2017年5月9日火曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐②)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐①

 昭和24年(1949年)10月、戸田城聖が経営する出版社・日本正学館は倒産し、池田大作
を含めた同社の社員は、金融会社・東京建設信用組合(『人間革命』では「東光建設信用
組合」)に異動する。

 しかし、この東京建設信用組合の経営も順調とはほど遠いものだった。その理由として
は、まったくの異業種である金融業に、元々出版社の社員だった人々をあてたことや、当
時インフレを抑制するために厳しい金融引き締め政策がとられており、深刻な不況だった
ことなどが考えられる。この苦境は『人間革命』にも述べられている。


>  戸田城聖は、こうした経済不況のなかで、停止した出版部門の整理も、多くの債権
> 者を相手に進めなければならなかった。社員の給与も、遅配したり、分割払いにしな
> ければならないこともしばしばであった。しばらくすると、社員のなかで一人、二人
> と退職していくものもあらわれてきた。戸田は、そのようなものを決して追わなかっ
> た。
>  なによりも、資金が枯渇していた。借り主は、いくらでもいる。だが、資金の補給
> 路は、月々細くなっていった。そして、回収の遅延が、資金不足にさらに輪をかけた。
> また、人手も不足になってきた。ようやく彼の事業にも、憂色が濃くなったのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 昭和24年暮れから25年にかけての戸田は、裏地がボロボロの背広を着とおしていたこと
から、「裏ボロ」というあだ名で呼ばれるほど困窮していた。多くの社員が脱落していく
中、まだ22歳の池田大作(『人間革命』では「山本伸一」)も重要な役割りを担わざるを
得なかった。


>  この頃、山本伸一は戸田の指示のままに、毎日、四方八方に飛んでいた。要件のこ
> とごとくは、厄介な外交戦といってよかった。(中略)
>  彼の仕事は、相手の諒解を求めたり、支援を依頼したり、厳重に督促をしたり、苦
> 情を受け止めたり、一件として気の許せる仕事ではなかった。現実の厳しさと、責任
> の重さに、毎日くたくたになって、疲労はかさなった。若い伸一は、あまりにも早く、
> 社会の大きな波をかぶってしまったともいえるのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 だが、こうした経験は戸田の信頼を勝ち得、後に池田が牧口以来の古参幹部を押しのけ
て実権を握り、若くして第三代会長に就任する上で無駄にはならなかった。ノンフィクシ
ョン作家・溝口敦氏は、以下のように述べている。


>  池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負っ
> て立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 戸田や池田の奮闘にもかかわらず、東京建設信用組合の経営は行き詰まり、昭和25年8
月、ついに大蔵省から営業停止命令が出る。それだけでなく、取り立てに関してのトラブ
ルにより債権者から告訴された。

 この危機に、戸田は創価学会の理事長を辞して矢島周平に譲り、名を一時的に「城正」
と変えて身を隠したという。


>  八月二十四日、戸田は創価学会理事長の職を辞任し、矢島周平を後任にすえると、
> 会員の前から姿をかくした。この時大損害をうけた債権者のひとりが、のちにかれを
> 「インチキ」と激しく非難している。

>  昭和二十四年、当時戸田が西神田にある「東京建設信用組合」なるものを経営して
> いるとき、知人を通じて手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件
> も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不信も抱かず、手形の割
> 引きを、四、五回したものです。
>  また、その信用組合は定期預金なるものを作り、三ヵ月、六ヵ月満期の定期にも加
> 入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だ
> とは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
>  ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼
> 鏡をタタミにすりつけて平身低頭「生きている限り、必ずこの戸田が誓って全部返済
> します」といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、二年後に彼
> の負債(約千五百万円とか)は三割返済の決議により清算されました。
>                    (『週刊朝日』昭和三十一年九月二日号)
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)


 因果なめぐりあわせとしか言いようがないが、東京建設信用組合の倒産から程なくして、
日本は朝鮮戦争による特需景気に恵まれた。世の中が好景気に沸く中、戸田は借金取りか
ら逃れるため、名まで変えてコソコソと逃げまわっていたのである。

 信用組合の出資者の中には学会員もおり、被害を受けた学会員の中には退転する者、数
十世帯の同志を集めて分派を企てる者などが現われたと、『人間革命』第四巻には記され
ている。

 その後、戸田は懲りずに新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大東商工」)
を立ち上げる。そして、この会社の成功が戸田の苦境を救い、池田が学会内部での地位を
固める大きな要因になるのだが、その詳細は次回述べる。



補足1 矢島周平について

 矢島も戦時中、創価教育学会が治安維持法違反で弾圧を受けた際に逮捕され、退転する
ことなく昭和20年4月まで入獄していた、戦前からの幹部だった。

 戦後は日本正学館に勤務しながら、引き続き学会幹部を務め、上述のように戸田が理事
長から引いた際には後任となるほどだったが、戸田が会長に就任して以降は、次第に戸田
に対して批判的となり、創価学会から離れて日蓮正宗の僧侶となったという。


補足2 戸田の事業失敗についての『人間革命』の記述

 創価学会は「この信心をすればご利益がある、金が儲かる」と主張して信者を増やして
きた。その教祖である戸田が、自ら経営する会社を潰してしまったのでは格好がつかない。
世の中が特需景気に沸く中、債権者の目を避けて姿を隠していたというのであれば、なお
さらである。

 『人間革命』では、その理由を戸田が法華経講義を、日蓮が行った講義を弟子の日興が
記したものとされる『御義口伝』ではなく、天台大師の『摩訶止観』に基づいて行ったこ
とに対する〝罰〟だったとして正当化している。

 しかしながら、現在でも創価学会の重要教義である「一念三千」や「十界論」も、元を
ただせば天台大師にさかのぼるものなのだが、こうした教義によって折伏や仏法対話を行
っている学会員は〝罰〟を受けないのだろうか。

 そのような疑問を持つような判断力がある人は、最初から創価学会などには入らないの
かもしれない。学会員の皆さんも少し考えれば、『人間革命』の記述の多くは、手前勝手
な御都合主義に過ぎないと、気づきそうなものだが……。


参考文献
溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』
日隈威徳著『戸田城聖』