2019年4月28日日曜日

統一地方選挙(平成31年4月)の結果について

 去る4月7日、21日に、平成最後となる統一地方選挙の投開票が実施された。
 7日は道府県知事、道府県議会議員、政令市の議員等、21日には政令市以外の市長およ
び議員、東京特別区、町村の議員等が選出され、あわせて衆議院の補欠選挙も行われた。

 周知のとおり、前半戦では京都市と大阪市の議会選挙で、公明党の候補者がわずか数票
の差で落選し、「常勝関西」にミソをつけることとなった。

 しかしながら、後半戦では公明党の全立候補者が当選した。
 今年は参議院選挙も実施されることから、学会員の負担を軽減するために、統一地方選
挙では公明党の立候補者を減らす対応を取ったそうだが、それが奏功したのであろう。

 前半戦での思わぬ苦戦に衝撃を受けた各地の学会員たちが奮起したことと、投票率が低
迷したことも、後半戦の「完勝」に影響したと考えられる。

統一地方選における主要な地方議員選挙結果
    (典拠:今回についてはNHK選挙データベース、読売新聞〔平成31年4月23日付〕
        前回については総務省「地方選挙結果調」)

 個別の選挙結果については、すべてを論じることは不可能なので、公明党候補が僅差で
落選した大阪市議会選挙・東成区選挙区と、辛くも全員当選した世田谷区と江戸川区の区
議会選挙に焦点を絞る。

 大阪市議会選挙・東成区選挙区には3議席が割り当てられており、それを今回は4人、前
回は5人の立候補者が争った。東成区の投票率は、53.36%だった(前回は51.76%)。

大阪市議会選挙・東成区選挙区の選挙結果
                      (出典:大阪市選挙管理委員会 公表資料)

 今回、落選した公明党の則清ナヲミ氏は、前回は最下位での当選だった。今回、最下位
で当選した維新の会の海老沢由紀氏と則清氏との得票差は、わずか4票である。

 東成区の投票率は前回よりも1.6%上がっているが、これにより票が上積みされたことが
海老沢氏の当選につながったと見てよいだろう。

 先に述べたとおり、統一地方選後半戦では公明党の候補者はすべて当選したが、その中
には薄氷を踏むような勝利もあった。

 東京都の世田谷区議会選挙(議席数:50)では、公明党の津上ひとし氏が最下位の当選
だった。惜しくも次点だった、すがややすこ氏との得票差は31票だった。

 公明党は、前回の選挙では世田谷区議会選挙に10人を擁立し、全員を当選させたが、今
回は1人減らした9人が立候補した(投票率は43.02%、前回の42.84%より微増している)。
 前回と同じ人数を擁立していたならば、落選者が出ていた可能性は極めて高い。

 また、江戸川区議会選挙(議席数:44)でも、候補者を前回の13人から1人減らしたが、
それでも公明党の中道たかし氏は、43位で辛くもの当選だった。次点で落選した共産党の
須田哲二氏との票差は92票である。

 江戸川区議会選挙の投票率は42.40%で、前回の43.12%よりやや減少している。
 もし、世田谷区や江戸川区の投票率が、あと少し高かったならば、公明党は前回から候
補者を減らしたにもかかわらず、全員の当選は実現できなかったということが十分にあり
得たのである。 

 創価学会・公明党は、現在の得票力と投票率の低迷とを織り込んだ綿密な選挙戦略を立
て、今回の統一地方選挙でも、前半戦で苦汁をなめたとはいえ、後半戦ではすべての候補
者を当選させた。退潮傾向にあるとはいえ、彼らの組織力は現在もなお侮れない。

 反社会的カルトである創価学会と事実上、一体の存在である公明党が、地方議会に大勢
の議員を送り込んでいる現状が、社会にとって好ましいとは思えない。

 そして、そのような事態を許してしまっているのは、有権者の無関心が原因である投票
率の低迷に他ならない。

 一個人にできることなど高が知れていることは十分に承知しているが、それでも創価学
会の危険性を伝える活動を続けなければならないと、今回の選挙結果を見て、改めて決意
した次第である。

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2019年4月21日日曜日

創価学会の光と影

 ほとんどの学会員が、「創価学会は唯一絶対に正しい」と信じているのに対して、それ
以外の大部分の人は、創価学会になどたいして関心がなく、怪しげな新興宗教の一つ程度
の認識しかないか、あるいは折伏等で不快な経験をしたことが理由で、忌み嫌っているか
のどちらかであろう。

 しかしながら、非学会員が執筆した本の中にも、創価学会に肯定的評価をしているもの
もいくらかはある。

 創価学会を評価する理由として、よく挙げられるのが「助け合い」である。
 学会員1世の中には地方出身者が多い。学会員1世は、都市居住1世でもあることが珍
しくないのだ。

 他者との関わりが希薄な都市において、創価学会がムラ社会的な濃い人間関係――互助
や仲間への思いやり――を実現していることに魅力を感じ、入会した者が少なくないとい
うことだろう。そうした濃い関係が、現在でも創価学会の末端組織を支えている。


