2019年4月14日日曜日

書評『親が創価学会』(島田裕巳著)

 『親が創価学会』は、創価学会の家庭に生まれ育った2世が直面する様々な困難に焦点
を当てて執筆されているが、創価学会そのものの解説にもそれなりの紙幅が割かれている。

 著者の島田氏は非学会員向けの概説書として、過去に『創価学会』(新潮新書)をもの
しているが、それと同様、本書も「批判にも擁護にも偏らない」という姿勢で書かれてい
る。

 私は創価批判を目的としてブログを続けているので、本書の主張には同意できない点も
あるが、全体としては優れた内容だと感じた。

 上述のように、本書では創価学会とはどのような団体であるかの解説もなされている。
 具体的には、成り立ちや巨大組織に発展できた理由、日蓮正宗との関係などが記されて
いるが、要領よく的確にまとめられており、その内容には説得力があった。

 また、創価学会の複雑な地方組織について、宮城県や山形県を例として説明されている
など、これまでに出版された創価学会に関する本にはなかった情報もある。

 多額の金銭負担についても言及されており、島田氏は「私の知り合いには、一家で数千
万円を創価学会に出したという人間がいる」と述べている。

 別の個所では、過度な熱狂から多額の金を出すのは「ポトラッチ」――北米先住民が力
を誇示するために行っていた私財の蕩尽――だとも指摘している。宗教学者らしい卓見で
ある(かなり辛辣だとも思う)。

 本書の主要なテーマである、創価学会の2世信者が直面する困難についても、学ぶとこ
ろがあった。

 創価学会は簡単にはやめられない組織だと言われる。2世ならば、なおさらそうである。
 本書ではその理由の一つとして、創価学会が各信者の住所・氏名等の個人情報を把握す
るために設けている「統監カード」を挙げている。

 2世信者が創価学会と縁を切りたいと思い、新たな住所を報告せずに引っ越したりして
も、親が熱心な学会員であった場合、自分の子も信仰を続けることを望み、引っ越し先を
創価学会に届け出るので「統監カード」にもそれが記載され、その結果、新しい住居にも
現地の学会員がすぐ家庭訪問してくるのだという。

 島田氏は「なんとしても創価学会をやめたいのであれば、家族との縁を切るしかない。
そういうことは十分に起こり得る」とまで述べている。

 また、学会員が非学会員と結婚しようとした場合に生じる困難についても述べられてい
る。本書には、創価学会2世の男性と、顕正会2世の女性がつき合い、同棲までしたものの、
双方の親が信仰のことで衝突し、別れることになった事例が紹介されている。


 興味深い内容が多く記されているとはいえ、先に述べたように、私としては同意できな
い箇所も本書には複数ある。

 特に看過できないのは、池田大作に関する記述である。島田氏は池田の印税収入につい
て、過去のインタビューを参照して、次のように述べている。


>  ところが、池田氏本人は、月刊誌『現代』(講談社)の一九八〇年四月号に掲載さ
> れたジャーナリストの内藤国夫氏によるインタビューのなかで、「聖教新聞社からの
> 出版物の印税は、いっさいいただいておりません。それ以外の出版社の場合、いちお
> ういただきますが、税金を払った残りは大学や学園に寄付しております」と語ってい
> た。『人間革命』や『新・人間革命』は聖教新聞社から出版されている。
>  内藤氏はすでに故人だが、創価学会に批判的なジャーナリストで、創価学会批判の
> 本を何冊も刊行していた。その内藤氏が、創価学会の資産形成に池田氏の印税が大き
> く寄与していることを前提に話を聞いている。その点からすると、池田氏の語ってい
> ることは事実と考えていいだろう。


 内藤氏は『現代』1980年7月号で、このインタビューの反響について記事を書き、清貧
の指導者を演じて見せた池田の受け答えについて、「ウソ八百もいいところ」との内部情
報が寄せられ、池田の「美術品そのほかの創価学会財産の私物化は目に余るものがあるそ
うな」と述べている(「清貧の人? 池田大作」参照)。

 島田氏がそれを知らなかったとは考えられない。
 そもそも、島田氏は前著『「人間革命」の読み方』で、『人間革命』の本当の執筆者は
篠原善太郎氏だったことを指摘している。内藤氏からのインタビューで池田が語った印税
の寄付が事実だったとしても、人のフンドシで相撲を取ったというだけのことである。

 先の引用に続く箇所には「一時期は、池田氏のスキャンダルが頻繁に報道された。ただ、
そのなかに、池田氏が豪遊しているといった類のものはなかった」とあるが、これも事実
に反する(「池田大作のぜいたく」参照)。

 創価学会は、相当に問題のある団体である。はっきり言って、カルト以外の何ものでも
ない。その創価学会について、客観的な内容の本を書こうとすれば、批判的になるのは当
然である。

 本全体が批判的な記述ばかりにならないようにするためには、不自然な形での擁護を挿
入せざるを得なかったのだろう。

 ただ、だからと言って、島田氏が創価学会に完全に取り込まれているとまでは言えない
と思う(池田大作に関する記述は、相当に配慮されているが)。

 島田氏が、一方的な批判には組しない姿勢を取り続けたからこそ、幹部を含めた多数の
学会員からの取材が可能だったのだろうし、その結果として、一般人には知り難い内部情
報が含まれた本の執筆が可能になったことも、事実であろうからだ。

