2017年6月30日金曜日

藤井富雄氏について

 藤井富雄氏は、公明党について論じる上で、避けて通れない人物である。藤井氏は大正
13年(1924年)生まれで今年93歳を迎えるが、現在もなお、都議会公明党の顧問として、
隠然たる力をもつといわれる。

 自民党の内田茂都議が「都議会のドン」として、権勢を振るっているとマスコミで騒が
れたが、内田氏の先代の「ドン」は藤井氏であり、往時は「藤井先生に挨拶しなければ、
都の事業は一歩も進まない」と言われるほどだったという。

 藤井氏は『人間革命』第十巻に「富井林策」として登場し、池田大作(作中では「山本
伸一」)の「股肱」として描かれている。

 創価学会の中では、『人間革命』の登場人物となることは、極めつきの栄誉とされてい
る。〝公明党から立候補した△△さんは『人間革命』に登場した人〟となれば、学会員た
ちはより一層、選挙運動に熱を入れるのである。

 『人間革命』の記述により〝池田先生が「股肱」と頼む人〟との評判を勝ち得た藤井氏
は、平成17年(2005年)に引退するまで、東京都議会議員に11期連続して当選した。

 公明党には、在任中に66歳を超える者は公認しないという定年制があるが、藤井氏は81
歳まで議員を務め、その後も顧問として影響力を保ち続けている。

 藤井氏が異例の年齢まで議員を続けられたのも、その後も顧問として優遇されているの
も、池田大作の「鶴の一声」があったからだという。

 藤井氏は、昭和42年(1967年)に都議会公明党の幹事長に就任しているが、その当時の
彼は、「ぼくはカイライだから、いちいちおうかがいを立てなくちゃ、何もいえないよ」
と、しばしば語っていたという(内藤国夫著『公明党の素顔』による)。

 幹事長という地位にありながら、池田大作の「カイライ」だと平然と語っていた藤井氏。
『人間革命』に池田の「股肱」と書かれたのは、その忠節が認められたからこそであろう。

 都議会議員による、都政への不当な介入は現在でも問題視されているが、藤井氏もその
ような問題とは無縁ではなかった。その例の一つを、内藤国夫氏の前掲書から引用する。


>  逆に公明党ににらまれたらどうなるか。それを示す事例をつぎにあげよう。
>  それは一人のクリスチャン教師が「いまある宗教は自分の信ずるキリスト教をふく
> めていずれも独善的すぎる。宗教は本来、他教に対してもっと寛容であるべきだ。他
> 宗派をいっさい認めらないようなことではいけない」と信じ、また担当する社会・倫
> 理の授業でもそう説き続けたために降りかかってきた災難である。
>  すなわち、この教師は都議会公明党幹部から「創価学会を誹謗したもの」と叱責さ
> れたのをきっかけに、そういう政治権力からの干渉を防止することが役目のはずの都
> 教育庁からも〝授業停止〟を命じられ、それでも公明党にあやまらぬからと一年余に
> およぶ村八分ならぬ自宅待機処分の追い打ち、そしてついには長年住みなれた学校を
> 追われ、他校に転勤させられたという事例である。


 この教師は、昭和41年(1966年)のある日、都教育庁に呼び出され出頭すると、公明党
都議会議員である藤井富雄氏と小泉隆氏が現れ、叱責されたという。


> 「なんでこんなところに都会議員が……」とS教諭がいぶかしく思っているのも束の
> 間、初対面の小泉議員からはげしい叱責のことばをたたきつけられた。「あなたが担
> 任をしている定時制三年の社会、倫理の授業で、あなたは機会あるごとに創価学会を
> 誹謗してきた。このような授業は憲法違反である。こちらには生徒から連名で記名捺
> 印した投書もあり、証拠もそろっている。全部わかっているのだ」とのこと。
>  教育庁幹部からの注意ならともかく、都議会議員が直接、授業内容にまで干渉して
> くることに当惑したが、S教諭は事が事だけに反論した。「生徒の申し出をそのまま
> うのみにされては困るし、こちらからも釈明させてほしい」といい出すが、「その態
> 度がいかん」とふたたび叱られる始末。
 (中略)
>  この日を境に、それまでの平穏な一教師の生活が現実の政治、そして議員、とくに
> 公明党議員によわい教育庁官僚によってほんろうされるのである。まさにそのやり方
> は「弾圧」と批判されても仕方がなかった。


 藤井氏らは、都議会議員の権力を笠に着て、倫理の授業で宗教的寛容の大切さを説いた
一教師に、「創価学会を誹謗した」などと難癖をつけ、都教育庁に圧力をかけて左遷させ
たのである。

 「宗教は寛容であるべき」という、ごくまっとうな主張が、創価学会への批判にあたる
のだというならば、態度を改めるべきなのは、創価学会の方であろう。

 しかも、藤井氏はこのような問題を起こしておきながら、その後数十年間、都議会議員
であり続け、ついには「都議会のドン」と呼ばれるほどの権勢を誇るまでになるのである。

 ジャーナリスト・古川利明氏の著書『シンジケートとしての創価学会=公明党』によると、
藤井氏は、都の清掃利権を握ったほか、建設業界等にも食い込んでいたという。
 同書には関係者の証言として、以下の記述がある。


>  「都知事選挙になると、知事の後援会なんかから、区議会議員に配る、いわゆるオ
> モテのカネが出るが、それとは別に業者からもちゃんとウラのカネが入る。『建設業
> 界からカネが来るんだが、それを藤井富雄と二人で山分けしたことがある』と、藤原
> 行正から直接、聞いたことがある。もちろん、その山分けした金額も知っているが、
> それを言うと、ネタ元が私であることがバレる恐れがあるので、それだけは勘弁して
> ほしい。でも、半端な金額ではない」
>  ちなみに、池田の信任の厚い藤井富雄は都議会公明党の幹事長を九二年まで務め、
> その後は議員団長(九四年―九六年)のほか、公明党が一時、分党し、国会議員を新
> 進党に合流させ、地方組織を「公明」として残した際の代表に就任。九九年十月現在
> の肩書きは「都議会公明党顧問」「公明党常任顧問」と一歩引いた形になってはいる
> が、都議会公明党だけでなく、都議会全体にも大きな睨みを効かせているのは、周知
> の通りである。


 藤井氏のスキャンダルとしては、後藤組の組長・後藤忠正氏との密会での会話を録音さ
れ、後にそれを野中広務氏に握られて、政治利用された件が有名である(具体的には平成
8年(1996年)の住専問題で、自民党との妥協を強いられた)。

 録音された藤井‐後藤会談の内容は、創価学会への批判を続けていた亀井静香氏らについ
て、藤井氏が後藤組長に襲撃を依頼したのではないか、と取り沙汰されたが、真偽は定か
ではない。

 しかし、藤井氏が都議会議員という公職にありながら、暴力団組長と何度も密会するよ
うな関係にあったことは事実である。後藤氏は著書『憚りながら』で、藤井氏とは「しょ
っちゅう〝密会〟してた」と述べ、「実に組織に忠実だった」と評している。

 藤井氏にしろ、池田大作にしろ、まともな組織であれば、とうの昔に失脚しているべき
人間である。彼らが顕職にあり続けていることこそが、創価学会・公明党の異常さを証明
しているともいえる。

 藤井氏のような人物が、池田大作から信任を受けているという理由だけで、要職に就き
続けている公明党は、どう考えても〝公明〟な政党ではない。

 小池都知事は、「都議会のドン」が陰で君臨し、都知事や国会議員以上の力を行使する
という旧態依然としたボス政治を批判し、都政の刷新を訴えているが、先代の「ドン」が
いまだに幅を利かせている公明党と手を組んで、その理想を実現できるのだろうか……。

 公明党は、悪質なカルトである創価学会と事実上、一体の政党である。池田大作の手先
として、過去には様々な問題を引き起こしてきた。

 創価学会員は、公明党議員を投票させるために「F取り」と称する選挙運動に励んでい
るようだが、有権者の皆さんには、公明党の見せかけだけは立派な政策に騙されないでほ
しい。創価学会の本質は、反社会的なカルトであることを忘れずに、投票に臨んでいただ
きたいと願う。

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2017年6月29日木曜日

誰が公明党に投票しているか?

 事実上、創価学会の政治部門に過ぎない公明党に、好きこのんで投票する奇特な方は、
創価学会員以外にはいないのではないか、と思われる方も多いであろうが、選挙結果を見
てみると、どうもそうではないらしい。

 参議院全国区の投票結果は、各政党への有権者の支持を現わすものとして、最も信頼で
きるものと考えられるが、公明党は過去数回の選挙で、7百万~8百万票台を得票している。

<参考> 参議院選挙全国区の公明党得票数

 第18回 平成10年(1998年) 7,748,301
 第19回 平成13年(2001年) 8,187,805
 第20回 平成16年(2004年) 8,621,265
 第21回 平成19年(2007年) 7,765,329
 第22回 平成22年(2010年) 7,639,432
 第23回 平成25年(2013年) 7,568,082
 第24回 平成28年(2016年) 7,572,960

 昨年実施の選挙結果について、少し詳しく考察する。
 前回示したように、創価学会員の実世帯数は、260~280万世帯程度と考えられる。この
中間値である270万に、平均世帯人員と選挙権年齢である18歳以上の割合を乗じて、公明
党に投票したであろう、創価学会員の数を推定する。

  270万(創価学会世帯数)× 2.38(平均世帯人員)× 84.7%(18歳以上の割合)
 = 5,442,822(人)

  平均世帯人員:2.38人(平成27年国勢調査)
  18歳以上の割合:84.7%(人口推計(平成28年10月1日現在)総務省統計局)

 創価学会員の数は540万人程度と推定されることから、前回参院選では学会員以外で公
明党に投票した者が、200万人以上いたことになる。

 さて、この200万人はどのような人々であろうか。創価学会が「F取り」と称して、熱
心な選挙運動に学会員を駆り立てていることは、よく知られているところである。

 しかしながら、学会員から投票依頼を受けたところで、普通の人なら、唯々諾々とそれ
に応じたりはしないだろう。

 F取りでは、判断能力のない高齢者などを連れ出し投票させるなどの非常識な行為も、
時に行われるというが、F取りに協力している人のすべてが、そうだというわけではない。

 創価学会は莫大な資金力を有することから、ビジネス上のつながりをもつ企業も多い。
そのような企業の従業員の中には、商売上のつき合いとして、公明党に投票する者もいる
のだろう。

 今月発売された『文藝春秋』(平成29年7月号)に、「都議選で生じた『自公亀裂』の
行方」と題されたルポタージュが掲載されている。その中に、石井国交大臣が関与した選
挙運動について述べられているので、当該部分を引用する。


>  スーツに身を包んだ男たちが、車を降りるや次々に上階のバンケットホールに向か
> っていった。
> 「ようこそおいでくださいました」
>  にこやかに出迎えたのは、公明党の石井啓一国土交通相だ。三十分近くも列をなし
> て待つ大小ゼネコンや建設会社の幹部ら一人一人とあいさつを交わした。
>  経世会の全盛期とは隔世の感があるとはいえ、大手ゼネコンは、いまだに自民党の
> 「選挙マシーン」の一つに数えられる。
>  そうはいっても、中央省庁再編で国交省が発足した二〇〇一年以降、のべ十年近く
> にわたって大臣を輩出してきた公明党の「動員令」に業界は逆らえない。まして現職
> の大臣が出迎え、名刺交換すると聞かされれば否も応もない。
>  会合を事前に耳にした自民党建設族の重鎮は露骨に嫌な顔をした。
> 「いくら必死の都議選だからといって、ちょっとやりすぎじゃないか」
>  許認可といいう、「生殺与奪」の権を握る所管官庁の大臣を投入するのは、本来で
> あれば禁じ手だ。


 公明党から国交大臣が出ている以上、業界としてはその意向は無視できないというのが、
引用文の趣旨だが、創価学会とゼネコンは、創価学会が大規模な建築を行ってきたことか
ら、公明党が与党となる前からつながりがあった。

 創価大学や大石寺の正本堂など、多くの学会関連工事の受注は、大手ゼネコンに少なく
ない利益をもたらしてきた。

 平成25年(2013年)竣工した信濃町の広宣流布大誓堂は、大成建設が代表を務める共同
企業体が受注したが、その中には大林組、鹿島、清水、竹中工務店といった大手ゼネコン
が含まれていた。

 日本各地にある大小の学会施設(墓苑・研修道場・会館等)の建設も、ゼネコン・建設
業界にとってうまみのある事業だったことだろう。

 創価学会から選挙協力を頼まれれば、むげに断るわけにはいかなかったであろうことは、
容易に想像できる。

 創価学会を有力な顧客としているのは、建設業界だけではない。学会と関わりの深い企
業グループとしては、三菱グループが有名である。

 創価学会が、大石寺の正本堂を建立するために、学会員から浄財を募った際、旧三菱銀
行は「御供養金貯金箱」を寄付した。この貯金箱は、全学会員の世帯に配られたという。
 このことがきっかけとなり、創価学会と三菱は関係を深めていった。

 その当時、三菱の関連会社に対して、公明党への選挙協力の依頼があったという。その
内容を取り上げた記述を、以下に引用する。


>  一九六九年十二月二十七日、総選挙の投票日当日、「赤旗」は、三菱財閥グループ
> の損保部門を代表する大企業・東京海上火災と公明党の〝濃密な関係〟を特報した。
> 損保業界の大手、東京海上火災が、選挙戦のさなか、全国の支店幹部に本店部長名で
> 電話指示を出し、これがある支店で文書となった。「赤旗」はその事実をキャッチし
> た。「文書」にはこう書かれてあった。
>  「一、創価学会は当社の有力客先であり、三菱銀行の有力得意先である。三菱系と
> の結びつきが強く、三菱十会社ならびに各地三菱グループに、今回の衆院選で公明党
> の応援を依頼してきている」
> 「一、依頼事項、 1、今回の選挙に関し、創価学会より当店にあいさつがた依頼に
> こられるかも知れないが、その節は丁重に応対願いたい。すでに学会側には支店の諒
> 解も得てある旨話してある。2、当店の課長、参事以上の名簿を学会に提出してある
> ので、自宅に戸別訪問があるかも知れないが……」(以下略)。
 (「赤旗」特捜班『黒い鶴の犯罪 第一部』より引用)


 有力な得意先とはいっても、創価学会は反社会的なカルトである。商売のためならそこ
までするのか、と慨嘆せざるをえない。

 この話は、もう50年近く前の出来事であるが、創価学会と三菱との関係は、それ以降も
続いていった。


>  特徴的なのは、学会と「三菱」の間のビジネスにはしばしばどこか暗雲のようなも
> のが、ある種の疑惑がからんでいることだ。たとえば九〇年九月に池田の創設した富
> 士美術館がルノワールの絵画を四十一億円で購入したとき、そこには三菱商事や三菱
> 銀行が深く関与し四十一億円のうちの約十五億円が行方不明のまま迷宮入りしてしま
> っている。同じ九〇年の三月にも学会は約三十億円を投じて三菱商事から陶磁器を購
> 入したが、なぜか数億円もよけいに支払っているといわれている。また、学会の信濃
> 町一帯の土地買い占めでは三菱地所販売などが暗躍し、全国各地の巨大墓地開発では
> 三菱商事がダミーの役割をはたして住民反対運動の押さえ込みを策し、会館や高層ビ
> ルなどの建築を一手に引き受けてもいる。さらに、東京海上火災との間では各地の学
> 会施設を対象とした損保商品の〝偽装契約〟がささやかれている。ついでに触れてお
> くと、池田がスピーチする姿を全国の学会関係施設へ即時送信しているのは三菱グル
> ープの設立した宇宙通信株式会社の通信衛星「スーパーバード」である。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』より引用)


