2017年5月29日月曜日

〝狸祭り事件〟について

 創価学会が日蓮正宗から破門されて四半世紀以上が経過したが、彼らは現在も日蓮本仏
論などの正宗の教義に依拠し続け、各学会員の家庭においても、日蓮正宗総本山大石寺の
第26世法主・日寛が書写した本尊の複製を仏壇に祭っている。

 創価学会は日蓮正宗の宗教的権威を借りることにより、「我々には七百年の伝統があり、
新興宗教ではない」と主張し、勢力拡大に役立ててきた。

 一方で、日蓮正宗に対しては表面的には敬う姿勢を見せていたが、実際には暴力や謀略
で威嚇したり、金銭で懐柔したりして、創価学会側が主導権を握れるように画策した。

 創価学会が日蓮正宗を意のままに動かすために、如何なる手段をとってきたかを見るこ
とにより、彼らが外部の権威に対して、どのような姿勢で臨んできたかをを知ることがで
きる。

 今回は、創価学会が日蓮正宗の僧侶を暴力で屈服せしめた事件の中でも、もっともよく
知られている「狸祭り事件」について取り上げる。

 この出来事は『人間革命』第六巻においても言及されているが、その記述は例によって
学会を美化するために、少なからぬ欺瞞を含んでいる。

 「狸」とは、日蓮正宗の学僧・小笠原慈聞氏(『人間革命』では「笠原慈行」)のこと
を指す。

 小笠原氏は戦時中、神本仏迹論を説いて軍部に迎合し、当時軍部が進めていた各宗派の
統合政策にも賛同、日蓮正宗と日蓮宗との統合にも積極的だった(実際には統合には至ら
なかった)。

 『人間革命』には描かれていないが、この時も創価学会は小笠原氏と対立、暴力に及ん
だという。


>  戦局悪化の昭和18年、政府は宗教団体法により各宗各派の統合を図り、宗教の戦争
> 遂行協力体制をとらせることになった。神道はじめ、仏教、キリスト教、その他、大
> 勢に順応していった。
>  この時、牧口の創価学会は、あくまで統合に反対した。日蓮宗との統合とは、身延
> への統合である。「邪教の総本山へ統合など論外だ」と牧口は激しく本山・大石寺の
> 動きを非難した。大石寺の布教監・小笠原慈雲というのが、身延合同の急先鋒だった
> が、牧口の創価教育学会の若い会員たちは大石寺登山を行なうと、小笠原慈雲の体を
> 担ぎだし、たんぼの中に叩き込んだという。
 (藤原弘達著『創価学会をブッた斬る』より引用)

 ※ 『創価学会をブッた斬る』には小笠原〝慈雲〟と記されているが、小笠原慈聞の誤
  りと思われる。


 その後、牧口は治安維持法違反で逮捕され、獄死することになるが、牧口とともに投獄
され、戦後その後を継いで第二代会長に就任した戸田城聖は、創価学会が弾圧された責任
は小笠原氏にあるとして、昭和27年(1952年)4月27日、宗旨建立七百年記念慶祝大法会
の機会に乗じて、大勢の学会員を引き連れて大石寺に登山し、小笠原氏に牧口墓前での謝
罪を強要した。これが狸祭り事件である。

 『人間革命』には、小笠原氏が神本仏迹論を説いたのは、時局に迎合して「デッチ上げ」
たのだと述べられているが、植村左内著『これが創価学会だ』によれば、大石寺の相伝は
本来、神本仏迹論なのだという。

 戸田城聖は、日蓮正宗の内部に、教義面で創価学会と異なる解釈をする僧侶がいること
は、主導権を握る上で障害になると考え、小笠原氏に対する吊し上げを敢行したのであろ
う。

 小笠原氏は、事後『創価学会長戸田城聖己下団員暴行事件の顚末』と題した手記を発表
した。この手記の一部が『これが創価学会だ』に引用されているので、孫引きする。


>  その時に、私の面前に居丈高に座っている会長戸田城聖が、「生意気いうな小笠原」
> とにらみ、右手で私の左耳の上を強く打ちました。私は生れて始めての事で、頭が破
> れたかと思うた。すると其処にいた多数の者が寄ってタカって私を打つ、蹴る等の暴
> 行を働きましたので、私は後ろに倒れました。其の時に戸田が、「命は惜しゅうない
> か」と言いましたので、私は「不惜身命」と叫びますと、青年は「先生の前に足を出
> すとは不届きじゃ」と、私の襟首を摑んで引き起し、「衣服をぬがしてしまえ」と、
> 私の衣服(被布、襦袢、袷、襟巻)を引きむしり、シャツ一枚の裸にしました。その
> 時に懐中物が落ちたので私が拾おうとすると、戸田が「それは己れが預る」と奪い取
> りました。私は声を大にして「汝等は追剥か、強盗か」と叫ぶと、又戸田が私の右の
> 横面を強打しました。私は大声に「神本仏迹であろうが、何であろうが信教自由であ
> る、汝等に制裁を受けるいわれはない、新憲法はそれを保証している」と叫びました。
> 彼等は、ワッと声をあて私をつるし上げ、頭、胴、手、足を六、七人で担ぎ表に出ま
> した。見ると寂日房の前庭は、彼等一味党類で一ぱいになっていました。


