2018年1月14日日曜日

虚仏への供物

 創価学会は元来、日蓮正宗の在家信者団体だった。学会員たちは、間に創価学会をはさ
む形で、日蓮正宗の信徒にもなるという形をとっていたのである。

 日蓮正宗の教義では、日蓮こそが「末法の御本仏」であり、池田大作などは一信徒団体
のリーダーに過ぎない。

 しかし、巨大教団を率いて莫大な金を集め、公明党をも意のままに支配できることに慢
心した池田は、自らを日蓮の再誕として崇拝させることで、絶対的な権力をさらに確固た
るものとし、日蓮正宗をも支配下におこうともくろんだ。そのために「池田本仏論」なる
個人崇拝を、学会内部に定着させようとした。

 多くの日蓮正宗僧侶は、「池田本仏論」を重大な教義違反と見做し、創価学会と日蓮正
宗の間に抗争が生じた。昭和52年(1977年)頃から、創価学会は会員に対して「寺院には
行かないように、お布施もしないように」と呼びかけた。

 日蓮正宗側は末端の創価学会員に対し、「今の創価学会は謗法だから、創価学会をやめ
て寺院直属の信徒になるように」と働かけた。その結果、数十万人の学会員が脱会し、日
蓮正宗直属の信徒となった。

 この時は創価学会が日蓮正宗に屈服し、池田大作は会長を辞任(昭和54年〔1979年〕4
月24日)、日蓮正宗の細井日達法主に対して、「院政をしくようなことはしない」と確約
させられた。

 以上が、日蓮正宗と創価学会との第一次抗争のおおよその顛末である。
 だが、池田はこれで引き下るような男ではなかった。同年5月ごろから復権を画策しはじ
め、折あしく細井日達法主が同年7月21日に死去したこともあり、再び影響力を行使するよ
うになる。

 もっとも、学会内部での権力を完全に取り戻すまでには、集団指導体制を望む幹部との
確執などの紆余曲折もあったようである。

 また、山崎正友氏・原島嵩氏という大幹部が造反したことや、日蓮正宗の改革派僧侶た
ちが「正信覚醒運動」と称して、創価学会なかでも池田大作の教義違背に対して厳しい批
判を続け、学会員の中にも動揺する者が少なからずいたことから、こうした動きに対して、
創価学会としても敏感にならざるを得なかった。

 以前引用した「代々の会長を神格化などしてはなりません。とくに私は若くして第3代
会長の任に就きましたが私などを絶対視してはならない」(『聖教新聞』昭和55年4月2日
付)という池田大作の言葉は、日蓮正宗僧侶の批判に応えて「池田本仏論」を全面的に撤
回する、事実上の敗北宣言だったのである。

 『人間革命』も改訂を余儀なくされ、「池田本仏論」につながる記述は書き改められた。
 しかし、これで創価学会から、池田大作への個人崇拝が一掃されたわけではない。形を
変えた個人崇拝復活に貢献し、その功績で出世した人物がいる。現創価学会理事長・長谷
川重夫氏である。

 長谷川氏は、創価学会本部で第一庶務室次長を務めていた昭和60年(1985年)に、副
会長に抜擢された。当時の第一庶務室長は、同じく副会長であった鈴木琢郎氏だったが、
池田大作に重用されていた長谷川氏の方が、権勢は上だったという。

 ※ 創価学会本部の第一庶務室は、池田大作の身の回りの世話や、秘書業務を担う。学
  会本部において、一番のエリート部署である。池田のハーレムに囲われている女性も
  第一庶務に所属することが多いという。

 長谷川氏が抜擢されたのは、池田大作と末端の学会員とが、直接結びつく仕組みを確立
することに貢献したからである。元公明党都議・藤原行正氏の著書から、長谷川氏の実績
について述べられた一節を引用する。


