※ 今回も日蓮遺文に加えて、栄西の『興禅護国論』を引用する。
2.蘭渓道隆について
蘭渓道隆は、寛元4年(1246年)に南宋から渡来した臨済宗楊岐派の僧である。その後、
当時の鎌倉幕府執権・北条時頼の招きにより、建長寺の開山となった。
文永5年(1268年)、蒙古からの使者が来日し通好を求めると、日蓮はこれを『立正安
国論』の予言が的中したものと考え、北条時宗や鎌倉の有力寺院に手紙を送った。建長寺
の蘭渓道隆に送ったとされる書状の一部を引く。
> 夫れ仏閣軒を並べ法門屋に拒る仏法の繁栄は身毒支那に超過し僧宝の形儀は六通の
> 羅漢の如し、然りと雖も一代諸経に於て未だ勝劣・浅深を知らず併がら禽獣に同じ忽
> ち三徳の釈迦如来を抛つて、他方の仏・菩薩を信ず是豈逆路伽耶陀の者に非ずや、念
> 仏は無間地獄の業・禅宗は天魔の所為・真言は亡国の悪法・律宗は国賊の妄説と云云、
> 爰に日蓮去ぬる文応元年の比勘えたるの書を立正安国論と名け宿屋入道を以て故最明
> 寺殿に奉りぬ、此の書の所詮は念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に天下に災難
> 頻りに起り剰え他国より此の国責めらる可きの由之を勘えたり、然るに去ぬる正月十
> 八日牒状到来すと日蓮が勘えたる所に少しも違わず普合せしむ
(『建長寺道隆への御状』より引用)
〈大意〉
寺院は軒を連ね、仏法はインド・中国に負けないほど反映し、僧侶の行儀は六神通力を
備えた阿羅漢の如きである。しかしながら釈尊一代の諸経の優劣を知らない。禽獣と同じ
ように主・師・親の三徳を備えた釈迦如来をなげうって、他方の仏・菩薩を信じているの
は、世間に背く外道と何ら変わらないのではないか。念仏は無間地獄の業、禅宗は天魔の
所為、真言は亡国の悪法、律宗は国賊の妄説である。
日蓮は文応元年(1260年)ころ考えた書を『立正安国論』と名づけ、宿屋入道を通して
故最明寺殿(北条時頼)に奉った。この書は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に
天下に災難がしきりに起こり、あまつさえ外国からこの国が攻められるであろうことの理
由を考えたものである。しかるに去る正月18日、蒙古からの牒状が到来した。日蓮が考え
たことと少しも違わず符合している。
道隆がこの手紙を読んで、どのように対応したかは定かではない。後で述べるように、
日蓮が本当にこの文面の手紙を送ったかも断定できない。
道隆は一人で来日したのではなく、少なからぬ宋人を伴ってきており、彼らも建長寺に
住まったので、その雰囲気は異国的なものだったらしい。
元寇という未曾有の国難もあって、道隆は元のスパイなのではないかと疑われ、一時期
甲斐に流されたが、疑いが晴れた後、建長寺に戻りそこで没した。
荼毘に付された道隆が舎利を残したと身延山で伝え聞いた日蓮は、本当の舎利ならば金
剛の金づちでも砕けないはずなので、「一くだきして見よかし、あらやすし、あらやすし」
と弟子への手紙で述べている(『弥源太入道殿御消息』。
※ 「舎利」とは本来、釈尊の遺骨のことであるが、当時は徳の高い僧も死後、舎利を
残すと信じられていた。
また、同じ手紙で、道隆が「弘通するところの説法は共に本権教より起りて候しを、今
は教外別伝と申して物にくるひて我と外道の法と云うか」などと悪しざまに言ってもいる。
ただし、上に挙げた遺文は両方とも真蹟・古写本ともに現存しない。つまり、偽書であ
る可能性も排除できない。
特に『建長寺道隆への御状』に、『立正安国論』で「念仏・真言・禅・律等の悪法を信
ずる故に天下に災難頻りに起り」と書かれているのは不審である(『立正安国論』には念
仏への批判は書かれているが、真言・禅・律には触れられていない)。
蘭渓道隆は鎌倉幕府から帰依を受け、高僧として尊敬されていた。仏法の上で正しいの
は己ひとりだと自負していた日蓮にとっては、それが気に入らなかったのであろう。
上記引用の通りの手紙を送りつけたとは言い切れないが、挑発的言動を繰り返すことに
よって、道隆との公の場での法論に持ちこもうとしていたのは確かである。
日蓮の過激な言動に憤った僧侶たちは、「故最明寺入道殿・極楽寺入道殿を無間地獄に
堕ちたりと申し、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等をやきはらへと申し、道隆
上人・良観上人等を頸をはねよと申す。御評定になにとなくとも日蓮が罪禍まぬがれがた
し」と訴えた(『種種御振舞御書』真蹟 身延曾存)。
※ 「極楽寺入道殿」とは北条重時のこと。熱心な念仏信者だった。
評定所に召し出された日蓮は、尋問に対し「上件の事一言もたがはず申す。但し最明寺
殿・極楽寺殿を地獄といふ事はそらごとなり。此の法門は最明寺殿・極楽寺殿御存生の時
より申せし詮ずるところ、上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば、世を安穏にた
もたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」と答えたという(同上)。
「彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ」つまり、蘭渓道隆らとの公場対決に持ち込
むことが日蓮の狙いだったわけだが、それは実現しなかった。
日蓮が禅宗を批判した理由は、「教外別伝」を唱えて経典、特に法華経を軽視している
ところにあったことは、『開目抄』等の真蹟遺文からも明白である。
「日蓮大聖人直結」を称して、現在も四箇格言に基づいた強引な布教活動を続ける創価
学会だが、はたして彼らに「教外別伝を掲げる禅宗は天魔」などという資格があるのだろ
うか。
3.臨済宗は法華経を否定しているか?
