2017年4月30日日曜日

創価学会は仏教ではない②

 仏教の開祖である釈尊は、死後については「無記」つまり一切述べなかったとされる。
 しかし、古代のインドでは、生前の行いに応じて天界や地獄などに生まれ変わるという
輪廻転生が信じられており、仏教にもこの思想が「六道輪廻」として取り入れられた。

 仏教は、修行により悟りを開き、輪廻からの解脱をめざすものとして、受け入れられて
いったのである。後に、在俗の信者を重視する大乗仏教が発展すると、生きている間では
なく、死後に浄土に往生して修行するという考え方が生まれ、広がった。

 鎌倉時代に大衆化していった日本の伝統仏教も、大半はこうした考え方をとっている。
法華経も浄土への往生を説いており、日蓮もこの教えに基づいた信仰を説いた。

 一方、創価学会には、第二代会長・戸田城聖が提唱した「生命論」という独自の教義が
あり、「成仏」について、極めて特異な考え方がなされている。以下に『折伏経典』から、
生命論について述べられた一節を引用する。


>  成仏とは永遠の幸福を獲得するということである。われわれの生命というものは、
> この世かぎりのものでは絶対ない。永遠に生きるものである。永遠に生きるのに生ま
> れてくるたびに、草や木や犬やネコや、または、人となっては貧乏・病気・孤独・バ
> カ等の生活を繰り返すことは、考えてみてもとうてい忍びえないことである。
>  成仏の境涯をいえば、いつもいつも生まれてきて力強い生命力にあふれ、生まれて
> きた使命のうえに、思うがままに活動して、その所期の目的を達し、だれにもこわす
> ことのできない福運をもってくる。このような生活が、何十回、何百回、何千回、何
> 億万回と楽しく繰り返されるとしたら、さらに幸福なことではないか。この幸福生活
> を願わないで、小さな幸福にガツガツしているのは、かわいそうというよりほかにな
> い。


 創価学会のいう「成仏の境涯」とは、何度も生まれてきて幸福な生活を「何千回、何億
万回と」繰り返すことなのだという。彼らのいう「幸福生活」がいかなるものかも、同書
には述べられている。


>  われわれの生命がこの世だけでないから、宗教をヤカマシクいうのであります。来
> 世に生まれてくるとき、また四畳半へ生まれてきて、汚い着物を着て、年頃になって
> も満足な福運もなく、一生貧乏で暮らしたり、病気で暮らしたりするのは嫌でありま
> す。生まれ落ちると、女中さんが三十人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、
> 優秀なる大学の卒業生として、お嫁さんは向こうから飛びついてきて、良い子供を生
> んで立派な暮らしをして、死んでいかなければなりません。その来世の幸福を願うが
> ゆえに、いま信仰するのであります。今生もよくなければ来世がいいという証拠には
> なりません。今生において幸せになるがゆえに、来世のことも仏の仰せどおり、確信
> できるのであります。安心して信心を続ければ、今生において必ず証拠が出るのであ
> ります。


 創価学会が提示する「幸福な生活」のイメージは、「生まれ落ちると、女中さんが三十
人もついて、婆やが五人もいて、年頃になれば、優秀なる大学の卒業生として、お嫁さん
は向こうから飛びついてきて、良い子供を生んで立派な暮らしを」するという、極めて即
物的なものである。

 経済的な豊かさを求めることが悪いとは言わないが、何度も輪廻して、その度に煩悩を
充足させる生活を繰り返すことが、「成仏の境涯」だという主張には、強烈な違和感を禁
じえない。

 釈尊は、王族に生まれながら、恵まれた生活をなげうって出家し、修行して悟りを開き
仏となった。創価学会のいう「成仏の境涯」は、仏教の目指す悟りの境地とは、まったく
似ても似つかないものである。

 多くの伝統宗派では、現世で煩悩を断って悟ることは難しいので、浄土に往生すること
により、来世で成仏するという信仰がなされる。ここでは、その代表的な考え方を示すも
のとして、日蓮の同時代人であり、日蓮が口を極めて批判した法然の弟子でもある、親鸞
の『歎異抄』を引く。


>  煩悩具足の身をもて、すでにさとりを開くといふこと。この条、もてのほかのこと
> にさふらふ。 即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法
> 華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな、難行上根のつとめ、観念成就のさ
> とりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた易
> 行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生にをいては煩悩・悪障を断ぜんこ
> と、極めてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをい
> のる。


 親鸞は、「真言法華を行ずる浄侶」なおもって、来世での悟りを祈るのだから、「煩悩
具足の身」ならば、なおさらのことだと主張している。

 では「法華経の行者」をもって自任していた日蓮はどうだったのだろうか。以下に日蓮
遺文から、日蓮が自分の死後について、端的に述べている箇所を示す。


>  さて最後には日蓮今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・
> 正八幡こそ起請を用ひぬかみにて候ひけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候はん
> ずるぞ。
(『種種御振舞御書』より引用)

 ※ この遺文は、日蓮が斬首されそうになった、竜の口の法難について述べている。引
  用した一節は、刑場(竜の口)に連行される日蓮が、八幡宮の前で叫んだ言葉である。
   日蓮はこの後「月のごとくひかりたる物」が現われ、「太刀取目くらみたふれ臥し」
  たと述べている。そのため、斬首は沙汰止みになったという。
   実際にそのような奇蹟があったかは定かではないが……。


 日蓮は、自分が死ねば、久遠実成の釈尊を教主とする霊山浄土に往生するのだと信じて
いたのである。なお、以前も述べたが、法華経は阿弥陀如来の浄土への往生を説いており、
日蓮は、極楽往生を願うのならば、「南無阿弥陀仏」と唱えるよりも「南無妙法蓮華経」
と唱えた方がよいと主張していた。

 日蓮と法然・親鸞の浄土への往生の考え方には、題目と念仏、霊山浄土と極楽浄土とい
う違いがある。だが日蓮の思想は、創価学会の生命論と比べれば、法然・親鸞の方にずっ
と近い。

 生身の人間である以上、誰しも物質的な欲望は断ちがたい。また、現在のような科学技
術や医療がない時代に、現世利益を願う信仰が求められたのは、やむを得ないことだった
と思う。

