2017年5月16日火曜日

『人間革命』と結核

 かつて結核は「国民病」ともいわれ、不治の病として最も恐れられた感染症だった。特
に終戦後の数年間は、結核は日本人の死亡原因の第一位だった。
 物資の欠乏による栄養不良が、感染症の蔓延を引き起こしたのである。

 この時代を背景として描かれる『人間革命』にも、結核について描かれている。この小
説の主人公である戸田城聖も、表向きは著者ということになっている池田大作も、結核を
病んだことがあるので当然であるが(これまで何度も述べたが、『人間革命』の本当の執
筆者は篠原善太郎氏である)。

 『人間革命』における結核は、信心の功徳により克服されるものとして描かれている。
例えば第三巻には、昭和23年1月31日に座談会で折伏を受け、入信した夫婦について以下
のように述べられている。


>  入信した山川夫妻にも、初信の功徳は歴然とあらわれた。それは、きよのの結核で
> ある。四年まえの大喀血いらい、年一回は医者を恐怖におとしいれるような大喀血を
> 繰りかえし、特異性体質の患者として、再起不能とまでいわれていたのが、入信十日
> もたたないうちに、一日中起きていられる体となった。それと同時に、長年の神経痛
> や、膀胱炎まで癒っていたのである。生命に実感として味わった信仰の功力と、その
> 喜びに、一家も楽しく真剣に唱題していった。


 これが事実であれば、大いに結構なことである。だが当時、結核の症状が改善していた
のは、創価学会の入信者だけだったのだろうか。

 戦争終結により物資の欠乏が改善されたことや、保健所からの栄養指導を受けて、食事
からとる栄養が以前よりも改善したことにより、病気への抵抗力が強まった人は少なくな
かったはずである。

 ※ 戦後まもない時期は、栄養失調等の問題が深刻だったため、保健所が効果的な栄養
  のとり方や調理法についての指導を、積極的に行っていた。

 栄養状態の改善による病気からの回復を、「信心の功徳」と解釈することも、個人の内
面の自由ではあるが、それは客観的に検証可能な事実とは、峻別されるべきであろう。

 そして何より、当時の日本では国民病である結核の克服に向けて、占領軍の支援の下、
国家的な取り組みがなされていた。その恩恵を受けた結核患者も少なくなかったはずであ
る。公益財団法人結核予防会結核研究所が公表している資料「わが国の結核対策の歩み
から、当該部分を引用する。


>  占領軍総司令部は結核を含め感染症対策の推進は自国の将兵の安全のためにも必要
> だったため,積極的に指導と援助を行い,公衆衛生対策が強力に進められた。1947
> (昭和22)3月には結核の届出規則を改正,結核のすべての病類の届出を義務づけ,
> 翌年にはBCGを含む予防接種を法制化し,BCGは生後6ヶ月以内と,30歳になる
> まで毎年,ツ反応陰性者には接種することとされた。
>  抗結核剤SMは1944年に開発されたが,わが国に入ったのは1948(昭和23)年12月,
> GHQ(連合軍総司令部)がSMの菌株を厚生省に渡し生産を進めるよう指示し,こ
> れが軌道に乗るまでの分としてSM200kgの供与を受けてからである。これにより患
> 者発見,治療,管理,予防のすべてが一応揃ったが,①それぞれ別の法律によって施
> 行されていたので一本の法律で統一的に実施することが望まれた。②しかもこれらの
> 方策の多くはわが国の研究者が30年以上かけて築き上げてきた成果に基づいて構築さ
> れた。③1947(昭和22)年の保健所法の改正により,結核行政を厚生省から保健所ま
> で一貫して実施する体制も出来ていた。(以下略)

 ※ 引用中の“SM”とは、結核菌に効果のある抗生物質ストレプトマイシンのことである。
  ストレプトマイシンは1944年に開発され、その功績に対し1952年のノーベル生理学・
  医学賞が贈られている。


 まさに国家プロジェクトとして、結核対策が進められていたわけであるが、中でもそれ
まで有効な治療法がなかった結核に対して、ストレプトマイシンという治療薬が登場した
ことは重要である。ストレプトマイシンはその後、昭和26年(1951年)には保険適用対象
となり、同年10月からは公費負担の対象となった。

 『人間革命』では、小説の舞台となった戦後まもない時代の国際情勢、経済事情、社会
問題等の世相について、かなりの紙幅を割いて説明している。

 しかし、奇妙なことに当時の日本国民の一大関心事であったはずの結核対策や、暗い世
相の中において、輝ける希望ともいえる結核治療薬ストレプトマイシンの発見・普及につ
いては、まったく触れられていない。「信心の功徳」による病気平癒の記述は、事欠かな
いにもかかわらず……。

 上記の第三巻からの引用は、ストレプトマイシンがもたらされる以前のことではないか、
と反論される方もおられると思われるので、より後の時期を描いた第十巻からも引用する。


>  昭和二十八年九月のある日、彼女の住んでいた会社の寮に、従弟がひょっこり訪ね
> てきた。彼は永年の結核重症患者である。
>  その彼が、元気な血色でにこにこしながら、突然現れたのである。彼女は彼の出現
> が信じられなかった。
> 「まあ、どないしたんや」
>  彼女の驚愕は、彼の話を聞いて、さらに深まった。
> 「姉さん、この信心はすごいんや。信心で僕の結核が綺麗さっぱりと、こないに治っ
> たんや」  
> 「そんなこと、世の中にあるのん?」
> 「あるもないも、このとおりや。僕ばっかりやないで。姉さん、まあ聞いて」
>  従弟は座談会で聞き知った、多くの人びとの体験を、つぎつぎと語った。
>  麻田の驚愕は、強い好奇心に変わった。半生の看護婦の体験から、結核重症患者の
> あわれな末路を知りすぎるほど知っていたからである。

 ※ この後、この看護婦は創価学会に入信したとされている。


 この場面では、看護婦である麻田という女性のもとにその従弟が訪れ、創価学会に入信
したことで結核が治ったと告げているわけだが、描かれている時期は昭和28年(1953年)
であることに注目されたい。

 前述のように、昭和26年(1951年)にはストレプトマイシンは保険適用対象となり、広
く結核治療に用いられるようになっていた。その成果は大きく、昭和25年まで死亡原因一
位だった結核が、26・27年には二位になり、28年には五位にまで後退した(厚生労働省
人口動態統計年報」による)。

 看護婦を務めていた人物が、ストレプトマイシンをはじめとする化学療法の成果を知ら
ない方が不自然である。この話が事実であるとしたら、麻田という看護婦はよほど暗愚な
人物なのであろう。

 結核から回復した元患者は、当時ありふれていた。その理由は、何かの宗教に入信した
ことによるご利益などではなく、医学の進歩や保健医療体制が整備されたことである。

 『人間革命』第十巻には、池田大作(作中では「山本伸一」)による病気で苦しむ学会
員への指導も描かれているが、そこでも適切な医療への言及はない。


>  また別の質問がつづいた。
> 「肺病が治りまっか?」
> 「この私も肺病だったのですが治っています。御本尊にしっかりと唱題し、リズム正
> しい生活をし、栄養をとれば、肺病くらい治らないわけはない」

 ※ 言うまでもないが、この当時「肺病」といえば結核のことである。


 確かに結核といえども、十分な栄養を取り、健康管理に気を配れば自然治癒することは
少なくない。化学療法が普及する前は、そうするより他に治療法はなかったのも事実であ
る。だが、効果の高い治療薬が普及したのであれば、医療も重視すべきではないか。

 なんとなれば、結核は感染症であり、自分さえ治ればよいというものではない。仮に自
分が助かったとしても、抵抗力の弱い子供や老人などにうつしてしまえば、死に至らしめ
てしまうこともあり得るのである。『人間革命』の記述は、無責任極まりない。

