2019年3月3日日曜日

創価批判コピペ集‐⑬(「創価学会の迷惑行為」他)

◇◆◇ 創価学会の迷惑行為 ◇◆◇

創価学会員から、強引な入信勧誘や、しつこい投票依頼、聖教新聞の勧誘を受け、迷惑
した経験がある人は多い。しかも創価学会は、こうした迷惑行為を組織的に行っている。

創価学会は現世利益を極めて重視する宗教であり、学会員が他人の迷惑を顧りみること
なく、熱心に入信勧誘等を行う理由も、そうすることでご利益を得られると信じている
からである(創価学会では、ご利益の同義語として「福運」という言葉をよく使う)。

さらに彼らの教義では、「創価学会は唯一の正しい信仰であり、入信勧誘や公明党への
投票依頼は、正しい仏法を広める行為。だから自分だけでなく相手にも福運をもたらす」
「創価学会員は菩薩の境涯にあり、そうでない人よりも高い境地にある」とされている。

このような洗脳を受けているため、創価学会員は独善的で押しつけがましい態度を取る
ことが多く、自分たちがやっていることがただの迷惑行為だという自覚がない。「創価
学会は嫌がらせなどしない」という嘘八百も、彼らの「内面だけ」では真実なのである。



◇◆◇ 創価学会の「功徳の実証」◇◆◇

創価学会は現世利益をきわめて重視する宗教である。創価学会の信仰を続ければ「死ぬ
前の数年間が、人生で一番いい時期になる」と、池田大作名誉会長は何回も語ってきた。
では「永遠の師匠」とされる三代の会長の、「死ぬ前の数年間」はどうだっただろうか。

初代会長・牧口常三郎・・・学会員による強引な折伏の被害者が、警察に訴えたことが
きっかけとなり、昭和18年、治安維持法違反で逮捕され、その翌年栄養失調で獄死した。

第二代会長・戸田城聖・・・戸田は重症のアルコール中毒だった。昭和33年に肝硬変で
死去(享年58歳)。戸田が作らせた『折伏教典』では「アル中は餓鬼界」とされている。

第三代会長・池田大作・・・平成22年(2010年)5月以降、公の場に姿を見せなくなった。
創価学会は「お元気」と言い張っているが、実際は脳梗塞の後遺症で半身不随だという。

※ 日蓮は「道理証文よりも現証には過ぎず」と説いた。まさにその通りと言う他ない。



解説

 上述のとおり、創価学会員から折伏や公明党への投票依頼等をしつこくされ、迷惑して
いる人は多い。かと言って邪険にすると、連中は何をしてくるか分からない。本当に厄介
なカルト信者である。

 創価学会は「正しい仏法が広まろうとする時、必ずそれを妨げる魔の働きも起こる」と
いう教えで、信者をマインドコントロールしている。

 それだけではなく、「仏法は勝負だから、魔に打ち勝たねばならない」などという指導
までなされている。

 こちらが迷惑しているとそれとなく伝えても、意に介さずに迷惑行為を続けてくる学会
員が多いのもそのためである。

 連中は「魔に打ち勝てば福運がつくし、相手にも功徳を積ませることになる」などと、
本気で信じているのだから度し難い。

 単純に迷惑だからやめてほしいと言っているだけなのに、一方的に「魔の働き」などと
決めつけられては、たまったものではないが、心の奥底までカルトの教義が染みついてい
る学会員には何を言っても通じないことが多いので、連中とは可能な限り関わらないよう
にするくらいしか、現実的な対応策はないのかも知れない……。

 もちろん、創価学会に入会したり、公明党に投票したりすることで、確実に経済的成功
や健康長寿等の「功徳の実証」があるのならば、私とて学会員の要望に応じることにやぶ
さかでない。

 だが、学会員が大好きな「現証」に基づいて、永遠の師匠たる三代の会長の晩年を見る
限り、創価学会の信心には、功徳も福運もないとしか言いようがない。

 創価学会は誰の人生にも起こり得る様々な禍福を、適当な理由をつけて「仏罰」だとか
「功徳」だとかこじつけているだけだ。

 当ブログでもこれまで論じてきたが、創価学会がただのインチキ宗教に過ぎないことは、
彼らが出版してきた『人間革命』や『折伏教典』等を読めば、すぐにわかる。

 例えば『折伏教典』(初版)には、「アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者」は、餓鬼界だと
書かれている。アル中と拝金主義者とは、戸田城聖と池田大作のことではないのか。

 もし来世というものがあるならば、詐欺そのものの悪辣な金儲けをやってきた創価学会
の幹部たちは地獄行きが相応だろうが、信心の功徳で餓鬼界どまりで済むのかもしれない。
彼らにはもったいないくらいの救済であろう。

 『折伏教典』(初版 昭和26年11月20日発行)の一部。
  見てのとおり、たわ言の羅列である。本当に頭がおかしい。

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2019年2月24日日曜日

「日蓮本仏論」について

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 創価学会や日蓮正宗の教義では、日蓮は末法の御本仏とされている。以前も述べたが、
本仏とは「あらゆる神仏の本体である根源の仏」と言うべき存在とされている(「池田本
仏論について①」参照)。

 「日蓮本仏論」の根拠は、日蓮本人が自身がそのような存在だと宣言したからだという
ことになっているが、日蓮の真蹟遺文中にはっきりと「オレが本仏だ」と主張しているも
のはない。あくまでも、創価学会や日蓮正宗がそのような解釈をしている、というだけで
ある。

 とは言え、日蓮が強烈な自負心の持ち主だったのも事実だ。
 『撰時抄』では「法華経の行者である自分に国を挙げて帰依しなければ、亡国の憂き目
にあう」とまで主張している(「日蓮と真言宗と池田大作」参照 )。

 他の遺文にも自らを「上行菩薩の垂迹」等と称しているものもある。


>  又仰せ下さるる状に云く極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると此の条難かむの次
> 第に覚え候、其の故は日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば久成如来の御使・
> 上行菩薩の垂迹・法華本門の行者・五五百歳の大導師にて御座候聖人を頸をはねらる
> べき由の申し状を書きて殺罪に申し行はれ候しが、いかが候けむ死罪を止て佐渡の島
> まで遠流せられ候しは良観上人の所行に候はずや
 (『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)