>  それぞれにドラマがある学会員は、他人の幸せを願い、助け合って生きている。
 (中略)
>  学会員の家族が手術を受けるとなれば、その時間にみんなが集まって題目をあげる。
> 引っ越しも葬儀も応援する。誰かが病気で働けなくなったら、生活保護の手続きをと
> る。夫婦関係の不和、職場の人間関係など悩みがあれば、相談にのって解決する。
>  学会は一つの共同体でもある。
>  学会の現場はきわめて濃密な助け合いのシステムとなっている。
 (中略)
>  社会から創価学会が排他的、顔が一つの組織に見えてしまうのは、学会員同士が濃
> 密な関係にあり、一つの共同体を形成しているからだろう。
 (別冊宝島『となりの創価学会』所収
  米本和広著「荒川区町屋三丁目 下町の学会員さん物語」)


 こうした環境で生まれ育った2世3世にとっても、創価学会特有の密度の濃い人間関係
は、幼少時から慣れ親しんだものであり、アイデンティティーの一部にまでなっているの
かもしれない。

 だが、そこに息苦しさを感じる人もいるだろう。
 創価学会では、個人の住居が座談会などの活動の拠点としても使われている。そうした
家庭では、無遠慮に生活空間に侵入してくる学会員たちのふるまいに耐えねばならないこ
とがままあるという。

 親が熱心な信者であるにもかかわらず、子が創価学会に反発することがあるが、他人に
配慮しない学会員の不躾さが、その理由になることもあるようだ。

 元活動家のブログの中にも、入浴中に浴室に入ってこられた等の経験談を記しているも
のもある。

 学会員同士の距離が近いことによる問題点は、他にもある。濃密な人間関係は創価学会
の搾取的な金集めにも、一役買っているのだという。

 池田大作は、幹部ごとに担当地域を決めて集金額を競わせ、多額の金を集めた者を登用
する一方、実績を上げられない者は冷遇したという(「学会幹部に良心はないのか?」参
照)。

 人間関係のしがらみを金集めのための情報収集に活用することを考え出し、財務で実績
を上げて出世、そのノウハウを全国に広めた幹部がいたとしても不思議ではない。 


>  「組織防衛」にひた走り、ややもすれば(というか相当)硬直化している「信濃町
> 中央(学会本部)」に対し、現場で日々、活動に汗を流している末端の会員は、明る
> く、オープンだと言われる。確かに筆者も個人的に学会員の知り合いは何人かいるが、
> 基本的には「いい人」ばかりである。
>  特に学会活動の中心となっている婦人部の人たちは、選挙になるとちょっとうるさ
> いが、概して明るくおおらかで、世話好きなオバさんが多い。
 (中略)
>  しかし、ある元学会員は、「その『あったかい』とか『世話好き』ってのが、実は
> ミソなんですよ」としたうえで、さらにこう続ける。
>  「確かに組織の末端では、よく『何があったの?』と相談に乗ってくれる。落ち込
> んでいるときは励ましてくれるし、確かに人情味も厚い。しかし、それは逆に言えば、
> 『プライバシー』がないってことなんですよ。そうやってしょっちゅうくっついてい
> るわけだから、家の収入だとか、夫婦関係、子供が抱えている問題とか、いろんな情
> 報がみんな外に漏れてしまう。それを組織がうまく利用しているっていうか、“悪用”
> しているわけです。特に財務の時なんかは、そういった情報が大きい意味を持つ。例
> えば、『あの家は最近、保険金がいくらいくら入った』とかいう話なんてのも内々、
> すぐに伝わるわけだから、幹部が親戚縁者に根回しして、『じゃあ、今回は一千万円
> くらいどうか』と話を持っていくわけですよ。まあ、言っちゃなんだけど、末端の学
> 会員ってのは、“貧乏人でお人好し”が多い。だから、疑うことを知らない。
 (古川利明著『シンジケートとしての創価学会=公明党』)


 濃い人間関係がもたらすのは、助け合いなどの良いことばかりだけではない。自分たち
の中に恵まれた者がいれば、何とかして引きずり下ろそうとする心理も生じやすい。

 内心の妬みを信仰心で偽装し、「幸運に恵まれたのは御本尊のおかげなのだから、御本
尊に恩返ししなければ! 広宣流布のために財務するべき!」と迫る者もいるのだろう。

 学会員は折伏の際、「創価学会は助け合いの組織だ」と言うことがある。 
 彼らは、相互扶助的で麗しい一面だけを印象づけようとし、それと表裏一体のプライバ
シーの欠如や、信心を口実とした足の引っ張り合いについては、外部の人間には語らない。

 創価学会の末端にある濃い人間関係は、2世3世の脱会を阻止するためにも機能してい
る。抜け出したくても抜けられない、蟻地獄のような環境にも見える。

 そのような環境に、本心から居心地の良さを感じている創価学会員が、はたしてどれく
らい居るのだろうか。

 学会員が熱心に折伏を行う動機には、自分たちよりしがらみが少ない生き方をしている
人々をうらやみ、同じドロ沼に引きずり込みたいという願望もあるのかもしれない……。

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2019年4月14日日曜日

書評『親が創価学会』(島田裕巳著)

