創価学会では、学会員の家庭に生まれ育った子のことを「福子(フクシ)」という。
福子に対しては、幼い頃から創価学会の教義に基づいた教育がなされることになる。
親には子を教育する権利があり、宗教についての教育もその権利の中に含まれるが、学
会員の家庭の場合、社会常識から逸脱した教育が行われることが珍しくない。
創価学会は、唯一の正しい宗教を自称しているため、学会員の子弟に対しても「創価学
会だけが正しい宗教で、それ以外はすべて邪教」と教えている。
それだけではなく、「疑えばバチが当たる、地獄に堕ちる」「良いことがあれば信心の
功徳、悪いことは信心が足りないせい」と刷り込まれ、非科学的なご利益信仰と罰論を、
絶対的な真理であるかのように思い込ませる。
中でも、特に重視されるのは池田大作への個人崇拝である。批判本の中から、学会員の
家庭でどのような教育がなされているかを記した一節を引用する。
> 「池田先生はなんでもご存じなのよ。学会員みんなの苦しみ、悩み、悲しみをすべて
> 知っておられる偉大な方なのよ」
> この言葉を素直に信じ、小学生だった子供たちは創価学会の一員たることの誇りを
> 大きくし、母の姿を追うように熱心な池田教信者になった。彼らは池田神話を疑いも
> しなかった。池田神話とは何か。池田先生はなんでも知っている、ぼくたちの苦しみ、
> 悩みを本当に理解してくださるのは池田先生お一人だ。自分たちもすべて池田先生の
> ために頑張るんだ。
> 少年少女時代から数十回、数百回と池田礼賛の言葉ばかり聞かされるうち、子供た
> ち精神の奥深くに池田崇拝の一念が植えつけられ、学会員特有の感覚が芽生えるので
> ある。学会活動に励むのも池田先生のため、選挙応援に走り回るのも池田先生のため
> ……池田先生は理屈抜きに素晴らしい方、池田先生イコール創価学会……。この論理
> こそ、池田大作が長い時間をかけ、用意周到に五百万会員へ仕掛けた池田崇拝の産物
> なのである。
(藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)
> 特に幼児期においては、学会の外郭企業であるシナノ企画が制作、販売している池
> 田大作原作の童話アニメ『太平洋にかける虹』や『ヒロシマへの旅』などを見せるこ
> とで、「これは池田先生が書かれたものですよ。これもそうよ。先生は偉い方なのよ」
> と、繰り返し説くことで、池田大作への崇拝の念をしっかりと植えつけるのである。
(古川利明著『カルトとしての創価学会=池田大作』より引用)
> 「先生は慈悲そのものの方だ」「先生は私達の悩みを全部解ってくださっている」
> 「先生には私達の真心は必ず通じる」「先生はすべてを見通していられる」「先生に
> 近づけば福運がつく」等々とキリがないくらいの神話が生まれてきました。仏のごと
> き大境涯の「先生」像が、このような過程の中からできあがっていきました。
(中略)
> 〝純真な〟会員は、自分の理想の人間像を「先生」に託し、投影させ、伝えられる
> エピソードを貪欲に吸収して更に偶像化し、崇拝を強めていきます。極端な場合は、
> 「先生」の名前やエピソードを聞いただけで涙ぐみ、胸を熱くするといった狂信状況
> すら現れてきます。まさに「先生」を核にした集団幻想の世界のみに生きがいを覚え
> る特殊人間群であります。そうなると、正常感覚の持ち主ほど組織から離れざるをえ
> ないし、また排除されていきます。それはもう邪宗教の持つ阿片性といっても過言で
> はないでしょう。程度の差はあれ、このようななにがしかの「先生」への幻想を抱か
> ない限り、今の学会の中ではとても信仰活動をやってはいけません。
(福島源次郎著『蘇生への選択』より引用)
このような個人崇拝は、どう考えても異常である。もし仮に、池田名誉会長が実際に偉
大な人物であったとしても、幼少時から崇拝の念を植え付けるのは、行き過ぎである。
しかも実際には、創価学会によって流布されている池田大作の姿は虚像に過ぎない。彼
ほど、虚像と実像の乖離がはなはだしい人物は稀であろう。
池田大作自身が作り上げてきた彼の虚像は、幼少時から数万冊の蔵書に囲まれて育った
知識人であり、作家・詩人・思想家・平和運動家として超人的な量の著作を執筆、しかも
その印税収入は広宣流布のために寄付するという、清貧にして高潔な人格者、さらにその
識見・人格に惹かれた各国の著名人と会談し、世界中から勲章や名誉称号を授与されてき
