2017年4月20日木曜日

私説「五重相対」(創価学会の矛盾)③

 ※ 承前 私説「五重相対」

4、創価学会と法華経〔サンスクリット原典〕の相対(天台大師の矛盾)

  天台大師智顗は、六世紀の中国の僧で、天台宗の実質的な開祖である。天台宗は、最
 澄によって日本にも伝えられた。日蓮を含めて鎌倉仏教の祖師は皆、日本天台宗の総本
 山比叡山延暦寺で学んだことから、天台大師の教説から少なからず影響を受けている。

  創価学会の教義も、この天台大師の思想を抜きに語ることはできない。今回はその代
 表的なものである「五時八教の教判」と「一念三千」について論じる。

  「五時八教の教判」の教判とは、仏教経典の優劣を論じた教義である。仏教経典は、
 実際には、釈尊滅後、数百年かけて徐々に成立したものだが、仏教が伝来した当初は、
 釈尊が一代で説いたものと信じられていた。

  何世代もかけ、多くの人の手で創作されてきたものなので、経典に説かれている思想
 は様々であり、中には矛盾しているものもあった。それを釈尊一人が一代で説いたと考
 えたことから、当然に混乱が生じた。

  天台大師は、この混乱を収拾する解釈を考え出した。釈尊が悟りを開いてから入滅す
 るまでを五段階に分け、それぞれの段階で、レベルの異なる教えを説いたと考えたので
 ある。それが「五時八教の教判」である。その内容を整理すると以下のようになる。


  華厳時・・・・・・釈尊が悟りを開いた直後、その境地をそのまま説いた教え。華厳
           経がこれにあたる。しかし、内容が高度だったので、多くの人に
           は理解されなかったと考えられた。

  阿含時・・・・・・理解を促すためにわかりやく説かれた教え。上座部仏教(小乗仏
           教)の経典が該当する。

  方等時・・・・・・ほとんどの大乗経典は、この時期に説かれたと考えられた。

  般若時・・・・・・深遠な〝空〟の教えを説いた時期。般若経がこれにあたる。

  法華・涅槃時・・・最も優れた教えである法華経を説いた時期。法華経による救いか
           ら漏れた人々のために、釈尊の死の間際に涅槃経が説かれた。


  法華経が最も優れた教えとされた根拠は、法華経の直前に説かれたと考えられた無量
 義経に、「四十余年未顕真実」という文言があること、つまり〝悟りを開いてから四十
 年余りの間、真実を顕わしていない〟と釈尊が宣言していることである。

  そして、法華経に「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて 但無上道のみを
 説く)」とあることなどである。

  この「五時八教の教判」には、それなりに説得力があったことから、後世に至るまで、
 大きな権威を持ち続けた。日蓮もこの説に従って、法華経以外の経典を重視する宗派を
 非難した。

  だが、「五時八教の教判」にも弱点があった。それを天台教学は、法華経の片言隻句
 を拡大解釈し、他の経典に説かれている思想を投影することで弥縫したのだが、それを
 これから見ていく。

  大乗仏教では、一切は〝空〟であると考える。法華経にも「於空法得証(空法におい
 て証ることを得たり)」といった記述はある。だが、肝心の〝空〟を証(さと)る方法
 について、法華経にはほとんど説かれてない。
 〝空〟については、ごく短い経典である般若心経の方が、法華経よりもよほど詳しい。

  また法華経には、〝誰もが仏になれる〟と説かれているが、その根拠は述べられてい
 ない。「一切衆生悉有仏性」という言葉をご存知の方も多いであろうが、この言葉の出
 典は涅槃経である。

  「すべての人が仏としての性質、つまり仏性を宿している。だから、誰もが仏になれ
 る」という思想を「如来蔵思想」といい、日本の伝統仏教や、創価学会を含めた仏教系
 新宗教は、ほとんどすべてこの思想の影響下にあるといっても過言ではない。

  一番優れているはずの法華経に、大乗仏教の重要思想である〝空〟や、如来蔵思想が
 説かれていないのは都合が悪い。この欠点を取り繕う役割を担ってきた教義がある。

  それこそが「一念三千」である。この教義について順に説明していくが、わかりにく
 い考え方なので、私のつたない説明では、すぐにはご理解いただけないかもしれないが、
 ご容赦いただきたい。

