2018年3月11日日曜日

池田センセイのご指導

 マハトマ・ガンジー、キング牧師と並び称される偉大な宗教家である池田センセイ。今
回はその池田センセイがなされてきた、数々のご指導の一端を紹介したい。

 学会員から「永遠の師匠」「末法の御本仏」と崇拝されるセンセイが発せられた、珠玉
の名言ばかりである。刮目してご覧いただきたい。


1、センセイご自身のこと

 「私の話が高尚で、そしてわかりやすくて、そいで哲学的で、そいで文学調で、そいで
 詩的で、そいで会話的である。頭が相当聡明でないと追っついていけないんです!」
                    (『週刊現代』2000年5月27日号より引用)

 「私は人が喜ぶことしか考えていない。文化財のような人間だ」
                   (松本勝弥 編著『池田大作言行録』より引用)


 世間広しといえども、ここまで臆面もない自画自賛を言ってのけられる人間はなかなか
いない。さすがは池田センセイというべきか。


2、池田流師弟論

 「師匠は絶対なのだ。戸田先生、牧口先生もそういう関係であった。バカだろうがなん
 であろうが師匠は絶対だ」

 「師匠というのは弟子を煮ても焼いても食ってもいいのだ」
                (いずれも『週刊現代』1988年9月24日号より引用)

 自分が手をつけて飽きた女性を、幹部の妻として下げ渡したり、あるいは既婚女性に性
接待を強いたりしていた池田センセイらしい発言である。

 それにしても「バカだろうがなんであろうが」とおっしゃっているあたり、少しはご自
覚がおありだったのだろうか。


3、女性

 「ある学者が言うには、男の健康には処女の入った後の風呂がいいらしい」

 「処女と関係すると寿命が延びる」
      (いずれも小多仁伯・小川頼宣 共著『池田大作の品格 PARTⅡ』より引用)

 往時の池田大作は、多くの女性学会員にかしずかれる生活を送っていた。お気に入りの
女性に膝枕をしてもらいながら、部下の報告を聞くこともしばしばあった。

 池田は、気にいった若い女性を新たにハーレムに加える際に、上記のようなことを取り
巻きの女性たちに言っていた。「指導」というよりは「言い訳」である。

 はっきり言って酔っ払いのたわ言以下だが、取り巻きの女性たちは神妙に拝聴するだけ
で、非難がましいことをいう者は誰もいなかったらしい。まったく、結構なご身分である。


4、仏法は勝負

 「仏法には敵がなければ本物でないし伸びない。ある新聞記者が公明新聞に書かれるの
 はまだいい。読者に理性がある。しかし聖教は恐ろしい。気違いだからと言った」
                   (松本勝弥 編著『池田大作言行録』より引用)

 「『仏法は勝負』にどれほど深い意義があるのか、皆わかっていない。物事は正邪では
 ない。勝つか負けるかなんだ。全員が『勝つ』と強く決めていけ。勝つか負けるか。や
 られたらやりかえせ。世間などなんだ。私は恐れなど微塵もない。勇者は私だ。私だけ
 戦っている。強気、強気、強気、でいこう。どこまでもしぶとくいくんだ。(中略)な
 んでもいいから、言い返すんだ。こわがったり、ひるんだりしてはいけない。怒鳴って
 いけばいいんだ。(中略)反逆者には、この野郎、馬鹿野郎でいいんだ」
       (言論の自由を守る会 編『「創価学会を斬る」41年目の検証』より引用)


 池田大作の考える「仏法」は、敵をつくってそれを打ち倒すことでしか、正当性を示す
ことができないものらしい。

 創価学会員という連中は、こうした異常な勝他思想で洗脳され切っているから、勝つた
めならば何でもやるのだろう。


5、護符

 「しばらく体の具合が悪かったが護符をいただいて元気になった。護符は本当に威力が
 あるね」

 「創価高校でも風邪が多い護符をいただかせて休ませなさい。熱は下がる。完全に直る
 には自然の時間が必要だが熱は必ず下がるよ」

 「肺病を癒すのは護符を戴き、夫婦生活をやめて、十一時以内に帰る。これをやれば癒
 るよ、やりすぎだ。諸法実相で姿を見ればわかるよ」
                     (いずれも『池田大作言行録』より引用)

 「護符」とは創価学会で用いられるマジナイのことで、日蓮正宗から破門される以前は
「大石寺の大御本尊を拭った和紙を切り刻んだもの」という触れ込みだったが、破門後は
「池田先生が拝んでいる御本尊を拭った紙を切り刻んだもの」に変更されている。

 『池田大作言行録』に収録されている発言は、昭和42年から44年までのものなので、こ
こで池田が言及しているのは、「大御本尊を拭った和紙」についてであろう。

 このマジナイは由緒あるものでも何でもなく、創価学会が勝手にデッチ上げたインチキ
なものだが、上記の発言を見ると、どうも池田本人はこの護符に効果があると信じていた
らしい。

 言うまでもないことだが、風邪であれ肺病であれ、病を得たのなら良い医者にかかって
静養するのが適切であろう。

 創価学会は、21世紀に入った現在もなお、こういう非科学的なマジナイを続けているよ
うだが、他の宗教を「科学的根拠がない」などと批判する前に、我が身を振り返って見た
方がよいのではあるまいか。

 ※ 護符についての詳細は「紙を飲む宗教①」参照。


6、弔電=祝電!?

>  大阪ではね、昭和五十一年の区会議員選挙のとき、今は転任してしまいましたが、
> 当時、創価女子学園の牧野校長先生の奥さんが、配下の婦人部長三人と選挙の応援
> にきて、帰りに交通事故に遭ったんです。牧野さんの奥さんともう一人が即死、一
> 人は入院後一週間で死んで、運転していた一人は今も半身不随で寝たきりです。
>  このとき、池田会長の素晴らしい指導が出た。
> 「牧野家というのはもともとクリスチャンの出である。この法戦のさ中に交通事故
> で死んだということは、宿命転換の兆である。非常に福運の瑞相として喜ぶべきこ
> とであります。牧野家の奥さんのご冥福を祈ります」
>  という〝祝電〟が池田会長先生から入ってきた。それを、京阪圏の婦人部は歓喜
> の涙を流してその指導を喜んだんですよ。
                  (『週刊サンケイ』1980年2月28日号より引用)


 何とも言いようがないというか、交通事故で死んでしまったのでは、宿命転換も福運
の瑞相もへったくれもないのではないか、と私は思うのだが、創価学会員の皆さんの受
け取り方は違うらしい。

 こんな弔電だか祝電だか分からない、人をバカにしているとしか思えないような「ご
指導」を聞いて、歓喜の涙を流すというのは、いったいどういう精神構造をしているの
だろう。それこそ「頭破作七分」ではないのか。


 気をつけなければならないのは、創価学会員という連中は、池田大作を「理想的な人
格者であり、見習うべき模範」と、本気で信じ込んでいる点である。

 普通の人間が「人格破綻者の所業」と感じるようなことを、「立派な振る舞い」だと
考えるのが創価学会員なのだ。

 困ったことに、彼らは現在の日本に数百万人も存在している。「君子危うきに近寄ら
ず」を実践したくても、完全に接触を避けることは難しい。

 しかも公明党が政権与党でいる間は、創価学会にとって不利な法律――例えばカルト
宗教への規制を可能にするような法律――の制定は不可能だろう。

 一般人にできることは、創価学会がいかに異常なカルトかを正しく認識し、非学会員
どうしでの連携や情報共有を図り、適切に身を処すことくらいなのかもしれない。