 三菱財閥は創業者の岩崎弥太郎いらい、国士的な社風を誇りにしてきたというが、その
矜持は、創価学会の金力の前に霞んでしまったものと見える。

 創価学会が莫大な財力を持つのは事実である。だがその資金力は、信者を洗脳して財産
を巻き上げることにより築かれたものだ。
 また、彼らが現在もなお、反社会的・反日的な団体であることも確かだ。

 ビジネスには、綺麗事だけでない面もあるかもしれない。競争社会を生き抜くためには、
時として取引相手の問題点に、ある程度は目をつぶる必要もあるのかもしれない(感心は
しないが)。

 しかし、選挙における投票は、ほとんどの有権者にとって、自らの思想・信条・意見を
実際の政治に反映させることができる貴重な機会である。

 自らの政治的権利を安易にカルトに委ねたりせず、よく考えて行使する。この当たり前
のことを、一人でも多くの有権者に実行してほしいと思う。

 一人ひとりの常識的な行動こそが、政治権力の私物化をもくろむ邪悪なカルトを弱体化
させるために、最も有効な手段のはずである。

2017年6月27日火曜日

創価学会の実世帯数

 創価学会は現在、日本国内に827万世帯の会員がいると公称している。だが、過去に折
伏実績の水増しが行われてきた経緯がある上、マイ聖教と称して公称発行部数550万部の
『聖教新聞』を、一世帯で複数部購読する慣行までが創価学会内にはあるため、彼らが自
称する数字をそのまま信じることはできない。

 話は飛ぶようだが、創価学会=公明党の選挙における票読みの正確さには定評がある。
地方選挙では当落ラインの予測に基づき、複数の候補をほぼ横並びで当選させる芸当をみ
せることも少なくない。

 当然のことながら、選挙でそこまで正確な票読みを可能にするためには、公明党に投票
するであろう有権者数、つまり当該選挙区に居住する創価学会員の数を、かなりの精度で
把握している必要がある。

 創価学会には「統監」と呼ばれる、学会員のデータベースが存在しているという。この
統監に登録されている学会員の総数は、折伏によって本尊を受けとらせた数を積み上げて
算出した〝827万世帯〟とは、異なっているものと思われる。

 残念ながら、統監上の学会員の実数は非公表である。学会内部でも一部の幹部しか知り
得ない、トップシークレットなのではないだろうか。

 私がこれまで読んできた創価学会関連の書籍の中で、このトップシークレットに迫る信
頼性の高い具体的な数値が示されていたものは、男子部長・青年部長という、学会内での
本流を歩み副会長にまで出世するも、日蓮正宗との抗争の責任を取らされ失脚した、福島
源次郎氏の著書『蘇生への選択』である。当該部分を以下に引用する。


>  現在は三〇〇万世帯を超えず、二五〇万世帯前後です。その数字も、全く信心せず
> に御本尊がある(ご安置でもない)というだけの名目世帯がかなり含まれている数字
> です(全国平均五%以上と推定される)。
>  したがって名誉会長が誇らしげにいう七五〇万世帯折伏というのは、全くの架空で
> あり、虚偽の数字なのです。いうなれば、組織の御本尊下付申請(寺院への)の報告
> 数字を単純に加算した累計数でしかありません。これには退転者や、大躍進の昭和三
> 十年代後半の組織間の激しい成果競争の中で、偽の御本尊送りが激増し、この水増し
> 分の数字がかなり含まれて合算されているのです。
>  この点について、当時の会内でも、良識派の幹部が問題視し、実数統監にするよう
> に改善策が強く要望されてきたのですが、実現しませんでした。昭和四十五年の言論
> 問題を契機とした一連の改革で、男子部(当時私が男子部長でした)が、まず実数統
> 監に訂正し、他の組織もそれにならい、縦の支部制からブロック制を基本にする変更
> の中で、全国もやっと実世帯に直されました。この時点で二四〇万世帯に届きません
> でした(公称世帯数はそのままで通した)。
>  即ち、差引き五〇〇万世帯余というのが、いいかげんな折伏の結果の御本尊返却・
> 放置・捨棄などの退転であり、又虚偽の御本尊送りの架空数字であったわけです。
>  それから二十年、折伏で多少世帯数が伸びても、一方では退転者・行方不明者(移
> 転による組織離脱)も増え、結局横ばいという状態が続いてきました。私が副会長を
> 辞任した時点でも二五〇万世帯に達せず、組織担当幹部はそれぞれ実世帯増のために、
> どれほど苦労してきたかわかりません。

 ※ 引用冒頭の「現在」とは、『蘇生への選択』が出版された平成2年(1990年)時点
  を指すものと思われる。

 引用中にある「名誉会長が誇らしげにいう七五〇万世帯折伏」が達成されたと、創価学
会が主張している年は、昭和45年(1970年)である。実際には、その三分の一にも届いて
いなかったのだ。

 また、福島氏が副会長を辞した年は、昭和54年(1979年)である。この時でも、250万
世帯に届いていなかったというのだから、その後の800万世帯達成も、過大な数字と見る
べきだろう。










参考資料:福島源次郎著『蘇生への選択』,藤原行正著『池田大作の素顔』,『週刊ダイヤモンド』(2016年6月25日号)

 ※ 過去数回の参議院選挙全国区の公明党得票数は、760万票前後で推移していること
  から、創価学会員の〝総数〟については、平成17年(2005年)以降、大きな増減はな
  いものと考えられるが、日本全体の趨勢として、晩婚化や高齢化の影響で単身世帯が
  増加し、その結果、平均世帯人員は減少し、総世帯数は増加している。
   そのため、創価学会員の〝世帯数〟もある程度は増加しているものと考えられ、現
  在の学会員の総世帯数は、260~280万の間ではないかと推測される。

 学会幹部はこうした実態を知っていながら、現在もなお〝創価学会により広宣流布が達
成された〟などという、ウソ八百を末端信者に吹き込んでいるのだ。

 創価学会が言っていることは、何から何までウソばかりである。「お金のかからない宗
教」というのも、「唯一の正しい宗教」というのもウソ。会員数まで、実際の三倍に見せ
かけるという大ウソ。

 創価学会をインチキ宗教と呼ばずして、他にインチキ宗教があるだろうか。
 学会員の皆さんも、いい加減に目を覚ますべきだろう。

2017年6月24日土曜日

折伏成果の水増しについて

 現在の創価学会は、827万世帯の会員がいると公称している。
 しかし、公称発行部数550万部の『聖教新聞』を、一世帯で複数部とる学会員が多数い
たり、公明党の得票数が公称世帯数より少なかったりすることから、学会が主張する数字
は、過大なのではないかと疑われる。

 創価学会の公称世帯数は、学会が授与した本尊の数に基づくという。つまり、世帯数が
怪しいということは、折伏実績の水増しが疑われるということである。今回はこの点につ
いて論じたい。

 前回、戸田城聖が創価学会の第二代会長に就任するにあたって、折伏大行進の号令を発
したことを述べたが、その際に戸田は、以下のようにも述べている。


>  現代において、仏に等しい境涯に立ち、この世界を心から愛する道に徹するならば、
> ただ折伏以外の方法は、すべてなにものもないのであります。
>  これこそ各人の幸福への最高手段であり、世界平和への最短距離であり、一国隆昌
> の一大秘訣なのであります。故に、私は折伏行こそ、仏法の修行中、最高のものであ
> るというのです。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 折伏のマニュアルである『折伏経典』にも、「たとえ御本尊を信じていても、折伏を行
じなければ、それは摂受であり、大利益を得ることはできない」と書かれている。

 新規会員の獲得こそが最高の仏道修行であり、現世利益につながる、逆に折伏をしなけ
れば、ご利益は得られないという教義が、創価学会の勢力拡大の原動力となったのは事実
であろう。

 しかし、その一方で、無理な折伏目標を掲げたことは、末端にしわ寄せをもたらした。
 『朝日新聞』(昭和31年〔1956年〕7月11日付)に、「酒を飲ませて布教 成績競って水
増し」と題して、創価学会の折伏についての記事が掲載されているので、一部引用する。


>  創価学会の下部組織には、信者を集めるためにこんな布教運動の事例がある。ある
> 一流土建会社の青年信者が、何も知らない大学生らの青年たちを集めて入会させ、そ
> のお礼に銀座のバーで大盤振舞をしたという話だが、この会合はこの春ごろからつい
> 最近まで二、三回行われたもので、記者は某日、何回目かの会合に大学生になりすま
> して同行してみた。
>  その日の集合は午後五時、国電中央線信濃町駅前。(中略)記者が後輩の大学生か
> らこれを聞いたのは集合日の二日前。五時を回ったころそれらしい青年が三、四人駅
> 前に集っていた。まもなく引率責任者らしい青年が現われ、われわれを駅前から小型
> タクシーでそこから程近い土建会社の独身寮へ。ここでいきなり創価学会の「御本尊
> 御下附願」と印刷した紙に住所、氏名、生年月日を書かされた。(中略)記者は偽名
> を使った。ところが同行の青年たちは引率者から「この前は本名を使ったから、きょ
> うは知人名またはデタラメな住所、氏名、年齢を書くように……」と注意されていた。

 ※ この後、記者たちは寺院に連れていかれ、題目を唱えるなどの入信の儀式を受ける。

>  七時半、再び車で出発した。(中略)そして銀座並木通りの小さなバーに入った。
> ここで八時半ごろから閉店の十一時ごろまでビールをのんだ。(中略)この間、創価
> 学会の話は一言もでない。またこの日の会合の目的も明らかにされなかった。ただ一
> 人が本名以外の名をかたって数人の仮空の信者を作ったことだけが分かった。


 この出来事の数日後、この記者が上記の架空入信の首謀者に取材したところ、「月々の
折伏成績はそのまま個人の成績に反映するので組長、班長から無言の圧迫を受け、どうし
ても信者を増やそうという競争意識にかられる」との答えが返ってきたという。

 『週刊新潮』3000号記念別冊に掲載された、特集「雨後の筍『新興宗教』裏面史」にも、
折伏実績水増しの実態が記されている。


>  入信直後の信者も折伏に駆り出される。座談会場には信者ごとの勧誘成績表が張り
> 出され、聖教新聞には支部ごとの成績が掲載された。
> 「支部内では、自己目標を達成できないと、立ったまま目上の信者から延々と罵られ、
> 座りこむと“立て!”と、さらに吊るし上げられる。保険会社が勧誘員にハッパをかけ
> る手法は、学会のやり方を真似たものと言われています」
 (中略)
>  ある地区部長の自宅は、いつも浮浪者でごったがえしていた。
> 「地区部長と地区員たちが上野の浮浪者を連れてくる。きれいな衣類を与えて床屋に
> 行かせ、寺で御本尊を受けさせて入信させる。でも窮屈な勤行をさせるので、浮浪者
> たちは2、3日もすると御本尊を置いたまま、みんないなくなっちゃう。それでまた、
> 地区部長らは上野まで浮浪者を探しに行く」

 ※ 上記引用中のコメントは、池田大作を第三代会長に押し上げた功績で、初代公明党
  委員長にまで上り詰めた、原島宏治氏の長男・原島昭氏によるものである。


 『人間革命』には、戸田城聖は会長就任時に、75万世帯という折伏目標を宣言し、それ
を実現して死去したと述べられている。


>  だが、戸田の予言的確信が的中するには、わずか七年足らずの歳月で充分であった
> のである。昭和三十二年十二月、学会の総世帯数は七十六万五千を達成するにいたっ
> た。この日から三か月後、翌三十三年四月二日、彼は安詳として逝ったのである。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 『人間革命』で主張されている、76万5千世帯という折伏成果をそのまま信じることは
できない。『朝日新聞』や『週刊新潮』に述べられているような手口による、水増しされ
た数字と考えるべきだろう。

 池田大作が創価学会の第三代会長に就任した後も、無茶苦茶な折伏により、実態を伴わ
ない過大な数字を報告するという悪習は続いた。

 池田大作は、昭和40年代初頭に末端における折伏の実態調査を命じたことがあった。そ
の調査を担当した元学会職員・小多仁伯氏が、著書『池田大作の品格』で、調査によって
明らかになった実態を述べている。

 小多仁氏らの調査チームは、東京都内の数か所で実態を調べたが、ある駅で異様な光景
を目撃したという。


>  よく見ると、中年の女性たち二名がペアを組み、改札から次々と出てくるサラリー
> マンらしき人たちに近寄り、そのサラリーマンの両脇に手を回して何やら囁いている
> 光景があちこちで見受けられるのです。
 (中略)
>  こうして、客引きペアの大活躍が約一時間くらい続きました。客引きまがいのペア
> は折伏する寺院会場に送り届けると、すぐ戻ってくるのです。かなり組織的に訓練さ
> れており、手慣れた彼女たちは、次の獲物をとるような怪しい雰囲気でした。

 
 小多仁氏らはその後、折伏会場となっていた寺院で、連れて来られたサラリーマンたち
が、学会員に取り囲まれて折伏されている現場を目撃した。


>  その中で観念した新来者は前に進み出て、ご授戒の儀式に移る準備をしています。
 (中略)
> だが、柱の一角で揉み合っている人たちがいます。それは学会員の折伏に反抗し、押
> し問答の末、授戒を受けたくないと柱にしがみついているのです。
>  その柱にしがみついている人を、なんと十人がかりで強引に柱から離そうとして、
> その人の指を全員で一本、一本こじ開けているではありませんか。私は、いくら調査
> 隊とはいえ、その無軌道ぶりに憤りは頂点に達してしまい、「このグループの責任者
> は誰か!」と叫んでいました。


 小多仁氏は、学会の本部職員であることを明かし、即刻この暴挙を止めさせたそうだが、
寺院の軒下には、授与されたばかりの本尊が投げ捨てられていたという。つまり、形だけ
入信して難を逃れ、もらった本尊は捨てて帰った人がほとんどだったということだろう。

 小多仁氏らは、このような実態は改めるべきとの意見を添えて、調査結果を報告したも
のの、同書によれば、改善はされなかったそうである。

 現在でも、複数の学会員で一人の一般人を取り囲み、入信を迫ることは少なくない。そ
の際には、創価学会の折伏であることを隠して、別の名目で呼び出すのが通例である。

 マスコミは創価学会の問題点を報道しなくなったが、強引な折伏は決して過去の問題で
はない。創価学会員に対しては、気を許すべきではないと思う。

 創価学会員の実数は、彼らの自称よりも少ないことは、ほぼ確実である。しかしながら、
選挙の実績などをみると、決して侮れない勢力であることも事実だ。

 学会が実力以上の影響力を行使できている背景には、社会の無関心がある。創価学会の
危険性を認識している人ならば、そのようなカルトが政治的影響力を持つことを、好まし
く思うはずがないし、選挙で棄権することもないだろう。

