当ブログも開設してから1年半が経ち、Google等の検索でたどり着く方も増えてきてい
るようです。
そのような方の便宜を考えて、記事を内容によって分類した「これまでのまとめ」を数
ヵ月ごとに掲載してきましたが、記事の数が増えたこともあり、どれから読むべきか迷う
方、あるいは量が多いのですべて読む気にならないという方もいらっしゃることと思いま
す。
そこで今回は、当ブログの記事の中から創価学会がどのような存在かを理解する上で、
特に役立つと思うもの数本を自薦し、あわせて概略も記すことにしました。
学会員の方には、創価学会が外部の人間からどのように見られているか、学会員でない
方には、創価学会の実態がどのようなものか、一人でも多くに知っていただきたいと思い
ます。
広宣部・教宣部が連携した嫌がらせの手口
創価学会員であっても、その実態をよく知らない者が多いと言われる広宣部・教宣部。
日夜「仏敵」と戦い続ける、広宣部員・教宣部員の「学会活動」の一端に迫る。
ピアノと写真、そして執筆活動
平成22年(2010年)に脳梗塞で倒れたにもかかわらず、まるで何事もなかったかのよう
に、旺盛な執筆活動を続けられている池田センセイ。天が彼に与えたものは文才だけでは
なかった。ピアノ・写真の腕もプロ級なのだ。池田センセイの多芸多才の秘密とは……!?
池田城久の死
「信心すれば病気が治る」をうたい文句に信者を集めてきた創価学会。だが、池田大作
名誉会長の御令息・池田城久氏は、29歳の若さで胃穿孔で死去していた。文字どおり「胃
に穴が開く」ほどの城久氏の苦悩とは?
第四代会長・北条浩氏について
戦国大名北条氏の末裔にして旧華族でありながも創価学会に入会し、第四代会長にまで
上り詰めた北条浩氏。池田名誉会長との「子弟不二」を貫いた彼の生涯は、池田センセイ
のお人柄を物語る数々のエピソードで彩られていた。
日蓮と真言宗と池田大作
創価学会では、入信すると次は家族を折伏することが求められる。しかし、信心の師匠
であるはずの池田センセイは、親族の折伏に失敗していた。一見すると師としてふがいな
いように見えるこの件だが、その真相は、池田センセイが真実の日蓮大聖人の仏法を貫こ
うとされたことにあった。池田センセイが悟った日蓮仏法の真髄とは……!?
本部職員の待遇と創価学会の財力
池田大作のぜいたく
毎年、年末に実施される財務だけでも一千億円以上を集めるといわれる創価学会。集め
た金の使途については、一貫して非公開とされている。巨額の金は、いったい何に使われ
ているのだろうか?
お知らせ
「日蓮と念仏」「日蓮と禅」を取り上げたからには、次は「日蓮と真言」ではないかと
予想しておられた方もいらっしゃることと思います。私もそのつもりでいました。
しかし、残念なことに急に何かと忙しくなり、これまでのような形でブログの更新を続
けることが難しくなりました。
去年のように、長期間更新を滞らせることは避けたいので、来週以降、当面は以前別の
ところに書き込んだ、短めの文章を再掲する予定です。悪しからずご了承ください。
2018年8月26日日曜日
2018年8月19日日曜日
日蓮と禅③
※ 今回は日蓮遺文に加えて、道元の著述も引用する。
4.道元と曹洞宗
曹洞宗を日本に伝えた道元は、日蓮と生きていた時代が重なっており、執権・北条時頼
に招かれて一時期、鎌倉に滞在したこともある。
その頃の日蓮は比叡山等に遊学していたので、二人が顔を合わせることはなかった。そ
のためか、日蓮の遺文には、道元について言及した箇所はない。
直接の関わりがなかったとはいえ、道元と日蓮には共通点もある。二人とも比叡山で修
行した時期があること、法華経を重視したことなどである。道元は法華経について、以下
のように述べている。
> 法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経こ
> れ大王なり、大師なり。餘経・餘法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属なり。法華
> 経中の所説これまことなり、餘経中の所説みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。
> 餘経中の説をきたして法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。法華の功徳力を
> かうぶらざれば餘経あるべからず、餘経はみな法華に帰投したてつまらんことをまつ
> なり。
(岩波文庫『正法眼蔵(四)』より引用)
日蓮が書いたと言われても違和感がない程に、法華経を賛美した文章である。
だが、道元と日蓮とでは、法華経の教えの実践においては違いがあった。
先に述べたとおり、道元は北条時頼の招きで鎌倉に滞在したことがあった。その際、時
頼は領地の寄進や寺院の建立を打診したらしいが、道元は固辞して永平寺に帰ったという。
道元の言行を弟子たちがまとめた『永平広録』には、道元が仏道修行の在り方について
「聚落を経歴せず、国王に親近せず、山に入りて道を求むるなり」と述べたとある。
法華経の安楽行品には「菩薩・摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ」「常
に坐禅を好み、閑(しずか)なる処に在りて、その心を摂(おさ)むることを修え」との
記述がある。
道元は、北条時頼からの教えを説いてほしいとの要請には応えたが、必要以上に権力と
関わりを持とうとはしなかった。
道元の行動や弟子たちへの指導は、法華経の教えを踏まえたものだったのである。
それに対して、日蓮はどうだっただろうか。
日蓮は文永5年(1268年)に蒙古からの使者が到来したことを、『立正安国論』での予
言が的中したものと考え、次のようなことを述べている。
> 去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状を
> わたす。日蓮が去ぬる文応元年に勘へたりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。
> 此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議なに事かこ
> れにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号
> もあるべし。定んで御たずねありて、いくさの僉議をもいゐあわせ、調伏なんども申
> しつけられぬらんとをもひしに、其の義なかりしかば、其の年の末十月に十一通の状
> をかきてかたがたへをどろかし申す。
(『種々御振舞御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、自身の予言的中について「仏の未来記にも劣らず」と自賛し、「賢王聖主の御
世ならば、日本第一と顕彰され、存命中に大師号が贈られてもいいほどだ」と自負し、さ
らに「戦の詮議に参加したり、敵国調伏の祈祷を申し付けられてもいいはずだと思った」
