今回も財務に関する記事を投稿する。似たような話が続き、食傷気味の方もいらっしゃ
るかと思うが、創価学会について調べると、その銭ゲバぶりのひどさを物語る話が、次か
ら次へと出てくるので、もうしばしお付き合い願いたい。
前々回、女優の杉田かおる氏の著書から、貧しい学会員に無理をしてでも財務をさせよ
うとする、創価学会の実態を目にした彼女の感想を引用した。「なけなしのお金を募金さ
せられた人が、どうして幸せだっていうの……」という杉田氏の言葉には、血の通った人
間ならば誰しも共感を感じることだろう。
創価学会は、人間関係の密度の濃い、ムラ社会的な共同体である。当然、各地域の幹部
は、経済的に苦しい立場の学会員が少なくないことをよく知っている。
それなのにどうして、自分の仲間であり、しかも金に困っているような人、生活苦の人
から搾取するようなむごい仕打ちができるのか、疑問に思われる方もいらっしゃるであろ
う。
そこで今回は、学会幹部の心理や考え方に焦点を当てたいと思う。
以前2chに「池田大作名誉会長の手腕」と題する文章を書き込んだが、その中でも述べた
元学会の顧問弁護士・山崎正友氏の述懐を再度引用する。
> 財務の集り具合を地域ごとにチェックし、良いところの幹部は優遇し、悪いところの
> 幹部はイビリ抜く。信じられない向きもあろうが、池田大作は〝金〟と〝人事〟だけ
> は、絶対に人任せにしないのだ。幹部も職員も、池田大作の眼鏡にかなわなければ昇
> 給も昇進も覚束ないことを、骨の髄まで身にしみて知らされる。それが、池田大作の
> 支配の手段なのだ。
(山崎正友著『懺悔の告発』より引用)
池田大作による支配が、創価学会を末端信者を搾取する、過酷な組織に仕立て上げた一
因であることは否定できないだろう。その実態は、どのようなものだったのだろうか。
創価学会では、毎年正月に各地域の学会施設で「新年勤行会」を開催するが、その際に
も「広布基金」と称し金を集めている。
年末の財務は一口一万円からだが、広布基金には金額の規定はない。実際には千円から
一万円の間が多いようである。
元公明党都議・龍年光氏が、この「新年勤行会」による金集めに際し、池田大作の指揮
監督の下、競い合って働く学会幹部の姿を述懐しているので以下に引用する。
> しかもその際、「広布基金」と称する金が強制的に集められるようになった。前も
> って封筒が配られ、これに金を入れて持参し受付に差し出さないと、中に入れないよ
> うな仕組だ。
> 池田は、新年に集まった人数を、地区ごと、会館ごとに競争させるようになった。
> この競争に自分の地位がかかってくる幹部は必死である。「今年はこういう方法で人
> を集めよう」といったノウハウを競うようになっていった。
> 本山の「雪山坊」は、学会および公明党幹部の専用宿泊施設である。私も年始登山
> の際に何度かここに泊まったが、北条が死んだ翌年の大晦日から二日にかけて泊まっ
> た時に目にした光景には、ほとほと呆れてしまった。
> 坊の奥には池田の専用室があるが、明け方にここに各方面の最高幹部が集まり、協
> 議をする。協議が終わると、皆がバーッと出てきて、電話機に飛びつく。各地の会館
> に電話して、「何人集まった!?」と聞く。集まった人数が、即ち金の額なのだ。その
> 結果を持って、奥にいる池田に一秒でも早くと報告に走る。山崎尚見(現副会長)も
> その一人だった。
> この競争に負ければ学会内出世レースから脱落するから、みな必死の形相だ。
> 池田は、それを集計して分析している。まるで餓鬼の集まりのような、おぞましい
> 光景ではないか。
(龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)