 創価学会の政治部門に過ぎない公明党が与党になることは、国政であれ、地方自治であ
れ好ましいことではない。選挙は、カルトに“No!”をつきつける貴重な機会であること
を、一人でも多くの有権者にご理解いただき、投票に足を運んでいただきたいものである。

2017年6月21日水曜日

折伏大行進の実態

 戸田城聖は、昭和26年(1951年)5月3日の会長推戴式において、以下のように宣言し、
学会員に対して大々的な折伏の開始を号令した。


>  私が生きている間に、七十五万世帯の折伏は私の手でいたします。願わくば、それ
> までに宗門におかせられても、七十五万だけやっていただきたいものである。もし私
> のこの願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出して下さるな。
> 遺骸は品川の沖に投げ捨てなさい! 
 (『人間革命』第五巻より引用)


 創価学会はこれ以降、組織的に強引な折伏を推進した。世に言う「折伏大行進」である。
 戸田の会長就任に際して、推戴名簿に署名した学会員の数は三千名であったというから、
75万世帯という数は途方もない目標である。

 創価学会はこの目標を達成するために、相当な無理をした。当時の新聞記事から、創価
学会の折伏がどのようなものだったかを振り返りたい。

 『朝日新聞』(昭和32年〔1957年〕6月26日付)には、「創価学会の細胞 炭労などを食
い荒らす 奇抜な説得方法で」との見出しの記事が掲載されている。


>  創価学会が炭労組織に食いこんだ理由には、次のような信者獲得戦術があげられて
> いる。
>  創価学会に入れば、財産が出来、ケガをしない。病気やケガをしても医者にかから
> なくとも直ぐ全快する。「死者もよみがえらせた例がある」と、次のような話をして
> 説得する。九州のある炭鉱の労組員が、生活苦から自殺した。首をつってから数分た
> っているので、家族も死んだものと思い、そのまま寝かせて置いた。すると社宅内の
> 創価学会員が数人かけつけ、大声でお題目を唱えると、数分後にその労組員はムクム
> ク起き上がり、生きかえった。この〝奇跡〟を見ていた労組員や家族は、先きを争っ
> て信徒になったというのだ。
>  このように、労組員の貧困や科学的知識の欠如につけこんで組織を荒らされている
> 炭労の各労組では、なんとか対策を立てなければ、と頭を悩ましている。


 いかにも創価学会らしいバカげた勧誘方法だが、記事にも書かれているように、炭鉱労
働者の中には、このような与太話に騙されて入信する者も、少なくなかったようである。

 この当時の折伏方法は「奇抜な説得」だけではなく、成果を上げるために、犯罪的な手
段に訴える学会員も少なくなかった。同記事には、以下の記述もある。


>  特異な例としては、去る十二日青森県下の某キリスト教会にその地区創価学会員五、
> 六人が押しかけ〝キリスト教は邪教だ。幹部に推薦するから入会せよ〟と同教会の牧
> 師に迫った。同牧師が申入れを断ると教壇をひっくり返したあげく、聖書を床にたた
> きつけ、土足でふみにじるなどして引揚げた。


 指導的立場にある者を改宗させれば、信者を一網打尽に獲得できると考えての行動なの
であろうが、それにしても酷い話である。

 『毎日新聞』(昭和30年〔1955年〕11月20日付)には、「新興宗教の暴力」と題して、
読者から寄せられた、宗教勧誘に関するトラブルについての投稿に基づく記事が掲載され
ている。その一部を以下に引用する。


>  投稿の内容を要約すると、朝八時半から夕方五時までねばり体の弱い私(主婦)に
> 入信を決心させ、主人の帰らぬうちにせめたてて神だなを焼かせた。あやうく主人か
> ら離縁されるところだったが、近郷では離縁された人もあり、多くの人が迷惑してい
> る(宮城県一主婦)病気の細君を近所の信者が訪れ脅迫的に夜中の二時までがん張り、
> 心身疲れた細君が、それではよろしく、というが早いか仏壇の阿弥陀仏、観音像、大
> 神宮などをその場で取壊し強制入会をさせた(館林市一住職)


 この記事では、問題を起こした教団名の名指しはなされていないが、当時、このような
トラブルを頻繁に起こしていた宗教といえば、まず第一に創価学会である。

 毎日新聞社会部編『暴力新地図』には、創価学会の折伏による被害について、より具体
的に記述されている。


>  比較的批判力に乏しい人、あるいは無知文盲の人、悩みを持つ人などの弱みにつけ
> 込んで、
> 「創価学会に入れば幸福になれる」
>  とか、
> 「あなたの子供は近く死ぬ」
>  などと人の意表をつく殺し文句を並べたてて入会をすすめる。一たん入会はしたも
> のの教義に疑問を持ち信仰をやめようものなら大変だ。本社への投書によると、世田
> 谷のある主婦は、信仰をやめたとたん周囲の信者たちから、
> 「あなたの一家はドン底生活に落ちる」
>  と毎日のように脅され、とうとう気が狂ってしまったという。とにかく同会の暴力
> 的布教方法に迷惑している人は非常に多い。昨年七月下旬千葉県小湊町関戸の日本キ
> リスト教団千葉教会の信徒に入会を強要、屋内に上り込んで聖書を焼き捨て館山法務
> 局に人権侵害で提訴されたほか、事件になったものでも北区田端町三六三真言宗与楽
> 寺や八王子市子安町一の一三九日蓮宗仏立宗清流寺が襲われたのを初めとして、真言
> 宗尼僧の脅迫(埼玉県)観音堂を焼き払った事件(福島県)大阪では他宗派の本尊略
> 奪や他宗寺院に法論と称しての集団的強談、強要十数件など相当数にのぼっている。

 ※ 文中に「昨年」とあるが、上記引用の初出は昭和31年8月13日付の新聞記事なので、
  言及されている事件は、昭和30年(1955年)に起きている。


 宗教の勧誘の範疇を超えた、異常な犯罪の数々である。こうした事件についての伝聞や、
実際に被害を受けた人の経験が、現在でも語り継がれていることが、〝創価学会は暴力的
で危険な集団〟というイメージが拭い難いものとなっている原因であろう。

 現在でも、学会員からしつこい勧誘を受けて迷惑している人は多いが、さすがに警察沙
汰になるような事件は聞かれなくなった。

 しかし、それは創価学会の反社会的な体質が改まったからではない。組織力を活かしつ
つ、スマートフォンの普及などの技術の進歩を悪用して、より陰湿・巧妙な手段をとるよ
うになっただけである(「広宣部・教宣部が連携した嫌がらせの手口」参照)。

 多くの創価学会員は、上述のような犯罪そのものの折伏を悪いことだとは思っていない。
これまで何度も述べたが、彼らの教義では、仏法=創価学会は、国法(法律)や世法(常
識)よりも優先することになっている。

 しかも、折伏は自分だけでなく、相手にもご利益をもたらすのだから、相手の迷惑など
考える必要などない、むしろ感謝されていいくらいだという指導を、創価学会はこれまで
学会員に対して行ってきた。

 学会員たちは、このような反社会的な思想を「唯一の正しい宗教」だと思い込み、〝捕
まらないように、表沙汰にならないようにやりさえすれば、問題ないのだ〟と考えて、迷
惑行為を続けてきた。こんな奴らに、世の中を好き勝手にさせてはならない。

 そのためにも、日本がまだ貧しく、満足な教育を受けられなかった者が多かった時代に、
人々の無知につけ込んで、非科学的なたわ言で誑かしたり、暴力や脅迫で屈従させたりす
るという、卑劣な手段で勢力を拡大した「折伏大行進」の実態を、創価学会の本質を表す
ものとして、今後とも長く伝えていく必要があるだろう。



補足 戸田城聖は本当に「75万」という数値目標を提示したか?

 『人間革命』第五巻には以下の記述がある。

>  戸田城聖が会長就任のこの時に宣言した、七十五万世帯の折伏達成という稀有の確
> 信は、いささかの狂いもなかった。しかし、当時の誰ひとり、それを信ずることはで
> きなかったようである。第一、『聖教新聞』第三号の、推戴式を報道する記事のどこ
> にも、七十五万という数字は見あたらないのである。

 また、『聖教新聞』(昭和27年5月10日付)には、戸田城聖が示した目標として、「断じ
て百五十万の世帯にならなければ」とあるという(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』
による)。

 150万世帯の折伏という目標は実現困難だったため、後から75万世帯に修正したのであ
ろうが、それがいつ頃だったのかは不明である(今後、調べてみる予定)。

2017年6月19日月曜日

池田大作在日説について

 2chなどネット上には、池田大作は在日朝鮮人、または帰化した元在日であるという風
説が根強くある。

 それによると池田の本名は成太作(ソン・テジャク)で、親の代に朝鮮半島から日本に
渡ってきたのだという。

 私は創価学会や池田大作について書かれた本を、それなりの数読んだが、この池田在日
説を裏づける記述は、ついぞ目にしたことがない。
 参考までに、池田の出自についての記述を代表的な創価批判本から引用する。


>  池田大作は昭和三(一九二八)年一月二日、東京府荏原郡入新井町大字不入斗のし
> がない海苔製造業者・池田子之吉、妻、一の五男として生まれた。
 (中略)
>  池田の家は子之吉の祖父の代から大森で海苔製造に従事し、かなり繁昌した一時期
> もあった。また、祖先は元禄時代に兵庫から千葉に移住した武士だという口伝えも残
> っているらしい(央忠邦『池田大作論』)。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 上記によれば、池田家は武士の末裔だという口承があるらしいことになっているが、そ
れはウソだという指摘もある。


>  池田大作は、昭和五十年頃、密かに自分の家系を調べ、家紋の由緒を詮索していた
> ことがあった。その頃、私に話したところによると、「池田家は武士の出で、北海道
> で手広く開拓事業をやっていた。その子孫が、大森に来てノリ屋を始めたのだ。鹿児
> 島に〝池田湖〟というのがあるが、我が祖先とかかわりがある。家紋や系図を調べる
> と、祖先は源氏の流れを汲む武士であったと、調べてくれた専門家が言っている……」。
>  だが、その後、私の調べた限りでは、これらは全くの作りごとであり、数代先まで
> 東京湾でノリ採集や漁師をしていた。由緒正しい血統書つきの平民の出である。
>  池田大作の出生や少年時代については、御用新聞記者・央忠邦氏の著作や本人の書
> いた随想文などで、極めて美化されている。
 (中略)
>  ところで、私の手元に池田大作の戸籍謄本がある。それには、「名『太作』を『大
> 作』と変更、昭和弐八年拾壱月伍日受付」と記入されてある。
>  池田大作は、生まれてから二十五年間〝タサク〟が本名であったのを、何らかの理
> 由で〝ダイサク〟に変えた。
 (中略)
>  貧乏で、目立たぬ子供だった大作は、しかし、その名前のせいで、仲間から「タサ
> ク、タサク!」と呼ばれて親しまれていたのである。
 (山崎正友著『懺悔の告発』より引用)


 溝口敦氏は、数多くの著作で知られるノンフィクション作家である。また山崎正友氏は
創価学会の元顧問弁護士であり、往時は共産党や他の新興宗教など、学会と敵対する組織
への調査の責任者だった。

 いずれも情報収集のプロと言っていい人物だが、その両者とも池田大作が在日、あるい
は元在日だとは述べていない。池田の出自にゴマカシがあるとすれば、「池田家は武士の
出」などと偽ろうとしたことくらいのようである。

 池田大作在日説は、真実とは言い難いと思う。しかしながら、火のない所に煙は立たな
いものだ。このような風説が、まことしやかに流布し続けている背景は何だろうか。

 一つには、創価学会が〝日本と韓国〟について言及する時、「日韓」ではなく、「韓日」
という表現をよく使うことが挙げられる。「創価学会 韓日」で画像検索すれば、該当す
るものが多数見つかる。

 特に有名なのは、創価学会の福岡研修道場にある「韓日友好の碑」であろう。この石碑
には、日本を「小国」と呼び、韓国を「師恩の国」と述べる池田の詩が刻まれている。

 創価学会および池田大作が、ここまで韓国を立てるのは、学会員には在日が多いので、
彼らにおもねっているのではないか。在日の学会員が多いことは、池田在日説が広まっ
た、もう一つの背景でもあろう。

 『人間革命』第五巻に、昭和26年(1951年)6月10日、創価学会の本部婦人委員として
52名が選抜され、新宿のフランス料理店で会合が開かれたことが記されている。
 この時選ばれた婦人委員の中には、在日朝鮮人の女性もいたという。


>  会合の雰囲気は更に高潮した。一人の朝鮮の婦人が立ち上がった。柳沢礼子という
> 名の中年の純真な婦人である。額は輝き、なかなかの元気ものである。
> 「私は、はじめて故国の不幸が、何に原因しているかを教えていただきました。それ
> は、先日の常泉寺で行なわれた会長推戴式の時です。
 (中略)
>  どうか先生、わたくしたちの同胞を救ってあげてください。お願いいたします。そ
> のためなら、この私にどんなことでもお命じください。同志の皆さまも、どうかよろ
> しくお願いいたします」
>  この切々とした婦人の訴えは、並みいる人々の胸に惻々と迫った。――かつて、あ
> る学者がいった。力なき空転の有名なる愛国者あり、無名の命がけの真実の救国者あ
> り、と。
>  戸田は柳沢を傍に招いた。そして、涙ながらの彼女と手をとって握手した。


 この会合についての記述で、戸田城聖以外で名前を記されているのは「柳沢礼子」だけ
である。創価学会では、その創成期から在日の会員の存在感が、決して小さなものではな
かったことがうかがえる。

 また、創価学会が池田を宣揚するために出版した『池田大作の軌跡』に、韓国で宗教社
会学を研究する済州大学教授・趙誠倫氏が、日本で創価学会について調査研究を実施した
ことが記されている。

 同書によると、趙教授は、韓国で布教活動を行った日本の新興宗教の多くが、結果とし
て上手くいかなかったにもかかわらず、韓国SGIは成功した理由を調べるために、平成
18年(2006年)に交換教員として日本に赴任し、在日コリアンの学会員に面接して調査を
行ったという。以下、同書から引用する。


>  ある在日の学会員の近所に、韓国人の男が引っ越してきた。
>  日本に来たばかり。祖国の言葉で話がはずんだ。男が土産話を始めた。
> 「この前、韓国で聞いたんです。実は、日本には、すごい人がいるんですよ。韓国の
> ことを『日本の兄の国』『文化大恩の国』と称えているんです」
>  なんという名前だったか、必死で思い出そうとしている。
>  学会員は吹き出しそうになった。
> 「それは、僕の師匠ですよ!」
>           *
>  面接調査を終えた、済州大学の趙。いくつかの注目すべきポイントがあった。
>  第一に、学会の大衆性。
>  創価学会は国籍の区別なく、苦悩にあえぐ大衆を救済してきた。学会の組織は、在
> 日コリアンが日本で生き抜く上で、他の在日コミュニティーよりも重要な意味があっ
> た。
>  第二に、社会意識の向上。
 (中略)
>  第三に、池田会長の存在。
>  精神的な支柱である。朝鮮半島への認識にしても、これまでの日本人とは、完全に
> 発想が逆転している。日本では他に類を見ない指導者である。
>  ある時、趙は、在日三世の男子学生に取材した。彼は「池田会長に続き、韓日を結
> ぶために働きたい」と胸を張った。
 (『池田大作の軌跡Ⅲ』より引用)