 『親が創価学会』は、異議を申し立てたい箇所もあるとはいえ、創価学会の実態を理解
する上で、少なからず有益な本だと評価したい。

 ※ 『親が創価学会』(イースト新書)は、2019年4月15日付で発行された(実際の発
   売日は4月10日)。

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2019年4月7日日曜日

創価学会員のルサンチマン

  ルサンチマン【(フランス)ressentiment】
   強者に対する弱者の憎悪や復讐 (ふくしゅう) 衝動などの感情が内攻的に屈折して
  いる状態。ニーチェやシェーラーによって用いられた語。怨恨 (えんこん) 。遺恨。
                             出典:デジタル大辞泉


 ニーチェはキリスト教を批判した哲学者として知られる。彼がキリスト教を非難した理
由は、その信仰がルサンチマンに基づいているからであった。

 ニーチェは、著書『道徳の系譜』において、自己を肯定し、誇り高く、気高くあろうと
する道徳を「貴族道徳」とよび、反対に自分より優れた他者を妬み、否定することによる
道徳を「奴隷道徳」とよんだ。


>  ――道徳における奴隷一揆は、ルサンチマン(怨恨 Ressentiment)そのものが創造
> 的となり、価値を生みだすようになったときにはじめて起こる。すなわちこれは、真
> の反応つまり行為による反応が拒まれているために、もっぱら想像上の復讐によって
> だけその埋め合わせをつけるような者どものルサンチマンである。すべての貴族道徳
> は自己自身にたいする勝ち誇れる肯定から生まれでるのに反し、奴隷道徳は初めから
> して<外のもの>・<他のもの>・<自己ならぬもの>にたいし否と言う。つまりこの否定
> こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転――自己自身に立
> ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向――こそが、まさにルサンチマン特
> 有のものである。すなわち奴隷道徳は、それが成り立つためには、いつもまず一つの
> 対立的な外界を必要とする。
 (信太正三訳『善悪の彼岸 道徳の系譜』)


 ニーチェは同書で、キリスト教徒のルサンチマンの表れ、すなわち迫害を加えた者たち
への「想像上の復讐」の例として、2世紀末から3世にかけて活躍した神学者・テルトゥリ
アヌスの言葉を引いている。


> 「信仰は、まこと、われわれに、はるかに多くのものを与えてくれる」――と彼は言
> う――「はるかにもっと力づよいものを与えてくれる。救済のおかげで、本当にまっ
> たく別な悦びがわれわれの思いどおりになる。
 (中略)
> ・・・が、キリストの再臨の日、その勝利の日となれば、われわれを待ちうけている
> のは何であるか!」――またさらに彼は、この狂喜した幻想家はつづける。「だがじ
> つにその日にはなお別の光景が見られる。最後の、そして永遠の審判のその日、異教
> の民が期待もしないで、笑いものにするその日には、いとも長く古い時代と、かくも
> 多くのその所産とが、もろともにみな同じ一つの炎に焼きつくされるのである。その
> ときの光景たるや何と壮大なことであろう! どう讃歎すべきか! どう笑うべきか!
> どのように喜ぶべきか! どこでどう躍るべきか! 天国に迎えられたといわれるあ
> れほど多くの高名な王たちが、ユピテルや、また彼らをその目で見た証人たちと一緒
> に、暗黒の下界に呻き苦しむのを見るとき! 同じくまた、主の御名を滅ぼした総督
> (地方代官)たちが、彼らがキリスト教徒を焚殺した凌辱の火炎にもまさる荒れ狂う
> 猛火のなかに燃え熔けてゆくのを見るとき!
 (中略)
> 大法官にせよ、執政官にせよ、検察官にせよ、司祭にせよ、彼らがどんなに寛仁であ
> ろうとも、これほどの見世物を観せ、これほどまで心躍らしてくれる者などいるであ
> ろうか? しかしすくなくともわれわれは、信仰によってこの光景を多少なりとすで
> に心に思い描いてみることができる。


 上記をお読みになって、どう感じるかは人それぞれであろうが、常日頃はキリスト教は
外道と考え、見下している創価学会員の中にも、古代のキリスト教徒が夢想した最後の審
判の光景には、共感を覚えた方もいらっしゃるのではないだろうか。

 今回、私が長々とニーチェによるキリスト教批判を引用したのは、創価学会もまたルサ
ンチマンに基づいた宗教だからである。

 折伏を受けた経験のある方はよくご存じのはずだが、創価学会員とは他の宗教をすべて
否定し、「そんなものを信じる奴らは地獄に堕ちる」などと、平気で口にする連中である。

 創価学会は、戦後、日本がまだ貧しかった時代、新規に都市部に流入した教育のない階
層を取り込むことで急拡大した。

 資産も学歴もなく、貧しさや病気などの悩みを抱え、持てる者を羨望していた彼らにと
って、「唯一の正しい信仰」を自称し、恵まれた人々が信仰する伝統宗教をすべて否定す
る創価学会は魅力的に映ったのだろう。

 そのような学会員たちの代表こそが、池田大作だった。彼は東京都大田区の生まれで、
新規に都市住民となったわけではないが、貧しい海苔業者の家庭に育ち、満足な教育を受
けられず、結核に苦しんでいた。