 『親が創価学会』は、創価学会の家庭に生まれ育った2世が直面する様々な困難に焦点
を当てて執筆されているが、創価学会そのものの解説にもそれなりの紙幅が割かれている。

 著者の島田氏は非学会員向けの概説書として、過去に『創価学会』(新潮新書)をもの
しているが、それと同様、本書も「批判にも擁護にも偏らない」という姿勢で書かれてい
る。

 私は創価批判を目的としてブログを続けているので、本書の主張には同意できない点も
あるが、全体としては優れた内容だと感じた。

 上述のように、本書では創価学会とはどのような団体であるかの解説もなされている。
 具体的には、成り立ちや巨大組織に発展できた理由、日蓮正宗との関係などが記されて
いるが、要領よく的確にまとめられており、その内容には説得力があった。

 また、創価学会の複雑な地方組織について、宮城県や山形県を例として説明されている
など、これまでに出版された創価学会に関する本にはなかった情報もある。

 多額の金銭負担についても言及されており、島田氏は「私の知り合いには、一家で数千
万円を創価学会に出したという人間がいる」と述べている。

 別の個所では、過度な熱狂から多額の金を出すのは「ポトラッチ」――北米先住民が力
を誇示するために行っていた私財の蕩尽――だとも指摘している。宗教学者らしい卓見で
ある(かなり辛辣だとも思う)。

 本書の主要なテーマである、創価学会の2世信者が直面する困難についても、学ぶとこ
ろがあった。

 創価学会は簡単にはやめられない組織だと言われる。2世ならば、なおさらそうである。
 本書ではその理由の一つとして、創価学会が各信者の住所・氏名等の個人情報を把握す
るために設けている「統監カード」を挙げている。

 2世信者が創価学会と縁を切りたいと思い、新たな住所を報告せずに引っ越したりして
も、親が熱心な学会員であった場合、自分の子も信仰を続けることを望み、引っ越し先を
創価学会に届け出るので「統監カード」にもそれが記載され、その結果、新しい住居にも
現地の学会員がすぐ家庭訪問してくるのだという。

 島田氏は「なんとしても創価学会をやめたいのであれば、家族との縁を切るしかない。
そういうことは十分に起こり得る」とまで述べている。

 また、学会員が非学会員と結婚しようとした場合に生じる困難についても述べられてい
る。本書には、創価学会2世の男性と、顕正会2世の女性がつき合い、同棲までしたものの、
双方の親が信仰のことで衝突し、別れることになった事例が紹介されている。


 興味深い内容が多く記されているとはいえ、先に述べたように、私としては同意できな
い箇所も本書には複数ある。

 特に看過できないのは、池田大作に関する記述である。島田氏は池田の印税収入につい
て、過去のインタビューを参照して、次のように述べている。


>  ところが、池田氏本人は、月刊誌『現代』(講談社)の一九八〇年四月号に掲載さ
> れたジャーナリストの内藤国夫氏によるインタビューのなかで、「聖教新聞社からの
> 出版物の印税は、いっさいいただいておりません。それ以外の出版社の場合、いちお
> ういただきますが、税金を払った残りは大学や学園に寄付しております」と語ってい
> た。『人間革命』や『新・人間革命』は聖教新聞社から出版されている。
>  内藤氏はすでに故人だが、創価学会に批判的なジャーナリストで、創価学会批判の
> 本を何冊も刊行していた。その内藤氏が、創価学会の資産形成に池田氏の印税が大き
> く寄与していることを前提に話を聞いている。その点からすると、池田氏の語ってい
> ることは事実と考えていいだろう。


 内藤氏は『現代』1980年7月号で、このインタビューの反響について記事を書き、清貧
の指導者を演じて見せた池田の受け答えについて、「ウソ八百もいいところ」との内部情
報が寄せられ、池田の「美術品そのほかの創価学会財産の私物化は目に余るものがあるそ
うな」と述べている(「清貧の人? 池田大作」参照)。

 島田氏がそれを知らなかったとは考えられない。
 そもそも、島田氏は前著『「人間革命」の読み方』で、『人間革命』の本当の執筆者は
篠原善太郎氏だったことを指摘している。内藤氏からのインタビューで池田が語った印税
の寄付が事実だったとしても、人のフンドシで相撲を取ったというだけのことである。

 先の引用に続く箇所には「一時期は、池田氏のスキャンダルが頻繁に報道された。ただ、
そのなかに、池田氏が豪遊しているといった類のものはなかった」とあるが、これも事実
に反する(「池田大作のぜいたく」参照)。

 創価学会は、相当に問題のある団体である。はっきり言って、カルト以外の何ものでも
ない。その創価学会について、客観的な内容の本を書こうとすれば、批判的になるのは当
然である。