た偉人であり、学会員からは「日蓮大聖人の再誕にして末法の御本仏」と仰がれる、傑出
した宗教指導者というものである。
だが現実には、池田名義の膨大な著作物は、ほぼすべてゴーストライターによるものと
暴露されており、著名人との会談や名誉称号等も金を積んで実現してきたものである。
さらに女性関係の醜聞や、末端学会員を搾取し、宗教施設と称しながら、実態は専用の
別荘を多数建設し、贅沢三昧の暮らしを満喫してきたことも、周知のものとなっている。
このような池田の実像を学会員が知り、洗脳が解けることを防ぐために、創価学会では
「週刊誌や批判本で創価学会や池田先生が悪く言われるのは、ほかの宗教の信者が創価学
会の素晴らしさに嫉妬してウソを言っている」とか、「ネット上にある学会批判はすべて
デマ」「批判が起こるのは魔の働き」などと学会員に吹き込んいる。
また、これまで述べてきたように、創価学会は矛盾だらけである。それに気づくには、
何も外部の人間による批判に目を通す必要などない。
彼らが「現代の御書」であるという『人間革命』を読めば、まともな思考力を持った者
ならば、おかしいと気づくはずである。
以前述べた内容と重複するものもあるが、その例をいくつか挙げる。
「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教
と断定すべきである」(第二巻)
「御僧侶が浄財を、とんでもないことに使ったとしても、われわれの感知するところでは
ない」(第三巻)
「なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の信仰だけは、絶対に疑っては
ならぬ」(第六巻)
「末法の御本仏」たる池田センセイが、その代表作である『人間革命』に、はっきりと
上記のように書いておられるにもかかわらず、創価学会は教義を変更したし、日蓮正宗の
先代法主・阿部日顕氏の金使いを批判してきたし、日蓮正宗の信仰を疑うどころではなく
破門までされ、そのことを逆恨みして「日顕宗」と呼び、悪罵し続けている。
ほとんどの学会員は、こうしたことに疑問を感じるような知的能力がないか、幼少時か
らの洗脳により、完全な思考停止に陥っているのである。
創価学会に都合の悪い情報を目にすると、思考停止してそれ以上のことは考えないよう
にし、それでも疑念が起これば必死に題目を唱えて忘れようとする。これが洗脳された学
会員の、思考・行動パターンになっている。
彼らがそうするのは、「疑えばバチが当たる」と思い込んでいるからである。
そして、この思考停止は倫理観の麻痺をも伴う。
創価学会員と実際に接した経験のある方のほとんどが感じておられることと思うが、彼
らの中には、人間的に問題のある者が非常に多い。
批判的な情報に触れても、絶対に創価学会を疑わないという思考停止と、仏法=創価学
会は、国法(法律)や世法(常識)に優先するという教義とがあいまって、相手が学会員
でなければ何をしても構わない、思いやる必要はない、警察に捕まりさえしなければいい
という、反社会的態度を生み出すのである。
もちろん、すべての学会員が反社会的な人間というわけではない。中には、よい教師や
友人などから感化され、健全な社会常識や倫理観をもつ者いる。
しかし、そうしたまともな人間は、創価学会という閉鎖的な社会の中においては、カラ
スの群れに紛れこんだ白鷺のごとく疎外感を感じ、周囲との価値観・倫理観の相違に悩む
ことになる。
なぜなら、多くの学会員が無条件に善だと信じている学会活動の多くは、折伏やF取り、
脱会者・批判者への嫌がらせなど、世間的にはただの迷惑行為に過ぎないからである。
嫌なら辞めればいいのではないかと思われるかもしれないが、親から扶養される未成年
者であれば、親の信仰から離れることは困難だし、成年であっても、実の親と敵対するよ
うな選択をすることは難しい。
密度の濃い人間関係に絡めとられて、辞めたくても簡単には抜けられないというのが、
創価学会の特色の一つとなっている。
「福子」として育てられながら、創価学会がカルトだと気づいた者は、多くの場合、学
会活動を止め、非活(ヒカツ)と呼ばれるようになるが、親しくしていた人たちから退転
者として冷たい視線を浴びせられ、苦悩している者も少なくないという。
創価学会員の家庭における、非常に偏った教育の在り方は、人権侵害に該当するのでは
ないかと考えられる。