 そして池田は、持てる者への羨望と怨嗟とが入り混じった言葉を吐き続け、それによっ
て学会員たちの心をつかんできた。以下に池田語録を示す(すべて山田直樹著『創価学会
とは何か』による)。


 「今の政治家は、やれ勲章を貰うとか、金をとるとか、また有名人は利己主義になって
 自分の名だけ売って、金儲けをするとか、めちゃくちゃな世界であります。私ども創価
 学会員は、位もいらない、有名でなくともよい、大臣もいらない、また権力もいらない」
 (六三年八月三日付聖教新聞)

 「天下を取ろう。それまでがんばろう。今まで諸君を困らせたり、学会をなめ、いじめ
 てきた連中に挑戦して、最後に天下を取って、今までよくも私をいじめたか、弱い者を
 いじめたか、ということを天下に宣言しようではないか。それまで戦おう」
 (六九年『前身』〈幹部用テキスト〉四月号)

 「師である私が迫害を受けている。仇を討て。言われたら言い返す。打ち返す。切り返
 す。叫ばなければ負けである。戸田先生も、牧口先生の仇をとると立ち上がった。私も
 戸田先生の仇を取るために立った。私の仇を討つのは、創価同窓の諸君だ」
 (九六年十一月三日「創価同窓の集い」にて)


 矛盾している言葉もあるようだが、学会員にとっては、自分たち以外のものが権力を振
るって弱い者をいじめるのは悪だが、自分たちが権力を持った場合、何をやってもかまわ
ないのである。歪んだ選民思想のなせる業である。

 創価学会員の選民意識は、彼らが抱えていたルサンチマンの裏返しだった。
 しかし、高度経済成長の恩恵は創価学会員にもおよび、現在の2世3世の信者の中には、
貧しさのために虐げられているといった感覚を持っていない者も、多いはずである。

 それどころか、ルサンチマンむき出しの池田センセイのご指導に、違和感や嫌悪を感じ
る方もいるかもしれない。

 また、社会に出て活躍し、会社等の所属する組織の中に自分の居場所を見つけて、創価
学会の信仰をアイデンティティーの拠り所としては、必要としなくなった者もいるだろう。

 狂信的な親との確執という、新たな苦悩に直面している方も少なくないことだろうが、
何とか乗り越えてカルトによるマインドコントロールから解放され、精神の自由を取り戻
してほしいと思う。

 ニーチェによるキリスト教批判は、真実をついている部分もあるにせよ、一面的に過ぎ
るとの反論もある。

 だが、池田大作が指導してきた創価学会は、彼らが「敵」と見なした人びとに口汚い誹
謗中傷を加え続け、それのみならず「仏敵撲滅唱題」と称する呪詛の儀式まで行ってきた
ことからも明らかなように、キリスト教以上に強烈なルサンチマンによって突き動かされ
て来た。

 他者への憎悪を基盤とする宗教・創価学会が権力を持つ社会が、真に平和で安寧なもの
となるわけがない。

 覚醒した2世3世が組織から去り、創価学会が衰退することは、社会への貢献でもある。
 大乗仏教の菩薩とは、「他者を救うことで自らも救済される存在」である。創価学会か
らの脱会は、真に菩薩行と呼ばれるにふさわしい善行と言えるだろう。

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2019年3月31日日曜日

反社会的な教義


 創価学会は数百万人の信者を擁する巨大教団であり、学会員の人間性も多種多様なはず
である。社会に出て学会員でない人たちとも協力しながら仕事で成果を上げ、それなりの
社会的地位を築いている人もいることだろう。

 地位を利用して折伏等の迷惑行為を行う者も中にはいるだろうが、分別をわきまえ、勤
務先や地域では、他人に迷惑をかけるようなことはしない学会員も、現在では多いはずで
ある。

 しかしながら、創価学会員の中には依然として非常識な者が少なからずいる。
 学会員に対して、「できることなら関わりになりたくない人たち」という印象を抱いて
いる人は少なくないのである。

 戸別訪問や集団替え玉投票などの悪質な選挙違反や、日蓮正宗との泥沼の抗争をひき起
こし、折伏や投票依頼などの迷惑行為を今なお組織ぐるみで推進している創価学会のイメ
ージが悪いのは当然のことではあるが。

 学会員に他人に迷惑をかける者が多いのには、創価学会の教義が影響していると考えら
れる。

 創価学会で「信心の教科書」とされている『人間革命』には、第2代会長・戸田城聖が
詐欺罪で有罪になった学会員に対し、以下のような指導を行ったと記されている。


>  世間法、国法、仏法を三法律というのだが、世間法より国法が強く、国法より仏法
> が強いのです。だからといって、信心していれば国法を犯しても構わぬということは
> 絶対にない。国法を犯せば国法によって裁かれるのは当然である。
 (『人間革命』第七巻)

 ※ 何度も述べてきたが、創価学会のいう「仏法」とは、創価学会の教えだけをいい、
  日本の伝統宗派や、東南アジアの上座部仏教などは「邪教」とされている。


 仏法=創価学会は、国法(法律)や世間法(道徳・常識)に優先するというのが、彼ら
の考え方である。

 戸田城聖は「信心していれば国法を犯しても構わぬということは絶対にない」と言った
ことになっているが、実際の彼の行動はどうだったのだろうか。

 前述のように、学会員が選挙違反を頻繁に行ってきたことはよく知られている。
 昭和31年(1956年)の参議院選挙に、柏原ヤスをはじめとする学会幹部が立候補した
が、この際も戸別訪問等の選挙違反で多数の学会員が逮捕された。

