2017年6月17日土曜日

池田大作と戸田城聖の〝遺品の刀〟

 『人間革命』第五巻に、昭和26年(1951年)1月26日、池田大作(作中では「山本伸一」)
が、戸田城聖の自宅に呼びだされ、後事を託すかの如きことを言い渡される場面が描かれ
ている。


> 「伸一、今日はよく聞いてもらいたいことがある。私も最後の覚悟をしておかねばな
> らぬ時がきた。それで一切の書類を処置しているわけだが、検察当局にこちらから出
> 頭しようかと思っている。一つの非常手段だ。しかし、そうなると、相手のあること
> だ。私の身柄はどういうことになるやも知れぬ。あとの事を、いまここで明確にして
> おきたい。そこで……」
>  と、戸田が言いかけた時、幾枝はわっと泣き出した。そして、嗚咽をこらえるよう
> に泣き伏した。
>  戸田は憮然として幾枝を見ていたが、急に声をあらげて怒り出した。
> 「なんていうことだ! 将軍が追いつめられて、最後の非常手段に出ようとしている
> 大切な時に、女々しく泣くとは、いったい何ごとだ!」
>  戸田は怒りを静めながら、伸一を見すえていった。
> 「考え違いをしてくれては困る。いま大事なのは後のことだ。そこで、伸一君、私に
> もし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のことも、
> 一切君に任せるから、引き受けてくれまいか。そして、できることなら、私の家族の
> こともだ。幾枝、よく聞きなさい」
 (中略)
>  伸一は、うるんだ瞳をあげ、戸田をみつめていった。
> 「先生、決して御心配なさらないでください。私の一生は先生に捧げて悔いのない覚
> 悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって永遠に変わるこ
> とはありません」
> 「そうか。そうか。よろしく頼みます」
>  戸田は、改まって頭さえ下げるのであった。

 ※ 文中の「幾枝」は、戸田の妻・幾子のことである。


 この場面で戸田が言及している「組合」とは、彼が経営していた東京建設信用組合(作
中では「東光建設信用組合」)のことである。当時、この組合は経営破綻しており、債権
者とのトラブルから刑事告訴されていた戸田は、いつ逮捕されるかわからない身であった。

 また「大東商工」とは、後に池田が営業部長して辣腕を振るう大蔵商事のことであるが、
この頃はまだ経営が安定していなかった。この時期の戸田城聖は、実業家として進退に窮
していたといえる。

 戸田と池田の間に、実際に引用のようなやり取りがあったかは、定かではない。その後、
事態は好転し、戸田は刑事責任を問われることもなくなり、この年の5月3日に創価学会会
長に就任した。

 ここで留意いただきたいことは、戸田が池田に対し、〝もし万一のことがあったら、事
業や創価学会のこと、そして、できることなら家族のことも頼む〟と言い、池田はそれに
「決して御心配なさらないでください。(中略)この覚悟は、また将来にわたって永遠に
変わることはありません」と答えたと、池田が「恩師の真実を伝える伝記」だと自讃する
『人間革命』に書かれているという点である。

 さて、上記引用の時期から約7年後に戸田城聖は死去したわけだが、その時、池田大作
はどのように振る舞ったのだろうか。

 戸田の葬儀後の池田の行動について、石田次男氏が著書『内外一致の妙法 この在るべ
からざるもの』で述べている。孫引きで恐縮だが、以下に該当の一節を引用する。


>  恩師戸田先生逝去直後、御本葬から十日も経たないうちに、池田氏は戸田家に赴い
> て、香典四千万円の方は渡さずに、幾子奥様から、戸田先生の御遺品を持ち出し、そ
> のうちの一つとして先生御所時の刀を借り出した。
>  池田の意思ではなくて小泉筆頭理事の意向、と称して「戸田会長の御遺品は学会と
> して大切に永久保存させていただきたいので、曲げて御承諾ください。お願いします」
> と、懇願という形、お願いという形で、強引に談じ込み、いやおうなく承諾を克ち取
> ったのである。
>  吉崎区議を指揮者とする運び出し実行部隊は、トラックで運び出した。持ち出し量
> の多さが知れようというものではないか。
>  池田氏は、その後十年も十五年も経ってから、この刀を創価学会宝展へ出品した。
> 場所は八王子の東京会館。時は昭和五十八、九年頃のことである。何気なく同展を見
> 物に出かけた奥様は「その場で真っ青になって、卒倒せんばかりに驚いた」――同行
> した御子息夫人の打ち明け話――とのこと。その説明書きには「池田会長が戸田先生
> から生前に拝領した刀です」とあった。
>  いかにも精神詐欺師らしいではないか。この刀、三十余年が過ぎた現在、いまだに
> もって返されていない。貸し側が催促無しで、所有権切れになるまで、粘りに粘り通
> す気なのであろう。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 これが「家族のことも頼む」と恩師から託されたと、誇らしげに書きたてた男――正確
にはゴーストライターに書かせた男――が、実際にとった行動なのである。