>  教主釈尊より大事なる行者を法華経の第五の巻を以て日蓮が頭を打ち十巻共に引き
> 散して散散に蹋たりし大禍は現当二世にのがれがたくこそ候はんずらめ
 (『下山御消息』〔真蹟断片 小湊誕生寺外、日法写本 岡宮光長寺〕より引用)

 ※ 日蓮の弟子の中には、日蓮に帰依したために主君等から胡乱な目で見られるように
  なり、自らの信仰上の立場を弁明する必要に迫られた者もいた。
   引用した遺文は、両方ともそうした弟子のために日蓮が代筆した手紙である。


 『頼基陳状』『下山御消息』は、どちらとも建治3年(1277年)に書かれてる。
 当時の日蓮は、文永の役(1274年)により『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」が
実現した形になり、意気軒昂としていた。また、自らこそが法華経の行者であるとの確信
も深めていたのであろう。

 創価学会は日蓮が「教主釈尊より大事なる行者」と自称したことを、日蓮本仏論の根拠
の一つとしているが、私はこの見解には同意できない。

 鎌倉時代の日本では、古来より信仰されてきた本邦の神々を仏や菩薩(本地)が応現し
た存在(垂迹)だとする「本地垂迹説」が信じられていた。

 また、神々のみならず聖徳太子や弘法大師などの傑出した人物も、仏や菩薩の垂迹とさ
れていた。

 仏や菩薩が姿を変えて現れると信じられていたことには、次のような背景があったのだ
という。


>  日本は釈迦の生まれた天竺からはるか東北にある、粟粒のごとき辺境の小島(粟散
> 辺土)にすぎない。――「大日本国は神国である」という有名な言葉で始まる『神皇
> 正統記』すら、他方ではこうした仏教的世界観を受け入れていたのである。
>  このように中世では、同時代の日本を末法の辺土とみる見方が一般化していた。そ
> こは救いから見放された悪人たちが充満する「五濁悪世」だった。これらの劣悪な衆
> 生を導くことは、慈悲深い本地仏では不可能だった。生々しい身体性を具え、激しい
> 賞罰を行使する垂迹こそがそれにふさわしい。――中世の本地垂迹の論理は、こうし
> た世界観を背景に生み出されたものだったのである。
 (佐藤弘夫著『偽書の精神史』より引用)


 本地である仏の方が、その垂迹よりも当然に格上ではあるが、五濁悪世の末法において
は、垂迹の方が人々を救済する存在としてふさわしいと信じられていたのである。

 日蓮は法華経の行者を自称し、「上行菩薩の垂迹」を自認するまでに自己評価を高めて
いたわけだが、「教主釈尊より大事なる行者」を称したのは、「自分の方が教主釈尊より
格上の本仏なのだ」と訴えたかったわけではないと思う。

 「自分は教主釈尊の使いだが、末法の衆生にとっては、その使いの方が救済者としてふ
さわしいのだ」と言いたかったのではないだろうか。つまり、あくまで教主釈尊の方が格
上との認識を、日蓮も持っていたと考えられる。

 それに日蓮の遺文には、彼の人間としての生々しい姿を描いたものもある。
 過剰なまでの自信家だった日蓮だが、いくらなんでも「自分こそが本仏だ」と思い込ん
でいたとは信じがたい。


>  この十余日はすでに食もほとをととどまりて候上、ゆきはかさなりかんはせめ候、
> 身のひゆる事石のごとし胸のつめたき事氷のごとし、しかるにこのさけはたたかにさ
> しわかして、かつかうをはたとくい切りて一度のみて候へば火を胸にたくがごとし、
> ゆに入るににたり、あせにあかあらいしづくに足をすすぐ
 (『上野殿母御前御返事』〔真蹟 富士大石寺〕より引用)


 この遺文は、最晩年の日蓮が身延から出した手紙である。
 日蓮が身延の冬の厳しい寒さをしのぐため、酒を温めて飲んでいたことがわかる。

 「末法無戒」が信条だった日蓮が酒を飲んでも不自然ではないのかもしれないが、これ
が「御本仏のふるまいだ」と言われても納得しかねるものがある。

 創価学会員の皆さんなら、以上の私の主張を読んでも「そんなものは不信心者の我見に
過ぎない。日蓮大聖人が、ご自身で本仏であると述べられているのだから、疑うべきでは
ない」とおっしゃるのかもしれない。

 繰返しになるが、私は日蓮が自ら本仏を自称したという解釈には同意できない。
 だが一歩譲って、日蓮がそう宣言したのだとしても、日蓮が本仏、すなわち「あらゆる
神仏の本体である根源の仏」だということになるだろうか。

 話は現代に飛ぶが、「唯一神」を自称して国政選挙に立候補、対立候補に対し「腹を切
って死ぬべき」とか「地獄の火に投げ込む」だとか罵倒する、奇天烈な選挙演説を行った
又吉イエス氏や、「エル・カンターレ」――至高の神を意味するらしい――を自称する
幸福の科学の大川隆法総裁についてご存知の方も多いであろうが、そう自称したからとい
って、彼らがそのような存在だということにはならないはずである。

 「日蓮大聖人が御本仏を自称したからそうなのだ」という主張は、日蓮を又吉イエスや
大川隆法と同程度の人物と見なすのと、変わらないのではないだろうか。

 これまで当ブログで論じてきたように、日蓮の主張は鎌倉時代には権威があった天台教
学に依拠していたし、唱題は易行でありながらも念仏と違って現世利益もあると説いたこ
とも、当時の人々のニーズに応える面があった。

 また、先祖伝来の宗教として、日蓮系伝統宗派の信仰を受け継いできた人々が、そうし
た信仰を続けたいと思うのは自然なことだし、尊重すべきだとも思う。

 しかしながら、日蓮の教えが唯一絶対の真理を開示したものだというのは無理があるし、
その主張のすべてを現代社会でそのまま実践しようとすれば問題が起こりかねない。

 創価学会は彼らが自称しているような、日蓮の教えを唯一正統に継承する教団だとはと
ても言えないが、独善的・排他的で現代では受け入れられ難い面は、しっかり受け継いで
いる。

 そして、独善性に由来する選民思想で学会員たちをマインドコントロールし、陶酔させ
ることで、金銭や労働力を供出しなければならないことに疑問を持たせないようする「ア
メ」と、「末法の御本仏」という至高の存在である日蓮大聖人の御遺命に反すると地獄に
堕ちるなどと脅す「ムチ」とで、搾取し続けている。

