2018年7月15日日曜日

「南無妙法蓮華経」の根拠

 ※ 今回も日蓮遺文(古文)の引用多め。


 日蓮は天台教学の「五時八教の教判」を踏襲して、法華経を最も優れた経典と考えたが、
具体的な実践としては、よく知られているように、ひたすらに「南無妙法蓮華経」という
題目を唱えよ、という専修唱題を説いた。

 専修唱題は天台教学の踏襲ではなく、日蓮の独創であるが、彼はその根拠として、いく
つかの著述で法華経の一節を引いている。一例を示す。


>  第二に但法華経の題目計りを唱へて三悪道を離るべきことを明かさば、法華経の第
> 五に云はく「文殊師利、是の法華経は無量の国の中に於て乃至名字をも聞くことを得
> べからず」と。第八に云はく「汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら福量
> るべからず」と。
 (『守護国家論』〔真蹟 身延曾存〕より引用)

 ※ 上記文中の「第五」は、法華経の巻第五 安楽行品、「第八」は巻第八 陀羅尼品か
  らの引用である。


 だが法華経には、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救われると明示している箇所はな
い(「南無釈迦牟尼仏」「南無観世音菩薩」という記述ならある)。上述は日蓮の解釈で
しかないのである。

 自説の根拠が薄弱であることは、日蓮も自覚していたのか、唱題を正当化するために様
々なことを述べている。


>  問うて云はく、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。答へて云はく、華
> 厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等
> 大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝
> 心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。
> かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其の経の肝心なり。大は大につけ小
> は小につけて題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等亦復かくのごとし。
> 仏も又かくのごとし。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通仏・雲雷音王仏、是等も
> 又名の内に其の仏の種々の徳をそなへたり。今の法華経も亦もってかくのごとし。如
> 是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心、一切の諸仏・
> 菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。
 (『報恩抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)


 日蓮に言わせると、各経典の肝心はその題目(題名)であり、最も優れた経典である法
華経の題目は、「一切経の肝心」「頂上の正法」ということになるのだという。
 別の遺文では、法華経のサンスクリット語の原題を示して題目の意義を説いている。


>  妙法蓮華経と申すは漢語なり。月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す。善無畏三蔵
> の法華経の肝心真言に云はく「ノウマクサマンダボダナン オン アアアンナク サル
> バボダ キノウ サキシュビヤ ギャギャノウババ アラキシャニ サツリダルマ フンダリ
> キャ ソタラン ジャ ウン バン コク バザラ アラキシャマン ウン ソワカ」と。此の真
> 言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり。此の真言の中に薩哩達磨(サツリ
> ダルマ)と申すは正法なり。薩と申すは正なり。正は妙なり。妙は正なり。正法華、
> 妙法華是なり。又妙法蓮華経の上に、南無の二字ををけり。南無妙法蓮華経これなり。
 (『開目抄』〔真蹟 身延曾存〕より引用)

 ※ 「ノウマクサマンダ~」はサンスクリット語の音写である。原文では漢字で書かれ
  ているが、環境依存文字が多いため、やむなく片仮名で記した。正確に知りたい方は、
  『開目抄』の原文をご覧いただきたい。創価学会版『日蓮大聖人御書全集』をお持ち
  の方は、209ページに当該部分がある。


 日蓮は「妙法蓮華経というのは漢語である。月支(インド)では薩達磨(サッダルマ)
分陀利(プンダリキャ)伽蘇多攬(ソタラン)という」と述べた上で、法華肝心真言を引
用し、南無妙法蓮華経は法華肝心真言と同じようなものなのだと主張している(法華肝心
真言については補足で説明するので、そちらをご覧いただきたい)。

 この一節については、何を言っているのか分からないという方も多いと思うで、私の能
力の及ぶ範囲でだが、簡単に説明する。

 大乗仏教の経典はインドで作られたものなので、元来はサンスクリット語(梵語)で書
かれていた。もちろん法華経もそうであり、日蓮が言うように「サッダルマ=プンダリー
カ」がサンスクリット語での題名である。

 密教ではサンスクリット語を重視する。仏の姿を真似て手に印を結び、仏の言葉である
サンスクリット語の真言・陀羅尼を唱え、仏の世界を図顕した曼荼羅(マンダラ)を観想
することで、その人が本来持っている仏性が現れ、即身成仏できるというのが、真言密教
の基本的な考え方である。