 強引な折伏や選挙違反などの、創価学会員の問題行動を新聞記者に質された際、戸田は
以下のように回答している。


>  いずれにせよ強引に信者をふやして選挙運動に利用しようとしたのではないか。
> 戸田氏 (強引な折伏は)選挙とは全く関係がない。単なる個人的な問題だ。選挙と
> いえば、戸別訪問などで選挙違反に問われた会員がかなりあるが、私は全然違反とは
> 思っていない。信者の知人、親類に頼むのは当り前じゃないか。それだって私が指令
> したのではなく信者が熱心の余りやっているのだ。選挙違反の形式犯はいわば立小便
> などの軽犯罪みたいなものだ。捕まえる方がおかしい。
 (『朝日新聞』昭和31年7月11日付)


 選挙違反で多数の逮捕者を出し、全国紙で何度も大きく報じられたというのに、責任者
の戸田は、言うに事を欠いて「捕まえる方がおかしい」とのたまったのだ。

 法令や社会秩序を軽視する正体を現した妄言である。
 戸田の後を継いだ池田大作は、選挙違反で逮捕された学会員に対し「法難賞」を与えた
という。こういう困ったところは、確かに「師弟不二」である。

 現代社会において、宗教には「よき規範」としての役割が求められている。
 しかし、創価学会は「よき規範」などではあり得ない。彼らの実態は、法律や常識とい
った規範を軽視する反社会的カルトでしかないのだ。


補足1

 冒頭の画像は5chで見つけた拾い物。規範を軽視する創価学会の体質を、的確に表現して
いると思う。


補足2 外米獲得文化運動

 昭和31年(1956年)の参院選挙に、創価学会は6人の幹部を立候補させ、うち3人が当選
した(公明党はまだ結成されていなかった)。

 この頃はまだ「F取り」という呼び方はなかったようである。選挙違反容疑で、創価学
会が家宅捜索を受けたことを報じる新聞記事には、以下のように書かれている。

>  同学会では信者以外の支持者を「外米」とよび、外米獲得文化運動と称して信者
> (「内地米」とよぶ)に二十票から三十票ずつの票集めをさせている疑いもあると
> いう。
 (『朝日新聞』昭和31年6月30日付)

 言葉は違えど、やっていることは現在も60年前から変わっていないようである。

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2019年3月24日日曜日

創価学会員の選民思想

 私はこれまでの人生で、何回か創価学会員から折伏を受けたことがある。
 その際に学会員が見せた態度は、こちらがたじろぐ程に尊大で自信に満ちたものだった。

 創価学会員と関わりを持ち、このような印象を受けたのは、私だけではないはずである。
日本の新興宗教について調査研究を行った米国の宗教学者も、以下のように述べている。


>  創価学会を研究する際、公平な態度でのぞむことは非常に困難である。というのは、
> 調査しているさいちゅうに、見たり、聞いたり、読んだりするもの、とりわけ、創価
> 学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害されるから
> である。どうも彼らにはPRの才がないらしい。訪問客をもてなす時でさえ、彼らは
> 信じ切った態度を露骨に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう。ほ
> かならぬこの理由のために、かくも多くの観察者(日本人も外国人も)が、創価学会
> は陰険な運動だと報告しているのもうなずけるのである。
 (H・N・マックファーランド著 内藤豊・杉本武之訳『神々のラッシュアワー』)

 ※ 著者はサザン・メソジスト大学の教授で、牧師でもあった。本書は、日本での二度
  の調査研究(1956~1957年、1963~1964年)に基づいて執筆され、原著は1967年、
  邦訳は昭和44年(1969年)に出版されている。


 著者はキリスト教徒だが、この本は全体として真摯な学問的姿勢に基づいて執筆されて
おり、創価学会への批判は偏見によるものではないと思われる。本書では天理教や、立正
佼成会なども取り上げられているが、他の教団に対しては、上記のような手厳しい見解は
示されてはいない。

 マックファーランド教授は「訪問客をもてなす時でさえ、彼らは信じ切った態度を露骨
に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう」と述べているが、学会員の態
度が「軽蔑しているように見えしまう」のは、彼らが事実、学会員以外の者を軽蔑し、見
下しているからである。

 戸田城聖は「キリスト教でもせいぜい天界まではいけるでしょう。今のアメリカは栄え
ているようであるが、あれは天界の栄えにすぎない」(『人間革命』第七巻)と説いた。

 当時、調査のために創価学会を訪問したマックファーランド教授に応対した学会員も、
天界の境涯にある米国人のキリスト教徒よりも、「地涌の菩薩」である自分の方が格上な
のだと考え、それが態度にも表れたのだろう。


 現代社会では、学問の細分化と技術への応用が進み、経済も国際化し、金融は複雑なも
のとなっている。量子力学の応用である半導体技術や、相対性理論が応用されたGPSを
誰もが日常的に用い、地球の裏側の国で起こった政変が物価にも影響するのである。