 日蓮本仏論を唱え始めた人々は、他の日蓮系の門流に対する自派の優位性を訴えるため
にそうしたのかもしれないが、宗祖に対する畏敬の念からという面もあったことだろう。

 だが現状を見る限り、今の日本において日蓮本仏論は、創価学会や顕正会のようなカル
トが、信者をマインドコントロールし搾取するためのツールになっているという、負の意
義しか有しないように見える。



お知らせ

 日蓮の思想に関する記事は、本稿をもって一区切りとします。
 来週は軽めの内容にする予定ですが、再来週からは「創価学会員とはいかなる人々か」
をテーマに論じたいと思います。

 私は学会員であったことはないので、創価学会の内情を実体験として知っているわけで
はありません。従って学会員・元学会員の方から見て、あまりにも一面的だとか、偏見だ
とか思われる内容になるかもしれません。

 ですが、そんな場合でも「自分たちの見方とは違うが、外部からはそう見えているのか」
と受け止めていただけばと思います。
 今後ともよろしくお願いします。

2019年2月17日日曜日

佐前・佐後

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 日蓮は文永8年(1271年)佐渡島に流罪となり、文永11年(1274年)に幕府から赦免
されるまで、その地に留まった。

 佐渡への配流は日蓮にとって、大きな転機となった。日蓮系宗教で教義上、特に重視さ
れている『開目抄』『観心本尊抄』は、佐渡島で執筆されている。

 また、現在も日蓮系宗教で本尊として用いられている法華経に基づいた曼荼羅――「十
界曼荼羅」「文字曼荼羅」等と呼称される――を、日蓮が図顕するようになったのも、佐
渡島でのことだった。

 日蓮自身、「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とを
ぼしめせ」(『三澤抄』日興写本 北山本門寺)と述べている。

 「爾前の経」とは、天台教学において法華経より前に釈尊が説いたとされる、方便の教
えが説かれた経典のことである。

 つまり、日蓮は「佐渡流罪以降に説いたことが、本当の自分の教えなのだ」と主張して
いるのである。

 こうしたことから、日蓮系宗派では佐渡以降の日蓮の著述を、それ以前のものよりも信
仰上、重要な意義があると認め、「佐前・佐後」という区分を設けている。創価学会であ
れ、日蓮宗であれ、この点は同じである。

 しかしながら、創価学会と日蓮宗とは、大きく教義が異なっている。
 仏像を信仰の対象として認めるか否かも、教義の違いの一つである。

 日蓮宗は仏像を曼荼羅本尊と同じく信仰の対象として認めるが、創価学会は彼らが用い
ている曼荼羅本尊だけが正しい信仰の対象だと主張し、仏像を礼拝することはない(仏像
を否定する教義は、日蓮正宗から受け継いだものである)。

 この信仰上の立場の違いが、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』と、創価学会
が刊行した『日蓮大聖人御書全集』の内容にも影響を与えている。

 日蓮遺文に『木絵二像開眼事』(真蹟 身延曾存)というものがある。日蓮はこの著述で
「仏像や仏画の開眼供養は法華経でなければならない」と主張している。一部を示す。


>  法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵二像の全体生身の仏な
> り、草木成仏といへるは是なり
 (中略)
>  法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り人の死
> するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命
> をうばふ


 この遺文では、日蓮は法華経で開眼供養した仏像・仏画について、それを信仰すること
を否定してはいない。問題はこの遺文が、日蓮の生涯のどの時期に書かれたかである。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』では、この遺文の書かれた時期を文永10年(1273年)として
いる。つまり、佐渡流罪中に書かれたということである。

 創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも、この遺文は『木絵二像開眼之事』として収録
されているが、執筆された時期は文永元年(1264年)ということになっている。

 『木絵二像開眼事』には日付が記されていない。だから、いつ書かれたかについて、見
解の相違があっても不自然ではないのかもしれない。 

 しかし、日蓮が「佐後」に仏像を信仰の対象として認める文章を書いていたとあっては、
創価学会にとって都合が悪いのも確かである……。

 仏像の開眼供養について言及した日蓮遺文は他にもある。建治2年(1276年)に弟子の
四条金吾へ書き送った手紙には、以下の記述がある。


>  されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗にかぎるべし。其の上一念三千
> の法門と申すは三種の世間よりをこれり。三種の世間と申すは一には衆生世間、二に
> は五陰世間、三には国土世間なり。前の二は且く之を置く、第三の国土世間と申すは
> 草木世間なり。草木世間と申すは五色のゑのぐは草木なり。画像これより起こる。木
> と申すは木像是より出来す。此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり。
 (中略)
>  此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ。優塡大王の木像と影顕王の木像と一分も
> たがうべからず。梵帝・日月・四天等必定して影の身に随ふが如く貴辺をばまぼらせ
> 給ふべし。
(『四条金吾釈迦仏供養事』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮は手紙には日付を記していたので、『四条金吾釈迦仏供養事』が建治2年(1276年)
つまり「佐後」に書かれたものであることは間違いない。

 創価学会の本尊に関する主張は、日蓮正宗から破門されて、その総本山大石寺に安置の
「一閻浮提総与の大御本尊」を礼拝できなくなってから、支離滅裂としか言いようがない
ほど混乱したものとなっているが、実は、日蓮正宗の本尊についての教義からして、日蓮
の教えに忠実だったとは言い難いのである。

 創価学会は「本尊の正邪をわきまえないと必ず不幸になる」(『折伏教典』)などと主
張し、謗法払いと称して入信者には仏像等、それまで信仰してきた本尊を捨てさせてきた。

 法華経は多くの伝統宗派で読誦される大乗仏教の重要教典である。創価学会が謗法払い
させてきた仏像の中にも、法華経により開眼供養されたものもあったのではないだろうか。

 その一方で創価学会は「御書根本」を掲げ、日蓮遺文に忠実な信仰を行っているのは自
分たちだけだとも誇ってきた。

 私はブログ執筆の題材とするために、少しばかり日蓮遺文を読んだだけだが、創価学会
に「御書根本」を自称する資格があるとは、とうてい思えない。

 創価学会によると「仏法に背くと仏罰があたる」そうである。「仏罰」なるものが本当
にあるものならば、それを受けるべきなのは、無体な謗法払いをやってきた学会員の方で
あろう。

