2017年5月11日木曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐③)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐

 昭和25年(1950年)秋、戸田城聖は新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大
東商工」)を設立する。戸田はこの会社のオーナーだったが、東京建設信用組合(『人間
革命』では「東光建設信用組合」)の破綻に伴う責任追及を受けている身であったため、
顧問という一歩引いた立場で関与した。

 新会社の社長には和泉覚をあて、専務理事には愛人の森重紀美子、営業部長には池田大
作が就任した。『人間革命』には、山本伸一こと池田の営業部長就任は述べられているが、
和泉や戸田の愛人については何も述べられていない。


>  新設の大東商工株式会社も細々と回転しはじめたが、残った社員は伸一ほか戸田の
> 親戚の二、三名にすぎなかった。二十二歳の伸一は、営業部長という重責におかれた。
> 信用組合の清算事務を急いでいたが、大蔵省の心証は、まだ必ずしも芳しい状態では
> なかった。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 しかし、年が明けた昭和26年(1941年)、大蔵省からの責任追及はやみ、取り立てに関
するトラブルでの刑事告訴も、起訴には至らなかった。東京建設信用組合は、同年3月11日
を持って解散し、その債務は戸田個人が負うことになった。

 私は数冊の関連書籍をあたったのだが、戸田がどのような手段で法的責任を免れたかを、
記載しているものはなかった。
 一方、『人間革命』では、以下のようなふざけた説明をしてる。


>  国法による法律的制裁が、まったく不可避のものとして、あれほど絶望的な様相を
> おび、戸田城聖の一身にふりかかろうとしていたのだ。国家は法律の適用を曲げるこ
> とはできない。戸田よりも、顧問弁護士たちが匙を投げていた事件である。では、な
> にがそのような幸運な決定をもたらしたのか。――戸田には、いまそれが、はっきり
> と解っていた。「無量義は一法より生ず」――最高の因果の法則は仏法である。一切
> の因果の法則の根本は仏法にある。したがって、「仏法、かならず王法に勝れり」と
> いうことの確かな顕証を、戸田は身をもって知ったといってよい。日蓮大聖人の仏法
> のすごさは、戸田を救ったが、また同時に彼の使命の重大さを警告したものとも思え
> た。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 『人間革命』では、この件により、「仏法、かならず王法に勝れり」との確信を持ち、
「使命の重大さ」を自覚した戸田は、創価学会第二代会長への就任を決意したと述べられ
ている。

 前回引用したが、戸田は信用組合の債権者に対し、平身低頭して「生きている限り、必
ずこの戸田が誓って全部返済します」と言ったにもかかわらず、その債務は、組合解散の
二年後に三割返済で清算された(このことは『人間革命』には書かれていない)。

 被害者から見れば詐欺同然の借金踏み倒しであるが、それを「日蓮大聖人の仏法のすご
さ」だというのが『人間革命』の見解である。踏み倒しの件を踏まえて上記引用を読めば、
創価学会のいう「仏法」がいかなるものであるかは、おのずと明らかであろう。

 この頃、戸田城聖は、立正佼成会、成長の家、天理教といった他の新興宗教の成功を参
考にしつつ、彼のこれまでの事業経験をもとにした、新たな事業の着想を得たようである。


>  彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこ
> の世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金
> も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要
> は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして
> 「信者を三十人集めれば食っていける勘定の、ベラぼうに高収益のあがる商売」(大
> 宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への
> 道はそれしかなかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 これ以降、戸田は創価学会を事業と表裏一体のものとして活用していく。つまり、創価
学会の会員を、自らの事業の顧客とするシステムをつくりあげたのである。
 この当時の主な出来事を時系列順に列挙する。


 昭和26年4月 『聖教新聞』創刊(旬刊 編集主幹:石田次男)
     5月 戸田城聖 創価学会第二代会長就任
     7月 財務部員制度創設
     10月 宗教法人創価学会の設立を東京都に届出
     11月 『折伏教典』発行
 昭和27年4月 『日蓮大聖人御書全集』発行
     8月 東京都知事から宗教法人として認証 
 昭和28年春頃 東洋精光(『人間革命』では「大洋精華」)の経営権取得


 この頃確立された、宗教と出版業と金融業を三位一体とするビジネスモデルが、戸田城
聖と池田大作に経済的成功をもたらした。

 戸田は〝創価学会は金のかからない宗教〟と標榜し、貧しい会員からは会費を取らない
ことで、他の新興宗教を「カネ取り宗教」と批判して差別化を図った。

 その一方で、出版業の経験を活かして新聞を発行するとともに、『御書』や『折伏教典』
などの宗教書を出版し、それと並行してその読者となる学会員も増やすという戦術を取り、
信者の増加が増収増益に直結する仕組みを創価学会にくみこんだ。

 要するに、会費を取らない代わりに新聞購読料を徴収し、書籍を売りつけるビジネスモ
デルを採用したのである。これは一面では、生長の家のビジネスモデル――『生命の実相』
などの教祖の著書を、信者に売りつけるというもの――を真似ているともいえる。

 学会組織を利用したビジネスの中でも、その当時の稼ぎ頭は大蔵商事だった。その概要
を、池田大作の一年ほど後に入信した後輩であり、古参の学会幹部として後に都議会議員
を務めた藤原行正氏の著書から引用する。