と述べている。
日蓮の言葉からは、権力に近づくことを躊躇する姿勢は読み取れない。
この点に関していえば、日蓮よりも道元の方がはるかに法華経の教えに忠実である。
日蓮は、佐渡島への流罪から許されて、鎌倉に戻った後、三度目の諌暁を幕府に対して
行い、その後は身延に隠棲した。
だから、日蓮については、まだ擁護の余地はあるともいえる。
しかし、公明党から大臣が出ている事実がある以上、その公明党と事実上、一体の組織
である創価学会が、法華経の教えに違背していることは明白である。
創価学会は「広宣流布」を目指しているそうだが、この言葉は法華経の薬王菩薩本事品
に由来するものである。
法華経に何が書いてあるかも知らず、権力を私物化することばかり考えている創価学会
員に、法華経の教えを広宣流布できる道理など、あろうはずがない。
話が脇へそれてしまったが、曹洞宗は現在も法華経を読誦し、「南無釈迦牟尼仏」と唱
える宗派である(以前も述べたが、法華経には「南無釈迦牟尼仏」という言葉はあるが、
「南無妙法蓮華経」という記述はない)。
日蓮が禅宗を批判した理由の一つは、法華経を軽視しているからというものだったが、
これは曹洞宗にはまったく当てはまらないと思う(日蓮は曹洞宗のことを知らなかったよ
うだから、これは仕方ないことではあるが)。
創価学会員には「唯一の正しい仏法」を僭称し、伝統仏教など頭からバカにしている者
が多いが、他の宗教について知ろうともせず否定してかかる姿勢は、増上慢としか言いよ
うがない。
創価学会の強引かつ悪質な布教活動のせいで、法華経にまで悪いイメージを持っている
日本人は少なくないのだ。
法華経の教えが広宣流布することを妨げる存在を「魔」というのであれば、創価学会こ
そが魔であろう。
補足 「曹洞宗」という呼称について
本文中で「曹洞宗」という呼び名を用いたが、道元自身は「曹洞宗」とか「禅宗」とい
う言い方を否定している。
しかし、道元の死後、弟子たちが「曹洞宗」を称するようになった。宗派の存続のため
には、やむを得なかったのであろう。
4.道元と曹洞宗
曹洞宗を日本に伝えた道元は、日蓮と生きていた時代が重なっており、執権・北条時頼
に招かれて一時期、鎌倉に滞在したこともある。
その頃の日蓮は比叡山等に遊学していたので、二人が顔を合わせることはなかった。そ
のためか、日蓮の遺文には、道元について言及した箇所はない。
直接の関わりがなかったとはいえ、道元と日蓮には共通点もある。二人とも比叡山で修
行した時期があること、法華経を重視したことなどである。道元は法華経について、以下
のように述べている。
> 法華経は、諸仏如来一大事の因縁なり。大師釈尊所説の諸経のなかには、法華経こ
> れ大王なり、大師なり。餘経・餘法は、みなこれ法華経の臣民なり、眷属なり。法華
> 経中の所説これまことなり、餘経中の所説みな方便を帯せり、ほとけの本意にあらず。
> 餘経中の説をきたして法華に比校したてまつらん、これ逆なるべし。法華の功徳力を
> かうぶらざれば餘経あるべからず、餘経はみな法華に帰投したてつまらんことをまつ
> なり。
(岩波文庫『正法眼蔵(四)』より引用)
日蓮が書いたと言われても違和感がない程に、法華経を賛美した文章である。
だが、道元と日蓮とでは、法華経の教えの実践においては違いがあった。
先に述べたとおり、道元は北条時頼の招きで鎌倉に滞在したことがあった。その際、時
頼は領地の寄進や寺院の建立を打診したらしいが、道元は固辞して永平寺に帰ったという。
道元の言行を弟子たちがまとめた『永平広録』には、道元が仏道修行の在り方について
「聚落を経歴せず、国王に親近せず、山に入りて道を求むるなり」と述べたとある。
法華経の安楽行品には「菩薩・摩訶薩は、国王・王子・大臣・官長に親近せざれ」「常
に坐禅を好み、閑(しずか)なる処に在りて、その心を摂(おさ)むることを修え」との
記述がある。
道元は、北条時頼からの教えを説いてほしいとの要請には応えたが、必要以上に権力と
関わりを持とうとはしなかった。
道元の行動や弟子たちへの指導は、法華経の教えを踏まえたものだったのである。
それに対して、日蓮はどうだっただろうか。
日蓮は文永5年(1268年)に蒙古からの使者が到来したことを、『立正安国論』での予
言が的中したものと考え、次のようなことを述べている。
> 去ぬる文永五年後の正月十八日、西戎大蒙古国より日本国ををそうべきよし牒状を
> わたす。日蓮が去ぬる文応元年に勘へたりし立正安国論すこしもたがわず符合しぬ。
> 此の書は白楽天が楽府にも越へ、仏の未来記にもをとらず、末代の不思議なに事かこ
> れにすぎん。賢王聖主の御世ならば、日本第一の権状にもをこなわれ、現身に大師号
> もあるべし。定んで御たずねありて、いくさの僉議をもいゐあわせ、調伏なんども申
> しつけられぬらんとをもひしに、其の義なかりしかば、其の年の末十月に十一通の状
> をかきてかたがたへをどろかし申す。
(『種々御振舞御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、自身の予言的中について「仏の未来記にも劣らず」と自賛し、「賢王聖主の御
世ならば、日本第一と顕彰され、存命中に大師号が贈られてもいいほどだ」と自負し、さ
らに「戦の詮議に参加したり、敵国調伏の祈祷を申し付けられてもいいはずだと思った」
と述べている。
日蓮の言葉からは、権力に近づくことを躊躇する姿勢は読み取れない。
この点に関していえば、日蓮よりも道元の方がはるかに法華経の教えに忠実である。
日蓮は、佐渡島への流罪から許されて、鎌倉に戻った後、三度目の諌暁を幕府に対して
行い、その後は身延に隠棲した。
だから、日蓮については、まだ擁護の余地はあるともいえる。
しかし、公明党から大臣が出ている事実がある以上、その公明党と事実上、一体の組織
である創価学会が、法華経の教えに違背していることは明白である。
創価学会は「広宣流布」を目指しているそうだが、この言葉は法華経の薬王菩薩本事品
に由来するものである。
法華経に何が書いてあるかも知らず、権力を私物化することばかり考えている創価学会
員に、法華経の教えを広宣流布できる道理など、あろうはずがない。
話が脇へそれてしまったが、曹洞宗は現在も法華経を読誦し、「南無釈迦牟尼仏」と唱
える宗派である(以前も述べたが、法華経には「南無釈迦牟尼仏」という言葉はあるが、
「南無妙法蓮華経」という記述はない)。
日蓮が禅宗を批判した理由の一つは、法華経を軽視しているからというものだったが、
これは曹洞宗にはまったく当てはまらないと思う(日蓮は曹洞宗のことを知らなかったよ
うだから、これは仕方ないことではあるが)。
創価学会員には「唯一の正しい仏法」を僭称し、伝統仏教など頭からバカにしている者
が多いが、他の宗教について知ろうともせず否定してかかる姿勢は、増上慢としか言いよ
うがない。
創価学会の強引かつ悪質な布教活動のせいで、法華経にまで悪いイメージを持っている
日本人は少なくないのだ。