 小笠原氏はこの後、学会員数名に担ぎ上げられたまま、大石寺境内にある牧口前会長の
墓前に連行され、謝罪文を書かされた。担ぎ上げられ境内を練り歩く際、小笠原氏が「ま
るで狸祭りじゃのう」と述べたことから、「狸祭り事件」と呼ばれるようになったらしい
(「狸祭り」と呼ばれるようになった所以については諸説あり)。

 宗旨建立七百年を慶賀するイベントの際に、このような騒動を起こしたことから、地元
の信徒も聞きつけて墓地に詰めかけ、乱闘騒ぎに発展したという。
 上記引用と同じ場面について、『人間革命』第六巻は以下のように描写している。


>  考えてみると、僧籍こそ剥奪されているが、笠原もまた、日蓮大聖人の弟子である
> ことに変わりはない。そのおなじ立ち場に立って、心を打ちあけて話し合えば、誤り
> を誤りとして、必ず認めさせることができるはずだ。
>  それには、まず、笠原の虚栄を支えているものを取り除けば、少しは気持ちも変わ
> るに違いない。結局、仮構の見栄が災いしているのであろう。――戸田は、互いに信
> 徒として話し合う必要を感じていた。
> 「僧籍はないのですから、法衣を脱いでもいいのではないですか」
>  それを聞くと、笠原は、なおも、わけのわからぬことを口走って、極度の興奮状態
> におちいってしまった。
> 「法衣など、勝手に脱ぐわ!」
>  笠原は、そう言い放つと、いきなり、やけになったように、法衣を荒々しく脱ぎは
> じめた。そればかりではない。何を思ったのか、法衣の下の着物まで脱いでしまった
> のである。周りの人々が、とめるいとまもなく、笠原は、シャツと股引き姿の、貧相
> な格好になっていた。
 (中略)
>  笠原は、あいかわらず押し黙っていたが、このとき、いきなり脚をぐんと伸ばして、
> 戸田の膝をしたたかに蹴りつけたのである。
>  それを見た、数人の青年は、大声で叫んだ。
> 「なにをするんだ! ……やめなさい!」
>  そして、笠原に、つかみかからんばかりの姿勢になっていた。
>  途端に、戸田の叱声が響きわたった。
> 「よせ! 絶対に傷をつけてはならん! ……こんな男は、なぐるにも値しない。放
> っておきなさい」


 小笠原氏の手記と『人間革命』では、どちらの側が暴力をふるったかが逆になっている。
 また、小笠原氏が僧衣を自発的に脱いだのか、無理やり引きはがされたのかについても
異なる。

 『人間革命』では、戸田城聖の「笠原(小笠原)には絶対に傷をつけてはならん」との
指示のもと、創価学会側には一切の暴力行為はなかったように描かれている。

 しかし、実際には小笠原氏は全治数週間の負傷を受け、医師の診断書を添付して告訴し
た。そのため、戸田城聖と筆頭理事の和泉覚は、警察に拘留され取り調べを受けた。

 その後、創価学会は30万円を支払って小笠原氏と示談した(昭和20年代後半のことなの
で、物価水準を考えれば、現在の金額の十数倍の価値はあると思われる)。

 『人間革命』には、学会が示談金を支払ったことなどは、一切書かれていないが、こう
した経緯を見れば、創価学会側が暴力をふるったことは明らかである。

 小笠原氏は明治8年(1975年)生まれ、事件が起きた昭和27年(1952年)には77歳を迎
えるという高齢だった。その老人を、過去のいきさつがあるとはいえ、宗教上の意見が違
うというだけで、集団で暴行を加え圧伏せしめようとする創価学会の悪質さには慄然とさ
せられる。

 事件直後、創価学会はシャツ一枚のみじめな姿の小笠原氏の写真を、機関誌『大白蓮華』
に掲載して勝ち誇ったが、日蓮正宗側は僧侶への暴行事件を問題視し、宗会を開いて戸田
に謝罪文提出を要求し、あわせて大講頭罷免、登山停止を決議した。

 この決議に対し、創価学会側は宗会議員を務める僧侶が住職を務める寺院に押しかけ、
長時間の談判により撤回を約束させるという各個撃破により、決議を撤回させた。この際
には、池田大作も僧侶への面談を行った。

 集団リンチそのものといえる暴行事件の直後であっただけに、この直談判には当事者を
畏怖せしめ、創価学会のすることに異を唱えようとする者を委縮させる効果があったこと
だろう。

