「御本仏」を気取る池田大作は、自分の食べ残しの回し食い強要のほかにも、バカげた
振る舞いをしばしば行った。今回はそれらの中から、代表的なもの二つを取り上げたい。
1 数珠さすり
池田大作はかつて、「私が祈って死んだ人はいない」などと豪語しており、病気治しの
祈祷のようなことも行っていた。それがこの「数珠さすり」である。
池田は、病気を治すためと称して、「南無妙法蓮華経」と唱えながら、病人の体を数珠
でさすったり、患部を叩いたりしていたという。
池田は、この数珠さすりによって、自分の母親を死の淵から救ったと自慢していた。創
価学会の元教学部長・原島嵩氏が、著書にこのことを詳しく述べているので、該当する一
節を引用する。
> 池田は〝数珠さすり〟のマジナイを自分の母親にも行ないました。
> 「これは、ここだけの話にしてほしいのだが、私のおふくろは八十一歳になるが、実
> は一度死んだんだ。葬式まんじゅうも用意して葬儀屋も手を打った。弔辞も全部用意
> した。私も久しぶりだったが足を運んだ。するとみんな泣いている。そこで私は初め
> て数珠を持って題目を唱えながら、もう死の寸前のおふくろの体じゅうをさすってあ
> げた。足も全部冷たくなっていた。―中略―すると六月末に死ぬのが、死ななくなっ
> てねぇー。二千個の葬式まんじゅうも腐っちゃったんだ。医者も、もう一度医学を初
> 歩から始めるといっていた」(S51・8・22、内部文書)
(原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用)
原島氏はこの話を「ウソ」と断じている。
また、原島氏自身も、心臓の具合がが悪くて休んでいた際に、池田から数珠さすりを受
けたことがあったという。原島氏は前掲書でその体験について、「私はかえって気持ち悪
くなりました」と述べている。
数珠でさすっただけで、死にそうな病人が急回復するのであれば、こんな結構なことは
ない。そのような奇蹟を起こす教祖がいる宗教ならば、発展するのも納得できる。
だが、当然のことながら、池田大作にそんな力などない。実際、後継者候補として期待
をかけていた実子すら救えなかったことは、以前述べたとおりである(「池田城久の死」
参照)。
あきれたことに池田は、この数珠さすりを、日蓮正宗の高僧に対しても行っていたとい
う。こうした増上慢そのものの振る舞いが、宗門内部に創価学会なかんずく池田大作への
不満を鬱積させ、後に破門される一因となったのであろう。
2 弟子分帳
「弟子分帳」とは、池田大作から忠実な弟子として認められた学会幹部の名を記した名
簿のことである。
元公明党委員長・矢野絢也氏の著書、『私が愛した池田大作』によると、法華経の「五
百弟子受記品」にならって、池田は五百人の弟子を「永久名簿」に載せたという。
※ 矢野氏は「弟子分帳」という表現を用いず、「永久名簿」という呼称を用いている
が、同様の名簿の存在については、脱会した元副会長である福島源次郎氏や、元教学
部長の原島嵩氏も言及しており、福島氏や原島氏は、この名簿について「弟子分帳」
という表現を用いていることから、そちらの方が正式な名称であったと考えられる。
法華経の五百弟子受記品とは、釈尊の五百人の弟子が、釈尊から「授記」を受ける場面
を描いた章である。「授記」とは「将来、悟りを開いて仏になれる」という予言のことで
ある。つまり、池田は仏を気取って、弟子に授記を与えていたということになる。
この弟子分帳に名前を載せられた者には、それぞれ「広宣流布の新弟子たるを証す」と
記した証書が与えられた。この証書には通し番号が記されており、第1号は原島嵩氏だっ
た。その原島氏が、証書を渡された際のことを以下のように述べている。
> さらに「弟子分帳」の証書を手渡すにあたって、「私が、赤く〝背きおわんぬ〟
> (背いてしまった)と一度、朱線を入れてそう書けば、もうその人間は生々世々地獄
> なのである。もう二度と人間に生まれてこない、ということだ」という趣旨の話を何
> 回かしていました。
> 私は当時、厳粛な気持ちで聞いていましたが、いまとなって、池田の謗法の根の深
> さに身ぶるいがします。仏でなければ、このようなことは言えません。いや、たとえ
> 背いた人であったとしてもすべて救うというのが仏の慈悲の精神です。
(原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用)
また矢野氏も、この証書を池田からもらった当初は、「忠実な弟子」として認められた
という旗本意識を煽られ、より忠誠心・使命感が強まったと述べているが、その後、この
名簿に記載されたことが重荷になっていったという。
> ただこの「永久名簿」、我々を縛る脅威として次第に厄介な存在になっていった。
> 何か池田氏の気に食わないことをしでかすと、
> 「名簿に『この者、背き了んぬ』と書くぞ」
> というのが最大の脅し文句になってしまったのだ。「こいつは師に背いた」という
> わけで、名簿に赤線が引かれる。これでその者は地獄行きだ。言われた弟子は慌てて
> 地にひれ伏し、必死で許しを請うたものである。思えばあれほど畳に額をこすりつけ、
> 平謝りに謝る人間の姿というものを、学会以外で目にした覚えはない。
(矢野絢也著『私が愛した池田大作』より引用)
「師に背いた」として名簿に朱線を入れると脅された学会幹部が、「畳に額をこすりつ
け、平謝りに謝」ったのは、来世で地獄に堕ちるのが恐ろしかったからなのか、学会内で
の絶対権力者である池田大作から敵視されれば、学会での地位や学会から得ている報酬を
失うことになる(公明党議員であれば、次の選挙で公認されない)からであろうか。ある
いはその両方だったのであろうか。
いずれにしろ、このような脅しで人を従わせようとする池田大作が、仏法など何も理解
しておらず、仏からは程遠い存在であることは、疑う余地なし、であろう。
矢野氏は、上記に続く一節で「遅まきながら池田氏の呪縛から解かれて、何よりも大切
な精神の自由を得た」と述べている。
池田大作の如き愚物を崇め、創価学会の支離滅裂な教義を信じて、精神の自由を失った
生き方をするくらいならば、「一人立つ」という心意気をもって、自由な生き方をした方
が、よほど幸福であろうと私も思う。
まあ、たいていの学会員は「畜群」同然の連中であるから、池田大作の威光を振りかざ
して、やりたい放題やっている学会幹部に従う生き方のほうが幸せなのかもしれないが。
補足 「弟子分帳」が作られた時期
矢野氏の前掲書によると、「永久名簿」が作られたのは昭和42年(1967年)のことだっ
たとされているが、原島嵩氏や福島源次郎氏は、「弟子分帳」が作られたのは昭和50年頃
と述べている(原島氏の証言は前掲書、福島氏については『蘇生への選択』による)。
また、元創価学会顧問弁護士・山崎正友氏の著書、『創価学会と「水滸会記録」』には
山崎氏が受け取った弟子証書の写真が掲載されているが、その日付は昭和51年(1976年)
7月3日となっている(ちなみに山崎氏の証書の通し番号は「第三十三号」である)。
この写真は決定的な証拠と思われるので、矢野氏の記述はあるいは記憶違いによるもの
ではないかと疑われるが、ひょっとしたら、公明党議員とそれ以外の学会幹部とでは、異
なる時期に「弟子分帳」を作成したのかもしれない。