法華経の教えが広宣流布することを妨げる存在を「魔」というのであれば、創価学会こ
そが魔であろう。
補足 「曹洞宗」という呼称について
本文中で「曹洞宗」という呼び名を用いたが、道元自身は「曹洞宗」とか「禅宗」とい
う言い方を否定している。
しかし、道元の死後、弟子たちが「曹洞宗」を称するようになった。宗派の存続のため
には、やむを得なかったのであろう。
2018年8月12日日曜日
日蓮と禅②
※ 今回も日蓮遺文に加えて、栄西の『興禅護国論』を引用する。
2.蘭渓道隆について
蘭渓道隆は、寛元4年(1246年)に南宋から渡来した臨済宗楊岐派の僧である。その後、
当時の鎌倉幕府執権・北条時頼の招きにより、建長寺の開山となった。
文永5年(1268年)、蒙古からの使者が来日し通好を求めると、日蓮はこれを『立正安
国論』の予言が的中したものと考え、北条時宗や鎌倉の有力寺院に手紙を送った。建長寺
の蘭渓道隆に送ったとされる書状の一部を引く。
> 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の
> 羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽
> ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念
> 仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、
> 爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明
> 寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難
> 頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり、然るに去ぬる正月十
> 八日牒状到来すと日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ
(『建長寺道隆への御状』より引用)
〈大意〉
寺院は軒を連ね、仏法はインド・中国に負けないほど反映し、僧侶の行儀は六神通力を
備えた阿羅漢の如きである。しかしながら釈尊一代の諸経の優劣を知らない。禽獣と同じ
ように主・師・親の三徳を備えた釈迦如来をなげうって、他方の仏・菩薩を信じているの
は、世間に背く外道と何ら変わらないのではないか。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の
所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説である。
日蓮は文応元年(1260年)ころ考えた書を『立正安国論』と名づけ、宿屋入道を通して
故最明寺殿(北条時頼)に奉った。この書は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に
天下に災難がしきりに起こり、あまつさえ外国からこの国が攻められるであろうことの理
由を考えたものである。しかるに去る正月18日、蒙古からの牒状が到来した。日蓮が考え
たことと少しも違わず符合している。
道隆がこの手紙を読んで、どのように対応したかは定かではない。後で述べるように、
日蓮が本当にこの文面の手紙を送ったかも断定できない。
道隆は一人で来日したのではなく、少なからぬ宋人を伴ってきており、彼らも建長寺に
住まったので、その雰囲気は異国的なものだったらしい。
元寇という未曾有の国難もあって、道隆は元のスパイなのではないかと疑われ、一時期
甲斐に流されたが、疑いが晴れた後、建長寺に戻りそこで没した。
荼毘に付された道隆が舎利を残したと身延山で伝え聞いた日蓮は、本当の舎利ならば金
剛の金づちでも砕けないはずなので、「一くだきして見よかし、あらやすし、あらやすし」
と弟子への手紙で述べている(『弥源太入道殿御消息』。
※ 「舎利」とは本来、釈尊の遺骨のことであるが、当時は徳の高い僧も死後、舎利を
残すと信じられていた。
また、同じ手紙で、道隆が「弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今
は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」などと悪しざまに言ってもいる。
ただし、上に挙げた遺文は両方とも真蹟・古写本ともに現存しない。つまり、偽書であ
る可能性も排除できない。
特に『建長寺道隆への御状』に、『立正安国論』で「念仏・真言・禅・律等の悪法を信
ずる故に天下に災難頻りに起り」と書かれているのは不審である(『立正安国論』には念
仏への批判は書かれているが、真言・禅・律には触れられていない)。
蘭渓道隆は鎌倉幕府から帰依を受け、高僧として尊敬されていた。仏法の上で正しいの
は己ひとりだと自負していた日蓮にとっては、それが気に入らなかったのであろう。
上記引用の通りの手紙を送りつけたとは言い切れないが、挑発的言動を繰り返すことに
よって、道隆との公の場での法論に持ちこもうとしていたのは確かである。
日蓮の過激な言動に憤った僧侶たちは、「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に
堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆
上人・良観上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがた
し」と訴えた(『種種御振舞御書』真蹟 身延曾存)。
※ 「極楽寺入道殿」とは北条重時のこと。熱心な念仏信者だった。
評定所に召し出された日蓮は、尋問に対し「上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺
殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時
より申せし詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にた
もたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」と答えたという(同上)。
「彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」つまり、蘭渓道隆らとの公場対決に持ち込
むことが日蓮の狙いだったわけだが、それは実現しなかった。
日蓮が禅宗を批判した理由は、「教外別伝」を唱えて経典、特に法華経を軽視している
ところにあったことは、『開目抄』等の真蹟遺文からも明白である。
「日蓮大聖人直結」を称して、現在も四箇格言に基づいた強引な布教活動を続ける創価
学会だが、はたして彼らに「教外別伝を掲げる禅宗は天魔」などという資格があるのだろ
うか。
3.臨済宗は法華経を否定しているか?