 ※ 「池田会長」とあるが、池田大作は創価学会の名誉会長であると同時に、SGIの
  会長でもあり、上記ではSGI会長としての立場に重きが置かれている。


 創価学会には、在日にとって「他の在日コミュニティーよりも重要な意味」があるのだ
という。確かに創価学会の政治部門である公明党は、これまでに何度となく外国人参政権
法案を国会に提出するなど、在日の代弁者として行動してきた。

 元公明党参院議員・福本潤一氏は、著書『創価学会公明党「金と品位」』で、「外国人
の参政権問題は、池田名誉会長からの〝特命〟だった」と明かしている。

 公明党の山口那津男代表は、佐藤優氏との共著『いま、公明党が考えていること』で、
創価学会・公明党の性格について説明している。同書で山口氏は、自民党が「国民政党」
を標榜していることと対比して、公明党について以下のように述べている。


>  公明党の場合、自民党とは違って「国民」という言葉は使わず「大衆」一本です。
> 先ほど申し上げたとおり、「国民」という言葉には日本で暮らす一部の人を排除する
> 要素があります。公明党が一緒になって戦うのは「国民」ではなく、あくまで「とも
> に暮らす大衆」である。


 山口氏のいう、国民から排除される「日本で暮らす一部の人」とは、どのような人たち
のことだろうか。同書において山口氏は、学生の頃、創価学会の集会に参加して受けた印
象を、次のように振り返っている。


>  在日韓国・朝鮮人も含め、創価学会には実にさまざまな人がいます。そういう人た
> ちが一堂に集まって座談会を開き、「今日は一つためになったな」「今日はこういう
> ことを決意して明日からがんばろう」と語り合う。創価学会とは本当にすごい場だと
> 思いました。 


 創価学会・公明党は「国民」ではなく、在日韓国・朝鮮人も含めた「ともに暮らす大衆」
と「一緒になって戦う」のだと、公明党党首が明言しているのである。

 日本国憲法第43条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」
と規定している。山口氏の主張は、公党の党首としていかがなものかと思うのは、私だけ
ではないだろう。

 創価学会が依然として、人権侵害そのものとも言える強引な折伏を、日本国民に対して
続けている事実を見ると、山口氏の言う「ともに暮らす大衆」の中には、学会員以外の一
般の日本人は含まれていないのではないかと、憂慮せざるを得ない。
 公明党員=創価学会員は、いったい誰に対して「戦い」を挑むつもりなのだろう……。

 以上でおわかりいただけたことと思うが、『人間革命』をはじめとする創価学会の出版
物を読むと、学会には〝在日のための互助組織〟という一面があることは明白であり、し
かも彼らは、そのことを隠そうともしていない。

 それとも学会関連の出版物を読むのは、どうせ創価学会員だけだと思って、高を括って
いるのだろうか。

 上述以外にも、かつての創価学会員が、折伏の際に他人の住居に押し入り、謗法払いと
称して、神棚や仏壇を壊したり燃やしたりしたことが語り継がれていることや、現在でも
少なくない数の創価学会員が、「鳥居をくぐると地獄に堕ちる」などと言っていることが、
〝この人たちは、普通の日本人とは違う〟という印象を与えているのだろう。

 創価学会のこのような体質が、〝在日のための宗教〟というイメージを生み、トップで
ある池田大作も日本人ではないのではないか、という噂が拡がる下地になったのである。
 

補足1 池田大作の実家の信仰について

 池田大作の実家は真言宗の檀徒だった。池田の父親・子之吉と兄・喜一の墓は、真言宗
の寺院にあったが、それでは都合が悪いので、後に学会の墓を作ったという。


>  大作の父・子之吉は生前、創価学会(日蓮正宗)とまったく関係がなかった。だか
> らこそ、いまなお学会からみたら邪宗の真言宗の蜜嚴院に墓があるわけだし、また、
> 喜一は弟、太作の戸田城聖との出会いや日蓮正宗入信(四七年八月)の約二年半も前
> にビルマで亡くなっている。にもかかわらず、後年、池田大作はそんな二人を勝手に
> 創価学会の墓にいれ、同時に二人の法名も蜜嚴院の子之吉=浄徳清道信士、喜一=忠
> 顕院英徳勝行居士とは別の子之吉=種田院法子日実居士、喜一=歓喜院法住信士とし、
> ここ高尾墓園の黒御影石に刻み込んでいたのだった。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』より引用)


補足2 池田大作の詩作

 創価学会が出版している池田大作名義の著作のほとんどは、ゴーストライターによるも
のと言われているが、詩や短歌については池田自身が作ったものもあるようである。

 また、『聖教新聞』の「寸鉄」欄も、元気な頃は池田が書くことが多かったらしい。
 若い頃の池田は、かなりの筆まめだったという。短い文章程度ならば、自作できたのだ
ろう。


補足3

 本文で述べた通り、私は池田在日説について否定的見解を持っている。この件について
は、説得力のある考証がまとめられているウェブサイトが複数あるので、上記だけでは納
得できない方は、そちらもご覧いただければと思う。
 以下のサイトは情報量が多く、参考になった。

 池田は朝鮮人か?

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2017年6月17日土曜日

池田大作と戸田城聖の〝遺品の刀〟

 『人間革命』第五巻に、昭和26年(1951年)1月26日、池田大作(作中では「山本伸一」)
が、戸田城聖の自宅に呼びだされ、後事を託すかの如きことを言い渡される場面が描かれ
ている。


> 「伸一、今日はよく聞いてもらいたいことがある。私も最後の覚悟をしておかねばな
> らぬ時がきた。それで一切の書類を処置しているわけだが、検察当局にこちらから出
> 頭しようかと思っている。一つの非常手段だ。しかし、そうなると、相手のあること
> だ。私の身柄はどういうことになるやも知れぬ。あとの事を、いまここで明確にして
> おきたい。そこで……」
>  と、戸田が言いかけた時、幾枝はわっと泣き出した。そして、嗚咽をこらえるよう
> に泣き伏した。
>  戸田は憮然として幾枝を見ていたが、急に声をあらげて怒り出した。
> 「なんていうことだ! 将軍が追いつめられて、最後の非常手段に出ようとしている
> 大切な時に、女々しく泣くとは、いったい何ごとだ!」
>  戸田は怒りを静めながら、伸一を見すえていった。
> 「考え違いをしてくれては困る。いま大事なのは後のことだ。そこで、伸一君、私に
> もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のことも、
> 一切君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族の
> こともだ。幾枝、よく聞きなさい」
 (中略)
>  伸一は、うるんだ瞳をあげ、戸田をみつめていった。
> 「先生、決して御心配なさらないでください。私の一生は先生に捧げて悔いのない覚
> 悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わるこ
> とはありません」
> 「そうか。そうか。よろしく頼みます」
>  戸田は、改まって頭さえ下げるのであった。

 ※ 文中の「幾枝」は、戸田の妻・幾子のことである。


 この場面で戸田が言及している「組合」とは、彼が経営していた東京建設信用組合(作
中では「東光建設信用組合」)のことである。当時、この組合は経営破綻しており、債権
者とのトラブルから刑事告訴されていた戸田は、いつ逮捕されるかわからない身であった。

 また「大東商工」とは、後に池田が営業部長して辣腕を振るう大蔵商事のことであるが、
この頃はまだ経営が安定していなかった。この時期の戸田城聖は、実業家として進退に窮
していたといえる。

 戸田と池田の間に、実際に引用のようなやり取りがあったかは、定かではない。その後、
事態は好転し、戸田は刑事責任を問われることもなくなり、この年の5月3日に創価学会会
長に就任した。

 ここで留意いただきたいことは、戸田が池田に対し、〝もし万一のことがあったら、事
業や創価学会のこと、そして、できることなら家族のことも頼む〟と言い、池田はそれに
「決して御心配なさらないでください。(中略)この覚悟は、また将来にわたって永遠に
変わることはありません」と答えたと、池田が「恩師の真実を伝える伝記」だと自讃する
『人間革命』に書かれているという点である。

 さて、上記引用の時期から約7年後に戸田城聖は死去したわけだが、その時、池田大作
はどのように振る舞ったのだろうか。

 戸田の葬儀後の池田の行動について、石田次男氏が著書『内外一致の妙法 この在るべ
からざるもの』で述べている。孫引きで恐縮だが、以下に該当の一節を引用する。


>  恩師戸田先生逝去直後、御本葬から十日も経たないうちに、池田氏は戸田家に赴い
> て、香典四千万円の方は渡さずに、幾子奥様から、戸田先生の御遺品を持ち出し、そ
> のうちの一つとして先生御所時の刀を借り出した。
>  池田の意思ではなくて小泉筆頭理事の意向、と称して「戸田会長の御遺品は学会と
> して大切に永久保存させていただきたいので、曲げて御承諾ください。お願いします」
> と、懇願という形、お願いという形で、強引に談じ込み、いやおうなく承諾を克ち取
> ったのである。
>  吉崎区議を指揮者とする運び出し実行部隊は、トラックで運び出した。持ち出し量
> の多さが知れようというものではないか。
>  池田氏は、その後十年も十五年も経ってから、この刀を創価学会宝展へ出品した。
> 場所は八王子の東京会館。時は昭和五十八、九年頃のことである。何気なく同展を見
> 物に出かけた奥様は「その場で真っ青になって、卒倒せんばかりに驚いた」――同行
> した御子息夫人の打ち明け話――とのこと。その説明書きには「池田会長が戸田先生
> から生前に拝領した刀です」とあった。
>  いかにも精神詐欺師らしいではないか。この刀、三十余年が過ぎた現在、いまだに
> もって返されていない。貸し側が催促無しで、所有権切れになるまで、粘りに粘り通
> す気なのであろう。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 これが「家族のことも頼む」と恩師から託されたと、誇らしげに書きたてた男――正確
にはゴーストライターに書かせた男――が、実際にとった行動なのである。

 しかも、原島嵩氏の著書によると、池田は恥知らずにもこの刀を「代々の会長に伝える
重宝」だと言っていたという。

 恩師が亡くなると家に押しかけてその遺品を奪い、自らの権威づけに利用する、これが
ことあるごとに「師弟の道」を口にしていた池田大作の、偽らざる姿なのだ。

 『人間革命』に描かれる弟子の模範のような「山本伸一」と、現実の池田大作とは、ど
うしようもないくらいかけ離れている。

 池田は、戸田時代をよく知る古参の学会員から、『人間革命』の記述は実際にあったこ
とと食い違っているのではないか、と指摘を受けると「あれは小説だから」といって誤魔
化したという。

 戸田城聖の息子の喬久氏は、一時期、創価学会の顧問になっていたが、後に関係を断ち、
学会が日蓮正宗から破門された際には、戸田家は日蓮正宗の檀徒であり続けることを選ん
だ。

 戸田城聖の未亡人・戸田幾子氏は平成12年(2000年)、喬久氏は平成25年(2013年)に
死去しているが、その葬儀はいずれも学会葬ではなく、日蓮正宗の僧侶を導師として営ま
れた。

 『週刊新潮』2013年2月14日号は、平成25年(2013年)1月4日に戸田喬久氏が77歳で死
去し、日蓮正宗常在寺の僧侶が導師となって葬儀が行われたと伝えている。しかも導師を
務めた僧侶は、創価学会を破門した大石寺67世法主・阿部日顕氏の息子だったという。

 喬久氏の葬儀に出席した学会員は、一部の古参幹部だけだった。
 同誌には、取材に応じた元学会幹部の言葉が掲載されている。


>  戸田先生の奥さまである幾さんは、夫が手塩にかけた創価学会が、単に池田名誉会
> 長を崇める〝池田ファンクラブ〟のように変質していくことに怒りを隠せませんでし
> た。00年に、彼女は89歳で亡くなりますが、日蓮正宗の信仰を最後まで貫き、遺言は
> 〝葬儀は常在寺で〟だったのです。


 戸田未亡人の葬儀には、創価学会からは当時の秋谷会長をはじめとする幹部数十名が参
列したが、池田大作は欠席した。
 また『週刊新潮』には、喬久氏の未亡人の話も載せられているので引用する。


>  主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げること
> はありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、
> 主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です。


 戸田城聖の遺族は、池田大作が支配する創価学会と手を切った。そして池田は、恩師の
遺族の葬儀にすら出席しなかった。

 創価学会のいう「師弟不二」の内実がどの程度のものか、これらの事実が何よりも雄弁
に物語っているのではないだろうか。

 戸田城聖の遺族に対する池田大作のふるまいを見ていた今の学会幹部たちが、池田亡き
後に〝池田大作流の師弟不二〟を実践する可能性は大いにありそうな気がするが……。

 「永遠に変わることはありません」と誓ったことになっている池田が、師の没後、一月
経たないうちに、恩師の遺族に上述のような仕打ちをはたらいたのである。その池田の弟
子たちの忠誠心がどれほどのものか、おおよそ想像がつくというものだ。

 現在の学会会則で「永遠の師匠」とされている三代会長の位置づけも、将来的にはどう
なるものか、わかったものではあるまい。

 池田大作という軛から解放された幹部たちが、真実を語りはじめたり、池田を見習って
学会の私物化を企てたりしても、それは因果応報というものであろう。



補足 香典について

 戸田城聖の葬儀は、昭和33年(1958年)4月8日、戸田家の告別式が行われ、4月20日に
は創価学会葬が営まれた。学会葬には25万人が参加、当時の首相・岸信介も焼香に訪れた。
 また、全国から集まった香典の総額は、四千万円にも上った。

 この香典は、戸田未亡人が催促したので、葬儀の費用四百万円を差し引いた三千六百万
円が、同年6月9日になって戸田家に届けられたという(溝口敦著『池田大作「権力者」の
構造』による)。

2017年6月15日木曜日

エレベーター相承のウソ

 創価学会の第二代会長・戸田城聖は、昭和33年(1958年)4月2日に死去したが、生前、
後継者を明確に指名していなかったため、その2年後、昭和35年(1960年)5月3日に池田大
作が第三代会長に就任するまで、会長職は空位だった。

 しかし、池田大作は第三代会長に就任した後になって、戸田の死の一月ほど前の3月1日、
大石寺で大講堂落慶法要が営まれた際に、自分が後継者として指名されていた、と言い出
した。『人間革命』第十二巻には、その場面が以下のように描かれている。


>  清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
>  エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。
> そして、静かだが、力をこめて言った。
>  「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、
> あとはお前だ。頼むぞ!」
>  伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。二人の眼と
> 眼が光った。
>  「はい!」
>  自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静
> 寂のなかに、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交
> わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
>  清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳
> 粛な瞬間の姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったにちがいない。
>  それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは六階
> に着いた。

 ※ 『人間革命』では、ほとんどの登場人物が仮名で書かれている。
   清原かつ=柏原ヤス、森川一正=森田一哉、山本伸一=池田大作。


 この逸話は、学会内では「エレベーター相承」と言われている。『人間革命』第十二巻
は、平成5年(1993年)に出版されているが、「エレベーター相承」の話は、学会機関誌
『大白蓮華』などで早くから広められていた。