児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)には、以下の規定がある(法律の条文を
読むのが煩わしい方は、読み飛ばしてください)。
第18条
1 締約国は、児童の養育及び発達について父母が共同の責任を有するという原則につ
いての認識を確保するために最善の努力を払う。父母又は場合により法定保護者は、
児童の養育及び発達についての第一義的な責任を有する。児童の最善の利益は、これ
らの者の基本的な関心事項となるものとする。
第19条
1 締約国は、児童が父母、法定保護者又は児童を監護する他の者による監護を受けて
いる間において、あらゆる形態の身体的若しくは精神的な暴力、傷害若しくは虐待、
放置若しくは怠慢な取扱い、不当な取扱い又は搾取(性的虐待を含む。)からその児
童を保護するためすべての適当な立法上、行政上、社会上及び教育上の措置をとる。
児童の権利に関する条約に対応する国内法は児童福祉法であり、この法律には以下のよ
うな規定がある。
第一条 全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのつとり、適切に養育されるこ
と、その生活を保障されること、愛され、保護されること、その心身の健やかな成長
及び発達並びにその自立が図られることその他の福祉を等しく保障される権利を有す
る。
第二条 全て国民は、児童が良好な環境において生まれ、かつ、社会のあらゆる分野に
おいて、児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され、その最善の利益
が優先して考慮され、心身ともに健やかに育成されるよう努めなければならない。
○2 児童の保護者は、児童を心身ともに健やかに育成することについて第一義的責
任を負う。
○3 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育
成する責任を負う。
創価学会の独善的で反社会的な教義や、池田大作のごとき悪しき俗物への個人崇拝を児
童に植え付けることは、「心身の健やかな成長」を保証される権利を侵害する行為である
ことは明白であろう。精神的な虐待といっても、過言ではないかもしれない。
残念ながら、現行の法制には創価学会のようなカルトによる洗脳を、明確に規制する条
文は存在しない。公明党が国会で一定の勢力を保っている間は、そのような法律の制定は
妨害されること必至だし、仮に妨害がなくても家庭での教育を規制することは、立法上困
難ではないかと思われる。
児童福祉法は「児童の年齢及び発達の程度に応じて、その意見が尊重され」るよう努め
なければならない、と規定しており、一定の判断能力のある年齢、例えば刑事責任年齢で
ある14歳以上の者については、親の庇護を受けているとしても、信教の自由を相当程度に
認めるべきではないかと思われるが、この規定は努力義務なので、違反しても罰則等の法
的制裁が科されるものではない。
創価学会は、数百万人の会員を擁するマンモス教団である。そうような巨大組織が押し
つける理不尽な洗脳に対して、一個人の良識だけで立ち向かうことは困難であり、公的な
対応が必要と考えられるが、奴らが権力を握っている間は、カルトに対する法的規制を実
現することは難しい。
迂遠なようであるが、創価学会がいかに反社会的で人権蹂躙的なカルトであるかを、少
しずつでも広めていくしかないのであろう。当ブログがその一助となるよう、私も務めて
いきたいと考えている。
補足1 福子の語源
福子とは、法華経の法師功徳品第十九にある「安楽産福子」に由来する。創価学会だけ
ではなく、他の日蓮系教団でも使われるようである。
補足2 被害者面した加害者
創価学会員の中には強引な折伏を行い、それを所属する組織(学校・会社等)において
問題視されると、「自分もそれが正しいことだと思い込まされ、仕方なくやっている」な
どと、被害者面して批判をかわそうとする者もいる。
そういう者に限って、ほとぼりが冷めたころに、また同じことを繰り返すことが多い。
創価学会の反社会性と、良識との板挟みになって葛藤し、折伏などの学会活動に消極的な
学会員は被害者だといえるが、都合のいい時だけ被害者面する者に騙されてはならない。
折伏をするような者については、その情報を共有し、警戒を怠るべきではない。狂信的
な学会員はカルトの被害者ではなく、加害者として厳しい目を向ける必要がある。