臨済宗の教義は「不立文字、教外別伝」であり、特定の経典に最高の教えが説かれてい
るという立場を取らない。だが、経典を否定しているわけではない。
臨済宗を伝えた栄西は、『興禅護国論』において以下のように述べている。
【書き下し文】
> 法華経に云く、「後の悪世に於て乃至、閑処に在つて其の心を修摂し、一切法は空
> なり、如実相なりと観ぜよ、乃至、常に楽(ねご)うて是の如き法相を観じ、安住不
> 動にして須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> 此の四行の文は皆後の末世の時と言ふなり。
> 然れば、即ち般若・法華・涅槃の三経を案ずるに、皆末世の坐禅観行の法要を説く。
> 若し末代に機縁無く可くば、仏は此等を説くべからざるなり。
【現代語訳】
> 法華経にいう、「後の悪世において、この経を説こうというのであれば、閑かなと
> ころにあって心を統一して動揺しないようにし、すべての存在は空であり、如実の相
> であると観ぜよ。またつねにねがってこのようにすべてのありとあらゆる存在の相を
> 観じ、心安らかにして動かないこと須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> この身・口・意・誓願の四安楽行の文は、いずれも仏が入滅して後の末法の時の世
> にといっている。
> よって、前引の般若・法華・涅槃の三経を思うに、すべての末法の世の坐禅観行の
> 法要を説かせ給うているのである。もし末代にあって人々の機根に因縁のない教えで
> あるというのであるならば、仏がこれらの教えを説かれるはずはない。
(古田紹欽著『禅入門1 栄西』より引用)
栄西は、法華経を根拠として「坐禅は末法にふさわしい法要である」と主張している。
また、臨済宗中興の祖と呼ばれる白隠も、法華経を読んで大悟したという。
現在の臨済宗も法事の際には法華経を読経している。「教外別伝」を掲げているからと
言って、法華経を否定しているわけではない。
もちろん、日蓮と臨済宗の法華経に対する考え方は同じではない。
だが、現代において、仏法を称しながら法華経をはじめとする経典を否定している教団
があるとすれば、それは創価学会ではないのか。
創価学会がかつて教義書として出版していた『折伏教典』には、以下の文言がある。
> しかし、上野殿御返事(御書一五四六ページ)に「今末法に入りぬれば余経も法華
> 経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」と仰せのように、釈尊出世の本懐である
> 法華経でさえも、末法の今日にはまったく力がなく、三大秘法の御本尊を受持するよ
> りほかに、幸せになる道はないのである。
(『折伏教典』改訂29版〔昭和43年発行〕より引用)
現在の創価学会も、以下のように主張している。
> 日蓮大聖人は、釈尊の法華経28品、天台大師が説いた『摩訶止観』、大聖人御自身
> の南無妙法蓮華経を、いずれも成仏の根本法を示すものであると捉えられています。
> 戸田先生は、それぞれ、釈尊の法華経28品を「正法時代の法華経」、『摩訶止観』
> を「像法時代の法華経」、南無妙法蓮華経を「末法の法華経」と位置づけて、「三種
> の法華経」と呼んでいました。
(創価学会教学部編『教学入門』より引用)
法華経には、仏像を拝めば仏道を成じる、修行すれば来世に阿弥陀仏の浄土に生れる、
といった記述がある。そして創価学会は、こうした教えを否定している。
戸田城聖は、日蓮が『上野殿御返事』で「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、
但南無妙法蓮華経なるべし」と述べていることに基づき、それを正当化した。
だが、日蓮は以下のようにも述べているのである。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(『開目抄』)
日蓮の主張には矛盾があるようにも見えるが、どう判断すべきだろうか。
『開目抄』は真蹟曾存で、しかも三大部として古来重視されてきた。
『上野殿御返事』の真蹟は現存しないが、日興写本が残っている。
私には、日蓮の真意がどこにあるかを論じるだけの見識はないが、法華経の教えを否定
する宗教が邪教であるというならば、創価学会こそがそう呼ばれるべきであろう。
2.蘭渓道隆について
蘭渓道隆は、寛元4年(1246年)に南宋から渡来した臨済宗楊岐派の僧である。その後、
当時の鎌倉幕府執権・北条時頼の招きにより、建長寺の開山となった。
文永5年(1268年)、蒙古からの使者が来日し通好を求めると、日蓮はこれを『立正安
国論』の予言が的中したものと考え、北条時宗や鎌倉の有力寺院に手紙を送った。建長寺
の蘭渓道隆に送ったとされる書状の一部を引く。
> 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の
> 羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽
> ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念
> 仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、
> 爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明
> 寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難
> 頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり、然るに去ぬる正月十
> 八日牒状到来すと日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ
(『建長寺道隆への御状』より引用)
〈大意〉
寺院は軒を連ね、仏法はインド・中国に負けないほど反映し、僧侶の行儀は六神通力を
備えた阿羅漢の如きである。しかしながら釈尊一代の諸経の優劣を知らない。禽獣と同じ
ように主・師・親の三徳を備えた釈迦如来をなげうって、他方の仏・菩薩を信じているの
は、世間に背く外道と何ら変わらないのではないか。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の
所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説である。
日蓮は文応元年(1260年)ころ考えた書を『立正安国論』と名づけ、宿屋入道を通して
故最明寺殿(北条時頼)に奉った。この書は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に
天下に災難がしきりに起こり、あまつさえ外国からこの国が攻められるであろうことの理
由を考えたものである。しかるに去る正月18日、蒙古からの牒状が到来した。日蓮が考え
たことと少しも違わず符合している。
道隆がこの手紙を読んで、どのように対応したかは定かではない。後で述べるように、
日蓮が本当にこの文面の手紙を送ったかも断定できない。
道隆は一人で来日したのではなく、少なからぬ宋人を伴ってきており、彼らも建長寺に
住まったので、その雰囲気は異国的なものだったらしい。
元寇という未曾有の国難もあって、道隆は元のスパイなのではないかと疑われ、一時期
甲斐に流されたが、疑いが晴れた後、建長寺に戻りそこで没した。
荼毘に付された道隆が舎利を残したと身延山で伝え聞いた日蓮は、本当の舎利ならば金
剛の金づちでも砕けないはずなので、「一くだきして見よかし、あらやすし、あらやすし」
と弟子への手紙で述べている(『弥源太入道殿御消息』。
※ 「舎利」とは本来、釈尊の遺骨のことであるが、当時は徳の高い僧も死後、舎利を
残すと信じられていた。
また、同じ手紙で、道隆が「弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今
は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」などと悪しざまに言ってもいる。
ただし、上に挙げた遺文は両方とも真蹟・古写本ともに現存しない。つまり、偽書であ
る可能性も排除できない。
特に『建長寺道隆への御状』に、『立正安国論』で「念仏・真言・禅・律等の悪法を信
ずる故に天下に災難頻りに起り」と書かれているのは不審である(『立正安国論』には念
仏への批判は書かれているが、真言・禅・律には触れられていない)。
蘭渓道隆は鎌倉幕府から帰依を受け、高僧として尊敬されていた。仏法の上で正しいの
は己ひとりだと自負していた日蓮にとっては、それが気に入らなかったのであろう。
上記引用の通りの手紙を送りつけたとは言い切れないが、挑発的言動を繰り返すことに
よって、道隆との公の場での法論に持ちこもうとしていたのは確かである。
日蓮の過激な言動に憤った僧侶たちは、「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に
堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆
上人・良観上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがた
し」と訴えた(『種種御振舞御書』真蹟 身延曾存)。
※ 「極楽寺入道殿」とは北条重時のこと。熱心な念仏信者だった。
評定所に召し出された日蓮は、尋問に対し「上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺
殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時
より申せし詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にた
もたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」と答えたという(同上)。
「彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」つまり、蘭渓道隆らとの公場対決に持ち込
むことが日蓮の狙いだったわけだが、それは実現しなかった。
日蓮が禅宗を批判した理由は、「教外別伝」を唱えて経典、特に法華経を軽視している
ところにあったことは、『開目抄』等の真蹟遺文からも明白である。
「日蓮大聖人直結」を称して、現在も四箇格言に基づいた強引な布教活動を続ける創価
学会だが、はたして彼らに「教外別伝を掲げる禅宗は天魔」などという資格があるのだろ
うか。
3.臨済宗は法華経を否定しているか?