 しかし、誰を第三代会長にするかについて、学会内で意見がまとまっていなかった時期
には知られていなかった話が、池田が会長になった後に広められたというの奇妙である。

 学会幹部であった柏原氏や森田氏が、本当に「エレベーター相承」に立ち会っていたの
ならば、なぜ彼らはこの話をもっと早くに言い出さなかったのだろうか。

 当時、創価学会理事だった石田次男氏が、この後継者問題について、著書『内外一致の
妙法 この在るべからざるもの』で、まったく別の証言をしている。


>  戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後四時頃、その場その席で、理事長以下祝
> 宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』
> と仰言ったではないか。そしてその席に池田氏は参加していなかったし、それでも当
> 日の内には耳にしたはずではないか。池田氏の言いぶりでは、戸田先生は理事長以下、
> 理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長の全員を騙したことになる。考え
> てもみるべきだ。学会にとっての大事が、エレベーターの中などと、こんな中で行わ
> れるものか。万人仰天の巻ではないか。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 戸田城聖の死の直後は、初代会長が死去してから七年間、会長職は空位だったのだから、
当面は次の会長は指名しなくてはよいのではないか、という空気が学会内部では支配的だ
ったという。

 もし本当に、その当時学会理事だった柏原ヤス氏と、青年部参謀だった森田一哉氏との
立会いのもと、戸田城聖が池田大作を後継者として指名していたならば、第三代会長はす
んなりと決まっていたはずである。

 石田氏が主張するように、『人間革命』第十二巻に書かれているような「エレベーター
相承」など、実際にはなかったと考える方が自然だろう。

 しかしながら、この作り話は学会内で〝池田神話〟の一部として、広く信じられるよう
になり、かつて石田次男氏が後継者候補の筆頭だったことなど、ほとんど忘れ去られるま
でになった。

 池田大作は、昭和33年(1958年)当時は、創価学会の青年部参謀室長だったが、大蔵商
事の営業部長でもあり、破格の給料を得ていた。そして、その金で他の学会幹部に食事を
おごるなどして手なづけていた。
 元公明党都議・龍年光氏は著書で、当時の池田の動きを述べている。


>  池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の
> 最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、
> 学会にとって最も害のある行動である。
>  実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー(北条浩、森田
> 一哉、中西治雄、星野義男等)に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知
> って愕然とした。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)


 池田大作に、人を従わせるカリスマ性があったのは事実なのであろう。また、金貸しと
しての天分に恵まれ、金融会社・大蔵商事では随一の稼ぎ頭でもあった。人をまとめ上げ
る統率力もあった。

 しかし、どう考えても彼に宗教指導者としての資質があるとは思えない。
 戸田城聖も、日蓮正宗という宗教を金儲けのために利用したが、それでも一方では狂信
的なまでに日蓮正宗を信仰してもいた。

 戸田城聖のもとでの創価学会も、反社会的なカルトだったが、多くの新興宗教は創成期
には社会と衝突しても、次第に丸くなってトラブルは少なくなるのが普通である。

 もし仮に、石田次男氏が第三代会長になっていたならば、創価学会もそうなっていたの
ではないだろうか。

 池田大作は、宗教とビジネスを一体化させる戸田城聖のやり方を受け継ぎ、それを自分
の権勢欲を満たすために利用した。そのために創価学会を〝池田教〟に作り変えた。

 現在の創価学会では、権力を握るためなら平然とウソをつき、勝つためなら手段を選ば
ない池田大作を信者の模範とし、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っている。

 創価学会は、池田大作が後を継ぎ、長年にわたり支配しつづけたことにより、戸田時代
よりも悪質になってしまったのだ。

 このような邪悪なカルトを、これ以上のさらせるわけにはいかない。いま現在でも多く
の被害者が、十分すぎるほど迷惑しているのだ。

 学会員の皆さんには、創価学会が垂れ流してきたウソやデタラメに気づいてほしい。そ
して信仰を口実に他人を苦しめることを、即刻やめてもらいたいと願う。

2017年6月13日火曜日

「長男はツギオで、次男はダイサク」

 『人間革命』第五巻に昭和26年(1951年)7月11日、創価学会青年部の部隊結成式の模
様が描かれている。その時、演壇に立った戸田城聖は、その年の5月、自身が第二代会長
に就任したばかりであったにもかかわらず、次期会長について言及したという。


> 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現われるで
> あろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお
> 祝いを申し上げておきたいのであります」
>  戸田の言葉は、低くあり、高くあり、真情あふれんばかりの声であった。意外な言
> 葉に、青年たちは思わず体を硬直させたにちがいない。――第三代会長が、このなか
> にいるという。いったい誰のことなのであろうか。――それは、彼らの思念をはるか
> に越えた問題であった。
>  戸田は場内の中央の一隅に山本伸一班長を見かけると、ふと眼をそらした。この瞬
> 間、山本伸一は半年前のあの日のことを、咄嗟に思い出さずにはいられなかった。


 『人間革命』ではこの後、山本伸一(池田大作)が「半年前のあの日」に、戸田城聖か
ら「私にもし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のこと
も、一切君に任せる」と言われたことを回想する場面が描かれている。

 しかし、この青年部結成式に出席していた一人である藤原行正氏は、当時の青年部員は、
『人間革命』の記述とは異なる受け止め方をしたと述べている。


>  また、この日青年部ナンバーワンの地位の第一部隊長には二十六歳の石田次男(聖
> 教新聞初代編集長、元参議院議員)が任命された。石田は学会の次期後継者と目され
> た若手屈指の人材であった。その石田を中央にした青年部に向かって、戸田会長はさ
> らに熱っぽく語りかけた。
> 「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現われるであろう。
> かならずこのなかにおられることを私は信ずる」
 (中略)
>  その場にいた全員が、その言葉は石田第一部隊長へ向けられたものだと受け止めた。
> 池田大作もその一人だった。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『人間革命』に、池田大作(作中では「山本伸一」)が登場するのは第二巻からである。
『人間革命』の記述では、戸田城聖は池田と初めて出会ったその日に、「いま牧口の遺業
を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現した」と直感したと書かれている
が、これは大ウソである。

 昭和26年(1951年)の青年部部隊結成の時点では、池田大作は第四部隊長に任命された
龍年光氏の下の一班長でしかなかった。

 藤原氏の前掲書には、昭和30年前後には戸田城聖は「長男はツギオで、次男がダイサク
だぞ」と語っていたと述べられている。
 藤原氏の著書から、当時について引用する。


>  この頃は誰もが石田を戸田二代会長の跡継ぎだと考えていた。池田自身もそうだっ
> たから、彼の石田に対するオベッカ遣いは凄かった。年に一度の子供会の席などで、
> 池田は石田に対してだけは懸命にゴマをすった。石田が腰を上げると見るや、池田は
> 素早い。パッと立って、石田の手荷物を持とうとするのである。いくら相手が次期会
> 長候補とはいえ、宗教団体の創価学会でそこまで媚びを売る人間はほかにいなかった。


 石田氏が創価学会に入信したのは、昭和25年(1950年)11月だが、その翌年には聖教新
聞の初代編集長として抜擢され、昭和28年(1953年)には、牧口門下の古参幹部と並んで
理事に就任した。戸田城聖からそれだけ買われていたのである。

 しかし、この理事就任が後に裏目に出ることになる。創価学会では、青年部が重要な役
割を担っており、石田氏が青年部から抜けた後、第一部隊長には池田大作が就任し、その
翌年には新設された参謀室長に抜擢された。池田はその後、青年部ナンバーワンとしての
地位を最大限に利用した。

 石田氏は、初代編集長として聖教新聞を基礎から作り上げたという功績があり、それな
りの人望もあったが、会長を目指そうとする野心はまったくなかった。

 戸田城聖は、教学面では抜きんでていた石田次男氏を長男に擬し、事業面での貢献が大
きかった池田大作がそれを補佐してくことを期待して次男と言ったのだろうが、天性の野
心家である池田大作は、戸田が58歳で死去したことをチャンスと見なして、策謀をめぐら
し、ついには第三代会長の地位を手に入れたのである。

 『人間革命』第十二巻には、戸田が「幸男は長男だな、伸一は次男だよ」とよく言った
が、それは「惣領の甚六」という批判的な意味合いだったと述べられている(『人間革命』
には、石田次男氏は「石川幸男」として登場する)。

 この記述は、藤原行正氏や龍年光氏が造反して、〝『人間革命』には戸田二代会長が生
きている間から、池田が後継者になることが決まっていたかのように書かれているが、そ
れはウソだ〟という批判を開始し、藤原氏が著書で、戸田会長が「長男はツギオで、次男
はダイサク」と言っていたと暴露したので、言い訳をしたものであろう。

 戸田城聖没後、石田氏を会長に推す動きもあったが、石田氏は固辞した。その後、参議
院議員を二期務めたものの、三期目の立候補は池田大作が許さなかった。その頃には池田
は〝戸田門下生の中の第一人者〟ではなく、絶対権力者としての地位を確立していたので
ある。その後の石田氏について、ジャーナリスト・溝口敦氏は以下のように描いている。


>  石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、つ
> いには最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に
> 重用されすぎたという理由だけである。
>  池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田
> 次男は二十年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にと
> っての「地獄」の持つ意味の重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しに
> して断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、異常な競争心と報復心の激しさ、底
> 深さをみる思いがする。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 石田氏は、彼を敵視する池田大作の策謀により、若くして事実上の引退を強いられたわ
けである。彼はそれにめげずに、池田大作の教義上の誤りを批判し続けたが、創価学会側
は、石田氏は「気がふれて再起不能」「アル中で廃人寸前」などという噂を流して黙殺し
た。

 ジャーナリスト・内藤国夫氏が、昭和60年(1985年)に石田氏にインタビューし、その
内容を著書に記している。それによると、石田氏は池田大作の事業面での貢献は評価して
いるが、教学については酷評している。


> 「大作が戸田先生を助けたというのは、ある意味で本当だな。借金取りに追いかけら
> れちゃあ、それをなんとか追っ払い、こっちが逆に借金取り立てる時には、追っかけ
> てなんとか払わせる。それは、大作一人だけがやった仕事だよォ。たしかに大作は戸
> 田先生を助けたさ。だけど、一面で大作は戸田先生に助けられたんだ。モノもわから
> ねえチンピラが、戸田先生によって働く場所を与えられたんだもの。助けられたのに、
> そっちを忘れて、あるいはいわずに、助けたことばかりいってたんじゃ、これはサカ
> サマだァ。そこがタチが悪いんだよ。知ってて、いわねえんだもの」
> 「それに、これは金のことだけだろう。大蔵商事は金を扱う会社だから。教学のこと
> に関しちゃ、戸田先生、大作のことなんか全然信用してなかったもの。大作自身が先
> 生の講義をろくに聞いてねえんだよ。なにしろ、平気で偽の本尊を作ったりする男だ
> からな。宗教のことなんか、なあんにもわかっちゃいない」
 (内藤国夫著『創価学会池田大作のあくなき野望』より引用)


 石田次男氏は、平成4年(1992年)2月4日に死去した。池田大作はもちろんのこと、実
弟の石田幸四郎氏(当時、公明党委員長)と義弟の秋谷栄之助氏(当時、創価学会会長)
さえも、その葬儀に出席しなかったが、通夜には戸田城聖の未亡人と子息の戸田喬久氏が
出席した。

 ジャーナリスト・乙骨正生氏が戸田未亡人・幾氏に出席の理由を質問したところ、「生
前、主人が大変、お世話になりましたので」との返答があったとのことである。

 師である戸田城聖が世話になった人の葬儀に参列しないというのは、「師弟不二」とい
う創価学会の教義に照らしてどうなのだろう……。

 「歴史にIFはない」というが、もし仮に創価学会の第三代会長に就任したのが、池田
大作ではなく、石田次男氏だったならば、どうなっていただろうか。
 溝口敦氏は、石田氏を以下のように評している。


>  かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように避難しようと、石
> 田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々
> しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版
> 妨害などを少なくともひき起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがい
> ない。
>  が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田
> の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 長年にわたる池田大作の支配により、反社会性が組織の体質になってしまった現在の創
価学会が、その体質を改めるのは容易なことではないだろう。

 また、ほとんどの学会員にとって、池田名誉会長の存在がない創価学会など、考えるこ
とさえできないことなのかもしれない。

 しかしながら、第三代会長が池田大作ではなく、今の創価学会よりは社会とうまく折り
合うことができたであろう、別の可能性も有り得たことを、ある種の〝ユートピア〟とし
て想像することは、創価学会の在り方を批判的に考察し、今後まともな組織になり得るか
を検討する上で、何がしかの意味はあるのではないだろうか。

2017年6月11日日曜日

藤原行正氏について

 『人間革命』の最終巻である第十二巻は、平成5年(1993年)4月2日付で刊行されてい
る。創価学会が日蓮正宗から破門されてから二年後のことであり、この頃には古くからの
幹部の中からも造反者が何人も出て、池田大作への批判をしていた。

 『人間革命』第十二巻では、石田次男氏(作中では「石川幸男」)、龍年光氏(作中で
は「滝本欣也」)、藤原行正氏(作中では「藤川一正」)に対して、かなり辛辣な批判が
加えられている。

 石川幸男は「横柄で冷たい」、滝本欣也は「人間として異常」などと、かなり手厳しい。
両者とも、それまで作中では、学会幹部として重要な役回りを演じてきたにも関わらず、
一転して悪役のような描かれ方になっている。

 これらの人物は、『人間革命』第十二巻刊行時には、いずれも公然と池田大作を批判す
るようになっていた(石田氏は平成4年〔1992年〕死去)。そのために、悪しざまに書か
れる羽目になったのであろう。

 『人間革命』は、池田大作が自画自賛するような「恩師の真実を伝える伝記」などでは
なく、池田を宣揚し、敵対する者を貶めるために書かれたものであることの証拠である。

 藤川一正(藤原行正氏)は、第十二巻ではじめてその名が登場するが、藤原氏がこの巻
が上梓される4年前に造反し、批判本『池田大作の素顔』を出版していたためか、人間的に
相当に問題があるかのように書かれている。


>  ――前年の夏、戸田は大洋精華の社員の表情が暗いことが気になった。関係者に聞
> くと、営業部長の藤川の常軌を逸したやり方に、社員が苦慮しているとのことであっ
> た。藤川は、社員に休日も与えずに働くことを強い、営業成績が悪いと怒鳴りつけ、
> 時には、コップを床に叩きつけたりもするという。そして、社長をしている十条潔が、
> 社員を温かく激励するのを冷ややかに見ながら、自分は、社員への監視の眼を光らせ
> ているというのである。

 ※ 「大洋精華」とは学会関連企業の東洋精光、「十条潔」とは第四代会長を務めた北
  条浩氏のことである。


 『人間革命』では、大洋精華の社員が休日出勤の挙げ句に交通事故死したことが描かれ、
その報を聞いた戸田は、「藤川は、一将功成りて万骨を枯らすことになる。とんでもない
ことだ。しかし、女房も女房だ。あの見栄っぱりの性格が、ますます亭主を狂わせている。
悪いのは女房だ」と述べたとされている。

 藤原行正氏の妻、郁子氏は、池田大作の愛人だった渡部通子氏の実姉である。藤原郁子
氏は、ジャーナリスト・内藤国夫氏に対して、池田の女性関係について話し、内藤氏はそ
れを雑誌で書き立てた。「悪いのは女房だ」というのは、池田大作の意趣返しであろう。

 『人間革命』には、その後、事故死した社員の通夜に藤川が出席しなかったことを知っ
た戸田が、「なにッ! 藤川は人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない
態度ではないか。今後、藤川のことは、いっさい信じるな!」と言ったと書かれている。