 『人間革命』には、医療を軽視する記述があるわけではないし、創価学会にも、エホバ
の証人の輸血拒否のような、明確に医療を否定する教義があるわけでもない。

 しかしながら、『人間革命』において、結核治療に関する医療の進歩についての記述が、
不自然なほどに欠落していることから明らかなように、創価学会が医療を軽視しているこ
とは明白である。

 創価学会においては、「病気になるのは信心がおかしいから」という指導が、池田大作
以下、幹部によってなされてきたため、学会内部では、病気になってもそれを正直に言い
だせない空気がつくられてきた。

 これは決して過去の話ではない。現に池田大作は、平成22年(2010年)以降、何年も姿
を見せることができずにいる。池田自身が「病気になるのは信心がおかしいから」と言い
続けてきたため、病気やその後遺症で苦しんでいる姿を見せると、学会員を動揺させる恐
れがあるからであろう。

 創価学会は「真の宗教は完成した科学」などと主張し、唯一の「真の宗教」を自称して
きた。しかしてその実態は、医学の進歩という科学技術の成果を軽視する、非科学的なご
利益信仰に過ぎない。

 創価学会が実際にやっていることを見れば、霊感商法と何も変わらない。「財務をする
と倍になって福をもたらす、ガンなどの病気も治る」とか、「『聖教新聞』は池田先生か
らのお手紙だから、何部も購読すれば功徳がある」とか、全部何の根拠もない与太である。

 誤解のないよう申し添えるが、私は「病は気から」という昔からの言い習わしを否定す
るものではない。偽薬にも一定の効果がみられることが知られているように、気の持ちよ
うは、病気の治療においても大切である。

 その意味では、病魔に立ち向かうにあたって、信仰を心の支えにすることは決して悪い
ことではないだろう。だがそれは、適切な医療や健康管理がなされることが前提である。
信仰への偏った思い入れが、医療行為の軽視をまねくことは、治療にとって有害無益であ
ることは言うまでもない。

 また、診療にかかる代金をはるかに上回るような、高額のお布施や祈祷料、「財務」な
どを要求するような宗教は、インチキ宗教として糾弾されるべきである。

 『人間革命』が、結核が死亡原因第一位だった時代、そしてその結核を医学の進歩が克
服しつつあった時代を舞台とし、しかも作中に結核患者を何人も登場させておきながら、
ストレプトマイシンの発見・普及について何も言及していないことは、創価学会がいかに
非科学的で、前近代的な集団であるかの傍証といえよう。

 『人間革命』の非科学性は、これにとどまるものではない。今回は重要な医学の進歩に
ついての記述がない、という消極的な面を指摘したが、次回は創価学会が非科学的なイン
チキ宗教であるという、確証を挙げて論じる予定である。

2017年5月14日日曜日

アル中・戸田城聖

 NHKの番組と民放各社のそれとの大きな違いの一つとして、『NHKスペシャル』に
代表される硬派ドキュメンタリーの存在が挙げられる。

 NHKのドキュメンタリー番組の嚆矢は、昭和32年(1957年)11月から放送された『日
本の素顔』と題されたシリーズだった。

 その第一回「新興宗教をみる」では創価学会も取り上げられ、大石寺で行われた戸田城
聖の法華経講義の模様が放送された。

 その撮影当日、控室の戸田のもとに挨拶に出むいた同番組のディレクター・吉田直哉氏
が、会見の模様を著書に記している。


>  幕あきは教祖であった。
>  飛ぶ鳥も落とさんばかりに強勢を拡大している新宗教の会長が、森羅万象を映像化
> しようと志した私の、最初の対象だったのである。
>  そして、想像もしなかったことばかりが起きた。
>  「グイッとあけな。グイッと」
>  「……いえ、これから撮影……。仕事中ですから」
>  「なにィ? それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
>  黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にす
> るのも勇気が要った。尋常ならぬ量のウィスキーなのだ。
>  こんなに荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコッ
> プのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しのビールを垂らして割って、
> 机の上に溢れさせるのだ。その濡れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押
> してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である。
>  縁側の籐椅子にただひとり坐って、親の仇のように矢つぎばやに酒をあおっている
> のは、創価学会第二代会長となって六年目の戸田城聖氏。
 (中略)
>  そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ちあがった。ネクタイ
> は右の肩の上にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾が半分以上出て、みるから
> に酔漢の姿である。
>  何によらず、この姿を克明に捉えることが肝要だと、先まわりするため私は講堂へ
> 走った。
 (中略)
>  気になったのは、ひっきりなしに病人が運び出されていることであった。担架もあ
> ったが足りないらしく、戸板が使われていた。その上に乗せられ、身をよじったり痙
> 攣したりしている人を、青年たちが運び出すのと次つぎにすれちがった。もともと病
> 人なのか、薄暗い会場の異様な熱気で気分がわるくなるのか、舞踏病のような症状の
> 人が続出しているのである。
 (中略)
>  もっと演台ちかくにカメラを据えさせてくれ、いや絶対駄目だ、と押し問答をして
> 何の対策も立てられないでいるうち、左手から戸田会長が登場してしまった。
 (中略)
>  そして、演台にたどり着いて両手を突くなり、いきなり「説法」ははじまったので
> ある。
>  「おろかものが!」
>  開口一番の獅子吼が、この言葉であった。
 (中略)
>  しかも、戸田会長はそれきり口をつぐんで虚空をにらみ、一言も発しない。
>  気まずい沈黙の時間が流れてゆく。きこえるのは、いやにかん高いカメラの回転音
> だけ。このカメラはゼンマイが動力で、十五秒ごとにネジを巻かなければならないの
> である。
>  身動きもせず何も語らない人を写して、十五秒が過ぎた。カメラが停止したから、
> あかりを消す。とたんに、
>  「このオレが、病気もなおらん信心をすすめると思うとるのか!」
>  大音声である。病人が続々と戸板で運ばれた。その姿を見て、功徳を疑う心が胸を
> よぎったのではないか? おろかものが! という論旨であった。
 (吉田直哉著『映像とは何だろうか』より引用)


 『人間革命』などの創価学会の出版物では語られることはないが、外部のジャーナリス
トや学者が戸田城聖について論じた書物では、ほぼ必ず言及されているのが、その常軌を
逸したアルコール中毒ぶりである。

 戸田は常に酒を手放さず、治安維持法違反で入獄していた期間をのぞいて、29歳から毎
日欠かさず酒を飲み続けた。『人間革命』にも、戸田が酒を飲む場面は何度も描かれてい
る(さすがに酔って醜態をさらす場面は、書かれてはいないが)。

 講義や座談会の際も、酒を飲みながら行うことがしばしばであった。上記引用に見られ
るように、酩酊して言葉につまったり、時には完全にへべれけになって、何を言っている
のかわからないこともあったという。

 しかも『人間革命』第八巻によると、戸田は青年部に対して禁酒令を出していたという。
理由は酒のために「月給をつかいはたして、生活に困る」かららしい。

 アル中から「酒を飲むな」と言われても、まったく説得力がないし、戸田の酔態をたび
たび目にしていた学会員たちが、この禁令を真に受けたかどうかもあやしいものである。

 このような言動不一致もはなはだしい禁酒令は、自らの権威を失墜させただけではない
のだろうか。実際、『人間革命』第七巻に、水滸会という男子部の会合に出席した大学生
が、戸田を侮るかのように酒についての蘊蓄を話し続け、激怒させたとの記述もある。

 戸田城聖は、昭和33年(1958年)4月2日、日大病院で死去した。死因は肝硬変による心
臓衰弱だった。酒が戸田の寿命を縮めたことは明白である。

 創価学会は、「金が儲かる」「病気が治る」という現世利益を打ち出して、信者を獲得
してきた。『人間革命』第五巻には、昭和27年4月7日の立宗七百年記念春季総会において、
「大酒飲みが入信によってとまった」という体験発表があったと記述されている。