 しかし、創価学会のように、即物的なご利益がすべてで、成仏さえも欲望の充足と直結
させるのは、仏教とはあまりにも異質であり、異端的である。もっとはっきり言えば、下
品下劣である。

 『折伏経典』には、人として生まれて「バカ等の生活を繰り返すことは、考えてみても
とうてい忍びえないことである」と述べられているが、バカな教えを説き、その教えを有
難がっているバカな信者がいる宗教は、いったいどこなのか。

 仏教とは、「自ら其の意を浄む」ものであり、日蓮も説いているように「心の財第一」
とするものである。

 また、死してなお存続しつづけるような、不変の〝我〟にとらわれることを否定し、欲
望=煩悩のままに行動することを戒めるものでもある。

 創価学会は欲望を無批判に肯定し、しかも何度も転生して、その度に煩悩まみれの「幸
福生活」をすることが「成仏の境涯」などと説いているが、そんなたわけたことは、釈尊
も日蓮も言っていない。

 戸田城聖や池田大作が説く、仏教とはなんの関係もない邪義を「唯一の正統な仏法」な
どと主張する創価学会こそが、仏法や日蓮を貶める集団であることは明白である。



補足1 『人間革命』における「生命論」

 『人間革命』第四巻でも、「生命論」について詳細な解説がなされているが、『人間革
命』では「生命論」そのものだけでなく、その宣揚にもかなりの紙幅が割かれている。

 それによると、戸田城聖の「生命論」は、デカルトの『方法序説』に比肩する意義を持
つものであり、今後数百年にわたり影響力を及ぼすであろう、と述べられている。また、
「生命論」がいずれ科学的に証明されるだろう、との予測もされている。当該部分を引用
する。


>  今後、二十一世紀にむかって、生命に関するいろいろな実験が重ねられ、煩わしい
> くらいの論議が湧きおこり、さまざまな仮説も横行することであろう。そして、戸田
> の論文のある部分を科学的に実証するにいたることも、おそらくはあるであろう。彼
> の「生命論」が、真の光彩を放ちはじめるのは、その時であると確信したい。


 本稿をお読みいただければわかるとおり、「生命論」の内実は、古代インド以来の輪廻
思想と大差ないものであり、あえて新味を挙げるとすれば、煩悩まみれの「幸福生活」と
やらを「成仏の境涯」と強弁することで、仏教を貶めたことくらいである。

 また、『人間革命』第四巻の初版は昭和43年(1968年)であるが、それから半世紀近く
が経った現在でも、「生命論」の科学的実証などなされていない。戸田の「生命論」が、
「真の光彩」とやらを放つ時は、一体いつになったらくるのであろうか。私には、未来永
劫そんな日はこないとしか思えないのだが……。

 輪廻転生の科学的証明などなされるはずがないが、この思想が発生した古代インドにお
いては、社会規範に根拠を与え、秩序を正当化するイデオロギーとして、一定の役割を果
たしたことは事実であろうし、その時点での社会的要請に応えているという意味では、そ
れなりの妥当性があったと評価できる。

 しかし、20世紀半ばにもなって、古代人と大差ない主張をした戸田城聖にしても、その
戸田の珍説を『方法序説』と比肩する歴史的偉業などと宣揚した池田大作にしても、愚劣
極まりないとしか言いようがない。

 「生命論」なる珍教義は、時代錯誤で非科学的なたわ言に過ぎず、創価学会の知的水準
の低さを証明するものでしかない。


補足2 『種種御振舞御書』について

 今回引用した『種種御振舞御書』も、かつて身延山久遠寺に保管されていたが、明治の
大火で焼失した真蹟曽存である。

2017年4月28日金曜日

創価学会は仏教ではない①

 信教の自由を侵害する強引な勧誘や、脱会者・批判者への陰湿な嫌がらせなど、組織ぐ
るみで人権侵害を行う創価学会が、まともな宗教であるはずがないことは、今さら論ずる
までもない。

 しかしながら連中は、「大乗仏教の真髄である日蓮大聖人の仏法を信奉する団体」を自
称して、仏教とは名ばかりの反社会思想を広め続けている。創価学会の口先だけはご立派
な、デタラメ教義に騙されてしまう人も、残念ながら一部に存在する。
 そこで今回は、創価学会が仏教からいかにかけ離れた存在かを論じたい。

 創価学会を代表する出版物、『人間革命』には、読んでいて〝これを書いた奴も信じて
る奴らも頭がおかしいんじゃないのか〟と思わずにいられない箇所が少なくない。そのよ
うな一節を、第五巻から引用する。


> がっちり信仰して、五欲を欲しいままにし、功徳をうけてください。願いとして叶わ
> ざるなし、いかなる願いも、叶うのであります

 ※ この一節は、昭和27年(1952年)3月1日の中野支部総会における戸田城聖の講演。


 引用中にある「五欲」とは、仏教用語で「色・声・香・味・触」の五つの感覚に対応す
る欲望、つまり煩悩のことを言う。「財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲」のことをいう
場合もある。

 戸田城聖は〝信仰すればいかなる願いも叶うのだから、欲望をほしいままにせよ〟と説
いているわけだが、これが仏法の指導者のいうことか、と感じるのは、私だけではないだ
ろう。仏教といえば、煩悩を断つことを目指すものというのが、一般的理解である。

 創価学会が、その社会通念に反する極端な欲望肯定思想を、正当化するために用いてい
る日蓮遺文があるので、以下に引用する。


> 欲をもはなれずして仏になり候ひける道の候ひけるぞ。普賢経に法華経の肝心を説き
> て候「煩悩を断ぜず五欲を離れず」等云云。天台大師の摩訶止観に云く「煩悩即菩提、
> 生死即涅槃」等云云。
 (『四条金吾殿御返事』より引用)


 確かにこの遺文には、「煩悩を断ぜず五欲を離れず」という文言が含まれている。また、
『摩訶止観』からの引用として「煩悩即菩提」という言葉もある。

 しかし、日蓮が「五欲を欲しいままにし」てよいと言っているとも断定できない。この
遺文の真意を詳らかにするため、文証として用いられている『摩訶止観』の一節を以下に
示す(後で大意を説明するので読み飛ばしても可)。