2019年2月10日日曜日

日蓮遺文の真偽問題

 佐渡島に配流中の日蓮が、信者に向けて送ったとされる手紙に『弥源太殿御返事』とい
うものがある。

 この手紙で日蓮は、自らの出生地である安房の国に伊勢神宮の御厨――神社に寄進され
た荘園――があることを誇り、そこに生れたのは「第一の果報」と言っている。また、天
照大神は「此の国の一切衆生の慈父悲母なり」とも述べている(当該箇所は補足で引用)。

 この記述を読む限り、日蓮が神祇信仰を否定していたとは、とうてい思われない。
 だが、この遺文には日蓮の真蹟も古写本も現存していない。確実に日蓮が書いたとは、
断定できないのである(偽書だと断定されているわけでもない)。

 日蓮は、伝統宗派の祖師の中で最も多くの文書を残しているが、日蓮遺文とされてきた
古文書の中には、偽書であることが明らかになったもの、その疑いが強いものが多数含ま
れている。

 日蓮の遺文集の中で最も権威があるのは、日蓮宗が刊行した『昭和定本日蓮聖人遺文』
である(日蓮の真蹟遺文を最も多く保有しているのも、日蓮宗の中山法華経寺)。

 『昭和定本日蓮聖人遺文』では、正編に「真蹟現存するもの、真蹟現存せざるも真撰確
実なるもの、真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統的に重要視さるるもの」が、続編に
「真偽の問題の存するもの」が収められている。

 「真蹟現存せざるも真撰確実なるもの」とは、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、
明治8年(1875年)の大火で焼失したもの――「真蹟曾存」と呼ばれる――と、日蓮在世
中に直接その教えを受けた弟子(日興・日進・日目など)による古写本が現存しているも
のとをいう。

 続編に収められている「真偽の問題の存するもの」は、実際にはそのほとんどが偽書と
見られているそうである。

 真偽が議論になるのは、正編に含まれている「真偽確定せざるも宗義上・信仰上・伝統
的に重要視さるるもの」である。このカテゴリーに属する遺文の中には、現在では偽書の
疑いが強いとされている『三大秘法稟承事(三大秘法抄)』も含まれている。

 日蓮遺文の真偽について学術的な研究を行っている学者の中には、日蓮系宗派の僧侶も
兼ねている方も少なくないという。当然、その主張にはそれぞれの信仰上の立場が反映さ
れることになる。

 こうした問題を回避するために、真蹟遺文のみを参照して日蓮の思想を論じようとした
り、後世の写本しか現存しない遺文の中にも日蓮によるものが含まれている可能性がある
と考え、文体や語彙の厳密な分析を試みたりと、学者の中にも様々な立場があるという。

 私は宗教学にも文献学にも、まったくの素人にすぎない。だから学術的なことに関して
は、専門家の研究に敬意を表することくらいしかできない。

 しかし、信仰上のことについてなら、一個人として物申すことくらいは許されると思う。
 日蓮は他の祖師たちと同様に、信仰の対象となっている人物である。語り伝えられてき
たその事績は、多くの伝説で彩られている。

 そうした伝説はほとんどの場合、史実とは言い難い。また、日蓮系宗派の教義の中には、
日蓮の真蹟遺文に根拠があるとは言い難いものもある(日蓮正宗や創価学会が掲げる「日
蓮本仏論」は、その典型である)。

 ※ 日蓮正宗や創価学会が「日蓮本仏論」の根拠としてきた『百六箇抄』『本因妙抄』
  『産湯相承事』は偽書である。

 一個人の信仰として、あるいは信仰を共にする集団の内部でなら、史実の裏付けのない
こと、実際の宗祖の教えと異なることを信じるのも自由である(当然だが、「本当の宗祖
の教えは何か」を探求したり、信仰をやめたりするのも自由である)。

 例えば、カトリックの信者が聖人の加護を祈ったり、四国の霊場巡りをする人が、「同
行二人」――弘法大師空海が巡礼者に付き添ってくださるという信仰――を信じたりした
からと言って、それを批判するのはどうかと思う。

 「日蓮本仏論」だって、個人で信じるだけなら当人の勝手である。
 だが、個人での信仰の範囲を超え、他者の内面の自由にまで立ち入ってくるとなると、
話は別である。

 思想や信仰を異にする者をも納得させるには、客観的に検証しうる事実や学問的な裏付
けを提示することが必要である。

 しかるに創価学会は、何の根拠もない思い込みを「唯一絶対に正しい」と主張して、強
引な折伏を繰り返してきた(昨年11月18日の創立記念日に合わせて打ち出した方針でも、
今後とも折伏を重視するとしている)。

 創価学会が「末法の御本仏・日蓮大聖人が説き明かされた世界最高の仏法哲学」だと言
い張ってきた言説の中には、偽書に基づいているものもある。

 池田大作がしばしば引用してきた「色心不二なるを一極と云う」という言葉がある。こ
の文言の出典は『御義口伝』である。

 『御義口伝』は日蓮による法華経講義を弟子の日興が書き記したもの、ということにな
っているが、日興筆の原本も古い時代の写本も現存しない。それどころか、現代では偽書
と見なされている。

 また、日蓮真蹟に由来する言葉であっても、それだけで普遍的真理であることには、当
然ならない。日蓮もまた一人の人間であり、人間であるが故の不完全さや、彼が生きた時
代の制約を免れることはできないのだから(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。

 創価学会は、日蓮の思想を成立せしめた歴史的背景や当時の社会事情等の文脈をまった
く無視したり、あるいはご都合主義的な解釈を施したりし、それどころか本当に日蓮の教
えかどうかの検討さえも怠って、自分たちの根拠薄弱で矛盾だらけの教義を「御本仏大聖
人が開示した真理」だとか、「創価学会に入らないと地獄に堕ちる」だとか強弁し、他人
にゴリ押ししてきた。

 こうした姿勢は、根拠のある説明を欠いているという点で、彼らの折伏の標的とされた
人々に対して不誠実であるというだけでなく、日蓮の思想を真摯に探求しようという姿勢
を欠いているという意味では、日蓮に対しても不誠実である。

