2019年5月19日日曜日

狂信者の心理

 当ブログをご覧の中には、過去に創価学会員から折伏を受け、彼らに何を言っても話が
通じず、辟易させられた経験がある方もいらっしゃることと思う。

 学会員は他の宗教をすべて否定するが、創価学会だけは正しいと言える理由について、
まともな説明をすることはない。

 私は、これまでに『人間革命』等の創価学会の出版物に、それなりの数、目を通してき
たが、それらの中にも創価学会の正当性について、外部の人間を納得させられる根拠を示
しているものはなかった。

 一般的には、何らかの主義主張を訴える人間は、自説の根拠を提示することで他人を説
得しようとするものである。

 例えば、地球温暖化対策の必要性を訴える者は、二酸化炭素等の温室効果ガスの増加が
地球の平均気温を上昇させ、それに起因する気候変動が人類の存続に対する脅威となりか
ねない等の説明をするであろう。

 それに対し温暖化対策の必要性に懐疑的な者は、前提となっている温室効果ガスや気候
メカニズムについての科学的データの妥当性や、対策に要するコストの費用対効果を論じ
ればよい。

 客観的に検証可能な論拠を双方が提示することで、どちらがより妥当かを合理的に判断
することができるし、結論が出なかったとしても、双方の主張がより整理され、洗練され
たものとなるなど、実りある成果が得られるはずである。

 しかし、創価学会員を含めたカルト信者は、自分たちと異なる信仰を憎悪し否定するこ
とには熱心だが、自説の正当性を論理的に提示しないので、まともな対話が成り立たたず、
彼らと議論しても徒労感しか残らない。

 今回は、こうした狂信者の心理について、20世紀のアメリカを代表する知識人の一人、
エリック・ホッファーの『大衆運動』(高根正昭 訳 原題:THE TRUE BELIEVER)に基
づいて論じたい。

 『大衆運動』は、宗教改革、民族主義運動、共産主義革命、ナチズム等の社会に変革を
もたらした社会運動をテーマとしており、中でもそれらの運動の推進力であった狂信的な
信奉者の分析に焦点が当てられている。

 現在の創価学会は体制の補完勢力に堕しているように見えるが、勢力の拡大期であった
昭和20年代後半から30年代にかけては、「国立戒壇」の実現など、現行憲法の下では実現
不可能な目標を掲げていた。

 ホッファーは、体制の変革を目指す大衆運動に身を投じるのは、現状への欲求不満を持
つ人々だとし、次のように述べている。


>  欲求不満をもつ者は、みずからの欠点によって打ちひしがれ、自分の失敗を現存す
> る束縛のせいにする。ほんとうのことをいえば、彼らの心のいちばん奥底にある願い
> は、「万人のための自由」に終止符を打つことなのである。彼らは、自由競争と、自
> 由社会内部の個人がまぬがれることのできない無慈悲な試験とを除き去ってしまいた
> いのである。
 (『大衆運動』P-38)

>  大衆が切望する自由は、自己表現や自己能力達成の自由ではなくて、自主的存在と
> いう堪え難い重荷からの自由なのである。彼らは、「自由な選択というおそろしい重
> 荷」から自由になることを、そして無力な自己を自覚し、傷つけられた結果への非難
> をひき受けるという骨の折れる責任から自由になることを求めている。彼らは、良心
> の自由ではなくて信仰を――つまり盲目的、権威主義的な信仰を――求めている。
 (同書 P-160)


 創価学会の拡大期にその信仰に身を投じたのは、新規に都市住民となった中でも、学歴
のない人々だった。

 高等教育を受けていないために、専門的な知識や技能を身につけておらず、自由競争の
下で社会的地位を上昇させられる望みの薄い人々にとって、創価学会の独善的で権威主義
的な教義は魅力的だったのである。

 「末法の御本仏・日蓮大聖人」という至高の存在の前では、現実社会の様々な競争や試
練も、その結果としての優勝劣敗も、等しく無意味なものとなる。

 いや、自由競争の勝者といえども、唯一絶対の信仰を受け入れないならば、来世で地獄
に落ちて当然なのだ。みじめな現実から逃避したい者にとって、この幻想は蠱惑的だった。

 当然ながらその教義は、人生のすべてを賭ける価値がある、絶対に正しいものだと信じ
られるものでなければならない。
 ホッファーは、そのような教義の条件は「理解されないこと」だと述べている。


>  それゆえ、教義が効果的であるためには、明らかに、それは理解されてしまっては
> 困るのであり、信じ込まれなければならない。われわれは、まだ理解していないこと
> にだけ絶対的な確信をもつことができるのである。教義は、理解されると、その力を
> 奪われてしまう。いちどわれわれが一つの事を理解すると、それは、まるでわれわれ
> の内部から生じたかのようになる。そして、自己を捨て、自己を犠牲にすることを要
> 求されている人びとが、その他ならない自己の内部で生じた何物かに、永遠の確実性
> があるなどと考えることのできないのは明らかである。彼らが、ある事物を完全に理
> 解するということは、彼らにとって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つ
> けられるということなのである。
 (同書 P-91)


 ある考えを理解することは、その考えが自らの着想したものと同様に内面に刻まれ、い
つでも引き出せるようになることを意味する。

 自分自身の意志と能力で、道を切り開き、競争を勝ち抜くことを断念した者にとっては、
完全に理解され「自分の考え」と同様になってしまった思想は、自己がそうであるように、
人生を賭ける価値などない、頼りないものでしかないのだ。

 普通の人は、自分が正しく理解できていると感じるからこそ、信念に自信を持つものだ
が、狂信者が求めるのは、自分には理解できないが、それ故にこそ「絶対に正しい」と感
じられる教義なのである。

 だからこそ、創価学会員をはじめとするカルト信者は、「自分たちが信じるものは絶対
に正しい」と主張するにもかかわらず、その理由をきちんと説明できないのだ。

 現在の創価学会では、第一世代の多くは世を去るか高齢化し、二世三世が主流となって
いる。二世三世の中には、高度な教育を受け、社会的な成功を収めているにもかかわらず、
狂信的な信仰を受け継いでいる者もいる。

 熱心な創価学会の家庭で育てられた者は、幼少時から何ごとにつけて「御本尊のおかげ」
と教えられるために、自己の才覚や努力で成し遂げたことであっても、それを自分の実力
と思えなくなってしまうのである。

 マインドコントロールにより、心の奥底に自己否定が刻まれた者は、それなりの知性が
あっても、狂信に身を委ねざるを得なくなるのだ。カルトの悪弊が、世代を超えて伝播し
てゆくのである。

 先に引用したように、ホッファーは「ある事物を完全に理解するということは、彼らに
とって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つけられるということ」だと指摘し
ている。

 学会員がマインドコントロールから解放されるためにも、創価学会について、自分で考
えることが効果的なはずである。

 当ブログでも指摘してきたように、『人間革命』や『折伏教典』をその内容を検証しな
がら読めば、創価学会がおかしいことはすぐに分かる。

 本稿をお読みの学会員がいらっしゃれば異論が出そうだが、そんな方には、折伏や仏法
対話をする際に、相手の宗教を否定するだけでなく、「創価学会は唯一絶対に正しい」と
誰もが納得せざるを得ない根拠を、示せるようになっていただきたいものである。

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2019年5月12日日曜日

功徳とバチ

 創価学会員から何度もしつこい投票依頼を受け、迷惑しているのでやめて欲しい旨を伝
えたのに、それでも同じことを繰り返され、困ったことがある人は現在でも多い。

 直接に学会員から被害を受けた経験がなくても、インターネットや書籍で創価学会が貧
しい会員からも、財務などの金集めを行っていることを知り、その理不尽さに義憤をおぼ
えた方もいらっしゃるはずである。

 創価学会員が非常識な行動を取ったり、道義にもとる振る舞いをしたりする理由は何だ
ろうか。

 結論から述べると、カルト信者はマインドコントロールを受けているため、常識的な判
断力が麻痺してしまっているのである。

 創価学会員について言えば、「正しい信仰――すなわち創価学会――は功徳(ご利益)
をもたらし、誤った信仰をしたり信心をサボったりすればバチがある」という思い込みが、
彼らの行動を制約している。以下、具体例の挙げて検証する。

 創価学会は、公明党議員の口利きで、学会員による生活保護の申請がとおり易いように
図らっている一方で、生活保護を受給している者からも財務やマイ聖教で収奪してきた。

 当然のことながら、そうした実態はマスコミ等から強い批判を受けた(「公明党による
口利きの代価」参照)。

 さすがの創価学会も行動を改め、近年は「生活保護の受給者には財務をさせないように」
との指導を本部がするようになったという。

 だが、この指導は実際には形骸化しているとの告発もある。
 かつて婦人部の活動家だったというMeさんのブログ「創価と引寄せと私」に、彼女が
学会活動をやめるきっかけとなった出来事が記されている(脱会したわけではないとのこ
と)。

 それによると、広布部員(財務をする人)を増やすようにとの目標を、上層部から示さ
れた際、ノルマを達成するために幹部が働きかけて、生活保護を受給している学会員にも
財務の申し込みをさせた。

 この出来事にMeさんは衝撃を受け、非活になることを決意したそうである。
 創価学会は、良識ある人間にとって耐えがたい組織なのだ。

 「生活保護を受けている人には財務をさせるな」という指示が本部からあったにもかか
わらず、地域レベルの幹部がそれを守らなかったのは、なぜだろうか。

 無理をしなければ達成できないようなノルマを提示した上層部にも問題があると言える
が、より根本的なのは、多くの学会員、特に幹部たちが、「生活が苦しい人にお金を出さ
せるのは気の毒だ」という、常識的な判断が出来なくなっていることにある。

 学会員は「創価学会のためにお金を出せば功徳になり、福運がつく」と、本気で信じて
いる。だから「生活保護受給者はお金に困っているかもしれないけれど、財務をすれば功
徳があり、そういう境涯から抜け出せるはず」と考える。良心の呵責など感じないのだ。

 もし、財務をした人に具体的なご利益がなくても、それは「当人の信心が足りないから」
であり、財務をさせた幹部が責任を感じることはない。

 常識的・道徳的な思考よりも、功徳やバチに基づいた判断の方が、創価学会では尊重さ
れるのである(信仰の論理よりも常識を優先させる者は、「世法に流されている」という
批判を受け、信仰心が薄い人とみなされる)。

 創価学会はその創成期から、聖教新聞や幹部の指導等を通じて「功徳とバチ」を優先す
る考え方を、学会員たちに刷り込んできた。一例を示す。

(『聖教新聞』昭和30年〔1955年〕12月18日付)

 このように創価学会の出版物では、「財務をすれば功徳がある」と強調されていたが、
当然ながら外部の観察者はより冷静な見方をしていた。

 『宗教と信仰の心理学』(小口偉一 編著 初版:昭和31年〔1956年〕)には、当時、世
間を騒がせていた新興宗教の幹部や一般信者に対する、宗教学者による聞き取り調査がま
とめられている。この本には、創価学会員の証言も収録されている。

 証言しているのは、生活費を稼ぐために日雇い労働者をしているという43歳の未亡人で、
十分な教育を受けておらず、決して豊かとは言えない人物である。
 創価学会は、こうした信者にも金を出させていた。以下、引用。


 (前略)
>  昨年も寄付いってきて五〇円だしましたが、今度もまたあったんです。出しません
> でした。女の細腕一つではできませんからねえ。昨年はお山へ行くと泊るところを建
> てるというので、二〇〇円いってきたんです。五〇円でかんにんしてもらったんです。
> 最初から五〇円といってくれればいいですね。困る人ほど多く出して貰わねばならな
> いとその時いわれたんです。その時不満を感じるとバチが当るというんですねえ。怨
> 羨をするとバチがあたるといいます。テキメンに来ることがあります。弁当箱忘れて
> なくしたり。
 (中略)
>  本買って読まなきゃいかんといわれるんですけどねえ。買えないし、つかれて読め
> ないし、わたしどうしたらよいかわからないんです。


 この女性の証言は以上である。
 「困る人ほど多く出して貰わねばならない」という指導には、「創価学会のために多く
の金を出せば、それが功徳になって宿命転換できる(今の貧しい境涯から抜け出せる)」
という含意があったと考えられる。

 『宗教と信仰の心理学』の著者は、証言に続けて次のような感想を述べている。


>  教団の幹部にこのような実状を話すと、末端の行きすぎであると答えられるだろう
> が、バチにおののく気の毒な女性が第三者の胸をうつにちがいない。案外こういった
> 信仰によって教団の支えられている点が大きいのではないだろうか。創価学会の会長
> はいっている「もうからない御利益のない信仰なんかやめたらよい。もうかるから、
> 病気が治るから信仰するんですよ」「バチはテキメンですね」と。


 創価学会は、誰の人生にも起こり得る様々な出来事を「功徳とバチ」で説明し、信者に
「創価学会の信仰だけが功徳をもたらす」と吹き込んできた。

 「功徳とバチ」の実体は、たいていの場合、ただの思い込みである。この一円の元手も
かからないアメとムチにより、創価学会は信者を支配してきた(時として、人為的な嫌が
らせを「仏罰」だと言い張ることもあるが……)。

 創価学会員は強引な勧誘等の迷惑行為を、組織を挙げて行っているが、常識に基づいて
そのようなことをやめるように説得しても、冒頭でも述べたとおり、たいていの場合、功
を奏しない。

 日常の些細なことまで「功徳とバチ」のせいにする学会員にとっては、学会員でない者
が苦しんだり困ったりすることは、「正しい信仰をしていないことによるバチ」であり、
自らの信仰の正しさを実証することなのだ。

 また、他人の苦境につけ込んで勧誘し、聖教新聞を取らせたり、財務等で金を出させた
りすることは、「功徳を積ませて宿命転換させ、救ってあげるため」なのである。

 学会員に常識を取り戻させ、迷惑行為をやめさせるには、まずマインドコントロールを
解くことが必要なのである。

 当ブログを閲覧されている方の中にも、創価学会に疑問を持った学会員もいらっしゃる
ことと思う。そのような方には、インターネットや書籍等で多くの情報に触れ、何が正し
いかを自分自身で考えることをお勧めしたい。

 思考停止に陥っていることに気づき、理性的な判断を取り戻すことが、カルトの支配か
ら逃れ、真っ当な人生を始める第一歩となるはずである。


補足

 当ブログも開設して2年が経過し、投稿の数もとうに100を超えた。それらの記事の中で
最も多く閲覧されているのは「池田城久の死」である。

 この記事がかくも注目された理由は、創価学会において信心の師匠とされ、「私には福
運がある」「私が祈って死んだ人はいない」と豪語していた池田大作が、後継者候補とし
て期待をかけていた実の息子を救えなかったという事実が、多くの創価学会員にとって衝
撃的だったからではないかと愚考する。

