2019年1月27日日曜日

日蓮と良観房忍性

※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用あり。

 奈良時代に鑑真が渡来し、東大寺等に戒壇が設けられて以来、授戒を受けることが正式
な僧侶として認められることでもあったが、鎌倉時代になると授戒は形骸化し、戒律を守
らない僧侶も多くなった。

 日蓮のように「末法無戒」を唱え、その現状を是認する者もいたが、逆に危機意識を持
って戒律復興運動に取り組む僧侶も現れた。

 戒律復興運動において中心的な役割を果たした僧侶の一人は、西大寺を拠点とした叡尊
だった。その叡尊の高弟で後に関東に拠点を移し、日蓮と同時期に鎌倉で活躍したのが、
良観房忍性である。

 忍性は鎌倉幕府から極楽寺を与えられ、戒律の普及だけでなく慈善活動にも取り組み、
持戒の聖僧として、身分の上下を問わず多くの人々から敬われ、その教団は当時の鎌倉で
最大の勢力を持つに至った。

 「末法無戒」という戒律を否定する思想を持つ日蓮にとっては、これは受け入れ難いこ
とだった。

 忍性は密教僧でもあり、幕府に請われて祈祷を行うこともたびたびあった。日蓮はこれ
に目をつけ、文永8年(1271年)の干ばつに際し、忍性が請雨の祈祷を行った際、以下の
ような挑発を行ったという。


>  七日の内にふらし給はば日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて
> 二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然
> なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と守敏
> と弘法となり、仍て良観房の所へ周防房・入沢の入道と申す念仏者を遣わす御房と入
> 道は良観が弟子又念仏者なり、いまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ、
> 七日の内に雨降るならば本の八斎戒・念仏を以て往生すべしと思うべし、又雨らずば
> 一向に法華経になるべし
 (『頼基陳状』〔日興写本 北山本門寺〕より引用)


 日蓮は、「忍性の祈祷により七日の内に雨が降れば、日蓮はこれまでの非を認めて忍性
の弟子となり戒律を守る。しかし、雨が降らなければ忍性とその弟子たちが、一向に法華
経になるべし」と言ったのだという。

 果たして七日の祈祷の間に、雨は降らなかった。
 それを見て日蓮は次のように書き送ったという。


>  一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんややすき雨をだにふらし給はず、況
> やかたき往生成仏をや、然れば今よりは日蓮怨み給う邪見をば是を以て翻えし給へ、
> 後生をそろしくをぼし給はば約束のままにいそぎ来り給へ、雨ふらす法と仏になる道
> をしへ奉らむ
 (同上)


 祈祷の成否によりどちらの法門が正しいか勝負を決し、負けた方が弟子になるというの
は日蓮が勝手に言ったことであり、忍性がそんな約束に応じていたとは考えにくい。

 また、この件についての忍性側の記録は残っておらず、日蓮の書き残していることがど
こまで事実かも、今となっては確認のしようがない。

 伝説ではこの後、日蓮が法華経の読経により請雨の祈祷を行い、見事雨を降らせたこと
になっている。だが、日蓮自身はそんなことはどこにも書いておらず、この伝説は後世の
脚色と考えるべきだろう。

 この数カ月後、日蓮は幕府に捕らえられ、一度は斬首されそうになったものの、それを
免れ佐渡島に流罪になった(竜の口の法難)。

 日蓮は、斬首されそうになったことについて、雨乞いの失敗の件を恨んだ忍性の讒言に
よるものだと主張している。


>  然れば良観房・身の上の恥を思はば跡をくらまして山林にもまじはり、約束のまま
> に日蓮が弟子ともなりたらば道心の少にてもあるべきに、さはなくして無尽の讒言を
> 構えて殺罪に申し行はむとせしは貴き僧か
 (同上)


 創価学会をはじめとする日蓮系の教団では、日蓮の記述を真実とし、良観房忍性は慈善
家ぶった偽善者で、その実、日蓮の殺害を企てた悪人ということになっている。

 だが、日蓮による他宗の僧侶への批判には、事実とは認め難いものも多く、忍性に対す
る非難もそうした例の一つである可能性は小さくない。
 忍性の事績について、現代の仏教学者は以下のように述べている。


>  叡尊の弟子で良観房忍性は十三歳のとき肉食を断つことを誓ったほどで、戒律の研
> 究実践に熱心であったが、社会事業においては師にまさる成績をあげた。一二七四年
> の飢饉、一二八三年の疫病流行のときは弟子たちを動員して大活躍をした。非人の救
> 済、病院の経営、捨子の養育など活動範囲はきわめて広いが、その生涯の総決算とし
> て、寺院の造営八十三、橋をかけること百八十九、道をつくること七十一、井戸を掘
> ること三十三のほか、浴室(公衆浴場)・病室(病院)・非人宿などが数えられ、聖
> 徳太子の業績をしのんで四天王寺に悲田院・敬田院を設けた。一二八七年に建てられ
> た桑谷療病所では二十年間に全治者四万六千八百人、死亡者一万四百五十人で、八割
> までが助かっているが、当時としてこれだけの成績を上げるためには並々ならぬ苦心
> を要したことであろう。また奈良の西大寺にいた頃は、かつて光明皇后が癩患者を洗
> ったと伝えられる般若坂北山の癩病舎を復興して救済したが、手足が不自由で乞食に
> 出られない一人の病人を一日おきに背負って朝、街に連れて行き、夕方には病舎に運
> び、乞食で生活がなりたつようにしてやった。これが休みなしに数年間続いたという。
>  さらに特筆すべきことには、忍性は一二九八年には馬病舎を建てている。これも生
> 類に対する限りない慈愛にもとづくものである。
 (中略)
>  ところが、忍性が鎌倉極楽寺にいたころ、日蓮もやはりこの地にあって、前に記し
> たように建長寺の道隆を攻撃したのみではなく、忍性にも対決を迫ったが、二人とも
> 相手にしなかった。忍性が社会奉仕に身を捧げている事実を知りながら、これを公然
> と非難した日蓮には結局のところ本格的な仏教はわからなかったものであろう。日蓮
> がいわゆる四箇の格言の中で〈律国賊〉と言って罵ったのは他ならぬ世の人から〈医
> 王如来〉として慕われたこの忍性のことだったのである。
 (渡辺照宏著『日本の仏教』より引用)


 忍性のような人物が、いくら悪口を受けたからといって、それを恨んで人を死罪に追い
やろうとしたとは、私には思えない。

 上流の武士から最下層の貧民にいたるまで、多くの人から慕われていた忍性を悪しざま
に言い続けた日蓮に憤った有力者が、彼を厳罰に処すよう幕府に働きかけた結果として、
竜の口の法難にいたり、それを日蓮が忍性によって陥れられたと思い込んだというのが、
真相に近いのではないだろうか。

 日蓮が法華経を重視した理由には、それが二乗作仏や女人成仏を説いているということ
も含まれていた。つまり、誰しもが救われるという教えが説かれているからこそ、法華経
は貴いとしたのである。

 また、日蓮は「不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ、教主釈尊の出世の本懐は人の振
舞にて候けるぞ」(『崇峻天皇御書』真蹟 身延曾存)とも述べている。

 鎌倉時代という、民衆をさいなむ災害や兵火が絶えなかった時代に、実際の「振舞」で
万人を救おうとしたのは、日蓮と忍性、どちらだっただろうか?