>  理を推して発心すとは、法性は自・天にして然なり。集も染むること能わず、苦も
> 悩ますこと能わず、道も通ずること能わず、滅も浄ること能わざること、雲が月を篭
> むるも妨害すること能わざるがごとし。煩悩を退けおわってすなわち法性を見るなり。
> 経にいわく、「滅は真諦にあらず、滅によって真に会す」と。滅なお真にあらず、三
> 諦はいずくんぞ是ならん。煩悩のなかに菩提なく、菩提のなかに煩悩なし、これを生
> 滅の四諦を推して上は仏道を求め下は衆生を化するの発菩提心と名づく。
>  無生の四諦を推して発心すとは、法性は苦・集に異ならず、ただ、苦・集に迷って
> 法性を失うこと、水は結んで氷となるも別の氷なきがごとし。苦・集に苦・集なしと
> 達すれば、すなわち法性に会す。苦・集なお是なり、いかにいわんや道・滅をや。経
> にいわく、「煩悩即ちこれ菩提なり、菩提即ちこれ煩悩なり」と。これを無生の四諦
> を推して上求下化する発菩提心と名づく。
 (『岩波文庫『摩訶止観(上)』より引用)

 ※ この一節は仏教の重要教義である四諦に基づいている。四諦とは、苦諦(一切は苦
  である)、集諦(苦の原因は煩悩である)、滅諦(煩悩を除けば苦も無くなる)、道
  諦(煩悩を除くための修行法(八正道))をいう。


 この一節を正確に理解するには、仏教についてそれなりの知識が必要だが、ここでは大
意を述べるにとどめる。

 仏教には、一切は真如法性の顕現であるという考え方がある。上記は、悟りを開くには
煩悩を断つことが必要だが、悟りを開いた立場から見れば、煩悩もまた、水が氷になるよ
うに、法性の現れたものとわかると説いているのである。

 それを端的に「煩悩即菩提」と述べているのであり、煩悩のおもむくまま、好き放題す
ることが悟りの境地と言っているわけではない。

 そもそも『摩訶止観』には「五欲を呵せ」と題した一節があり、そこには「この五欲は、
これを得れども厭くことなく、悪心うたた熾んにして火に薪を益すがごとく、世世に害を
なすこと怨賊より劇し」と、五欲は有害なものとして述べられている。

 先の日蓮遺文も、凡夫である以上、欲から離れられないのは当然のことだが、だからと
いって成仏をあきらめる必要はないと言いたいのであり、それを欲望のままに好き放題し
てもいいと解釈するのは無茶苦茶である。

 長々と述べたが、仏教の知識などなくても常識さえあれば、欲望を無制限に肯定するよ
うな宗教は邪教に他ならないことはすぐにわかる。

 日蓮正宗も、創価学会がこういうバカなことを言いだした時点で、破門にするべきだっ
たのではないか。

 このような狂った教えを信奉しているから、自分の欲望を充たすために、他人を平気で
犠牲にできる人間のクズのような輩がわいてくるのである。

 重ねて言うが、創価学会は断じて仏教ではない。有害な思想をまき散らすインチキ宗教、
カルト邪教に過ぎない。この「一凶を禁ずる」理性を、ひとりひとりの国民が持つことこ
そ、よりよき社会の実現のために、今必要なことではないだろうか。


補足

 今回引用した遺文も、日蓮が弟子である四条金吾に送った手紙とされている。『四条金
吾殿御返事』と呼ばれる遺文は他にもあり、引用したものには『所領書』という異称もあ
る。

 実はこの遺文には、日蓮真蹟・古写本ともに現存しない。なので確実に日蓮の思想を伝
えるものとは断定できない。

2017年4月26日水曜日

蔵の財、心の財

 創価学会の教義がまとめられている『折伏経典』に、信仰の目的を論じた箇所がある。
その一節は、信仰を心のよりどころとすることを、以下のように批判している。


>  なるほど信仰というものが心の満足を目的としているものであるならば、野球をや
> って心の満足を得、心の慰安のために囲碁をやり、華道・茶道によって精神的な満足
> をうることとなんら変わりないものとなってしまう。信仰を、たんに趣味、娯楽とし
> か考えないところに間違った宗教が横行し、無知な者を惑わし、社会に対して害毒を
> 流す一つの原因がある。


 信仰に精神性を求めることは、スポーツによる充足や趣味を楽しむことと同列であり、
社会に対して害毒を流す原因となるのだという。随分と一方的で、心というものをないが
しろにした物言いである。

 創価学会においては、心の問題などとるに足らないものと考えられていることが、よく
わかる。では、彼らが信仰に求めるものは何なのだろうか。同書はこう述べている。


>  世の中が、すべて宿命であり、運命であるならば、よくなろうとして努力する人が
> いなくなるのではないか。この宿命を見つめ運命を打開していくことこそ信仰の目的
> であり、不幸な生活を幸福な生活へと転換していくための実践方法がすなわち宗教で
> ある。このことがわかれば、宗教はたんに精神的な満足を得るという趣味・娯楽とは
> 比較にならない重大問題であることがわかるのである。


〝幸福になるための実践方法が宗教〟だというが、精神的な充足を信仰にもとめることを
否定している以上、創価学会のいう〝幸福〟は、物質的な充足のみを指していることは明
らかである。

 即物的な現世利益のみを追求し、崇高さ、敬虔さといった精神的価値を認めない考え方
こそが、「無知な者を惑わし、社会に対して害毒を流す」ものではないのか。現に創価学
会員といえば、常識や規律を軽視し、他者への思いやりに欠けた人間ばかりではないか。

 彼らが「大聖人」と呼ぶ日蓮は、このような教えなど説いてなどいない。日蓮が心とい
うものを、どのように考えていたかを示す遺文を以下に引用する。


>  蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらん
> よりは心の財をつませ給うべし。
 (『崇峻天皇御書』より引用)

 ※ 引用中の「財」は「たから」と読む。


 この遺文からは、日蓮が物質的な事柄よりも、「心の財第一」と考えていたことが窺え
る。創価学会が日蓮の名を騙っているだけで、実際には、その教えを尊重していないとい
う証拠である。