 事実、この当時の『聖教新聞』には、相当に挑発的な記事が掲載されていた。その見出
しは「学会堪忍袋の緒切る」「「第二次〝狸祭〟実現か」「強談判に実に六時間」などと
いうもので、暴力をチラつかせて日蓮正宗側を威圧しようとする意図は明白である(山本
七平著『池田大作と日本人の宗教心』による)。

 この事件は、当時の日蓮正宗法主・水谷日昇氏の「誡告文」(昭和27年7月24日付)を
受けて、戸田城聖が「御詫状」(同年7月30日付)を提出し、創価学会の寄進により大石
寺の五重塔を修復することで幕引きとなった。

 この「誡告文」と「御詫状」の一部を、それぞれ以下に引用する(これも『池田大作と
日本人の宗教心』からの孫引き)。


 「誡告文」
>  末法の僧は十界互具の凡僧であるから、多少の過咎は免かれない。僧侶に瑕瑾があ
> れば、正統なる手続きによるべきである。今後、かかる直接行為をなすことは堅く禁
> 止する。今回のことは、その拠て起きた情状を酌量し尚、永年の護法の功績を認める
> に依り此の如く後の誡めとする。

 「御詫状」
>  創価学会員は噂のうちにある如き暴力の徒では決してありません。御本山に対し猊
> 下が「予が法類」とお呼び遊ばす御僧侶に対しては恭順なる信徒であることを、確信
> を持って言上致します。
>  只、宗内において余りに謗法に傾き過ぎたり、大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、
> 況や宗外の邪宗徒をせめる時は宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争に
> なる傾きがあるのであります。
>  これが行き過ぎのなき様に深く会員を誡めて指導致しますが「護法」の精神に燃ゆ
> る所、生命を惜まぬが日蓮正宗信者なりとも亦日夜訓えて居ります為に、その度を計
> りかね名誉も命も捨てて稍々もすれば行き過ぎもあるかも知れませんが、末法の私共
> は十界互具の凡夫であり愚者でますから、宏大の御慈悲をもって御見捨てなく御指導
> 下さる様、重ねて御願いします。


 水谷法主の「今後、かかる直接行為をなすことは堅く禁止する」との誡告に対して、戸
田会長は「宗開両祖の教を胸に深く刻むが故に、決定的な闘争になる傾きがある」などと
弁解してはいるが、二度としないと誓約しているわけではない。面従腹背のおもむきがあ
る「御詫状」である。

 実際、創価学会はこの後も、日蓮正宗僧侶に対する暴行事件を引き起こしたし、水谷日
昇氏に対しては謀略を用いて法主の地位から追い落としている(この件については稿を改
めて論じる)。

 創価学会は、上位団体である日蓮正宗に対して表向きは従いつつも、暴力や強引な直談
判、その他の謀略を用いて主導権を握ろうと画策してきた。

 創価学会は、日蓮正宗との関係で培ったこうした権謀術数のノウハウを、マスコミ対策
や「総体革命」と称する権力への浸透工作においても役立ててきたのではないだろうか。

 司法や法律といった外部の権威に対し、表面上は恭順するように見せながら、実は面従
腹背で、権力に取り入って自分たちに都合のいいように利用しようと、虎視眈々と狙い続
ける。これが創価学会の体質である。

 近年の創価学会は、あからさまな暴力を用いることはなくなったが、その反社会的体質
は何も変わっていない。

 社会から良識が失われ、邪悪なカルトが好き放題できる悪夢のような世の中が実現する
ことを防ぐためにも、創価学会の術策によりいいように操られてきた日蓮正宗を〝他山の
石〟とし、最近の上辺だけは大人しくなった創価学会を見て、油断している人々に「彼ら
の微笑戦術に騙されてはならない」と、訴え続ける必要があると思う。



補足1 神本仏迹論について

 日本史で本地垂迹説を習った方も多いこととと思う。日本では仏教伝来とともに神仏習
合が進み、日本古来の神祇は仏が仮に応現したものであるという考えが生まれた。これが
本地垂迹説である(垂迹とは「本体の影」といった意味)。

 その後に、日本の神祇が本地であり、仏の方が垂迹であるという考え方が生まれた。こ
ちらは神本仏迹論と呼ばれる。(反本地垂迹説ともいう)。


補足2 「狸祭り」の由来

 平成30年(2018年)2月27日付で刊行された『創価学会秘史』(高橋篤史著)によると、
「狸祭り」という呼称は事件を引き起こした創価学会青年部の幹部たちが、事前に考えて
いた作戦名だったという。

 『創価学会秘史』は、著者・高橋氏が入手したこの事件に関する創価学会側の記録等、
多数の史料に基づいて執筆されており、「狸祭り」の由来についての記述も信頼できると
思われる。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