2018年4月15日日曜日

池田センセイの「ご友人」

 池田大作は自らの声望を高めるために、世界各国の著名人との会談を重ねてきたが、池
田が利用してきた人物の中には、国家元首クラスの大物もいた。

 当然のことながら、そのような海外の要人と面会するのは容易なことでなく、金を積ん
だり、コネを使ったり、おべっかを使ったりと、様々な苦労があったようである。

 池田はルーマニアの独裁者・チャウシェスク大統領との会談を実現させたが、そこに至
るまでにも、駐日ルーマニア大使と面会して良い印象を与えるように努めるなどの下準備
が必要だった。

 池田大作と駐日ルーマニア大使、二コラエ・フィナンツ氏との会見は、昭和50年(1975
年)3月25日になされた。その席で池田は、チャウシェスク大統領を次のような歯の浮く
ような言辞で称賛している。


> 「チャウシェスク大統領は五十七歳の若さで国を治めておられる。若く、偉大なる指
> 導者であり、独自の哲学を持ち、また魅力をもった方であると認識しています。私は
> その大統領に将来見習っていかなくてはならないこともよく知悉しておるつもりです」
> 「大統領のような聡明な指導者をもったお国は幸せであると申し上げたい。私の直感
> では、お国は、今の閣下のあとの代になっても次の後継者はスムーズにいくように思
> います。大統領から見れば、私ごときは父と子、孫のような立場です。自分を知らな
> ければ、行動も失敗してしまいます」
 (『諸君』1990年3月号所収 内藤国夫著 月報「創価学会問題」第98部より引用)

 ※ この池田発言は、創価学会本部に秘匿されていた資料に記録されていたものである。
  当該資料は、元教学部長の原島嵩氏が造反した際に持ち出され、内藤氏の手に渡った
  とのこと。


 池田は「次の後継者はスムーズにいくように思います」と述べているが、実際のその後
の歴史では、ルーマニアでは流血の革命が起こり、チャウシェスクは公開処刑されている。
 池田センセイの直感は、どうもあまり当てにならないようである。

 さて、こうした事前工作が功を奏し、池田大作は念願かなってチャウシェスク大統領と
の会談を実現させた。昭和58年(1983年)6月8日のことである。『聖教新聞』はこれを
一面トップで報じた。


>  更にSGI会長は大統領の少年時代の夢について問うと、大統領は、我々は革命の
> ための活動を行ってきた。あくまでは夢はルーマニアの民族のため、労働の権利、教
> 育の権利のため、理想の社会建設を実現することであった。そのために働き、戦って
> きたと述懐。
>  SGI会長は「大統領は愛国主義者であり、平和主義者であり、民族主義者である
> ことがよく理解できました」と語った。
 (『聖教新聞』昭和58年〔1983年〕6月10日付より引用)


 チャウシェスクは、離婚や堕胎を厳しく制限して強権的に「産めよ増やせよ」政策を推
進し、その結果ルーマニアでは「チャウシェスクの子供たち」と呼ばれる浮浪児が出現す
る事態に至り、大社会問題となった。

 また、ルーマニア国内に数十箇所も宮殿を建て、飢餓輸出で獲得した外貨を使って贅沢
三昧の生活をしていた。その間、ルーマニア国民は飢えと貧困に苦しんだのである。

 「広宣流布のため」と偽って集めた金で自分専用の豪華別荘をいくつも建設し、豪遊を
続けていた池田大作とチャウシェスクとは、気脈が通じるところがあったのであろう。上
記の聖教記事によると、この会談は「和やかな友好的雰囲気の中で進められていった」と
いう。

 ところが、池田はチャウシェスクの運命が暗転すると、素早く態度を変えた。チャウシ
ェスクが処刑された翌年、ルーマニアの駐日大使と面会した際の池田の発言を、『聖教新
聞』は以下のように報じている。

 ※ この時、池田大作と面会した駐日ルーマニア大使・ブラッド氏は、革命前にも池田
  と会談しており、4年ぶりの再会だった。


>  民衆の総意による新生ルーマニアの誕生を、私は、もろ手を挙げて、祝福いたしま
> す。「民衆」が勝った。「人間」の叫びが勝った。私どもはもちろん、権力悪と戦う
> 世界の民衆勢力に、強い勇気を与えてくれました。
 (中略)
>  貴国の不幸は、指導者が、一族主義による「独裁」に、いつしか陥ってしまったこ
> とにあったといえます。権力の腐敗にどう対処していくか――ここに将来にわたって
> の大きな課題があると思うのですが。
 (『聖教新聞』平成2年〔1990年〕1月7日付より引用)


