2019年3月17日日曜日

折伏(しゃくぶく)について

 現在の日本では、宗教とはあまり関わりのない持たない人生を送っている方が大勢を占
めるが、そういった人でもいずれかの伝統宗派の檀信徒であり、葬儀は仏式で行うことが
多い。

 創価学会は、そのような在り方を「葬式仏教であり、生きた信仰ではない」と否定し、
現在もなお折伏と称してはた迷惑な勧誘を行い、「自分たちだけが正しい信仰だ」と主張
し続けている。

 今回は学会員が折伏の際に、よく主張する内容について検証する。


1.「偶像崇拝は間違い」

 多くの伝統宗派で仏像が信仰の対象とされているが、創価学会は仏像ではなく、文字で
構成された曼荼羅――日蓮が法華経の世界観を図顕したもの――を本尊としている。

 学会員は折伏の際、「仏像を拝むのは偶像崇拝であり、本来の仏教ではない。創価学会
こそが正統な仏教だ」と主張することがある。

 確かに、釈尊は自らの像を信仰の対象にせよとは説かなかったし、そのため、原始仏教
では仏像を信仰の対象とはしなかった。

 だが、創価学会員が上記のような主張をするのは卑劣な欺瞞であり、以下に述べるよう
に三重の意味で矛盾している。

 まず第一に、前回みたように創価学会は「釈尊の教えは人々を救う力を失っている」と
主張しており、都合のいい時だけ原始仏教を援用するのはおかしい。

 第二に、創価学会の曼荼羅本尊は、確かに狭い意味での「偶像」には該当しないであろ
うが、彼らの教義では「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えると祈りとして叶わざるなし」
ということになってる。

 当然のことながら、このような呪物崇拝も本来の仏教とは関係ないものである(何度も
述べたが、彼らの本尊の根拠となっている法華経も、釈尊滅後、数百年後に創作された経
典である)。

 第三に、創価学会が「末法の御本仏」だという日蓮は、「法華経で開眼供養した仏像を
信仰の対象とすべき」と述べている(「佐前・佐後」参照)。

 学会員が「仏像を信仰の対象とするのは間違い」と主張することは、創価学会が日蓮の
教えを正統に受け継ぐ教団ではないことの証明なのだ。


2.「科学的根拠がないことは否定する」

 創価学会員が他の宗教を否定する時によく使うのが、この「科学的根拠」という言葉で
ある。

 確かにどの宗教であれ、神仏や来世など科学的に実証できない概念を信じることが、そ
の根幹になっている。

 こうした実証できない事柄をすべて退け、宗教とは無縁に生きるのも一つの在り方だと
いうことは、私も否定しない。

 問題なのは、創価学会の教義もまた、ほかの宗教と同様、あるいはそれ以上に非科学的
であり、学会員が「科学的な根拠がないことは否定する」と主張するのは、卑怯なダブル
スタンダードだということである。

 伝統的な宗教は、科学が発展する近代以前に発祥している。その教義に非科学的な部分
があったとしても、やむを得ない面もある。

 だが、創価学会は20世紀になってから作られた新興宗教である。それにもかかわらず、
池田大作がデッチ上げた、「護符」と称するただの紙切れを飲むことで病気が治るとぬか
す、インチキなマジナイを組織を挙げて行ってきた。

 いったい、どの面下げて「他の宗教は科学的根拠がない」などと批判できるのだろうか。
 護符を別にしても、御本尊と称するビニールシートに題目を唱えることで、どんな願い
でも叶うという、彼らの中心的な教義にも、何の科学的根拠もありはしない。

 学会員が安易に「科学的根拠」なる言葉を口にするのは、単に他の宗教を批判するのに
便利だからに過ぎず、彼らに論理的思考能力が欠如していることの現れなのである。


まとめ

 多くの人は他者を批判する際、その言葉が我が身にも当てはまりはしないかと、省みる
ものである。
 上述で明らかにしたとおり、創価学会員にはそうした点が驚くほど欠落している。

 だからこそ、創価学会の教義や実態を知る者が聞けば、「おまエラがそれを言うか」と
のけぞるようなことを平気で主張するのである。

 彼らが口にする一見まっとうな言葉こそが、連中がマインドコントロールによって論理
的思考や内省が出来なくなった、頭がおかしいカルト信者であることを示しているのだ。

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