2020年3月30日月曜日

創価批判コピペ集‐⑰(「創価学会の信心で病気が治る!?」他)

◇◆◇ 創価学会の信心で病気が治る!? ◇◆◇

創価学会は入信すれば病気が治ると宣伝してきた。第二代会長・戸田城聖は、昭和30年
前後の数年間、「この本尊に南無妙法蓮華経と唱えれば祈りとして叶わざるなし。創価
学会に入って信心すれば、手術せずともガンも結核も治る」と説き多くの信者を集めた。

戸田の弟子・池田大作も「護符」と称するマジナイを考案、さらに多くの信者を集めた。
このマジナイはただの紙切れを飲めば病気が治るというもので、何の根拠も効果もない。
戸田や池田のデタラメを信じたために適切な医療を受けられず、寿命を縮めた者は多い。

創価学会は今年2月、新型コロナウィルス禍に際して、当面の間、座談会などの会合を
中止するとの方針を打ち出した。21世紀に入って20年目にして、信心では病魔には対抗
できないと認めたのである。過去に主張してきた世迷言はウソだったと認めたに等しい。

※ 創価学会とは、非科学的なたわ言で多くの人を不幸にしてきたインチキ宗教である。


◇◆◇ 日蓮と法然 ◇◆◇

両者ともに鎌倉時代の僧侶だが、その教えは大きく違う。法然が来世での救済を説いた
のに対し、日蓮は現世利益を説いた。病と信仰の関係についての主張もまったく異なる。

日蓮「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかな
  る病さはりをなすべきや」(『経王殿御返事』)

法然「宿業かぎりありて、うくべからん病は、いかなるもろもろのほとけかみに祈ると
  も、それによるまじき事也。祈るによりて病もやみ、命ものぶる事あらば、たれか
  は一人として病み死ぬる人あらん」(『浄土宗略抄』)

今般のコロナウィルス禍にあたって、創価学会の本部は、唱題会を含む会合を中止した。
日蓮の教えに従い南無妙法蓮華経を唱えても、病魔に勝つことはできないと認めたのだ。

※ 現在の創価学会本部は、病気に関する限り日蓮よりも法然に近い考えを取っている。


解説

 創価学会は今般の新型コロナウィルス禍への対応として、座談会・唱題会等の会合を中
止する措置をとっている。

 韓国で宗教団体の会合が原因となって、感染拡大が起こった事例があることから、創価
学会の決定が時宜にかなった適切なものであることは、私も否定しない。

 しかし、彼らが「信心で病気が治る」と主張して、適切な医療を受ける機会を学会員た
ちから奪い、その結果、死なずに済んだはずの人びとの寿命を縮めてきた過去がある以上、
創価学会を手放しで称賛するわけにはいかない。

 ※ こうした悪弊の犠牲になった者の中には、池田大作の次男も含まれていることは以
  前に述べた(「池田城久の死」参照)。

 創価学会の第二代会長・戸田城聖は、医学的根拠など何もない無責任きわまる指導を行
っていた。その一例を以下に示す。

(『聖教新聞』昭和29年〔1954年〕11月28日付掲載の質問会の一部)

 ※ 「護秘符」とは日蓮正宗に伝わるマジナイで、大石寺法主の祈念が込められた食紅
  を飲むものである。池田大作はこれに着想を得て、後に「護符」というマジナイを独
  自に作り出した。

 言うまでもないことだが、ガン治療においては再発や転移をいかに防ぐかが重視される。
 「再発する度に軽くなり完全に治る」などという論外のデタラメを、宗教団体の指導者
として行った戸田も、それをそのまま掲載した聖教新聞も、常軌を逸していると言わざる
を得ない。

 また、この当時の聖教新聞には、「信心で病気が治った」という特集記事が頻繁に掲載
されていた。

(『聖教新聞』昭和29年〔1954年〕12月5日付)

 こうした記事にどれ程の真実が含まれているかは不明だが、戸田センセイの与太話を大
真面目に取り上げていたことから考えると、「手術せずに胃ガンが治った」等の体験談は
相当に胡散臭い。

 戸田の弟子である池田大作もこうした非科学的な体質を受け継ぎ、「護符」と称する紙
切れを飲むマジナイを考案し、学会員たちはそれを有難がって飲んでいた(護符について
は、これまでに何度か取り上げているので今回は詳述しない)。

 創価学会は「科学的な宗教」を自称し、「他の宗教は非科学的だ」と主張しているが、
彼らにそんなことを言う資格など、あろうはずがないのだ。


補足 「日蓮と法然」について

 誤解のないように申し添えるが、私の目的は創価学会の悪質な実態を一人でも多くの方
に知ってもらうことであり、特定の宗教を布教したり、宣揚したりすることではない。

 しかし、創価学会が日蓮仏法を標榜し、その日蓮が法然への批判を原点としていた史実
がある以上、両者の思想を比較することには意義がある。

 学会員の皆さんも、この際に合理主義と信仰との適切な関係を、考えてみられてはいか
がだろうか。

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