日蓮系の伝統宗派には、「五重相対」という、宗教の優劣を論じた教義がある。創価学
会も、破門されるまでは日蓮正宗の信徒団体であったことから、この五重相対という教義
も引き継いでいる。
私もこの五重相対のひそみに倣って、創価学会の教義の矛盾を、その浅深に応じ、五段
階に分類して概観したいと思う(今回は二項目について論じる)。
1、創価学会と日蓮正宗の相対
『人間革命』第二巻には「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾
に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定すべきである」と述べられている。
確かに、教義がころころと変わるような宗教など、あてにならないし胡散臭い。矛盾
したものを信じることなどできなし、そんな宗教に精神の安寧をもたらすことなど、望
むべくもない。
しかし、創価学会ほど短期間で教義が大きく変わった宗教など、そう多くはないだろ
う。その証拠を『人間革命』から、いくつか挙げてみる。
・「大御本尊は絶対である」(第五巻 山本伸一〔『人間革命』では池田大作はこの
名で登場する〕の言葉
※ この「大御本尊」とは、大石寺の大御本尊のこと。
・「私が今、願うことは、なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の
信仰だけは、絶対に疑ってはならぬということであります」(第六巻 戸田城聖の
言葉)
『人間革命』第五巻の発行は昭和44年(1969年)、第六巻の発行は昭和46年(1971
年)で、創価学会が日蓮正宗から破門される20年前のことである。
破門後の平成5年(1993年)発行の第十二巻には、戸田城聖が山本伸一(つまり池田
大作)に対して、次のように遺言したと述べられている。
> 「……衣の権威で、学会を奴隷のように意のままに操り、支配しようとする法主も、
> 出てくるかもしれぬ。……ことに、宗門の経済的な基盤が整い、金を持つようになれ
> ば、学会を切り捨てようとするするにちがいない……。
(中略)
> そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退い
> てはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」
この遺言の真偽について、創価学会の元教学部長・原島嵩氏が、著書で次のように述
べている。
> 池田は、こうしたウソを平気で作りあげることを得意としています。たとえば、戸
> 田会長が昭和三十三年四月二日に逝去されます。その時の最後の遺言は「追撃の手を
> ゆるめるな」ということになっています。私は、今にも亡くなっていく、衰弱しきっ
> た戸田会長が、このような遺言をするはずがないと思い、昭和四十七年ごろ、池田に
> 直接確認したのです。「先生、本当に戸田先生は〝追撃の手をゆるめるな〟と言われ
> たのでしょうか」といった質問をしました。それに対し、池田は平然と「あの言葉は
> オレが作ったんだ」と語ったことがありました。私はびっくりしました。あれだけ創
> 価学会員ならだれでも知っている戸田会長の遺言「追撃の手をゆるめるな」が、誰あ
> ろう池田の作った言葉だったとは! この言葉は、時として宗門に向けられたり、創
> 価学会を批判する人たちに向けられたりしました。
(原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用)
池田大作が、このような嘘八百を並べ立てて教団を私物化し、私利私欲の赴くままに
やりたい放題やってきて、日蓮正宗側の堪忍袋の緒が切れたことが、破門にまで至った
最大の原因だったのではないかと、私には思える。
また、平成26年(2014年)11月18日の会則変更に伴い、『聖教新聞』紙上で以下の
ように宣言されたことは、記憶に新しい。
> 大謗法の地にある弘安二年の御本尊(注:大石寺の大御本尊)は受持の対象にはいた
> しません。世界広布新時代の時を迎えた今、将来のためにこのことを明確にしておき
> たいと思います。
この『聖教新聞』の文章は、どう考えても「世界広布新時代の時を迎えた」ので、つ
まり「時代の進展によって」教義を変更したとしか、受け取れないのだが……。
本項で指摘した矛盾は、過去の創価学会と、現在の創価学会の矛盾でもある。私は学
会員でないが、学会において「現代の御書」とされる『人間革命』の記述に基づき、こ
のような「矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定」することにやぶさかではない。
2、創価学会と日蓮の相対(日蓮正宗の矛盾)
『人間革命』第二巻には、「私どもの一切の教義は、日蓮大聖人いらい七百年間、微
塵もかわらない教えであります」との言葉があるが、これも嘘八百である。これは破門
されて、自己正当化のために教義の変更を余儀なくされたことで、結果としてそうなっ
てしまった、という上述の事情だけによるものではない。
創価学会が日蓮正宗から受け継いだ教義自体、七百年間不変の教義などではない。日