 それらすべてを理解し、何が起こっているかを説明できる者、正しい選択はどれかを示
せる者がどれだけいるだろうか。一個人ではとても理解し切れない程の情報があふれ、し
かもそれらが一人ひとりの生活に密接に関わってくる現代社会において、「何が正しいか
を知っている」という確信を持つことは、極めて困難なことなのだ。

 初めて本格的な折伏を受けた際、私は相手の学会員の自信に満ちた態度に気圧されるよ
うな思いを抱いた。これほどの確信を持つ背景には、相当の知的蓄積があるのではないか
との印象を受けたのである。

 今考えると、外部の世界にあふれる圧倒的な情報量に対する自分の知的貧弱さからくる
不安を、相手に投影してしまっただけだったのであるが。

 その時は、相手の学会員がやたらと「科学的根拠」というのを聞いて、「この人は自然
科学全般への幅広い知識と理解があり、それが自信につながっているのではないか」と思
ってしまった。

 だが、しばらく話してみて、その学会員は自然科学についての理解などほぼ皆無で、そ
れどころか、法華経に何が書いてあるかさえ知らないことが分かった。
 これは、私が対面した一学会員だけについてだけ当てはまることではない。

 創価学会員という連中は、総じて驚くほど知識がないにも関わらず、「自分たちは、他
の人間と違って、何が正しいかを知っている選ばれた存在である」という夜郎自大な自信
を抱いている。

 前回も述べたが、創価学会員は「他の宗教には科学的根拠がない」という理由で否定す
る一方で、彼らの信仰にも科学的根拠がないことを問題視していない。そもそも、そのよ
うな疑問を持たないようにマインドコントロールされている。

 多くの創価学会員にとって、信仰およびアイデンティティーの核心となっているのは、
「創価学会は絶対に正しい。その信仰を持つ自分も絶対に正しく、ただそれだけで学会員
でない者よりも優れた存在である」という思い込みである。

 この妄念を支えているものとして、以下の要素が考えられる。

  ・日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在に祭り上げ、その教えを正統に継承して
  いるのは、創価学会だけだとし、学会員は教えを広める使命を持った「地涌の菩薩」
  だとされていること。

  ・信仰の指導者である池田大作が、世界中から顕彰を受け、称賛される偉人だとされ
  ていること(聖教新聞等の創価学会の出版物の中だけではあるが)。

  ・他の学会員も上記の思い込みを共有し、相互に補強し合っていること。

  ・これらを否定する情報(週刊誌や批判本など)は、すべて創価学会や池田大作の偉
  大さに嫉妬した者たちによるデマだと思い込まされていること。

  ・本当に正しいと言えるのかを検証しようとする知性の欠如(疑うとバチがあり、今
  まで積んできた功徳も消えるという恐怖心を植え付けられていること)。

 「創価学会は絶対に正しい」という思い込みには根拠などない。根拠がないことを「正
しい」とすることは、「智者に我が義やぶられずば用ひじ」(『開目抄』)という、日蓮
の教えに違背している。

 また、それを支える一連のマインドコントロールも、日蓮本仏論のように根拠がないか、
金の力で実現した池田大作の勲章あさりのように価値がないかのいずれかである。

 学会員が強引な折伏をするのは、自分と異なる信仰や思想を持つ者を屈服させることで、
自らの信念が正しいという実感を得ようとしているのだろう。

 信仰の内容が空疎だから、他人をねじ伏せたり、学会活動に没頭することで同じ妄念を
共有する者がいることを確認したりしなければ、自信を保てないのである。


 本来ならば自由にできる時間を公明党の選挙運動などの学会活動に費やし、投票という
政治的な選択の自由を奪われ、本部職員という貴族的な特権階級の高給を支えるために財
務やマイ聖教等で少なからぬ金銭を供出し、精神の自由まで奪われる対価として、「自分
たちは地涌の菩薩で、そうでない者より高い境涯にあり、救いが約束されている」という
妄想の世界に浸り続けている、それが創価学会員という連中なのだ。

 このバカげた選民思想に魅力を感じる人は、創価学会員であり続けるのもいいかもしれ
ない。

 しかしそれは、少しでも知性を持つ者にとって、耐えがたいことのはずである。
 当ブログでも示してきたように、創価学会の教義や、学会員たちがそれを疑わないよう
に行われているマインドコントロールがおかしいことは、彼らが神聖視してきた日蓮遺文
や法華経を読めば分かることだ。

 いや、古文や漢文の書き下し文をわざわざ読まなくても、常識的な判断力があれば、創
価学会がおかしなカルトであることは明白である。

 女子高生を妊娠させたり、レイプ事件を起こしたり、広宣流布を口実に集めた金を自分
個人のぜいたくのために使ったりしてきた池田大作を、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っ
ている創価学会が、まともな宗教のわけがないのだ。

 信教は自由だが、創価学会の信仰とその実践は、良識とは相容れない。
 現在の創価学会は上辺のイメージだけは取り繕おうとしているが、そんなことをしても
馬脚は隠せない。現に、冒頭で引用した50年前の批判が、今なお妥当なのだ。