>  象徴的なのは出版業や正規の金融業ではパッとした働きのなかった池田が、このカ
> ネ貸しではめざましい働きを見せたことである。池田は小金を貯めていそうな学会員
> の家を訪ね回った。各家に図々しく上がりこんでは「戸田先生の苦境を助けるため」
> 「学会のため」などと言葉巧みに話を持ちかけ、カネを集めた。その時、池田が誇ら
> しげに持ち歩いた名刺の肩書は「大蔵商事営業部長・池田大作」となっていた。
>  大蔵商事の業務内容は、利ザヤ稼ぎだった。学会員、あるいはその知り合いから月
> 三分の利子をつける条件でカネを集め、右から左へ月七分の利子で融資。また、手形
> は一割で割り引いてその利ザヤを稼いだわけである。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『聖教新聞』にも「資金の融通は大蔵商事」という広告が掲載されていたことから、同
社の主要な取引相手が学会員だったことは確かであろう。

 池田大作は、金については特殊な感覚を持っていたという。藤原氏は、池田の仕事に同
行した際の経験を同書に記している。


>  お目当ての学会員の家を探し当て、池田が足を止めた。
> 「お、ここはカネを出してくれそうだ」
>  薄汚れた門構えの家だった。とても他人に貸すほどの余裕があるとは思えない。
> 「いや、こういう家には箪笥預金がしまいこんであるんだ」
>  自信満々にそういった池田の読みはピタリと的中した。もう一軒の学会員の家では、
> 一緒にきていた池田の部下が、
> 「あそこはダメですよ。前に借りて、もうカネがない。行っても無駄です」
> 「いや、あの家には必ずまだある。大丈夫だ。行ってこい」
>  そう睨んだ池田が部下を走らせた。実際にカネはあった。私はキツネにつままれた
> ような気分で池田の特異な眼力にただ目を見張っただけだった。


 また、池田の取り立ては苛酷そのもので、「病人が寝ているフトンをはぐ」ことまです
るほどだったという。辣腕の金貸しだった池田の月収は、大卒初任給が一万円に届かなか
った当時、20万円を下らなかった。

 余談だが、こうした大蔵商事の出資者の係累の中には、頻繁に通ってくる池田大作と深
い中になった者もいた。後に「月刊ペン」事件で有名になった渡部通子氏がそうである。

 池田はその当時すでに妻帯していたにもかかわらず、好みの女性を口説き落としていた
わけだが、これも愛人を大蔵商事の専務にした戸田との、「師弟不二」の実践だったのだ
ろうか……。

 大蔵商事と並んで、戸田の事業の柱となったのが「東洋精光」である。この会社は大蔵
商事から借りた金が返せずに経営者が破産し、所有権が移ったもので、元は金属加工など
を手がける町工場だったが、戸田の傘下になってからは大蔵商事の担保流れ品や、電化製
品などを販売するようになった(『池田大作の素顔』による)。

 東洋精光の会社の社長は北条浩、営業部長は藤原行正(『人間革命』ではそれぞれ「十
条潔」「藤川一正」)が務めた。この会社の実態と、『聖教新聞』創刊に際しての戸田の
言動とを引用する。


>  戸田は自ら日用雑貨を販売して歩き、「売れれば功徳がある。買えば功徳がある」
> と会員に強制し、買わない者には罰論まで持ち出して恫喝したという。日用雑貨はい
> つのまにか高級電化製品に変わっていた。常識では考えられぬ価格で大量に仕入れら
> れ、利幅は四、五割。高い値段、しかもアフターケアの不備のため、本部への苦情が
> 殺到したという。だが、戸田は「組織販売で、十万人の会員を握れば大成功だ。宗教
> は儲かる商売だ」と語ってはばからなかったのである。
> 『聖教新聞』発行についても、外部からの資金調達に際して、「これから始める新聞
> は記者も配達人も信者だから、経費は紙と印刷代だけだし、購読料も信者の班組織を
> 通じて集金するので確実である。こんな確実な商売はない」と説得していたという。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)


 戸田が自ら販売をして歩いたのは、旧華族出身の北条や社会経験の乏しい藤原に、いき
なり行商や飛び込み営業のようなことをさせても、上手くいかないことはわかっていたの
で、始めの頃は人生経験豊富な戸田自身が、手本を見せる必要があったからでもあろう。

 昭和20年代後半から昭和30年代初頭にかけての、戸田城聖のビジネスにおける最大の功
労者は池田大作だった。このことが池田が第三代会長に就任できた、大きな理由の一つだ
ったことは疑いない。

 そして、戸田亡き後、池田が実権を握り続けたことにより、ビジネスと宗教を一体化さ
せるあり方が、創価学会の体質として拭いがたく定着していったのである。

 現在の創価学会では、借りた資金を貸し付けて利ザヤを稼ぐという回りくどいことは、
もうやらなくなった。これ以上の国内での信者数の増加は望みがたいので、格好をつける
必要はもうないと考えたのか、かつて他宗教を批判する最大の口実だった〝金集め〟を、
「財務」や「広布基金」という名目で、自ら始めたからである(この点については以前詳
述したので、重複を避ける)。

 本稿の締めくくりとして、『人間革命』第二巻から昭和22年(1947年)10月19日の創価
学会第二回総会での、戸田城聖の講演の一節を引用する。


>  されば、仏の使いの集まりが学会人である、と悟らなくてはなりません。迷える人
> びとを、仏の御もと、すなわち日蓮正宗の御本尊の御もとに、案内するものの集まり
> であることを知らなくてはなりません。
>  このためには、けっして信仰や折伏を、自分の金儲けや、都合のために利用しては
> ならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは決してできない
> のであって、世にいう悪いことより、はるかに悪いのであります。
>  学会は、名誉のためや、金儲けのためや、寄付をもらうために、動くようなことが
> あってはならないのであります。


 有難さのあまり、涙が出るほどご立派な高説である。『人間革命』の著者であるらしい
池田センセイも、この一節を執筆される際には、恩師の偉大さを偲び、感涙を禁じ得なか
ったのではあるまいか。

 学会員の皆さんにも、戸田センセイ、池田センセイがどれほど高潔の士であったかを、
あらためて考えていただきたいものである。