創価学会における池田大作への個人崇拝の異様さを物語るエピソードの中でも、外部の
一般人にとって、最も不気味さ、もっとありていに言えば気持ち悪さを感じさせるものは、
池田の食べ残し、飲み残しを学会員たちが有難がって口にするという話であろう。
生前、代表的な学会ウォッチャーだったジャーナリスト・内藤国夫氏の著書から、この
逸話を述べた一節を引用する。
> 池田会長は、自分で口をつけたものを、よく、「食べなさい」とか「飲みなさい」
> といって、側近に下げ渡すという。
> たとえば、学会本部で、職員たちと一緒に勤行したあとなど、仏壇に供えてある水
> を、グイと一口飲み、それから、
> 「さあ、いただきなさい」
> と、側に控えている者にまわす。会長が口をつけたのだから、これを飲めば功徳が
> あるよ、といわんばかりの、ごうまんさと、ひとりよがりの親切心たっぷりに。まわ
> されたものは、たとえ気持が悪かろうと、ありがたそうに口をつける。もし、少しで
> もためらったら、忠誠心、尊敬心が足りない、と疑われはしないか、ヒヤヒヤしなが
> ら。
> 同じように、タバコの〝下げ渡し〟もよくする。池田会長、タバコはあまり吸わな
> いが、それでも気が向くと口にくわえる。それも一口か二口吸っただけで、側にいる
> 者に、例の調子で、
> 「さあ、吸いなさい」
> 「イヤです」とはいえないから、ありがたそうに、おしいただく。
> ある幹部が、カオをしかめて告白するには、
> 「あの人、わざとツバをつけたりして、こちらの反応をみているんではないか、との
> 底意地の悪さも感じられて、ありがたそうにいただきはしますが……」
> 熱心、かつ盲目的尊敬を寄せる学会員の多くは、「会長先生の吸われたタバコを口
> にして、これで福運が」と恐懼、感激する者もあり、みんな競うようにして、ありが
> たがるふりをするという。
> 「つらいところです」というわけだ。
> 「メロンの下げ渡し」もある。メロンのおいしいところを、会長が食べたうえで、
> 「さあ、口をつけなさい」
> 肉親ならいざ知らず、人をバカにしたような、お下がり強要であるのだが、「いえ、
> 結構です」と言えない、言わさない、それが創価学会と池田会長の体質である。
(内藤国夫著『創価学会の野望』より引用)
※ 『創価学会の野望』が出版されたのは、昭和53年(1978年)であり、その時点では
池田大作はまだ創価学会の会長職にあった。池田が日蓮正宗との抗争で一敗地に塗れ、
会長を辞任せざるを得なくなり、名誉会長に退いたのはその翌年、昭和54年(1979年)
のことである。
佐高信氏とテリー伊藤氏の共著『お笑い創価学会 信じる者は救われない』に収録され
ている元学会員の手記「池田学会 イニシエーションの恐怖」にも、上記と同様の記述が
ある。
それによると、池田大作が創価大学で講演した際、話し終わった後に演壇に置かれてい
た水を一口飲んだ後、そのコップを一番前にいた学生に「はい、飲みなさい」といって渡
した。学生たちは有難がって、そのコップを次々とまわして中の水を飲んだという。
池田が健在なころは、こうしたことはよく行われていたのであろう。
また、上記引用にある「メロンの下げ渡し」については、元学会員で女優の杉田かおる
氏が著書で述べている。
昭和60年(1985年)、聖教新聞社をアメリカ大使館の一行が親善訪問した際に、杉田氏
ら学会の芸術部に所属していた芸能人たちも、「花を添える」ために動員された。
その後の食事会で、問題の出来事は起こった。以下、引用。
> 発行元の玄関先にわたしは、ほかの部員とともに並んだ。中央に最高指導者の夫人
> がいた。一行が到着する前のちょっと緊張する時間に、
> 「××先生は上行菩薩の再来で……」
> と、誰かが話している声が耳に入った。ぼんやり聞きながら、えーっ、最高指導者
> が、上行菩薩、つまり大地から出現した菩薩だって……。それはいくらなんでも畏れ
> 多いんじゃないかしら。神、いや、仏をも恐れぬ言葉ではないか……。厳しい修行を
> 積んだわけでもない生身の人間が、菩薩の生まれ変わりだなんて……。
> やがて、一行が到着して、歓迎行事はつつがなく進行した。その後、上行菩薩の再
> 来といわれる最高指導者を囲む食事会が開かれた。わたしは二十人ほどの芸術部員と
> ともにそこに呼ばれた。ちらとよぎった疑問は消えていなかったが、これはこれで言
> 葉にならないほど名誉なことである。
(中略)
> 食事が始まった。その席上、最高指導者が、「男はうそつきだから気をつけろ」と
> か「先々代の最高指導者は金儲けが下手だった」とか、あまりにも俗っぽい話題を出
> すので、わたしは自分の耳を疑った。何かの間違いだろうとまで思った。
> が、そんな疑問など吹っ飛ぶような出来事が続いて起こった。デザートにメロンが
> 出たのである。一皿に半月型に切ったメロンが載っていた。なんの変哲もないメロン
> だと思って見ていた。すると、最高指導者がいった。
> 「このメロンは天皇陛下と私しか食べられない」
> はあ? という目でわたしはメロンを見た。そんなに貴重なメロンなんだ。と、彼
> はそのメロンをひとさじすくいとって口に含んだ。そして、「みんなにも食べさせて