 学会員が社会の各層に浸透し、公明党が与党になっているとはいえ、インターネットが
当たり前になった現代社会で、完全な情報統制など不可能である。

 創価学会のありのままの実態、事実を知られることが、彼らにとっての弱点であり、情
報の拡散を防ぐことができない以上、創価学会の衰退を止めることはもう不可能だろう。

 そして、それは社会の健全化に資することでもあるのだ。

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2019年3月17日日曜日

折伏(しゃくぶく)について

 現在の日本では、宗教とはあまり関わりのない持たない人生を送っている方が大勢を占
めるが、そういった人でもいずれかの伝統宗派の檀信徒であり、葬儀は仏式で行うことが
多い。

 創価学会は、そのような在り方を「葬式仏教であり、生きた信仰ではない」と否定し、
現在もなお折伏と称してはた迷惑な勧誘を行い、「自分たちだけが正しい信仰だ」と主張
し続けている。

 今回は学会員が折伏の際に、よく主張する内容について検証する。


1.「偶像崇拝は間違い」

 多くの伝統宗派で仏像が信仰の対象とされているが、創価学会は仏像ではなく、文字で
構成された曼荼羅――日蓮が法華経の世界観を図顕したもの――を本尊としている。

 学会員は折伏の際、「仏像を拝むのは偶像崇拝であり、本来の仏教ではない。創価学会
こそが正統な仏教だ」と主張することがある。

 確かに、釈尊は自らの像を信仰の対象にせよとは説かなかったし、そのため、原始仏教
では仏像を信仰の対象とはしなかった。

 だが、創価学会員が上記のような主張をするのは卑劣な欺瞞であり、以下に述べるよう
に三重の意味で矛盾している。

 まず第一に、前回みたように創価学会は「釈尊の教えは人々を救う力を失っている」と
主張しており、都合のいい時だけ原始仏教を援用するのはおかしい。

 第二に、創価学会の曼荼羅本尊は、確かに狭い意味での「偶像」には該当しないであろ
うが、彼らの教義では「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えると祈りとして叶わざるなし」
ということになってる。

 当然のことながら、このような呪物崇拝も本来の仏教とは関係ないものである(何度も
述べたが、彼らの本尊の根拠となっている法華経も、釈尊滅後、数百年後に創作された経
典である)。

 第三に、創価学会が「末法の御本仏」だという日蓮は、「法華経で開眼供養した仏像を
信仰の対象とすべき」と述べている(「佐前・佐後」参照)。

 学会員が「仏像を信仰の対象とするのは間違い」と主張することは、創価学会が日蓮の
教えを正統に受け継ぐ教団ではないことの証明なのだ。


2.「科学的根拠がないことは否定する」

 創価学会員が他の宗教を否定する時によく使うのが、この「科学的根拠」という言葉で
ある。

 確かにどの宗教であれ、神仏や来世など科学的に実証できない概念を信じることが、そ
の根幹になっている。

 こうした実証できない事柄をすべて退け、宗教とは無縁に生きるのも一つの在り方だと
いうことは、私も否定しない。

 問題なのは、創価学会の教義もまた、ほかの宗教と同様、あるいはそれ以上に非科学的
であり、学会員が「科学的な根拠がないことは否定する」と主張するのは、卑怯なダブル
スタンダードだということである。

 伝統的な宗教は、科学が発展する近代以前に発祥している。その教義に非科学的な部分
があったとしても、やむを得ない面もある。

 だが、創価学会は20世紀になってから作られた新興宗教である。それにもかかわらず、
池田大作がデッチ上げた、「護符」と称するただの紙切れを飲むことで病気が治るとぬか
す、インチキなマジナイを組織を挙げて行ってきた。

 いったい、どの面下げて「他の宗教は科学的根拠がない」などと批判できるのだろうか。
 護符を別にしても、御本尊と称するビニールシートに題目を唱えることで、どんな願い
でも叶うという、彼らの中心的な教義にも、何の科学的根拠もありはしない。

 学会員が安易に「科学的根拠」なる言葉を口にするのは、単に他の宗教を批判するのに
便利だからに過ぎず、彼らに論理的思考能力が欠如していることの現れなのである。


まとめ

 多くの人は他者を批判する際、その言葉が我が身にも当てはまりはしないかと、省みる
ものである。
 上述で明らかにしたとおり、創価学会員にはそうした点が驚くほど欠落している。

 だからこそ、創価学会の教義や実態を知る者が聞けば、「おまエラがそれを言うか」と
のけぞるようなことを平気で主張するのである。

 彼らが口にする一見まっとうな言葉こそが、連中がマインドコントロールによって論理
的思考や内省が出来なくなった、頭がおかしいカルト信者であることを示しているのだ。

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2019年3月10日日曜日

創価学会の二枚舌

 聖教新聞のテレビCMを見れば分かるように、近年の創価学会は対外イメージの改善に
大きく力を入れている。

 かつての聖教新聞には、他の宗教を邪教呼ばわりする記事が毎日のように掲載されてい
たが、最近ではそのような記事は見られなくなった。

 だが、こうした変化を「創価学会が穏健化し、宗教的寛容を身につけた」と受け止める
わけにはいかない。

 学会員から折伏を受けた経験がある方には同意いただけるはずだが、創価学会の排他的・
独善的な体質は、以前と何も変わってなどいない。彼らは上辺を飾ろうとしてるだけだ。