  天台思想でも〝空〟は重視されており、三諦という教義がある。これは「空・仮・中」
 の三位一体とも言うべき思想で、それぞれ次のような考え方である。

  空・・・一切は移ろいゆくものであり、不変の本質など存在しない。

  仮・・・事物は仮にその姿を見せている。

  中・・・「空」と「仮」を統合した、より高い見方。

  「空・仮・中」は、切り離すことができない一体のものであることを「三諦円融」と
 いい、「三諦円融」を心に観ずる修行を「一心三観」という。

  何が何だか訳がわからないという方も多いことと思う。実は私もよくわからない。
  そこで、本稿の執筆に際して大いに参照した、仏教学者・立川武蔵氏の著書から引用
 させていただく。


> 天台教学では縁起せるものに対して、(a)「空」と観じて「仮」と観じ、また(b)
> 「仮」と観じて「空」と観ずるという方向の異なる二つの観想行為のレヴェルを設定
> する。そして(a)と(b)とが二つの異なるあり方ではなく、「中」においては統
> 一されていると主張される。しかし、その統一がはたして論理としてとらえられるも
> のであるか否かは今後の研究課題なのである。
 (立川武蔵著『最澄と空海』より引用)


  仏教学者が「今後の研究課題」というくらいなのだから、素人に理解できないのは当
 然だろう。理解の助けにはならなかったかもしれないが、わからないのが当然と諒解す
 るしかないのかもしれない。所詮、悟りとは論理を超越したものなのだろう。

  脱線してしまったが、この「空・仮・中」は古代インドの仏教思想家・龍樹が、『中
 観』で述べた説によるもので、直接、仏教の経典に説かれている教えではない。経典に
 根拠がないのでは、教義としての正統性に疑問を持たれかねない。

  そこで登場するのが、法華経と天台大師である。
  法華経方便品に「十如是」という一節がある。「如是相。如是性。如是體。如是力。
 如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」と、如是~が続けて十あ
 るので十如是という(意味は後で解説するので、ここではそんなものがあるということ
 を、とりあえず知っていただいて先に進む)。

  天台大師は、この十如是には三通りの読み方があると主張した。最初の「如是相」に
 ついてだけ記すと、「是相如、如是相、相如是」と読めるのだという。

  しかも、それぞれが実は先ほどの「空・仮・中」と対応しているのだという。驚くべ
 き論理の飛躍だが、これで〝空〟の思想が「最高の経典」である法華経にも説かれてい
 るということになったわけである(かなり無理がある気がするが……)。

  さらに話は進む。天台大師の代表的な著述である『摩訶止観』には、「十如是」と仏
 教の伝統的な世界観を関連づけた記述がある。


>  それ一心に十法界を具す。一法界に十法界を具して、百法界なり。一界に三十種の
> 世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、この三千は一念の心にあり。
 (岩波文庫『摩訶止観(上)』より引用)


  十法界とは、迷える衆生が輪廻する世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)と、迷
 いから脱した四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の合わせて十の境涯を指す。この十界は、
 それぞれがお互いの要素を併せ持つので百界となる。これを「十界互具」という。

   ※ 「十界互具」には重要な含意がある。それは迷える衆生の世界も、「仏界」の
    要素を含むこと、つまり「一切衆生悉有仏性」と同様の意味になることである。

  三十種の世間とは、「三種世間」が「十如是」を備えていることをいう。「三種世間」
 についての解説を、立川武蔵氏の前掲書から引用する。


>  第一の世間は、五陰世間である。「五陰」とは五蘊(物質、感受、原初的観念、意
> 欲等、認識)と同じであり、初期仏教以来、「世界」の構成要素と考えられてきた。
  (中略)
> 天台の教学においては、五陰は山川草木などの自然をも含んだ、世界の基礎的構成要
> 素と考えられた。この五陰が、第二の国土世間と第三の衆生世間の構成要素とされて、
> 第一の五陰世間が「体」、第二・第三の世間が「用」と呼ばれた。
>  国土世間は、生類がその上で生きている依止(基体)あるいは場としての世界を指
> し、山川などの自然をも含む。衆生世間は、国土世間の上に住む一切衆生である。