 それに、創価学会の信仰から、物質的な充足を得ているのは、信者から巻き上げた金か
ら高額の所得を得ている、一部の幹部だけではないのか。

 末端の学会員には、地域の学会幹部から紹介された、低賃金の職場で働かざるを得ない
者や、公明党議員の斡旋で生活保護を受給して「功徳をいただいた」などと言っているよ
うな、どうしようもない連中も少なくない。

 創価学会のようなインチキ宗教にご利益を願うくらいなら、自分自身の意思で未来を切
り開く生き方を選んだ方が、余程マシであろう。それに生きづらさを感じる人にとって、
宗教が心のよりどころとなるのならば、それがまっとうな宗教であればだが、信仰を持つ
ことも悪くないかもしれない。

 しかし、創価学会はそんな心の支えにはならない。その理由は上記をお読みいただけれ
ば明白だろう。どうしても宗教にすがりたい人も、社会には一定数いるだろうが、そのよ
うな方には、創価学会だけはやめておくべきだと、強く言いたい。


 話は変わるが、上記の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と
いう文言は、実は現在の創価学会では、しばしば幹部が言及する言葉となっている。

 これは別に、彼らが即物的な現世利益のみを追求する教義を改めたからではない。では、
なぜだろうか。

 創価学会が毎年、「財務」と称する金集めを行っていることは、これまでに当ブログで
述べたとおりである。

 財務の際には、「財務をすると倍になって福をもたらす」「高額の財務であればあるほ
ど功徳が大きい」と幹部が煽りたて、他の会員への見栄もあって、無理をしてでも金を捻
出し、高額財務を行う学会員も少なくない。

 しかし、学会に金を貢いだからといって、それが倍になって返ってくるなどという虫の
いいことがあるわけもなく、中には地区の幹部に不平を言う者もいる。

 そんな時に幹部が言うのが、「蔵の財よりも身の財、身の財より心の財」という日蓮の
言葉である(「愚痴は福運を消す」ということもある)。

 学会員は上から下まで、現世利益に目のくらんだ連中であり、当然のことながら、くだ
んの幹部も、常日頃は「心の財」になど、何の興味も持っていない。財務についての苦情
をかわす時にだけ、にわかに「心の財」が大事になるらしい。

 まったく、ふざけ切ったインチキ宗教である。



補足

 今回引用した『崇峻天皇御書』は、日蓮が在家の弟子である、四条金吾に宛てて出した
手紙である。崇峻天皇にまつわる逸話が紹介されていることからこう呼ばれる。

 この遺文は身延山久遠寺に伝わっていたが、明治時代に焼失している。日蓮が晩年を過
ごした身延には、複数の真蹟遺文が残っていたが、明治八年の大火で焼失した。このよう
な遺文は「真蹟曽存」と呼ばれる。

2017年4月24日月曜日

仏像を拝むのは謗法か?

 ※ 今回は法華経(漢文)、日蓮遺文(古文)からの引用多め。

 創価学会による強引な勧誘(彼らの言葉でいえば「折伏」)に遭い、難渋している人、
迷惑している人は多い。そこで今回は、折伏の被害者の一助になることを期して、創価学
会の教義の矛盾のうち、もっとも明白なものを取り上げる。

 創価学会は、彼らが工業的に量産しているビニールシート製の本尊を、唯一の正しい信
仰の対象であると主張し、日蓮宗を含めた伝統宗派で信仰の対象とされる仏像等を拝むこ
とは謗法(ほうぼう)だとしている。

 しかし、この主張は、日蓮の教えや、彼らが朝夕に勤行している法華経方便品の内容と、
明白に矛盾している。

 妙法蓮華経 方便品第二 には、以下の記述がある。


> 若人為仏故 (若し人、仏のための故に)
> 建立諸形像 (諸の形像を建立し)
> 刻彫成衆相 (刻彫して衆相を成せば)
> 皆已成仏道 (皆已に仏道を成じたり)
 (中略)
> 綵画作仏像 (綵画して仏像の)
> 百福荘厳相 (百福荘厳の相を作るに)
> 自作若使人 (自ら作り、若しくは人をもせしめば)
> 皆已成仏道 (皆、已に仏道を成じたり)
 (中略)
> 或有人礼拜 (或は人ありて礼拝し)
> 或復但合掌 (或はまた但、合掌のみし)
> 乃至挙一手 (乃至、一手を挙げ)
> 或復小低頭 (或はまた小く頭を低れて)
> 以此供養像 (これを以て像に供養せば)
 (中略)
> 入無余涅槃 (無余涅槃に入ること)
> 如薪尽火滅 (薪の尽きて火の滅するが如し)
 (岩波文庫『法華経(上)』より引用)


 要するに、仏像を作って拝めば、仏道を成じ涅槃に至ることができると、法華経には説
かれている。

 次に、日蓮が信仰の対象として、何が適当と考えていたかを、日蓮遺文からの引用によ
り示す。


> 其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟
> 尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座
> に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十
> 方の諸仏は大地の上に処したまふ。
 (中略)
> 此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず。末法に来入して始めて此の仏
> 像出現せしむべきか。
 (『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』より引用)


>  問うて云はく、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云はく、
> 何物ぞや。答へて云はく、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、
> 馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云はく、其の形
> 貌如何。答へて云はく、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とす
> べし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。
 (『報恩抄』より引用)


 「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」との記述からも明らかなように、
日蓮は、末法においては、上行等の四菩薩を脇士とする「本門の教主釈尊を本尊」とす
べきと主張している。

 仏像や釈尊を信仰の対象とすることを否定する創価学会は、法華経や日蓮の教えを誹
謗する謗法団体であることは明白である。日蓮は、このような謗法者の末路について、
以下のように述べている。


>  法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して
> 阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受
> く」と。
 (『立正安国論』より引用)



補足

 今回引用した日蓮遺文は、いずれも日蓮系の教団において、教義上重要とされている
ものである。創価学会も例外ではない。

 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『立正安国論』は、中山法華経寺に真蹟が現存し
ている。『報恩抄』については、池上本門寺等に真蹟断片が伝わっている。

 仏像を信仰の対象とすることを肯定した日蓮遺文は、今回引用したものだけではない。
ほとんどの創価学会員は、日蓮遺文などほとんど読んでいないし、読む学力もないので、
このような明白な矛盾にも気づかないのであろう。