 ほとんどの創価学会員は、「唯一絶対に正しい自分」に陶酔しているだけで、他人の迷
惑に対する斟酌や、「本当に正しいと言い切れるのか」を突き詰めようとする知的誠実さ
が欠如した、どうしようもない連中なのだと言わざるを得ない。


補足 『弥源太殿御返事』からの引用(末尾部分)

>  其の上日蓮は日本国の中には安州のものなり。総じて彼の国は天照太神のすみそめ
> 給ひし国なりといへり。かしこにして日本国をさぐり出だし給ふ。あはの国御くりや
> なり。しかも此の国の一切衆生の慈父悲母なり。かかるいみじき国ならん。日蓮又彼
> の国に生まれたり、第一の果報なるなり。此の消息の詮にあらざれば委しくはかかず、
> 但おしはかり給ふべし。
>  能く能く諸天にいのり申すべし。信心にあかなくして所願を成就し給へ。女房にも
> よくよくかたらせ給へ。恐々謹言。

 ※ 本文で述べたとおり、この遺文には真蹟も古写本も現存しないが、信仰上重視され
  てきた。創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にも収録されている。
   また、真偽は定かではないものの、日蓮には比叡山や高野山等に遊学していた頃に、
  伊勢神宮に参拝したとの伝承もある。

2019年2月3日日曜日

日蓮と神祇信仰

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 創価学会員が信仰上の理由から神社に参拝しないことは、よく知られている(逆に脱会
した元学会員には、神社にお参りするようになる方が少なからずいるようである)。

 学会員が神社を避けるのは、「神天上の法門」という教義によっている。この教義は日
蓮の代表的著述である『立正安国論』が根拠となっている。


>  夫四経の文朗らかなり、万人誰か疑はん。而るに盲瞽の輩、迷惑の人、妄りに邪説
> を信じて正教を弁へず。故に天下世上諸仏衆経に於て、捨離の心を生じて擁護の志無
> し。仍って善神聖人国を捨て所を去る。是を以て悪鬼外道災を成し難を致すなり。
 (『立正安国論』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 「四経」とは金光明経・仁王経・薬師経・大集経の四つの経典のこと。この一節の
  直前に引用されている。


 日蓮は『立正安国論』において、人々が邪説――法然の念仏信仰――を信じて「正教」
である法華経をないがしろにしたために、善神が国を去り、「悪鬼外道災を成し難を致す
なり」と主張した。

 「神天上の法門」は元々は日蓮正宗の教義だが、創価学会は破門された現在も、これを
受け継いでいる。創価学会の教学書から「神天上の法門」についての説明を引く。


>  日蓮大聖人は主著「立正安国論」で、緒経典に基づいて「神天上の法門」を説き示
> されています。
>  国土を守護する善神は、正法の功徳を栄養として、威光・勢力を持ち国土を守護し
> ます。国土に誤った思想・宗教を根本とする風潮が広がって正法が失われてしまうと
> 善神たちは法味に飢えて、守護すべき国土を見捨てて天井に去ってしまい、そのあと
> に悪鬼・魔神が侵入して種々の災難が起こるという考えです。
 (創価学会教学部編『教学入門』より引用)


 創価学会員はこの教義に基づき、「神社は魔の棲み処」などと主張し、神社に参拝する
と魔の働きで災難が訪れると信じてきたのである。

 だが、『立正安国論』には「神社は魔の棲み処」とまでは書かかれてはいない。
 「神社に参拝するな」というのが、日蓮の教えだというのは、創価学会や日蓮正宗によ
る解釈でしかないのである。そしてこの解釈は、日蓮の真意に合致したものとは信じがた
い。

 文永8年(1271年)、日蓮は幕吏に捕らえられ、竜の口の刑場において斬首されそうに
なっている。

 その事件を記述した『種々御振舞御書』(真蹟 身延曾存)には、刑場にいたる途中、
日蓮が八幡宮の前で「八幡大菩薩はまことの神か」と呼びかけ、法華経の行者である自分
を守護するよう訴えた、との記述がある(当該箇所は補足で引用)。

 日蓮が「神社は魔の棲み処」と考えていたならば、神社の前で救いを訴えるはずがない
ことは、考えるまでもないことである。

 法華経の序品には、釈尊に説法を聞くために、仏教に護法神として取り入れられたイン
ドの神々も集まっていたと記述されている。日蓮はその場に、日本の神々もいたと考えて
いた。


>  此の御経を開き見まいらせ候へば明かなる鏡をもつて我が面を見るがごとし、日出
> でて草木の色を弁えるににたり、序分の無量義経を見まいらせ候へば「四十余年未だ
> 真実を顕わさず」と申す経文あり、法華経の第一の巻・方便品の始めに「世尊の法は
> 久しき後に要らず当に真実を説きたもうべし」と申す経文あり、第四の巻の宝塔品に
> は「妙法華経・皆是真実」と申す明文あり、第七の巻には「舌相梵天に至る」と申す
> 経文赫赫たり、(中略)此の語は私の言には有らず皆如来の金言なり・十方の諸仏の
> 御評定の御言なり、一切の菩薩・二乗・梵天・帝釈・今の天に懸りて明鏡のごとくに
> まします、日月も見給いき聞き給いき其の日月の御語も此の経にのせられて候、月氏・
> 漢土・日本国のふるき神たちも皆其の座につらなり給いし神神なり、天照太神・八幡
> 大菩薩・熊野・すずか等の日本国の神神もあらそひ給うべからず
 (『千日尼御前御返事』真蹟 佐渡妙宣寺)


 日蓮はこの遺文で、法華経の説法の場には「日本国のふるき神たちも皆其の座につらな
り給いし」と述べ、法華経が最も優れた経典であることについては、「日本国の神神もあ
らそひ給うべからず」としている。

 日蓮が日本の神祇も、法華経を守護する存在と考えていたことは明白である。
 だからこそ、彼が図顕した十界曼荼羅には、天照大神や八幡神も勧請されているのであ
る(創価学会の本尊も十界曼荼羅が基になっており、天照太神・八幡大菩薩の名も記され
ている)。

 法華経の法味に飢えて善神が去り、災いが起こるというならば、逆に法華経の法味を奉
ることで善神の加護を願うという考え方も、あってよさそうなものである。

 事実、日蓮宗の寺院には、境内に神社が併設されているところも少なくない。当然だが、
日蓮宗には神社への参拝を禁じる教義はない。

 私には、日蓮宗の方が創価学会よりも日蓮の思想に忠実なように思えるのだが……。
 また、日蓮正宗の古くからの檀信徒も、実際には神社への参拝を拒否する風潮はないそ
うである。