 もしこれが事実なら、池田大作は師である戸田の命に背いたことになる。なぜなら、戸
田の死後、池田の第三代会長就任と時を同じくして、藤原行正氏は創価学会理事となり、
その翌年には渉外部長にも就任しているからである。

 藤原氏は学会幹部として、マスコミ対応や右翼団体との折衝を行い、公明党都議を七期
務めている。また、昭和44年(1969年)に藤原弘達氏が『創価学会を斬る』を出版しよう
とした際には、出版取り止めの依頼に出向いている。

 藤原行正氏は著書で、昭和36、7年当時「池田側近ナンバーワン」と呼ばれていたと述
べているが、実際にそれだけの働きはしていたのであろう。

 池田大作が、会長就任後の数年間、藤原氏を重用していたのは事実である。もし本当に
戸田城聖が、藤原氏のことを「いっさい信じるな!」と言ったのなら、そうはならなかっ
たであろう。『人間革命』は「永遠の師匠」であるはずの、戸田城聖の言葉を捏造してい
るのである。

 都議会議員としての藤原氏は、清廉潔白とは言い難かったようである。下水道関連の利
権を握り、往時は「東京都の下水道工事は藤原行正のお墨付きがもらえないと、工事が出
ない」と言われるほどだったという(古川利明著『シンジケートとしての創価学会=公明
党』による)。

 藤原氏はその後、昭和63年(1988年)に公明党衆議院議員・大橋敏雄氏とともに、創価
学会および池田大作への批判を開始した。平成元年(1989年)には、『池田大作の素顔』
を出版している。

 藤原行正氏は、創価学会および公明党の幹部として、少なからず問題行為に加担してき
た人物である。だが、造反して『池田大作の素顔』を出版した功績は、多としなければな
らないだろう。この本は、池田大作について知る上で重要な資料の一つである。

 さて、藤原氏については、もう一つ言及すべきことがある。それは〝池田大作を暗殺し
ようと企てた〟との風説についてである。
 ウィキペディアの藤原氏の項目には、以下の記述がある。

> 池田大作暗殺計画
> 1988年(昭和63年)9月18日、東京都新宿区西新宿のヒルトン東京である暴力団幹部
> に会い、着手金2億5千万円と成功報酬2億5千万円で池田の殺害を依頼した。しかし藤
> 原が着手金を払えなかったため、10月5日、契約は頓挫し発覚した。


 この情報の初出は、創価学会がかつてバラ撒いていた怪文書「地涌」である。とてもそ
のまま鵜呑みにしていい情報とは思えない。以下に当該の記述がある「地涌」第20号の一
部を引用する。


>  池田名誉会長を倒し、自分の息子を創価学会会長に据える――、こんな野心を持っ
> た男・藤原行正がたくらんだウルトラCは、池田名誉会長の殺害を暴力団に依頼する
> ことだった。
>  藤原行正は、昭和六十三年九月十八日午後二時五十分、新宿区のヒルトンホテルで
> 暴力団幹部のMに会った。九月二日に大橋が国会に「質問主意書」を出した後で、藤
> 原、大橋が脚光を浴びていた頃のことだ。
>  以下の会話記録は、殺人依頼の契約が頓挫したことから白日のもとにさらされた。
> 以下はその一部抜粋である。
>   藤原 Mさんの方で、池田を処分してくれませんか。
>   M  処分というのは、殺すということですか?
>   藤原 そうです。
>   M  いやあ驚きましたね。信仰の世界にいる人が……。よほど、腹をくくった
>      んですね。
>   藤原 そうです。私の手の者でも行くという人間はいるのですが、なかなか……。
>   M  それはそうでしょう。カタギの人がそんな事は簡単にできる訳はないです
>      よ。
 (『地涌からの通信①』より引用)


 この話は事実であろうか。相手の男が「いやあ驚きましたね。信仰の世界にいる人が」
と言ったことになっているが、この時点での藤原氏は、現職の都議会議員である。驚いて
みせるとしたら、まずその点ではないだろうか。不自然な印象は拭いがたい。

 この話とは逆に、創価学会側が藤原氏の暗殺を企てたという話もある。これは元公明党
委員長・矢野絢也氏が著書で述べていることである。


>  藤原氏は、公明党創立当時からの古参の議員で、池田氏には批判的な人物として知
> られていた。その藤原氏を学会が公然と敵視するようになったのは、マスコミに藤原
> 氏の夫人と池田氏との不倫を印象付ける記事が掲載されて以来である。学会は、この
> 情報を藤原氏側からのリークとみなし、熾烈な攻撃を始めたのだ。
>  また学会側は、藤原氏とその次男が、次期会長の座を狙っているとして、批判を強
> めた。これだけなら、学会内部ではよくある権力闘争のひとつだと片付けてしまえな
> くもないが、この一件には世間にはおおっぴらに公開できない秘話があった。
>  当時、公明党都議会の藤井富雄幹事長が、私の自宅を訪ねてきて、真剣な表情で、
> 次のように依頼した。
> 「学会首脳が第三者を使って藤原氏の暗殺を計画している。そういうことは学会の自
> 殺行為になる。なんとか止めてもらえないか」
>  暗殺とは穏やかではない。学会首脳が藤原氏の殺害を計画しているなどとは、とて
> も信じがたかったが、事が事である。私は当時会長だった秋谷栄之助氏に、藤井幹事
> 長の依頼を伝えた。
>  暗殺依頼が本当にあったのかどうかは、わからないが、藤井幹事長が深刻な懸念を
> 抱いて、「取りやめ」を学会首脳陣に進言するよう、私に求めてきたには厳然たる事
> 実である。
>  学会が暗黒街の組織のごとく、邪魔者は消せとばかりに殺人を依頼する。今でも、
> あれは藤井氏の杞憂だったと思いたいが、離反した議員に殺害を仄めかすような脅し
> を、創価学会や公明党の幹部がかけたという話は、たびたび耳にする。
>  私自身、手帖強奪の過程で、議員OBから「あなたの身に危険が及ぶ」という趣旨
> の恫喝を何度も受けたし、実際に幾度も身の危険を感じた。
 (矢野絢也著『黒い手帳 創価学会「日本占領計画」の全記録』より引用)


 どちらの話も確たる証拠はなく、事実か否か不明である。
 しかし私には、「地涌」のようないかがわしい怪文書などより、元公明党委員長である
矢野氏の述懐の方が、ずっと説得力があるように思える。

 矢野氏に暗殺計画を話したという藤井富雄氏は、創価学会において暴力団との窓口役を
長年務めてきた人物。その手の情報を、入手しやすい立場であったのは事実である。

 創価学会を代表する出版物であり、学会員から「現代の御書」と呼ばれるほど重視され
ている『人間革命』にすら捏造があることは、上述のとおりである。その創価学会が出し
ていた怪文書「地涌」にどれほどの信憑性があるかは、言わずもがなであろう。

 今後も、藤原氏や矢野氏のように造反して、創価学会の真実を明かす公明党議員が出て
くるかはわからない。願わくは勇気と良識に目覚める人士が、現在の公明党にもいてほし
いものである。

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2017年6月9日金曜日

大阪事件

 昭和31年(1956年)の参議院選挙で、創価学会から6人が立候補し、うち3名が当選した。
創価学会が国政選挙に候補を立てたのは、この時が初めてだった。

 この時、大阪府選挙区から立候補した白木義一郎氏(『人間革命』では「春木征一郎」)
の選挙参謀を務めたのは池田大作であった。この選挙では、創価学会員の中から多数の選
挙違反者が出た。当時についての記述を以下に引用する。


>  ここで「参議院議員当選」という三つの「金星」のうちの一つを池田が手にしたこ
> とで、次期会長へ向けた足場を固めることになるのだが、このときやった戸別訪問の
> すさまじさは学会内部では語り草になっている。
>  「〝折伏〟ということで、信者獲得と合わせて池田はローラー作戦をかけたんだが、
> 運動員が有権者の自宅に乗り込んでいって、まくし立てるということをやった。だが、
> こういう派手な活躍があって実際に会員数はものすごい勢いで増えていった。大阪で
> の地盤を切り開いたのは池田だ」(元側近)
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』)


 この選挙については、『人間革命』では第十巻において言及されており、学会員の中か
ら選挙違反での逮捕者が多数出たことについて、率直に認めている。

 一方で、池田(作中では「山本伸一」)が「法律に違反するような行動は、けっしてあ
ってはなりません」と誡めたにも関わらず、「当局の創価学会に対する無知と、会員の法
律知識の欠如による無知とが輪をかけて一つになり、重なる無知が非常識な事件の続発を
もたらした」としている。

 『人間革命』には、選挙違反を引き起こしたのは、あくまでも法律に疎い一部の学会員
であり、幹部からの指示はなかったと述べられているのだが、実際には布教活動に偽装し
た戸別訪問を組織的に行っていたのである。

 その翌年、昭和32年(1957年)同じ大阪府選挙区で、参議院補欠選挙が実施された。こ
の選挙でも創価学会は、候補者を擁立した。結果は落選だったが、今回も戸別訪問および
買収の容疑で多数の学会員が逮捕された。

 それだけでなく、選挙後、選挙違反を指示した容疑で、当時理事長だった小泉隆と渉外
部長だった池田大作も逮捕起訴された。これが「大阪事件」である。

 この事件の端緒は、タバコの箱に現金を入れて職業安定所などでばら撒くという、悪質
な買収行為が発覚したことだった。この現金ばら撒きについては、池田の指示はなかった
という説と、逆に指示があったという説、両方がある。

 戸別訪問については池田の指示によるものと疑われ、池田自身、拘留中に全面自供し、
調書にサインしていた。

 池田大作が黙秘を通さず全面自供したことについて、『人間革命』第十一巻には、検事
から「君が容疑を認めなければ、戸田会長を逮捕する」と脅され、「身に覚えのないこと
であっても、罪を一身に被るべき」と考えてのことだったとされている。
 しかし、元公明党都議の藤原行正氏は、別の見解を述べている。


>  学会絡みの事件で真相を明かせば、逆に会長に責任が及ぶ。これはわかりきったこ
> とである。それを承知で大阪事件での池田はペラペラ全面自供した。刑事が怖くてた
> まらず、早く勘弁してもらいたい。池田の頭にはその一念しかなかったのだろう。し
> かも大阪事件の場合、池田自身が大阪でしでかした選挙違反行為だった。常識的に考
> えて、東京にいた戸田先生とは無関係だった。池田は戸田先生の名前を語ることで追
> 及をかわしたわけである。
>  このウソがバレるのを恐れて、池田は学会内部でいろいろ手を打った。最初は弁解
> がましく「戸田先生へ責任が及ばないため」といっていたのが、戸田会長が亡くなり、
> 自分の代になると「私は戸田先生の身代わりで罪を被った」と脚色した。そのウソを
> 何年もかけてそれこそ百遍以上繰り返したため、それが「真実」で通るようになった。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)

 
 どちらを真実と思うかは立場によって違うであろうが、この逮捕拘留が池田大作に権力
への恐怖を植え付けたことは事実であろう。

 その後の池田が、国会への証人喚問を免れるために、公明党の政治力を浪費してきたの
は、権力を持つ者に屈服し、全面自供するまでに追い詰められたことがトラウマになって
いるからではないか。また、「総体革命」と称する浸透工作を、警察・検察に対して進め
る大きな動機にもなっていると思われる。

 大阪事件の裁判では、昭和33年(1958年)に小泉隆が無罪となり、昭和37年(1962年)
には池田大作にも無罪判決が出た。池田が無罪になったのは、検察の調書が裁判長から却
下され、戸別訪問の指示があったと立証できなかったからである。

 『人間革命』十一巻には、この無罪判決について、「遠く、険しい道のりであった。し
かし、学会の正義は、伸一の無実は、ここに証明され、欺瞞の策謀に真実が打ち勝ったの
だ」と述べられ、池田大作は無実であったにもかかわらず、権力によって罪を着せられた
かのように描いている。

 だが、この点についても、当時を知る元学会幹部は、異なる意見を述べている。
 元公明党都議・龍年光氏の著書から、当該部分を引用する。


>  原島宏治氏が心配していた大阪事件の裁判は、判決を言い渡す前に、田中裁判長が
> 弁護団を呼んで一枚の紙を渡した。
>  その紙は、「拘置所の中で、検事が三人がかりで、池田に手錠をかけたまま、夜十
> 一時まで、食事も与えず調べた事、従って検事調書はすべて却下する」とあった。田
> 中裁判長が一人で拘置所に赴き職権で調査し、検事の行き過ぎを発見したお陰である。
> 後でわかったことだが、この事件の前年、昭和三十一年の参議院選挙で池田は大阪地
> 方区で白木義一郎を当選させた。そのやり方があまりにもヒドいので、大阪地検は激
> 怒していたという。その翌年、無責任にも池田は、またまた無差別戸別訪問の指令を
> 出していた。この事実を知った弁護団は全員、池田の有罪を確信していた。
 (中略)
>  田中裁判長が渡した一枚の紙は、当時の弁護団の一人であった松井弁護士(故・北
> 条浩会長と海軍兵学校の同期生)が持っていたので、私がコピーして故・北條浩会長
> に渡し、『人間革命』に大阪事件の裁判を書くときにはきちんとこの事実を載せろと
> 言ったのであるが、この事実をひた隠しにして、あたかも池田の無実の罪が晴れたか
> のように書いてある。これは大ウソである。
 (龍年光氏著『池田大作・創価学会の脱税を糾弾する』より引用)

 ※ 原島宏治氏は創価学会理事として、池田大作が第三代会長に就任できるよう尽力し
  た。後に公明党初代委員長に就任するも急死。造反した原島嵩氏の実父。


 刑事訴訟法 第319条は「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁され
た後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができ
ない」と規定している。池田大作は、この規定に救われたのである。

 また当時、創価学会理事(小岩支部長兼任)だった石田次男氏も、著書『内外一致の妙
法 この在るべからざるもの』で、検察への裏工作があったことを暴露している。

>  だが、正義のはずの法廷闘争から約二十人の有罪者が出たことは、ちっとも正義な
> どではなかったことを物語る。池田氏は自分の連帯の罪をこれら各個人の単発罪であ
> るかのように、偽証で形を整えて、無罪判決を貰っただけだ。
>  この事件で『戸田先生を引っ張る』と言った地検が戸田先生を引っ張らなかったの
> は何故か? 少く共、事情聴取位は有っても不思議は無さそうだが、それも無かった
> のは、決して池田が言うように「自分(池田)が泥を被った』からではない。このこ
> とは今明らかにして置く必要が在る。戸田先生に迄地検の手が伸びなかったのは、事
> 件を担当した清原次席検事(地検ナンバー2)が断念したからに過ぎない。昔のこと
> で、もう迷惑が及ぶことも無いであろうから真相を此処に明らかにして置く。
>  敗戦の昭和二十年夏、清原氏は満州(今の中国東北部)に居て、真正面からソ連軍
> に追い回された。文字通り命からがら逃げ回った。その時、椎名晴雄――今は故人―
> ─という人に命を助けられた。清原氏は椎名氏を〈生涯の命の恩人〉として重く買っ
> た。二人共何とか帰国丈は果し、それぞれの道を歩み、昭和三十二年当時、清原氏は
> 大阪で検事を務め、電源開発社員である椎名氏――第四代小岩支部長――は東京で学
> 会の小岩支部幹事をしていた。この時の小岩支部長は石田であった。
>  椎名氏は大阪事件の時、清原氏との関係を戸田先生に話し、清原氏へ〈石田紹介状〉
> という名目の親書を認め、石田がそれを持参して(十三日頃)地検へ清原氏を訪問し
> た。
> 『清原氏に弁護士を紹介して下さるよう申し人れよ』と戸田先生に言われた通り、こ
> のことだけ三十分位粘って言い張った。この日から二日後、まず田代富士男(後の砂
> 利船汚職参議院議員)氏が釈放され、次いで池田氏も拘置所から出て来た。
>  有体に言えば、清原氏は椎名氏の親書――内容は違法な懇願である――に依って、
> 満州での命の恩に報いたのである。大阪事件の搜査段階が、急にバタバタと締めくく
> られたのはこのせいであつた。戸田先生に地検の手が伸びなかつたのもこの為であっ
> た。清原検事が一切合財目を瞑って幕を引いてくれたからであった。従って、断じて、
> 池田氏が一切合財を被ったからではない。池田氏は、当時、誰からもこの事情が漏れ
> る気遣いが無いことを良いことに、萬事、自分の功績にして、学会員を総騙しにした
> 丈だ。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より孫引き)