2017年4月22日土曜日

私説「五重相対」(創価学会の矛盾)④

 ※ 承前 私説「五重相対」

5、創価学会と釈尊の相対

  伝統宗派各派はもとより、創価学会のような胡乱な新興宗教までもが依拠する法華経
 をはじめとする大乗経典は、実際には釈尊滅後、だいぶ後になって成立したものである
 ことは、当ブログでもこれまでに何回も述べたし、私が述べるまでもなく、仏教に多少
 なりとも関心のある方にとっては、もはや常識といってもよいことであろう。

  しかし、だからといって日本の伝統仏教を含めた大乗仏教が、釈尊の教えとまったく
 無関係という訳ではない。江戸時代に大乗非仏説を主張した富永仲基が、「迦文(釈尊)
 の文」と呼び、現在の仏教学においても、実際に釈尊が説いた可能性があると考えられ
 ている偈文があるので、以下に引用する。


   七仏通誡偈

  諸悪莫作 (諸悪作す莫し)
  衆善奉行 (衆善奉行す)
  自浄其意 (自ら其の意を浄む)
  是諸仏教 (是れ諸仏の教え)

 
  この七仏通誡偈の出典は『法句経』であるが、他の経典にも引用され、古来より仏教
 の大切な教えとされてきた。特に禅宗で重視され、一休宗純の「諸悪莫作 衆善奉行」
 の書は有名である。

  〝悪をなさず、善をなせ〟という教えは、誰も反対するものなどいない普遍的なもの
 であるはずだが、これに真っ向から反することを行っている、自称仏教団体が存在する。
 言わずもがなのことだが、創価学会がそれである。

  創価学会には、脱会者や勧誘に応じない者、彼らの非常識な振る舞いを批判した者な
 どに対して、組織的に陰湿で巧妙な嫌がらせを行う、広宣部・教宣部というセクション
 があることは、以前述べた通りである。

  また、彼らは折伏と称し、信教の自由を侵害する強引な勧誘を行い、選挙に際しては、
 替え玉投票や投票所襲撃事件など、悪質な違反を何度も行ってきた。過去には、選挙違
 反で逮捕された学会員に対して「法難賞」なるものまで授与していた。

  創価学会が、社会規範から逸脱した「悪」を実践する団体であることは明白である。
 私の個人的な経験からいっても、創価学会員には悪人が多い。

  他人の迷惑を顧みない強引な勧誘を行う学会員は何人も見てきたし、思い通りに勧誘
 に応じない相手を卑怯なウソで陥れ、そのウソがバレると「俺は誤解していただけだ。
 そもそもアイツが創価学会に入りさえすれば、そんな誤解はすぐに解けたはずだから、
 創価学会に入らない方が悪い」と開き直る者までいた。

  創価学会員のこのような邪悪な振る舞いは、「諸悪莫作」という、仏の教えに反して
 いることは明らかであり、創価学会こそが反仏法団体であることも明白である。

  学会員が〝自分さえ良ければよい。創価学会以外の社会全体のことなど考える必要な
 どない〟という態度をとるのは、どういう訳だろうか。そもそも仏教は〝無我〟を説く
 宗教である。それなのに学会員には、我執が強い人間が異様に多い。

  このことの背景として、創価学会の非仏教的な教えがあると思う。その典型例として、
 『人間革命』第三巻から、昭和23年(1948年)元旦における戸田城聖の指導を引用する。


>  なごやかな雰囲気のなかに、弟子たちは戸田の話に真剣に耳を傾けている。彼の話
> は、つねに道理のうえから、科学的に、真の仏法を理解させようとするものであった。
> 「地球が、宇宙の惑星の一つなら、われわれ人間も、おなじだ。宇宙のなかで、人間
> という一つのものだ。人間の活動といったところで、宇宙のリズムある法則から免れ
> ることは絶対にできない。このことを度外視して、いくら努力してもはじまらない。
> ある場合は、一生懸命逆行している時もある。こうした微妙な一種の不調和が、生活
> に現われる時、人間は不幸を観ずるわけだ。このような法則を、生命という分野から、
> 根本的に事実として説かれているのが、大聖人の仏法です。
>  だから、これがわかってしまえば、我即宇宙であり、宇宙即我ということになる。
> いつか、どこかの科学者が、人間は一個の小宇宙なり、と言ったことをおぼえている。
> ……しかも、これは観念の世界にあるのではない、真実のこの世界にあるというので
> す。(以下略)


  上記引用で、戸田城聖は仏法というものを、あたかも物理法則か何かのように論じて
 いるが、これは果たして妥当だろうか。それに「我即宇宙であり、宇宙即我ということ
 になる」とあるが、このような〝我〟というものを否定し、〝無我〟を説いたのが本来
 の仏教ではなかっただろうか。

  比較的初期に成立した経典である『法句経』のパーリ語原典からの翻訳が、岩波文庫
 に収録されているので、関連部分を引用する。


>  「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかなる知慧を持って観
> るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。
 (中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』より引用)

  ※ 引用中では「諸法非我」とされているが、一般的な漢訳は「諸法無我」。


  上記を読めば一目瞭然だが、釈尊の教えと『人間革命』が説く内容とは、まったく逆
 である(『人間革命』には、もっと直截に我欲を肯定している箇所もあるが、それにつ
 いての批判は別の機会に譲る)。

  我執を捨て〝無我〟の境地に至ることを目指す仏教とは正反対に、創価学会は我利我
 欲を無批判に肯定し、そればかりではなく道徳や常識といった社会規範を「世法」と呼
 び、軽視するが、それの一体どこが仏法だというのだろうか。

  日蓮も『一代聖教大意』で「外道は一切衆生に我有りと云ひ、仏は無我と説きたまふ」
 と述べている。創価学会の〝我〟を肯定する教えは、釈尊の教え、日蓮の教え、双方に
 違背するものであり、彼らの教義でもある内外相対(私説〝五重相対〟①補足参照)に
 より、破折されるべきものではないのだろうか。