 しかし、創価学会の会長である戸田城聖のアルコール中毒は治らなかった。そもそも創
価学会の信心には、酒飲みを治す功徳などないのか、それとも戸田には信心がなかったの
であろうか。

 創価学会は強引な勧誘により、多くの信者を獲得してきたが、一方では退転者も少なく
ない。『人間革命』にも、学会に入信し御本尊を受けとったものの、後に幹部が様子を見
に行ってみると、本尊を焼いてしまっている例もあったと記されている。

 本尊を焼いたのは、学会による謗法払いに対する意趣返しという意味合いもあろうが、
生き仏のように言われている戸田会長を、学会の集会等で目にし、その戸田は実際には昼
間から酒を飲んで講演するようなアル中であること知って、幻滅のあまり信仰心を無くし
た者も、相当数いたのではないかと思われる。

 非難がましいことばり書き連ね、公平性を欠くことになるのも好ましくないので、戸田
が酒をたしなんでいたことが、役に立った事例も書き記しておく。

 彼自身、酒飲みだけのことはあって、酔っ払いの扱いについてはよく心得ていたようで
ある。『人間革命』第四巻によると、座談会に闖入した酔っ払いと喧嘩になり、負傷した
幹部に対して、戸田は次のように指導したという。

> 君、まず座談会に酔っぱらいなぞ決して入れないことだ。

 何をかいわんや、である。



補足1 創価学会の教義におけるアルコール中毒の位置づけ

 創価学会の教義では、人間の境涯を一番上の「仏界」から一番下の「地獄界」までの十
段階に分類している。『折伏教典』の初版では、そのうち下から二番目の「餓鬼界」に、
アルコール中毒患者を含め、以下のように説明している。

> 餓鬼界―下級労働者、衣服住居等まではとても手が廻らず毎日毎日の生活が食を得る
>  為に働いて居るという様な人々。アルコール中毒になって酒が無ければ生きて行か
>  れぬといった人間、金をもうける為には手段を選ばぬという拝金主義者、其他何ん
>  でも目についたものが欲しくてならぬという様な性格異常者。

 戸田城聖はかつて、「キリスト教によって救われたとしても、せいぜい天界までが限度
で、稀に菩薩界になる」(『人間革命』第七巻)と語ったことがあるという。

 それに習って言うならば、「創価学会によって救われたとしても餓鬼界までが限度」と
いったところであろうか。

 池田センセイは、「師が、例え地獄にゆこうと、勇んで、地獄にゆくことこそ、真の師
弟だ」と、かつて語っておられた。池田センセイが強引な金集めに励まれたのは、師と同
じ餓鬼界の境涯であろうとする、師弟不二の実践だったのではあるまいか。

 また、熱心な学会員の中には、高額の財務やマイ聖教のために生活を切り詰めるという、
餓鬼界の境涯に自ら堕ちている方もおられるが、それも「永遠の師匠」との師弟不二の実
践なのだろう。まことに麗しい師弟愛である。


補足2 『映像とは何だろうか』について

 誤解のないよう申し添えるが、この本は創価学会を批判するものではない。著者の長年
にわたるNHKでのドキュメンタリー制作や、大河ドラマの演出の経験を踏まえて、「映
像とは何か」について考察したものである。

 創価学会や戸田城聖について触れられているのは、冒頭のごく一部だけである。著者が
戸田の逸話を記した理由は、ドキュメンタリーの撮影では予想外のことが起こることがま
まあり、現場で〝これを視聴者に伝えるべきだ〟と思ったことを、必ずしも映像化できる
とは限らないと訴えたいがためのようである。

 また、初めてのドキュメンタリー撮影で、仰天するような事実を目にしながら、それを
映像で視聴者に伝えられなかったことへの悔恨から、せめて活字で伝えたかったのかもし
れない。

 同書は岩波新書として刊行されている。一読の価値はある本だと思う。だが、繰り返す
が創価批判本ではないので、本稿を読んで購入を思い立たれた方は、ご留意いただきたい。

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2017年5月11日木曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐③)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐

 昭和25年(1950年)秋、戸田城聖は新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大
東商工」)を設立する。戸田はこの会社のオーナーだったが、東京建設信用組合(『人間
革命』では「東光建設信用組合」)の破綻に伴う責任追及を受けている身であったため、
顧問という一歩引いた立場で関与した。

 新会社の社長には和泉覚をあて、専務理事には愛人の森重紀美子、営業部長には池田大
作が就任した。『人間革命』には、山本伸一こと池田の営業部長就任は述べられているが、
和泉や戸田の愛人については何も述べられていない。


>  新設の大東商工株式会社も細々と回転しはじめたが、残った社員は伸一ほか戸田の
> 親戚の二、三名にすぎなかった。二十二歳の伸一は、営業部長という重責におかれた。
> 信用組合の清算事務を急いでいたが、大蔵省の心証は、まだ必ずしも芳しい状態では
> なかった。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 しかし、年が明けた昭和26年(1941年)、大蔵省からの責任追及はやみ、取り立てに関
するトラブルでの刑事告訴も、起訴には至らなかった。東京建設信用組合は、同年3月11日
を持って解散し、その債務は戸田個人が負うことになった。

 私は数冊の関連書籍をあたったのだが、戸田がどのような手段で法的責任を免れたかを、
記載しているものはなかった。
 一方、『人間革命』では、以下のようなふざけた説明をしてる。


>  国法による法律的制裁が、まったく不可避のものとして、あれほど絶望的な様相を
> おび、戸田城聖の一身にふりかかろうとしていたのだ。国家は法律の適用を曲げるこ
> とはできない。戸田よりも、顧問弁護士たちが匙を投げていた事件である。では、な
> にがそのような幸運な決定をもたらしたのか。――戸田には、いまそれが、はっきり
> と解っていた。「無量義は一法より生ず」――最高の因果の法則は仏法である。一切
> の因果の法則の根本は仏法にある。したがって、「仏法、かならず王法に勝れり」と
> いうことの確かな顕証を、戸田は身をもって知ったといってよい。日蓮大聖人の仏法
> のすごさは、戸田を救ったが、また同時に彼の使命の重大さを警告したものとも思え
> た。
 (『人間革命』第五巻より引用)


 『人間革命』では、この件により、「仏法、かならず王法に勝れり」との確信を持ち、
「使命の重大さ」を自覚した戸田は、創価学会第二代会長への就任を決意したと述べられ
ている。

 前回引用したが、戸田は信用組合の債権者に対し、平身低頭して「生きている限り、必
ずこの戸田が誓って全部返済します」と言ったにもかかわらず、その債務は、組合解散の
二年後に三割返済で清算された(このことは『人間革命』には書かれていない)。

 被害者から見れば詐欺同然の借金踏み倒しであるが、それを「日蓮大聖人の仏法のすご
さ」だというのが『人間革命』の見解である。踏み倒しの件を踏まえて上記引用を読めば、
創価学会のいう「仏法」がいかなるものであるかは、おのずと明らかであろう。

 この頃、戸田城聖は、立正佼成会、成長の家、天理教といった他の新興宗教の成功を参
考にしつつ、彼のこれまでの事業経験をもとにした、新たな事業の着想を得たようである。


