私はこれまで、創価学会を脱会して批判者に転じた人々や、ジャーナリストの手による
批判本・暴露本に基づいて、創価批判を行ってきた。
しかし、創価学会が世間一般に向けて発信している情報の多くを無視して、外部の批判
者のみに依拠する姿勢には、公平性に難があったと認めざるを得ない。
それに、私個人が一部の学会員によって不愉快な思いをさせられたからといって、創価
学会の主張にいっさい耳を傾けようとしなければ、私の主張からも説得力が失われること
にもなりかねない。
私はこれまでに、学会員から何度も折伏を受けた経験があるが、その際に聞かされた、
「正しい宗教は幸福をもたらし、誤った宗教は不幸をもたらす」「信心の現証」云々につ
いては、何の根拠もない非科学的なたわ言として、聞き流していた。
だが、今般、創価学会の代表的な出版物である『折伏教典』と『人間革命』を読み、学
会員のいう「信心の現証」について、何も根拠がないとは言えないのではないかと感じた。
以下、反省と自戒の念を込めて、「誤った宗教は人を不幸にする」という、創価学会の
主張の妥当性について論じたい。
創価学会の教義がまとめられている『折伏教典』には、以下の記述がある。
> 日蓮大聖人のお姿を刻んだり、絵にして拝み、これを信仰の対象として、いかにも
> 大聖人をあがめたてまつったように思っているのが邪教日蓮宗の通例である。
(中略)
> ゆえに大聖人を信じ、大聖人の仏法を修行するならば「南無妙法蓮華経」の法本尊
> と、日蓮大聖人ご自身である人本尊、この人法一箇である一閻浮提総与の本門戒壇の
> 大御本尊に向かって唱題修行する以外にないのである。
> これを知らずして絵像等を拝むことは、大聖人の教えに反する邪義であり堕地獄の
> 因となることは明らかである。
> 事実、調べてみると、真の仏法を知らずして大聖人に関係した小説等を書き、また
> 像を刻んだり絵を書いたりした者は、その直後において半身不随や原因不明の病気に
> なって、必ず、その最後は地獄の相を現じて、悲惨な死に方をしているのである。
※ 『折伏教典』は出版された年代によって内容が異なるが、上記は昭和43年の改訂第
29版からの引用である。
日蓮宗に限らず、宗祖の姿を刻んだ木像を御影堂などにまつるのは、どの宗派にでも見
られることであり、私個人としては、日蓮宗が邪教とは思わない。少なくとも現在の日蓮
宗は、創価学会と違って社会に迷惑をかけてはいない。
それに、創価学会がかつて信奉していた、日蓮正宗の総本山大石寺にも御影堂はある。
大石寺の御影堂には、室町期の作と伝えられる日蓮像が安置されている。
『人間革命』第一巻には、当時創価学会の理事長だった戸田城聖が、昭和21年元旦に大
石寺に参詣した際の記述があるので、以下に引用する。
> 戦時中、身延との合同統一を、強制的に行なおうとした政府の役人たちまで「まっ
> たく、針金のような宗団(注:日蓮正宗をさす)である」ともらし、いかんともなし
> えなかった。今日の隆盛にそなえて、清浄に大法を厳護した僧侶の功績に対し、深く
> 敬意を表したい。これほど、清浄にして慈悲に満ちた宗団が、世界の何処にあろうか。
> 戸田は、悲痛な思いを胸に歩きだした。そして御宝蔵の前で、深く頭を垂れた。そ
> のあと、三人と連れだって、暮色に包まれた御影堂のほうへ廻っていった。
> 御影堂の参拝をすませると、四人して階段を下りていった。
このように、『人間革命』には、戸田城聖をはじめとする当時の創価学会幹部が、大石
寺の御影堂に参拝したと、はっきり書かれている。
『人間革命』の著者である池田大作は、現在、脳梗塞の後遺症により半身不随との風説
もある。彼がいっさい公の場に出てこないところをみると、この風説はおそらく事実なの