  このことは、創成期からの学会幹部で公明党参議院議員を務めた石田次男氏や、脱会
 して批判者に転じた元副会長の福島源次郎氏も指摘している。

  これまで論じてきたように、創価学会の教義は支離滅裂であり、彼ら自身が過去に主
 張してきたこと、日蓮が説いたこと、法華経に説かれていること、釈尊が説いた仏教徒
 を名乗る者ならば誰であれ重視すべきこと、そのすべてと矛盾している。

  これほどまでに矛盾に満ちているにも関わらず、まったく何も疑問を感じず、「創価
 学会は唯一の正しい宗教」と信じ込んでいるのが創価学会員である。頭がおかしいとし
 か思えない。

  どれほどバカげた教えだろうが、他人に迷惑をかけずに信仰するのならば、とやかく
 論難する必要などないだろうが、連中は社会に迷惑をかけまくっており、看過できない。
 このような狂ったカルトの存在は有害無益であり、今後とも徹底した批判を加えていき
 たいと考えている。


補足

  『一代聖教大意』の日蓮真蹟は現存していないが、孫弟子にあたる日目による古写本
 が現存している(孫弟子とはいっても、日目は日蓮と直接の面識もあった)。

2017年4月20日木曜日

私説「五重相対」(創価学会の矛盾)③

 ※ 承前 私説「五重相対」

4、創価学会と法華経〔サンスクリット原典〕の相対(天台大師の矛盾)

  天台大師智顗は、六世紀の中国の僧で、天台宗の実質的な開祖である。天台宗は、最
 澄によって日本にも伝えられた。日蓮を含めて鎌倉仏教の祖師は皆、日本天台宗の総本
 山比叡山延暦寺で学んだことから、天台大師の教説から少なからず影響を受けている。

  創価学会の教義も、この天台大師の思想を抜きに語ることはできない。今回はその代
 表的なものである「五時八教の教判」と「一念三千」について論じる。

  「五時八教の教判」の教判とは、仏教経典の優劣を論じた教義である。仏教経典は、
 実際には、釈尊滅後、数百年かけて徐々に成立したものだが、仏教が伝来した当初は、
 釈尊が一代で説いたものと信じられていた。

  何世代もかけ、多くの人の手で創作されてきたものなので、経典に説かれている思想
 は様々であり、中には矛盾しているものもあった。それを釈尊一人が一代で説いたと考
 えたことから、当然に混乱が生じた。

  天台大師は、この混乱を収拾する解釈を考え出した。釈尊が悟りを開いてから入滅す
 るまでを五段階に分け、それぞれの段階で、レベルの異なる教えを説いたと考えたので
 ある。それが「五時八教の教判」である。その内容を整理すると以下のようになる。


  華厳時・・・・・・釈尊が悟りを開いた直後、その境地をそのまま説いた教え。華厳
           経がこれにあたる。しかし、内容が高度だったので、多くの人に
           は理解されなかったと考えられた。

  阿含時・・・・・・理解を促すためにわかりやく説かれた教え。上座部仏教(小乗仏
           教)の経典が該当する。

  方等時・・・・・・ほとんどの大乗経典は、この時期に説かれたと考えられた。

  般若時・・・・・・深遠な〝空〟の教えを説いた時期。般若経がこれにあたる。

  法華・涅槃時・・・最も優れた教えである法華経を説いた時期。法華経による救いか
           ら漏れた人々のために、釈尊の死の間際に涅槃経が説かれた。


  法華経が最も優れた教えとされた根拠は、法華経の直前に説かれたと考えられた無量
 義経に、「四十余年未顕真実」という文言があること、つまり〝悟りを開いてから四十
 年余りの間、真実を顕わしていない〟と釈尊が宣言していることである。

  そして、法華経に「正直捨方便 但説無上道(正直に方便を捨てて 但無上道のみを
 説く)」とあることなどである。

  この「五時八教の教判」には、それなりに説得力があったことから、後世に至るまで、
 大きな権威を持ち続けた。日蓮もこの説に従って、法華経以外の経典を重視する宗派を
 非難した。

  だが、「五時八教の教判」にも弱点があった。それを天台教学は、法華経の片言隻句
 を拡大解釈し、他の経典に説かれている思想を投影することで弥縫したのだが、それを
 これから見ていく。

  大乗仏教では、一切は〝空〟であると考える。法華経にも「於空法得証(空法におい
 て証ることを得たり)」といった記述はある。だが、肝心の〝空〟を証(さと)る方法
 について、法華経にはほとんど説かれてない。
 〝空〟については、ごく短い経典である般若心経の方が、法華経よりもよほど詳しい。

  また法華経には、〝誰もが仏になれる〟と説かれているが、その根拠は述べられてい
 ない。「一切衆生悉有仏性」という言葉をご存知の方も多いであろうが、この言葉の出
 典は涅槃経である。

  「すべての人が仏としての性質、つまり仏性を宿している。だから、誰もが仏になれ
 る」という思想を「如来蔵思想」といい、日本の伝統仏教や、創価学会を含めた仏教系
 新宗教は、ほとんどすべてこの思想の影響下にあるといっても過言ではない。

  一番優れているはずの法華経に、大乗仏教の重要思想である〝空〟や、如来蔵思想が
 説かれていないのは都合が悪い。この欠点を取り繕う役割を担ってきた教義がある。

  それこそが「一念三千」である。この教義について順に説明していくが、わかりにく
 い考え方なので、私のつたない説明では、すぐにはご理解いただけないかもしれないが、
 ご容赦いただきたい。

  天台思想でも〝空〟は重視されており、三諦という教義がある。これは「空・仮・中」
 の三位一体とも言うべき思想で、それぞれ次のような考え方である。

  空・・・一切は移ろいゆくものであり、不変の本質など存在しない。

  仮・・・事物は仮にその姿を見せている。

  中・・・「空」と「仮」を統合した、より高い見方。

  「空・仮・中」は、切り離すことができない一体のものであることを「三諦円融」と
 いい、「三諦円融」を心に観ずる修行を「一心三観」という。

  何が何だか訳がわからないという方も多いことと思う。実は私もよくわからない。
  そこで、本稿の執筆に際して大いに参照した、仏教学者・立川武蔵氏の著書から引用
 させていただく。