>  彼は信用組合が営業停止命令を受けたとき、「ぼくは経済戦で敗れたが、断じてこ
> の世で、負けたのではない」といったという。確かに、再起不能なまでに信用も資金
> も失った戸田は、この世で負けたのではなかった。ふつうの事業であくせくする必要
> は最初からなかったのだ。彼は立正佼成会がその成功を例示している新事業、そして
> 「信者を三十人集めれば食っていける勘定の、ベラぼうに高収益のあがる商売」(大
> 宅壮一)である教団指導者業にすぐ転進すべきだったし、また彼には、逆転勝利への
> 道はそれしかなかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 これ以降、戸田は創価学会を事業と表裏一体のものとして活用していく。つまり、創価
学会の会員を、自らの事業の顧客とするシステムをつくりあげたのである。
 この当時の主な出来事を時系列順に列挙する。


 昭和26年4月 『聖教新聞』創刊(旬刊 編集主幹:石田次男)
     5月 戸田城聖 創価学会第二代会長就任
     7月 財務部員制度創設
     10月 宗教法人創価学会の設立を東京都に届出
     11月 『折伏教典』発行
 昭和27年4月 『日蓮大聖人御書全集』発行
     8月 東京都知事から宗教法人として認証 
 昭和28年春頃 東洋精光(『人間革命』では「大洋精華」)の経営権取得


 この頃確立された、宗教と出版業と金融業を三位一体とするビジネスモデルが、戸田城
聖と池田大作に経済的成功をもたらした。

 戸田は〝創価学会は金のかからない宗教〟と標榜し、貧しい会員からは会費を取らない
ことで、他の新興宗教を「カネ取り宗教」と批判して差別化を図った。

 その一方で、出版業の経験を活かして新聞を発行するとともに、『御書』や『折伏教典』
などの宗教書を出版し、それと並行してその読者となる学会員も増やすという戦術を取り、
信者の増加が増収増益に直結する仕組みを創価学会にくみこんだ。

 要するに、会費を取らない代わりに新聞購読料を徴収し、書籍を売りつけるビジネスモ
デルを採用したのである。これは一面では、生長の家のビジネスモデル――『生命の実相』
などの教祖の著書を、信者に売りつけるというもの――を真似ているともいえる。

 学会組織を利用したビジネスの中でも、その当時の稼ぎ頭は大蔵商事だった。その概要
を、池田大作の一年ほど後に入信した後輩であり、古参の学会幹部として後に都議会議員
を務めた藤原行正氏の著書から引用する。


>  象徴的なのは出版業や正規の金融業ではパッとした働きのなかった池田が、このカ
> ネ貸しではめざましい働きを見せたことである。池田は小金を貯めていそうな学会員
> の家を訪ね回った。各家に図々しく上がりこんでは「戸田先生の苦境を助けるため」
> 「学会のため」などと言葉巧みに話を持ちかけ、カネを集めた。その時、池田が誇ら
> しげに持ち歩いた名刺の肩書は「大蔵商事営業部長・池田大作」となっていた。
>  大蔵商事の業務内容は、利ザヤ稼ぎだった。学会員、あるいはその知り合いから月
> 三分の利子をつける条件でカネを集め、右から左へ月七分の利子で融資。また、手形
> は一割で割り引いてその利ザヤを稼いだわけである。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『聖教新聞』にも「資金の融通は大蔵商事」という広告が掲載されていたことから、同
社の主要な取引相手が学会員だったことは確かであろう。

 池田大作は、金については特殊な感覚を持っていたという。藤原氏は、池田の仕事に同
行した際の経験を同書に記している。


>  お目当ての学会員の家を探し当て、池田が足を止めた。
> 「お、ここはカネを出してくれそうだ」
>  薄汚れた門構えの家だった。とても他人に貸すほどの余裕があるとは思えない。
> 「いや、こういう家には箪笥預金がしまいこんであるんだ」
>  自信満々にそういった池田の読みはピタリと的中した。もう一軒の学会員の家では、
> 一緒にきていた池田の部下が、
> 「あそこはダメですよ。前に借りて、もうカネがない。行っても無駄です」
> 「いや、あの家には必ずまだある。大丈夫だ。行ってこい」
>  そう睨んだ池田が部下を走らせた。実際にカネはあった。私はキツネにつままれた
> ような気分で池田の特異な眼力にただ目を見張っただけだった。


 また、池田の取り立ては苛酷そのもので、「病人が寝ているフトンをはぐ」ことまです
るほどだったという。辣腕の金貸しだった池田の月収は、大卒初任給が一万円に届かなか
った当時、20万円を下らなかった。

 余談だが、こうした大蔵商事の出資者の係累の中には、頻繁に通ってくる池田大作と深
い中になった者もいた。後に「月刊ペン」事件で有名になった渡部通子氏がそうである。

 池田はその当時すでに妻帯していたにもかかわらず、好みの女性を口説き落としていた
わけだが、これも愛人を大蔵商事の専務にした戸田との、「師弟不二」の実践だったのだ
ろうか……。

 大蔵商事と並んで、戸田の事業の柱となったのが「東洋精光」である。この会社は大蔵
商事から借りた金が返せずに経営者が破産し、所有権が移ったもので、元は金属加工など
を手がける町工場だったが、戸田の傘下になってからは大蔵商事の担保流れ品や、電化製
品などを販売するようになった(『池田大作の素顔』による)。

 東洋精光の会社の社長は北条浩、営業部長は藤原行正(『人間革命』ではそれぞれ「十
条潔」「藤川一正」)が務めた。この会社の実態と、『聖教新聞』創刊に際しての戸田の
言動とを引用する。


>  戸田は自ら日用雑貨を販売して歩き、「売れれば功徳がある。買えば功徳がある」
> と会員に強制し、買わない者には罰論まで持ち出して恫喝したという。日用雑貨はい
> つのまにか高級電化製品に変わっていた。常識では考えられぬ価格で大量に仕入れら
> れ、利幅は四、五割。高い値段、しかもアフターケアの不備のため、本部への苦情が
> 殺到したという。だが、戸田は「組織販売で、十万人の会員を握れば大成功だ。宗教
> は儲かる商売だ」と語ってはばからなかったのである。
> 『聖教新聞』発行についても、外部からの資金調達に際して、「これから始める新聞
> は記者も配達人も信者だから、経費は紙と印刷代だけだし、購読料も信者の班組織を
> 通じて集金するので確実である。こんな確実な商売はない」と説得していたという。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)


 戸田が自ら販売をして歩いたのは、旧華族出身の北条や社会経験の乏しい藤原に、いき
なり行商や飛び込み営業のようなことをさせても、上手くいかないことはわかっていたの
で、始めの頃は人生経験豊富な戸田自身が、手本を見せる必要があったからでもあろう。

 昭和20年代後半から昭和30年代初頭にかけての、戸田城聖のビジネスにおける最大の功
労者は池田大作だった。このことが池田が第三代会長に就任できた、大きな理由の一つだ
ったことは疑いない。

 そして、戸田亡き後、池田が実権を握り続けたことにより、ビジネスと宗教を一体化さ
せるあり方が、創価学会の体質として拭いがたく定着していったのである。

 現在の創価学会では、借りた資金を貸し付けて利ザヤを稼ぐという回りくどいことは、
もうやらなくなった。これ以上の国内での信者数の増加は望みがたいので、格好をつける
必要はもうないと考えたのか、かつて他宗教を批判する最大の口実だった〝金集め〟を、
「財務」や「広布基金」という名目で、自ら始めたからである(この点については以前詳
述したので、重複を避ける)。

 本稿の締めくくりとして、『人間革命』第二巻から昭和22年(1947年)10月19日の創価
学会第二回総会での、戸田城聖の講演の一節を引用する。


>  されば、仏の使いの集まりが学会人である、と悟らなくてはなりません。迷える人
> びとを、仏の御もと、すなわち日蓮正宗の御本尊の御もとに、案内するものの集まり
> であることを知らなくてはなりません。
>  このためには、けっして信仰や折伏を、自分の金儲けや、都合のために利用しては
> ならないのであります。仏罰の恐ろしさを知るならば、そんなことは決してできない
> のであって、世にいう悪いことより、はるかに悪いのであります。
>  学会は、名誉のためや、金儲けのためや、寄付をもらうために、動くようなことが
> あってはならないのであります。