蓮正宗の教義は、その総本山である大石寺の第26世法主日寛が確立したものである。
つまり、日寛が在世であった江戸時代以来、三百年の歴史しかない。
日寛教学は、本来の日蓮の教えから大きく逸脱したものであるが、以下、その代表的
なものである「日蓮本仏論」について述べる。
創価学会や日蓮正宗では、日蓮を〝末法の御本仏〟と呼び、信仰の対象としている。
宗祖・日蓮を究極の仏にまで祭り上げるこの教義は、日蓮系宗教のなかでも特異なも
のである。
妙法蓮華経 如来寿量品第十六は、久遠実成(くおんじつじょう)の釈迦牟尼如来につ
いて説く。久遠実成とは、歴史上の釈尊は仮の姿(化身)であり、仏の本体は、無限と
もいえる過去から遥か未来まで存在し続けるとして、釈尊を神格化し、釈尊への信仰を
正当化する教説である。
天台宗や日蓮宗は、この久遠実成の釈迦牟尼如来を本尊としている。
しかし、創価学会や日蓮正宗では、この久遠実成の仏は、迹仏(しゃくぶつ)であり、
日蓮こそが本仏であるとする(「迹仏」とは本体(本仏)の影の意)。
妙法蓮華経 従地涌出品第十五には、上行菩薩をはじめとする「地涌の菩薩」が登場
する。日蓮系の伝統教団では、日蓮をこの上行菩薩の再誕と考える。
創価学会や日蓮正宗もこの点は同じであるが、彼らの教義では、この上行菩薩こそが
「久遠元初自受用報身如来」であり、久遠実成の釈迦牟尼如来を上回る究極の仏(本仏)
だとする。
その究極の仏が、法華経では菩薩として現れたのは、創価学会や日蓮正宗に言わせる
と釈尊が在世であったので遠慮してのことらしい。
そして、末法においては釈尊は脱仏(「ぬけがらの仏」といった意味)であり、本仏
である上行菩薩の再誕、日蓮大聖人に帰依しなければ救われないというのが、日蓮本仏
論である。
この日蓮本仏論には、経典などの根拠は何もない。上行菩薩は先に述べたように法華
経に登場するが、久遠元初の本仏など、法華経を含めどの教典にも出てこないし、日蓮
も自分自身が久遠元初の本仏などとは一言も述べていない。
※ 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』に収録されている『百六箇抄』には「久遠元初」
の語や「久遠元始の天上天下・唯我独尊は日蓮是なり」との記述があるが、この遺文
には日蓮の真筆は存在せず、後世に捏造された偽書である。『百六箇抄』の次に掲載
されている『本因妙抄』にも「久遠元初」の語があるが、これも同様に偽書である。
日蓮本仏論とは、法華経や日蓮遺文に〝文底秘沈〟と称して、好き勝手な解釈をほど
こした、でっち上げに等しい教義である。
〝文底秘沈〟とは、日蓮が『開目抄』で「一念三千の法門は、但、法華経の本門、寿
量品の底にしづめたり」と述べていることに依っているが、学会や正宗の言う〝文底秘
沈〟は、日蓮の言う意味と大きく違っていることは明白である。
ちなみに「一念三千」とは、天台大師智顗が『摩訶止観』で説いた教説だが、一般に
はこれは 法華経の方便品に基づくものとされる。
天台大師や日蓮の主張は、現在の仏教学に照らせば、かなり難があるものであるが、
それは 彼らが生きた時代の限界という面もあり、致し方がないことと思う。
しかし、日蓮本仏論はあまりにも無理がありすぎる解釈で、歴史的経緯などでは正当
化できない。
実際、日蓮は、一切衆生は釈尊に帰依するべきであるのに、浄土宗などの他の宗派は、
阿弥陀仏などを重視して釈尊を軽視している、という批判を、何度も繰り返しているの
である。
創価学会は、「日蓮大聖人直結」とか「御書根本」などと言っているが、日蓮の教え
を軽視し、捻じ曲げているのは、どう考えても創価学会や日蓮正宗であろう。
補足 本来の「五重相対」について
この教義は、日蓮がその代表的な著述の一つである『開目抄』で説いた宗教の優劣を、
後世に整理したものである(日蓮自身が「五重相対」という言葉を使った訳ではない)。
その内容を簡単に述べる。
1 内外相対
内(仏教)と外道(仏教以外)の優劣。仏教の方が優れているとする。
2 大小相対
仏教の中での、大乗と小乗の優劣。大乗の方が優れているとする。
3 権実相対
大乗経典を、実教(法華経・涅槃経)と権経(それ以外の経典)に分け、実教、特に
法華経を優れているとする。
4 本迹相対
法華経の前半(迹門)と後半(本門)の優劣についての考え方。日蓮系の教団は、両
方とも等しく重要だと考える一致派(日蓮宗)と、本門の方が重要と考える勝劣派(日
蓮正宗など)で、教義が大きく異なる。
5 教観相対(日蓮宗)、種脱相対(日蓮正宗)
五重相対の最後については、日蓮宗と日蓮正宗では、呼び名も異なる。
日蓮は『開目抄』で「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」
と述べているが、この一節についての解釈が異なるためである。
五重相対は、法華経を最も優れた経典とする、天台大師の五時八教の教判に依拠するが、
法華経を含めた大乗経典のすべては、釈尊滅後、数百年経って創作されたものであると判
明した現在では、その説得力は失われていると言わざるを得ない。