> 天台教学では縁起せるものに対して、(a)「空」と観じて「仮」と観じ、また(b)
> 「仮」と観じて「空」と観ずるという方向の異なる二つの観想行為のレヴェルを設定
> する。そして(a)と(b)とが二つの異なるあり方ではなく、「中」においては統
> 一されていると主張される。しかし、その統一がはたして論理としてとらえられるも
> のであるか否かは今後の研究課題なのである。
 (立川武蔵著『最澄と空海』より引用)


  仏教学者が「今後の研究課題」というくらいなのだから、素人に理解できないのは当
 然だろう。理解の助けにはならなかったかもしれないが、わからないのが当然と諒解す
 るしかないのかもしれない。所詮、悟りとは論理を超越したものなのだろう。

  脱線してしまったが、この「空・仮・中」は古代インドの仏教思想家・龍樹が、『中
 観』で述べた説によるもので、直接、仏教の経典に説かれている教えではない。経典に
 根拠がないのでは、教義としての正統性に疑問を持たれかねない。

  そこで登場するのが、法華経と天台大師である。
  法華経方便品に「十如是」という一節がある。「如是相。如是性。如是體。如是力。
 如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等」と、如是~が続けて十あ
 るので十如是という(意味は後で解説するので、ここではそんなものがあるということ
 を、とりあえず知っていただいて先に進む)。

  天台大師は、この十如是には三通りの読み方があると主張した。最初の「如是相」に
 ついてだけ記すと、「是相如、如是相、相如是」と読めるのだという。

  しかも、それぞれが実は先ほどの「空・仮・中」と対応しているのだという。驚くべ
 き論理の飛躍だが、これで〝空〟の思想が「最高の経典」である法華経にも説かれてい
 るということになったわけである(かなり無理がある気がするが……)。

  さらに話は進む。天台大師の代表的な著述である『摩訶止観』には、「十如是」と仏
 教の伝統的な世界観を関連づけた記述がある。


>  それ一心に十法界を具す。一法界に十法界を具して、百法界なり。一界に三十種の
> 世間を具し、百法界はすなわち三千種の世間を具し、この三千は一念の心にあり。
 (岩波文庫『摩訶止観(上)』より引用)


  十法界とは、迷える衆生が輪廻する世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)と、迷
 いから脱した四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の合わせて十の境涯を指す。この十界は、
 それぞれがお互いの要素を併せ持つので百界となる。これを「十界互具」という。

   ※ 「十界互具」には重要な含意がある。それは迷える衆生の世界も、「仏界」の
    要素を含むこと、つまり「一切衆生悉有仏性」と同様の意味になることである。

  三十種の世間とは、「三種世間」が「十如是」を備えていることをいう。「三種世間」
 についての解説を、立川武蔵氏の前掲書から引用する。


>  第一の世間は、五陰世間である。「五陰」とは五蘊(物質、感受、原初的観念、意
> 欲等、認識)と同じであり、初期仏教以来、「世界」の構成要素と考えられてきた。
  (中略)
> 天台の教学においては、五陰は山川草木などの自然をも含んだ、世界の基礎的構成要
> 素と考えられた。この五陰が、第二の国土世間と第三の衆生世間の構成要素とされて、
> 第一の五陰世間が「体」、第二・第三の世間が「用」と呼ばれた。
>  国土世間は、生類がその上で生きている依止(基体)あるいは場としての世界を指
> し、山川などの自然をも含む。衆生世間は、国土世間の上に住む一切衆生である。


  この記述を単純化して整理すると、以下のようになる(素人の私が浅薄な理解で捨象
 したものなので、不正確さはご容赦いただきたい)。

  五陰世間・・・・・物質などの世界の構成要素
  国土世間・・・・・生類が暮らす世界
  衆生世間・・・・・一切衆生

  これらを要約するとこうなる。
  十界 × 十界 = 百界   百界 ×(三世間 × 十如是)= 三千世間

  「一念三千」は十如是を介して、上述した「空・仮・中」の三諦円融・一心三観を包
 摂しているのである。

  「一念三千」の各構成要素についての説明は以上である。とてもわかりにくい説明に
 なってしまい恐縮だが、私ではこれが精いっぱいなので、より詳しく知りたい方は、専
 門書等にあたっていただければと思う。

  ここまで読んでいただけるとおわかりだろうが、天台教学では法華経の「十如是」に
 強引な解釈を行い、それを他の仏教思想と組み合わせることで、「一念三千」なる教義
 を生み出し、法華経にも〝空〟や、如来蔵思想が説かれているのだと強弁することで、
 「最高の経典」にふさわしく飾り立てたのである。

  さて、引きのばしにしてきた「十如是」の意味だが、岩波文庫版の『法華経』には漢
 訳だけでなく、サンスクリット原典からの日本語訳も記載されているので、十如是に該
 当する部分を、その少し前から引用する。


> 如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできる
> のだし、如来こそあらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、『それらの現象が
> 何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるもの
> であるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる
> 本質を持つか』、ということである。

 ※『』内が十如是に対応する。原文に『』はないが、理解の便宜をはかるため補った。

  読めばわかるとおり、どう見ても五項目しか挙げられていない。実は十如是というの
 は、漢訳法華経の翻訳者・鳩摩羅什の意訳というか創作である。この十如是に基づいた
 一念三千も、原典を十分尊重していない意訳に基いた、杜撰な教義ということになる。

  法華経のサンスクリット原典からの現代語訳を、気軽に読めるようになったことは、
 仏教学の成果を一般人も享受できることになったということであり、それ自体は喜ばし
 いことだが、仏教学の成果はそれだけではない。

  「五時八教の教判」の教判で、重要な根拠とされた「四十余年未顕真実」という文言
 がある無量義経は、中国で撰述された偽経だと仏教学では考えられている。法華経を含
 めた大乗経典は、釈尊滅後、数百年経って創作されたものであることも判明している。

  天台大師は、六世紀当時の中国において、社会的・宗教的なニーズに応える教義を説
 いた偉大な仏教思想家だった。実際、彼の説は、一千年以上の長きにわたり権威であり
 続けた。

  日本でも、日蓮だけでなく、多くの仏教者に強い影響を与えたし、今後も影響を与え
 続けるだろうとも思う。

  しかしながら、現在の学問に照らして、天台大師の教説を唯一無二の真理だというの
 は無理である。その無理を通そうとしているのが、創価学会や日蓮正宗だが、仏教にい
 くらかでも興味をもつ人にとって、彼らの主張は文庫本で読める入門書程度の知識さえ
 あれば「破折」できる、時代錯誤なたわ言でしかない。