 有難さのあまり、涙が出るほどご立派な高説である。『人間革命』の著者であるらしい
池田センセイも、この一節を執筆される際には、恩師の偉大さを偲び、感涙を禁じ得なか
ったのではあるまいか。

 学会員の皆さんにも、戸田センセイ、池田センセイがどれほど高潔の士であったかを、
あらためて考えていただきたいものである。

2017年5月9日火曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐②)

 ※ 承前 戦前・戦中編 戦後編‐①

 昭和24年(1949年)10月、戸田城聖が経営する出版社・日本正学館は倒産し、池田大作
を含めた同社の社員は、金融会社・東京建設信用組合(『人間革命』では「東光建設信用
組合」)に異動する。

 しかし、この東京建設信用組合の経営も順調とはほど遠いものだった。その理由として
は、まったくの異業種である金融業に、元々出版社の社員だった人々をあてたことや、当
時インフレを抑制するために厳しい金融引き締め政策がとられており、深刻な不況だった
ことなどが考えられる。この苦境は『人間革命』にも述べられている。


>  戸田城聖は、こうした経済不況のなかで、停止した出版部門の整理も、多くの債権
> 者を相手に進めなければならなかった。社員の給与も、遅配したり、分割払いにしな
> ければならないこともしばしばであった。しばらくすると、社員のなかで一人、二人
> と退職していくものもあらわれてきた。戸田は、そのようなものを決して追わなかっ
> た。
>  なによりも、資金が枯渇していた。借り主は、いくらでもいる。だが、資金の補給
> 路は、月々細くなっていった。そして、回収の遅延が、資金不足にさらに輪をかけた。
> また、人手も不足になってきた。ようやく彼の事業にも、憂色が濃くなったのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 昭和24年暮れから25年にかけての戸田は、裏地がボロボロの背広を着とおしていたこと
から、「裏ボロ」というあだ名で呼ばれるほど困窮していた。多くの社員が脱落していく
中、まだ22歳の池田大作(『人間革命』では「山本伸一」)も重要な役割りを担わざるを
得なかった。


>  この頃、山本伸一は戸田の指示のままに、毎日、四方八方に飛んでいた。要件のこ
> とごとくは、厄介な外交戦といってよかった。(中略)
>  彼の仕事は、相手の諒解を求めたり、支援を依頼したり、厳重に督促をしたり、苦
> 情を受け止めたり、一件として気の許せる仕事ではなかった。現実の厳しさと、責任
> の重さに、毎日くたくたになって、疲労はかさなった。若い伸一は、あまりにも早く、
> 社会の大きな波をかぶってしまったともいえるのである。
 (『人間革命』第四巻より引用)


 だが、こうした経験は戸田の信頼を勝ち得、後に池田が牧口以来の古参幹部を押しのけ
て実権を握り、若くして第三代会長に就任する上で無駄にはならなかった。ノンフィクシ
ョン作家・溝口敦氏は、以下のように述べている。


>  池田は戸田のカバン持ちとして、信用組合の厄介な外交戦の第一線に、責任を負っ
> て立たされ、金や法、人や組織、インチキや嘘や脅しなど多くのものを学んだ。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 戸田や池田の奮闘にもかかわらず、東京建設信用組合の経営は行き詰まり、昭和25年8
月、ついに大蔵省から営業停止命令が出る。それだけでなく、取り立てに関してのトラブ
ルにより債権者から告訴された。

 この危機に、戸田は創価学会の理事長を辞して矢島周平に譲り、名を一時的に「城正」
と変えて身を隠したという。


>  八月二十四日、戸田は創価学会理事長の職を辞任し、矢島周平を後任にすえると、
> 会員の前から姿をかくした。この時大損害をうけた債権者のひとりが、のちにかれを
> 「インチキ」と激しく非難している。

>  昭和二十四年、当時戸田が西神田にある「東京建設信用組合」なるものを経営して
> いるとき、知人を通じて手形の割引きを依頼されました。まだ保全経済会などの事件
> も起きぬ前で、インフレの名残りで、高い利率にもそれほど不信も抱かず、手形の割
> 引きを、四、五回したものです。
>  また、その信用組合は定期預金なるものを作り、三ヵ月、六ヵ月満期の定期にも加
> 入させられました。そのときすでに多額の貸付金コゲツキのため、四苦八苦の最中だ
> とは、定期の満期の迫ったとき知ったのです。
>  ようやく捕まえた戸田と会ったとき、神田の事務所の裏の小料理屋で、度の強い眼
> 鏡をタタミにすりつけて平身低頭「生きている限り、必ずこの戸田が誓って全部返済
> します」といった姿を今も忘れません。しかし、その後、姿をくらまし、二年後に彼
> の負債(約千五百万円とか)は三割返済の決議により清算されました。
>                    (『週刊朝日』昭和三十一年九月二日号)
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)


 因果なめぐりあわせとしか言いようがないが、東京建設信用組合の倒産から程なくして、
日本は朝鮮戦争による特需景気に恵まれた。世の中が好景気に沸く中、戸田は借金取りか
ら逃れるため、名まで変えてコソコソと逃げまわっていたのである。

 信用組合の出資者の中には学会員もおり、被害を受けた学会員の中には退転する者、数
十世帯の同志を集めて分派を企てる者などが現われたと、『人間革命』第四巻には記され
ている。

 その後、戸田は懲りずに新たな金融会社・大蔵商事(『人間革命』では「大東商工」)
を立ち上げる。そして、この会社の成功が戸田の苦境を救い、池田が学会内部での地位を
固める大きな要因になるのだが、その詳細は次回述べる。



補足1 矢島周平について

 矢島も戦時中、創価教育学会が治安維持法違反で弾圧を受けた際に逮捕され、退転する
ことなく昭和20年4月まで入獄していた、戦前からの幹部だった。

 戦後は日本正学館に勤務しながら、引き続き学会幹部を務め、上述のように戸田が理事
長から引いた際には後任となるほどだったが、戸田が会長に就任して以降は、次第に戸田
に対して批判的となり、創価学会から離れて日蓮正宗の僧侶となったという。


補足2 戸田の事業失敗についての『人間革命』の記述

 創価学会は「この信心をすればご利益がある、金が儲かる」と主張して信者を増やして
きた。その教祖である戸田が、自ら経営する会社を潰してしまったのでは格好がつかない。
世の中が特需景気に沸く中、債権者の目を避けて姿を隠していたというのであれば、なお
さらである。

 『人間革命』では、その理由を戸田が法華経講義を、日蓮が行った講義を弟子の日興が
記したものとされる『御義口伝』ではなく、天台大師の『摩訶止観』に基づいて行ったこ
とに対する〝罰〟だったとして正当化している。

 しかしながら、現在でも創価学会の重要教義である「一念三千」や「十界論」も、元を
ただせば天台大師にさかのぼるものなのだが、こうした教義によって折伏や仏法対話を行
っている学会員は〝罰〟を受けないのだろうか。

 そのような疑問を持つような判断力がある人は、最初から創価学会などには入らないの
かもしれない。学会員の皆さんも少し考えれば、『人間革命』の記述の多くは、手前勝手
な御都合主義に過ぎないと、気づきそうなものだが……。


参考文献
溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』
日隈威徳著『戸田城聖』

2017年5月7日日曜日

戸田城聖のビジネス(戦後編‐①)

 ※ 承前 戦前・戦中編

 治安維持法違反で逮捕され、未決拘留されていた戸田は、懲役三年執行猶予五年の判決
をうけ、昭和20年(1945年)7月3日豊多摩拘置所から保釈された(『人間革命』は、この
場面から始まる)。戸田の事業は崩壊し、多額の負債まで抱えていた。