 本全体が批判的な記述ばかりにならないようにするためには、不自然な形での擁護を挿
入せざるを得なかったのだろう。

 ただ、だからと言って、島田氏が創価学会に完全に取り込まれているとまでは言えない
と思う(池田大作に関する記述は、相当に配慮されているが)。

 島田氏が、一方的な批判には組しない姿勢を取り続けたからこそ、幹部を含めた多数の
学会員からの取材が可能だったのだろうし、その結果として、一般人には知り難い内部情
報が含まれた本の執筆が可能になったことも、事実であろうからだ。

 『親が創価学会』は、異議を申し立てたい箇所もあるとはいえ、創価学会の実態を理解
する上で、少なからず有益な本だと評価したい。

 ※ 『親が創価学会』(イースト新書)は、2019年4月15日付で発行された(実際の発
   売日は4月10日)。

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2019年4月7日日曜日

創価学会員のルサンチマン

  ルサンチマン【(フランス)ressentiment】
   強者に対する弱者の憎悪や復讐 (ふくしゅう) 衝動などの感情が内攻的に屈折して
  いる状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨 (えんこん) 。遺恨。
                             出典:デジタル大辞泉


 ニーチェはキリスト教を批判した哲学者として知られる。彼がキリスト教を非難した理
由は、その信仰がルサンチマンに基づいているからであった。

 ニーチェは、著書『道徳の系譜』において、自己を肯定し、誇り高く、気高くあろうと
する道徳を「貴族道徳」とよび、反対に自分より優れた他者を妬み、否定することによる
道徳を「奴隷道徳」とよんだ。


>  ――道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨 Ressentiment)そのものが創造
> 的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真
> の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によって
> だけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳
> は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めから
> して<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし否と言う。つまりこの否定
> こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転――自己自身に立
> ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向――こそが、まさにルサンチマン特
> 有のものである。すなわち奴隷道徳は、それが成り立つためには、いつもまず一つの
> 対立的な外界を必要とする。
 (信太正三訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』)


 ニーチェは同書で、キリスト教徒のルサンチマンの表れ、すなわち迫害を加えた者たち
への「想像上の復讐」の例として、2世紀末から3世にかけて活躍した神学者・テルトゥリ
アヌスの言葉を引いている。


> 「信仰は、まこと、われわれに、はるかに多くのものを与えてくれる」――と彼は言
> う――「はるかにもっと力づよいものを与えてくれる。救済のおかげで、本当にまっ
> たく別な悦びがわれわれの思いどおりになる。
 (中略)
> ・・・が、キリストの再臨の日、その勝利の日となれば、われわれを待ちうけている
> のは何であるか!」――またさらに彼は、この狂喜した幻想家はつづける。「だがじ
> つにその日にはなお別の光景が見られる。最後の、そして永遠の審判のその日、異教
> の民が期待もしないで、笑いものにするその日には、いとも長く古い時代と、かくも
> 多くのその所産とが、もろともにみな同じ一つの炎に焼きつくされるのである。その
> ときの光景たるや何と壮大なことであろう! どう讃歎すべきか! どう笑うべきか!
> どのように喜ぶべきか! どこでどう躍るべきか! 天国に迎えられたといわれるあ
> れほど多くの高名な王たちが、ユピテルや、また彼らをその目で見た証人たちと一緒
> に、暗黒の下界に呻き苦しむのを見るとき! 同じくまた、主の御名を滅ぼした総督
> (地方代官)たちが、彼らがキリスト教徒を焚殺した凌辱の火炎にもまさる荒れ狂う
> 猛火のなかに燃え熔けてゆくのを見るとき!
 (中略)
> 大法官にせよ、執政官にせよ、検察官にせよ、司祭にせよ、彼らがどんなに寛仁であ
> ろうとも、これほどの見世物を観せ、これほどまで心躍らしてくれる者などいるであ
> ろうか? しかしすくなくともわれわれは、信仰によってこの光景を多少なりとすで
> に心に思い描いてみることができる。


 上記をお読みになって、どう感じるかは人それぞれであろうが、常日頃はキリスト教は
外道と考え、見下している創価学会員の中にも、古代のキリスト教徒が夢想した最後の審
判の光景には、共感を覚えた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 今回、私が長々とニーチェによるキリスト教批判を引用したのは、創価学会もまたルサ
ンチマンに基づいた宗教だからである。

 折伏を受けた経験のある方はよくご存じのはずだが、創価学会員とは他の宗教をすべて
否定し、「そんなものを信じる奴らは地獄に堕ちる」などと、平気で口にする連中である。

 創価学会は、戦後、日本がまだ貧しかった時代、新規に都市部に流入した教育のない階
層を取り込むことで急拡大した。

 資産も学歴もなく、貧しさや病気などの悩みを抱え、持てる者を羨望していた彼らにと
って、「唯一の正しい信仰」を自称し、恵まれた人々が信仰する伝統宗教をすべて否定す
る創価学会は魅力的に映ったのだろう。