 日蓮は「真言亡国」と主張したが、法華経の世界観を図顕した曼荼羅を本尊とし、南無
妙法蓮華経――法華肝心真言の近似――を唱えることで成仏できるという主張からも明ら
かなように、実際には相当に強く密教の影響を受けているのである。

 別の遺文からは、日蓮が激しく攻撃したもう一つの宗旨である、念仏の影響を窺い知る
ことができる。


>  漢土・日本に智慧すぐれ才能いみじき聖人は度々ありしかども、いまだ日蓮ほど法
> 華経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもって
> 日蓮は閻浮第一の者としるべし。仏法日本にわたて七百余年、一切経は五千七千、宗
> は八宗十宗、智人は稲麻のごとし、弘通は竹葦ににたり。しかれども仏には阿弥陀仏、
> 諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候はず。此の名号を弘通する人
> は、慧心は往生要集をつくる、日本国三分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往
> 生講の式をつくる、扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然はせんちゃくをつくる、本
> 朝一同の念仏者。而かれば今の弥陀の名号を唱ふる人々は一人が弟子にはあらず。此
> の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布する
> は、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此をすいしぬべし。
> 権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目又流布すべし。
 (『撰時抄』〔真蹟 玉沢妙法華寺〕より引用)


 南無阿弥陀仏という権経――方便の教え――の題目が広がったことは、実教――真実の
教え――である法華経の題目が「流布せんずる序」だというのである。

 念仏や真言を激しく批判しておきながら、題目を正当化するために、法華肝心真言を引
用したり、南無阿弥陀仏は南無妙法蓮華経が広がる前触れだと主張したりする日蓮の論法
に、違和感というか、手前勝手さを感じる方もいるのではないだろうか。

 日蓮は以下のようなことも言ってはいるのだが……。


>  一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず、皆我等が親父・大聖教主釈尊
> の金言なり皆真実なり皆実語なり、其の中にをいて又小乗・大乗・顕教・密教・権大
> 乗・実大乗あいわかれて候、仏説と申すは二天・三仙・外道・道士の経経にたいし候
> へば・此等は妄語・仏説は実語にて候、此の実語の中に妄語あり実語あり綺語もあり
> 悪口もあり、其の中に法華経は実語の中の実語なり・真実の中の真実なり、真言宗と
> 華厳宗と三論と法相と倶舎・成実と律宗と念仏宗と禅宗等は実語の中の妄語より立て
> 出だせる宗宗なり、法華宗は此れ等の宗宗には・にるべくもなき実語なり、法華経の
> 実語なるのみならず一代妄語の経経すら法華経の大海に入りぬれば法華経の御力にせ
> められて実語となり候、いわうや法華経の題目をや、白粉の力は漆を変じて雪のごと
> く白くなす・須弥山に近づく衆色は皆金色なり、法華経の名号を持つ人は一生乃至過
> 去遠遠劫の黒業の漆変じて白業の大善となる、いわうや無始の善根皆変じて金色とな
> り候なり。
 (『妙法尼御前御返事』〔真蹟 池上本門寺〕より引用)


 一代の聖教は皆、教主釈尊の金言であり実語であるが、真言宗や念仏宗等は実語の中の
妄語から出た宗派である。だが法華経の大海に入れば、それらの教えも法華経の力で実語
になるのだという。

 他の宗派はすべて誤りだが、南無妙法蓮華経を正当化するためなら、それらの宗派の教
えを利用して構わないのだと主張しているようにも受け取れる。

 仏教には様々な宗派があり、多くの教説があるが、日蓮はそれらの正邪を決するに際し
ての基準として、次のようなことも言っている。


>  天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみる
> に、涅槃経と申す経に云はく「法に依って人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切
> 経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩乃至上にあぐるとこ
> ろの諸の人師なり。此の経に又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」等云云。
> 此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃
> 経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として
> 一切経の心をばしるべきか。
 (『報恩抄』より引用)

 ※ もっと端的に、「論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん」
  (『破良観等御書』)と述べている著述も存在するが、この遺文には真蹟・古写本と
  もに存在せず、確実に日蓮の教えと断定できるわけではない。


 日蓮は「法華経を明鏡として一切経の心をばしるべき」と述べているが、その法華経に
は、経典の題名がその経の肝心なのだから題目を唱えよとか、南無阿弥陀仏は南無妙法蓮
華経が広がる前触れだとかいう教えは説かれていない。

 今回取り上げた日蓮の主張は、いずれも彼の思いつきに過ぎず、経典に忠実なものとは
言い難い。どちらかというと、「人師・論師の釈」の域を出るものではないように思える。