 しかも、原島嵩氏の著書によると、池田は恥知らずにもこの刀を「代々の会長に伝える
重宝」だと言っていたという。

 恩師が亡くなると家に押しかけてその遺品を奪い、自らの権威づけに利用する、これが
ことあるごとに「師弟の道」を口にしていた池田大作の、偽らざる姿なのだ。

 『人間革命』に描かれる弟子の模範のような「山本伸一」と、現実の池田大作とは、ど
うしようもないくらいかけ離れている。

 池田は、戸田時代をよく知る古参の学会員から、『人間革命』の記述は実際にあったこ
とと食い違っているのではないか、と指摘を受けると「あれは小説だから」といって誤魔
化したという。

 戸田城聖の息子の喬久氏は、一時期、創価学会の顧問になっていたが、後に関係を断ち、
学会が日蓮正宗から破門された際には、戸田家は日蓮正宗の檀徒であり続けることを選ん
だ。

 戸田城聖の未亡人・戸田幾子氏は平成12年(2000年)、喬久氏は平成25年(2013年)に
死去しているが、その葬儀はいずれも学会葬ではなく、日蓮正宗の僧侶を導師として営ま
れた。

 『週刊新潮』2013年2月14日号は、平成25年(2013年)1月4日に戸田喬久氏が77歳で死
去し、日蓮正宗常在寺の僧侶が導師となって葬儀が行われたと伝えている。しかも導師を
務めた僧侶は、創価学会を破門した大石寺67世法主・阿部日顕氏の息子だったという。

 喬久氏の葬儀に出席した学会員は、一部の古参幹部だけだった。
 同誌には、取材に応じた元学会幹部の言葉が掲載されている。


>  戸田先生の奥さまである幾さんは、夫が手塩にかけた創価学会が、単に池田名誉会
> 長を崇める〝池田ファンクラブ〟のように変質していくことに怒りを隠せませんでし
> た。00年に、彼女は89歳で亡くなりますが、日蓮正宗の信仰を最後まで貫き、遺言は
> 〝葬儀は常在寺で〟だったのです。


 戸田未亡人の葬儀には、創価学会からは当時の秋谷会長をはじめとする幹部数十名が参
列したが、池田大作は欠席した。
 また『週刊新潮』には、喬久氏の未亡人の話も載せられているので引用する。


>  主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申し上げること
> はありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもないので、
> 主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です。


 戸田城聖の遺族は、池田大作が支配する創価学会と手を切った。そして池田は、恩師の
遺族の葬儀にすら出席しなかった。

 創価学会のいう「師弟不二」の内実がどの程度のものか、これらの事実が何よりも雄弁
に物語っているのではないだろうか。

 戸田城聖の遺族に対する池田大作のふるまいを見ていた今の学会幹部たちが、池田亡き
後に〝池田大作流の師弟不二〟を実践する可能性は大いにありそうな気がするが……。

 「永遠に変わることはありません」と誓ったことになっている池田が、師の没後、一月
経たないうちに、恩師の遺族に上述のような仕打ちをはたらいたのである。その池田の弟
子たちの忠誠心がどれほどのものか、おおよそ想像がつくというものだ。

 現在の学会会則で「永遠の師匠」とされている三代会長の位置づけも、将来的にはどう
なるものか、わかったものではあるまい。

 池田大作という軛から解放された幹部たちが、真実を語りはじめたり、池田を見習って
学会の私物化を企てたりしても、それは因果応報というものであろう。



補足 香典について

 戸田城聖の葬儀は、昭和33年(1958年)4月8日、戸田家の告別式が行われ、4月20日に
は創価学会葬が営まれた。学会葬には25万人が参加、当時の首相・岸信介も焼香に訪れた。
 また、全国から集まった香典の総額は、四千万円にも上った。

 この香典は、戸田未亡人が催促したので、葬儀の費用四百万円を差し引いた三千六百万
円が、同年6月9日になって戸田家に届けられたという(溝口敦著『池田大作「権力者」の
構造』による)。