 事業を再開した戸田は、新たなビジネスとして通信教育を思いたち、早速行動を開始す
る。敗戦直後には、新聞広告を出すなどその動きはすばやかった。当時の模様を、戸田の
伝記から引用する。


>  八月二十三日、アメリカ占領軍の第一陣が、神奈川県の厚木飛行場に進駐した日の
> 「朝日新聞」の一面の左下隅に、一つの広告が載った。
> 「日本正学館」――戸田の再建第一歩の名称だった。その広告以外、他に広告はまっ
> たくなかったのだから、たしかに戸田の立ち上がりはすばしこかったといえるだろう。
> 「中学一年用、二年用、三年用、数学・物象の学び方・考え方・解き方(通信教授)」
> と、大きな活字が並んでいた。そして、小さい活字の説明は――数学・物象の教科書
> の主要問題を月二回解説し、月一回の試験問題の添削をする。解説を「綴り込めば得
> 難き参考書となる」六ヵ月完了。各学年とも六ヵ月分二十五円。前納のこと。資材の
> 関係で会員数を限定する。「内容見本規則書なし」と書かれていた。
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)

 ※ 『人間革命』第一巻にも同様の記述がある。


 戸田は、戦前成功した学習参考書のノウハウをもとに、新たなビジネスとして通信教育
を立案したわけだが、この着想は、戦争末期の学徒動員で、工場での労働や農村での食糧
生産にあたらされており、教育がおろそかになっていた、中学生・女学生の学習意欲に訴
えるものであり、申し込みが殺到した。この事業は、ごく短期的には成功したといえる。

 また、占領軍の進駐にともない英語ブームが起こったが、戸田はこれにもすばやく対応
し、9月には英語の通信教育も開始した。

 出だしは好調だったものの、このビジネスは当時の急激なインフレにより頓挫する。用
紙代や送料が値上がりし続けるのに対し、前金制ではそれを価格転嫁できないのだから、
当然である。

 インフレに対応できるビジネスモデルへの転換を図った戸田は、単行本の出版を再開し
た。単行本なら、発売時の物価に応じて販売価格を変更できるので、前金払いの通信教育
よりも資材の高騰に対応しやすいし、娯楽に飢えていた当時の国民は本を求めていた。

 戸田は戦前、版権を取得していた大衆小説を出版した他、当時、流行語になっていた民
主主義についての本の刊行も計画したという。

 終戦直後の日本では、インフレに加えて物資の不足も、事業を行ううえで深刻な問題で
あった。特に出版業においては、紙をいかに確保するかが重要な経営課題だった。『人間
革命』から、関連する記述を引用する。


>  戸田も、この難関の克服に、懸命にならざるをえなかった。彼の、豪放にして細心
> な事業手腕を、思いきり発揮させたのもこの時である。
>  彼は、自社の紙の入手に奔走するばかりでなく、同業の弱小出版社に、紙をまわし
> てやることもしばしばであった。弱小出版社は蘇生し、彼らは心から感謝した。彼の
> 社には、いつか衛星のように、大小の出版社が出入りするようになっていった。彼の
> 信義と包容力は、出版界の一角に、小さな星群をつくっていった。これが、やがて後
> に、彼を中心とする金融機関の設置にまで、発展するのである。
>  ある時、戸田は、必要量の紙を、どうしても手にいれねばならなくなった。だが万
> 策つき、計画は座礁した。その深夜――彼は、ガバッと寝床の上に起きあがって、
> 「諸天善神、広布の礎のための事業だ。戸田城聖のために、紙を運んでこないか」と、
> 諸天に叱咤の叫びを放った。翌日、交渉の途切れていた社から、思いがけず必要量の
> 紙が、入荷する手はずになったのだった。
 (『人間革命』第一巻より引用)


 戸田の「豪放にして細心な事業手腕」とは、具体的にどのようなものだったか、『人間
革命』には述べられていない。しかし、物資不足のなかにあって、同業者に紙をまわすこ
とができるほど大量の紙を入手できた、戸田の「信義と包容力」あふれる経営手法につい
て述べられている文献があるので、以下に引用する。


>  そこで新聞、雑誌などにたいする当時の用紙の供給は、占領行政のもとで、政府の
> 用紙割当委員会が民間の窓口となり、G・H・Q(連合軍司令部)が最終的に用紙割
> 当てを決定することになっていた。具体的にいえば、G・H・Q内のC・I・C(米
> 軍特務機関が、この種の情報担当をしていたのである。
>  こうした終戦後の環境下、政友会の院外団員もしていたことのある戸田は、当時の
> 大政治家・古島一雄に、彼の得意とする世渡り術をもって近づき、みごとにG・H・
> Qあての紹介状をもらうことに成功したのである。
 (中略)
>  この戸田の戦略・戦術は、みごとに的中した。なぜなら、彼は、この古島一雄の紹
> 介状を持ってC・I・Cを訪れ、さしあたり、保守系の『日本婦人新聞』を通して大
> 々的な反共運動のキャンペーンをすると工作、毎月、新聞二十万部相当量の用紙割当
> てを獲得することに成功したからである。婦人新聞の実際の用紙割当必要量は毎月、
> 二万部数相当量のものであったので、戸田は差し引き十八万部数相当量にものぼる用
> 紙を、得意のペテンの術によって、毎月、自分のものにすることができたわけだ。
>  彼は、この工作して詐取した大量の用紙を、用紙不足にあえぐ出版市場にヤミで横
> 流し、当時の金額で毎月、三~四十万を下らない巨額の不当利益をあげるとともに、
> この大金を、彼の得意とする「酒」と「女」と「事業」に乱費したのである。参考ま
> でに、当時の三~四十万の金の値打ちは、現在の物価指数を千倍として、いまの金額
> でいえば、三億円~四億円にのぼるものである。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)

 ※ 上記引用については、補足で解説を加える。


 またしてもインチキな手口で巨利を得た戸田だが、この不正は半年ほどで露見し、戸田
はGHQから取り調べを受けた。その供述調書の内容には〝狂信的な仏教団体を指導する
が、本人はすべて計算ずくで動くタイプだから、ことさらその信仰に狂信的であることは
ないと述べる〟という趣旨があるという(『邪教集団・創価学会』による)。

 この用紙詐取事件で、戸田は刑事責任を問われることはなかったが、不正な利益につい
ては、5~6年かけて返済することになった。しかし、当時のインフレを考えると、その
負担はそれほど大きくはなかったのかもしれない。

 昭和23年(1948年)、戸田は雑誌の刊行を開始する。まず、少年雑誌『冒険少年』を発
行し、ついで婦人雑誌『ルビー』を創刊した。この『ルビー』の内容は、大絵巻絢爛「新
婚伊豆廻り絵巻 花恥し 新婚の夢」、大特集「未亡人と性」、大特集「小説・産児制限」
といったものだった(野田峯雄著『池田大作 金脈の研究』による)。どうもあまり上品
な雑誌ではなかったようである。この頃、池田大作も日本正学館の社員となっている。

 こうした雑誌は、当初は好調な売れ行きだったものの、その後、戦争の影響で休刊して
いた大出版社の雑誌(『文芸春秋』『婦人公論』など)が復刊しはじめると、人気が低迷
し、返本率が急上昇して、ついに休刊を余儀なくされた。