  この記述を単純化して整理すると、以下のようになる(素人の私が浅薄な理解で捨象
 したものなので、不正確さはご容赦いただきたい)。

  五陰世間・・・・・物質などの世界の構成要素
  国土世間・・・・・生類が暮らす世界
  衆生世間・・・・・一切衆生

  これらを要約するとこうなる。
  十界 × 十界 = 百界   百界 ×(三世間 × 十如是)= 三千世間

  「一念三千」は十如是を介して、上述した「空・仮・中」の三諦円融・一心三観を包
 摂しているのである。

  「一念三千」の各構成要素についての説明は以上である。とてもわかりにくい説明に
 なってしまい恐縮だが、私ではこれが精いっぱいなので、より詳しく知りたい方は、専
 門書等にあたっていただければと思う。

  ここまで読んでいただけるとおわかりだろうが、天台教学では法華経の「十如是」に
 強引な解釈を行い、それを他の仏教思想と組み合わせることで、「一念三千」なる教義
 を生み出し、法華経にも〝空〟や、如来蔵思想が説かれているのだと強弁することで、
 「最高の経典」にふさわしく飾り立てたのである。

  さて、引きのばしにしてきた「十如是」の意味だが、岩波文庫版の『法華経』には漢
 訳だけでなく、サンスクリット原典からの日本語訳も記載されているので、十如是に該
 当する部分を、その少し前から引用する。


> 如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできる
> のだし、如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、『それらの現象が
> 何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるもの
> であるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる
> 本質を持つか』、ということである。

 ※『』内が十如是に対応する。原文に『』はないが、理解の便宜をはかるため補った。

  読めばわかるとおり、どう見ても五項目しか挙げられていない。実は十如是というの
 は、漢訳法華経の翻訳者・鳩摩羅什の意訳というか創作である。この十如是に基づいた
 一念三千も、原典を十分尊重していない意訳に基いた、杜撰な教義ということになる。

  法華経のサンスクリット原典からの現代語訳を、気軽に読めるようになったことは、
 仏教学の成果を一般人も享受できることになったということであり、それ自体は喜ばし
 いことだが、仏教学の成果はそれだけではない。

  「五時八教の教判」の教判で、重要な根拠とされた「四十余年未顕真実」という文言
 がある無量義経は、中国で撰述された偽経だと仏教学では考えられている。法華経を含
 めた大乗経典は、釈尊滅後、数百年経って創作されたものであることも判明している。

  天台大師は、六世紀当時の中国において、社会的・宗教的なニーズに応える教義を説
 いた偉大な仏教思想家だった。実際、彼の説は、一千年以上の長きにわたり権威であり
 続けた。

  日本でも、日蓮だけでなく、多くの仏教者に強い影響を与えたし、今後も影響を与え
 続けるだろうとも思う。

  しかしながら、現在の学問に照らして、天台大師の教説を唯一無二の真理だというの
 は無理である。その無理を通そうとしているのが、創価学会や日蓮正宗だが、仏教にい
 くらかでも興味をもつ人にとって、彼らの主張は文庫本で読める入門書程度の知識さえ
 あれば「破折」できる、時代錯誤なたわ言でしかない。

  鎌倉時代の日蓮が、「五時八教の教判」や「一念三千」を疑う余地のない真理と見な
 したことは致し方ないことだが、現代社会に生きているにも関わらず、千年以上前に説
 かれ、しかも学問的に誤りが明らかになっている教義を、社会規範に反するやり方でゴ
 リ押しするのは、いかがなものだろうか。

  学会員の皆さんが、本当に仏法に関心を持っているのであれば、もう少し、見聞を広
 めるなり、本を読むなりしてみてはどうかと思う。例えば、岩波文庫の『法華経』など
 はどうだろうか。

  「御書根本」とかいいながら、その御書もロクに読まないし、「南無妙法蓮華経」と
 唱えながら、「妙法蓮華経」に何が書いてあるのか知ろうとしない人たちに、何を言っ
 ても無駄かも知れないが……。


補足 一念三千について

 実は、天台大師が一念三千について述べているのは、『摩訶止観』の上記引用の部分だ
けである。一念三千が天台教学の極理とされるようになったのは、中国天台宗第六祖・妙
楽大師湛然によるところが大きいといわれている。

 あと、本文では天台大師に対して、必要以上に辛辣になってしまったが、私には天台宗
を批判する意図はない。

 私の真意は、あくまでも、一念三千等の天台の教義をふりかざして反社会行為を働く、
創価学会を批判することである。気を悪くされた天台宗関係者の方がいらしたら、お許し
いただきたい。