臨済宗の教義は「不立文字、教外別伝」であり、特定の経典に最高の教えが説かれてい
るという立場を取らない。だが、経典を否定しているわけではない。
臨済宗を伝えた栄西は、『興禅護国論』において以下のように述べている。
【書き下し文】
> 法華経に云く、「後の悪世に於て乃至、閑処に在つて其の心を修摂し、一切法は空
> なり、如実相なりと観ぜよ、乃至、常に楽(ねご)うて是の如き法相を観じ、安住不
> 動にして須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> 此の四行の文は皆後の末世の時と言ふなり。
> 然れば、即ち般若・法華・涅槃の三経を案ずるに、皆末世の坐禅観行の法要を説く。
> 若し末代に機縁無く可くば、仏は此等を説くべからざるなり。
【現代語訳】
> 法華経にいう、「後の悪世において、この経を説こうというのであれば、閑かなと
> ころにあって心を統一して動揺しないようにし、すべての存在は空であり、如実の相
> であると観ぜよ。またつねにねがってこのようにすべてのありとあらゆる存在の相を
> 観じ、心安らかにして動かないこと須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> この身・口・意・誓願の四安楽行の文は、いずれも仏が入滅して後の末法の時の世
> にといっている。
> よって、前引の般若・法華・涅槃の三経を思うに、すべての末法の世の坐禅観行の
> 法要を説かせ給うているのである。もし末代にあって人々の機根に因縁のない教えで
> あるというのであるならば、仏がこれらの教えを説かれるはずはない。
(古田紹欽著『禅入門1 栄西』より引用)
栄西は、法華経を根拠として「坐禅は末法にふさわしい法要である」と主張している。
また、臨済宗中興の祖と呼ばれる白隠も、法華経を読んで大悟したという。
現在の臨済宗も法事の際には法華経を読経している。「教外別伝」を掲げているからと
言って、法華経を否定しているわけではない。
もちろん、日蓮と臨済宗の法華経に対する考え方は同じではない。
だが、現代において、仏法を称しながら法華経をはじめとする経典を否定している教団
があるとすれば、それは創価学会ではないのか。
創価学会がかつて教義書として出版していた『折伏教典』には、以下の文言がある。
> しかし、上野殿御返事(御書一五四六ページ)に「今末法に入りぬれば余経も法華
> 経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」と仰せのように、釈尊出世の本懐である
> 法華経でさえも、末法の今日にはまったく力がなく、三大秘法の御本尊を受持するよ
> りほかに、幸せになる道はないのである。
(『折伏教典』改訂29版〔昭和43年発行〕より引用)
現在の創価学会も、以下のように主張している。
> 日蓮大聖人は、釈尊の法華経28品、天台大師が説いた『摩訶止観』、大聖人御自身
> の南無妙法蓮華経を、いずれも成仏の根本法を示すものであると捉えられています。
> 戸田先生は、それぞれ、釈尊の法華経28品を「正法時代の法華経」、『摩訶止観』
> を「像法時代の法華経」、南無妙法蓮華経を「末法の法華経」と位置づけて、「三種
> の法華経」と呼んでいました。
(創価学会教学部編『教学入門』より引用)
法華経には、仏像を拝めば仏道を成じる、修行すれば来世に阿弥陀仏の浄土に生れる、
といった記述がある。そして創価学会は、こうした教えを否定している。
戸田城聖は、日蓮が『上野殿御返事』で「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、
但南無妙法蓮華経なるべし」と述べていることに基づき、それを正当化した。
だが、日蓮は以下のようにも述べているのである。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(『開目抄』)
日蓮の主張には矛盾があるようにも見えるが、どう判断すべきだろうか。
『開目抄』は真蹟曾存で、しかも三大部として古来重視されてきた。
『上野殿御返事』の真蹟は現存しないが、日興写本が残っている。
私には、日蓮の真意がどこにあるかを論じるだけの見識はないが、法華経の教えを否定
する宗教が邪教であるというならば、創価学会こそがそう呼ばれるべきであろう。
2018年8月5日日曜日
日蓮と禅①
※ 今回は日蓮遺文に加えて、栄西の『興禅護国論』、道元の『正法眼蔵』も引用する。
日蓮は、禅宗を「天魔の所為」と非難した。彼が名指しで非難している禅僧としては、
大日房能忍と蘭渓道隆が挙げられるが、様々な理由から、この両者を一括りにして論じる
訳にはいかない。今回は、大日房能忍について論じたい。
1.大日房能忍について
大日房能忍は、達磨宗と称する一派を立てた僧である。達磨宗が廃れたこともあって、
その事績については不明な点が多く、生没年すら不詳であるが、日蓮よりも数十年ほど前、
法然と同時代に活躍したのは確かなようである。
> 然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の
> 身に入つて国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く、存の外に
> 山門の御帰依浅薄なり国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ、故に叡山守護の天照
> 太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神法味を飱わずして威光を失い国土を
> 捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘う
> る所なり
(『安国論御勘由来』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
> 建仁年中に、法然・大日の二人出来して、念仏宗・禅宗を興行す。法然云はく「法
> 華経は末法に入っては、未有一人得者・千中無一」等云云。大日云はく「教外別伝」
> 等云云。此の両義、国土に充満せり。天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつら
> いをそるる事、犬の主にををふり、ねづみの猫ををそるるがごとし。国王、将軍にみ
> やつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり。
