2018年2月18日日曜日

池田センセイの話術

 池田大作は、創価学会という巨大組織に、昭和35年(1960年)の会長就任以来、平成22
年(2010年)、病に伏すまでの50年間も君臨し続けてきた。その動静がさだかではない現
在も、「永遠の師匠」として、信仰上重要な役割を担っている。

 池田のカリスマ性を組織に浸透させるにあたって、聖教新聞をはじめとする出版物と並
んで大きな役割を果たしてきたのが、本部幹部会の衛星中継である。

 健康な頃の池田は、本部幹部会で毎回演説をし、学会員たちはそれに聞き入っていた。
池田の演説の一例を、以下に引用する。


>  SGI(創価学会インタナショナル)の各国リーダーも出席しての、全国の青年部
> 幹部会、おめでとう!(拍手)
 (中略)
>  ご存知のように、明年は「創価ルネサンスの年」と決まった。「ルネサンス(人間
> 復興)」という言葉は、不思議な魅力をもっている。心を揺り動かす新鮮な響きがあ
> る。歴史。芸術。哲学。世界。ロマン。あらゆる〝人間的〟な要素をあわせもった、
> 精神の華をイメージさせる。
 (中略)
>  一説には、今から約六百年前、十四世紀に活発になったとされるルネサンスの運動。
> それは、「停滞」から「躍動」へ、「束縛」から「自由」への大転換であった、と一
> 般的には見られている。
 (中略)
>  暗黒時代ともいわれる中世。宗教の権威は人々を縛り上げ、搾取し、自由を奪い去
> っていた。そこでは、一人の人間である前に、どの党派、団体に属しているのかが重
> んじられた。人は、個性をもった主体的な存在ではなく、いわば匿名――名前のない
> 存在であった、と。
>  ルネサンスは、そうした権威の鎖を断ち切った。迷妄の覆いを取り去った。人間に
> 自由の〝翼〟をあたえ、望みさえすれば、自分で自分の精神を高められることを教え
> た。そして、解放された「ルネサンス人」は、自由に歩き、自由に考え、自由に語り
> 始めた。世界の広さと、人間の尊厳を発見した。それが画期的な人間復興、文芸復興
> の波となり、潮流となっていった。
 (中略)
>  そして今、人間の尊厳と、世界の多様さを見つめつつ、「人間主義」の世紀を切り
> 開いていく――その新しい時代の出発点に立っているのが、学会である。(以下略)
 (『池田大作全集』第79巻より引用)


 教養を感じさせ、それなりに格調のある演説である。「自由に考え」る人間がこれを聞
けば、「宗教の権威で人々を縛り上げて搾取しているのは、いったいどの教団か」と、思
わずにはいられないであろう。

 引用の演説は、平成3年(1991年)10月27日に開催された全国青年部幹部会でなされた、
ということになっている。

 この時期、創価学会は日蓮正宗との関係が悪化していた。直接の原因は、池田大作が創
価学会の集会で、総本山大石寺の法主・阿部日顕氏を侮辱したことが、日蓮正宗側に漏れ
伝わったことだった。引用した演説から約1か月後、同年11月28日には破門に至っている。

 この危機に際して、学会幹部は「創価ルネサンス」を呼号して組織の引き締めを図った。
 演説で述べられているように、ルネサンスは教会の権威から人々の精神が解放され、よ
り自由に考えらるようになった契機とみなされている。

 言い方を変えれば、神の御心にかなう生き方から、それぞれの個人が自由に人生の目的
を追及することができるように、意識の在り方が変わったのである。ヨーロッパの歴史に
おいて、中世と近代とを分かつ分節点、それがルネサンスである。

 日蓮正宗から破門される以前、創価学会員は、創価学会と日蓮正宗の両方に所属してい
た。創価学会の幹部たちは、日蓮正宗を中世のキリスト教会になぞらえ、そこからの精神
の解放を訴えることで、学会員たちの心をつなぎ止めようとしたことが、引用からは読み
取れる。

 もちろん、いくらご立派な言葉で飾り立てようとも、この池田演説の本質は、日蓮正宗
との対立のきっかけは池田の暴言であったという事実から目を背け、ただのカルト間の抗
争をルネサンスに擬すという針小棒大のたわ言により、あたかも創価学会側につくことが
歴史的使命であるかのように、末端学会員や部外者に印象づけようとの目的を持った、欺
瞞に満ちた妄説であることは言うまでもない。