臨済宗の教義は「不立文字、教外別伝」であり、特定の経典に最高の教えが説かれてい
るという立場を取らない。だが、経典を否定しているわけではない。
臨済宗を伝えた栄西は、『興禅護国論』において以下のように述べている。
【書き下し文】
> 法華経に云く、「後の悪世に於て乃至、閑処に在つて其の心を修摂し、一切法は空
> なり、如実相なりと観ぜよ、乃至、常に楽(ねご)うて是の如き法相を観じ、安住不
> 動にして須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> 此の四行の文は皆後の末世の時と言ふなり。
> 然れば、即ち般若・法華・涅槃の三経を案ずるに、皆末世の坐禅観行の法要を説く。
> 若し末代に機縁無く可くば、仏は此等を説くべからざるなり。
【現代語訳】
> 法華経にいう、「後の悪世において、この経を説こうというのであれば、閑かなと
> ころにあって心を統一して動揺しないようにし、すべての存在は空であり、如実の相
> であると観ぜよ。またつねにねがってこのようにすべてのありとあらゆる存在の相を
> 観じ、心安らかにして動かないこと須弥山の如くせよ」と。
(中略)
> この身・口・意・誓願の四安楽行の文は、いずれも仏が入滅して後の末法の時の世
> にといっている。
> よって、前引の般若・法華・涅槃の三経を思うに、すべての末法の世の坐禅観行の
> 法要を説かせ給うているのである。もし末代にあって人々の機根に因縁のない教えで
> あるというのであるならば、仏がこれらの教えを説かれるはずはない。
(古田紹欽著『禅入門1 栄西』より引用)
栄西は、法華経を根拠として「坐禅は末法にふさわしい法要である」と主張している。
また、臨済宗中興の祖と呼ばれる白隠も、法華経を読んで大悟したという。
現在の臨済宗も法事の際には法華経を読経している。「教外別伝」を掲げているからと
言って、法華経を否定しているわけではない。
もちろん、日蓮と臨済宗の法華経に対する考え方は同じではない。
だが、現代において、仏法を称しながら法華経をはじめとする経典を否定している教団
があるとすれば、それは創価学会ではないのか。
創価学会がかつて教義書として出版していた『折伏教典』には、以下の文言がある。
> しかし、上野殿御返事(御書一五四六ページ)に「今末法に入りぬれば余経も法華
> 経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」と仰せのように、釈尊出世の本懐である
> 法華経でさえも、末法の今日にはまったく力がなく、三大秘法の御本尊を受持するよ
> りほかに、幸せになる道はないのである。
(『折伏教典』改訂29版〔昭和43年発行〕より引用)
現在の創価学会も、以下のように主張している。
> 日蓮大聖人は、釈尊の法華経28品、天台大師が説いた『摩訶止観』、大聖人御自身
> の南無妙法蓮華経を、いずれも成仏の根本法を示すものであると捉えられています。
> 戸田先生は、それぞれ、釈尊の法華経28品を「正法時代の法華経」、『摩訶止観』
> を「像法時代の法華経」、南無妙法蓮華経を「末法の法華経」と位置づけて、「三種
> の法華経」と呼んでいました。
(創価学会教学部編『教学入門』より引用)
法華経には、仏像を拝めば仏道を成じる、修行すれば来世に阿弥陀仏の浄土に生れる、
といった記述がある。そして創価学会は、こうした教えを否定している。
戸田城聖は、日蓮が『上野殿御返事』で「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、
但南無妙法蓮華経なるべし」と述べていることに基づき、それを正当化した。
だが、日蓮は以下のようにも述べているのである。
「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(『開目抄』)
日蓮の主張には矛盾があるようにも見えるが、どう判断すべきだろうか。
『開目抄』は真蹟曾存で、しかも三大部として古来重視されてきた。
『上野殿御返事』の真蹟は現存しないが、日興写本が残っている。
私には、日蓮の真意がどこにあるかを論じるだけの見識はないが、法華経の教えを否定
する宗教が邪教であるというならば、創価学会こそがそう呼ばれるべきであろう。