2018年10月7日日曜日

創価批判コピペ集‐⑤(「創価学会の『人間革命』」他)

◇◆◇ 創価学会の『人間革命』◇◆◇

・『人間革命』とは、創価学会名誉会長池田大作の小説である。創価学会では、日蓮遺文を
 「御書」と呼び聖典としているが、『人間革命』も「現代の御書」とされ重視されている。

・創価学会は平成3年(1991年)に破門されるまでは日蓮正宗の信徒団体だった。日蓮正宗
 ではその総本山大石寺の大御本尊を唯一絶対とし、創価学会も大御本尊を神聖視していた。

・『人間革命』のほとんどは、破門前に執筆されたため、現在の信仰とは齟齬が生じている。
 「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教
 と断定すべきである」(『人間革命』第二巻)
 「なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の信仰だけは、絶対に疑っては
 ならぬ」(『人間革命』第六巻)

・創価学会は平成26年(2014年)11月18日、大石寺の大御本尊は〈謗法の地にあるので受持
 の対象にしない〉と聖教新聞で宣言した。教義を変更し日蓮正宗の信仰を全否定したのだ。
 このような、「矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定すべき」ではないのだろうか。


創価学会の教義には根拠がない

創価学会は平成三年に破門されるまでは、日蓮正宗という日蓮系宗教の在家信者団体だった。
破門の理由は、池田大作名誉会長が暴言を吐いたり、僧侶を軽視したりしたことなどである。

日蓮正宗の教義では、その総本山大石寺の大御本尊を、日蓮が「出世の本懐」として作った、
唯一の正統な本尊と主張し、この大御本尊及びその写しのみを正しい信仰の対象としている。

創価学会もかつては、「大御本尊を拝まない者は地獄に堕ちる」と言って信者を集めていた。
現在、学会が信仰の対象としている本尊も、大石寺の大御本尊の写しを量産したものである。

しかし、大石寺の大御本尊は、実は日蓮がその弟子、日禅に与えた紙の本尊をもとに、後世、
木彫された贋作だと判明している(大石寺の前法主、阿部日顕氏もこの事実を認めている)。

つまり、日蓮正宗はニセ本尊を「唯一正しい」と主張してきたのであり、学会もニセ本尊の
複製品を拝んでいるにすぎない。創価学会の正統性の根拠は、最初からウソだったのである。



解説

 上記のコピペの内容についてだが、ある程度の予備知識がないと分かりにくいと思われ
るので、創価学会員であったことのない方のために、簡単にだが解説を添える。

 創価学会の代名詞といっても過言ではないほど、題名だけはよく知られている『人間革
命』だが、実際に読んだことがある方は少ないのではないだろうか。

 そんな方のために、大まかな説明を以前当ブログに掲載しているので、興味がある方は、
そちらをご覧いただきたい(「そもそも『人間革命』とは」参照)。

 なお、『人間革命』を「現代の御書」――「御書」とは日蓮遺文を指す――と喧伝した
のは元副会長の福島源次郎氏だったが、彼の失脚以後、創価学会は日蓮正宗から「現代の
御書という表現は、日蓮と池田大作を同格視するものであり問題だ」と批判されたことも
あり、そうした表現を使わなくなった。

 近年の創価学会は、『人間革命』を「精神の正史」「信心の教科書」と位置づけている。
とはいえ、末端の学会員には今でも「『人間革命』は現代の御書」という者も多い。

 日蓮正宗(ニチレンショウシュウ)については、一般にはご存知ない方も多く、日蓮宗
と混同している向きも少なくないので、少し詳しく説明したい。

 日蓮正宗とは、富士大石寺を総本山とする日蓮系の小宗派である。身延山久遠寺を総本
山とする日蓮宗とは、同じ日蓮系と言っても教義がだいぶ違う。

 例えば、日蓮宗では仏像を礼拝するし神社にも参拝するが、日蓮正宗の教義では、どち
らも禁じられている。

 日蓮正宗では、宗祖日蓮を「末法の御本仏」という至高の存在にまで祭り上げ、大石寺
に安置されている「大御本尊」を、日蓮が「出世の本懐」として作った特別な本尊だとし
ている(日蓮宗の教義では「本仏」は釈迦如来である。当然だが、大石寺の大御本尊を特
別視することもない)。