 さて、演説というものは話し手だけでは成り立たない。当然、もう一方の当事者である
聴衆がどのように受け取ったかも、見過ごすべきではないだろう。

 実のところ、この演説の聴き手であった創価学会員の大部分は、ルネサンスの歴史的意
義になど、まったく興味を持たなかったと思われる。

 典型的な学会員という人たちは、学会幹部から「公明党に投票する人を増やせば功徳が
ある」と言われれば、F取りと称する選挙運動に奔走し、「財務をすれば何倍にもなって
福をもたらす」と言われれば、生活を切り詰めてでも金を差し出す、そういう連中である。

 要するに、あまり頭がいいとは言い難い人たちである。そんな連中に対して「ルネサン
ス云々」のご高説をぶっても、猫に小判である。

 上述のような話をしたところで、「自分たちには歴史的使命があるのだ」という、夜郎
自大な妄想を吹き込むことで、聴衆を鼓舞つつ創価学会の求心力を高めようというもくろ
みは、その場で聞いていた学会員の多くに対しては、さしたる効果を上げなかったであろ
う。

 そしてそのことを、学会幹部の中で他の誰よりもよく理解していたのが、池田大作であ
った。実は、先に引用した演説は、学会本部で「特別書籍」と呼ばれる部署に所属するゴ
ーストライターが執筆した原稿に過ぎない。つまり池田大作は、全集等に収録されている
とおりに話したわけではないのだ。

 では、実際の池田の話しぶりはどうだったのだろうか。元公明党委員長・矢野絢也氏の
著書から、池田の演説について述べた一節を引用する。


>  演説原稿は事前に、専門スタッフによって用意されている。だがそんなもの、ろく
> に読みもしない。
>  私もあれだけ毎回出席していたが、宗教的な説話を聞いた記憶はあまりない。せい
> ぜいが、「やっぱり大御本尊に祈るんだ」とか「一念の力が大事だ」といったような
> 短い言葉、キャッチフレーズを口にするくらいである。日蓮大聖人の仏法の意味がど
> うの、というような教学的に立ち入った話は、まず聞いた覚えはない。
 (中略)
>  小難しい話など一切ない。翌日の「聖教新聞」を見ると、「キリスト教の教義は」
> とか、「キルケゴールが言ったことによれば」といったような話をしたという記事が
> 載るが、それは事前に用意されていた演説原稿だ。実際、少しはそういうことも読み
> 上げていたかもしれないが、実感としてほとんど記憶には残っていない。
 (矢野絢也著『私が愛した池田大作』より引用)


 矢野氏が述べていることは、先の演説についてもあてはまる。平成3年(1991年)10月27
日、実際に池田が語ったことを収録している書籍があるので、そこから引用する。


> 「とくに、とくに、えー、女子部。バンザイ!(笑い) バンザイさせていただきま
> す(拍手と笑い)。SGI(創価学会インターナショナル)、そしてとくに女子部。
> 大好きな女子部(笑い)。バンザイ! バンザイ! バンザイ!」
>  九一年十月二十七日。池田大作は全国青年部会に出席し、何度もバンザイを叫んだ。
> おびただしい拍手と笑いとバンザイの唱和に包まれた。
>  彼はこう続けた。
> 「情けない。日本人ちゅうのは。ま、お金儲けはうまいけども。哲学がないんです。
> 思想が、浅い。みえっぱりで、何の自分自身ももたない。これで、カナダ人のほうが
> よっぽどいい。だからもう、海外の、日本人くるとやんなっちゃうもんね。すぐに悪
> 口いって、スッパヤネ(意味不明)、批判して、これは日本人だ。日本人がいるとこ
> ろ、事故起きんの。いないところは、ガッーチリとね、深まっていく。そいで、いま
> から約六百年前、十四世紀に始まるルネッサンスの時代。こういうふうに話はいかな
> くちゃなんない。……そいで、いまから六百年前、六百円じゃないよ。ライスカレー。
> 帰り食べよ。……諸君もいいことば使ってね。あのー、ビデオ撮ってんのは、うまい
> けどさ、しゃべんのが下手じゃダメだよ。ね。だから、目先のことは、こらー、出て
> けっ。何だ、そんなちっちゃいこと。人間がつく、リラッタ(意味不明)ことだよっ
> て、魂てことは消せないよ。信心は消せませんよ。大聖人は消せませんよ。どうです
> か(ハイッ)
>  ……宇宙は大きいですよ。そんなちっぽけな考え方はもう目もくれないでいきなさ
> いよ(ハイッ)」
>  これは、当日のスピーチを正確に再現した記録からの抜粋である。池田大作は終始、
> 大きな拍手と笑いに包まれていた。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』より引用)