 外部の一般人にとっては当然のことだが、創価学会の信仰には、超自然的な病気の治癒
をひき起こすような「功徳」などないのだ。

 ありもしない「功徳」への期待をエサに、財務やマイ聖教で信者たちから金を巻き上げ
る創価学会が、インチキ宗教でなくて何であろう。

 絶対に正しいと信じ、心の支えとしてきた信仰がマヤカシだという事実を直視すること
は苦痛だと思う。でもそれを避けていては、地に足をつけて生きることはできない。

 一人でも多くの学会員が、真実を直視することでマインドコントロールから解放され、
より健全な人生を歩めるようになってほしいと思う。当ブログがその一助となれば幸甚で
ある。

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2019年5月5日日曜日

創価学会の行く末

 令和に改元されて最初の記事となる本稿では、創価学会の今後について考える。
 ありのままの実態を物語るエピソードのほぼすべてが根深い反社会性を示し、嫌悪や冷
笑を呼び起こすものばかりのカルトが、これからも生き残ることができるのだろうか。

 創価学会の公称世帯数は、過去十数年間、827万世帯から変化していない。この数字は
入信者に配布した本尊の累計らしいが、明らかに過大な数字であり、そのまま受け取るこ
とはできない。創価学会がこの十数年間、まったく衰えていないとは信じがたい。

 先に統一地方選挙でも、公明党候補者のほぼ全員を当選させていることから、信濃町の
本部は、学会員の実数をかなり正確に把握していると考えられるが、彼らがそれを公表す
ることも期待できない。

 だが、多くの学会員・元学会員のブログを読む限り、最盛期の頃と比較して、座談会等
の会合の出席者は減少し、男子部や女子部の活動家も少なくなっているようである。社会
全体の趨勢を上回るペースで高齢化が進んでいるのは確かだろう。

 したがって、創価学会の今後についての予想も、衰退は確実であることを前提とするこ
とが妥当であろう。

 考えられるシナリオは、衰退のスピードが急激か、緩やかなものとなるか、あるいはそ
れらの中間ということになる。 

 そこで、旧ソビエト連邦と日本共産党の事例を参照して、創価学会の今後について考察
してみたい(中間については、様々なバリエーションがあり得るので割愛する)。

 旧ソ連邦は東西冷戦の一方の雄であり、米国と並ぶ超大国でもあった。そのソ連が簡単
に瓦解することになるとは、大部分の人は予想していなかった。

 1989年に東欧諸国で民主化革命が相次ぎ、ベルリンの壁も崩壊した。90年には東西ドイ
ツが統一し、そして91年にはソ連も脆くも崩壊した。

 創価学会も何らかの出来事――おそらくは池田大作の死――をきっかけに、学会員のモ
チベーションが低下、選挙で公明党議員の落選が相次ぎ、それが更なる信仰離れを招くと
いう循環に陥ることも考えられる。

 一度、衰退が始まると、坂を転がり落ちるように組織のタガが緩み、不祥事や組織の分
裂などの混乱が連鎖し、雪崩をうって瓦解することもあり得るかもしれない(個人的には
そうなってほしいと思う)。

 もう一つの可能性は、日本共産党のように、しぶとく存続し続けるというシナリオであ
る。日共はソ連消滅という、共産主義の敗北を証明する決定的な出来事があったにもかか
わらず、現在もなお一定の支持を集め、当面のところ崩壊しそうにはない。

 左翼の活動家も沖縄の基地反対運動などで、それなりの存在感を示している。かつては
左翼の活動家と言えば大学生という時代もあったそうだが、現在の主力は、定年退職した
かつての学生活動家だという。

 創価学会の活動家も現在は壮年部・婦人部の高齢者がほとんどで、どこの組織も若手の
不足に頭を悩ましている状況らしい。

 しかしながら、高齢化した活動家が病に倒れたり、世を去ったりしても、左翼と同様に
定年退職後に創価学会の活動家になる者により補充され、学会活動も当分は存続可能とい
うことも考えられる。


 創価学会は、ソ連と日共のどちらに類似した運命をたどることになるだろうか。
 旧共産圏諸国の体制が動揺したのは、「資本家に搾取されているはずの西側の労働者の
方が、共産圏の労働者よりも物質的な豊かさを享受している」という情報が広まったこと
が大きかった。

 それに対し、日本共産党の党員やシンパたちには、共産主義の矛盾を示す情報に触れて
も、支持を変えない者が少なくなかった。

 旧共産圏は社会全体を包摂する国家だったので、国民の大多数を占める常識的な人びと
が外部の情報に触れ、共産主義の妥当性を疑うようになった結果、体制を維持できなくな
った。

 一方、日本共産党は社会全体からすれば、ごく一部に過ぎない支持者に支えられている。
狂信的な信奉者の忠誠心をつなぎ止めさえすれば、組織を維持できるのである。この点は
創価学会もまったく同じである。

 こうした観点から考えると、創価学会も日本共産党と同様に急激な崩壊を免れ、相当の
期間、組織を存続させる可能性の方が高そうである。

 だが、その道筋が穏やかな余生のような、波風の少ないものになり得るだろうか。
 かつて一世を風靡した新興宗教のなかには、創価学会が敵視してきた天理教や立正佼成
会のように、緩やかに衰退している団体もある。

 しかしながら、数々のトラブルを引き起こしてきた創価学会には、静かに衰えゆくなど
似つかわしくない。

 新興宗教はいずれも、多かれ少なかれ、騒動や問題を引き起こしてきた過去を持つが、
創価学会のトラブルの多さは別格である。

 折伏大行進、集団替え玉投票事件、投票所襲撃事件、言論出版妨害事件、顕正会との抗
争、日蓮正宗との衝突とその後の破門、池田大作が引き起こした数々のスキャンダルとそ
れを報じたジャーナリズムとの訴訟沙汰等々、世間を騒がせた事例は数多い。

 創価学会は衰退の過程でも、多くの騒動をひき起こし、毒をまき散らしながら自壊して
いくことになると考えた方がよさそうである。

 また、彼らはこれまで多くの敵を作り、恨みを買ってきた。創価学会がはっきりと目に
見える形で力を落とせば、鬱積した憎悪が噴出することになるだろう。

 池田大作というカリスマを失った創価学会が、そうした敵意に耐え、会員たちをつなぎ
止める求心力をどこまで維持し続けられるだろうか……。

 インターネット等で発信されている否定的な情報から目を背け、創価学会だけを盲信し
しがみつく少数の学会員に支えられ、細々と存続していくのかもしれない。

 社会にとってはよいことだが、創価学会には、どう転んでも明るい未来の可能性はなさ
そうである。ましてや、彼らの言う「広宣流布」の実現など、夢物語だろう。

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2019年4月28日日曜日

統一地方選挙(平成31年4月)の結果について

 去る4月7日、21日に、平成最後となる統一地方選挙の投開票が実施された。
 7日は道府県知事、道府県議会議員、政令市の議員等、21日には政令市以外の市長およ
び議員、東京特別区、町村の議員等が選出され、あわせて衆議院の補欠選挙も行われた。

 周知のとおり、前半戦では京都市と大阪市の議会選挙で、公明党の候補者がわずか数票
の差で落選し、「常勝関西」にミソをつけることとなった。

 しかしながら、後半戦では公明党の全立候補者が当選した。
 今年は参議院選挙も実施されることから、学会員の負担を軽減するために、統一地方選
挙では公明党の立候補者を減らす対応を取ったそうだが、それが奏功したのであろう。

 前半戦での思わぬ苦戦に衝撃を受けた各地の学会員たちが奮起したことと、投票率が低
迷したことも、後半戦の「完勝」に影響したと考えられる。

統一地方選における主要な地方議員選挙結果
    (典拠:今回についてはNHK選挙データベース、読売新聞〔平成31年4月23日付〕
        前回については総務省「地方選挙結果調」)

 個別の選挙結果については、すべてを論じることは不可能なので、公明党候補が僅差で
落選した大阪市議会選挙・東成区選挙区と、辛くも全員当選した世田谷区と江戸川区の区
議会選挙に焦点を絞る。

 大阪市議会選挙・東成区選挙区には3議席が割り当てられており、それを今回は4人、前
回は5人の立候補者が争った。東成区の投票率は、53.36%だった(前回は51.76%)。

大阪市議会選挙・東成区選挙区の選挙結果
                      (出典:大阪市選挙管理委員会 公表資料)

 今回、落選した公明党の則清ナヲミ氏は、前回は最下位での当選だった。今回、最下位
で当選した維新の会の海老沢由紀氏と則清氏との得票差は、わずか4票である。

 東成区の投票率は前回よりも1.6%上がっているが、これにより票が上積みされたことが
海老沢氏の当選につながったと見てよいだろう。

 先に述べたとおり、統一地方選後半戦では公明党の候補者はすべて当選したが、その中
には薄氷を踏むような勝利もあった。

 東京都の世田谷区議会選挙(議席数:50)では、公明党の津上ひとし氏が最下位の当選
だった。惜しくも次点だった、すがややすこ氏との得票差は31票だった。

 公明党は、前回の選挙では世田谷区議会選挙に10人を擁立し、全員を当選させたが、今
回は1人減らした9人が立候補した(投票率は43.02%、前回の42.84%より微増している)。
 前回と同じ人数を擁立していたならば、落選者が出ていた可能性は極めて高い。

 また、江戸川区議会選挙(議席数:44)でも、候補者を前回の13人から1人減らしたが、
それでも公明党の中道たかし氏は、43位で辛くもの当選だった。次点で落選した共産党の
須田哲二氏との票差は92票である。

 江戸川区議会選挙の投票率は42.40%で、前回の43.12%よりやや減少している。
 もし、世田谷区や江戸川区の投票率が、あと少し高かったならば、公明党は前回から候
補者を減らしたにもかかわらず、全員の当選は実現できなかったということが十分にあり
得たのである。 

 創価学会・公明党は、現在の得票力と投票率の低迷とを織り込んだ綿密な選挙戦略を立
て、今回の統一地方選挙でも、前半戦で苦汁をなめたとはいえ、後半戦ではすべての候補
者を当選させた。退潮傾向にあるとはいえ、彼らの組織力は現在もなお侮れない。

 反社会的カルトである創価学会と事実上、一体の存在である公明党が、地方議会に大勢
の議員を送り込んでいる現状が、社会にとって好ましいとは思えない。

 そして、そのような事態を許してしまっているのは、有権者の無関心が原因である投票
率の低迷に他ならない。

 一個人にできることなど高が知れていることは十分に承知しているが、それでも創価学
会の危険性を伝える活動を続けなければならないと、今回の選挙結果を見て、改めて決意
した次第である。

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2019年4月21日日曜日

創価学会の光と影

 ほとんどの学会員が、「創価学会は唯一絶対に正しい」と信じているのに対して、それ
以外の大部分の人は、創価学会になどたいして関心がなく、怪しげな新興宗教の一つ程度
の認識しかないか、あるいは折伏等で不快な経験をしたことが理由で、忌み嫌っているか
のどちらかであろう。

 しかしながら、非学会員が執筆した本の中にも、創価学会に肯定的評価をしているもの
もいくらかはある。

 創価学会を評価する理由として、よく挙げられるのが「助け合い」である。
 学会員1世の中には地方出身者が多い。学会員1世は、都市居住1世でもあることが珍
しくないのだ。

 他者との関わりが希薄な都市において、創価学会がムラ社会的な濃い人間関係――互助
や仲間への思いやり――を実現していることに魅力を感じ、入会した者が少なくないとい
うことだろう。そうした濃い関係が、現在でも創価学会の末端組織を支えている。


>  それぞれにドラマがある学会員は、他人の幸せを願い、助け合って生きている。
 (中略)
>  学会員の家族が手術を受けるとなれば、その時間にみんなが集まって題目をあげる。
> 引っ越しも葬儀も応援する。誰かが病気で働けなくなったら、生活保護の手続きをと
> る。夫婦関係の不和、職場の人間関係など悩みがあれば、相談にのって解決する。
>  学会は一つの共同体でもある。
>  学会の現場はきわめて濃密な助け合いのシステムとなっている。
 (中略)
>  社会から創価学会が排他的、顔が一つの組織に見えてしまうのは、学会員同士が濃
> 密な関係にあり、一つの共同体を形成しているからだろう。
 (別冊宝島『となりの創価学会』所収
  米本和広著「荒川区町屋三丁目 下町の学会員さん物語」)


 こうした環境で生まれ育った2世3世にとっても、創価学会特有の密度の濃い人間関係
は、幼少時から慣れ親しんだものであり、アイデンティティーの一部にまでなっているの
かもしれない。

 だが、そこに息苦しさを感じる人もいるだろう。
 創価学会では、個人の住居が座談会などの活動の拠点としても使われている。そうした
家庭では、無遠慮に生活空間に侵入してくる学会員たちのふるまいに耐えねばならないこ
とがままあるという。

 親が熱心な信者であるにもかかわらず、子が創価学会に反発することがあるが、他人に
配慮しない学会員の不躾さが、その理由になることもあるようだ。

 元活動家のブログの中にも、入浴中に浴室に入ってこられた等の経験談を記しているも
のもある。

 学会員同士の距離が近いことによる問題点は、他にもある。濃密な人間関係は創価学会
の搾取的な金集めにも、一役買っているのだという。

 池田大作は、幹部ごとに担当地域を決めて集金額を競わせ、多額の金を集めた者を登用
する一方、実績を上げられない者は冷遇したという(「学会幹部に良心はないのか?」参
照)。

 人間関係のしがらみを金集めのための情報収集に活用することを考え出し、財務で実績
を上げて出世、そのノウハウを全国に広めた幹部がいたとしても不思議ではない。 


>  「組織防衛」にひた走り、ややもすれば(というか相当)硬直化している「信濃町
> 中央(学会本部)」に対し、現場で日々、活動に汗を流している末端の会員は、明る
> く、オープンだと言われる。確かに筆者も個人的に学会員の知り合いは何人かいるが、
> 基本的には「いい人」ばかりである。
>  特に学会活動の中心となっている婦人部の人たちは、選挙になるとちょっとうるさ
> いが、概して明るくおおらかで、世話好きなオバさんが多い。
 (中略)
>  しかし、ある元学会員は、「その『あったかい』とか『世話好き』ってのが、実は
> ミソなんですよ」としたうえで、さらにこう続ける。
>  「確かに組織の末端では、よく『何があったの?』と相談に乗ってくれる。落ち込
> んでいるときは励ましてくれるし、確かに人情味も厚い。しかし、それは逆に言えば、
> 『プライバシー』がないってことなんですよ。そうやってしょっちゅうくっついてい
> るわけだから、家の収入だとか、夫婦関係、子供が抱えている問題とか、いろんな情
> 報がみんな外に漏れてしまう。それを組織がうまく利用しているっていうか、“悪用”
> しているわけです。特に財務の時なんかは、そういった情報が大きい意味を持つ。例
> えば、『あの家は最近、保険金がいくらいくら入った』とかいう話なんてのも内々、
> すぐに伝わるわけだから、幹部が親戚縁者に根回しして、『じゃあ、今回は一千万円
> くらいどうか』と話を持っていくわけですよ。まあ、言っちゃなんだけど、末端の学
> 会員ってのは、“貧乏人でお人好し”が多い。だから、疑うことを知らない。
 (古川利明著『シンジケートとしての創価学会=公明党』)