 そして、「大御本尊」と大石寺の法主によるその複製だけが、正しい信仰の対象であり、
それ以外を拝むのは謗法(ホウボウ)――正法誹謗の略語だが、誤った信仰という意味だ
と理解してよい――とされている。

 創価学会も日蓮正宗から破門される前は、「富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべ
て謗法である」と主張しており、「登山会」と称して大石寺に参詣し、大御本尊を拝むこ
とが定例行事になっていた。

 大石寺の大御本尊については、実際には日蓮が作ったものではなく、後世に複製された
ものと見られている。この点については、犀角独歩氏をはじめとして、説得力ある論考が
少なくないことから、当ブログではこれ以上は立ち入らない。

 私の個人的な印象では、日蓮宗はいくらか排他的なところがあるとはいえ、他の日本の
伝統宗派と、それほど大きな違いはないという感じを受ける。

 対して日蓮正宗は、仏教というよりも一神教に近く、大石寺法主に特別な権威を認める
教義も、ローマ法王を「神の代理人」と見做すカトリックに似ているとも言える。

 さて、創価学会は平成3年(1991年)にその日蓮正宗から破門され、大石寺の大御本尊を
拝むことはできなくなったわけだが、教義を変更して「大御本尊を拝む必要はない」とし
たのは、ようやく平成26年(2014年)になってのことだった。

 それに合わせるため、『人間革命』の記述も書き改められた。「精神の正史」の内容を
都合が悪くなったからといって変更するのは、歴史の改竄ではないかと思われるが、創価
学会の幹部連中は、そんなことに頓着するようなタマではない。

 インチキ宗教の面目躍如といったところであろうか。参考までにコピペで引用した部分
がどう変わったかを示すので、比較していただきたい。


『人間革命』第二巻 初版:昭和41年(1966年)4月15日
>  戸田はまた、こう考えていた。
 (中略)
>  仏教といえば、往々にして高遠で霧に包まれたような、難解なものとされてきた。
> しかし、正法である妙法の眼をひらいて見れば、最も身近な、絶対の幸福確立法であ
> ることが、はっきりとわかる。時代の進展によって変更しなければならない教義や、
> 矛盾に満ちた宗教は、誤れる宗教と断定すべきである。


『人間革命』第2巻(第二版)初版:2013年2月11日
 彼はまた、こう考えていた。
(中略)
>  仏教といえば、往々にして高遠で霧に包まれたような、難解なものとされてきた。
> しかし、正法である妙法の眼をひらいて見れば、最も身近な、絶対の幸福確立法であ
> ることが、はっきりとわかる。


 現在、新刊で入手できる『人間革命』は、聖教ワイド文庫に収録されている第二版であ
る。そちらの方では、「時代の進展によって変更しなければならない教義や、矛盾に満ち
た宗教は、誤れる宗教と断定すべきである」という文章が削除されている。


『人間革命』第六巻 初版:昭和46年(1971年)2月11日
>  私が今、願うことは、なにがどうあろうと、なにがどう起きようと、日蓮正宗の信
> 仰だけは、絶対に疑ってはならぬということであります。

 ※ この一節は、昭和27年(1952年)7月8日の臨時幹部会における、戸田城聖の講演の一
  部である。


『人間革命』第6巻(第二版)初版:2013年6月6日
>  私が、今、願うことは、何がどうあろうと、なにがどう起きようと、この信心だけ
> は、絶対に疑ってはならぬということであります。


 第二版では、「日蓮正宗の信仰」が「この信心」に変更されている。
 『人間革命』第二版の変更点は、ここに挙げただけにとどまらない。はっきり言って、
キリがないほどある。

 『人間革命』の改変を見ても明らかなように、創価学会は、都合の悪い過去をなかった
ことにすることで、正統性を偽装してきたのであり、そうした誤魔化しなしでは成り立た
ない宗教である。

 「教義を変更するのは誤った宗教」と主張しておきながら、都合が悪くなると教義を変
更するなど、まともな思考力を持つ者から見れば、誰がどう考えてもインチキであろう。