 そのような学会員たちの代表こそが、池田大作だった。彼は東京都大田区の生まれで、
新規に都市住民となったわけではないが、貧しい海苔業者の家庭に育ち、満足な教育を受
けられず、結核に苦しんでいた。

 そして池田は、持てる者への羨望と怨嗟とが入り混じった言葉を吐き続け、それによっ
て学会員たちの心をつかんできた。以下に池田語録を示す(すべて山田直樹著『創価学会
とは何か』による)。


 「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって
 自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価
 学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
 (六三年八月三日付聖教新聞)

 「天下を取ろう。それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめ
 てきた連中に挑戦して、最後に天下を取って、今までよくも私をいじめたか、弱い者を
 いじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」
 (六九年『前身』〈幹部用テキスト〉四月号)

 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返
 す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も
 戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 (九六年十一月三日「創価同窓の集い」にて)


 矛盾している言葉もあるようだが、学会員にとっては、自分たち以外のものが権力を振
るって弱い者をいじめるのは悪だが、自分たちが権力を持った場合、何をやってもかまわ
ないのである。歪んだ選民思想のなせる業である。

 創価学会員の選民意識は、彼らが抱えていたルサンチマンの裏返しだった。
 しかし、高度経済成長の恩恵は創価学会員にもおよび、現在の2世3世の信者の中には、
貧しさのために虐げられているといった感覚を持っていない者も、多いはずである。

 それどころか、ルサンチマンむき出しの池田センセイのご指導に、違和感や嫌悪を感じ
る方もいるかもしれない。

 また、社会に出て活躍し、会社等の所属する組織の中に自分の居場所を見つけて、創価
学会の信仰をアイデンティティーの拠り所としては、必要としなくなった者もいるだろう。

 狂信的な親との確執という、新たな苦悩に直面している方も少なくないことだろうが、
何とか乗り越えてカルトによるマインドコントロールから解放され、精神の自由を取り戻
してほしいと思う。

 ニーチェによるキリスト教批判は、真実をついている部分もあるにせよ、一面的に過ぎ
るとの反論もある。

 だが、池田大作が指導してきた創価学会は、彼らが「敵」と見なした人びとに口汚い誹
謗中傷を加え続け、それのみならず「仏敵撲滅唱題」と称する呪詛の儀式まで行ってきた
ことからも明らかなように、キリスト教以上に強烈なルサンチマンによって突き動かされ
て来た。

 他者への憎悪を基盤とする宗教・創価学会が権力を持つ社会が、真に平和で安寧なもの
となるわけがない。

 覚醒した2世3世が組織から去り、創価学会が衰退することは、社会への貢献でもある。
 大乗仏教の菩薩とは、「他者を救うことで自らも救済される存在」である。創価学会か
らの脱会は、真に菩薩行と呼ばれるにふさわしい善行と言えるだろう。

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2019年3月31日日曜日

反社会的な教義


 創価学会は数百万人の信者を擁する巨大教団であり、学会員の人間性も多種多様なはず
である。社会に出て学会員でない人たちとも協力しながら仕事で成果を上げ、それなりの
社会的地位を築いている人もいることだろう。

 地位を利用して折伏等の迷惑行為を行う者も中にはいるだろうが、分別をわきまえ、勤
務先や地域では、他人に迷惑をかけるようなことはしない学会員も、現在では多いはずで
ある。

 しかしながら、創価学会員の中には依然として非常識な者が少なからずいる。
 学会員に対して、「できることなら関わりになりたくない人たち」という印象を抱いて
いる人は少なくないのである。

 戸別訪問や集団替え玉投票などの悪質な選挙違反や、日蓮正宗との泥沼の抗争をひき起
こし、折伏や投票依頼などの迷惑行為を今なお組織ぐるみで推進している創価学会のイメ
ージが悪いのは当然のことではあるが。

 学会員に他人に迷惑をかける者が多いのには、創価学会の教義が影響していると考えら
れる。

 創価学会で「信心の教科書」とされている『人間革命』には、第2代会長・戸田城聖が
詐欺罪で有罪になった学会員に対し、以下のような指導を行ったと記されている。


>  世間法、国法、仏法を三法律というのだが、世間法より国法が強く、国法より仏法
> が強いのです。だからといって、信心していれば国法を犯しても構わぬということは
> 絶対にない。国法を犯せば国法によって裁かれるのは当然である。
 (『人間革命』第七巻)

 ※ 何度も述べてきたが、創価学会のいう「仏法」とは、創価学会の教えだけをいい、
  日本の伝統宗派や、東南アジアの上座部仏教などは「邪教」とされている。


 仏法=創価学会は、国法(法律)や世間法(道徳・常識)に優先するというのが、彼ら
の考え方である。

 戸田城聖は「信心していれば国法を犯しても構わぬということは絶対にない」と言った
ことになっているが、実際の彼の行動はどうだったのだろうか。

 前述のように、学会員が選挙違反を頻繁に行ってきたことはよく知られている。
 昭和31年(1956年)の参議院選挙に、柏原ヤスをはじめとする学会幹部が立候補した
が、この際も戸別訪問等の選挙違反で多数の学会員が逮捕された。