 濃い人間関係がもたらすのは、助け合いなどの良いことばかりだけではない。自分たち
の中に恵まれた者がいれば、何とかして引きずり下ろそうとする心理も生じやすい。

 内心の妬みを信仰心で偽装し、「幸運に恵まれたのは御本尊のおかげなのだから、御本
尊に恩返ししなければ! 広宣流布のために財務するべき!」と迫る者もいるのだろう。

 学会員は折伏の際、「創価学会は助け合いの組織だ」と言うことがある。 
 彼らは、相互扶助的で麗しい一面だけを印象づけようとし、それと表裏一体のプライバ
シーの欠如や、信心を口実とした足の引っ張り合いについては、外部の人間には語らない。

 創価学会の末端にある濃い人間関係は、2世3世の脱会を阻止するためにも機能してい
る。抜け出したくても抜けられない、蟻地獄のような環境にも見える。

 そのような環境に、本心から居心地の良さを感じている創価学会員が、はたしてどれく
らい居るのだろうか。

 学会員が熱心に折伏を行う動機には、自分たちよりしがらみが少ない生き方をしている
人々をうらやみ、同じドロ沼に引きずり込みたいという願望もあるのかもしれない……。

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2019年4月14日日曜日

書評『親が創価学会』(島田裕巳著)

 『親が創価学会』は、創価学会の家庭に生まれ育った2世が直面する様々な困難に焦点
を当てて執筆されているが、創価学会そのものの解説にもそれなりの紙幅が割かれている。

 著者の島田氏は非学会員向けの概説書として、過去に『創価学会』(新潮新書)をもの
しているが、それと同様、本書も「批判にも擁護にも偏らない」という姿勢で書かれてい
る。

 私は創価批判を目的としてブログを続けているので、本書の主張には同意できない点も
あるが、全体としては優れた内容だと感じた。

 上述のように、本書では創価学会とはどのような団体であるかの解説もなされている。
 具体的には、成り立ちや巨大組織に発展できた理由、日蓮正宗との関係などが記されて
いるが、要領よく的確にまとめられており、その内容には説得力があった。

 また、創価学会の複雑な地方組織について、宮城県や山形県を例として説明されている
など、これまでに出版された創価学会に関する本にはなかった情報もある。

 多額の金銭負担についても言及されており、島田氏は「私の知り合いには、一家で数千
万円を創価学会に出したという人間がいる」と述べている。

 別の個所では、過度な熱狂から多額の金を出すのは「ポトラッチ」――北米先住民が力
を誇示するために行っていた私財の蕩尽――だとも指摘している。宗教学者らしい卓見で
ある(かなり辛辣だとも思う)。

 本書の主要なテーマである、創価学会の2世信者が直面する困難についても、学ぶとこ
ろがあった。

 創価学会は簡単にはやめられない組織だと言われる。2世ならば、なおさらそうである。
 本書ではその理由の一つとして、創価学会が各信者の住所・氏名等の個人情報を把握す
るために設けている「統監カード」を挙げている。

 2世信者が創価学会と縁を切りたいと思い、新たな住所を報告せずに引っ越したりして
も、親が熱心な学会員であった場合、自分の子も信仰を続けることを望み、引っ越し先を
創価学会に届け出るので「統監カード」にもそれが記載され、その結果、新しい住居にも
現地の学会員がすぐ家庭訪問してくるのだという。

 島田氏は「なんとしても創価学会をやめたいのであれば、家族との縁を切るしかない。
そういうことは十分に起こり得る」とまで述べている。

 また、学会員が非学会員と結婚しようとした場合に生じる困難についても述べられてい
る。本書には、創価学会2世の男性と、顕正会2世の女性がつき合い、同棲までしたものの、
双方の親が信仰のことで衝突し、別れることになった事例が紹介されている。


 興味深い内容が多く記されているとはいえ、先に述べたように、私としては同意できな
い箇所も本書には複数ある。

 特に看過できないのは、池田大作に関する記述である。島田氏は池田の印税収入につい
て、過去のインタビューを参照して、次のように述べている。


>  ところが、池田氏本人は、月刊誌『現代』(講談社)の一九八〇年四月号に掲載さ
> れたジャーナリストの内藤国夫氏によるインタビューのなかで、「聖教新聞社からの
> 出版物の印税は、いっさいいただいておりません。それ以外の出版社の場合、いちお
> ういただきますが、税金を払った残りは大学や学園に寄付しております」と語ってい
> た。『人間革命』や『新・人間革命』は聖教新聞社から出版されている。
>  内藤氏はすでに故人だが、創価学会に批判的なジャーナリストで、創価学会批判の
> 本を何冊も刊行していた。その内藤氏が、創価学会の資産形成に池田氏の印税が大き
> く寄与していることを前提に話を聞いている。その点からすると、池田氏の語ってい
> ることは事実と考えていいだろう。


 内藤氏は『現代』1980年7月号で、このインタビューの反響について記事を書き、清貧
の指導者を演じて見せた池田の受け答えについて、「ウソ八百もいいところ」との内部情
報が寄せられ、池田の「美術品そのほかの創価学会財産の私物化は目に余るものがあるそ
うな」と述べている(「清貧の人? 池田大作」参照)。

 島田氏がそれを知らなかったとは考えられない。
 そもそも、島田氏は前著『「人間革命」の読み方』で、『人間革命』の本当の執筆者は
篠原善太郎氏だったことを指摘している。内藤氏からのインタビューで池田が語った印税
の寄付が事実だったとしても、人のフンドシで相撲を取ったというだけのことである。

 先の引用に続く箇所には「一時期は、池田氏のスキャンダルが頻繁に報道された。ただ、
そのなかに、池田氏が豪遊しているといった類のものはなかった」とあるが、これも事実
に反する(「池田大作のぜいたく」参照)。

 創価学会は、相当に問題のある団体である。はっきり言って、カルト以外の何ものでも
ない。その創価学会について、客観的な内容の本を書こうとすれば、批判的になるのは当
然である。

 本全体が批判的な記述ばかりにならないようにするためには、不自然な形での擁護を挿
入せざるを得なかったのだろう。

 ただ、だからと言って、島田氏が創価学会に完全に取り込まれているとまでは言えない
と思う(池田大作に関する記述は、相当に配慮されているが)。

 島田氏が、一方的な批判には組しない姿勢を取り続けたからこそ、幹部を含めた多数の
学会員からの取材が可能だったのだろうし、その結果として、一般人には知り難い内部情
報が含まれた本の執筆が可能になったことも、事実であろうからだ。

 『親が創価学会』は、異議を申し立てたい箇所もあるとはいえ、創価学会の実態を理解
する上で、少なからず有益な本だと評価したい。

 ※ 『親が創価学会』(イースト新書)は、2019年4月15日付で発行された(実際の発
   売日は4月10日)。

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2019年4月7日日曜日

創価学会員のルサンチマン

  ルサンチマン【(フランス)ressentiment】
   強者に対する弱者の憎悪や復讐 (ふくしゅう) 衝動などの感情が内攻的に屈折して
  いる状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨 (えんこん) 。遺恨。
                             出典:デジタル大辞泉


 ニーチェはキリスト教を批判した哲学者として知られる。彼がキリスト教を非難した理
由は、その信仰がルサンチマンに基づいているからであった。

 ニーチェは、著書『道徳の系譜』において、自己を肯定し、誇り高く、気高くあろうと
する道徳を「貴族道徳」とよび、反対に自分より優れた他者を妬み、否定することによる
道徳を「奴隷道徳」とよんだ。


>  ――道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨 Ressentiment)そのものが創造
> 的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真
> の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によって
> だけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳
> は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めから
> して<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし否と言う。つまりこの否定
> こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転――自己自身に立
> ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向――こそが、まさにルサンチマン特
> 有のものである。すなわち奴隷道徳は、それが成り立つためには、いつもまず一つの
> 対立的な外界を必要とする。
 (信太正三訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』)


 ニーチェは同書で、キリスト教徒のルサンチマンの表れ、すなわち迫害を加えた者たち
への「想像上の復讐」の例として、2世紀末から3世にかけて活躍した神学者・テルトゥリ
アヌスの言葉を引いている。


> 「信仰は、まこと、われわれに、はるかに多くのものを与えてくれる」――と彼は言
> う――「はるかにもっと力づよいものを与えてくれる。救済のおかげで、本当にまっ
> たく別な悦びがわれわれの思いどおりになる。
 (中略)
> ・・・が、キリストの再臨の日、その勝利の日となれば、われわれを待ちうけている
> のは何であるか!」――またさらに彼は、この狂喜した幻想家はつづける。「だがじ
> つにその日にはなお別の光景が見られる。最後の、そして永遠の審判のその日、異教
> の民が期待もしないで、笑いものにするその日には、いとも長く古い時代と、かくも
> 多くのその所産とが、もろともにみな同じ一つの炎に焼きつくされるのである。その
> ときの光景たるや何と壮大なことであろう! どう讃歎すべきか! どう笑うべきか!
> どのように喜ぶべきか! どこでどう躍るべきか! 天国に迎えられたといわれるあ
> れほど多くの高名な王たちが、ユピテルや、また彼らをその目で見た証人たちと一緒
> に、暗黒の下界に呻き苦しむのを見るとき! 同じくまた、主の御名を滅ぼした総督
> (地方代官)たちが、彼らがキリスト教徒を焚殺した凌辱の火炎にもまさる荒れ狂う
> 猛火のなかに燃え熔けてゆくのを見るとき!
 (中略)
> 大法官にせよ、執政官にせよ、検察官にせよ、司祭にせよ、彼らがどんなに寛仁であ
> ろうとも、これほどの見世物を観せ、これほどまで心躍らしてくれる者などいるであ
> ろうか? しかしすくなくともわれわれは、信仰によってこの光景を多少なりとすで
> に心に思い描いてみることができる。


 上記をお読みになって、どう感じるかは人それぞれであろうが、常日頃はキリスト教は
外道と考え、見下している創価学会員の中にも、古代のキリスト教徒が夢想した最後の審
判の光景には、共感を覚えた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 今回、私が長々とニーチェによるキリスト教批判を引用したのは、創価学会もまたルサ
ンチマンに基づいた宗教だからである。

 折伏を受けた経験のある方はよくご存じのはずだが、創価学会員とは他の宗教をすべて
否定し、「そんなものを信じる奴らは地獄に堕ちる」などと、平気で口にする連中である。

 創価学会は、戦後、日本がまだ貧しかった時代、新規に都市部に流入した教育のない階
層を取り込むことで急拡大した。

 資産も学歴もなく、貧しさや病気などの悩みを抱え、持てる者を羨望していた彼らにと
って、「唯一の正しい信仰」を自称し、恵まれた人々が信仰する伝統宗教をすべて否定す
る創価学会は魅力的に映ったのだろう。

 そのような学会員たちの代表こそが、池田大作だった。彼は東京都大田区の生まれで、
新規に都市住民となったわけではないが、貧しい海苔業者の家庭に育ち、満足な教育を受
けられず、結核に苦しんでいた。

 そして池田は、持てる者への羨望と怨嗟とが入り混じった言葉を吐き続け、それによっ
て学会員たちの心をつかんできた。以下に池田語録を示す(すべて山田直樹著『創価学会
とは何か』による)。


 「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって
 自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価
 学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
 (六三年八月三日付聖教新聞)

 「天下を取ろう。それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめ
 てきた連中に挑戦して、最後に天下を取って、今までよくも私をいじめたか、弱い者を
 いじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」
 (六九年『前身』〈幹部用テキスト〉四月号)

 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返
 す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も
 戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 (九六年十一月三日「創価同窓の集い」にて)


 矛盾している言葉もあるようだが、学会員にとっては、自分たち以外のものが権力を振
るって弱い者をいじめるのは悪だが、自分たちが権力を持った場合、何をやってもかまわ
ないのである。歪んだ選民思想のなせる業である。

 創価学会員の選民意識は、彼らが抱えていたルサンチマンの裏返しだった。
 しかし、高度経済成長の恩恵は創価学会員にもおよび、現在の2世3世の信者の中には、
貧しさのために虐げられているといった感覚を持っていない者も、多いはずである。

 それどころか、ルサンチマンむき出しの池田センセイのご指導に、違和感や嫌悪を感じ
る方もいるかもしれない。

 また、社会に出て活躍し、会社等の所属する組織の中に自分の居場所を見つけて、創価
学会の信仰をアイデンティティーの拠り所としては、必要としなくなった者もいるだろう。

 狂信的な親との確執という、新たな苦悩に直面している方も少なくないことだろうが、
何とか乗り越えてカルトによるマインドコントロールから解放され、精神の自由を取り戻
してほしいと思う。

 ニーチェによるキリスト教批判は、真実をついている部分もあるにせよ、一面的に過ぎ
るとの反論もある。

 だが、池田大作が指導してきた創価学会は、彼らが「敵」と見なした人びとに口汚い誹
謗中傷を加え続け、それのみならず「仏敵撲滅唱題」と称する呪詛の儀式まで行ってきた
ことからも明らかなように、キリスト教以上に強烈なルサンチマンによって突き動かされ
て来た。

 他者への憎悪を基盤とする宗教・創価学会が権力を持つ社会が、真に平和で安寧なもの
となるわけがない。

 覚醒した2世3世が組織から去り、創価学会が衰退することは、社会への貢献でもある。
 大乗仏教の菩薩とは、「他者を救うことで自らも救済される存在」である。創価学会か
らの脱会は、真に菩薩行と呼ばれるにふさわしい善行と言えるだろう。

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2019年3月31日日曜日

反社会的な教義


 創価学会は数百万人の信者を擁する巨大教団であり、学会員の人間性も多種多様なはず
である。社会に出て学会員でない人たちとも協力しながら仕事で成果を上げ、それなりの
社会的地位を築いている人もいることだろう。

 地位を利用して折伏等の迷惑行為を行う者も中にはいるだろうが、分別をわきまえ、勤
務先や地域では、他人に迷惑をかけるようなことはしない学会員も、現在では多いはずで
ある。

 しかしながら、創価学会員の中には依然として非常識な者が少なからずいる。
 学会員に対して、「できることなら関わりになりたくない人たち」という印象を抱いて
いる人は少なくないのである。

 戸別訪問や集団替え玉投票などの悪質な選挙違反や、日蓮正宗との泥沼の抗争をひき起
こし、折伏や投票依頼などの迷惑行為を今なお組織ぐるみで推進している創価学会のイメ
ージが悪いのは当然のことではあるが。

 学会員に他人に迷惑をかける者が多いのには、創価学会の教義が影響していると考えら
れる。

 創価学会で「信心の教科書」とされている『人間革命』には、第2代会長・戸田城聖が
詐欺罪で有罪になった学会員に対し、以下のような指導を行ったと記されている。


>  世間法、国法、仏法を三法律というのだが、世間法より国法が強く、国法より仏法
> が強いのです。だからといって、信心していれば国法を犯しても構わぬということは
> 絶対にない。国法を犯せば国法によって裁かれるのは当然である。
 (『人間革命』第七巻)