 検察への裏工作が功を奏し、捜査が中途半端になったことと、担当検事の前のめりな取
り調べが裏目に出たこととにより、池田大作は無罪になったが、戸別訪問の実動部隊を務
めた学会員20名は罰金刑となり、うち17名は公民権停止も科されたという(溝口敦著『池
田大作「権力者」の構造』による)。

 大阪事件について『人間革命』は、「この選挙で、買収と戸別訪問が行われたことは、
残念ながら明らかな事実である」と記述するなど、日蓮正宗に対する謀略や戸田城聖のビ
ジネスについての記述などと較べると欺瞞は少ない。これは、検察を刺激することを避け
るための配慮であろう。

 だがそれでも、池田大作を美化するために、大きく事実をゆがめていることは否定でき
ない。選挙違反で逮捕されたことを、あたかも法難であるかのごとく描く姿勢は、無反省
そのものである。

 創価学会は、その後も替え玉投票事件や投票所襲撃事件を引き起こすなど、悪質な選挙
違反を重ねてきた。その際にも裏工作によって、事を収めてきたと言われる。

 創価学会では、その地域組織を選挙の区割りに合致するように編成していることに典型
的に見られるように、選挙と信仰とを一体化させている。これは戸田城聖の〝選挙は信心
を引き締めるのに使える〟という発案を、池田大作が引き継ぎ、洗練させてきたものであ
る。

 学会員による戸別訪問等の選挙違反の背景には、信仰は法律に優先するという創価学会
の教義があるのではないかと疑われる。

 学会員が公明党候補を応援する理由も、大抵の場合、政策や人柄ではなく、「功徳にな
るから」である。

 現世利益を求める呪術的なご利益信仰と、選挙での投票を一体化させる創価学会のF取
りが、民主主義への愚弄でなくて何であろうか。

 投票は、有権者が自らの政治的意思を政治に反映させることができる、貴重な機会であ
る。学会員のF取りに協力することは、それを放棄することに等しい。

 有権者のうちの一部に過ぎない創価学会が、キャスティングボートを握ることで、その
意見が過剰に代表されている現状は、決して好ましい状態ではない。

 まして創価学会は、組織的に人権蹂躙を行う悪質なカルトである。そのカルトに政治を
ほしいままにさせるべきではない。これは政治的な左右以前の良識の問題である。

 政治の質は、有権者により大きく左右される。ふだん政治について考えない方も、せめ
て選挙の時だけは、投票率がいくらか上がるだけでカルトの票読みを狂わせ、その悪しき
影響力を削ぐことができることを思い起こしていただきたい。

2017年6月7日水曜日

『人間革命』の執筆体制と長期休載

 『人間革命』は、「聖教新聞」に連載されていたが、たびたび休載していた。中でも最
も長期の休載は、第十一巻分の連載を中断した時である。

 『人間革命』第十一巻は昭和55年(1980年)8月10日から連載開始されたが、同年11月
20日の掲載を最後に休載し、再開されたのは10年半後の平成3年(1991年)5月3日だった。
 長期休載の理由について、同書の「あとがき」には、以下のように記されている。


>  長い道程であった。十年一昔というが、昭和五十五年八月に、第十一巻の連載を開
> 始してから、出版にいたるまでに、実に十一年余を費やしてしまった。その間、諸般
> の事情から、「転機」「波瀾」「夕張」の三章を終えたあとは、十年半にわたる長期
> 休載を余儀なくされた。連載を楽しみにしてくださっていた読者の皆さまに、まず、
> 心よりお詫び申し上げたい。
>  私にとって、この十一年間は、まさに激動の歳月であった。学会へのさまざまな策
> 謀がめぐらされ、真実を証明するために、法廷にも立った。また、ある時は病魔に襲
> われ、病床に伏しもした。しかし、新しき希望の世紀を開くために、世界広宣流布の
> 旅路を広げ、世界の各界の有識者との対話も重ねてきた。
>  そのなかで、寸暇を惜しんで、言葉を紡ぎ出す念いで書きつづった本書の完成だけ
> に、私にとっても喜ばしい限りである。


 この文章を書いたのは、『人間革命』の表向きの著者・池田大作ということになってい
るが、極めて欺瞞的な文章であると言わざるを得ない。

 「私にとって、この十一年間は、まさに激動の歳月であった」とし、法廷での証言など
を挙げているが、日蓮正宗との間の抗争により、会長を辞任せざるを得なかったことや、
第十一巻が刊行された平成4年(1992年)の前年には、破門までされたことについては、
まったく言及されていない。

 不都合なことは、たとえそれが周知の事実であっても、なかったことにするというのが、
創価学会および池田大作のやり方なのである。

 『人間革命』の本当の著者は、創価学会の外郭会社・東西哲学書院の社長だった篠原善
太郎氏である。

 創価学会には〝特別書籍〟という部署があり、池田大作名義の著作の大部分は、そこに
所属するゴーストライターによって書かれていた。かつては、表向きは教学部長だった原
島嵩氏が、特別書籍のキャップを務めていた。

 池田大作は、その特別書籍に所属する原島氏らに対しても、『人間革命』だけは自分で
書いているように見せかけようと、さまざまな小細工を弄していた。

 池田が口述したものを、妻のかねが筆記しているのだと言って、『人間革命』の原稿を
録音したテープを聞かされたこともあったと、原島氏は述べている。
 だが原島氏は、『人間革命』は実際には篠原氏が書いたものだと知っていた。


>  私たちは、当時、すでに『人間革命』は、篠原善太郎が書いていたことを知ってい
> ました。それをいかにも池田が書いたように演出し、篠原の書いたものを池田が自筆
> で書き直し、その原稿やコピーを「生涯の記念」にと言って、いろいろな人に分け与
> えたりしていました。池田の字で書かれていないものは「口述筆記だ」と言い訳をし
> ていますが、私たちには口述をしているところに絶対に立ち会わせないのです。第一
> 庶務の女性や池田夫人などの人達が立ち会っています。後に、篠原善太郎が、私にこ
> っそりと「人間革命は、実は九九%、私の書いたものを池田夫人が写しているんです
> よ」と教えてくれたこともあります。池田は、私たちが、篠原が代作していることを
> 知らないと思っていたのです。
 (原島嵩著『池田大作・創価学会の真実』より引用)


 『人間革命』第十一巻のあとがきには「真実を証明するために、法廷にも立った」とあ
るが、この法廷とは「月刊ペン」事件および山崎正友氏による創価学会への恐喝事件のこ
とである。

 造反した原島嵩氏が「月刊ペン」事件の裁判で証人として出廷し、『人間革命』は篠原
善太郎氏が執筆したものであると証言しているにも関わらず、ぬけぬけとこのようなこと
を書く厚顔無恥には呆れるほかない。

 『人間革命』の執筆には、現創価学会会長の原田稔氏も、聖教新聞の記者として関与し
ていた。執筆体制についての記述を以下に引用する。


>  篠原は『人間革命』を書いたことで本部・聖教新聞社内で特別待遇を受けるに至っ
> た。伊東に別荘をもっているのも、学会幹部の中で篠原一人だけ。篠原が書く『人間
> 革命』の原稿を聖教の記者が少しでも手直ししようものなら、怒鳴りこんでそれを元
> 通りに訂正させた。『人間革命』の担当記者だった原田稔や松本和夫らは、自ら取材
> したというよりも、篠原の手伝いをしたといった方が正確だ。篠原には本部の三階に
> あった黎明図書館の脇に書斎が与えられ、そこでいつも原稿を書いていた。
> 「山崎正友裁判」の時、裁判官から「『人間革命』はあなたが書いたのですか」と尋
> ねられ、池田がいみじくも「私の直筆です」と答えた話は有名。「私が書いた」とい
> わなかったところがミソである。
 (内藤国夫著『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』より引用)


 聖教新聞での『人間革命』の休載は何度もあったが、第十一巻連載中の十年以上もの長
期休載はやはり異例である。その本当の理由は、実際に執筆していたわけではない池田大
作が「世界広宣流布の旅路を広げ」たために、忙しかったからなどではないだろう。

 その理由の一つとして、第十一巻の内容に、池田大作が選挙違反容疑で逮捕された「大
阪事件」が含まれており、不用意な記述は検察を刺激する恐れがあったために慎重な対応
をとったのではないかと言われているが、定かではない。

 別の証言として、篠原氏が池田大作と仲違いをしたというものもある。永島雪夫著『創
価学会池田王国の崩壊』に、現職の副会長とされる人物の証言が掲載されているので引用
する。


>  ところが、彼(注:篠原善太郎氏氏)が奥さんを亡くしてね、元々体の弱かった人
> だから(肺を患っていた)、青山の鍼灸員に通った。そこの女医さんと再婚すること
> になった時に、池田名誉会長は猛反対したわけです。
>  これが池田名誉会長と対立するきっかけになり「もうオレは書かない」と言って、
> 『人間革命』の執筆を断ってしまったというのです。
>  だからですよ、『人間革命』が一時中断されたのは。その理由はそういうことでし
> た。
>  その時、池田名誉会長は皆の前でこう釈明してました。
> 「最近は海外布教に忙しくて、人間革命を書いている時間がない。暫く休ませていた
> だく」なんてね。中断したまま、篠原氏は死んだんですね。それまで、彼は箱根研修
> 所にある池田名誉会長専用宅の別棟の個室で書いていたというんですが、死んだあと
> に、必ずどこかに原稿があるに違いないと言って皆で探しまわった。これは多分、金
> 庫だろう、ということになった。ところが金庫の鍵は本人がどこかへ捨ててしまって
> いたんですね。それで壊して開けたんです。そうしたら、中に原稿があったという話
> です。
>  池田名誉会長は意気揚々として皆の前でこう言うわけです。
> 「また人間革命の執筆を始めます」
>  胸を張ってね。


 篠原氏が死去したのは平成3年(1991年)なので、この証言は連載再開の時期とは整合
している。

 『人間革命』の連載は、平成5年(1993年)2月11日に第十二巻分が完結するまで続いた
(第十二巻単行本は同年4月2日付で刊行されている)。

 篠原氏が死去前に、完結までの全原稿を執筆していたかまでは不明だが、もし仮にそう
だったとしても、『人間革命』第十二巻には、日蓮正宗からの破門(平成3年〔1991年〕)
や、藤原行正氏・龍年光氏といった大物幹部の造反を受けた記述があるので、松本和夫氏
や原田現会長らが、池田大作の指示のもと大幅に手を加えたはずである。

 なお『新・人間革命』は、松本和夫氏が執筆しているという(山崎正友氏・古谷博氏に
よる)。

 これだけの証言があるにもかかわらず、ほとんどの創価学会員は、『人間革命』は〝末
法の御本仏である池田先生が執筆された「現代の御書」〟だと信じ、批判的な情報はすべ
てウソだと思い込んでいる。それだけはでなく、『人間革命』が内包する矛盾については、
思考停止に陥ってもいる。

 これまで述べてきたように、『人間革命』の内容は矛盾と欺瞞に満ちており、まともな
知性をもつ者が読めば、こんな本を聖典扱いしている宗教は頭がおかしいカルトだと、す
ぐにわかる。

 学会員は折伏の際に『人間革命』を読むように薦めたり、場合によっては『人間革命』
の一部の巻を手渡してくることもあるが、ハッキリ言って普通の人にとっては、読む価値
はない本である。

 ただ、創価学会の欺瞞を暴くための資料としては役立つ点もあるので、当ブログをご覧
の学会員がいらっしゃるのであれば、そのような視点で再読されてはいかがであろうか。
 カルトの洗脳を解き、よりよい人生に向けて歩き出す第一歩となるかもしれない。

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2017年6月5日月曜日

「日蓮」を名乗る前の日蓮

 日蓮は、建長5年(1253年)4月28日、故郷の清澄寺で立宗を宣言し、それを機に名を
改め、「日蓮」の名を用いるようになった。

 その前には、出家する際に付けられた「是しょう房蓮長」を名乗っていた。「しょう」
と平仮名で書いたのは、この部分については音のみ伝わっており、漢字でどう書くか、長
らく不明だったからである(「是生房」または「是性房」ではないかと考えられていた)。

 昭和10年(1935年)4月14日、当時は神奈川県立図書館となっていた金沢文庫に、調査
研究のために訪れていた立正大学日蓮宗史料編纂会の高瀬乙吉氏により、未発見の日蓮遺
文ではないかと思われる古文書が見出された。この古文書は、後日の鑑定により間違いな
く日蓮遺文だと確認された。

 ※ 金沢文庫は、金沢流北条氏によって開設された私設図書館である。北条氏滅亡後は
  その菩提寺である真言律宗別格本山称名寺により、長らく管理されていた。鎌倉期の
  貴重な古文書が数多く残されていることで知られる。

 この遺文は、『授決円多羅義集唐決』という仏教書を書写したもので、その奥書に清澄
寺での修業時代の日蓮によるものと、記されていたのである。
 以下に『昭和定本日蓮聖人遺文』第四巻から、当該の奥書を引用する。


> 一 授決円多羅義集唐決上奥書

>  嘉禎四年大歳戊戌十一月十四日
>  阿房國東北御庄清澄山 道善房
>  東面執筆是聖房 生年十七歳
>         後見人々是無非謗


 「東面執筆是聖房 生年十七歳」とある。この発見により、日蓮は、そう名乗る前「是
聖房」であったことが判明したのである。


 話は飛ぶが、『人間革命』第六巻には、日蓮が立教開宗するまでの略伝が記されている。
そこには以下のような記述がある。


>  鎌倉に大雨が降り、大洪水のあった年――嘉禎三年(一二三七年)十月八日、十六
> 歳の薬王麿は、師の道善房により、剃髪の儀式をすますと、名を是生房蓮長と改め、
> 独り立ちの僧侶として清澄山を去り、勉学の旅に出た。


 『人間革命』には「是聖房」ではなく、「是生房」と記されている。『人間革命』第六
巻は、昭和46年(1971年)に刊行されているのも関わらず、昭和10年の発見が反映されて
いないのだ。