>  長谷川は副会長になる前から、池田に気に入られるために頭を絞り、池田名誉会長
> 直結運動なるものを考え出した。
>  このゴマすりアイデアによって池田大作は学会員と自分を直結させ、池田崇拝の空
> 気をさらに強固なものとした。それまで地方の幹部にとって池田名誉会長は雲の上の
> 存在であった。その彼らが本部の長谷川を訪ねると、彼の手配で池田に会える。思い
> がけず池田先生に会え、激励の色紙までもらった幹部たちは感激して帰って行く。そ
> れがこの直結運動のまず第一段階であった。
>  地元に帰った学会員は「長谷川さんの口ぞえで池田先生にお会いできた」と胸を張
> って自慢した。それが口コミで広がり、その末に「池田先生への贈り物を持って、長
> 谷川さんのところへ行けば名誉会長に会える」という情報が学会全体に定着し、地方
> 幹部たちは先を争って長谷川詣でをはじめたのである。
>  噂はさらに広まり、やがてみんなが何か持って、池田先生を訪問するのが信心の上
> からも大事なんだという風潮が学会全体に徹底され、大した役職でもない地方支部長
> や一般学会員までが本部詣でを開始した。池田は長谷川に案内されてきた彼らとにこ
> やかに応対し、学会員が持参してきた貢ぎ物を受け取る。その貢ぎ物のなかから高価
> な品だけを自分の取り分とし、残りは「先生から」として、池田詣でををした別の学
> 会員たちへの〝プレゼント〟に使うのである。
>  学会員からの貢ぎ物を右から左へ流しただけで、池田は「江戸っ子で気前のいい名
> 誉会長」という一般会員からの尊敬を高めたわけである。
>  五十九年後半から活発化した、この池田詣で現象はあらためて学会における池田大
> 作の存在感を内外に宣伝する大きな効果を生んだ。その功績で長谷川は副会長ポスト
> まで引き上げられ、池田は何もしないで学会員と直結するシステムをつくり上げるこ
> とに成功した。その上で、池田は幹部全員の揃った場所で長谷川を褒める。
> 「長谷川は学会のことをよくわかっている。会員と私を直結させようというのはいい
> やり方だ」
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 長谷川氏はその後、第一庶務室長に昇進し、その職を長く務めた。
 『池田大作の素顔』が出版されたのは、平成元年(1989年)のことだが、創価学会員に
よる信濃町の本部詣では、今でも盛んに行われており、池田大作への貢ぎ物を扱う専門の
建物まで信濃町にはあるという。創価学会総本部「広宣流布大誓堂」の北隣にある「接遇
センター」がそれである。

 元公明党委員長・矢野絢也氏の著書から、比較的最近の状況を描写している一節を引用
する(矢野氏が創価学会を脱会したのは平成20年〔2008年〕であり、批判本の出版はその
翌年からなので、以下の情景は、少なくとも今世紀に入ってからも該当する出来事と思わ
れる)。


>  何かの記念日があれば、地方の会員は大挙して東京に馳せ参じる。
>  たとえば五月三日は池田氏の会長就任記念日でもあり、「創価学会の日」として何
> よりも大切な日である。こうしたとき、地方本部は会員に対して、
> 「東京へ行って池田先生にお礼を差し上げよう」
>  という呼びかけを何度も行う。何人東京へ送り出したかで県の幹部の「勤務評定」
> が決まるため、彼らとしても必死だ。自分の担当組織で一人一万円ずつ、といったよ
> うに寄付を集め、何人かを引き連れて上京する。
>  新宿区信濃町の学会本部周辺には、学会関連の会館が林立している。それらの会館
> の前にはテントが張ってあり、「接遇班」の人間がズラリと並んでスタンバイしてい
> る。上京してきた会員たちは集めてきた寄付に、手紙やお菓子などを添えて彼らに渡
> す。班員は彼らの名前を聞いて、一人ひとり記録する。「ご苦労様でした」というこ
> とで記念品が手渡される。
 (中略)
>  寄付を終えた地方会員は本部周辺の会館を案内され、各会館の仏間でお題目を唱え
> て、
> 「ああ今日はよかった。いい日だった」
> 「池田先生と気持ちが通じた」
>  と満足して帰っていく。実際に会ってはいなくとも、気分としては池田氏と身近に
> 接したも同然なのであろう。池田氏にお礼を差し上げ、記念品をもらったことで、心
> と心が触れ合った心地になる。
>  このようにあの手この手で、会員一人ひとりが池田氏との連帯感を持てるような仕
> 組みが構築されている。彼のカリスマ性を現場に浸透させ、根づかせるための、幾重
> ものシステムが築き上げられているのである。
 (矢野絢也著『私が愛した池田大作』より引用)


 本部詣でをする末端学会員に対し、池田大作が面会することは、現在では不可能だろう
が、それでも〝池田先生との絆〟を演出する工夫がなされ、池田大作は今なお一人ひとり
の学会員の心の中で、彼らの理想を体現する「偉大な指導者」として息づいているのだ。

