2018年7月22日日曜日

日蓮と念仏①

 ※ 今回は日蓮遺文だけでなく、親鸞の『教行信証』も引用する。

1.念仏批判の根拠

 「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える浄土系宗派の檀信徒は、日本の伝統宗派の中でも
最も多く、創価学会員から折伏を受けた際に「念仏無間」と言われて、宗教的感情を害さ
れた経験をお持ちの方も多いことと思う(伝統宗派の中では浄土真宗が最大である)。

 実際、学会員の中には、念仏を一度でも唱えると地獄に堕ちると思い込んでいる者も少
なくない。
 だが、実は日蓮遺文には、若かりし頃の日蓮も念仏を唱えていたとの記述もある。


>  日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見
> ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打
> て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法
> の心中にそみけんをや
 (『佐渡御書』より引用)


>  而るに日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり
> 袈裟をきたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候
> し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程
> に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす
 (『妙法比丘尼御返事』より引用)


 日蓮は周りの人が皆そうしていたので、「阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え」
ていたが、やがてそれを疑うようになったのだと述べている(『妙法比丘尼御返事』には
その後の日蓮が、正しい仏法を求めて比叡山や高野山等を巡ったことが記されている)。

 幼少時は念仏を唱えてた日蓮が、なぜ「念仏無間」などと主張するようになったのだろ
うか。「南無阿弥陀仏」と唱えることが、無間地獄に堕ちなければならないほどの悪行だ
という根拠は何なのだろうか。

 日蓮は『立正安国論』で、法然の『選択本願念仏集』の問題点を指摘し、経文を引いて
「念仏無間」の理由を説明している。


>  之に就いて之を見るに、曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道浄土・難行易行の旨
> を建て、法華・真言総じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻、一切の諸仏菩
> 薩及び諸の世天等を以て、皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て、或は閉じ、或
> は閣き、或は抛つ。此の四字を以て多く一切を迷はし、剰へ三国の聖僧・十方の仏弟
> を以て皆群賊と号し、併せて罵詈せしむ。近くは所依の浄土の三部経の「唯五逆と誹
> 謗正法を除く」の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の「若し人信
> ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」の誡文に迷ふ者な
> り。


 「之に就いて之を見るに」から始まる一文は、『選択本願念仏集』への批判である。法
然が法華・真言等の教えを、「皆聖道・難行・雑行等」に含め、それらの教えについて、
あるいは捨て、あるいは閉じ、あるいは閣(さしお)き、あるいは抛(なげう)つべきだ
と主張していることを指摘している。

 そして、それが経文に違背しているとし、法然が所依としている浄土三部経の「唯五逆
と誹謗正法を除く」と、法華経の第二の「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の
人命終して阿鼻獄に入らん」を挙げている。

 「唯五逆と誹謗正法を除く」の一節は、無量寿経にある阿弥陀四十八願の中でも最も有
名な第十八願による。無量寿経の当該部分について、書き下し文を引用する。


>  たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生れん
> と欲して、乃至十念せん。もし、生れずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆(の罪を犯
> すもの)と正法を誹謗するものを除かん。
 (岩波文庫『浄土三部経(上)』より引用)


 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」とは、法
華経の譬喩品にある言葉で、「阿鼻獄」とは無間地獄のことである。

 日蓮は法華経こそが正法であると考え、それを誹謗する者は、たとえ念仏を唱えたとし
ても阿弥陀如来の救済から漏れ、それだけなく無間地獄に堕ちるのだと主張しているので
ある。

 法華経こそが正法とした根拠は、「一代五時の肝心たる法華経」という言葉から明らか
なように、天台教学の「五時八教の教判」である。

 日蓮が在家信者に宛てた手紙の中には、念仏が救済とならない理由について、末法思想
に基づき、もう少し丁寧な説明をしているものがある。

 日蓮の在家の弟子に、南条兵衛七郎という者がいた。この人はもとは念仏信仰をしてい
た。この南条兵衛七郎に宛てた手紙で、日蓮は念仏の非を説明している。


>  仏入滅の次の日より千年をば正法と申す、持戒の人多く又得道の人これあり。正法
> 千年の後は像法千年なり、破戒者は多く得道すくなし。像法千年の後は末法万年、持
> 戒もなし破戒もなし、無戒者のみ国に充満せん。而も濁世と申してみだれたる世なり。
 (中略)
>  今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機みなうせはててただ実大乗
> 経の機のみあり。小船には大石をのせず。悪人愚者は大石のごとし。小乗経並びに権
> 大乗経念仏等は小船なり。大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず。末代濁世の我
> 等には念仏等はたとへば冬田を作れるが如し。時があはざるなり。
 (『南条兵衛七郎殿御書』〔真蹟 若狭長源寺外〕より引用)

〈大意〉
 今の世は末法であり、小乗経や権大乗経――大乗経典の中でも方便の教え――で救われ
る資質の者はおらず、最も優れた教えである実大乗経、つまり法華経でなければ救われな
い。末法濁世を生きる我々にとって、念仏を唱えるのは冬に田を作るようなもので、時が
合わないのである。