 日本正学館は倒産し、戸田は新事業である金融業に進出するが、それについては次回述
べる。



補足1 古島一雄について

 上記引用にある古島一雄は、明治から昭和にいたるまで活躍した政治家であり、戦後は
吉田茂の相談役をつとめるなど、小さからぬ影響力をもつ人物であった。

 創価学会とは、戦前の創価教育学会の頃から関わりがあり、昭和12年(1937年)、麻布
の料亭で創価教育学会の正式な発会式が開かれた際に、顧問に就任している。

 『人間革命』第一巻にも、釈放された直後の戸田が古島に面会し、戦争終結の時期を聞
く場面が描かれている。


補足2 日本婦人新聞について

 戸田城聖は、日本婦人新聞とは浅からぬ縁があった。
 『人間革命』第一巻「一人立つ」の章に、西神田の一角にあった三階建ての売り家を、
昭和20年9月に戸田が購入し、日本正学館の事務所にしたと述べられているが、これは事
実と異なる。

 実は西神田のこの建物には、日本婦人新聞の社屋で、戸田はそこに間借りしたのである。
これは、学会の有力幹部・和泉覚が日本婦人新聞の総務局長だった縁による(和泉は『人
間革命』には「泉田弘」として登場、後に創価学会の第四代理事長を務める)。

 この西神田の事務所には、「創価学会」の看板も掲げられた。創価教育学会からの名称
変更も、事業拠点変更と同時期になされたのである。

 戸田は〝一人立った〟のではなく、頼りになる仲間に支えられていたわけだが、『人間
革命』では、池田大作(作中では「山本伸一」)を偉大に見せるためか、それ以外の人物
の貢献を過小に描いているようである。

2017年5月5日金曜日

戸田城聖のビジネス(戦前・戦中編)

 戸田城聖は、炭鉱会社の事務員、小学校教諭、生命保険の外交員など、様々な職を転々
とした後、大正12年(1923年)「時習学館」という学習塾を開いた。

 この当時、戸田は「城外」と名乗っていた。また、牧口常三郎が校長を務める小学校に
勤務したことが縁で、牧口の人格・教育理論に傾倒するようになり、生涯の師と仰ぐよう
になっていた。

 この時習学館は、当時の激しい中学受験競争を背景にかなり繁盛した。戸田は、教育者
として、かなり有能だったようである。

 また、戸田はこの時習学館の教材を、参考書にまとめて売り出し、出版業にも進出した。
この参考書も好評で、特に『推理式指導算術』は版を重ねて、百万部を売り上げたという。
戸田の参考書について、哲学者鶴見俊輔氏の見解を引用する。


> (前略)というのは、山下より二年遅れて、私が彼と同じ中学校に入学することがで
> きたのは、戸田城外著の時習学館式の国語ならびに数学の参考書に助けられたからだ
> ったのだ。それらの参考書は、受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉
> 強に入るように仕組まれていた。私は、小学校でビリから五番だった自分が、この参
> 考書を与えられて急に勉強に対する意欲の動き出したのをおぼえている。
 (『鶴見俊輔著作集』第三巻より引用)

 ※ 引用中の「山下」とは、ドイツ文学者山下肇氏。山下氏は時習学館の生徒だった。


 戸田については、そのアル中ぶりがあまりにも有名であるため、それだけ聞くと過小評
価してしまいがちだが、創価学会が現在のような巨大教団に発展できたのは、戸田が教育
者・実業家として、それなりの能力・経験を持っていたこと、他人を感化するカリスマ性
を備えていたことも、大きな理由であることを忘れるべきではない。

 昭和3年(1928年)、牧口・戸田の子弟は日蓮正宗に入信した。戸田は当初、あまり乗
り気ではなかったらしいが、総本山大石寺に参詣し、大御本尊の御開扉を受けた後、「ほ
んものだ」と感嘆して熱心に信仰するようになったという。

 昭和5年(1930年)、学習塾と参考書の成功を受けて、戸田は恩師である牧口とともに、
牧口の理論を世に広めるため「創価教育学会」設立、同年11月18日付けで『創価教育学体
系』第一巻を出版した。現在の創価学会では、この日を創立記念日としている。

 当初、会長牧口、理事長戸田の二人だけだった創価教育学会だが、東京の小学校教員を
中心に徐々に広がり、その後、戸田の事業と関係する小規模な事業者にも広まった。創価
学会の創成期以来の幹部に、元教員が多いのはそのためである(辻武寿、原島宏治、柏原
ヤスなどが該当)。

 昭和7年(1932年)、前年に勃発した満州事変に対応する国策の一つとして、兵隊の防
寒着の必要があることから、各家庭の毛製品を供出させ、国が買い上げるという事業が行
われたが、牧口・戸田の師弟は、この事業に関与して利益を上げたという。
 しかしその際には、かなりあくどいことに手を染めたらしい。


>  ところでこのころ、戸田、牧口らは朝から晩まで高級料亭で、在郷軍人会長や警察
> 署長などを誘っては美味・美酒・美色(!?)にふけっていたのです。そういうことが、
> なぜ、できたかといえば、夕方になると、その日の儲けを山分けするのです。供出品
> のなかの良品は全部横流しをして、悪いものだけを軍部に出したからです。それで、
> 毎日朝から晩まで飲み食いしたのを支払っても、一人分千円以上の利益があったそう
> です。当時は千円で一軒の家が買えるような時代でした。
 (室生忠・隈部大蔵共著『邪教集団・創価学会』より引用)


 『人間革命』では、戸田城聖を平和の使徒のごとく美化して描いているが、その戸田が
実は軍需物資の横流しで暴利を上げていたのだから、呆れるしかない。

 戸田はその後、日本小学館を設立、当初は出版業を中心としたが、徐々に多角化し、多
くの会社を支配するようになった。当時の事業の模様を、戸田の伝記から引用する。


>  戸田がばく大な利益をあげたのは、大衆文学の出版である。とくに太平洋戦争が開
> 始されてからは、北海道厚田村の同郷出身で特別に親しかった小母沢寛に、大道書房
> で書き下ろし小説を書いてもらい、『勝安房守』など五十点余を刊行した。
>  資金が豊富になった戸田は、神田に日本商事という手形割引き会社を設立し、昭和
> 十八年一月には、千葉県の醤油問屋平野商店を九十五万円で譲りうけ、五万円の証拠
> 金をおさめて兜町の証券界に進出した。事業がもっともさかんだった時には、十七の
> 会社を支配し、資産金は六百万円、月収は一万円を超えたという。
 (日隈威徳著『戸田城聖』より引用)


 一方で、戸田のこうした事業の成功の裏には、またしてもインチキな手口が寄与してい
た。上記引用中に醤油問屋の買収について述べられているが、醤油等の販売で、どのよう
なやり口で利益を上げたかを、戦後になってから戸田はこう語ったという。


>  昭和二十六、七年ごろ、学会青年部の会合などでたまに興が乗ると、戸田先生はそ
> の事業成功のコツを披瀝した。
> 「酒の抜き替えは、薦被りの樽の底に、キリで穴をあけて、中身の酒を出して、そこ
> から水を入れ、竹の栓を打って、上からカンナでけずっておけば、絶対わからない。
> また醤油の場合は、塩湯をさまして入れ替えれば、儲かるんだよ」
>  いまの時代にこんな真似をしたら大変だ。のんびりした戦前型の中小企業主的な経
> 営感覚だろう。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 このようなインチキ商法により利益を上げることで、戦時中にもかかわらず事業を拡大
できた戸田だが、治安維持法違反により逮捕されたことで、その事業も壊滅した。
 戦後、事業復興へ向けて彼は奮闘するわけだが、それについては次回述べる。



補足

 戸田城聖は明治33年(1900年)、石川県に生まれた。生まれた時に付けられた名は甚一。
その後、一家は北海道に移住し、戸田はそこで育った。

 戸田は名を何回も変えている。大正6年(1917年)晴通、大正7年に雅皓、大正10年に
博方、大正11年に城外と改め、戦後になって城聖を名乗った。

参考文献:日隈威徳著『戸田城聖』

2017年5月3日水曜日

変わらない創価学会

 創価学会の前身である創価教育学会が、牧口常三郎・戸田城聖の両名により設立された
のは、昭和5年(1930年)のことである。その後、戦時下の弾圧を経て、戦後、創価学会
と改称し、宗教法人としては昭和27年(1952年)に認可された。