 現在の創価学会が、カルトとしての実態を隠蔽するために弄している美辞麗句の一端を、
まずご覧いただきたい。

 広く浸透している「創価学会は排他的で独善的な新興宗教」とのイメージを払拭するべ
く、『池田大作 名言100選』なる本が出版されている。

 この本は創価学会の外郭出版社ではなく中央公論新社から刊行されており、学会員のみ
ならず、一般層をも読者として想定していると考えられる。

 その内容も、いかにも良識的で、一般からの受けがよさそう、といった感じのご立派な
文言が並んでいる。一部を引用する。


> 信仰と知性

> いかなる宗教であれ、排他や独善に陥らず、その包括性や受容性を維持していくには、
> 良識ある知性の力こそが、必要なのである。
 (『池田大作 名言100選』116ページ)


> 宗教間対話

> 仏教徒である前に、人間である。イスラム教徒である前に、人間である。キリスト教
> 徒である前に、人間である。対話を通して、人間性という共通の大地に目を向け、友
> 情が生まれれば、そこから互いの長所も見えてくる。学び合おうとする心も生まれる
> のだ。
 (同、120ページ)


 著者である池田センセイの、高潔なお人柄がうかがえるご高説である。
 「自分たちが過去にやってきたことを棚に上げて、よくも抜け抜けと」という、憤りを
禁じえないのは私一人だけではあるまい。

 『池田大作 名言100選』にあるキレイゴトの数々は、創価学会の真の実態を覆い隠すた
めの方便に過ぎない。
 そして創価学会は、本音の部分では今でも他の宗教を否定し続けている。

 現在、創価学会が折伏のマニュアルとして用いている『仏法対話のすすめ』という書籍
がある(創価学会の外郭企業である第三文明社から刊行されている)。

 『仏法対話のすすめ』には、かつての『折伏教典』ほど過激な言葉は用いられてはいな
いものの、その内容は相当に排他的である。例えば、こんな具合である。


>  例えば、釈尊の教え残した仏教の中でも、最高峰である法華経も、現在では功徳が
> ありません。それは、釈尊自身が、自分の死後、二千年以後を「末法」の時代といっ
> て、私の正しい教えも功徳がなくなってしまう、と予言しており、現実もその通りに
> なっているからです。したがって、法華経以下の他の経典によっている仏教の諸宗派
> に、功徳がないのは当然でしょう。教えに人を救う力がないために、僧侶は葬式や法
> 事で生活をしているのです。
>  釈尊の教えが人々を救う力を失っている現在、生活のうえに生きている「力のある
> 宗教」は、日蓮大聖人の仏法しかありません。

 ※ 功徳とは「来世や現世で幸福をもたらす善行」のことだが、そこから転じて「信心
  によるご利益」の意味でも用いられる。創価学会では、後者の意味で使うことがほと
  んどである。


 釈尊を否定する創価学会に、「仏教」を名乗る資格があるのだろうか。
 法華経が最高峰の教典だという主張は天台教学に由来するが、日蓮が生きていた鎌倉時
代には天台教学には権威があったにせよ、現代の仏教学では、法華経は釈尊滅後、数百年
後に成立したとされている。創価学会は、このことをどう考えているのだろうか。

 それに法華経に「功徳がない」のなら、なぜ創価学会では、朝夕、法華経の方便品・如
来寿量品を読誦するのだろうか。法華経の正式名称である「妙法蓮華経」に南無を冠して
唱えるのだろうか。短い一節ではあるが、突っ込みどころ満載である。
 『仏法対話のすすめ』には、独善的な記述がまだある。


>  釈尊が予告した通りに、末法に出現したのが、日蓮大聖人であり、その教えの通り
> 実践している唯一の教団が創価学会なのです。ですから、釈尊から日蓮大聖人へ、
> 「仏」と「法」のバトンタッチがされており、現在では日蓮大聖人の仏法のみが、人
> びとを救う力がある「生きた宗教」だからです。
>  現実に、日本の仏教の各宗派は、「葬式仏教」と呼ばれているように、葬式や法事
> をするだけの存在になりさがっており、仏教の目的である人びとを救い、仏にする力
> など、まったく失っています。


 創価学会だけが人を救う力がある「唯一の教団」であり、伝統仏教の各宗派には「仏教
の目的である人びとを救い、仏にする力」など、まったくないのだという。これが独善で
なくて、何であろうか。

 『池田大作 名言100選』は、平成22年(2010年)に出版された。
 『仏法対話のすすめ』の初版は平成11年(1999年)だが、第2版が平成21年(2009年)に
刊行され版を重ねている(ちなみに私が入手したものは、2018年発行の第2版第9刷)。

 創価学会は一般向けに出した本には、さも物分かりがよさそうで寛容な印象を与える文
言を並べておきながら、それと同時期に内部向けに出版した勧誘のマニュアル本では、独
善性・排他性をむき出しにしているのだ。まさに二枚舌である。

 創立当時から変わることなく「排他や独善に」陥り続けてきた創価学会には、「良識あ
る知性の力」が根本的に欠落しているのだろう。

 創価学会・公明党がいかに美々しいイメージで外見を飾り、猫なで声で平和や人権を説
こうとも、決して信用してはならない。彼らの本質は、昔と変わらずカルトのままなのだ。