 ※ 何度も述べてきたが、創価学会のいう「仏法」とは、創価学会の教えだけをいい、
  日本の伝統宗派や、東南アジアの上座部仏教などは「邪教」とされている。


 仏法=創価学会は、国法(法律)や世間法(道徳・常識)に優先するというのが、彼ら
の考え方である。

 戸田城聖は「信心していれば国法を犯しても構わぬということは絶対にない」と言った
ことになっているが、実際の彼の行動はどうだったのだろうか。

 前述のように、学会員が選挙違反を頻繁に行ってきたことはよく知られている。
 昭和31年(1956年)の参議院選挙に、柏原ヤスをはじめとする学会幹部が立候補した
が、この際も戸別訪問等の選挙違反で多数の学会員が逮捕された。

 強引な折伏や選挙違反などの、創価学会員の問題行動を新聞記者に質された際、戸田は
以下のように回答している。


>  いずれにせよ強引に信者をふやして選挙運動に利用しようとしたのではないか。
> 戸田氏 (強引な折伏は)選挙とは全く関係がない。単なる個人的な問題だ。選挙と
> いえば、戸別訪問などで選挙違反に問われた会員がかなりあるが、私は全然違反とは
> 思っていない。信者の知人、親類に頼むのは当り前じゃないか。それだって私が指令
> したのではなく信者が熱心の余りやっているのだ。選挙違反の形式犯はいわば立小便
> などの軽犯罪みたいなものだ。捕まえる方がおかしい。
 (『朝日新聞』昭和31年7月11日付)


 選挙違反で多数の逮捕者を出し、全国紙で何度も大きく報じられたというのに、責任者
の戸田は、言うに事を欠いて「捕まえる方がおかしい」とのたまったのだ。

 法令や社会秩序を軽視する正体を現した妄言である。
 戸田の後を継いだ池田大作は、選挙違反で逮捕された学会員に対し「法難賞」を与えた
という。こういう困ったところは、確かに「師弟不二」である。

 現代社会において、宗教には「よき規範」としての役割が求められている。
 しかし、創価学会は「よき規範」などではあり得ない。彼らの実態は、法律や常識とい
った規範を軽視する反社会的カルトでしかないのだ。


補足1

 冒頭の画像は5chで見つけた拾い物。規範を軽視する創価学会の体質を、的確に表現して
いると思う。


補足2 外米獲得文化運動

 昭和31年(1956年)の参院選挙に、創価学会は6人の幹部を立候補させ、うち3人が当選
した(公明党はまだ結成されていなかった)。

 この頃はまだ「F取り」という呼び方はなかったようである。選挙違反容疑で、創価学
会が家宅捜索を受けたことを報じる新聞記事には、以下のように書かれている。

>  同学会では信者以外の支持者を「外米」とよび、外米獲得文化運動と称して信者
> (「内地米」とよぶ)に二十票から三十票ずつの票集めをさせている疑いもあると
> いう。
 (『朝日新聞』昭和31年6月30日付)

 言葉は違えど、やっていることは現在も60年前から変わっていないようである。

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2019年3月24日日曜日

創価学会員の選民思想

 私はこれまでの人生で、何回か創価学会員から折伏を受けたことがある。
 その際に学会員が見せた態度は、こちらがたじろぐ程に尊大で自信に満ちたものだった。

 創価学会員と関わりを持ち、このような印象を受けたのは、私だけではないはずである。
日本の新興宗教について調査研究を行った米国の宗教学者も、以下のように述べている。


>  創価学会を研究する際、公平な態度でのぞむことは非常に困難である。というのは、
> 調査しているさいちゅうに、見たり、聞いたり、読んだりするもの、とりわけ、創価
> 学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害されるから
> である。どうも彼らにはPRの才がないらしい。訪問客をもてなす時でさえ、彼らは
> 信じ切った態度を露骨に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう。ほ
> かならぬこの理由のために、かくも多くの観察者(日本人も外国人も)が、創価学会
> は陰険な運動だと報告しているのもうなずけるのである。
 (H・N・マックファーランド著 内藤豊・杉本武之訳『神々のラッシュアワー』)

 ※ 著者はサザン・メソジスト大学の教授で、牧師でもあった。本書は、日本での二度
  の調査研究(1956~1957年、1963~1964年)に基づいて執筆され、原著は1967年、
  邦訳は昭和44年(1969年)に出版されている。


 著者はキリスト教徒だが、この本は全体として真摯な学問的姿勢に基づいて執筆されて
おり、創価学会への批判は偏見によるものではないと思われる。本書では天理教や、立正
佼成会なども取り上げられているが、他の教団に対しては、上記のような手厳しい見解は
示されてはいない。

 マックファーランド教授は「訪問客をもてなす時でさえ、彼らは信じ切った態度を露骨
に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう」と述べているが、学会員の態
度が「軽蔑しているように見えしまう」のは、彼らが事実、学会員以外の者を軽蔑し、見
下しているからである。

 戸田城聖は「キリスト教でもせいぜい天界まではいけるでしょう。今のアメリカは栄え
ているようであるが、あれは天界の栄えにすぎない」(『人間革命』第七巻)と説いた。

 当時、調査のために創価学会を訪問したマックファーランド教授に応対した学会員も、
天界の境涯にある米国人のキリスト教徒よりも、「地涌の菩薩」である自分の方が格上な
のだと考え、それが態度にも表れたのだろう。


 現代社会では、学問の細分化と技術への応用が進み、経済も国際化し、金融は複雑なも
のとなっている。量子力学の応用である半導体技術や、相対性理論が応用されたGPSを
誰もが日常的に用い、地球の裏側の国で起こった政変が物価にも影響するのである。

 それらすべてを理解し、何が起こっているかを説明できる者、正しい選択はどれかを示
せる者がどれだけいるだろうか。一個人ではとても理解し切れない程の情報があふれ、し
かもそれらが一人ひとりの生活に密接に関わってくる現代社会において、「何が正しいか
を知っている」という確信を持つことは、極めて困難なことなのだ。

 初めて本格的な折伏を受けた際、私は相手の学会員の自信に満ちた態度に気圧されるよ
うな思いを抱いた。これほどの確信を持つ背景には、相当の知的蓄積があるのではないか
との印象を受けたのである。

 今考えると、外部の世界にあふれる圧倒的な情報量に対する自分の知的貧弱さからくる
不安を、相手に投影してしまっただけだったのであるが。

 その時は、相手の学会員がやたらと「科学的根拠」というのを聞いて、「この人は自然
科学全般への幅広い知識と理解があり、それが自信につながっているのではないか」と思
ってしまった。

 だが、しばらく話してみて、その学会員は自然科学についての理解などほぼ皆無で、そ
れどころか、法華経に何が書いてあるかさえ知らないことが分かった。
 これは、私が対面した一学会員だけについてだけ当てはまることではない。

 創価学会員という連中は、総じて驚くほど知識がないにも関わらず、「自分たちは、他
の人間と違って、何が正しいかを知っている選ばれた存在である」という夜郎自大な自信
を抱いている。

 前回も述べたが、創価学会員は「他の宗教には科学的根拠がない」という理由で否定す
る一方で、彼らの信仰にも科学的根拠がないことを問題視していない。そもそも、そのよ
うな疑問を持たないようにマインドコントロールされている。

 多くの創価学会員にとって、信仰およびアイデンティティーの核心となっているのは、
「創価学会は絶対に正しい。その信仰を持つ自分も絶対に正しく、ただそれだけで学会員
でない者よりも優れた存在である」という思い込みである。

 この妄念を支えているものとして、以下の要素が考えられる。

  ・日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在に祭り上げ、その教えを正統に継承して
  いるのは、創価学会だけだとし、学会員は教えを広める使命を持った「地涌の菩薩」
  だとされていること。

  ・信仰の指導者である池田大作が、世界中から顕彰を受け、称賛される偉人だとされ
  ていること(聖教新聞等の創価学会の出版物の中だけではあるが)。

  ・他の学会員も上記の思い込みを共有し、相互に補強し合っていること。

  ・これらを否定する情報(週刊誌や批判本など)は、すべて創価学会や池田大作の偉
  大さに嫉妬した者たちによるデマだと思い込まされていること。

  ・本当に正しいと言えるのかを検証しようとする知性の欠如(疑うとバチがあり、今
  まで積んできた功徳も消えるという恐怖心を植え付けられていること)。

 「創価学会は絶対に正しい」という思い込みには根拠などない。根拠がないことを「正
しい」とすることは、「智者に我が義やぶられずば用ひじ」(『開目抄』)という、日蓮
の教えに違背している。

 また、それを支える一連のマインドコントロールも、日蓮本仏論のように根拠がないか、
金の力で実現した池田大作の勲章あさりのように価値がないかのいずれかである。

 学会員が強引な折伏をするのは、自分と異なる信仰や思想を持つ者を屈服させることで、
自らの信念が正しいという実感を得ようとしているのだろう。

 信仰の内容が空疎だから、他人をねじ伏せたり、学会活動に没頭することで同じ妄念を
共有する者がいることを確認したりしなければ、自信を保てないのである。


 本来ならば自由にできる時間を公明党の選挙運動などの学会活動に費やし、投票という
政治的な選択の自由を奪われ、本部職員という貴族的な特権階級の高給を支えるために財
務やマイ聖教等で少なからぬ金銭を供出し、精神の自由まで奪われる対価として、「自分
たちは地涌の菩薩で、そうでない者より高い境涯にあり、救いが約束されている」という
妄想の世界に浸り続けている、それが創価学会員という連中なのだ。

 このバカげた選民思想に魅力を感じる人は、創価学会員であり続けるのもいいかもしれ
ない。

 しかしそれは、少しでも知性を持つ者にとって、耐えがたいことのはずである。
 当ブログでも示してきたように、創価学会の教義や、学会員たちがそれを疑わないよう
に行われているマインドコントロールがおかしいことは、彼らが神聖視してきた日蓮遺文
や法華経を読めば分かることだ。

 いや、古文や漢文の書き下し文をわざわざ読まなくても、常識的な判断力があれば、創
価学会がおかしなカルトであることは明白である。

 女子高生を妊娠させたり、レイプ事件を起こしたり、広宣流布を口実に集めた金を自分
個人のぜいたくのために使ったりしてきた池田大作を、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っ
ている創価学会が、まともな宗教のわけがないのだ。

 信教は自由だが、創価学会の信仰とその実践は、良識とは相容れない。
 現在の創価学会は上辺のイメージだけは取り繕おうとしているが、そんなことをしても
馬脚は隠せない。現に、冒頭で引用した50年前の批判が、今なお妥当なのだ。

 学会員が社会の各層に浸透し、公明党が与党になっているとはいえ、インターネットが
当たり前になった現代社会で、完全な情報統制など不可能である。

 創価学会のありのままの実態、事実を知られることが、彼らにとっての弱点であり、情
報の拡散を防ぐことができない以上、創価学会の衰退を止めることはもう不可能だろう。

 そして、それは社会の健全化に資することでもあるのだ。

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2019年3月17日日曜日

折伏(しゃくぶく)について

 現在の日本では、宗教とはあまり関わりのない持たない人生を送っている方が大勢を占
めるが、そういった人でもいずれかの伝統宗派の檀信徒であり、葬儀は仏式で行うことが
多い。

 創価学会は、そのような在り方を「葬式仏教であり、生きた信仰ではない」と否定し、
現在もなお折伏と称してはた迷惑な勧誘を行い、「自分たちだけが正しい信仰だ」と主張
し続けている。

 今回は学会員が折伏の際に、よく主張する内容について検証する。


1.「偶像崇拝は間違い」

 多くの伝統宗派で仏像が信仰の対象とされているが、創価学会は仏像ではなく、文字で
構成された曼荼羅――日蓮が法華経の世界観を図顕したもの――を本尊としている。

 学会員は折伏の際、「仏像を拝むのは偶像崇拝であり、本来の仏教ではない。創価学会
こそが正統な仏教だ」と主張することがある。

 確かに、釈尊は自らの像を信仰の対象にせよとは説かなかったし、そのため、原始仏教
では仏像を信仰の対象とはしなかった。

 だが、創価学会員が上記のような主張をするのは卑劣な欺瞞であり、以下に述べるよう
に三重の意味で矛盾している。

 まず第一に、前回みたように創価学会は「釈尊の教えは人々を救う力を失っている」と
主張しており、都合のいい時だけ原始仏教を援用するのはおかしい。

 第二に、創価学会の曼荼羅本尊は、確かに狭い意味での「偶像」には該当しないであろ
うが、彼らの教義では「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えると祈りとして叶わざるなし」
ということになってる。

 当然のことながら、このような呪物崇拝も本来の仏教とは関係ないものである(何度も
述べたが、彼らの本尊の根拠となっている法華経も、釈尊滅後、数百年後に創作された経
典である)。

 第三に、創価学会が「末法の御本仏」だという日蓮は、「法華経で開眼供養した仏像を
信仰の対象とすべき」と述べている(「佐前・佐後」参照)。

 学会員が「仏像を信仰の対象とするのは間違い」と主張することは、創価学会が日蓮の
教えを正統に受け継ぐ教団ではないことの証明なのだ。


2.「科学的根拠がないことは否定する」

 創価学会員が他の宗教を否定する時によく使うのが、この「科学的根拠」という言葉で
ある。

 確かにどの宗教であれ、神仏や来世など科学的に実証できない概念を信じることが、そ
の根幹になっている。

 こうした実証できない事柄をすべて退け、宗教とは無縁に生きるのも一つの在り方だと
いうことは、私も否定しない。

 問題なのは、創価学会の教義もまた、ほかの宗教と同様、あるいはそれ以上に非科学的
であり、学会員が「科学的な根拠がないことは否定する」と主張するのは、卑怯なダブル
スタンダードだということである。

 伝統的な宗教は、科学が発展する近代以前に発祥している。その教義に非科学的な部分
があったとしても、やむを得ない面もある。

 だが、創価学会は20世紀になってから作られた新興宗教である。それにもかかわらず、
池田大作がデッチ上げた、「護符」と称するただの紙切れを飲むことで病気が治るとぬか
す、インチキなマジナイを組織を挙げて行ってきた。

 いったい、どの面下げて「他の宗教は科学的根拠がない」などと批判できるのだろうか。
 護符を別にしても、御本尊と称するビニールシートに題目を唱えることで、どんな願い
でも叶うという、彼らの中心的な教義にも、何の科学的根拠もありはしない。

 学会員が安易に「科学的根拠」なる言葉を口にするのは、単に他の宗教を批判するのに
便利だからに過ぎず、彼らに論理的思考能力が欠如していることの現れなのである。


まとめ

 多くの人は他者を批判する際、その言葉が我が身にも当てはまりはしないかと、省みる
ものである。
 上述で明らかにしたとおり、創価学会員にはそうした点が驚くほど欠落している。