> あげたい」といった。わたしは、同じメロンがみんなの前にも出てくるものと期待し、
> 貴重なメロンをみんなと分かち合おうという彼の思いやりに心が動かされた。
> ところが、彼はその食べかけのメロンを隣の席の人に渡した。うやうやしく受け取
> った人は、同じスプーンで同じようにすくって口に入れた。そしてまた隣の人へ。ス
> プーンをしゃぶるようにする中年の幹部もいた。
> 悪夢のようだった。最高指導者にすれば、善意かもしれないが、わたしにはただ気
> 持ち悪さが背筋を走った。その順番がわたしにも近づいてくる。どうしよう、どうし
> よう。動揺が顔に出てしまったらしい。隣の女性がわたしを睨みつけた。そうこうす
> るうちに、ついにわたしのところへ恐怖のメロンが来た。もうほとんど食べ尽くされ
> て、皿には果汁がどろんとよどんでいた。
> わたしは覚悟を決めて、皮に近いところを少しだけすくった。ところが、スプーン
> がすべって、ほんの少しのつもりが、結構な量がすくえてしまった。うまくいかない
> ものだ。周囲は注目している。わたしは目をつぶって、味わわないように素早く飲み
> 込んだ。
> お下げ渡しと称して、こんなばかげた不潔なことをさせるのが、最高指導者なのか。
> わたしの中で少しづつ不信感が芽生えていく。
(杉田かおる著『杉田』より引用)
※ 『杉田』では、「創価学会」や「池田大作」といった固有名詞の使用は避けられて
いるが、文中にある「最高指導者」とは池田大作のことである。
引用中に「××先生は上行菩薩の再来」という言葉があるが、上行菩薩とは法華経に登場
する「地涌の菩薩」の筆頭であり、創価学会の教義では、この上行菩薩こそが「末法の御
本仏」であり、またその再誕が日蓮ということになっている。
もちろん、そんなことは法華経のどこにも書いてはない。この件に関しては、当ブログ
で以前詳しく書いたので、関心のある方はそちらをご覧いただきたい(「私説〝五重相対〟
(創価学会の矛盾)①」参照)。
つまり、杉田氏は他の学会員が「池田大作は日蓮の生まれ変わりで御本仏」だというの
と同然のことを話しているのを聞いて、「えーっ」と思ったと述べているのである。
杉田氏は、生まれながらの創価学会員、いわゆる「福子」ではなかったので、創価学会
内部で「当たり前」のように行われていること、語られていることと、世間の常識とのギ
ャップに気づき、洗脳から解放されて脱会することができたのだと思われる。
創価学会は外部に対しては、「池田大作は御本仏」などとは主張していない。だが、内
部では表向きに語られるおためごかしとまったく違うことが、信じられているのだ。
ほとんどの創価学会員が、池田大作は「御本仏」であり、「福運の当体」であると思い
込んでいるからこそ、池田の食べ残し、飲み残しを口にすることで、「福運」が得られる
というバカげた〝理論〟というか、狂信が成立するのである。
池田大作の如き、女狂い、金狂いのごうつくばりの一体どこが「仏」だというのだろう
か。仏教をバカにし、冒涜するにも程があるというものである。
まして、その池田が口をつけた残りものを回し食いすることにより、「福運がつく」と
言うのはあまりにも異常であり、杉田氏も述べているのように「ばかげた不潔なこと」と
しか言いようがない。
ネット上には、今もって「創価学会はカルトではない」と言い張る学会員が少なからず
存在するが、今回述べた逸話だけでも、創価学会が異常なカルト集団である証拠として、
十分ではないだろうか。
まともな神経を持った者が、こんな不衛生で狂った教団に入りたがる訳がないことは、
考えるまでもないことだと思うのだが、「創価学会は唯一の正しい信仰」だと洗脳された
学会員には、それが分からないのだ。
だからこそ学会員たちは、「折伏」とか「仏法対話」とか称して、迷惑この上ない勧誘
活動を続けているのである。
創価学会員の皆さん方に目を覚ましてもらうことが、社会のためにも当人のためにも一
番良いことだと私は信じるが、それが無理なのであれば、彼らだけで思う存分、池田セン
セイの食べ残しの回し食いを堪能していただき、外部の一般人には構わないでいただきた
いものである。
補足
池田大作の食べ残しを、創価学会員たちが有難がって食っているという話は、原島嵩氏
や山崎正友氏らの脱会した元幹部や、内藤国夫氏ら外部のジャーナリストにより、昭和50
年代に何度も週刊誌等で取り上げられていた。
杉田かおる氏が著書で述べている出来事があったのは、昭和60年(1985年)のことであ
る。つまり、「人をバカにしたような、お下がり強要」をさんざん批判され、世間の多く
の人びとから「創価学会は気持ち悪い」と思われるようになっても、彼らはこのバカげた
慣行を改めなかったのだ。
以前も指摘したが、外部からいくら批判され、彼らの信仰は世間の常識とは相容れない
のだと説得されても、創価学会は変わらない。カルトの狂信とは、そのようなものなので
ある。
何度でも言うが、普通の人生を送りたいならば、創価学会のような異常なカルトとは関
わるべきではない。
もし、知り合いに学会員がいるならば、可能な限り早く縁を切るか、それが無理ならば
必要最低限のつき合いのみに留め、深く関わらないようにすることを強くお勧めしたい。