 強引な折伏や選挙違反などの、創価学会員の問題行動を新聞記者に質された際、戸田は
以下のように回答している。


>  いずれにせよ強引に信者をふやして選挙運動に利用しようとしたのではないか。
> 戸田氏 (強引な折伏は)選挙とは全く関係がない。単なる個人的な問題だ。選挙と
> いえば、戸別訪問などで選挙違反に問われた会員がかなりあるが、私は全然違反とは
> 思っていない。信者の知人、親類に頼むのは当り前じゃないか。それだって私が指令
> したのではなく信者が熱心の余りやっているのだ。選挙違反の形式犯はいわば立小便
> などの軽犯罪みたいなものだ。捕まえる方がおかしい。
 (『朝日新聞』昭和31年7月11日付)


 選挙違反で多数の逮捕者を出し、全国紙で何度も大きく報じられたというのに、責任者
の戸田は、言うに事を欠いて「捕まえる方がおかしい」とのたまったのだ。

 法令や社会秩序を軽視する正体を現した妄言である。
 戸田の後を継いだ池田大作は、選挙違反で逮捕された学会員に対し「法難賞」を与えた
という。こういう困ったところは、確かに「師弟不二」である。

 現代社会において、宗教には「よき規範」としての役割が求められている。
 しかし、創価学会は「よき規範」などではあり得ない。彼らの実態は、法律や常識とい
った規範を軽視する反社会的カルトでしかないのだ。


補足1

 冒頭の画像は5chで見つけた拾い物。規範を軽視する創価学会の体質を、的確に表現して
いると思う。


補足2 外米獲得文化運動

 昭和31年(1956年)の参院選挙に、創価学会は6人の幹部を立候補させ、うち3人が当選
した(公明党はまだ結成されていなかった)。

 この頃はまだ「F取り」という呼び方はなかったようである。選挙違反容疑で、創価学
会が家宅捜索を受けたことを報じる新聞記事には、以下のように書かれている。

>  同学会では信者以外の支持者を「外米」とよび、外米獲得文化運動と称して信者
> (「内地米」とよぶ)に二十票から三十票ずつの票集めをさせている疑いもあると
> いう。
 (『朝日新聞』昭和31年6月30日付)

 言葉は違えど、やっていることは現在も60年前から変わっていないようである。

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2019年3月24日日曜日

創価学会員の選民思想

 私はこれまでの人生で、何回か創価学会員から折伏を受けたことがある。
 その際に学会員が見せた態度は、こちらがたじろぐ程に尊大で自信に満ちたものだった。

 創価学会員と関わりを持ち、このような印象を受けたのは、私だけではないはずである。
日本の新興宗教について調査研究を行った米国の宗教学者も、以下のように述べている。


>  創価学会を研究する際、公平な態度でのぞむことは非常に困難である。というのは、
> 調査しているさいちゅうに、見たり、聞いたり、読んだりするもの、とりわけ、創価
> 学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害されるから
> である。どうも彼らにはPRの才がないらしい。訪問客をもてなす時でさえ、彼らは
> 信じ切った態度を露骨に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう。ほ
> かならぬこの理由のために、かくも多くの観察者(日本人も外国人も)が、創価学会
> は陰険な運動だと報告しているのもうなずけるのである。
 (H・N・マックファーランド著 内藤豊・杉本武之訳『神々のラッシュアワー』)

 ※ 著者はサザン・メソジスト大学の教授で、牧師でもあった。本書は、日本での二度
  の調査研究(1956~1957年、1963~1964年)に基づいて執筆され、原著は1967年、
  邦訳は昭和44年(1969年)に出版されている。


 著者はキリスト教徒だが、この本は全体として真摯な学問的姿勢に基づいて執筆されて
おり、創価学会への批判は偏見によるものではないと思われる。本書では天理教や、立正
佼成会なども取り上げられているが、他の教団に対しては、上記のような手厳しい見解は
示されてはいない。

 マックファーランド教授は「訪問客をもてなす時でさえ、彼らは信じ切った態度を露骨
に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう」と述べているが、学会員の態
度が「軽蔑しているように見えしまう」のは、彼らが事実、学会員以外の者を軽蔑し、見
下しているからである。

 戸田城聖は「キリスト教でもせいぜい天界まではいけるでしょう。今のアメリカは栄え
ているようであるが、あれは天界の栄えにすぎない」(『人間革命』第七巻)と説いた。

 当時、調査のために創価学会を訪問したマックファーランド教授に応対した学会員も、
天界の境涯にある米国人のキリスト教徒よりも、「地涌の菩薩」である自分の方が格上な
のだと考え、それが態度にも表れたのだろう。