 だからこそ、創価学会の教義や実態を知る者が聞けば、「おまエラがそれを言うか」と
のけぞるようなことを平気で主張するのである。

 彼らが口にする一見まっとうな言葉こそが、連中がマインドコントロールによって論理
的思考や内省が出来なくなった、頭がおかしいカルト信者であることを示しているのだ。

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2019年3月10日日曜日

創価学会の二枚舌

 聖教新聞のテレビCMを見れば分かるように、近年の創価学会は対外イメージの改善に
大きく力を入れている。

 かつての聖教新聞には、他の宗教を邪教呼ばわりする記事が毎日のように掲載されてい
たが、最近ではそのような記事は見られなくなった。

 だが、こうした変化を「創価学会が穏健化し、宗教的寛容を身につけた」と受け止める
わけにはいかない。

 学会員から折伏を受けた経験がある方には同意いただけるはずだが、創価学会の排他的・
独善的な体質は、以前と何も変わってなどいない。彼らは上辺を飾ろうとしてるだけだ。

 現在の創価学会が、カルトとしての実態を隠蔽するために弄している美辞麗句の一端を、
まずご覧いただきたい。

 広く浸透している「創価学会は排他的で独善的な新興宗教」とのイメージを払拭するべ
く、『池田大作 名言100選』なる本が出版されている。

 この本は創価学会の外郭出版社ではなく中央公論新社から刊行されており、学会員のみ
ならず、一般層をも読者として想定していると考えられる。

 その内容も、いかにも良識的で、一般からの受けがよさそう、といった感じのご立派な
文言が並んでいる。一部を引用する。


> 信仰と知性

> いかなる宗教であれ、排他や独善に陥らず、その包括性や受容性を維持していくには、
> 良識ある知性の力こそが、必要なのである。
 (『池田大作 名言100選』116ページ)


> 宗教間対話

> 仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教
> 徒である前に、人間である。対話を通して、人間性という共通の大地に目を向け、友
> 情が生まれれば、そこから互いの長所も見えてくる。学び合おうとする心も生まれる
> のだ。
 (同、120ページ)


 著者である池田センセイの、高潔なお人柄がうかがえるご高説である。
 「自分たちが過去にやってきたことを棚に上げて、よくも抜け抜けと」という、憤りを
禁じえないのは私一人だけではあるまい。

 『池田大作 名言100選』にあるキレイゴトの数々は、創価学会の真の実態を覆い隠すた
めの方便に過ぎない。
 そして創価学会は、本音の部分では今でも他の宗教を否定し続けている。

 現在、創価学会が折伏のマニュアルとして用いている『仏法対話のすすめ』という書籍
がある(創価学会の外郭企業である第三文明社から刊行されている)。

 『仏法対話のすすめ』には、かつての『折伏教典』ほど過激な言葉は用いられてはいな
いものの、その内容は相当に排他的である。例えば、こんな具合である。


>  例えば、釈尊の教え残した仏教の中でも、最高峰である法華経も、現在では功徳が
> ありません。それは、釈尊自身が、自分の死後、二千年以後を「末法」の時代といっ
> て、私の正しい教えも功徳がなくなってしまう、と予言しており、現実もその通りに
> なっているからです。したがって、法華経以下の他の経典によっている仏教の諸宗派
> に、功徳がないのは当然でしょう。教えに人を救う力がないために、僧侶は葬式や法
> 事で生活をしているのです。
>  釈尊の教えが人々を救う力を失っている現在、生活のうえに生きている「力のある
> 宗教」は、日蓮大聖人の仏法しかありません。

 ※ 功徳とは「来世や現世で幸福をもたらす善行」のことだが、そこから転じて「信心
  によるご利益」の意味でも用いられる。創価学会では、後者の意味で使うことがほと
  んどである。


 釈尊を否定する創価学会に、「仏教」を名乗る資格があるのだろうか。
 法華経が最高峰の教典だという主張は天台教学に由来するが、日蓮が生きていた鎌倉時
代には天台教学には権威があったにせよ、現代の仏教学では、法華経は釈尊滅後、数百年
後に成立したとされている。創価学会は、このことをどう考えているのだろうか。

 それに法華経に「功徳がない」のなら、なぜ創価学会では、朝夕、法華経の方便品・如
来寿量品を読誦するのだろうか。法華経の正式名称である「妙法蓮華経」に南無を冠して
唱えるのだろうか。短い一節ではあるが、突っ込みどころ満載である。
 『仏法対話のすすめ』には、独善的な記述がまだある。


>  釈尊が予告した通りに、末法に出現したのが、日蓮大聖人であり、その教えの通り
> 実践している唯一の教団が創価学会なのです。ですから、釈尊から日蓮大聖人へ、
> 「仏」と「法」のバトンタッチがされており、現在では日蓮大聖人の仏法のみが、人
> びとを救う力がある「生きた宗教」だからです。
>  現実に、日本の仏教の各宗派は、「葬式仏教」と呼ばれているように、葬式や法事
> をするだけの存在になりさがっており、仏教の目的である人びとを救い、仏にする力
> など、まったく失っています。


 創価学会だけが人を救う力がある「唯一の教団」であり、伝統仏教の各宗派には「仏教
の目的である人びとを救い、仏にする力」など、まったくないのだという。これが独善で
なくて、何であろうか。

 『池田大作 名言100選』は、平成22年(2010年)に出版された。
 『仏法対話のすすめ』の初版は平成11年(1999年)だが、第2版が平成21年(2009年)に
刊行され版を重ねている(ちなみに私が入手したものは、2018年発行の第2版第9刷)。

 創価学会は一般向けに出した本には、さも物分かりがよさそうで寛容な印象を与える文
言を並べておきながら、それと同時期に内部向けに出版した勧誘のマニュアル本では、独
善性・排他性をむき出しにしているのだ。まさに二枚舌である。

 創立当時から変わることなく「排他や独善に」陥り続けてきた創価学会には、「良識あ
る知性の力」が根本的に欠落しているのだろう。

 創価学会・公明党がいかに美々しいイメージで外見を飾り、猫なで声で平和や人権を説
こうとも、決して信用してはならない。彼らの本質は、昔と変わらずカルトのままなのだ。


補足 「葬式仏教」についての私見

 「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教のあり方の是非については、様々な意見があろうが、
近代以降の聖俗が分離した社会では、宗教の占める場所が小さくなったのはやむを得ない
ことであり、創価学会のように宗教が大きな役割を占める社会を目指すのは、前近代への
逆行に他ならない。「葬式仏教」の方が、創価学会よりもまだずっと健全だと私は思う。

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2019年3月3日日曜日

創価批判コピペ集‐⑬(「創価学会の迷惑行為」他)

◇◆◇ 創価学会の迷惑行為 ◇◆◇

創価学会員から、強引な入信勧誘や、しつこい投票依頼、聖教新聞の勧誘を受け、迷惑
した経験がある人は多い。しかも創価学会は、こうした迷惑行為を組織的に行っている。

創価学会は現世利益を極めて重視する宗教であり、学会員が他人の迷惑を顧りみること
なく、熱心に入信勧誘等を行う理由も、そうすることでご利益を得られると信じている
からである(創価学会では、ご利益の同義語として「福運」という言葉をよく使う)。

さらに彼らの教義では、「創価学会は唯一の正しい信仰であり、入信勧誘や公明党への
投票依頼は、正しい仏法を広める行為。だから自分だけでなく相手にも福運をもたらす」
「創価学会員は菩薩の境涯にあり、そうでない人よりも高い境地にある」とされている。

このような洗脳を受けているため、創価学会員は独善的で押しつけがましい態度を取る
ことが多く、自分たちがやっていることがただの迷惑行為だという自覚がない。「創価
学会は嫌がらせなどしない」という嘘八百も、彼らの「内面だけ」では真実なのである。



◇◆◇ 創価学会の「功徳の実証」◇◆◇

創価学会は現世利益をきわめて重視する宗教である。創価学会の信仰を続ければ「死ぬ
前の数年間が、人生で一番いい時期になる」と、池田大作名誉会長は何回も語ってきた。
では「永遠の師匠」とされる三代の会長の、「死ぬ前の数年間」はどうだっただろうか。

初代会長・牧口常三郎・・・学会員による強引な折伏の被害者が、警察に訴えたことが
きっかけとなり、昭和18年、治安維持法違反で逮捕され、その翌年栄養失調で獄死した。

第二代会長・戸田城聖・・・戸田は重症のアルコール中毒だった。昭和33年に肝硬変で
死去(享年58歳)。戸田が作らせた『折伏教典』では「アル中は餓鬼界」とされている。

第三代会長・池田大作・・・平成22年(2010年)5月以降、公の場に姿を見せなくなった。
創価学会は「お元気」と言い張っているが、実際は脳梗塞の後遺症で半身不随だという。

※ 日蓮は「道理証文よりも現証には過ぎず」と説いた。まさにその通りと言う他ない。



解説

 上述のとおり、創価学会員から折伏や公明党への投票依頼等をしつこくされ、迷惑して
いる人は多い。かと言って邪険にすると、連中は何をしてくるか分からない。本当に厄介
なカルト信者である。

 創価学会は「正しい仏法が広まろうとする時、必ずそれを妨げる魔の働きも起こる」と
いう教えで、信者をマインドコントロールしている。

 それだけではなく、「仏法は勝負だから、魔に打ち勝たねばならない」などという指導
までなされている。

 こちらが迷惑しているとそれとなく伝えても、意に介さずに迷惑行為を続けてくる学会
員が多いのもそのためである。

 連中は「魔に打ち勝てば福運がつくし、相手にも功徳を積ませることになる」などと、
本気で信じているのだから度し難い。

 単純に迷惑だからやめてほしいと言っているだけなのに、一方的に「魔の働き」などと
決めつけられては、たまったものではないが、心の奥底までカルトの教義が染みついてい
る学会員には何を言っても通じないことが多いので、連中とは可能な限り関わらないよう
にするくらいしか、現実的な対応策はないのかも知れない……。

 もちろん、創価学会に入会したり、公明党に投票したりすることで、確実に経済的成功
や健康長寿等の「功徳の実証」があるのならば、私とて学会員の要望に応じることにやぶ
さかでない。

 だが、学会員が大好きな「現証」に基づいて、永遠の師匠たる三代の会長の晩年を見る
限り、創価学会の信心には、功徳も福運もないとしか言いようがない。

 創価学会は誰の人生にも起こり得る様々な禍福を、適当な理由をつけて「仏罰」だとか
「功徳」だとかこじつけているだけだ。

 当ブログでもこれまで論じてきたが、創価学会がただのインチキ宗教に過ぎないことは、
彼らが出版してきた『人間革命』や『折伏教典』等を読めば、すぐにわかる。

 例えば『折伏教典』(初版)には、「アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者」は、餓鬼界だと
書かれている。アル中と拝金主義者とは、戸田城聖と池田大作のことではないのか。

 もし来世というものがあるならば、詐欺そのものの悪辣な金儲けをやってきた創価学会
の幹部たちは地獄行きが相応だろうが、信心の功徳で餓鬼界どまりで済むのかもしれない。
彼らにはもったいないくらいの救済であろう。

 『折伏教典』(初版 昭和26年11月20日発行)の一部。
  見てのとおり、たわ言の羅列である。本当に頭がおかしい。

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2019年2月24日日曜日

「日蓮本仏論」について

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 創価学会や日蓮正宗の教義では、日蓮は末法の御本仏とされている。以前も述べたが、
本仏とは「あらゆる神仏の本体である根源の仏」と言うべき存在とされている(「池田本
仏論について①」参照)。

 「日蓮本仏論」の根拠は、日蓮本人が自身がそのような存在だと宣言したからだという
ことになっているが、日蓮の真蹟遺文中にはっきりと「オレが本仏だ」と主張しているも
のはない。あくまでも、創価学会や日蓮正宗がそのような解釈をしている、というだけで
ある。

 とは言え、日蓮が強烈な自負心の持ち主だったのも事実だ。
 『撰時抄』では「法華経の行者である自分に国を挙げて帰依しなければ、亡国の憂き目
にあう」とまで主張している(「日蓮と真言宗と池田大作」参照 )。

 他の遺文にも自らを「上行菩薩の垂迹」等と称しているものもある。


>  又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると此の条難かむの次
> 第に覚え候、其の故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・
> 上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頸をはねらる
> べき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島
> まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや
 (『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)


>  教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き
> 散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ
 (『下山御消息』〔真蹟断片 小湊誕生寺外、日法写本 岡宮光長寺〕より引用)

 ※ 日蓮の弟子の中には、日蓮に帰依したために主君等から胡乱な目で見られるように
  なり、自らの信仰上の立場を弁明する必要に迫られた者もいた。
   引用した遺文は、両方ともそうした弟子のために日蓮が代筆した手紙である。


 『頼基陳状』『下山御消息』は、どちらとも建治3年(1277年)に書かれてる。
 当時の日蓮は、文永の役(1274年)により『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」が
実現した形になり、意気軒昂としていた。また、自らこそが法華経の行者であるとの確信
も深めていたのであろう。

 創価学会は日蓮が「教主釈尊より大事なる行者」と自称したことを、日蓮本仏論の根拠
の一つとしているが、私はこの見解には同意できない。

 鎌倉時代の日本では、古来より信仰されてきた本邦の神々を仏や菩薩(本地)が応現し
た存在(垂迹)だとする「本地垂迹説」が信じられていた。

 また、神々のみならず聖徳太子や弘法大師などの傑出した人物も、仏や菩薩の垂迹とさ
れていた。

 仏や菩薩が姿を変えて現れると信じられていたことには、次のような背景があったのだ
という。


>  日本は釈迦の生まれた天竺からはるか東北にある、粟粒のごとき辺境の小島(粟散
> 辺土)にすぎない。――「大日本国は神国である」という有名な言葉で始まる『神皇
> 正統記』すら、他方ではこうした仏教的世界観を受け入れていたのである。
>  このように中世では、同時代の日本を末法の辺土とみる見方が一般化していた。そ
> こは救いから見放された悪人たちが充満する「五濁悪世」だった。これらの劣悪な衆
> 生を導くことは、慈悲深い本地仏では不可能だった。生々しい身体性を具え、激しい
> 賞罰を行使する垂迹こそがそれにふさわしい。――中世の本地垂迹の論理は、こうし
> た世界観を背景に生み出されたものだったのである。
 (佐藤弘夫著『偽書の精神史』より引用)


 本地である仏の方が、その垂迹よりも当然に格上ではあるが、五濁悪世の末法において
は、垂迹の方が人々を救済する存在としてふさわしいと信じられていたのである。

 日蓮は法華経の行者を自称し、「上行菩薩の垂迹」を自認するまでに自己評価を高めて
いたわけだが、「教主釈尊より大事なる行者」を称したのは、「自分の方が教主釈尊より
格上の本仏なのだ」と訴えたかったわけではないと思う。

 「自分は教主釈尊の使いだが、末法の衆生にとっては、その使いの方が救済者としてふ
さわしいのだ」と言いたかったのではないだろうか。つまり、あくまで教主釈尊の方が格
上との認識を、日蓮も持っていたと考えられる。

