昭和59年(1984年)10月3日、池田大作の次男、城久氏が死去した。死因は胃穿孔、享
年29歳という若さであった。
『聖教新聞』では同年10月5日付で、「九月中旬ごろ胃痛を訴え検査したところ胃潰瘍
との診断で、九月二十五日から治療をしていた。三日午後、容態が急変して、東京・豊島
区の癌研究会附属病院に緊急に入院し、手術したが、出血のため死去した」と伝えた。
しかし、この出来事には、表向きの訃報では伝えられていない点が多い。
まず、城久氏が癌研究会附属病院に入院し、そこで死去したのは事実だが、実はその前
に、創価学会ドクター部に所属する産婦人科医・石川信子医師が経営する「新生クリニッ
ク」に入院していた。
常識的に考えれば、創価学会名誉会長の御曹司である城久氏が、重症の胃潰瘍を病んだ
のであれば、名のある大病院に入院し、消化器外科の名医から診療を受けるのが筋ではな
いか、と思われる。
それにもかかわらず、実際には専門外の産婦人科医の診療を受けたために適切な治療を
受けられず、潰瘍から胃穿孔にまで悪化し、慌てて近隣の癌研究会附属病院に転院して手
術したものの、手遅れで死に至るというまずい対応がとられたのである。
しかも城久氏は、どちらの病院にも「石川信一」という偽名で入院していた。
城久氏は、池田大作の三人の息子のなかでは最も父親に似ており、跡取りとして期待さ
れていた。その城久氏が、偽名を使って入院し、適切な医療を受けていれば防ぐことがで
きたはずの、死に至ってしまったのはなぜだろうか。
その最大の理由は、これまで当ブログで述べてきたように、創価学会がそれまで「病気
になるのは信心がおかしいから」と主張してきたことにある。
教祖の息子が病気で入院したということになると、信仰に疑いを持つ信者が出かねない。
そのため本名を隠して、懇意にしていた医師の診療所に入院させたのであろう。
池田大作はそれ以前、「未だかつて病気の人なんかで、僕の頭の中に入った人で、祈っ
て死んだ人は一人もいないんだ」とのたまっていた。
それが実際には、跡取り候補の息子を救うことすらできなかったのである。城久氏は、
父親の体面のために犠牲になったと言った方が正確だろう。これが学会員から「末法の御
本仏」と崇拝される池田大作の、現実の姿なのだ。
この出来事は学会内ではタブーとされ、公の場では池田大作を含め、幹部はいっさい語
らなかったという。
しかし、城久氏の死は、一部の学会員には強い印象を与えたようである。
> その少しあと、何人かの学会員から私が聞かされた打ち明け話は強烈であった。彼
> らはかつて子供を亡くした人たちだったが、その時に池田から散々な嫌味をぶつけら
> れていたのだ。その悔しさを私にこっそり打ち明けた。
> 池田先生の息子が死んで助かった。やっと気が楽になった。これまでずっと我慢し
> てきたけど本当につらかった。おまえの子が死んだのは信心を怠けた証拠だと顔を見
> るたびに池田先生から説教されたり、皮肉られたり、怒られたりした。それが息子の
> 死で嫌味をいわれなくなったというのである。私自身、その現場に居合わせたことも
> あるが、子を死なせ、病気で苦しむ学会員の不幸を池田は笑いさえした。
> 「病気をする人間は信心が足りないからだ」
> 「子が死んだのは仏罰だ、一から信心をやり直せ」
> 池田が遠慮なく学会員にぶつけてきた言葉である。当の学会員は顔を伏せるばかり
> だった。自分の家族を亡くしても泣けない、身内の病気を口にするのさえ憚る。池田
> 支配の創価学会の、これが現実である。
(藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)
「病気になるのは信心を怠けた証拠」と言われるのでは、病院に通うのも人目をはばか
る必要があるだろうし、不幸にして子供を亡くすと、「仏罰」となじられる。創価学会の
いう「絶対幸福の境涯」とは、いったい何なのだろうと、考えさせられる話である。
城久氏の死因である胃穿孔は、胃潰瘍が悪化して、文字通り「胃に穴が開く」ものであ
る。強いストレスを感じることを「胃に穴が開くよう」と形容することがあるが、ストレ
スは胃酸過多の原因となり、時に胃穿孔に至ることもあるという。
城久氏も、昭和59年(1984年)夏ごろから、鬱の症状を示し、徐々にやつれていったと
いわれる。
創価学会においては、池田大作の一族はアンタッチャブルな存在であり、手厚く守られ