 それから60年以上が経過した。その間に、彼らは様々な事件を引き起こし、そのたびに
その反社会的な体質を批判されてきた。

 それにもかかわらず、彼らの体質は一向に改まっていない。世間に対して、一応は取り
繕ってみせるものの、より巧妙で露見しにくい手口で同じようなことを繰り返す。

 この変わらないというか、性懲りもない、しかも根深い創価学会の反社会的体質につい
て、本稿では取り上げる。

 まず、今から48年前、昭和44年(1969年)に出版された『創価学会を斬る』から、「他
人を『ノロウ』ものの罪」と題された一節の一部を引く。


>  創価学会教学部編になる『日蓮正宗創価学会批判を破す』という本の中に次のよう
> に書かれている。
>  「ちょっと前のことになりますが、学会の悪口をいっていた宗教学者の佐木秋夫氏
> がお山へ行きたいというので、戸田先生から案内するようにいわれて同行することに
> なったのですが、出発の日に、東京駅で私が待っていたところ、佐木氏の方では、そ
> の前日でしたか『子どもが死んだから行けなくなった』というのですね。これは、ハ
> ッキリとした罰ですよ。そして帰ってきてからきいたのですが、佐木氏はイナカへ帰
> って、邪宗日蓮宗で葬式を出したというのです。まるっきり、なっちゃいないですね」
>  学会教学部、つまり学会のいちばん重要な頭脳にあたるところが、こんなバカバカ
> しい内容の本を堂々と出版しているのである。いったい創価学会は人間の死というも
> のをなんと心得ているのであろうか。いわゆる邪宗を批判するのは、彼等の自由であ
> る。意見発表の自由によって競争していく、これはわれわれの関知するところではな
> い。しかし創価学会を批判する人であったとはいえ、その人の子供の死を罰としてと
> らえ、しかもこれを当然視する態度はいったい何たることであろうか。これをもって
> 学会批判の当然の〝報い〟と考えて堂々と公表する真理は、まさに恐るべき精神病理
> 性と、人間性の冒瀆と、とらざるをえない。まさに〝他をノロウ罪〟これが学会の本
> 質なのである。
 (藤原弘達著『創価学会を斬る』より引用)

 ※ この本は、いわゆる言論出版妨害事件で有名になった。出版社には「池田先生を批
  判すると地獄に堕ちる」といった電話が次々にかかり、抗議の手紙も段ボール数箱分
  届いたという(言論出版妨害事件の詳細は、別の機会に論じる予定である)。


 かつての創価学会が公然と他人を呪い、しかも、その事を恬として恥じない集団であっ
たことは、上記引用から明らかである。

 しかし、『創価学会を斬る』が出版された当時、創価学会は宗教法人となってから、ま
だ17年しか経っていない。好意的に見れば、組織としての若さ、未熟さが、社会的な逸脱
の背景にあったと見做せなくもない。

 『創価学会を斬る』はミリオンセラーとなり、創価学会は出版妨害や公明党との政教一
致について批判を受け、当時会長だった池田大作は、謝罪講演を余儀なくされた。

 それから幾星霜を経た。通常の組織であれば、角が取れ、老成されて、社会との融和に
より配慮するようになるのが普通である。池田大作自身、謝罪講演で「社会に迷惑をかけ
ることは大謗法」と言明した。

 だが、実際にはそうはならなかった。池田大作は、自分のために忠節を尽くした功労者
――福島源次郎氏、山崎正友氏、原島嵩氏、竹入義勝氏、龍年光氏など――や、就任当初
は創価学会に対して融和的だった日蓮正宗法主・阿部日顕氏とも敵対するにいたり、泥沼
の抗争を展開した(私が見るところ、その責任はほぼすべて池田大作にある)。

 そして、敵対者たちを「仏敵」とし、聖教新聞紙上で口汚い罵詈雑言を浴びせた。
 それだけでなく、創価学会の施設では阿部日顕氏をはじめとする「仏敵」とされた人々
を呪詛するための唱題会まで行われた。

 創価学会の体質で変わった点といえば、社会から批判されないように、より目立たない
やり方でこうした呪詛を行うようになったことくらいではないだろうか。

 それにしても、創価学会員にとっては憎悪が込められた悪口雑言が載った聖教新聞を毎
朝読み、呪いの儀式のようなことまで行うのが日常だったのだから、正気の沙汰とは思え
ない。このような家庭環境で、まともな人間が育つのだろうか。

 万人の幸福を願う信仰ならば、人格形成によい影響があるかもしれないが、他人を呪う
のが当たり前の創価学会では、反社会的な人格が涵養されるのではないかと危ぶまれる。

 しかも、彼らは数百万世帯を擁している。このような憎悪を植え付ける信仰を、絶対に
正しいものだと思い込まされて育った学会員子弟が、多数存在しているのである。そら恐
ろしさを感じるのは私だけではないと思う。

 なお、この学会の総力を挙げた撲滅唱題にもかかわらず、阿部日顕氏は90歳を超えてな
お矍鑠としていたという。インチキ宗教の祈りになど、何の力もない証拠である。

 実は、創価学会のこうした体質は、創価教育学会を名乗っていた、戦前・戦中から変わ
っていない。昭和18年(1943年)当時の事件を引く。


>  神札問題から間もなく、創価教育学会は弾圧を受ける。発端は、東京・東中野のク
> リーニング業・陣野某、有村某(創価教育学会理事)の二人が流言蜚語で検挙された
> ことである。近所に子供を病死させた家があり、そこへ折伏に出かけた両人が、「子
> 供が死んだのはバチがでたのだ。今の日本は、正しい宗教に入り大善生活をしなけれ
> ば、まだまだバチがでる」と説いた。悲しみのさなか、バチだと極言されたから、親
> が怒って警察に訴えでたため、陣野、有村の逮捕となった。
(藤原弘達著『創価学会をブッた斬る』より引用)


 創価教育学会は治安維持法により弾圧を受けた。この法律が思想の自由・信教の自由を
制限する悪法と断罪されて久しい。私もそれに意義を唱えるつもりはないが、創価学会を
はじめとする悪質なカルトまでもが、「信教の自由」の美名の下、やりたい放題を許され
ている現状もいかがなものか、と思わずにはいられない。

 さて、創価学会員による強引な折伏の被害は、現在でもよく聞かれる話である。特によ
く聞かれるのが、大学入学を機に一人暮らしを始めた人が、クラスメートやサークル活動
などで友人になった人から、宗教について議論を挑まれ、言い負かされて半ば無理やり入
信させられるケースである。

 私自身、そうした経験はあるし(私は言い負かされたりはしなかったが)、知人がそう
した被害にあっているのを助けたこともある。その時は、当ブログでこれまで述べたよう
なことを論じて、相手の学会員を論破したが、帰る間際にその男はこちらを振り向いて、
「ナンミョーホ―レンゲーキョー」と憎々しげに唱えて去った。今思えば、あれは呪詛の
唱題だったのだろう。

 本稿で論じたように、創価学会の反社会的な体質は、設立当初からのものであり、現在
に至っても、何も変わっていない。しかし、さすがに度重なるバッシングや、インターネ
ットでの情報拡散を懸念してか、近年はより隠微な手段をとるようになっているようだが。

 逆に言えば、昔の方が現在よりも手口が杜撰で、学会も世間からどう思われるかにあま
り配慮していなかった分、古い出来事の方が情報を得やすい面もある。

 そこで、次回以降、当面は『人間革命』等を題材に、創価学会の反社会性、非科学性、
前時代性などについて論じたい。