 独裁者と仲良く会談して誉めそやし、自己宣伝に利用しておいて、その独裁者が革命で
打倒されると、今度は「権力の腐敗」を批判する。まったく大した君子豹変ぶりである。
 また、この会談で池田は、再会したブラッド大使に対して、次のように述べたという。


>  時代や社会はいかに変わろうと、ひとたび結んだ友情が色褪せるようなことはあっ
> てはならない――それが、私の信念です。


 池田センセイのあからさまな手のひら返しを目の当たりにした上、上記のようなご立派
な「信念」の開陳まで聞かされたブラッド大使は、どのような印象を受けたことであろう
か……。

 チャウシェスクとは一回会っただけなので、「友情を結んだ」とまでは言えないのかも
しれない。そこで池田センセイの「ご友人」の中から、もう一人の運命の暗転に直面した
人物であるパナマの最高実力者・ノリエガ将軍についても述べる。

 パナマは大統領制の国であるが、ノリエガ将軍は軍隊を掌握することによって、実質的
に政府を支配していた。平和主義者として世界的に名高いらしい池田センセイは、その軍
事独裁者のノリエガ将軍と家族ぐるみでの親交を結んでいた。

 ノリエガ将軍の娘が病気になった際には、池田センセイがお得意の「数珠さすり」でそ
れを治したという逸話もあるほどである。

 池田センセイとノリエガ将軍とが友好関係を結ぶに至ったいきさつは、次のようなもの
だった。


>  池田大作のパナマ訪問は一九七四年、八一年、八七年の三回に及んでいるが、実は
> 池田はノリエガに大きな「借り」を作ったのは、一九七四年にブラジル・サンパウロ
> 市で開かれた第三回世界平和文化祭に出席するため、米国経由でブラジル入りしよう
> としたときのことである。
>  既に述べたように、日本で言論出版妨害事件を起こす前から、ブラジルでは「創価
> 学会はファッショ団体」とみなされ、池田大作を危険視していたため、このときはビ
> ザ発給を拒否され、立ち往生する羽目になった。そこで、困り果てた池田大作に救い
> の手を差し伸べたのが、当時はまだパナマの一政府高官でしかなかったノリエガ将軍
> だった。それで、池田は「パナマ政府招待」の装いをこらすことで、何とか無事ブラ
> ジルに入国することができたのである。
 (古川利明著『カルトとしての創価学会=池田大作』より引用)


 これを契機として、池田大作とノリエガとは関係を深めた。昭和62年(1987年)に池田
がパナマを訪問し、ノリエガ将軍と会談した際の模様を『聖教新聞』以下のように報じた。


>  同長官は、十三年前、SGI会長のパナマ初訪問の折以来の古い友人であり、これ
> までパナマ、日本、ハワイで友好と友情の語らいを重ねている。この日も旧交を温め
> ながらの和やかな会談となった。
 (『聖教新聞』昭和62年〔1987年〕2月20日付より引用)


 記事は会談後、池田はノリエガの案内で「ミラドール・イケダ(池田展望台)」を訪問
したと伝えている。「池田展望台」は1984年、「SGI会長の平和・文化・教育への幅広
い貢献をたたえ」るために命名され、銘板の除幕が行われたという。

 池田大作はこの訪問において、パナマでは最高位の「バルボア勲章」まで授与された。
 これに大いに気をよくしたのか、池田は静岡県富士宮市にある創価学会白糸研修道場内
の庭園を「ノリエガ庭園」と命名し、石碑を設置した。

(『週刊文春』1988年3月17日号)