ている。城久氏も、学生時代から「ご学友」と呼ばれる取り巻きに守られ、創価学会本部
に就職後は、美人と評判の妻と結婚して子をもうけ、しかも前述のように将来を嘱望され
ていた。
一見するとなに不自由ない身分で、重いストレスを受ける境遇ではないように思われる。
城久氏は父親に性格が似ていたというから、後継者とみなされることをプレッシャーとし
て感じることもなかったであろう。
池田大作のずぶとさを受け継いだ彼を、鬱になるほど悩ませたのは、評判の美人妻とそ
の子についての噂だったらしい。
> それにもう一つ、城久とその妻であるみさ子(旧姓・熊沢)との結婚ミステリーが
> ある。一部週刊誌などには、城久がみさ子にぞっこんで卒業後すぐ結婚などと流され
> た。実は、城久本人とみさ子は婚前に殆ど接点がなく、むしろ接点があったのは親の
> 大作とだった。創価大学の八階にある池田の専用施設には学生、職員、教員の誰もが
> 入室を許されないが、みさ子はこの部屋にフリーパスで入れる唯一の学生だった。池
> 田はみさ子を「熊公、熊公」と呼び、可愛がった。大学卒業後はすぐに自分の世話係
> として、第一庶務に配属させた。はたして、池田は可愛い我が子にまで「御下げ渡し」
> の娘を結婚相手として選んだのだろうか。城久の死因である胃穿孔という病状の根拠
> がそこにある。少なくとも、そう思われて仕方ない。〝親子どんぶり〟以上に汚れた、
> 普通ではありえない、戦慄すべきことである。
(内藤国夫著『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』より引用)
池田大作は、学会員の中から気に入った若い女性を、学会本部の「第一庶務」の職員に
して自分に奉仕させ、飽きると学会幹部に妻として下げ渡していた。
城久氏の妻も第一庶務の元職員であり、しかも婚前にはほとんど接点がなかったにもか
かわらず、結婚時には身重だったという。城久氏が鬱になり、胃に穴が開くほど苦悩した
のは、妻と父親との関係を知ったからではないかと、取り沙汰されたのである。
池田城久氏という一個人の死は、医療を軽視する非科学的なご利益信仰や、池田大作の
常軌を逸した女性関係、都合の悪いことをなかったことにしようとする隠蔽体質などの、
創価学会の悪しき体質が交差したところに惹起した事象だったといえる。
城久氏の死とそれにまつわる事情は、彼が教祖の息子で跡取り候補であったために、学
会が隠そうとしたにもかかわらず、世間の知るところとなったが、無名の学会員の中にも
城久氏と同じように、病気を隠さざるを得なかったために寿命を縮めた例は少なくなかっ
たのではないか。もって瞑すべしである。
犠牲者の死を無駄にせず、新たな被害者を出さないためにも、創価学会という悪質なカ
ルトの害悪を、これからも追及し続けなければならない。
補足
池田大作はかつて、「他の団体ならいざ知らず、宗教界にあって、教団の世界にあって
世襲制度ということはもっとも誤った、いやしい姿であります」(『聖教新聞』昭和36年
〔1961年〕10月7日付)と語っていた。
しかし、高齢になるにつれ、息子への世襲を考えるようになった(一説には妻のかねの
要望が大きいという)。
跡取り候補の筆頭だった城久氏が夭逝したため、長男の博正氏が後継者と目されるよう
になったものの、彼は精神的に脆弱で、巨大教団のトップは務まらないとの世評もある。
ジャーナリスト・野田峯雄氏は著書で、池田大作は城久氏の子を後継者としようとして
いたと述べている。
> 79年の城久との結婚時、M子のお腹にいた長男Tさんは城久と同様に創価大学を卒
> 業して同大学の職員になった(次子は女性)。大作が真の創価学会後継者と考えたの
> は、じつは、その〝城久とM子の長男〟、Tさんだったという。
(野田峯雄著『さらば池田大作』より引用)
同書は野田氏の絶筆であり、上記引用を記した項で終わっている。Tさんが学会内部で
後継者として認められているか否かは、述べられていない。
私としては、誰が創価学会の後継者になろうと、その反社会的体質に変わりはないと思
うので批判をやめるつもりはないが、Tさんが若き日の池田大作に生き写しだっりしたら、
学会員の皆さんはどのように反応するのか、いくらか興味がある。
「お孫さんだけあって、池田先生そっくり」などと能天気にのたまうのか、「やはり」
と意味深長な目配せを交しあうのか。はたして、どちらだろうか……。