(『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、法然と能忍を「二人の増上慢の者」として、一緒に批判している。日蓮が存命
中の頃は、法然と能忍の影響が双方とも大きく残っており、日蓮は両者を正法である法華
経の敵として論難したのであろう。
法然が開いた浄土宗は現在も残っており、また法然の弟子・親鸞が開いた浄土真宗、法
然の孫弟子のさらに弟子にあたる一遍が開いた時宗も、現在に伝わっている。
だから日蓮が法然を非難したことに基づいて、創価学会員や日蓮正宗の法華講員が、浄
土系伝統宗派を批判することは、まったく故なきことではない(私としては前々回、前回
述べたとおり、日蓮の主張には賛成できないが)。
だが、先に述べたとおり、大日房能忍が開いた達磨宗は現存しない。日蓮が能忍の宗旨
を天魔呼ばわりしたからといって、それをそのまま現存する禅宗である臨済宗・曹洞宗へ
適用するのは無理筋というものである。
なぜなら、臨済宗・曹洞宗とも法華経を重視する宗派だし、しかも、その祖師である栄
西・道元ともに、能忍に対しては批判的だったからである。
栄西は主著『興禅護国論』で、達磨宗について以下のような批判を加えている。
【書き下し文】
> 問うて曰く、「或人、妄りに禅宗を称して名づけて達磨宗と曰ふ。而して自ら云ふ、
> 無行無修、本より煩悩無く、元より是れ菩提、是の故に事戒を用ひず、事行を用ひず、
> 只応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し、舎利に供し、長斎節食することを労せんや、
> と云云。是の義は如何」。
> 答へて曰く、「其の人は悪として造らざること無きの類なり。聖教の中、空見と言
> ふ者の如き是れなり。此の人と共に語り同座すべからず。応に百由旬を避くべし。
(中略)
> 是れ即ち淮北河北に昔、狂人有りて、僅に禅法の殊勝なるを聞くを、其の作法を知
> らず、只自恣に坐禅して事理の行を廃し、以て邪見の網に繫るの人なり。此の人を号
> し悪取空の師と為す。是は仏法中の死屍なり。
> 宗鏡録に一百二十見を破する中に云く、「或いは無礙に傚ひて修行を放捨し、或い
> は結使随つて本性空なるを恃む。並に是れ宗に迷ひ旨を失ひ、湛に背き真に乖き、氷
> を敲いて火を索め、木に縁つて以て魚を求むる者なり」と。
> 此は即ち無行の人を悪むなり。況や禅戒を捐て真智を非とするの人をや。
【現代語訳】
> 問うていう、「ある人が妄りに禅宗を称し名づけて達磨宗という。そうしてその者
> は自らいうのに、この宗は仏行をなすことも学修をなすこともせず、もとより煩悩は
> なく、もともと菩提を得ているものである、であるから行動をいましめる制戒を用い
> ることがなく、なさなくてはならぬ行為をなすことがなく、ただ身を横たえて眠って
> いればよい。どうして念仏を修したり、仏舎利の供養をしたり、長く持斎をし、食量
> を節することにつとめたりしようか云云。
> 答えていう、「その人は悪として造らざることのない類のものである。聖教のうち
> に空見にとらわれたものといっているものの如きがこれである。このようなことをい
> うものと共に語り、共に座すべきではない。まさに百由旬も間を隔て避けるべきであ
> る。
(中略)
> これすなわち河南、河北に昔、無知のものがあり、わずかばかりの禅法の殊勝なこ
> とを聞くには聞いたが、その修行の教えを知らず、ただ勝手に坐禅し、事としてのあ
> るいは理としての修行をすることがなかった。このものはもって邪見の網にひっかか
> った人である。この人を名づけて悪取空の邪師となすのである。このような人は死屍
> でしかなく、正法海にとどめるべきものではない。
> 宗鏡録に百二十種の見解を破している文のうちにいう、「あるいは無礙自在という
> ことにならって修行を投げやりにし、あるいは煩悩をそのままに認めてそれで本来空
> といったりする。これらすべて根本の教えに迷い、教えの旨を失い、心に安らかな落
> ちつきを得ず、真実にそむき、あたかもそのしていることは、氷をたたいて火をもと
> め、木にのぼって魚をもとめるような愚かしいことである」と。
> このようにいっていることの意味は、すなわち修行をゆるがせにする人をにくむこ
> とであり、まして禅戒をすてて守らず、真実の智恵を非とする人においてをやである。
(古田紹欽著『禅入門1 栄西』より引用)
栄西の記述を信じるならば、達磨宗は書物で得た禅の知識と、当時、比叡山にはびこっ
ていた本覚思想――人は誰しも仏性を備えており、元から悟っているのだから、修行した
り戒律を守ったりする必要などないという思想――を混ぜこぜにしたようなものだったよ
うである。
本格的な禅を日本に導入することを志していた栄西にとって、このような堕落した宗旨
は、許すことのできないものだったのであろう。
道元も達磨宗を批判しているが、栄西のような歯に衣を着せない激しいものではなく、
間接的なものである。道元の主張を理解するには、まずその背景を知る必要がある。
大日房能忍については、ウィキペディアにも記事があるので、まずそれをご覧いただき
たい。
> 能忍の禅は独修によるものであり嗣法(禅宗での法統を受けること)すべき師僧を
> 持たなかった。この事は釈尊以来の嗣法を重視する禅宗においては極めて異例であり、
> 能忍の禅が紛い物であるとする非難や中傷に悩まされた。このため文治5年(1189年)、
> 練中、勝弁の二人の弟子を宋に派遣し阿育王寺の拙庵徳光に自分の禅行が誤っていな
> いか文書で問いあわせた。徳光は禅門未開の地で独修した能忍の努力に同情し、練中
> らに達磨像、自讃頂相などを与え印可の証とした。これを根拠に能忍の教えは臨済宗
> 大慧派に連なる正統な禅と認められ名望は一気に高まった。
能忍亡き後、その弟子の多くは曹洞宗を伝えた道元に入門した。曹洞宗第二祖・孤雲懐
奘も道元門下になる前は達磨宗の僧侶だった。
先に引用したウィキペディアの記事に、能忍が弟子を宋に派遣し、拙庵徳光から印可の
証を授けられたとあるが、それを踏まえて以下をお読みいただきたい。
> 某甲そのかみ径山に掛錫するに、光仏照そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、
> 「仏法禅道かならずしも他人の言句をもとむべからず。たゞ各自理会」。かくのごと
> くいひて、僧堂裏都不管なりき。雲来兄弟也都不管なり。祇管与官客相見追尋《祇管
> に官客と相見追尋》するのみなり。仏照、ことに仏法の機関をしらず。ひとへに貪名
