当ブログをご覧の中には、過去に創価学会員から折伏を受け、彼らに何を言っても話が
通じず、辟易させられた経験がある方もいらっしゃることと思う。
学会員は他の宗教をすべて否定するが、創価学会だけは正しいと言える理由について、
まともな説明をすることはない。
私は、これまでに『人間革命』等の創価学会の出版物に、それなりの数、目を通してき
たが、それらの中にも創価学会の正当性について、外部の人間を納得させられる根拠を示
しているものはなかった。
一般的には、何らかの主義主張を訴える人間は、自説の根拠を提示することで他人を説
得しようとするものである。
例えば、地球温暖化対策の必要性を訴える者は、二酸化炭素等の温室効果ガスの増加が
地球の平均気温を上昇させ、それに起因する気候変動が人類の存続に対する脅威となりか
ねない等の説明をするであろう。
それに対し温暖化対策の必要性に懐疑的な者は、前提となっている温室効果ガスや気候
メカニズムについての科学的データの妥当性や、対策に要するコストの費用対効果を論じ
ればよい。
客観的に検証可能な論拠を双方が提示することで、どちらがより妥当かを合理的に判断
することができるし、結論が出なかったとしても、双方の主張がより整理され、洗練され
たものとなるなど、実りある成果が得られるはずである。
しかし、創価学会員を含めたカルト信者は、自分たちと異なる信仰を憎悪し否定するこ
とには熱心だが、自説の正当性を論理的に提示しないので、まともな対話が成り立たたず、
彼らと議論しても徒労感しか残らない。
今回は、こうした狂信者の心理について、20世紀のアメリカを代表する知識人の一人、
エリック・ホッファーの『大衆運動』(高根正昭 訳 原題:THE TRUE BELIEVER)に基
づいて論じたい。
『大衆運動』は、宗教改革、民族主義運動、共産主義革命、ナチズム等の社会に変革を
もたらした社会運動をテーマとしており、中でもそれらの運動の推進力であった狂信的な
信奉者の分析に焦点が当てられている。
現在の創価学会は体制の補完勢力に堕しているように見えるが、勢力の拡大期であった
昭和20年代後半から30年代にかけては、「国立戒壇」の実現など、現行憲法の下では実現
不可能な目標を掲げていた。
ホッファーは、体制の変革を目指す大衆運動に身を投じるのは、現状への欲求不満を持
つ人々だとし、次のように述べている。
> 欲求不満をもつ者は、みずからの欠点によって打ちひしがれ、自分の失敗を現存す
> る束縛のせいにする。ほんとうのことをいえば、彼らの心のいちばん奥底にある願い
> は、「万人のための自由」に終止符を打つことなのである。彼らは、自由競争と、自
> 由社会内部の個人がまぬがれることのできない無慈悲な試験とを除き去ってしまいた
> いのである。
(『大衆運動』P-38)
> 大衆が切望する自由は、自己表現や自己能力達成の自由ではなくて、自主的存在と
> いう堪え難い重荷からの自由なのである。彼らは、「自由な選択というおそろしい重
> 荷」から自由になることを、そして無力な自己を自覚し、傷つけられた結果への非難
> をひき受けるという骨の折れる責任から自由になることを求めている。彼らは、良心
> の自由ではなくて信仰を――つまり盲目的、権威主義的な信仰を――求めている。
(同書 P-160)
創価学会の拡大期にその信仰に身を投じたのは、新規に都市住民となった中でも、学歴
のない人々だった。
高等教育を受けていないために、専門的な知識や技能を身につけておらず、自由競争の
下で社会的地位を上昇させられる望みの薄い人々にとって、創価学会の独善的で権威主義
的な教義は魅力的だったのである。
「末法の御本仏・日蓮大聖人」という至高の存在の前では、現実社会の様々な競争や試
練も、その結果としての優勝劣敗も、等しく無意味なものとなる。
いや、自由競争の勝者といえども、唯一絶対の信仰を受け入れないならば、来世で地獄
に落ちて当然なのだ。みじめな現実から逃避したい者にとって、この幻想は蠱惑的だった。
当然ながらその教義は、人生のすべてを賭ける価値がある、絶対に正しいものだと信じ
られるものでなければならない。
ホッファーは、そのような教義の条件は「理解されないこと」だと述べている。
> それゆえ、教義が効果的であるためには、明らかに、それは理解されてしまっては
> 困るのであり、信じ込まれなければならない。われわれは、まだ理解していないこと
> にだけ絶対的な確信をもつことができるのである。教義は、理解されると、その力を
> 奪われてしまう。いちどわれわれが一つの事を理解すると、それは、まるでわれわれ
> の内部から生じたかのようになる。そして、自己を捨て、自己を犠牲にすることを要
> 求されている人びとが、その他ならない自己の内部で生じた何物かに、永遠の確実性
> があるなどと考えることのできないのは明らかである。彼らが、ある事物を完全に理
> 解するということは、彼らにとって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つ
> けられるということなのである。
(同書 P-91)
ある考えを理解することは、その考えが自らの着想したものと同様に内面に刻まれ、い
つでも引き出せるようになることを意味する。
自分自身の意志と能力で、道を切り開き、競争を勝ち抜くことを断念した者にとっては、
完全に理解され「自分の考え」と同様になってしまった思想は、自己がそうであるように、
人生を賭ける価値などない、頼りないものでしかないのだ。
普通の人は、自分が正しく理解できていると感じるからこそ、信念に自信を持つものだ
が、狂信者が求めるのは、自分には理解できないが、それ故にこそ「絶対に正しい」と感
じられる教義なのである。
だからこそ、創価学会員をはじめとするカルト信者は、「自分たちが信じるものは絶対
に正しい」と主張するにもかかわらず、その理由をきちんと説明できないのだ。
現在の創価学会では、第一世代の多くは世を去るか高齢化し、二世三世が主流となって
いる。二世三世の中には、高度な教育を受け、社会的な成功を収めているにもかかわらず、
狂信的な信仰を受け継いでいる者もいる。
熱心な創価学会の家庭で育てられた者は、幼少時から何ごとにつけて「御本尊のおかげ」
と教えられるために、自己の才覚や努力で成し遂げたことであっても、それを自分の実力
と思えなくなってしまうのである。
マインドコントロールにより、心の奥底に自己否定が刻まれた者は、それなりの知性が
あっても、狂信に身を委ねざるを得なくなるのだ。カルトの悪弊が、世代を超えて伝播し
てゆくのである。
先に引用したように、ホッファーは「ある事物を完全に理解するということは、彼らに
とって、かつては妥当であり確実であったものが、傷つけられるということ」だと指摘し
ている。
学会員がマインドコントロールから解放されるためにも、創価学会について、自分で考
えることが効果的なはずである。
当ブログでも指摘してきたように、『人間革命』や『折伏教典』をその内容を検証しな
がら読めば、創価学会がおかしいことはすぐに分かる。
本稿をお読みの学会員がいらっしゃれば異論が出そうだが、そんな方には、折伏や仏法
対話をする際に、相手の宗教を否定するだけでなく、「創価学会は唯一絶対に正しい」と
誰もが納得せざるを得ない根拠を、示せるようになっていただきたいものである。