 それに日蓮の遺文には、彼の人間としての生々しい姿を描いたものもある。
 過剰なまでの自信家だった日蓮だが、いくらなんでも「自分こそが本仏だ」と思い込ん
でいたとは信じがたい。


>  この十余日はすでに食もほとをととどまりて候上、ゆきはかさなりかんはせめ候、
> 身のひゆる事石のごとし胸のつめたき事氷のごとし、しかるにこのさけはたたかにさ
> しわかして、かつかうをはたとくい切りて一度のみて候へば火を胸にたくがごとし、
> ゆに入るににたり、あせにあかあらいしづくに足をすすぐ
 (『上野殿母御前御返事』〔真蹟 富士大石寺〕より引用)


 この遺文は、最晩年の日蓮が身延から出した手紙である。
 日蓮が身延の冬の厳しい寒さをしのぐため、酒を温めて飲んでいたことがわかる。

 「末法無戒」が信条だった日蓮が酒を飲んでも不自然ではないのかもしれないが、これ
が「御本仏のふるまいだ」と言われても納得しかねるものがある。

 創価学会員の皆さんなら、以上の私の主張を読んでも「そんなものは不信心者の我見に
過ぎない。日蓮大聖人が、ご自身で本仏であると述べられているのだから、疑うべきでは
ない」とおっしゃるのかもしれない。

 繰返しになるが、私は日蓮が自ら本仏を自称したという解釈には同意できない。
 だが一歩譲って、日蓮がそう宣言したのだとしても、日蓮が本仏、すなわち「あらゆる
神仏の本体である根源の仏」だということになるだろうか。

 話は現代に飛ぶが、「唯一神」を自称して国政選挙に立候補、対立候補に対し「腹を切
って死ぬべき」とか「地獄の火に投げ込む」だとか罵倒する、奇天烈な選挙演説を行った
又吉イエス氏や、「エル・カンターレ」――至高の神を意味するらしい――を自称する
幸福の科学の大川隆法総裁についてご存知の方も多いであろうが、そう自称したからとい
って、彼らがそのような存在だということにはならないはずである。

 「日蓮大聖人が御本仏を自称したからそうなのだ」という主張は、日蓮を又吉イエスや
大川隆法と同程度の人物と見なすのと、変わらないのではないだろうか。

 これまで当ブログで論じてきたように、日蓮の主張は鎌倉時代には権威があった天台教
学に依拠していたし、唱題は易行でありながらも念仏と違って現世利益もあると説いたこ
とも、当時の人々のニーズに応える面があった。

 また、先祖伝来の宗教として、日蓮系伝統宗派の信仰を受け継いできた人々が、そうし
た信仰を続けたいと思うのは自然なことだし、尊重すべきだとも思う。

 しかしながら、日蓮の教えが唯一絶対の真理を開示したものだというのは無理があるし、
その主張のすべてを現代社会でそのまま実践しようとすれば問題が起こりかねない。

 創価学会は彼らが自称しているような、日蓮の教えを唯一正統に継承する教団だとはと
ても言えないが、独善的・排他的で現代では受け入れられ難い面は、しっかり受け継いで
いる。

 そして、独善性に由来する選民思想で学会員たちをマインドコントロールし、陶酔させ
ることで、金銭や労働力を供出しなければならないことに疑問を持たせないようする「ア
メ」と、「末法の御本仏」という至高の存在である日蓮大聖人の御遺命に反すると地獄に
堕ちるなどと脅す「ムチ」とで、搾取し続けている。

 日蓮本仏論を唱え始めた人々は、他の日蓮系の門流に対する自派の優位性を訴えるため
にそうしたのかもしれないが、宗祖に対する畏敬の念からという面もあったことだろう。

 だが現状を見る限り、今の日本において日蓮本仏論は、創価学会や顕正会のようなカル
トが、信者をマインドコントロールし搾取するためのツールになっているという、負の意
義しか有しないように見える。



お知らせ

 日蓮の思想に関する記事は、本稿をもって一区切りとします。
 来週は軽めの内容にする予定ですが、再来週からは「創価学会員とはいかなる人々か」
をテーマに論じたいと思います。

 私は学会員であったことはないので、創価学会の内情を実体験として知っているわけで
はありません。従って学会員・元学会員の方から見て、あまりにも一面的だとか、偏見だ
とか思われる内容になるかもしれません。

 ですが、そんな場合でも「自分たちの見方とは違うが、外部からはそう見えているのか」
と受け止めていただけばと思います。
 今後ともよろしくお願いします。

2019年2月17日日曜日

佐前・佐後

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 日蓮は文永8年(1271年)佐渡島に流罪となり、文永11年(1274年)に幕府から赦免
されるまで、その地に留まった。

 佐渡への配流は日蓮にとって、大きな転機となった。日蓮系宗教で教義上、特に重視さ
れている『開目抄』『観心本尊抄』は、佐渡島で執筆されている。

 また、現在も日蓮系宗教で本尊として用いられている法華経に基づいた曼荼羅――「十
界曼荼羅」「文字曼荼羅」等と呼称される――を、日蓮が図顕するようになったのも、佐
渡島でのことだった。

 日蓮自身、「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とを
ぼしめせ」(『三澤抄』日興写本 北山本門寺)と述べている。

 「爾前の経」とは、天台教学において法華経より前に釈尊が説いたとされる、方便の教
えが説かれた経典のことである。

 つまり、日蓮は「佐渡流罪以降に説いたことが、本当の自分の教えなのだ」と主張して
いるのである。

 こうしたことから、日蓮系宗派では佐渡以降の日蓮の著述を、それ以前のものよりも信
仰上、重要な意義があると認め、「佐前・佐後」という区分を設けている。創価学会であ
れ、日蓮宗であれ、この点は同じである。

 しかしながら、創価学会と日蓮宗とは、大きく教義が異なっている。
 仏像を信仰の対象として認めるか否かも、教義の違いの一つである。

 日蓮宗は仏像を曼荼羅本尊と同じく信仰の対象として認めるが、創価学会は彼らが用い
ている曼荼羅本尊だけが正しい信仰の対象だと主張し、仏像を礼拝することはない(仏像
を否定する教義は、日蓮正宗から受け継いだものである)。

 この信仰上の立場の違いが、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』と、創価学会
が刊行した『日蓮大聖人御書全集』の内容にも影響を与えている。

 日蓮遺文に『木絵二像開眼事』(真蹟 身延曾存)というものがある。日蓮はこの著述で
「仏像や仏画の開眼供養は法華経でなければならない」と主張している。一部を示す。


>  法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏な
> り、草木成仏といへるは是なり
 (中略)
>  法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死
> するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命
> をうばふ


 この遺文では、日蓮は法華経で開眼供養した仏像・仏画について、それを信仰すること
を否定してはいない。問題はこの遺文が、日蓮の生涯のどの時期に書かれたかである。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』では、この遺文の書かれた時期を文永10年(1273年)として
いる。つまり、佐渡流罪中に書かれたということである。

 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも、この遺文は『木絵二像開眼之事』として収録
されているが、執筆された時期は文永元年(1264年)ということになっている。

 『木絵二像開眼事』には日付が記されていない。だから、いつ書かれたかについて、見
解の相違があっても不自然ではないのかもしれない。 

 しかし、日蓮が「佐後」に仏像を信仰の対象として認める文章を書いていたとあっては、
創価学会にとって都合が悪いのも確かである……。

 仏像の開眼供養について言及した日蓮遺文は他にもある。建治2年(1276年)に弟子の
四条金吾へ書き送った手紙には、以下の記述がある。


>  されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千
> の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二に
> は五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは
> 草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木
> と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。
 (中略)
>  此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優塡大王の木像と影顕王の木像と一分も
> たがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ
> 給ふべし。
(『四条金吾釈迦仏供養事』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮は手紙には日付を記していたので、『四条金吾釈迦仏供養事』が建治2年(1276年)
つまり「佐後」に書かれたものであることは間違いない。

 創価学会の本尊に関する主張は、日蓮正宗から破門されて、その総本山大石寺に安置の
「一閻浮提総与の大御本尊」を礼拝できなくなってから、支離滅裂としか言いようがない
ほど混乱したものとなっているが、実は、日蓮正宗の本尊についての教義からして、日蓮
の教えに忠実だったとは言い難いのである。

 創価学会は「本尊の正邪をわきまえないと必ず不幸になる」(『折伏教典』)などと主
張し、謗法払いと称して入信者には仏像等、それまで信仰してきた本尊を捨てさせてきた。

 法華経は多くの伝統宗派で読誦される大乗仏教の重要教典である。創価学会が謗法払い
させてきた仏像の中にも、法華経により開眼供養されたものもあったのではないだろうか。

 その一方で創価学会は「御書根本」を掲げ、日蓮遺文に忠実な信仰を行っているのは自
分たちだけだとも誇ってきた。

 私はブログ執筆の題材とするために、少しばかり日蓮遺文を読んだだけだが、創価学会
に「御書根本」を自称する資格があるとは、とうてい思えない。

 創価学会によると「仏法に背くと仏罰があたる」そうである。「仏罰」なるものが本当
にあるものならば、それを受けるべきなのは、無体な謗法払いをやってきた学会員の方で
あろう。

2019年2月10日日曜日

日蓮遺文の真偽問題

 佐渡島に配流中の日蓮が、信者に向けて送ったとされる手紙に『弥源太殿御返事』とい
うものがある。

 この手紙で日蓮は、自らの出生地である安房の国に伊勢神宮の御厨――神社に寄進され
た荘園――があることを誇り、そこに生れたのは「第一の果報」と言っている。また、天
照大神は「此の国の一切衆生の慈父悲母なり」とも述べている(当該箇所は補足で引用)。

 この記述を読む限り、日蓮が神祇信仰を否定していたとは、とうてい思われない。
 だが、この遺文には日蓮の真蹟も古写本も現存していない。確実に日蓮が書いたとは、
断定できないのである(偽書だと断定されているわけでもない)。

 日蓮は、伝統宗派の祖師の中で最も多くの文書を残しているが、日蓮遺文とされてきた
古文書の中には、偽書であることが明らかになったもの、その疑いが強いものが多数含ま
れている。

 日蓮の遺文集の中で最も権威があるのは、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』
である(日蓮の真蹟遺文を最も多く保有しているのも、日蓮宗の中山法華経寺)。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』では、正編に「真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確
実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統的に重要視さるるもの」が、続編に
「真偽の問題の存するもの」が収められている。

 「真蹟現存せざるも真撰確実なるもの」とは、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、
明治8年(1875年)の大火で焼失したもの――「真蹟曾存」と呼ばれる――と、日蓮在世
中に直接その教えを受けた弟子(日興・日進・日目など)による古写本が現存しているも
のとをいう。

 続編に収められている「真偽の問題の存するもの」は、実際にはそのほとんどが偽書と
見られているそうである。

 真偽が議論になるのは、正編に含まれている「真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統
的に重要視さるるもの」である。このカテゴリーに属する遺文の中には、現在では偽書の
疑いが強いとされている『三大秘法稟承事(三大秘法抄)』も含まれている。

 日蓮遺文の真偽について学術的な研究を行っている学者の中には、日蓮系宗派の僧侶も
兼ねている方も少なくないという。当然、その主張にはそれぞれの信仰上の立場が反映さ
れることになる。

 こうした問題を回避するために、真蹟遺文のみを参照して日蓮の思想を論じようとした
り、後世の写本しか現存しない遺文の中にも日蓮によるものが含まれている可能性がある
と考え、文体や語彙の厳密な分析を試みたりと、学者の中にも様々な立場があるという。

 私は宗教学にも文献学にも、まったくの素人にすぎない。だから学術的なことに関して
は、専門家の研究に敬意を表することくらいしかできない。

 しかし、信仰上のことについてなら、一個人として物申すことくらいは許されると思う。
 日蓮は他の祖師たちと同様に、信仰の対象となっている人物である。語り伝えられてき
たその事績は、多くの伝説で彩られている。

 そうした伝説はほとんどの場合、史実とは言い難い。また、日蓮系宗派の教義の中には、
日蓮の真蹟遺文に根拠があるとは言い難いものもある(日蓮正宗や創価学会が掲げる「日
蓮本仏論」は、その典型である)。

 ※ 日蓮正宗や創価学会が「日蓮本仏論」の根拠としてきた『百六箇抄』『本因妙抄』
  『産湯相承事』は偽書である。

 一個人の信仰として、あるいは信仰を共にする集団の内部でなら、史実の裏付けのない
こと、実際の宗祖の教えと異なることを信じるのも自由である(当然だが、「本当の宗祖
の教えは何か」を探求したり、信仰をやめたりするのも自由である)。

 例えば、カトリックの信者が聖人の加護を祈ったり、四国の霊場巡りをする人が、「同
行二人」――弘法大師空海が巡礼者に付き添ってくださるという信仰――を信じたりした
からと言って、それを批判するのはどうかと思う。

 「日蓮本仏論」だって、個人で信じるだけなら当人の勝手である。
 だが、個人での信仰の範囲を超え、他者の内面の自由にまで立ち入ってくるとなると、
話は別である。

 思想や信仰を異にする者をも納得させるには、客観的に検証しうる事実や学問的な裏付
けを提示することが必要である。

 しかるに創価学会は、何の根拠もない思い込みを「唯一絶対に正しい」と主張して、強
引な折伏を繰り返してきた(昨年11月18日の創立記念日に合わせて打ち出した方針でも、
今後とも折伏を重視するとしている)。

 創価学会が「末法の御本仏・日蓮大聖人が説き明かされた世界最高の仏法哲学」だと言
い張ってきた言説の中には、偽書に基づいているものもある。

 池田大作がしばしば引用してきた「色心不二なるを一極と云う」という言葉がある。こ
の文言の出典は『御義口伝』である。

 『御義口伝』は日蓮による法華経講義を弟子の日興が書き記したもの、ということにな
っているが、日興筆の原本も古い時代の写本も現存しない。それどころか、現代では偽書
と見なされている。

 また、日蓮真蹟に由来する言葉であっても、それだけで普遍的真理であることには、当
然ならない。日蓮もまた一人の人間であり、人間であるが故の不完全さや、彼が生きた時
代の制約を免れることはできないのだから(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。

 創価学会は、日蓮の思想を成立せしめた歴史的背景や当時の社会事情等の文脈をまった
く無視したり、あるいはご都合主義的な解釈を施したりし、それどころか本当に日蓮の教
えかどうかの検討さえも怠って、自分たちの根拠薄弱で矛盾だらけの教義を「御本仏大聖
人が開示した真理」だとか、「創価学会に入らないと地獄に堕ちる」だとか強弁し、他人
にゴリ押ししてきた。

 こうした姿勢は、根拠のある説明を欠いているという点で、彼らの折伏の標的とされた
人々に対して不誠実であるというだけでなく、日蓮の思想を真摯に探求しようという姿勢
を欠いているという意味では、日蓮に対しても不誠実である。