> 愛利のみなり。仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錘あらん。真箇是
> 光仏照、不曾参禅也《真箇是れ光仏照、曾て参禅せざるなり》。
(岩波文庫『正法眼蔵(一)』より引用)
※ 文中の「光仏照」とは、拙庵徳光のことである。
〈大意〉
私がかつて径山に錫杖を掛け(雲水として仏道修行のために一時的に逗留し)た時、拙
庵徳光が住持職だった。彼が上堂していうには「仏法禅道には必ずしも他人の言葉を求め
る必要はない。ただ各自で理解すればよい」このように言って、坐禅修行の場である僧堂
のことには一切関与しない。雲水たちとも関わりを持たない。ひたすら官吏の客の相手ば
かりする。拙庵徳光は仏法において大切なことを知らない。ひたすらに功名心と利を求め
るばかりである。仏法がもし各自で理解すればよいものなら、すぐれた師を尋ねる必要が
あるだろうか。拙庵徳光はかつて参禅したことがないのだ。
この一節は道元が宋で修行した折に、師であった如浄から聞かされた言葉である。如浄
がこの言葉を述べた時、その場には拙庵徳光の弟子も多くいたが、恨むものはいなかった
という。
道元がこの文章を書いた時期は、達磨宗の僧たちが多く入門してきたしばらく後のこと
である。
道元が言わんとするところは、「拙庵徳光は坐禅もしないし、仏法などわかっていない
人物だった。その拙庵徳光から印可を受けた大日房能忍の禅も正統な禅ではない。自分が
如浄から学び伝えた禅こそが正統なのだ」ということなのである。
本稿で述べた事情を踏まえずに、日蓮の禅批判を単純に臨済宗や曹洞宗に適用すること
は、例えていうなら、「顕正会はいかがわしい本尊を拝んでいるくせに、他人の迷惑にな
る強引な折伏をしてけしからん。従って創価学会は邪教である」というようなものである。
以上をお読みいただければ、日蓮が大日房能忍を批判しているからと言って、その批判
を他の禅宗の宗派にそのまま当てはまることは不適切であることを、お分かりいただける
ことと思う。
ただ、日蓮が批判する「教外別伝」については、臨済宗の教義でもあるし、日蓮が批判
したもう一人の禅僧・蘭渓道隆は、その臨済宗の僧侶だった。こうした点については、次
回に論じたい。
日蓮は、禅宗を「天魔の所為」と非難した。彼が名指しで非難している禅僧としては、
大日房能忍と蘭渓道隆が挙げられるが、様々な理由から、この両者を一括りにして論じる
訳にはいかない。今回は、大日房能忍について論じたい。
1.大日房能忍について
大日房能忍は、達磨宗と称する一派を立てた僧である。達磨宗が廃れたこともあって、
その事績については不明な点が多く、生没年すら不詳であるが、日蓮よりも数十年ほど前、
法然と同時代に活躍したのは確かなようである。
> 然るに後鳥羽院の御宇・建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の
> 身に入つて国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く、存の外に
> 山門の御帰依浅薄なり国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ、故に叡山守護の天照
> 太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神法味を飱わずして威光を失い国土を
> 捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘う
> る所なり
(『安国論御勘由来』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)
> 建仁年中に、法然・大日の二人出来して、念仏宗・禅宗を興行す。法然云はく「法
> 華経は末法に入っては、未有一人得者・千中無一」等云云。大日云はく「教外別伝」
> 等云云。此の両義、国土に充満せり。天台・真言の学者等、念仏・禅の檀那をへつら
> いをそるる事、犬の主にををふり、ねづみの猫ををそるるがごとし。国王、将軍にみ
> やつかひ、破仏法の因縁、破国の因縁を能く説き能くかたるなり。
(『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)
日蓮は、法然と能忍を「二人の増上慢の者」として、一緒に批判している。日蓮が存命
中の頃は、法然と能忍の影響が双方とも大きく残っており、日蓮は両者を正法である法華
経の敵として論難したのであろう。
法然が開いた浄土宗は現在も残っており、また法然の弟子・親鸞が開いた浄土真宗、法
然の孫弟子のさらに弟子にあたる一遍が開いた時宗も、現在に伝わっている。
だから日蓮が法然を非難したことに基づいて、創価学会員や日蓮正宗の法華講員が、浄
土系伝統宗派を批判することは、まったく故なきことではない(私としては前々回、前回
述べたとおり、日蓮の主張には賛成できないが)。
だが、先に述べたとおり、大日房能忍が開いた達磨宗は現存しない。日蓮が能忍の宗旨
を天魔呼ばわりしたからといって、それをそのまま現存する禅宗である臨済宗・曹洞宗へ
適用するのは無理筋というものである。
なぜなら、臨済宗・曹洞宗とも法華経を重視する宗派だし、しかも、その祖師である栄
西・道元ともに、能忍に対しては批判的だったからである。
栄西は主著『興禅護国論』で、達磨宗について以下のような批判を加えている。
【書き下し文】
> 問うて曰く、「或人、妄りに禅宗を称して名づけて達磨宗と曰ふ。而して自ら云ふ、
> 無行無修、本より煩悩無く、元より是れ菩提、是の故に事戒を用ひず、事行を用ひず、
> 只応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し、舎利に供し、長斎節食することを労せんや、
> と云云。是の義は如何」。
> 答へて曰く、「其の人は悪として造らざること無きの類なり。聖教の中、空見と言
> ふ者の如き是れなり。此の人と共に語り同座すべからず。応に百由旬を避くべし。
(中略)
> 是れ即ち淮北河北に昔、狂人有りて、僅に禅法の殊勝なるを聞くを、其の作法を知
> らず、只自恣に坐禅して事理の行を廃し、以て邪見の網に繫るの人なり。此の人を号
> し悪取空の師と為す。是は仏法中の死屍なり。
> 宗鏡録に一百二十見を破する中に云く、「或いは無礙に傚ひて修行を放捨し、或い
> は結使随つて本性空なるを恃む。並に是れ宗に迷ひ旨を失ひ、湛に背き真に乖き、氷
