2019年3月24日日曜日

創価学会員の選民思想

 私はこれまでの人生で、何回か創価学会員から折伏を受けたことがある。
 その際に学会員が見せた態度は、こちらがたじろぐ程に尊大で自信に満ちたものだった。

 創価学会員と関わりを持ち、このような印象を受けたのは、私だけではないはずである。
日本の新興宗教について調査研究を行った米国の宗教学者も、以下のように述べている。


>  創価学会を研究する際、公平な態度でのぞむことは非常に困難である。というのは、
> 調査しているさいちゅうに、見たり、聞いたり、読んだりするもの、とりわけ、創価
> 学会の多くの信者の厚かましさや無作法によって、何度も何度も気分を害されるから
> である。どうも彼らにはPRの才がないらしい。訪問客をもてなす時でさえ、彼らは
> 信じ切った態度を露骨に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう。ほ
> かならぬこの理由のために、かくも多くの観察者(日本人も外国人も)が、創価学会
> は陰険な運動だと報告しているのもうなずけるのである。
 (H・N・マックファーランド著 内藤豊・杉本武之訳『神々のラッシュアワー』)

 ※ 著者はサザン・メソジスト大学の教授で、牧師でもあった。本書は、日本での二度
  の調査研究(1956~1957年、1963~1964年)に基づいて執筆され、原著は1967年、
  邦訳は昭和44年(1969年)に出版されている。


 著者はキリスト教徒だが、この本は全体として真摯な学問的姿勢に基づいて執筆されて
おり、創価学会への批判は偏見によるものではないと思われる。本書では天理教や、立正
佼成会なども取り上げられているが、他の教団に対しては、上記のような手厳しい見解は
示されてはいない。

 マックファーランド教授は「訪問客をもてなす時でさえ、彼らは信じ切った態度を露骨
に示し、そのため、客を軽蔑しているように見えてしまう」と述べているが、学会員の態
度が「軽蔑しているように見えしまう」のは、彼らが事実、学会員以外の者を軽蔑し、見
下しているからである。

 戸田城聖は「キリスト教でもせいぜい天界まではいけるでしょう。今のアメリカは栄え
ているようであるが、あれは天界の栄えにすぎない」(『人間革命』第七巻)と説いた。

 当時、調査のために創価学会を訪問したマックファーランド教授に応対した学会員も、
天界の境涯にある米国人のキリスト教徒よりも、「地涌の菩薩」である自分の方が格上な
のだと考え、それが態度にも表れたのだろう。


 現代社会では、学問の細分化と技術への応用が進み、経済も国際化し、金融は複雑なも
のとなっている。量子力学の応用である半導体技術や、相対性理論が応用されたGPSを
誰もが日常的に用い、地球の裏側の国で起こった政変が物価にも影響するのである。

 それらすべてを理解し、何が起こっているかを説明できる者、正しい選択はどれかを示
せる者がどれだけいるだろうか。一個人ではとても理解し切れない程の情報があふれ、し
かもそれらが一人ひとりの生活に密接に関わってくる現代社会において、「何が正しいか
を知っている」という確信を持つことは、極めて困難なことなのだ。

 初めて本格的な折伏を受けた際、私は相手の学会員の自信に満ちた態度に気圧されるよ
うな思いを抱いた。これほどの確信を持つ背景には、相当の知的蓄積があるのではないか
との印象を受けたのである。

 今考えると、外部の世界にあふれる圧倒的な情報量に対する自分の知的貧弱さからくる
不安を、相手に投影してしまっただけだったのであるが。

 その時は、相手の学会員がやたらと「科学的根拠」というのを聞いて、「この人は自然
科学全般への幅広い知識と理解があり、それが自信につながっているのではないか」と思
ってしまった。

 だが、しばらく話してみて、その学会員は自然科学についての理解などほぼ皆無で、そ
れどころか、法華経に何が書いてあるかさえ知らないことが分かった。
 これは、私が対面した一学会員だけについてだけ当てはまることではない。

 創価学会員という連中は、総じて驚くほど知識がないにも関わらず、「自分たちは、他
の人間と違って、何が正しいかを知っている選ばれた存在である」という夜郎自大な自信
を抱いている。