 ところがその後、ノリエガ将軍がアメリカの軍事侵攻によって逮捕されると、この石碑
は撤去された。池田は「古い友人」との友情の記念を、なかったことにしたのだ。

 先に引用した内藤国夫氏の月報「創価学会問題」第98部に、池田が友情を語る際の美辞
麗句と、実際の行動とのコントラストが鮮やかに示されているので再度引用する。


> 「私は生涯をかけて、パナマと日本の友好のために貢献していく」
> 「パナマは少年時代から私の憧れの地」
> 「貴国は国は小さいかも知れないが、指導者はあまりにも偉大であり、大きい」
>  等々とパナマ及びその指導者・ノリエガ将軍を誉め称えた池田大作言行録は、いっ
> たい何だったのかと思わずにいられない。
 (中略)
>  パナマへの熱烈な愛情、友情をこれだけ煽り立てられて、今さら「忘れろ」と命ず
> るのは無茶というものだろう。
>  ところが大作サン、チャウシェスク大統領やノリエガ将軍と懇談する写真が、品川
> 文化会館に大きく飾られているのを昨年末に見咎めて、ヒステリックに叱りつけた。
> 「まだこんなものを飾ってあるのか。わからん奴らだ。早く撤去してしまえ」
> 「逆境下の真の友人」という表現があるが、池田氏の付き合いかたは「順境下でこそ
> 友人、逆境下では即、見切りをつけて使い捨て」という冷酷・非情なものだ。


 「池田先生のお言葉」として『聖教新聞』等に載せられるご立派な高説は、口先だけの
ものに過ぎないことがよくわかる。

 池田とノリエガ将軍との関係についての醜聞は、これだけにとどまらない。もっとキナ
臭い話もある。


>  ノリエガ将軍は、ブッシュ氏がCIA長官時代には、その手先となって、キューバ
> のカストロ首相やニカラグアなど中米の革命グループ攪乱に協力した。そして、その
> 代償として、パナマを中継地として、時にはCIAの輸送機も使ってアメリカに南米
> コロンビア産のコカインを輸出(?)する暴挙を大目に見てもらっていた。このため
> にブッシュ氏の弱みを握ったとして、ノリエガ将軍は、ブッシュ氏が大統領となった
> アメリカを、好きなように操れると過信したのだ。
>  しかし、こんなノリエガを放置しておいたら自分の政治生命が危ないと知って、ブ
> ッシュ大統領は八九年就任早々に、米軍による電撃的なパナマ侵攻をやって、ノリエ
> ガ将軍を「戦犯」として捕らえ、アメリカのフロリダにさらって来た。そして、同将
> 軍を「アメリカへのコカイン麻薬供給の罪」もつけて秘密裁判にかけて有罪とし、特
> 別監獄の奥に閉じこめてしまった。
>  このノリエガ将軍が吐かされたものの中に、池田大作氏が創価学会の金をパナマで
> 運用し、ノリエガ将軍の麻薬取引の資金繰りにも使わせていたことと、このあがりか
> ら、池田氏は小沢氏へ相当な額を常時渡していた、というものがあった。ブッシュ氏
> はこの自白の証拠書類もがっちりと手に入れて、金丸、そして小沢の両氏を操作する
> ムチとして使っていた。
 (霍見芳浩著『アメリカ殺しの超発想』より引用)

 ※ 引用中の「ブッシュ氏」とは、第41代大統領だった父親の方のブッシュである。


 この本の著者である霍見氏は国際経営学者で、ハーバード大学、コロンビア大学等の名
門大学の大学院で教授を務め、執筆した時点ではニューヨーク市立大学教授だった。

 霍見氏がハーバード大学大学院で教えた学生の中には、後に第43代米国大統領となるジ
ョージ・W・ブッシュもいたという。

 これらのことから、霍見氏には失っては困る地位と名誉があり、しかも米国の支配階層
にアクセスできる立場にあったことが分かる。

 そのような人物が根も葉もないウソを本に書くとは考えにくい。引用の内容には、相当
の信憑性があるものと考えてよいだろう。

 池田大作に関する話は、どれもロクでもないものばかりだが、その交友関係にも池田の
下劣な人間性と、創価学会の反社会性とがよく現れている。

 池田にとっては、疑うことなく創価学会に金を貢ぎ続ける信者たちも、彼の「ご友人」
たちと同様、自分のために利用するだけの道具でしかないのだろう。

 こんなカルトに騙され続ける人生よりも、もっとマシな生き方はいくらでもあると思う
のだが、創価学会に洗脳され切って、反社会的行為に疑問を感じない人間のクズにまで堕
ちた輩にとっては、居心地がいいのかもしれない。

 知れば知るほど、調べれば調べるほど、関わりたくないという気持ちがより強くなる。
私にとって創価学会とは、そのようなカルト邪教である。

 世の中のほとんどの人にとっても、そうではないだろうか。当ブログを読んでくださっ
ている皆さまになら、同意いただけるものと思う。