であろう。
そして、この風説は『折伏教典』の記述と、少なからず符合する。「道理証文よりも現
証には過ぎず」とは、まさにこのことであろう。
池田大作の現在の姿は、日蓮正宗及び創価学会という、誤った宗教の信仰や、それを小
説に書いたことが、「堕地獄の因」となってもたらした悪現証だったのである。なんと恐
ろしいことであろうか。
私は度重なる学会員からの折伏にもかかわらず、今まで創価学会に入らずにきたが、そ
のことの幸運を、あらためてしみじみと感じた次第である。
以上は冗談だが、誰の人生にも、多かれ少なかれ禍福はあるものである。時として病気
やケガをしたり、それが平癒したり、期待を上回る幸運に恵まれたり、思わぬ不幸にあっ
たり、といったことはままあることだ。
それを個人の内面で、信仰と結びつけて解釈すること自体は、当人の自由である。創価
学会員は、自らが不幸にあうと〝転重軽受〟と解釈し、学会員でないものに不幸があれば、
邪宗教を信仰したことによる罰だと考えるようだが、これも心に思うだけなら、当人の勝
手である。
だが学会員は、このような我田引水の牽強付会な解釈――要はただの思い込み――を、
あたかも客観的に検証された事実であるかの如くいい、創価学会が正しい宗教である証拠
だと主張する。
『人間革命』にも、そうした御都合主義の記述が多数ある。そんな御都合主義が許され
るのならば、なんとでも言える。例えば上述のように。
『人間革命』をはじめとする創価学会の出版物は、ことほど左様に突っ込みどころ満載
である。今後、当ブログでは『人間革命』の問題点も、適宜に論じていきたい。
補足 転重軽受とは
この教義の説明については、『転重軽受法門』という日蓮遺文から引用するのが適切と
思われるので、以下をご覧いただきたい。
> 涅槃経に転重軽受と申す法門あり。先業の重き今生につきずして、未来に地獄の苦
> を受くべきが、今生にかかる重苦に値ひ候へば、地獄の苦しみぱっときへて、死に候
> へば人・天・三乗・一乗の益をうる事の候。
この教義は、輪廻転生を前提とした教えである。前世からの宿業により、来世には地獄
に堕ちてもおかしくない人が、正法に帰依することで、来世で地獄で受けるべき罰を、現
世に引き寄せて重苦にあう――それでも地獄と較べれば軽い難として受ける――ことによ
り、「地獄の苦しみぱっときへ」る。つまり〝重き(業)を転じて軽く受ける〟ことをい
う。
創価学会の信仰は、金が儲かるとか、病気が治るとかの即物的な現世利益に極端に偏っ
たものであるが、当然のことながら、創価学会に入って題目を唱えたところで、誰の人生
にでも起こり得る様々な禍福を、思いのままにできるという訳ではない。
学会員であれ、他の人と同じように、時として不幸に直面することもあるだろう。そう
した際に、学会員が信仰に疑いを持つことがないようにするために用いられるのが、この
転重軽受という教義である。『人間革命』にも、この教義を説明した箇所はある。
日蓮の信仰は、必ずしも現世利益一辺倒という訳ではないが、創価学会員には、信仰と
いうものが一般的に持つ、敬虔さとか高潔さといった精神性は、ほとんど皆無と言って差
し支えない(学会員ならば「そんなものは一銭にもならない」と言い出しかねない)。
日蓮が最重視した法華経は、「人は誰もが救われる(仏になれる)。それ故にすべての
人を敬い、尊重すべきである」という、普遍性のある教えを説いた経典なのだが……。
それが、創価学会では「金が儲かる、病気が治る」ばかりが強調され、あまつさえ学会
にとって不都合な相手に対して、組織的な嫌がらせまで行っている。私には、日蓮や法華
経の教えを、冒涜しているようにしか見えない。