 現代社会では、学問の細分化と技術への応用が進み、経済も国際化し、金融は複雑なも
のとなっている。量子力学の応用である半導体技術や、相対性理論が応用されたGPSを
誰もが日常的に用い、地球の裏側の国で起こった政変が物価にも影響するのである。

 それらすべてを理解し、何が起こっているかを説明できる者、正しい選択はどれかを示
せる者がどれだけいるだろうか。一個人ではとても理解し切れない程の情報があふれ、し
かもそれらが一人ひとりの生活に密接に関わってくる現代社会において、「何が正しいか
を知っている」という確信を持つことは、極めて困難なことなのだ。

 初めて本格的な折伏を受けた際、私は相手の学会員の自信に満ちた態度に気圧されるよ
うな思いを抱いた。これほどの確信を持つ背景には、相当の知的蓄積があるのではないか
との印象を受けたのである。

 今考えると、外部の世界にあふれる圧倒的な情報量に対する自分の知的貧弱さからくる
不安を、相手に投影してしまっただけだったのであるが。

 その時は、相手の学会員がやたらと「科学的根拠」というのを聞いて、「この人は自然
科学全般への幅広い知識と理解があり、それが自信につながっているのではないか」と思
ってしまった。

 だが、しばらく話してみて、その学会員は自然科学についての理解などほぼ皆無で、そ
れどころか、法華経に何が書いてあるかさえ知らないことが分かった。
 これは、私が対面した一学会員だけについてだけ当てはまることではない。

 創価学会員という連中は、総じて驚くほど知識がないにも関わらず、「自分たちは、他
の人間と違って、何が正しいかを知っている選ばれた存在である」という夜郎自大な自信
を抱いている。

 前回も述べたが、創価学会員は「他の宗教には科学的根拠がない」という理由で否定す
る一方で、彼らの信仰にも科学的根拠がないことを問題視していない。そもそも、そのよ
うな疑問を持たないようにマインドコントロールされている。

 多くの創価学会員にとって、信仰およびアイデンティティーの核心となっているのは、
「創価学会は絶対に正しい。その信仰を持つ自分も絶対に正しく、ただそれだけで学会員
でない者よりも優れた存在である」という思い込みである。

 この妄念を支えているものとして、以下の要素が考えられる。

  ・日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在に祭り上げ、その教えを正統に継承して
  いるのは、創価学会だけだとし、学会員は教えを広める使命を持った「地涌の菩薩」
  だとされていること。

  ・信仰の指導者である池田大作が、世界中から顕彰を受け、称賛される偉人だとされ
  ていること(聖教新聞等の創価学会の出版物の中だけではあるが)。

  ・他の学会員も上記の思い込みを共有し、相互に補強し合っていること。

  ・これらを否定する情報(週刊誌や批判本など)は、すべて創価学会や池田大作の偉
  大さに嫉妬した者たちによるデマだと思い込まされていること。

  ・本当に正しいと言えるのかを検証しようとする知性の欠如(疑うとバチがあり、今
  まで積んできた功徳も消えるという恐怖心を植え付けられていること)。

 「創価学会は絶対に正しい」という思い込みには根拠などない。根拠がないことを「正
しい」とすることは、「智者に我が義やぶられずば用ひじ」(『開目抄』)という、日蓮
の教えに違背している。

 また、それを支える一連のマインドコントロールも、日蓮本仏論のように根拠がないか、
金の力で実現した池田大作の勲章あさりのように価値がないかのいずれかである。

 学会員が強引な折伏をするのは、自分と異なる信仰や思想を持つ者を屈服させることで、
自らの信念が正しいという実感を得ようとしているのだろう。

 信仰の内容が空疎だから、他人をねじ伏せたり、学会活動に没頭することで同じ妄念を
共有する者がいることを確認したりしなければ、自信を保てないのである。


 本来ならば自由にできる時間を公明党の選挙運動などの学会活動に費やし、投票という
政治的な選択の自由を奪われ、本部職員という貴族的な特権階級の高給を支えるために財
務やマイ聖教等で少なからぬ金銭を供出し、精神の自由まで奪われる対価として、「自分
たちは地涌の菩薩で、そうでない者より高い境涯にあり、救いが約束されている」という
妄想の世界に浸り続けている、それが創価学会員という連中なのだ。

 このバカげた選民思想に魅力を感じる人は、創価学会員であり続けるのもいいかもしれ
ない。

 しかしそれは、少しでも知性を持つ者にとって、耐えがたいことのはずである。
 当ブログでも示してきたように、創価学会の教義や、学会員たちがそれを疑わないよう
に行われているマインドコントロールがおかしいことは、彼らが神聖視してきた日蓮遺文
や法華経を読めば分かることだ。

 いや、古文や漢文の書き下し文をわざわざ読まなくても、常識的な判断力があれば、創
価学会がおかしなカルトであることは明白である。

 女子高生を妊娠させたり、レイプ事件を起こしたり、広宣流布を口実に集めた金を自分
個人のぜいたくのために使ったりしてきた池田大作を、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っ
ている創価学会が、まともな宗教のわけがないのだ。