※ 引用中の本山とは、日蓮正宗総本山大石寺のことである。ここで描かれている出来
事の時期は、昭和57年(1982年)正月で、創価学会が日蓮正宗から破門される以前で
ある。
学会幹部もまた、熾烈な競争により追い立てられていることが、この記述からわかる。
なお、同様の出来事を元公明党委員長・矢野絢也氏も、『私が愛した池田大作』で述べて
いる。池田大作が健在だった頃は、こうした醜い忠誠心競争が常態だったのだろう。
しかし、いかに幹部同士の競争が激しいものであったとしても、それだけでこれまでに
述べてきたような、過酷な金集めで末端信者たちを苦しめる、血も涙もない仕打ちができ
るものだろうか。
私は学会幹部が、まるで時代劇の悪代官のような悪辣な振る舞いをするもう一つの原因
として、創価学会の教義があると思う。自分のために、他人を蹴落とすことを当然視する
考え方が、学会にはあるのだ。
> 次に述べるのは、戸田が敗戦後間もなく全国を遊説してまわっていたとき、当時は
> 別の宗教団体に属していた女性が、戸田をかこむ座談会(学会でいうところの集会)
> に出席したときのエピソードである。
> 「その頃、属していた団体の〝先生〟は、座談会の壇上にのぼると、それまで先生の
> ほうを向いていた扇風機を聴衆に向けて、皆さんもどうぞ涼んで下さいとおっしゃる
> のです。
> しかし、戸田先生の集会に出ると、先生は扇風機を自分のほうに向けて、『見まし
> たか。皆さんひとりひとりが、こうならなくっちゃいけないんですよ』とおっしゃる。
> そのとき思いました。これは戸田先生の勝ちだ」
(佐高信・テリー伊藤 編著『お笑い創価学会 信じる者は救われない』所収
井田真木子著「池田大作 欲望と被虐の中で」より引用)
上記引用中の「戸田先生」とは、いうまでもなく学会の第二代会長・戸田城聖のことで
ある。戸田は、〝自分がいい思いをするために、他人に不快な思いを強いることができる
ような地位・立場にならなくてはならない〟と説き、それに惹かれた人々が、創価学会に
入会したのである。
この戸田の主張は、宗教の教義や思想というよりも、むき出しのエゴイズムそのものと
言った方がより適切と思える。このような身勝手な考え方を、正しい宗教の教えと信じる
学会幹部が、自分の出世のために末端会員を虐げるのは、当然の成り行きなのだ。
ナマのエゴイズムを、そのまま肯定するこの戸田思想の、最も忠実な実践者は、池田大
作その人であろう。まったく大した〝師弟不二〟である。
表題の「学会幹部に良心はないのか?」について、私なりの答えを述べるならば「社会
通念でいう良心とは異質な、学会流の〝良心〟ならばある。だがそれは、弱者への思いや
りだとか、優しさだとかの利他心を麻痺させ、学会組織への貢献の大きさのみを善悪の基
準とする、極めて歪で偏ったものである」といったところだろうか。
そんなものは良心とは呼べない、と感じられる方も多いだろう。実際、創価学会員には
一見すると人当たりはいいが、裏では人を利用したり、陥れたりといった振る舞いを平気
でする人間のクズのような輩が多い。これは私の実体験から断言できる。
創価学会は、利己主義を正当化する教義を持ち、自分のために他人を苦しめて平然とし
ていられる人格破綻者を量産する異常なカルトである。学会員が利己的でない動機のため
に行動すること、つまり彼らなりの利他心を発揮するのは、創価学会という組織のために
行動する時だけではないかと思われる。
学会員にとっては、創価学会と自分さえよければ、社会全体がどうなろうが知ったこと
ではないのだろう。このような邪教が、はたして社会にとって必要な存在だろうか。
普通の人なら「邪悪なカルトなど不要の存在」と、答えるはずである。学会員の皆さん
にも、本当に創価学会が社会から必要とされているか、よくよく考えて頂きたい。