> を敲いて火を索め、木に縁つて以て魚を求むる者なり」と。
> 此は即ち無行の人を悪むなり。況や禅戒を捐て真智を非とするの人をや。
【現代語訳】
> 問うていう、「ある人が妄りに禅宗を称し名づけて達磨宗という。そうしてその者
> は自らいうのに、この宗は仏行をなすことも学修をなすこともせず、もとより煩悩は
> なく、もともと菩提を得ているものである、であるから行動をいましめる制戒を用い
> ることがなく、なさなくてはならぬ行為をなすことがなく、ただ身を横たえて眠って
> いればよい。どうして念仏を修したり、仏舎利の供養をしたり、長く持斎をし、食量
> を節することにつとめたりしようか云云。
> 答えていう、「その人は悪として造らざることのない類のものである。聖教のうち
> に空見にとらわれたものといっているものの如きがこれである。このようなことをい
> うものと共に語り、共に座すべきではない。まさに百由旬も間を隔て避けるべきであ
> る。
(中略)
> これすなわち河南、河北に昔、無知のものがあり、わずかばかりの禅法の殊勝なこ
> とを聞くには聞いたが、その修行の教えを知らず、ただ勝手に坐禅し、事としてのあ
> るいは理としての修行をすることがなかった。このものはもって邪見の網にひっかか
> った人である。この人を名づけて悪取空の邪師となすのである。このような人は死屍
> でしかなく、正法海にとどめるべきものではない。
> 宗鏡録に百二十種の見解を破している文のうちにいう、「あるいは無礙自在という
> ことにならって修行を投げやりにし、あるいは煩悩をそのままに認めてそれで本来空
> といったりする。これらすべて根本の教えに迷い、教えの旨を失い、心に安らかな落
> ちつきを得ず、真実にそむき、あたかもそのしていることは、氷をたたいて火をもと
> め、木にのぼって魚をもとめるような愚かしいことである」と。
> このようにいっていることの意味は、すなわち修行をゆるがせにする人をにくむこ
> とであり、まして禅戒をすてて守らず、真実の智恵を非とする人においてをやである。
(古田紹欽著『禅入門1 栄西』より引用)
栄西の記述を信じるならば、達磨宗は書物で得た禅の知識と、当時、比叡山にはびこっ
ていた本覚思想――人は誰しも仏性を備えており、元から悟っているのだから、修行した
り戒律を守ったりする必要などないという思想――を混ぜこぜにしたようなものだったよ
うである。
本格的な禅を日本に導入することを志していた栄西にとって、このような堕落した宗旨
は、許すことのできないものだったのであろう。
道元も達磨宗を批判しているが、栄西のような歯に衣を着せない激しいものではなく、
間接的なものである。道元の主張を理解するには、まずその背景を知る必要がある。
大日房能忍については、ウィキペディアにも記事があるので、まずそれをご覧いただき
たい。
> 能忍の禅は独修によるものであり嗣法(禅宗での法統を受けること)すべき師僧を
> 持たなかった。この事は釈尊以来の嗣法を重視する禅宗においては極めて異例であり、
> 能忍の禅が紛い物であるとする非難や中傷に悩まされた。このため文治5年(1189年)、
> 練中、勝弁の二人の弟子を宋に派遣し阿育王寺の拙庵徳光に自分の禅行が誤っていな
> いか文書で問いあわせた。徳光は禅門未開の地で独修した能忍の努力に同情し、練中
> らに達磨像、自讃頂相などを与え印可の証とした。これを根拠に能忍の教えは臨済宗
> 大慧派に連なる正統な禅と認められ名望は一気に高まった。
能忍亡き後、その弟子の多くは曹洞宗を伝えた道元に入門した。曹洞宗第二祖・孤雲懐
奘も道元門下になる前は達磨宗の僧侶だった。
先に引用したウィキペディアの記事に、能忍が弟子を宋に派遣し、拙庵徳光から印可の
証を授けられたとあるが、それを踏まえて以下をお読みいただきたい。
> 某甲そのかみ径山に掛錫するに、光仏照そのときの粥飯頭なりき。上堂していはく、
> 「仏法禅道かならずしも他人の言句をもとむべからず。たゞ各自理会」。かくのごと
> くいひて、僧堂裏都不管なりき。雲来兄弟也都不管なり。祇管与官客相見追尋《祇管
> に官客と相見追尋》するのみなり。仏照、ことに仏法の機関をしらず。ひとへに貪名
> 愛利のみなり。仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錘あらん。真箇是
> 光仏照、不曾参禅也《真箇是れ光仏照、曾て参禅せざるなり》。
(岩波文庫『正法眼蔵(一)』より引用)
※ 文中の「光仏照」とは、拙庵徳光のことである。
〈大意〉
私がかつて径山に錫杖を掛け(雲水として仏道修行のために一時的に逗留し)た時、拙
庵徳光が住持職だった。彼が上堂していうには「仏法禅道には必ずしも他人の言葉を求め
る必要はない。ただ各自で理解すればよい」このように言って、坐禅修行の場である僧堂
のことには一切関与しない。雲水たちとも関わりを持たない。ひたすら官吏の客の相手ば
かりする。拙庵徳光は仏法において大切なことを知らない。ひたすらに功名心と利を求め
るばかりである。仏法がもし各自で理解すればよいものなら、すぐれた師を尋ねる必要が
あるだろうか。拙庵徳光はかつて参禅したことがないのだ。
この一節は道元が宋で修行した折に、師であった如浄から聞かされた言葉である。如浄
がこの言葉を述べた時、その場には拙庵徳光の弟子も多くいたが、恨むものはいなかった
という。
道元がこの文章を書いた時期は、達磨宗の僧たちが多く入門してきたしばらく後のこと
である。
道元が言わんとするところは、「拙庵徳光は坐禅もしないし、仏法などわかっていない
人物だった。その拙庵徳光から印可を受けた大日房能忍の禅も正統な禅ではない。自分が
如浄から学び伝えた禅こそが正統なのだ」ということなのである。
本稿で述べた事情を踏まえずに、日蓮の禅批判を単純に臨済宗や曹洞宗に適用すること
は、例えていうなら、「顕正会はいかがわしい本尊を拝んでいるくせに、他人の迷惑にな
る強引な折伏をしてけしからん。従って創価学会は邪教である」というようなものである。
以上をお読みいただければ、日蓮が大日房能忍を批判しているからと言って、その批判
を他の禅宗の宗派にそのまま当てはまることは不適切であることを、お分かりいただける
ことと思う。
ただ、日蓮が批判する「教外別伝」については、臨済宗の教義でもあるし、日蓮が批判
したもう一人の禅僧・蘭渓道隆は、その臨済宗の僧侶だった。こうした点については、次
回に論じたい。
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