>  而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、
> 珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を
> 貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申
> して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者を
> のりて、ことに無間の業をますなり。
 (同上)

〈大意〉
 それなのにこの五十余年に法然という大謗法の者が現れて、一切衆生を騙して、宝石に
似た石を差し出して、宝石を投げ捨てさせ石を取らせた。一切衆生は石を握りしめて宝石
だと思っている。念仏を唱えて法華経を捨てたのはこれである。このことを指摘すると、
かえって腹を立て、法華経の行者を罵って、ことに無間地獄の業を増している。


 日蓮が「念仏無間」と主張する根拠は以上である。
 以前にも述べたが、日蓮が自説の根拠としているのは、法華経を最も優れた経典とする
天台教学の「五時八教の教判」と、末法思想であることが見て取れる。

 なお「五時八教の教判」については、以前その概略を説明したので、興味がある方はそ
ちらもご覧いただきたい(「私説〝五重相対〟(創価学会の矛盾)③」参照)。

 上記はあくまでも日蓮の見解である。当然のことながら、当時の念仏者たちは、念仏が
無間地獄に堕ちる因となるとは考えていなかった。日蓮が手ひどく論難している法然の弟
子であった親鸞が、興味深い主張をしているので引用する。


>  このゆえに『涅槃経』に云わく、「仏、迦葉菩薩に告げたまわく、もし善男子・善
> 女人ありて、常によく心を至し専ら念仏する者は、もしは山林にもあれ、もしは聚落
> にもあれ、もしは昼・もしは夜、もしは座・もしは臥、諸仏世尊、常にこの人を見そ
> なわすこと、目の前に現ぜるがごとし、恒にこの人のためにして受施を作さん」と。
 (『教行信証』信巻より引用)


 親鸞も日蓮と同じく比叡山で修行した天台僧であり、天台教学を修めていた。「五時八
教の教判」の教判では、涅槃経を法華経と同じく、釈尊が人生の最後の時期に説いた最も
優れた経典と考える。

 親鸞は念仏を唱えることが、正法を誹謗することになるとは考えなかったのである。
 さらに親鸞は、天台教学の大成者である智顗の故事も引いている。


>  律宗の元照師の云わく、ああ、教観に明らかなること、熟か智者に如かんや。終わ
> りに臨みて『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きんき。
 (同上)


 「智者」とは、天台智者大師と敬われた智顗のことである。天台宗の祖が臨終に際して
『観無量寿経』を手にし、浄土を讃えたという故事を親鸞が引いたのは、念仏信仰が天台
教学に反するものではないと訴えんがためであろう。

 ※ 『観無量寿経』は念仏信仰の依経である浄土三部経の一つ。『観経』とも呼ばれる。
  法然の『選択本願念仏集』における主張の多くは、その注釈書である『観経疏』に依
  っている。

 誤解のないように申し添えるが、『教行信証』における親鸞の主張は、日蓮への反論と
してなされたものではない(日蓮と親鸞は同時代人ではあるが、お互いのことは知らなか
った)。

 日蓮と親鸞の主張のどちらに説得力を感じるかは、人によって違うだろうが、創価学会
のように他人に迷惑をかけないのであれば、信教は自由なのだから、自分が正しいと思う
ことを信じればよいはずである。

 私の個人的見解を述べさせてもらえば、現在の仏教学では、法華経や浄土三部経を含む
大乗経典のすべては、釈尊滅後、数百年も後の創作だと判明しているので、その大乗経典
の中のどれが真実の教えかなどという論争には意味がないと思う。

 その上で、先祖代々「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱えてきた人が、そうし
た信仰を受け継ぎたいと思うのは、自然な感情だと思うし、尊重されるべきだと考える。

 もちろん、「南無大師遍照金剛」や祝詞を唱える信仰、それ以外の信仰も他人に迷惑を
かけず、社会の害にならない限り尊重されるべきである。

 日蓮と念仏については、まだ論じるべき点があるので、次回も引き続きこの主題で投稿
する予定である。



補足

 冒頭で引用した『佐渡御書』『妙法比丘尼御返事』には、日蓮真蹟も古写本も存在しな
い。よって確実に日蓮が書いたものだとは断定できない。

 だが、多くの日蓮伝記がこれらの記述に依っているのも事実である。
 専門家が信頼できると見做しているので、敢えて偽書として排斥する必要はないのかも
しれない。


蛇足

 本文で、大乗経典の中でどの経典が正しいか論じることは、現在では意味がないと書い
たが、敢えて鎌倉時代の状況であったなら、私ならどう考えるかを述べてみる。

 法華経の方便品には、「南無仏」と唱える者は仏道を成じるという記述がある。
 また、薬王菩薩本事品には、この経に説かれているように修行すれば、来世には阿弥陀
仏の浄土に生まれるとの記述もある。

 ここでいう「この経」とは、もちろん法華経のことだが、その法華経に「『南無仏』と
唱える者は仏道を成じる」と書かれているのだから、念仏を唱えることが法華経を誹謗し
たことになり、無間地獄に堕ちる業だというのは、少々無理のある主張ではないかと思わ
ないでもない。