 日蓮の主張に説得力を感じる人もいるだろう。そういう人が題目を唱えるのは自由だし、
個人の信仰としてなら尊重されるべきだが、日蓮の教えが万人が納得できる普遍的な仏法
だとは、私には思えない。

 そして、創価学会の言っていることは、その日蓮の教えとも違っているのである。
 私はこれまでの人生で、学会員から折伏を受けた事が何回かあるが、今回示したような
日蓮の教えに基づいた主張をした者はいなかった。「南無妙法蓮華経は宇宙の法則」とか
いう、バカげた与太話をする者ならばいたが(創価学会員のほとんどは、御書など読んで
いないのである)。

 日蓮の主張は確かに偏頗なものではあるが、それでも創価学会が主張しているような疑
似科学めいた珍説よりは余程マシだし、「唯一正統な」という言葉で形容するのは不適切
だとしても、日蓮宗等の日蓮系宗派は他の伝統仏教と同様、いま現在、社会に迷惑をかけ
ているわけではない(ただし日蓮正宗はカルトなので除く)。

 また、日蓮だけを批判するのはフェアではないとも思う。例えば法然は『選択本願念仏
集』の中で、空海の『弁顕密二教論』を引用して「念仏にも陀羅尼と同様の功徳がある」
と主張しながら、真言密教を聖道門として退けている。

 法然の主張にも、日蓮と同様の独善性があったと言える。
 一方で法然は、弟子たちに問題行動を起こさないようにと戒めていたし、『選択本願念
仏集』も法然在世の間は、一部の弟子にしか閲覧を許さなかった。

 念仏者等から度重なる襲撃を受けたこともあって、武装までして戦闘的姿勢を取り続け
た日蓮と、まったく同じというわけではない。

 独善的に見える思想を説きながらも、弟子たちには過激な行動を禁じた法然の生き方は
矛盾しているようにも見えるが、先駆者であるが故に慎重にならざるを得なかったのであ
ろう。それでも一部の先鋭化した弟子の暴走を防ぐことはできなかったのだが(この点に
ついては、日蓮にも同様のことがあったのかもしれない)。

 日蓮と念仏の関係については、次回も引き続き論じる予定である。



補足1 法華肝心真言について

 法華経の中にこの真言を説いた箇所があるわけではない。調べてはみたのだが、残念な
がら大したことは分からなかった。
 『日本佛教語辞典』(岩本裕著)に、以下の説明があるのを見つけた。


>  善無畏(六三七~七三五)が南天竺の鉄塔の中より得たと伝えられる陀羅尼で、
> 『法華経』の中心思想を表明するものといわれる。
 (中略)
>  真言は伝承の原語音で誦されるが、その伝承に誤りがあり、原語に還元しがたい部
> 分がある。しかし、『法華経』の原題名 サッダルマ=プンダリーカ に該当する文字
> もあり、『法華経』に関連のあることは明らかであるが、何故に「肝心」であるのか
> 知り難い。


補足2 「南無妙法蓮華経は宇宙の法則」

 創価学会教学部編『教学入門』には、「南無妙法蓮華経は、宇宙と生命を貫く根源の法
です」との記述がある。

 創価学会の教義のほとんどは、彼らがかつて属していた日蓮正宗から受け継いだものだ
が、宇宙云々は日蓮正宗の教義ではなく、創価学会独自のものである。
 日蓮正宗が創価学会に対して発した「破門通告書」には、以下の記述がある。


>  本宗の三宝中、仏宝及び法宝の意義内容たる人法一箇の御本尊について、池田大作
> 氏は、「宇宙根源の法をそのまま御図顕あそばされた大御本尊」などという、御本仏
> 大聖人の己証から外れた法偏重の謬義を繰り返し述べております。これは、まさに本
> 宗の教義を破壊する大謗法であります。

 ※ 日蓮正宗の本尊は、他の日蓮系宗派で用いているのと同じく、真ん中に「南無妙法
  蓮華経」と大書し、その周囲に釈迦如来・多宝如来・諸天善神を配した文字曼荼羅で
  ある。こうした独自の曼荼羅は日蓮が創始したものだが、日蓮正宗の教義ではその総
  本山大石寺の大御本尊を、日蓮が「出世の本懐」として作った特別なものだとしてい
  る(これまでに何度も述べたが、大石寺の大御本尊は後世に作られた贋作である)。


 ここではこれ以上掘り下げないが、創価学会独自の妙な教義についても、いずれ当ブロ
グで考察を加えたいと考えている。

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