補足 「葬式仏教」についての私見

 「葬式仏教」と揶揄される伝統仏教のあり方の是非については、様々な意見があろうが、
近代以降の聖俗が分離した社会では、宗教の占める場所が小さくなったのはやむを得ない
ことであり、創価学会のように宗教が大きな役割を占める社会を目指すのは、前近代への
逆行に他ならない。「葬式仏教」の方が、創価学会よりもまだずっと健全だと私は思う。

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2019年3月3日日曜日

創価批判コピペ集‐⑬(「創価学会の迷惑行為」他)

◇◆◇ 創価学会の迷惑行為 ◇◆◇

創価学会員から、強引な入信勧誘や、しつこい投票依頼、聖教新聞の勧誘を受け、迷惑
した経験がある人は多い。しかも創価学会は、こうした迷惑行為を組織的に行っている。

創価学会は現世利益を極めて重視する宗教であり、学会員が他人の迷惑を顧りみること
なく、熱心に入信勧誘等を行う理由も、そうすることでご利益を得られると信じている
からである(創価学会では、ご利益の同義語として「福運」という言葉をよく使う)。

さらに彼らの教義では、「創価学会は唯一の正しい信仰であり、入信勧誘や公明党への
投票依頼は、正しい仏法を広める行為。だから自分だけでなく相手にも福運をもたらす」
「創価学会員は菩薩の境涯にあり、そうでない人よりも高い境地にある」とされている。

このような洗脳を受けているため、創価学会員は独善的で押しつけがましい態度を取る
ことが多く、自分たちがやっていることがただの迷惑行為だという自覚がない。「創価
学会は嫌がらせなどしない」という嘘八百も、彼らの「内面だけ」では真実なのである。



◇◆◇ 創価学会の「功徳の実証」◇◆◇

創価学会は現世利益をきわめて重視する宗教である。創価学会の信仰を続ければ「死ぬ
前の数年間が、人生で一番いい時期になる」と、池田大作名誉会長は何回も語ってきた。
では「永遠の師匠」とされる三代の会長の、「死ぬ前の数年間」はどうだっただろうか。

初代会長・牧口常三郎・・・学会員による強引な折伏の被害者が、警察に訴えたことが
きっかけとなり、昭和18年、治安維持法違反で逮捕され、その翌年栄養失調で獄死した。

第二代会長・戸田城聖・・・戸田は重症のアルコール中毒だった。昭和33年に肝硬変で
死去(享年58歳)。戸田が作らせた『折伏教典』では「アル中は餓鬼界」とされている。

第三代会長・池田大作・・・平成22年(2010年)5月以降、公の場に姿を見せなくなった。
創価学会は「お元気」と言い張っているが、実際は脳梗塞の後遺症で半身不随だという。

※ 日蓮は「道理証文よりも現証には過ぎず」と説いた。まさにその通りと言う他ない。



解説

 上述のとおり、創価学会員から折伏や公明党への投票依頼等をしつこくされ、迷惑して
いる人は多い。かと言って邪険にすると、連中は何をしてくるか分からない。本当に厄介
なカルト信者である。

 創価学会は「正しい仏法が広まろうとする時、必ずそれを妨げる魔の働きも起こる」と
いう教えで、信者をマインドコントロールしている。

 それだけではなく、「仏法は勝負だから、魔に打ち勝たねばならない」などという指導
までなされている。

 こちらが迷惑しているとそれとなく伝えても、意に介さずに迷惑行為を続けてくる学会
員が多いのもそのためである。

 連中は「魔に打ち勝てば福運がつくし、相手にも功徳を積ませることになる」などと、
本気で信じているのだから度し難い。

 単純に迷惑だからやめてほしいと言っているだけなのに、一方的に「魔の働き」などと
決めつけられては、たまったものではないが、心の奥底までカルトの教義が染みついてい
る学会員には何を言っても通じないことが多いので、連中とは可能な限り関わらないよう
にするくらいしか、現実的な対応策はないのかも知れない……。

 もちろん、創価学会に入会したり、公明党に投票したりすることで、確実に経済的成功
や健康長寿等の「功徳の実証」があるのならば、私とて学会員の要望に応じることにやぶ
さかでない。

 だが、学会員が大好きな「現証」に基づいて、永遠の師匠たる三代の会長の晩年を見る
限り、創価学会の信心には、功徳も福運もないとしか言いようがない。

 創価学会は誰の人生にも起こり得る様々な禍福を、適当な理由をつけて「仏罰」だとか
「功徳」だとかこじつけているだけだ。

 当ブログでもこれまで論じてきたが、創価学会がただのインチキ宗教に過ぎないことは、
彼らが出版してきた『人間革命』や『折伏教典』等を読めば、すぐにわかる。

 例えば『折伏教典』(初版)には、「アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者」は、餓鬼界だと
書かれている。アル中と拝金主義者とは、戸田城聖と池田大作のことではないのか。

 もし来世というものがあるならば、詐欺そのものの悪辣な金儲けをやってきた創価学会
の幹部たちは地獄行きが相応だろうが、信心の功徳で餓鬼界どまりで済むのかもしれない。
彼らにはもったいないくらいの救済であろう。

 『折伏教典』(初版 昭和26年11月20日発行)の一部。
  見てのとおり、たわ言の羅列である。本当に頭がおかしい。

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