 上記を読んで、池田大作が何を訴えようとしてるのか、お分かりになった方がいるだろ
うか。池田は創価学会の女子部が大好きなこと、普通の日本人が嫌いなことは、私にも理
解できたのだが、その他は脈絡のないことを口走っているだけとしか思えないのだが……。

 「いまから約六百年前、十四世紀に始まるルネッサンスの時代」に言及している点だけ
は、全集に収録された原稿と一致しているが、その部分にしても前後の文脈とつながらず、
何を言いたいのかまったく意味が分からない。

 矢野氏は前掲書で、「脱線こそ池田演説の真骨頂」と評している。おそらく池田は、ル
ネサンス云々に言及した際、聴衆に中につまらなそうな顔をした者がいたのをみてとり、
すかさず話題を転じて、「六百円じゃないよ。ライスカレー。帰り食べよ」と言ったので
あろう。

 平均的な学会員の水準に合わせて、痴的な話をできる人間は、そう多くないと思われる。
このような話を、衆人環視の状況で臆面もなくできるという点では、池田大作は稀有な人
物といえるだろう。

 いずれも東大卒である現会長・原田稔氏や、ひところ次期会長候補の筆頭と言われてい
た事務総長・谷川佳樹氏などの高学歴な学会幹部には、池田のような話で学会員たちの心
をつかむことなど、できそうもない(最初に引用したような文章ならば書けるだろうが)。

 池田センセイの話術に魅力を感じる人にとっては、創価学会は居心地のいい環境なのか
もしれない。

 しかしながら、創価学会の中でも教育のない者が多かった第一世代は退場しつつあり、
今や二世、三世が中核となっている。四世の学会員も少なくない。社会全体の教育水準向
上を反映して、中年や若者世代には高学歴の者も、それなりの数いるはずである。

 そうした教養を身につけた者が、いくら福子として幼少から洗脳を受けてきたとはいえ、
上記のようなバカげた話をする人間を、いつまでも生き仏のように崇め続けることができ
るものだろうか。

 創価学会においても少子高齢化が進んでいるそうだが、座談会や本部幹部会の中継――
昨今では、昔の池田演説の録画を放映することもあるらしい――には、若い世代の学会員
は出たがらないので、実際の割合よりも若者の出席者は少なく、さしずめ敬老会の如き様
相を呈しているとも聞く。

 池田大作は、高学歴のゴーストライターを利用することで、自らを優れた知識人である
かの如く演出してきたが、そうした見せかけに騙される人間は、インターネットが普及し、
彼の真実の姿について情報発信する人が増えた現在、学会員の中からも減りつつあるのか
もしれない。


補足 キンマンコ発言

 池田大作の脱線発言のなかでも、とくに有名なものといえば、キンマンコ発言であろう。
矢野絢也氏も前掲書で、平成5年(1993年)に細川連立政権が発足した際の「デエジン発
言」――公明党の石田幸四郎委員長らが大臣に就任することを、創価学会幹部会において、
池田が事前に口にしてしまった事件――と並ぶ不適切発言として挙げている。


>  他にも沖縄糸満市に糸満平和会館が完成した直後の本部幹部会(一九九三年七月七
> 日)で、「糸満平和会館って、これ名前変えた方がいいんじゃないかな。(略)もっ
> といいね、いいのは、キンマン、いや、イトマン、キン〇ン〇だよ!」と下ネタを口
> にしたこともある。
>  こうしたことが続いたため、今では幹部会の模様は録画され、編集されてから全国
> の会館に送られるようになったようだ。
 (矢野絢也著『私が愛した池田大作』より引用)


 今や「キンマンコ」は、ネット上では池田大作の代名詞となっている。そうなったのは、
この発言が、強引な金集めと女性関係の醜聞で世間を騒がせてきた池田の品性にピタリと
一致しており、池田大作という男の人となりを的確に表していると、多くの人が感じたか
らであろう。

 学会員の皆さんにも、創価学会のマインドコントロールを受けていない一般人の評価は、
こんなものだということを、ご理解いただきたいものである。