 信教は自由だが、創価学会の信仰とその実践は、良識とは相容れない。
 現在の創価学会は上辺のイメージだけは取り繕おうとしているが、そんなことをしても
馬脚は隠せない。現に、冒頭で引用した50年前の批判が、今なお妥当なのだ。

 学会員が社会の各層に浸透し、公明党が与党になっているとはいえ、インターネットが
当たり前になった現代社会で、完全な情報統制など不可能である。

 創価学会のありのままの実態、事実を知られることが、彼らにとっての弱点であり、情
報の拡散を防ぐことができない以上、創価学会の衰退を止めることはもう不可能だろう。

 そして、それは社会の健全化に資することでもあるのだ。

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2019年3月17日日曜日

折伏(しゃくぶく)について

 現在の日本では、宗教とはあまり関わりのない持たない人生を送っている方が大勢を占
めるが、そういった人でもいずれかの伝統宗派の檀信徒であり、葬儀は仏式で行うことが
多い。

 創価学会は、そのような在り方を「葬式仏教であり、生きた信仰ではない」と否定し、
現在もなお折伏と称してはた迷惑な勧誘を行い、「自分たちだけが正しい信仰だ」と主張
し続けている。

 今回は学会員が折伏の際に、よく主張する内容について検証する。


1.「偶像崇拝は間違い」

 多くの伝統宗派で仏像が信仰の対象とされているが、創価学会は仏像ではなく、文字で
構成された曼荼羅――日蓮が法華経の世界観を図顕したもの――を本尊としている。

 学会員は折伏の際、「仏像を拝むのは偶像崇拝であり、本来の仏教ではない。創価学会
こそが正統な仏教だ」と主張することがある。

 確かに、釈尊は自らの像を信仰の対象にせよとは説かなかったし、そのため、原始仏教
では仏像を信仰の対象とはしなかった。

 だが、創価学会員が上記のような主張をするのは卑劣な欺瞞であり、以下に述べるよう
に三重の意味で矛盾している。

 まず第一に、前回みたように創価学会は「釈尊の教えは人々を救う力を失っている」と
主張しており、都合のいい時だけ原始仏教を援用するのはおかしい。

 第二に、創価学会の曼荼羅本尊は、確かに狭い意味での「偶像」には該当しないであろ
うが、彼らの教義では「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えると祈りとして叶わざるなし」
ということになってる。

 当然のことながら、このような呪物崇拝も本来の仏教とは関係ないものである(何度も
述べたが、彼らの本尊の根拠となっている法華経も、釈尊滅後、数百年後に創作された経
典である)。

 第三に、創価学会が「末法の御本仏」だという日蓮は、「法華経で開眼供養した仏像を
信仰の対象とすべき」と述べている(「佐前・佐後」参照)。

 学会員が「仏像を信仰の対象とするのは間違い」と主張することは、創価学会が日蓮の
教えを正統に受け継ぐ教団ではないことの証明なのだ。


2.「科学的根拠がないことは否定する」

 創価学会員が他の宗教を否定する時によく使うのが、この「科学的根拠」という言葉で
ある。

 確かにどの宗教であれ、神仏や来世など科学的に実証できない概念を信じることが、そ
の根幹になっている。

 こうした実証できない事柄をすべて退け、宗教とは無縁に生きるのも一つの在り方だと
いうことは、私も否定しない。

 問題なのは、創価学会の教義もまた、ほかの宗教と同様、あるいはそれ以上に非科学的
であり、学会員が「科学的な根拠がないことは否定する」と主張するのは、卑怯なダブル
スタンダードだということである。

 伝統的な宗教は、科学が発展する近代以前に発祥している。その教義に非科学的な部分
があったとしても、やむを得ない面もある。

 だが、創価学会は20世紀になってから作られた新興宗教である。それにもかかわらず、
池田大作がデッチ上げた、「護符」と称するただの紙切れを飲むことで病気が治るとぬか
す、インチキなマジナイを組織を挙げて行ってきた。

 いったい、どの面下げて「他の宗教は科学的根拠がない」などと批判できるのだろうか。
 護符を別にしても、御本尊と称するビニールシートに題目を唱えることで、どんな願い
でも叶うという、彼らの中心的な教義にも、何の科学的根拠もありはしない。

 学会員が安易に「科学的根拠」なる言葉を口にするのは、単に他の宗教を批判するのに
便利だからに過ぎず、彼らに論理的思考能力が欠如していることの現れなのである。


まとめ

 多くの人は他者を批判する際、その言葉が我が身にも当てはまりはしないかと、省みる
ものである。
 上述で明らかにしたとおり、創価学会員にはそうした点が驚くほど欠落している。

 だからこそ、創価学会の教義や実態を知る者が聞けば、「おまエラがそれを言うか」と
のけぞるようなことを平気で主張するのである。

 彼らが口にする一見まっとうな言葉こそが、連中がマインドコントロールによって論理
的思考や内省が出来なくなった、頭がおかしいカルト信者であることを示しているのだ。

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