 その理由は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にある。この学会版御書には、日蓮正
宗の相伝書である『産湯相承事』が収録されている。以下にその一部を引用する。


>  御名乗りの事、始めは是生、実名は蓮長と申し奉る。後に日蓮と名乗り有りし御事
> は、悲母梅菊女は平の畠山殿の一類にて御坐すと云云。
 (中略)
>  日蓮の日は則ち日の神、昼なり。蓮は即ち月の神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は
> 水より生ずる故なり。又是生とは日の下の人を生むと書きたり。日蓮天上天下一切衆
> 生の主君なり、父母なり、師匠なり。


 この文書は、日蓮の説法を大石寺開山である日興が記したものということになっている。
 しかし、日興直筆の古文書が現存しているわけではない。そして何より、日蓮が「是生」
と名乗っていたなどと書いてある。「是聖房」であった日蓮が、そのようなことを語るわ
けがないのであり、偽書であることは明白である。

 『人間革命』において、史料研究により明らかになった史実を無視して、日蓮が「是生
房」を名乗っていたと書かれているのは、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』が、真蹟が
現存する遺文も偽書もクソミソに寄せ集めた、問題の多いシロモノであることを隠蔽する
ためだったのである。

 先に『昭和定本日蓮聖人遺文』から引用したが、この遺文集は、身延山日蓮宗が開宗七
百年の記念事業として、編纂したものである(学会版御書の編者である堀日亨氏も協力し
ている)。

 『人間革命』第五巻には、学会版御書の刊行時の模様が記されており、校正作業が終了
した際、戸田城聖が「聞くところによると、身延の方は、二、三冊に分割して出すとのこ
とで、しかも未だできていない。完全にわれわれの勝利です」と述べたと書かれている。

 だが、宗祖日蓮の名前も間違えるような様で、本当に「勝った」などと言えるのだろう
か(売上では勝ったと言えるかもしれないが……)。

 また、創価学会は「御書根本」「日蓮大聖人直結」などというが、そのような主張をす
る資格があるのだろうか。

 『人間革命』のいい加減な記述は、「是生房」に限るものではないが、この件は、創価
学会がいかに誠実さを欠いた宗教であるかを、証明するものといえよう。



補足1 『授決円多羅義集唐決』について

 『授決円多羅義集唐決』は第五代天台座主・円珍が著したものと仮託されているが、実
際には平安末期に別の人物が著したものだという。
 なお、金沢文庫所蔵の日蓮による写本は、現在では国法に指定されている。


補足2 『産湯相承事』について

 引用中に「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」とあるが、日蓮の
真蹟遺文には「主・師・親」の三徳を備えていることが、「本仏」の特性と述べられてお
り、『産湯相承事』は日蓮本仏論の根拠にもなっている(日蓮真蹟中で「本仏」とされて
いるのは、あくまでも釈尊である)。

 真蹟遺文の中に、日蓮が明確に「本仏」を自称しているものはなく、日蓮本仏論は『産
湯相承事』をはじめとする偽書にしか根拠がない教義である。

2017年6月3日土曜日

創価学会常住の本尊について

 創価学会が急速に勢力を伸ばした昭和20年代の大部分の期間において、大石寺法主とし
て日蓮正宗を率いていたのは第64世水谷日昇氏であった。

 水谷氏が法主であった期間には、創価学会が独自に宗教法人となることを認めるか否か
や、創価学会に批判的な僧侶と学会員との確執、狸祭り事件など、日蓮正宗と創価学会と
の間にはさまざまな問題が起こった。

 そして、大石寺法主であった水谷氏は、否応なく創価学会との問題に直面しなければな
らなかった。日蓮正宗にとって創価学会は、新しい信者を増やし、多額の寄進をしてくれ
る頼もしい存在であると同時に、乱暴者が多いトラブルメーカーでもあり、その舵取りに
は苦労が多かったことと思われる。

 これまで述べてきたように、創価学会は日蓮正宗に経済的利益をもたらしながらも、僧
侶が思い通りにならなければ暴力で威圧するといった、アメとムチ的な対応を取っていた。

 それに対して日蓮正宗側が、創価学会を懐柔する手段は、本尊の下賜であった。
 日蓮正宗の教義では、大石寺の大御本尊およびそれを法主が書写した複製のみに、人々
を救済する力があることになっている。

 法主が書写した本尊を印刷したものを御形木本尊といい、直筆のものやそれを木彫した
ものを常住本尊という。信者になれば御形木本尊はもらえるのだが、常住本尊は一般的に
は寺院に安置される。

 創価学会は、古くからの日蓮正宗信者から見れば新参者だったが、戸田城聖は、第二代
会長に就任して間もなくの昭和26年(1951年)5月12日付で、水谷氏にあてて「学会常住
の御本尊」の下賜を願い出ている。

 学会本部に寺院にあるような常住本尊を安置することで法主の権威を借り、創価学会を
胡乱な目で見ていた僧侶や古くからの檀信徒に、学会を認めさせようとしたのであろう。

 また、会長就任を機に立派な本尊を本部に安置することで、会員に対して「今までとは
違う」という意識を持たせ、大々的に折伏を進める上で発破をかける意味合いもあったと
考えられる。

 ジャーナリスト・溝口敦氏は『池田大作「権力者」の構造』で、「宗教法人法の宗教団
体の定義に、『礼拝の施設を備える』という一句があり、それを字義通りに受けたうえで
の、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた」と指
摘している。

 常住本尊を本部に置くことは、いろいろな意味でメリットがあったのである。
 だからであろうか。創価学会の常住本尊を書写した水谷日昇氏について、『人間革命』
では歯の浮くような持ち上げ方をしている。水谷氏の法主就任を描いた場面を『人間革命』
第二巻から引用する。


>  創価学会の戦後第一回総会が開かれた十一月十七日の二日まえ、総本山大石寺では、
> 突如、六十三世嗣法、秋山日満猊下が、御退位の旨を仰せになった。
>  猊下は、昭和二十年十月二十八日就任いらい満一年を過ごされた。しかし、春いら
> いの病気も癒えず、御一身の都合から、十一月十四日、宗内の臨時参議会を招集され
> たのである。
>  翌十五日、御諮問の結果、正式に御退位を決定し、即日、水谷日昇尊能師が学頭に
> 補任せられ、次の六十四世御法主上人猊下としての御登座が決定をみたのである。
 (中略)
>  水谷日昇猊下の御登座は、戦後の宗門史にとって、重大な一大転機となった。この
> 時、猊下は六十八歳である。その端麗な容貌と、清楚闊達なお姿は、新生日本の象徴
> ともいえた。
>  昭和三十一年三月、御引退になるまでの十年間、日蓮正宗の管長としての御事蹟は、
> まことにお名前のように、旭日の昇るが如き勢いであった。創価学会の発展と相俟っ
> て、宗門の興隆はめざましく、七百年来かつて見たことのない、種々の偉業が成しと
> げられた。


 当時の日蓮正宗は、創価学会員を含めても数万人程度の檀信徒しかいない、日蓮系の弱
小宗派に過ぎない。その管長を「新生日本の象徴」と言うのは大げさ過ぎであろう。
 第十巻には、水谷氏の退座について記されてる。


>  一月十八日、総本山大石寺では、水谷日昇上人猊下が重役会議を招集していた。席
> 上、猊下は諸般の事業の完成、奉安殿落成を機として、この際、老齢のゆえに辞意を
> 表明なされた。
(中略)
>  一宗を率いる猊下の御苦心といい御努力といい、歴代猊下のなかでもっとも苦しま
> れた猊下であったにちがいない。
(中略)
>  御勇退発表のこの際、戸田は「いかなる時代いかなる御方が御法主になられようと
> も、学会の総本山に対する忠誠はいささかも変わりのない」旨の声明書を発表した。


 『人間革命』には、水谷氏の法主退任は老齢のためと記されているが、実はこの時も、
若き日の池田大作の暗躍があったのだという。


>  三十一年三月、大石寺では水谷日昇が退座し、堀米日淳が第六十五世法主になった。
> 水谷日昇は池田の義父・白木薫治が大石寺大奥(大坊。法主が住み、宗務をとる)に
> 勤めさせた女性と情を通じ、子までもうけたという。当時、水谷は夫人を亡くし、高
> 齢ではあったものの「ネコにカツブシ」の状態だったと事情を知る元僧侶は語ってい
> る。このことを柏原ヤスが池田に知らせ、池田は「狸祭り事件」で、謝罪文提出、大
> 講頭罷免、登山停止の罰を戸田に課した水谷日昇に報復するため、この醜聞をもとに
> 日昇に退座を迫ったとされる。
>  日昇は引退後、生まれた子を正式に認知したというが、創価学会による宗門支配の
> 試みには、早くから謀略の臭いが漂う手法がとられていたことを知るのである。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 『人間革命』を実際に執筆したのは篠原善太郎氏であるが、池田大作とも綿密に打ち合
わせの上、池田が決裁して『聖教新聞』に掲載されていた。

 「歴代猊下のなかでもっとも苦しまれた猊下であったにちがいない」と書かせた張本人
である池田大作が、水谷氏を苦しめていたのである(この件については、水谷氏の自業自
得の面もあるが)。


 現在、創価学会の総本部は、平成25年(2013年)完成した「広宣流布大誓堂」に置かれ
ている。

 そしてそこには、清楚端麗な狒々じじいこと水谷日昇氏が書写し、さらにそれを池田大
作の指示で、木板に模刻した本尊が安置されている。
 創価学会の中心となる礼拝所には、まことにふさわしい本尊といえよう。

 上述したように日蓮正宗の教義では、本尊の複製は大石寺法主のみができることになっ
ている。池田大作が勝手に本尊模刻をしたことは、日蓮正宗から問題視された。

 それだけにとどまらず、この問題が明るみに出た際には、学会員の中には創価学会をや
め、日蓮正宗の直属の信者となる者が相次いだという。

 池田大作は、『聖教新聞』のカメラマンに本尊の写真を撮らせて、それをもとに業者に
彫らせ、さらに昭和50年元旦には、自ら入仏式まで行ったという(原島嵩著『絶望の淵よ
り甦る』による)。

 池田の指示で勝手に複製した本尊は、日蓮正宗に没収されたそうだが、本部の本尊だけ
は、水谷氏が書写した紙の本尊は傷みが激しいからということで、当時の法主・細井日達
氏から特別に許され、細井氏が昭和52年(1977年)11月に入仏開眼を行った。
 このいわくつきの本尊が、現在も「創価学会常住の本尊」となっているのである。

 信教は自由であり、何を拝もうが当人の勝手ではあるが、創価学会の場合、「唯一の正
しい宗教」を自称しているくせに、信仰の対象がいい加減すぎると思う。

 一昨々年の教義改正で、創価学会は「会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が
受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対
象にはいたしません」(『聖教新聞』平成26年〔2014年〕11月8日)と宣言した。

 ※ 「弘安二年の御本尊」とは大石寺の大御本尊のことである。

 破門されるまでは「幸福製造機」だと言って崇め奉っていた、大石寺の大御本尊を、現
在では「大謗法の地にあるから受持の対象としない」といいながら、その複製を「創価学
会が受持の対象として認定した御本尊」として拝むというのは、理解し難い教義である。

 大石寺の大御本尊は、「御本仏」である日蓮が末法に生きる一切衆生を救済するために
作った「出世の本懐」という触れ込みだが、そもそも日蓮は自分のことを「御本仏」など
と不遜なことは言っていないし、特別な本尊をこしらえたと書いてある日蓮遺文など存在
しないし、大御本尊とやらもどう考えても贋作だし、大石寺法主だけが日蓮の正統な後継
者として、本尊の複製ができるという日蓮正宗の教義も、本当は誰が書いたかも定かでは
ない偽書にもとづくもので、日蓮が唱えたものではない。

 日蓮正宗の教義がインチキだとわかったから、そこから「魂の独立」を図ったのだと創
価学会が主張するのならば、その意気やよしと言いたいところだが、その前に学会員の皆
さんには、やるべきことがあるのではないか。

 日蓮正宗創価学会だけが正しい宗教で、それ以外の宗教だと不幸になると主張し、強引
な折伏で社会に迷惑をかけてきたことについて、まず総括し反省すべきだろう。

 それなのに、創価学会は破門されて、教義の支離滅裂さにさらに拍車がかかったにもか
かわらず、相変わらず「唯一の正しい宗教」とぬかして、強引な折伏や非学会員への嫌が
らせなどで、世間に迷惑をかけ続けている。

 外部の私から言わせてもらえば、エロじじいの水谷日昇氏が書写し、それを超絶エロじ
じいの池田大作が模刻させた本尊になど、まったく有難みはないし、そんなものを広宣流
布大誓堂とやらに安置して拝んでいる創価学会は、ただのインチキ宗教であり、学会員は
頭がおかしいカルト信者でしかない。

 言葉が過ぎると思われた方には、本来、私は争いを好まず、信教の自由を重んじる人間
であり、学会員から不快な目に遭わされたりしなければ、上記のようなことは書かないし、
このようなブログを立ち上げることもなかったと申し上げたい。



補足 常住本尊について

 日蓮正宗では、常住本尊は一般的には寺院に安置されるものだが、特に信心深いものが
申請した際には、一般信徒でも常住本尊が特別に与えられることもあり、一種のステータ
スになっていた。

 また、戸田城聖が「常住本尊の方が功徳がある」と言っていたので、多くの学会員が、
〝信心深いよき信者〟と認められることで、常住本尊をいただきたいと願ったのである。

 学会員で常住本尊がもらえるのは、原則として信者歴が長い幹部に限られたが、池田大
作は、入信してから日が浅いお気に入りの若い女性のために、日蓮正宗に口利きして常住
本尊をもらえるよう計らい、古参の学会員から顰蹙をかったこともあるという。


蛇足 

 私は学会員から折伏を受けた際に、「是非『人間革命』を読んで欲しい。そうすれば創
価学会の素晴らしさがわかる」と言われたことがある。

 その時には読まなかったが、当ブログでネタにするために通読してみた。
 結果、『人間革命』は、創価学会がインチキ宗教であることを証明するための資料とし
て、非常に有用だとわかった。

 今回引用した20行あまりにも、本文では触れなかった突っ込みどころが二つある。
 まず、第二巻からの引用について、水谷日昇氏の前の法主が、病気のために法主を退任
せざるを得なかったとある。

 頻繁に大御本尊を拝んでいるはずの法主の病気が治らないのだから、大御本尊には病気
を治す力などないのではないか、とこれを読んだ学会員は思わなかったのだろうか。

 次に第十巻からの引用に、「いかなる時代いかなる御方が御法主になられようとも、学
会の総本山に対する忠誠はいささかも変わりのない」と、戸田城聖が声明したとあるが、
大石寺の先代法主である阿部日顕氏に対する誹謗中傷は、一体どういうことなのか。

 阿部日顕氏の法主就任の際に相承がなかったなどと、創価学会は主張しているが、大石
寺法主の血脈相承など最初から嘘八百であり、そのデタラメな宗教を強引なやり方で布教
してきた共犯者である創価学会が、何を今さらカマトトぶったことを言っているのだろう
としか、私には思えない。

 『人間革命』を読んで、創価学会に疑問を感じない人は、カルトの洗脳で頭がおかしく
なっているのだろう。そうでなければよほど頭が悪いのか、それとも両方かも知れない。