 創価学会が神社を敵視してきたのは、それが日蓮の教えだからというよりも、一部の学
会員が抱く、日本の伝統への強い敵意に基づいているのかもしれない。



補足 『種々御振舞御書』の記述

>  さては十二日の夜、武蔵守殿のあづかりにて、夜半に及び頸を切らんがために鎌倉
> をいでしに、わかみやこうぢにうち出で四方に兵のうちつつみてありしかども、日蓮
> 云はく、各々さわがせ給ふな、べちの事はなし、八幡大菩薩に最後に申すべき事あり
> とて、馬よりさしをりて高声に申すやう、いかに八幡大菩薩はまことの神か、和気清
> 丸が頸を刎ねられんとせし時は長一丈の月と顕はれさせ給ひ、伝教大師の法華経をか
> うぜさせ給ひし時はむらさきの袈裟を御布施にさづけさせ給ひき。今日蓮は日本第一
> の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を
> 謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国
> をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上釈迦仏、法華
> 経を説き給ひしかば、多宝仏・十方の諸仏・菩薩あつまりて、日と日と、月と月と、
> 星と星と、鏡と鏡とをならべたるがごとくなりし時、無量の諸天並びに天竺・漢土・
> 日本国等の善神聖人あつまりたりし時、各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓
> 状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮
> が申すまでもなし、いそぎいそぎこそ誓状の宿願をとげさせ給ふべきに、いかに此の
> 処にはをちあわせ給はぬぞとたかだかと申す。さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山
> 浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請用ひぬかみにて候ひけれ
> と、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ
> 御計らひあるべしとて又馬にのりぬ。

2019年1月27日日曜日

日蓮と良観房忍性

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 奈良時代に鑑真が渡来し、東大寺等に戒壇が設けられて以来、授戒を受けることが正式
な僧侶として認められることでもあったが、鎌倉時代になると授戒は形骸化し、戒律を守
らない僧侶も多くなった。

 日蓮のように「末法無戒」を唱え、その現状を是認する者もいたが、逆に危機意識を持
って戒律復興運動に取り組む僧侶も現れた。

 戒律復興運動において中心的な役割を果たした僧侶の一人は、西大寺を拠点とした叡尊
だった。その叡尊の高弟で後に関東に拠点を移し、日蓮と同時期に鎌倉で活躍したのが、
良観房忍性である。

 忍性は鎌倉幕府から極楽寺を与えられ、戒律の普及だけでなく慈善活動にも取り組み、
持戒の聖僧として、身分の上下を問わず多くの人々から敬われ、その教団は当時の鎌倉で
最大の勢力を持つに至った。

 「末法無戒」という戒律を否定する思想を持つ日蓮にとっては、これは受け入れ難いこ
とだった。

 忍性は密教僧でもあり、幕府に請われて祈祷を行うこともたびたびあった。日蓮はこれ
に目をつけ、文永8年(1271年)の干ばつに際し、忍性が請雨の祈祷を行った際、以下の
ような挑発を行ったという。


>  七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて
> 二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然
> なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と守敏
> と弘法となり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入
> 道は良観が弟子又念仏者なり、いまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、
> 七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば
> 一向に法華経になるべし
 (『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)


 日蓮は、「忍性の祈祷により七日の内に雨が降れば、日蓮はこれまでの非を認めて忍性
の弟子となり戒律を守る。しかし、雨が降らなければ忍性とその弟子たちが、一向に法華
経になるべし」と言ったのだという。

 果たして七日の祈祷の間に、雨は降らなかった。
 それを見て日蓮は次のように書き送ったという。


>  一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだにふらし給はず、況
> やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ、
> 後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道
> をしへ奉らむ
 (同上)


 祈祷の成否によりどちらの法門が正しいか勝負を決し、負けた方が弟子になるというの
は日蓮が勝手に言ったことであり、忍性がそんな約束に応じていたとは考えにくい。

 また、この件についての忍性側の記録は残っておらず、日蓮の書き残していることがど
こまで事実かも、今となっては確認のしようがない。

 伝説ではこの後、日蓮が法華経の読経により請雨の祈祷を行い、見事雨を降らせたこと
になっている。だが、日蓮自身はそんなことはどこにも書いておらず、この伝説は後世の
脚色と考えるべきだろう。

 この数カ月後、日蓮は幕府に捕らえられ、一度は斬首されそうになったものの、それを
免れ佐渡島に流罪になった(竜の口の法難)。

 日蓮は、斬首されそうになったことについて、雨乞いの失敗の件を恨んだ忍性の讒言に
よるものだと主張している。


>  然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまま
> に日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を
> 構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か
 (同上)


 創価学会をはじめとする日蓮系の教団では、日蓮の記述を真実とし、良観房忍性は慈善
家ぶった偽善者で、その実、日蓮の殺害を企てた悪人ということになっている。

 だが、日蓮による他宗の僧侶への批判には、事実とは認め難いものも多く、忍性に対す
る非難もそうした例の一つである可能性は小さくない。
 忍性の事績について、現代の仏教学者は以下のように述べている。


>  叡尊の弟子で良観房忍性は十三歳のとき肉食を断つことを誓ったほどで、戒律の研
> 究実践に熱心であったが、社会事業においては師にまさる成績をあげた。一二七四年
> の飢饉、一二八三年の疫病流行のときは弟子たちを動員して大活躍をした。非人の救
> 済、病院の経営、捨子の養育など活動範囲はきわめて広いが、その生涯の総決算とし
> て、寺院の造営八十三、橋をかけること百八十九、道をつくること七十一、井戸を掘
> ること三十三のほか、浴室(公衆浴場)・病室(病院)・非人宿などが数えられ、聖
> 徳太子の業績をしのんで四天王寺に悲田院・敬田院を設けた。一二八七年に建てられ
> た桑谷療病所では二十年間に全治者四万六千八百人、死亡者一万四百五十人で、八割
> までが助かっているが、当時としてこれだけの成績を上げるためには並々ならぬ苦心
> を要したことであろう。また奈良の西大寺にいた頃は、かつて光明皇后が癩患者を洗
> ったと伝えられる般若坂北山の癩病舎を復興して救済したが、手足が不自由で乞食に
> 出られない一人の病人を一日おきに背負って朝、街に連れて行き、夕方には病舎に運
> び、乞食で生活がなりたつようにしてやった。これが休みなしに数年間続いたという。
>  さらに特筆すべきことには、忍性は一二九八年には馬病舎を建てている。これも生
> 類に対する限りない慈愛にもとづくものである。
 (中略)
>  ところが、忍性が鎌倉極楽寺にいたころ、日蓮もやはりこの地にあって、前に記し
> たように建長寺の道隆を攻撃したのみではなく、忍性にも対決を迫ったが、二人とも
> 相手にしなかった。忍性が社会奉仕に身を捧げている事実を知りながら、これを公然
> と非難した日蓮には結局のところ本格的な仏教はわからなかったものであろう。日蓮
> がいわゆる四箇の格言の中で〈律国賊〉と言って罵ったのは他ならぬ世の人から〈医
> 王如来〉として慕われたこの忍性のことだったのである。
 (渡辺照宏著『日本の仏教』より引用)