 前回も述べたが、創価学会員は「他の宗教には科学的根拠がない」という理由で否定す
る一方で、彼らの信仰にも科学的根拠がないことを問題視していない。そもそも、そのよ
うな疑問を持たないようにマインドコントロールされている。

 多くの創価学会員にとって、信仰およびアイデンティティーの核心となっているのは、
「創価学会は絶対に正しい。その信仰を持つ自分も絶対に正しく、ただそれだけで学会員
でない者よりも優れた存在である」という思い込みである。

 この妄念を支えているものとして、以下の要素が考えられる。

  ・日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在に祭り上げ、その教えを正統に継承して
  いるのは、創価学会だけだとし、学会員は教えを広める使命を持った「地涌の菩薩」
  だとされていること。

  ・信仰の指導者である池田大作が、世界中から顕彰を受け、称賛される偉人だとされ
  ていること(聖教新聞等の創価学会の出版物の中だけではあるが)。

  ・他の学会員も上記の思い込みを共有し、相互に補強し合っていること。

  ・これらを否定する情報(週刊誌や批判本など)は、すべて創価学会や池田大作の偉
  大さに嫉妬した者たちによるデマだと思い込まされていること。

  ・本当に正しいと言えるのかを検証しようとする知性の欠如(疑うとバチがあり、今
  まで積んできた功徳も消えるという恐怖心を植え付けられていること)。

 「創価学会は絶対に正しい」という思い込みには根拠などない。根拠がないことを「正
しい」とすることは、「智者に我が義やぶられずば用ひじ」(『開目抄』)という、日蓮
の教えに違背している。

 また、それを支える一連のマインドコントロールも、日蓮本仏論のように根拠がないか、
金の力で実現した池田大作の勲章あさりのように価値がないかのいずれかである。

 学会員が強引な折伏をするのは、自分と異なる信仰や思想を持つ者を屈服させることで、
自らの信念が正しいという実感を得ようとしているのだろう。

 信仰の内容が空疎だから、他人をねじ伏せたり、学会活動に没頭することで同じ妄念を
共有する者がいることを確認したりしなければ、自信を保てないのである。


 本来ならば自由にできる時間を公明党の選挙運動などの学会活動に費やし、投票という
政治的な選択の自由を奪われ、本部職員という貴族的な特権階級の高給を支えるために財
務やマイ聖教等で少なからぬ金銭を供出し、精神の自由まで奪われる対価として、「自分
たちは地涌の菩薩で、そうでない者より高い境涯にあり、救いが約束されている」という
妄想の世界に浸り続けている、それが創価学会員という連中なのだ。

 このバカげた選民思想に魅力を感じる人は、創価学会員であり続けるのもいいかもしれ
ない。

 しかしそれは、少しでも知性を持つ者にとって、耐えがたいことのはずである。
 当ブログでも示してきたように、創価学会の教義や、学会員たちがそれを疑わないよう
に行われているマインドコントロールがおかしいことは、彼らが神聖視してきた日蓮遺文
や法華経を読めば分かることだ。

 いや、古文や漢文の書き下し文をわざわざ読まなくても、常識的な判断力があれば、創
価学会がおかしなカルトであることは明白である。

 女子高生を妊娠させたり、レイプ事件を起こしたり、広宣流布を口実に集めた金を自分
個人のぜいたくのために使ったりしてきた池田大作を、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っ
ている創価学会が、まともな宗教のわけがないのだ。

 信教は自由だが、創価学会の信仰とその実践は、良識とは相容れない。
 現在の創価学会は上辺のイメージだけは取り繕おうとしているが、そんなことをしても
馬脚は隠せない。現に、冒頭で引用した50年前の批判が、今なお妥当なのだ。

 学会員が社会の各層に浸透し、公明党が与党になっているとはいえ、インターネットが
当たり前になった現代社会で、完全な情報統制など不可能である。

 創価学会のありのままの実態、事実を知られることが、彼らにとっての弱点であり、情
報の拡散を防ぐことができない以上、創価学会の衰退を止めることはもう不可能だろう。

 そして、それは社会の健全化に資することでもあるのだ。

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