 ほとんどの創価学会員は、「唯一絶対に正しい自分」に陶酔しているだけで、他人の迷
惑に対する斟酌や、「本当に正しいと言い切れるのか」を突き詰めようとする知的誠実さ
が欠如した、どうしようもない連中なのだと言わざるを得ない。


補足 『弥源太殿御返事』からの引用(末尾部分)

>  其の上日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼の国は天照太神のすみそめ
> 給ひし国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出だし給ふ。あはの国御くりや
> なり。しかも此の国の一切衆生の慈父悲母なり。かかるいみじき国ならん。日蓮又彼
> の国に生まれたり、第一の果報なるなり。此の消息の詮にあらざれば委しくはかかず、
> 但おしはかり給ふべし。
>  能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあかなくして所願を成就し給へ。女房にも
> よくよくかたらせ給へ。恐々謹言。

 ※ 本文で述べたとおり、この遺文には真蹟も古写本も現存しないが、信仰上重視され
  てきた。創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも収録されている。
   また、真偽は定かではないものの、日蓮には比叡山や高野山等に遊学していた頃に、
  伊勢神宮に参拝したとの伝承もある。

2019年2月3日日曜日

日蓮と神祇信仰

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 創価学会員が信仰上の理由から神社に参拝しないことは、よく知られている(逆に脱会
した元学会員には、神社にお参りするようになる方が少なからずいるようである)。

 学会員が神社を避けるのは、「神天上の法門」という教義によっている。この教義は日
蓮の代表的著述である『立正安国論』が根拠となっている。


>  夫四経の文朗らかなり、万人誰か疑はん。而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄りに邪説
> を信じて正教を弁へず。故に天下世上諸仏衆経に於て、捨離の心を生じて擁護の志無
> し。仍って善神聖人国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道災を成し難を致すなり。
 (『立正安国論』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 「四経」とは金光明経・仁王経・薬師経・大集経の四つの経典のこと。この一節の
  直前に引用されている。


 日蓮は『立正安国論』において、人々が邪説――法然の念仏信仰――を信じて「正教」
である法華経をないがしろにしたために、善神が国を去り、「悪鬼外道災を成し難を致す
なり」と主張した。

 「神天上の法門」は元々は日蓮正宗の教義だが、創価学会は破門された現在も、これを
受け継いでいる。創価学会の教学書から「神天上の法門」についての説明を引く。


>  日蓮大聖人は主著「立正安国論」で、緒経典に基づいて「神天上の法門」を説き示
> されています。
>  国土を守護する善神は、正法の功徳を栄養として、威光・勢力を持ち国土を守護し
> ます。国土に誤った思想・宗教を根本とする風潮が広がって正法が失われてしまうと
> 善神たちは法味に飢えて、守護すべき国土を見捨てて天井に去ってしまい、そのあと
> に悪鬼・魔神が侵入して種々の災難が起こるという考えです。
 (創価学会教学部編『教学入門』より引用)


 創価学会員はこの教義に基づき、「神社は魔の棲み処」などと主張し、神社に参拝する
と魔の働きで災難が訪れると信じてきたのである。

 だが、『立正安国論』には「神社は魔の棲み処」とまでは書かかれてはいない。
 「神社に参拝するな」というのが、日蓮の教えだというのは、創価学会や日蓮正宗によ
る解釈でしかないのである。そしてこの解釈は、日蓮の真意に合致したものとは信じがた
い。

 文永8年(1271年)、日蓮は幕吏に捕らえられ、竜の口の刑場において斬首されそうに
なっている。

 その事件を記述した『種々御振舞御書』(真蹟 身延曾存)には、刑場にいたる途中、
日蓮が八幡宮の前で「八幡大菩薩はまことの神か」と呼びかけ、法華経の行者である自分
を守護するよう訴えた、との記述がある(当該箇所は補足で引用)。

 日蓮が「神社は魔の棲み処」と考えていたならば、神社の前で救いを訴えるはずがない
ことは、考えるまでもないことである。

 法華経の序品には、釈尊に説法を聞くために、仏教に護法神として取り入れられたイン
ドの神々も集まっていたと記述されている。日蓮はその場に、日本の神々もいたと考えて
いた。


>  此の御経を開き見まいらせ候へば明かなる鏡をもつて我が面を見るがごとし、日出
> でて草木の色を弁えるににたり、序分の無量義経を見まいらせ候へば「四十余年未だ
> 真実を顕わさず」と申す経文あり、法華経の第一の巻・方便品の始めに「世尊の法は
> 久しき後に要らず当に真実を説きたもうべし」と申す経文あり、第四の巻の宝塔品に
> は「妙法華経・皆是真実」と申す明文あり、第七の巻には「舌相梵天に至る」と申す
> 経文赫赫たり、(中略)此の語は私の言には有らず皆如来の金言なり・十方の諸仏の
> 御評定の御言なり、一切の菩薩・二乗・梵天・帝釈・今の天に懸りて明鏡のごとくに
> まします、日月も見給いき聞き給いき其の日月の御語も此の経にのせられて候、月氏・
> 漢土・日本国のふるき神たちも皆其の座につらなり給いし神神なり、天照太神・八幡
> 大菩薩・熊野・すずか等の日本国の神神もあらそひ給うべからず
 (『千日尼御前御返事』真蹟 佐渡妙宣寺)


 日蓮はこの遺文で、法華経の説法の場には「日本国のふるき神たちも皆其の座につらな
り給いし」と述べ、法華経が最も優れた経典であることについては、「日本国の神神もあ
らそひ給うべからず」としている。

 日蓮が日本の神祇も、法華経を守護する存在と考えていたことは明白である。
 だからこそ、彼が図顕した十界曼荼羅には、天照大神や八幡神も勧請されているのであ
る(創価学会の本尊も十界曼荼羅が基になっており、天照太神・八幡大菩薩の名も記され
ている)。

 法華経の法味に飢えて善神が去り、災いが起こるというならば、逆に法華経の法味を奉
ることで善神の加護を願うという考え方も、あってよさそうなものである。

 事実、日蓮宗の寺院には、境内に神社が併設されているところも少なくない。当然だが、
日蓮宗には神社への参拝を禁じる教義はない。

 私には、日蓮宗の方が創価学会よりも日蓮の思想に忠実なように思えるのだが……。
 また、日蓮正宗の古くからの檀信徒も、実際には神社への参拝を拒否する風潮はないそ
うである。

 創価学会が神社を敵視してきたのは、それが日蓮の教えだからというよりも、一部の学
会員が抱く、日本の伝統への強い敵意に基づいているのかもしれない。



補足 『種々御振舞御書』の記述

>  さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉
> をいでしに、わかみやこうぢにうち出で四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮
> 云はく、各々さわがせ給ふな、べちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事あり
> とて、馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清
> 丸が頸を刎ねられんとせし時は長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をか
> うぜさせ給ひし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一
> の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を
> 謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国
> をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏、法華
> 経を説き給ひしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、
> 星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・
> 日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓
> 状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮
> が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給ふべきに、いかに此の
> 処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す。さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山
> 浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請用ひぬかみにて候ひけれ
> と、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ
> 御計らひあるべしとて又馬にのりぬ。

2019年1月27日日曜日

日蓮と良観房忍性

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 奈良時代に鑑真が渡来し、東大寺等に戒壇が設けられて以来、授戒を受けることが正式
な僧侶として認められることでもあったが、鎌倉時代になると授戒は形骸化し、戒律を守
らない僧侶も多くなった。

 日蓮のように「末法無戒」を唱え、その現状を是認する者もいたが、逆に危機意識を持
って戒律復興運動に取り組む僧侶も現れた。

 戒律復興運動において中心的な役割を果たした僧侶の一人は、西大寺を拠点とした叡尊
だった。その叡尊の高弟で後に関東に拠点を移し、日蓮と同時期に鎌倉で活躍したのが、
良観房忍性である。

 忍性は鎌倉幕府から極楽寺を与えられ、戒律の普及だけでなく慈善活動にも取り組み、
持戒の聖僧として、身分の上下を問わず多くの人々から敬われ、その教団は当時の鎌倉で
最大の勢力を持つに至った。

 「末法無戒」という戒律を否定する思想を持つ日蓮にとっては、これは受け入れ難いこ
とだった。

 忍性は密教僧でもあり、幕府に請われて祈祷を行うこともたびたびあった。日蓮はこれ
に目をつけ、文永8年(1271年)の干ばつに際し、忍性が請雨の祈祷を行った際、以下の
ような挑発を行ったという。


>  七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて
> 二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然
> なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と守敏
> と弘法となり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入
> 道は良観が弟子又念仏者なり、いまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、
> 七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば
> 一向に法華経になるべし
 (『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)


 日蓮は、「忍性の祈祷により七日の内に雨が降れば、日蓮はこれまでの非を認めて忍性
の弟子となり戒律を守る。しかし、雨が降らなければ忍性とその弟子たちが、一向に法華
経になるべし」と言ったのだという。

 果たして七日の祈祷の間に、雨は降らなかった。
 それを見て日蓮は次のように書き送ったという。


>  一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだにふらし給はず、況
> やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ、
> 後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道
> をしへ奉らむ
 (同上)


 祈祷の成否によりどちらの法門が正しいか勝負を決し、負けた方が弟子になるというの
は日蓮が勝手に言ったことであり、忍性がそんな約束に応じていたとは考えにくい。

 また、この件についての忍性側の記録は残っておらず、日蓮の書き残していることがど
こまで事実かも、今となっては確認のしようがない。

 伝説ではこの後、日蓮が法華経の読経により請雨の祈祷を行い、見事雨を降らせたこと
になっている。だが、日蓮自身はそんなことはどこにも書いておらず、この伝説は後世の
脚色と考えるべきだろう。

 この数カ月後、日蓮は幕府に捕らえられ、一度は斬首されそうになったものの、それを
免れ佐渡島に流罪になった(竜の口の法難)。

 日蓮は、斬首されそうになったことについて、雨乞いの失敗の件を恨んだ忍性の讒言に
よるものだと主張している。


>  然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまま
> に日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を
> 構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か
 (同上)


 創価学会をはじめとする日蓮系の教団では、日蓮の記述を真実とし、良観房忍性は慈善
家ぶった偽善者で、その実、日蓮の殺害を企てた悪人ということになっている。

 だが、日蓮による他宗の僧侶への批判には、事実とは認め難いものも多く、忍性に対す
る非難もそうした例の一つである可能性は小さくない。
 忍性の事績について、現代の仏教学者は以下のように述べている。


>  叡尊の弟子で良観房忍性は十三歳のとき肉食を断つことを誓ったほどで、戒律の研
> 究実践に熱心であったが、社会事業においては師にまさる成績をあげた。一二七四年
> の飢饉、一二八三年の疫病流行のときは弟子たちを動員して大活躍をした。非人の救
> 済、病院の経営、捨子の養育など活動範囲はきわめて広いが、その生涯の総決算とし
> て、寺院の造営八十三、橋をかけること百八十九、道をつくること七十一、井戸を掘
> ること三十三のほか、浴室(公衆浴場)・病室(病院)・非人宿などが数えられ、聖
> 徳太子の業績をしのんで四天王寺に悲田院・敬田院を設けた。一二八七年に建てられ
> た桑谷療病所では二十年間に全治者四万六千八百人、死亡者一万四百五十人で、八割
> までが助かっているが、当時としてこれだけの成績を上げるためには並々ならぬ苦心
> を要したことであろう。また奈良の西大寺にいた頃は、かつて光明皇后が癩患者を洗
> ったと伝えられる般若坂北山の癩病舎を復興して救済したが、手足が不自由で乞食に
> 出られない一人の病人を一日おきに背負って朝、街に連れて行き、夕方には病舎に運
> び、乞食で生活がなりたつようにしてやった。これが休みなしに数年間続いたという。
>  さらに特筆すべきことには、忍性は一二九八年には馬病舎を建てている。これも生
> 類に対する限りない慈愛にもとづくものである。
 (中略)
>  ところが、忍性が鎌倉極楽寺にいたころ、日蓮もやはりこの地にあって、前に記し
> たように建長寺の道隆を攻撃したのみではなく、忍性にも対決を迫ったが、二人とも
> 相手にしなかった。忍性が社会奉仕に身を捧げている事実を知りながら、これを公然
> と非難した日蓮には結局のところ本格的な仏教はわからなかったものであろう。日蓮
> がいわゆる四箇の格言の中で〈律国賊〉と言って罵ったのは他ならぬ世の人から〈医
> 王如来〉として慕われたこの忍性のことだったのである。
 (渡辺照宏著『日本の仏教』より引用)


 忍性のような人物が、いくら悪口を受けたからといって、それを恨んで人を死罪に追い
やろうとしたとは、私には思えない。

 上流の武士から最下層の貧民にいたるまで、多くの人から慕われていた忍性を悪しざま
に言い続けた日蓮に憤った有力者が、彼を厳罰に処すよう幕府に働きかけた結果として、
竜の口の法難にいたり、それを日蓮が忍性によって陥れられたと思い込んだというのが、
真相に近いのではないだろうか。

 日蓮が法華経を重視した理由には、それが二乗作仏や女人成仏を説いているということ
も含まれていた。つまり、誰しもが救われるという教えが説かれているからこそ、法華経
は貴いとしたのである。

 また、日蓮は「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振
舞にて候けるぞ」(『崇峻天皇御書』真蹟 身延曾存)とも述べている。

 鎌倉時代という、民衆をさいなむ災害や兵火が絶えなかった時代に、実際の「振舞」で
万人を救おうとしたのは、日蓮と忍性、どちらだっただろうか?