 忍性のような人物が、いくら悪口を受けたからといって、それを恨んで人を死罪に追い
やろうとしたとは、私には思えない。

 上流の武士から最下層の貧民にいたるまで、多くの人から慕われていた忍性を悪しざま
に言い続けた日蓮に憤った有力者が、彼を厳罰に処すよう幕府に働きかけた結果として、
竜の口の法難にいたり、それを日蓮が忍性によって陥れられたと思い込んだというのが、
真相に近いのではないだろうか。

 日蓮が法華経を重視した理由には、それが二乗作仏や女人成仏を説いているということ
も含まれていた。つまり、誰しもが救われるという教えが説かれているからこそ、法華経
は貴いとしたのである。

 また、日蓮は「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振
舞にて候けるぞ」(『崇峻天皇御書』真蹟 身延曾存)とも述べている。

 鎌倉時代という、民衆をさいなむ災害や兵火が絶えなかった時代に、実際の「振舞」で
万人を救おうとしたのは、日蓮と忍性、どちらだっただろうか?

2019年1月20日日曜日

日蓮と律

※ 今回も日蓮遺文等(古文)の引用やや多め。

 日蓮は「律国賊」と主張し、宗派としての律宗だけでなく、本来、僧侶であれば遵守す
べきである戒律そのものまで敵視していた。


>  西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく
> 小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありし
> かば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。
 (『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


>  日本国は大乗に五宗あり法相・三論・華厳・真言・天台、小乗に三宗あり倶舎・成
> 実・律宗なり、真言・華厳・三論・法相は大乗よりいでたりといへども・くわしく論
> ずれば皆小乗なり、宗と申すは戒・定・慧の三学を備へたる物なり、其の中に定・慧
> はさてをきぬ、戒をもて大・小のばうじをうちわかつものなり、東寺の真言・法相・
> 三論・華厳等は戒壇なきゆへに東大寺に入りて小乗律宗の驢乳・臭糞の戒を持つ、戒
> を用つて論ぜば此等の宗は小乗の宗なるべし
 (『聖密房御書』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮は、大乗と小乗を分かつものは戒だと述べ、天台宗以外の宗派は戒律という点から
いえば小乗なのだと主張している。

 この考え方は、日本に天台宗を伝えた伝教大師最澄に由来する。
 僧侶になるとは、本来、戒律を遵守することを意味していた。そして、出家者が保つべ
き戒律は、250にも及んだ。

 最澄はこの二百五十戒を一方的に「小乗戒」と決めつけて、それを捨てることを宣言し、
さらに、「大乗戒」に基づいた新しい戒壇を比叡山に設けることの許しを朝廷に求めた。

 最澄が主張した「大乗戒」とは、梵網経に説かれている「十重四十八軽戒」というもの
で、戒律の数は58しかなく、それまでと較べると大幅な緩和である。

 「十重四十八軽戒」は本来、出家者ではなく、在家修行者向けの戒律だったようだが、
最澄は「日本は大乗仏教の国だから、戒律も小乗のものではなく、大乗のものを用いるべ
きだ」と主張したのである。

 最澄の訴えは、彼の死の直後に認められ、比叡山にも新たに戒壇が設置されることにな
った。こうして比叡山天台宗は、奈良の旧仏教勢力からの影響を排し、独自の発展を可能
にする地歩を固めたのである。

 最澄が「大乗戒」を主張した理由は、旧勢力と距離を置くことのほかに、実際、250も
の戒律を厳密に守ることが困難だったこともあるという。

 「大乗戒」による戒律の緩和は、その後の仏教の堕落を招いたという面もあるにせよ、
事実として鎌倉仏教の宗祖たちは、日蓮を含め皆、比叡山延暦寺で学んでおり、日本の仏
教のあり方を決定した、歴史上、重要な出来事であることについては異論は出ないだろう。

 日蓮は、鑑真が渡来したことを契機に設けられた三戒壇、即ち、奈良東大寺、大宰府の
観世音寺、下野国の薬師寺の戒壇は「小乗臭糞の戒」で「其れを持つ法師等は野干猿猴等
のごとし」と罵っているが、彼が天台宗の教義と正統性にそれだけ自信を持っていたこと
の表れなのだろう。

 それにしても「臭糞の戒」は言い過ぎではないか、と思われる向きもあるかと思うが、
これは法華七喩の一つ「長者窮子の譬え」に由来している(煩雑になるので補足で説明す
る)。

 日蓮が戒律を否定したもう一つの根拠は、最澄が撰述したとされてきた『末法燈明記』
に記された「末法無戒」という考え方である。

 『末法燈明記』は現代では偽書だと見做されているが、鎌倉時代においては、実際に最
澄が書いたものと信じられていた。日蓮もそう考えており、日蓮遺文の中には『末法燈明
記』の一節を最澄の言葉として引用しているものもある。一例を示す。


>  伝教大師の云く「二百五十戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の
> 弟子・如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師未来を誡めて云く「末
> 法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」云云。
 (『四信五品抄』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 最澄が「二百五十戒を捨てた」のは上述したように史実であるが、鑑真の弟子や七
  大寺までもが一同に捨てたというのは誇張である。
   しかしながら、250もの戒律の遵守を負担に感じる僧侶は、興福寺等の南都七大寺
  にも多かったようで、比叡山に大乗戒壇が設置された後は、南都の僧の中にも東大寺
  ではなく、比叡山での授戒を希望する者もいたという。


