会の真の実態を覆い隠すた
めの方便に過ぎない。
 そして創価学会は、本音の部分では今でも他の宗教を否定し続けている。

 現在、創価学会が折伏のマニュアルとして用いている『仏法対話のすすめ』という書籍
がある(創価学会の外郭企業である第三文明社から刊行されている)。

 『仏法対話のすすめ』には、かつての『折伏教典』ほど過激な言葉は用いられてはいな
いものの、その内容は相当に排他的である。例えば、こんな具合である。


>  例えば、釈尊の教え残した仏教の中でも、最高峰である法華経も、現在では功徳が
> ありません。それは、釈尊自身が、自分の死後、二千年以後を「末法」の時代といっ
> て、私の正しい教えも功徳がなくなってしまう、と予言しており、現実もその通りに
> なっているからです。したがって、法華経以下の他の経典によっている仏教の諸宗派
> に、功徳がないのは当然でしょう。教えに人を救う力がないために、僧侶は葬式や法
> 事で生活をしているのです。
>  釈尊の教えが人々を救う力を失っている現在、生活のうえに生きている「力のある
> 宗教」は、日蓮大聖人の仏法しかありません。

 ※ 功徳とは「来世や現世で幸福をもたらす善行」のことだが、そこから転じて「信心
  によるご利益」の意味でも用いられる。創価学会では、後者の意味で使うことがほと
  んどである。


 釈尊を否定する創価学会に、「仏教」を名乗る資格があるのだろうか。
 法華経が最高峰の教典だという主張は天台教学に由来するが、日蓮が生きていた鎌倉時
代には天台教学には権威があったにせよ、現代の仏教学では、法華経は釈尊滅後、数百年
後に成立したとされている。創価学会は、このことをどう考えているのだろうか。

 それに法華経に「功徳がない」のなら、なぜ創価学会では、朝夕、法華経の方便品・如
来寿量品を読誦するのだろうか。法華経の正式名称である「妙法蓮華経」に南無を冠して
唱えるのだろうか。短い一節ではあるが、突っ込みどころ満載である。
 『仏法対話のすすめ』には、独善的な記述がまだある。


>  釈尊が予告した通りに、末法に出現したのが、日蓮大聖人であり、その教えの通り
> 実践している唯一の教団が創価学会なのです。ですから、釈尊から日蓮大聖人へ、
> 「仏」と「法」のバトンタッチがされており、現在では日蓮大聖人の仏法のみが、人
> びとを救う力がある「生きた宗教」だからです。
>  現実に、日本の仏教の各宗派は、「葬式仏教」と呼ばれているように、葬式や法事
> をするだけの存在になりさがっており、仏教の目的である人びとを救い、仏にする力
> など、まったく失っています。


 創価学会だけが人を救う力がある「唯一の教団」であり、伝統仏教の各宗派には「仏教
の目的である人びとを救い、仏にする力」など、まったくないのだという。これが独善で
なくて、何であろうか。

 『池田大作 名言100選』は、平成22年(2010年)に出版された。
 『仏法対話のすすめ』の初版は平成11年(1999年)だが、第2版が平成21年(2009年)に
刊行され版を重ねている(ちなみに私が入手したものは、2018年発行の第2版第9刷)。

 創価学会は一般向けに出した本には、さも物分かりがよさそうで寛容な印象を与える文
言を並べておきながら、それと同時期に内部向けに出版した勧誘のマニュアル本では、独
善性・排他性をむき出しにしているのだ。まさに二枚舌である。

 創立当時から変わることなく「排他や独善に」陥り続けてきた創価学会には、「良識あ
る知性の力」が根本的に欠落しているのだろう。

 創価学会・公明党がいかに美々しいイメージで外見を飾り、猫なで声で平和や人権を説
こうとも、決して信用してはならない。彼らの本質は、昔と変わらずカルトのままなのだ。


補足 「葬式仏教」についての私見

 「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教のあり方の是非については、様々な意見があろうが、
近代以降の聖俗が分離した社会では、宗教の占める場所が小さくなったのはやむを得ない
ことであり、創価学会のように宗教が大きな役割を占める社会を目指すのは、前近代への
逆行に他ならない。「葬式仏教」の方が、創価学会よりもまだずっと健全だと私は思う。

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