2019年1月20日日曜日

日蓮と律

※ 今回も日蓮遺文等(古文)の引用やや多め。

 日蓮は「律国賊」と主張し、宗派としての律宗だけでなく、本来、僧侶であれば遵守す
べきである戒律そのものまで敵視していた。


>  西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく
> 小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありし
> かば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。
 (『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


>  日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成
> 実・律宗なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論
> ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧
> はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・
> 三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒
> を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし
 (『聖密房御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮は、大乗と小乗を分かつものは戒だと述べ、天台宗以外の宗派は戒律という点から
いえば小乗なのだと主張している。

 この考え方は、日本に天台宗を伝えた伝教大師最澄に由来する。
 僧侶になるとは、本来、戒律を遵守することを意味していた。そして、出家者が保つべ
き戒律は、250にも及んだ。

 最澄はこの二百五十戒を一方的に「小乗戒」と決めつけて、それを捨てることを宣言し、
さらに、「大乗戒」に基づいた新しい戒壇を比叡山に設けることの許しを朝廷に求めた。

 最澄が主張した「大乗戒」とは、梵網経に説かれている「十重四十八軽戒」というもの
で、戒律の数は58しかなく、それまでと較べると大幅な緩和である。

 「十重四十八軽戒」は本来、出家者ではなく、在家修行者向けの戒律だったようだが、
最澄は「日本は大乗仏教の国だから、戒律も小乗のものではなく、大乗のものを用いるべ
きだ」と主張したのである。

 最澄の訴えは、彼の死の直後に認められ、比叡山にも新たに戒壇が設置されることにな
った。こうして比叡山天台宗は、奈良の旧仏教勢力からの影響を排し、独自の発展を可能
にする地歩を固めたのである。

 最澄が「大乗戒」を主張した理由は、旧勢力と距離を置くことのほかに、実際、250も
の戒律を厳密に守ることが困難だったこともあるという。

 「大乗戒」による戒律の緩和は、その後の仏教の堕落を招いたという面もあるにせよ、
事実として鎌倉仏教の宗祖たちは、日蓮を含め皆、比叡山延暦寺で学んでおり、日本の仏
教のあり方を決定した、歴史上、重要な出来事であることについては異論は出ないだろう。

 日蓮は、鑑真が渡来したことを契機に設けられた三戒壇、即ち、奈良東大寺、大宰府の
観世音寺、下野国の薬師寺の戒壇は「小乗臭糞の戒」で「其れを持つ法師等は野干猿猴等
のごとし」と罵っているが、彼が天台宗の教義と正統性にそれだけ自信を持っていたこと
の表れなのだろう。

 それにしても「臭糞の戒」は言い過ぎではないか、と思われる向きもあるかと思うが、
これは法華七喩の一つ「長者窮子の譬え」に由来している(煩雑になるので補足で説明す
る)。

 日蓮が戒律を否定したもう一つの根拠は、最澄が撰述したとされてきた『末法燈明記』
に記された「末法無戒」という考え方である。

 『末法燈明記』は現代では偽書だと見做されているが、鎌倉時代においては、実際に最
澄が書いたものと信じられていた。日蓮もそう考えており、日蓮遺文の中には『末法燈明
記』の一節を最澄の言葉として引用しているものもある。一例を示す。


>  伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の
> 弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末
> 法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。
 (『四信五品抄』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 最澄が「二百五十戒を捨てた」のは上述したように史実であるが、鑑真の弟子や七
  大寺までもが一同に捨てたというのは誇張である。
   しかしながら、250もの戒律の遵守を負担に感じる僧侶は、興福寺等の南都七大寺
  にも多かったようで、比叡山に大乗戒壇が設置された後は、南都の僧の中にも東大寺
  ではなく、比叡山での授戒を希望する者もいたという。


 「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」の
出典が『末法燈明記』である。

 日蓮の思想をより正確に理解するために、『末法燈明記』に記された「末法無戒」とい
う考え方がどのようなものかを、もう少し詳しくみていく。

 『末法燈明記』は、上述のように末法においては「持戒の者有らば是れ怪異なり」とし、
戒律を守らない名ばかりの僧しかいなくなると述べている。その根拠としては、大集経が
引用されている。


>  一切世間には仏宝無価なり。もし仏宝なくば縁覚無上なり。もし縁覚無くば羅漢無
> 上なり。もし羅漢なくば余の賢聖衆をもて無上なり。もし余の賢聖衆なくば得定の凡
> 夫をもて無上とす。もし得定の凡夫なくば浄持戒をもて無上とす。もし浄持戒なくば
> 漏戒の比丘をもて無上とす。もし漏戒なくば剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字の比
> 丘を無上の宝とす。

 ※ 「無価」とは評価できないほど優れているという意味である。


 『末法燈明記』には、この経文が説く「仏宝」から「名字の比丘(名ばかりの僧)」が、
正法・像法・末法のいずれに対応するかが、続いて述べられている。


>  この文のなかに八重の無価あり。いわゆる如来に、縁覚、声聞、および得定の凡夫、
> 持戒、破戒、無戒名字、それついでのごとし、各正像末のときの無価の宝とするなり。
> はじめの四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。これによりて明
> らかに知ぬ。破戒無戒ことごとく真宝なり。


 仏教とは「仏・法・僧」の三宝を敬うものであるが、『末法燈明記』は「末法において
は戒律を守る者などなく、髪を剃って袈裟を着た名前ばかりの僧がいるだけだが、破戒・
無戒の僧でも真の宝である」と主張しているのである。

 日蓮はこうした思想を、彼が尊敬してやまなかった伝教大師最澄が説いたものと信じて
いた。そして戒律を守る僧侶を「野干猿猴等のごとし」だとか「法師ににたる大蝗虫」な
どと嘲ったのである。

 さて、話は現代に飛ぶが、創価学会は日蓮正宗から破門されて以降、「戒律を守らず肉
食妻帯する僧侶など敬う必要などない」と主張してきた。

 しかし、これは日蓮の思想とは相容れないものである。「日蓮大聖人直結」をうたう創
価学会であるが、自分たちに都合が悪ければ、日蓮の思想など平気で無視する連中なのだ。

 前回も述べたように、鎌倉時代を生きた日蓮の主張には、現代の仏教学・文献学により
明らかになった事実に照らせば、幾多の瑕疵があることは否めない。

 時代の制約は誰であれ免れることは難しいものであり、それは致し方のないことである。
だが日蓮が「末法無戒」を無批判に受け入れたことは、「時代の制約」のせいばかりとは
言い切れないように思う。

 なぜなら、栄西も『興禅護国論』で『末法燈明記』について言及しているが、「末法無
戒」は退けているし(栄西は「持律第一」と称されるほど、戒律に厳格だった)、鎌倉時
代は戒律復興運動も盛んであったからである。

 日蓮と同時期に鎌倉で活躍し、彼が敵視した良観房忍性こそが戒律復興運動の立役者だ
った。日蓮と忍性については、次回に論じたい。



補足1 「小乗臭糞」について

 本文でふれたように日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、法華経信解品に説かれ
ている「長者窮子の譬え」に基づいている。

 「長者窮子」については、ウィキペディアの「法華七喩」の項に概略が記されている
ので、そこから引用する(あわせて若干の解説も付け加える)。


>  ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあ
> げく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だ
> と確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるの
> が嫌で逃げてしまう。

 ※ 息子が逃げたのは、長い流浪生活により卑屈になり、長者の権勢に怯えたからで
  ある。法華経には「志意下劣」とある。

>  長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一
> 緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
>  そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も
> 立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱
> 心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を
> 任せ、実の子であることを明かした。

 ※ 「一番汚い仕事」とあるが、法華経には「雇汝除糞(汝を雇うことは、糞を払わ
  しめんためなり)」ある。つまり「くみとり」のことである。

>  この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切
> の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表し
> ている。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解し
> た内容を釈迦仏に伝える形をとっている。


 大迦葉がこのたとえ話をしたのは、「自分たちの資質では、不完全な悟りにしか至れ
ない声聞に甘んじるしかなく、真の悟りを開いて仏になることはできないと思い込んで
いた――これを卑屈な息子にたとえた――が、釈尊から法華経の説法を聞いて、自分た
ちも成仏できるのだと分かった」という感激を表すためである。

 法華経以前に作られた大乗経典では、上座部(小乗)を敵視し、その修行者を不完全
な悟りに甘んじる者たちとして見下す面があった。法華経は大乗仏教の立場から、小乗
の修行者を包摂しようとの意図をもって作られたと考えらている。

 日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、この法華経の譬喩に基づいているのである。


補足2 禅宗と戒律

 日蓮が禅宗を敵視した理由の一つは、禅僧が戒律を重視したからである。『撰時抄』に
次の記述がある。

>  禅宗は又此の便を得て持斉等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、
> いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。

 「持斎」とは戒律を守る者のことである。「末法無戒」を主張する僧がいた一方で、戒
律を守る僧が「たっとげなる気色」と敬われていたことも見て取れる。

2019年1月13日日曜日

日蓮と真言

※ 今回は日蓮遺文(古文)の引用やや多め。

 日蓮による他の宗旨への批判の中には、史実に基づかないもの、首を傾げたくなるもの
も少なくない。

 真言宗に対しても、その根本経典の一つである大日経を中国に伝えた善無畏三蔵(637
~735年)が、「中国にきた後で、天台宗の肝要である『一念三千』について知り、優れ
た教義であったためにそれを盗み、大日経にも『一念三千』と同様の考え方が、もとから
あったかのように事実を偽って解釈した」と非難してるが、これは史実に照らして妥当性
があると言えるだろうか。


>  善無畏三蔵、震旦に来たって後、天台の止観を見て智発し、大日経の「心実相、我
> 一切本初」の文の神(たましい)に、天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とし
> て、其の上、 印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の
> 釈をつくれり。
 (『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 一念三千とは、天台大師智顗(538~598年)の『摩訶止観』に由来しているが、智顗の
様々な教説を整理し、この教義を「終窮究竟の極説」とまでに宣揚したのは妙楽大師湛然
(711~782年)だった。

 湛然は「あらゆる事象には『空・仮・中』の三つの側面があると観じる、一心三観・三
諦円融が法華経の三通りの読み方――『三転読』という――に表れているという智顗の説
が、一念三千にも組み込まれている」という解釈を、『摩訶止観』の注釈書である『摩訶
止観輔行伝弘決』で述べ、一念三千を天台の「終窮究竟の極説」としたのである。

 日蓮も『摩訶止観輔行伝弘決』から多大な影響を受けていた。
 ただ、『摩訶止観輔行伝弘決』が成立したのは、西暦765年である。735年に世を去った
善無畏三蔵が、これを参照して「一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とした」というのは、
あり得ない話である。


 本邦に真言密教を伝えたのは、真言宗を開いた弘法大師空海であるが、その影響は大き
く、日蓮が属していた天台宗も密教化した(真言宗の「東密」に対して、天台宗は「台密」
と呼ばれる)。

 日蓮は、天台宗が密教教典を法華経よりも重視するようになったことについて、第三代
天台座主を務めた慈覚大師円仁を批判している。


>  あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大
> 乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最
> も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故
> に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり
> 諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の
> 心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝
> の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に
> 付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候
 (『慈覚大師事』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 金剛頂経は大日経と並ぶ密教の根本経典である。仏の慈悲を象徴する胎蔵界曼荼羅
  が大日経に基づくのに対し、智慧を象徴する金剛界曼荼羅は金剛頂経に基づいている。


 日蓮は、円仁が密教経典である金剛頂経を法華経よりも重視したことについて、「鶴の
首を切ってガマの首につけたようなもので、真言のガマは死ぬだろうが、法華経の鶴の首
は切れない」などと、妙なたとえ方をしている。

 だが、日蓮の法華経解釈も、相当に密教の影響を受けている。
 『開目抄』においては、盗人呼ばわりしていた善無畏が伝えた法華肝心真言を引用して
「南無妙法蓮華経これなり」と述べている(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。

 日蓮のやったことは、彼の言葉を借りるならば「ガマの皮をはいで、鶴にかぶせた」よ
うなものではないかと、私には思える。


 日本の中世においては、様々な偽書が作られた。日蓮遺文とされてきた古文書の中にも、
現在では偽書と見なされているものが多い。

 現代においては文書偽造は犯罪であるが、中世においてはそうしたことは罪にあたると
は見なされていなかった。「事実や史実を、どのように評価すべきか」ということに関す
る規範のあり方が、大きく異なっていたのである。

 中世人であった日蓮もまた、そうした時代性にとらわれていた。その意味では現代の規
範を杓子定規にあてはめて、日蓮を批判するのは酷なのかもしれない。

 日蓮遺文から、中世の人々の考え方の一端を学ぶことはできるだろう。実際、鎌倉時代
を専門とする歴史学者にとっては、日蓮遺文は重要な史料だという。

 だが、「御本仏大聖人が、歴史を超越した唯一無二の真理を開示したもの」として読む
のは――そうした信仰を持つのも個人の自由とはいえ――かなり無理があると言わざるを
得ない。


補足

 以前も述べた通り、私自身は歴史や仏教について専門的な教育を受けたことはない。
 鎌倉仏教やそれを生んだ時代背景についての知識も、一般向けの概説書・入門書に頼っ
てきたのが正直なところである。

 本文で鎌倉時代の規範意識は現代とは大きく異なっていたと述べたが、こうした知識を
得る上で、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著 講談社選書メチエ)がたいへん役立った。
 参考までに、本書から私が興味深く感じた箇所を引用する。


>  日本だけでなくおよそ近代国家といわれるところでは、法律や判例はすべて司法当
> 局が一括して保管することが常識となっている。その蓄積された法源の中から最終的
> にどれを適用するかは、判事の責任であった。
>  けれども、鎌倉幕府の裁判制度では事情はまったく違っていた。幕府の法廷には体
> 系的な形での式目や判例の蓄積はなかった。そのため裁判が起こると幕府は、当事者
> 自身に当該訴訟に関わる法律の提出を命じることになった。同じような争点をもつ近
> 接する二つの裁判で、別個の法令が適用されて異なった判決が下されることも、少し
> も珍しいことではなかったのである。
>  その結果、当然予想されることではあるが、中世の裁判では式目や判例の偽作が頻
> 繁に行われることになった。「先例」の名のもとに、勝手な判例がでっちあげられて
> いった。この場合、そうした「先例」によって不利益をこうむる相手方は、即座にそ
> れを偽書としてその効力を否定した。だがここでも、偽書イコール絶対悪という発想
> はうかがえない。その相手方もまた、裁判を勝利に導くためなら、法律や判例を偽作
> することにいささかの躊躇もなかった。


 こうした事情は、歴史学について専門的な訓練を積んだ人にとっては当然のことなのか
もしれないが、私を含め多くの一般人は、現代の「常識」を前提として、過去を理解しよ
うとする弊に陥りがちである。

 鎌倉時代では、訴訟において僧侶が現代の弁護士と同様の役割を担うことがあった。日
蓮もそうした活動を行っていたといわれる。

 日蓮による他宗僧侶への批判には、本当に事実か疑わしいものもあるが、その背景には、
日蓮が引用にあるような事態を経験してきたという事情があるのかもしれない。

 日蓮遺文を読む際には、彼が生きていた時代の「当たり前」が、現代とは大きく異なっ
ていたことに、十分に留意すべきなのだと思う。

2019年1月6日日曜日

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  衆議院総選挙(2017年)の結果について

  平成29年をふりかえって

  創価学会の創立記念日

  平成30年をふりかえって



 明けましておめでとうございます。
 今年は選挙の年です。4月には統一地方選挙、7月には参議院選挙が実施されます。衆参
同日選挙の可能性も取り沙汰されています。

 選挙の結果次第では、つまり公明党が大きく議席を減らしたりすれば、創価学会の衰退
に拍車をかけることになるでしょう。

 池田大作が選んだ人、即ち公明党の候補に、自分で投票したり他人に投票させたりすれ
ば、それが「功徳」になり、「ご利益」をもたらすのだというふざけた理由で選挙活動を
する連中がのさばり、選挙結果にも小さからぬ影響を及ぼし続けていることは、候補者の
政策や人柄を見きわめて投票しようとする、多くの有権者の良識や民主主義に対する愚弄
だと思うのは、私だけではないはずです。

 また、強引な勧誘をはじめとする悪質な人権侵害を現在も続けている創価学会が、公明
党を介して権力に取りついている現状は、決して好ましいものではありません。

 当ブログの影響力など微々たるものでしょうが、邪悪なカルト・創価学会の弱体化にわ
ずかなりとも貢献できるよう、頑張りたいと思います。

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