2019年1月13日日曜日

日蓮と真言

※ 今回は日蓮遺文(古文)の引用やや多め。

 日蓮による他の宗旨への批判の中には、史実に基づかないもの、首を傾げたくなるもの
も少なくない。

 真言宗に対しても、その根本経典の一つである大日経を中国に伝えた善無畏三蔵(637
~735年)が、「中国にきた後で、天台宗の肝要である『一念三千』について知り、優れ
た教義であったためにそれを盗み、大日経にも『一念三千』と同様の考え方が、もとから
あったかのように事実を偽って解釈した」と非難してるが、これは史実に照らして妥当性
があると言えるだろうか。


>  善無畏三蔵、震旦に来たって後、天台の止観を見て智発し、大日経の「心実相、我
> 一切本初」の文の神(たましい)に、天台の一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とし
> て、其の上、 印と真言とをかざり、法華経と大日経との勝劣を判ずる時、理同事勝の
> 釈をつくれり。
 (『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 一念三千とは、天台大師智顗(538~598年)の『摩訶止観』に由来しているが、智顗の
様々な教説を整理し、この教義を「終窮究竟の極説」とまでに宣揚したのは妙楽大師湛然
(711~782年)だった。

 湛然は「あらゆる事象には『空・仮・中』の三つの側面があると観じる、一心三観・三
諦円融が法華経の三通りの読み方――『三転読』という――に表れているという智顗の説
が、一念三千にも組み込まれている」という解釈を、『摩訶止観』の注釈書である『摩訶
止観輔行伝弘決』で述べ、一念三千を天台の「終窮究竟の極説」としたのである。

 日蓮も『摩訶止観輔行伝弘決』から多大な影響を受けていた。
 ただ、『摩訶止観輔行伝弘決』が成立したのは、西暦765年である。735年に世を去った
善無畏三蔵が、これを参照して「一念三千を盗み入れて真言宗の肝心とした」というのは、
あり得ない話である。


 本邦に真言密教を伝えたのは、真言宗を開いた弘法大師空海であるが、その影響は大き
く、日蓮が属していた天台宗も密教化した(真言宗の「東密」に対して、天台宗は「台密」
と呼ばれる)。

 日蓮は、天台宗が密教教典を法華経よりも重視するようになったことについて、第三代
天台座主を務めた慈覚大師円仁を批判している。


>  あさましき事は慈覚大師の金剛頂経の頂の字を釈して云く「言う所の頂とは諸の大
> 乗の法の中に於て最勝にして無過上なる故に頂を以て之れに名づく乃至人の身の頂最
> も為勝るるが如し、乃至法華に云く是法住法位と今正しく此の秘密の理を顕説す、故
> に金剛頂と云うなり」云云、又云く「金剛は宝の中の宝なるが如く此の経も亦爾なり
> 諸の経法の中に最為第一にして三世の如来の髻の中の宝なる故に」等云云、此の釈の
> 心は法華最第一の経文を奪い取りて金剛頂経に付くるのみならず、如人之身頂最為勝
> の釈の心は法華経の頭を切りて真言経の頂とせり、此れ即ち鶴の頸を切つて蝦の頸に
> 付けけるか真言の蟆も死にぬ法華経の鶴の御頸も切れぬと見え候
 (『慈覚大師事』〔真蹟 中山法華経寺〕より引用)

 ※ 金剛頂経は大日経と並ぶ密教の根本経典である。仏の慈悲を象徴する胎蔵界曼荼羅
  が大日経に基づくのに対し、智慧を象徴する金剛界曼荼羅は金剛頂経に基づいている。


 日蓮は、円仁が密教経典である金剛頂経を法華経よりも重視したことについて、「鶴の
首を切ってガマの首につけたようなもので、真言のガマは死ぬだろうが、法華経の鶴の首
は切れない」などと、妙なたとえ方をしている。

 だが、日蓮の法華経解釈も、相当に密教の影響を受けている。
 『開目抄』においては、盗人呼ばわりしていた善無畏が伝えた法華肝心真言を引用して
「南無妙法蓮華経これなり」と述べている(「『南無妙法蓮華経』の根拠」参照)。

 日蓮のやったことは、彼の言葉を借りるならば「ガマの皮をはいで、鶴にかぶせた」よ
うなものではないかと、私には思える。


 日本の中世においては、様々な偽書が作られた。日蓮遺文とされてきた古文書の中にも、
現在では偽書と見なされているものが多い。

 現代においては文書偽造は犯罪であるが、中世においてはそうしたことは罪にあたると
は見なされていなかった。「事実や史実を、どのように評価すべきか」ということに関す
る規範のあり方が、大きく異なっていたのである。

 中世人であった日蓮もまた、そうした時代性にとらわれていた。その意味では現代の規
範を杓子定規にあてはめて、日蓮を批判するのは酷なのかもしれない。

 日蓮遺文から、中世の人々の考え方の一端を学ぶことはできるだろう。実際、鎌倉時代
を専門とする歴史学者にとっては、日蓮遺文は重要な史料だという。

 だが、「御本仏大聖人が、歴史を超越した唯一無二の真理を開示したもの」として読む
のは――そうした信仰を持つのも個人の自由とはいえ――かなり無理があると言わざるを
得ない。


補足

 以前も述べた通り、私自身は歴史や仏教について専門的な教育を受けたことはない。
 鎌倉仏教やそれを生んだ時代背景についての知識も、一般向けの概説書・入門書に頼っ
てきたのが正直なところである。

 本文で鎌倉時代の規範意識は現代とは大きく異なっていたと述べたが、こうした知識を
得る上で、『偽書の精神史』(佐藤弘夫著 講談社選書メチエ)がたいへん役立った。
 参考までに、本書から私が興味深く感じた箇所を引用する。


>  日本だけでなくおよそ近代国家といわれるところでは、法律や判例はすべて司法当
> 局が一括して保管することが常識となっている。その蓄積された法源の中から最終的
> にどれを適用するかは、判事の責任であった。
>  けれども、鎌倉幕府の裁判制度では事情はまったく違っていた。幕府の法廷には体
> 系的な形での式目や判例の蓄積はなかった。そのため裁判が起こると幕府は、当事者
> 自身に当該訴訟に関わる法律の提出を命じることになった。同じような争点をもつ近
> 接する二つの裁判で、別個の法令が適用されて異なった判決が下されることも、少し
> も珍しいことではなかったのである。
>  その結果、当然予想されることではあるが、中世の裁判では式目や判例の偽作が頻
> 繁に行われることになった。「先例」の名のもとに、勝手な判例がでっちあげられて
> いった。この場合、そうした「先例」によって不利益をこうむる相手方は、即座にそ
> れを偽書としてその効力を否定した。だがここでも、偽書イコール絶対悪という発想
> はうかがえない。その相手方もまた、裁判を勝利に導くためなら、法律や判例を偽作
> することにいささかの躊躇もなかった。


 こうした事情は、歴史学について専門的な訓練を積んだ人にとっては当然のことなのか
もしれないが、私を含め多くの一般人は、現代の「常識」を前提として、過去を理解しよ
うとする弊に陥りがちである。

 鎌倉時代では、訴訟において僧侶が現代の弁護士と同様の役割を担うことがあった。日
蓮もそうした活動を行っていたといわれる。

 日蓮による他宗僧侶への批判には、本当に事実か疑わしいものもあるが、その背景には、
日蓮が引用にあるような事態を経験してきたという事情があるのかもしれない。

 日蓮遺文を読む際には、彼が生きていた時代の「当たり前」が、現代とは大きく異なっ
ていたことに、十分に留意すべきなのだと思う。