 実は、この池田センセイへの貢ぎ物が、国の政策にも影響した例があるという。ジャー
ナリスト・古川利明氏は、著書で以下のように述べている。


>  学会員は、この接遇センターで数万円単位の献金をすると、その御礼という形で、
> 献金額に応じて、学会が発行する金券が渡される。そしてこの金券は、三色ステッカ
> ーの貼ってある信濃町商店振興会加盟の商店で利用できるというわけだ。
>  ちなみに、自民党から公明党に対する事実上の「国対費」として、十五歳以下の子
> 供を持つ世帯主と六十五歳以上で老齢年金の受給者などに一人あたり一律二万円支払
> われた「地域振興券」の発想の原点は、この学会発行の「金券」といわれている。
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』より引用)


 この地域振興券は、平成11年(1999年)に七千億円もの国費を投じて、対象となる世帯
に配布された。この政策は、当初から税金の無駄使いとの批判も多かったが、公明党との
連立を模索していた当時の自民党が、その要求を飲んだことにより実現した。

 「天下の愚策かもしれないが、七千億円の国会対策費だと思って我慢してほしい」とは、
連立実現のために工作していた自民党の野中広務氏の言葉である(魚住昭著『野中広務
差別と権力』による)。

 カルトのバカげた個人崇拝に付随する慣行を、国の政策として取り入れるなど、「天下
の愚策」どころの話ではない。言語道断の愚行である。

 現在の創価学会は日蓮正宗と縁を切り、誰はばかることなく「代々の会長を神格化」す
るようになった。現在の創価学会会則では、池田大作を含めた第三代までの会長を「永遠
の師匠」に祭り上げ、なかんずく池田については「先生は、仏教史上初めて世界広宣流布
の大道を開かれた」などと持ち上げている。

 「仏教が世界宗教として発展したのは池田大作の功績だ」と言わんばかりの文言であり、
こんな与太を真に受けるのは創価学会員だけであろうが、池田をあたかも釈尊や日蓮と比
肩しうる人物であるかのごとく宣揚し、「絶対視」することにつながりかねない表現であ
る。池田への個人崇拝を教義の中核に位置づけたものといえよう。

 創価学会のような異常なカルトが、公明党を介して国政に影響力を保持している現状は、
どう考えても日本のために望ましいとは思えない。

 自民党には保守政党としての矜持を取り戻してほしいし、野党も「弱者を守る」という
革新政党としての理念を示し、創価学会のような搾取と人権侵害を行うカルトを国会の場
で糾弾してほしいものである。



補足

 本文中でもふれたように、創価学会は日蓮正宗の活動家僧侶たちの批判に屈し、聖教新
聞紙上で会長本仏論・池田本仏論を一度は否定した。
 だが、これで池田本仏論が創価学会から一掃されたわけではない。

 細井日達氏の次の日蓮正宗法主・阿部日顕氏は、就任当初、創価学会に対して融和的な
態度をとった。活動家僧侶たちはそれに反発し、昭和55年(1980年)7月「正信会」を結
成した。

 結果的に、この時は正信会の方が日蓮正宗から追われることになった。
 池田大作はこれに安堵したのか、再び増長し宗門をないがしろにするようになった。そ
して自らへの個人崇拝を創価学会内部に復活させたことは、本文に書いたとおりである。

 しかしその後、池田の暴言の数々が日蓮正宗首脳部の耳に入り、第二次抗争に発展する。
今度は、日蓮正宗・創価学会の双方とも引かず、ついに平成3年(1991年)11月28日、日
蓮正宗は創価学会に対して、破門を通告したのである(創価学会はこれを「魂の独立」な
どとうそぶいている)。

 本文中で引用した矢野絢也氏の『私が愛した池田大作』は、平成21年(2009年)に初版
が刊行されているが、その序章に「現在の創価学会は実質、池田氏個人を『末法の本仏』
と崇め奉る『池田大作一神教』である」と記されている。

 矢野氏が主張する様に、現在の創価学会では池田への個人崇拝が組織結束の要になって
いるのだろう。公式の位置づけでは、池田は「永遠の師匠」ということになっているもの
の、「池田先生は末法の御本仏」と信じる創価学会員は、今世紀に入ってもなお多いのだ。

 もちろん他人の迷惑にならないのであれば、誰が何を信じようが自由だが、連中は「唯
一の正しい宗教」を自称して、宗教などとは関わりを持ちたくない人にまで押しつけよう
とする。

 学会員の皆さんには、世間一般のほとんどの人は創価学会のような頭がおかしいカルト
になど入りたくないのだということをご理解いただき、特定の宗教の信者にならないこと
も、憲法が保障する「信教の自由」の範疇に含まれるのだということを、認識してほしい
ものである。