 「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ず可き」の
出典が『末法燈明記』である。

 日蓮の思想をより正確に理解するために、『末法燈明記』に記された「末法無戒」とい
う考え方がどのようなものかを、もう少し詳しくみていく。

 『末法燈明記』は、上述のように末法においては「持戒の者有らば是れ怪異なり」とし、
戒律を守らない名ばかりの僧しかいなくなると述べている。その根拠としては、大集経が
引用されている。


>  一切世間には仏宝無価なり。もし仏宝なくば縁覚無上なり。もし縁覚無くば羅漢無
> 上なり。もし羅漢なくば余の賢聖衆をもて無上なり。もし余の賢聖衆なくば得定の凡
> 夫をもて無上とす。もし得定の凡夫なくば浄持戒をもて無上とす。もし浄持戒なくば
> 漏戒の比丘をもて無上とす。もし漏戒なくば剃除鬚髪して身に袈裟を著たる名字の比
> 丘を無上の宝とす。

 ※ 「無価」とは評価できないほど優れているという意味である。


 『末法燈明記』には、この経文が説く「仏宝」から「名字の比丘(名ばかりの僧)」が、
正法・像法・末法のいずれに対応するかが、続いて述べられている。


>  この文のなかに八重の無価あり。いわゆる如来に、縁覚、声聞、および得定の凡夫、
> 持戒、破戒、無戒名字、それついでのごとし、各正像末のときの無価の宝とするなり。
> はじめの四は正法の時、次の三は像法の時、後の一は末法の時なり。これによりて明
> らかに知ぬ。破戒無戒ことごとく真宝なり。


 仏教とは「仏・法・僧」の三宝を敬うものであるが、『末法燈明記』は「末法において
は戒律を守る者などなく、髪を剃って袈裟を着た名前ばかりの僧がいるだけだが、破戒・
無戒の僧でも真の宝である」と主張しているのである。

 日蓮はこうした思想を、彼が尊敬してやまなかった伝教大師最澄が説いたものと信じて
いた。そして戒律を守る僧侶を「野干猿猴等のごとし」だとか「法師ににたる大蝗虫」な
どと嘲ったのである。

 さて、話は現代に飛ぶが、創価学会は日蓮正宗から破門されて以降、「戒律を守らず肉
食妻帯する僧侶など敬う必要などない」と主張してきた。

 しかし、これは日蓮の思想とは相容れないものである。「日蓮大聖人直結」をうたう創
価学会であるが、自分たちに都合が悪ければ、日蓮の思想など平気で無視する連中なのだ。

 前回も述べたように、鎌倉時代を生きた日蓮の主張には、現代の仏教学・文献学により
明らかになった事実に照らせば、幾多の瑕疵があることは否めない。

 時代の制約は誰であれ免れることは難しいものであり、それは致し方のないことである。
だが日蓮が「末法無戒」を無批判に受け入れたことは、「時代の制約」のせいばかりとは
言い切れないように思う。

 なぜなら、栄西も『興禅護国論』で『末法燈明記』について言及しているが、「末法無
戒」は退けているし(栄西は「持律第一」と称されるほど、戒律に厳格だった)、鎌倉時
代は戒律復興運動も盛んであったからである。

 日蓮と同時期に鎌倉で活躍し、彼が敵視した良観房忍性こそが戒律復興運動の立役者だ
った。日蓮と忍性については、次回に論じたい。



補足1 「小乗臭糞」について

 本文でふれたように日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、法華経信解品に説かれ
ている「長者窮子の譬え」に基づいている。

 「長者窮子」については、ウィキペディアの「法華七喩」の項に概略が記されている
ので、そこから引用する(あわせて若干の解説も付け加える)。


>  ある長者の子供が幼い時に家出した。彼は50年の間、他国を流浪して困窮したあ
> げく、父の邸宅とは知らず門前にたどりついた。父親は偶然見たその窮子が息子だ
> と確信し、召使いに連れてくるよう命じたが、何も知らない息子は捕まえられるの
> が嫌で逃げてしまう。

 ※ 息子が逃げたのは、長い流浪生活により卑屈になり、長者の権勢に怯えたからで
  ある。法華経には「志意下劣」とある。

>  長者は一計を案じ、召使いにみすぼらしい格好をさせて「いい仕事があるから一
> 緒にやらないか」と誘うよう命じ、ついに邸宅に連れ戻した。
>  そしてその窮子を掃除夫として雇い、最初に一番汚い仕事を任せた。長者自身も
> 立派な着物を脱いで身なりを低くして窮子と共に汗を流した。窮子である息子も熱
> 心に仕事をこなした。やがて20年経ち臨終を前にした長者は、窮子に財産の管理を
> 任せ、実の子であることを明かした。

 ※ 「一番汚い仕事」とあるが、法華経には「雇汝除糞(汝を雇うことは、糞を払わ
  しめんためなり)」ある。つまり「くみとり」のことである。

>  この物語の長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切
> の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表し
> ている。なお長者窮子については釈迦仏が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解し
> た内容を釈迦仏に伝える形をとっている。


 大迦葉がこのたとえ話をしたのは、「自分たちの資質では、不完全な悟りにしか至れ
ない声聞に甘んじるしかなく、真の悟りを開いて仏になることはできないと思い込んで
いた――これを卑屈な息子にたとえた――が、釈尊から法華経の説法を聞いて、自分た
ちも成仏できるのだと分かった」という感激を表すためである。

 法華経以前に作られた大乗経典では、上座部(小乗)を敵視し、その修行者を不完全
な悟りに甘んじる者たちとして見下す面があった。法華経は大乗仏教の立場から、小乗
の修行者を包摂しようとの意図をもって作られたと考えらている。

 日蓮が小乗を「糞臭」呼ばわりしたのは、この法華経の譬喩に基づいているのである。


補足2 禅宗と戒律

 日蓮が禅宗を敵視した理由の一つは、禅僧が戒律を重視したからである。『撰時抄』に
次の記述がある。

>  禅宗は又此の便を得て持斉等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、
> いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。

 「持斎」とは戒律を守る者のことである。「末法無戒」を主張する僧がいた一方で、戒
律を守る僧が「たっとげなる気色」と敬われていたことも見て取れる。