2019年12月15日日曜日

どのような人々が創価学会に引き寄せられたのか?

 退潮傾向にあるとはいえ、創価学会は現在でも日本最大の新興宗教である。それのみな
らず、公明党の支持母体として、多くの票を集める力を持っている。

 創価学会がこれほど発展できた理由は、宗教学・社会学の研究対象となっており、戦後
の高度経済成長と関係づけて論じられることが多い。

 宗教学者・島田裕巳氏は、「なぜ創価学会が高度経済成長の時代に成長したのかという
謎を解く鍵」となるとして、昭和37年(1962年)に福岡市在住の創価学会員を対象として
実施された調査研究を参照し、以下のように述べている。


>  調査によれば、福岡市の学会員は、学歴が低く、高卒以上は全体の三割を占めるに
> すぎない。多くは小学校や中学校しか出ていない。職業の面では、「零細商業・サー
> ビス業の業主・従業員と、零細工場・建設業の工員・単純労働者など」が中心である。
> つかり、創価学会はたんに都市型組織であるというだけでなく、論文の副題にもあっ
> たように、都市下層のための宗教組織なのである。
 (中略)
>  つまり、学会員となった人間たちは、福岡市に生まれ育ったわけではなく、最近に
> なって、農村や漁村、山村から福岡市に出てきたばかりの人間たちであった。彼らは、
> 学歴が低く、そのため、大企業に就職することもできない。労働者ではあっても、労
> 働組合の恩恵にあずかることができず、未組織の労働者として不安定な生活を送らざ
> るを得ない境遇にあった。
 (島田裕巳著『創価学会』)

 ※ 島田氏は社会学者・鈴木広氏の論文「都市下層の宗教集団――福岡市における創価
  学会」に準拠している。


 戦後の日本での都市部への人口集中が、創価学会発展の下地となった。都市は新たな産
業の労働力を求めていた。一方で地方においては、重要な産業が衰退しつつあった。

 近代以前の日本社会では、燃料と言えば木炭であった。山村において炭焼きは、現金収
入を得られる重要な産業だった。

 しかし、昭和30年代になると電気や化石燃料が普及したことにより、燃料としての木炭
需要は急速に減少していった。

 地方では収入を得られる仕事が失われていく一方、都市部では製造業やサービス業での
労働需要が急速に伸びていたのだから、地方の過疎化、都市部の過密化が同時並行して進
むことになったのは当然である。

 創価学会は、こうして新たに都市住民となった人々を信者として取り込んでいった。
 これらの人々の多くは、誇るべき家柄も学歴もなく、専門的な技能を身につけていたわ
けでもなかった。

 故郷にいても家計の足しになる収入を得ることは難しく、生家にとどまったところで、
厄介者あつかいされかねない者も少なくなかっただろう。

 故郷から離れ、頼るべきものも心の支えも持たなかった人々が、創価学会の信仰に拠り
所を見出したのはなぜだろうか。

 その理由としては、創価学会が相互扶助的で密度の濃い人間関係を構築していたこと、
御書講義などの教学重視の在り方に、教育を補完する作用があったこと等が挙げられるだ
ろうが、創価学会の教義にも、ある種の人々を引き付ける要素があったと考えられる。

 創価学会の教義の特色は、その極端な独善性・排他性にある。


>  実際に、神道にはなんら教えらしいものはなく、神主の家など、決して幸福な生活
> をしていない。代々、浄土宗、浄土真宗、禅宗、真言宗の家の檀家総代をしている家
> は、家族に病人が絶えなかったり、不幸が続いたり、どんな財産家も三、四代すると
> つぶれるのが多い。仏教各派が釈尊の教えと違ったことを教えていることや、いわゆ
> る日蓮宗が日蓮大聖人の教義と違反していることは、別の項で説き尽くされているか
> ら、ここでは、教義のことは省略するが、俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に
> 不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたり
> して、四代法華、五代法華と誇っている家ほど悲惨な生活をしているのである。この
> ようにして、先祖代々の宗教は皆、人を不幸にする力をもっているゆえに捨てなけれ
> ばならないのである。
 (創価学会教学部 編『折伏経典』改訂29版)

 ※ 「いわゆる日蓮宗が日蓮大聖人の教義と違反していること」とは、日蓮宗が日蓮正
  宗総本山大石寺の大御本尊の権威を認めていないこと等を指す(「大御本尊と池田大
  作」参照)。


 常軌を逸していると言っていいほど、一方的で差別的な記述である。
 世の中の大部分の人は、その信仰心の程度によらず、先祖代々のやり方で葬式等を行う
が、創価学会はそれを「人を不幸にする力をもっているゆえに捨てなければならない」と
いうのだ。

 もちろん『折伏教典』の独善的な主張のほとんどは、根拠がなかったり矛盾していたり
するたわ言ばかりである(「創価学会の信心の現証について」参照。)

 人間は誰しも、自分の存在を肯定できる根拠を求めるものだ。創価学会の荒っぽい主張
が一部の人の心をつかんだのは、粗雑ながらも心をひかれる要素があったからだろう。

 「自分には何もない」と感じざるを得なかった人にとっては、「自分たち以外は間違っ
ている」という根拠のない独善性が、心地よかったのではないか。

 世間の成功している人、権威ある家柄の人、それ以外の平凡ではあってもそれなりに幸
福な生活を送っている人、そうした人々の信仰はすべて間違っているのであり、正しいの
は自分たちだけなのだ、という創価学会の主張が、渇いた土地が水を吸い込むように劣等
感に苛まれた心にしみ入ったのである。

 私はこれまでに何回も折伏を受けたことがあるが、現在でも学会員の中には、「創価学
会は絶対に正しい。これは決まっていることだ」と言い張るだけで、その根拠など示せな
い者が少なくない。

 根拠がないことを信じることに不安を感じないのかという疑問を、かつては私も抱いた
ものだが、実は彼らは根拠など必要としていないのだ。

 正当性の根拠を追求することは、それなりの知的能力を必要とする。知性が欠如した者
は、そんな面倒なことなど御免蒙りたいのである(「狂信者の心理」参照)。

 つまるところ、おツムの出来があまりいいとは言い難い人々が創価学会に入り、その後、
強引な勧誘や悪質な選挙違反等を行って、社会に迷惑をかけたのである。

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