  鎌倉時代の日蓮が、「五時八教の教判」や「一念三千」を疑う余地のない真理と見な
 したことは致し方ないことだが、現代社会に生きているにも関わらず、千年以上前に説
 かれ、しかも学問的に誤りが明らかになっている教義を、社会規範に反するやり方でゴ
 リ押しするのは、いかがなものだろうか。

  学会員の皆さんが、本当に仏法に関心を持っているのであれば、もう少し、見聞を広
 めるなり、本を読むなりしてみてはどうかと思う。例えば、岩波文庫の『法華経』など
 はどうだろうか。

  「御書根本」とかいいながら、その御書もロクに読まないし、「南無妙法蓮華経」と
 唱えながら、「妙法蓮華経」に何が書いてあるのか知ろうとしない人たちに、何を言っ
 ても無駄かも知れないが……。


補足 一念三千について

 実は、天台大師が一念三千について述べているのは、『摩訶止観』の上記引用の部分だ
けである。一念三千が天台教学の極理とされるようになったのは、中国天台宗第六祖・妙
楽大師湛然によるところが大きいといわれている。

 あと、本文では天台大師に対して、必要以上に辛辣になってしまったが、私には天台宗
を批判する意図はない。

 私の真意は、あくまでも、一念三千等の天台の教義をふりかざして反社会行為を働く、
創価学会を批判することである。気を悪くされた天台宗関係者の方がいらしたら、お許し
いただきたい。

2017年4月18日火曜日

私説「五重相対」(創価学会の矛盾)②

 ※ 承前《私説「五重相対」

3、創価学会と漢訳法華経の相対(日蓮の矛盾)

  日蓮は、仏法が滅びる末法にあっては、最も優れた経典である法華経に帰依しなけれ
 ば救われない説き、他の経典に依拠している宗派を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律
 国賊」などと否定した。

  しかし、法華経と日蓮の教えが、完全に一致しているとは言えない点もある。例えば、
 「南無妙法蓮華経」という文言は、実は法華経にはない。

  日蓮は『守護国家論』や『法華経題目抄』で、法華経の陀羅尼品に「汝等但能く法華
 の名を受持せん者を擁護せんすら福量るべからず」とあることを、題目を唱える根拠と
 して挙げている。これも一つの解釈ではあろう。

  だが、法華経には他にも様々な教えが説かれている。
  例えば、方便品には以下の記述がある。


> 若し、人、散乱の心にて 塔廟の中に入りて
> 一たび南無仏と称えば 皆、已に仏道を成ぜり
 (岩波文庫『法華経(上)』より引用)

  また、薬王菩薩本事品には、こう説かれている。

> 若し女人有りて、この経典を聞きて、説の如く修行せば、
> ここにおいて命終して、即ち安楽世界の阿弥陀仏の、
> 大菩薩に囲遶せらるる住処に往きて、蓮華の中の宝座の上に生れん。
 (岩波文庫『法華経(下)』より引用)

 ※ 法華経が重要な経典とみなされた理由の一つは、それ以前に作られた経典に説かれ
  た「女性は成仏できない」という考え方を打ち消し、誰もが仏になれると説いている
  ことである。

 
  この方便品と薬王菩薩品の記述から、「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、浄土へ
 の往生を願うという解釈も可能である。実際、日本に現存する念仏系の伝統宗派四宗の
 うち融通念仏宗は、法華経を依経として「南無阿弥陀仏」を唱える。

  日蓮は、法華経の実践法として、「日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智を
 きらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし」(『報恩抄』)と、専修唱題
 を説いたが、これが唯一の正しい解釈とは言い難い。

  私は、日蓮の解釈を否定しようとは思わないが、「念仏無間」などという独善的な主
 張には同意できない。

  もう一つの明らかな矛盾は、創価学会でも重視されている、『開目抄』の「一念三千
 の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」という主張である。

  「一念三千」とは、天台大師が法華経の方便品に記述に、独自の解釈を加えて主張し
 た教義であり、寿量品にはそのような記述はない。

  日蓮は、自分なりの宗教的な確信をもって、このような主張をしたのであろうし、そ
 の日蓮の確信に自身の信仰心を重ねることも、個人の内面における選択としてならば、
 尊重されるべきであろう。

  だが、実際には寿量品のどこにも書いてないことを、「寿量品の文の底にしづめたり」
 というのは、客観的に見れば〝根拠のない決めつけ〟であり、説得力のある主張とは言
 い難い。 

  創価学会員が日蓮の教えを信仰するのは自由だが、他の宗教をすべて「邪教」と決め
 つけ、強引な折伏で信仰を押しつけようとするのは、迷惑行為でしかない。

  日蓮もまた一人の人間であり、時として間違うこともあれば、後世における学問の進
 歩により、その主張の説得力が失われることもあるという事実を、学会員にも直視して
 ほしいものである。
 


補足(後半は蛇足) 南無妙法蓮華経も念仏か?

 日蓮遺文の一つ『諸法実相抄』に、「妙法蓮華経こそ本仏にては御坐し候へ」との記述
がある。この解釈によるならば、「南無妙法蓮華経」の題目も「南無仏」であり、念仏の
一種と言えるだろう。

 「日蓮はなかねどもなみだひまなし」の有名な一節で知られる『諸法実相抄』であるが、
残念ながら、この遺文の真蹟は現存しない。つまり、確実に日蓮が書いたものとは断定で
きない。

 真蹟のみを、その遺文の著者の思想を伝えるものとする考え方は、学問的に厳密な考証
を行うために必要だということは十分理解できるが、一抹の味気なさも感じないでもない。

 この考え方(「真蹟主義」と呼ばれる)によるならば、伝統宗派の祖師の著述の中でも、
特に広く読まれている親鸞の『歎異抄』も、本当に親鸞の思想か断定できないと言うこと
になるし、筆無精で知られる法然に至っては、その思想を論ずること自体、困難になって
しまうのではないか。

 だが、こうしたブログを運営してみると、揚げ足を取られないようにするためにも、真
蹟主義は有効な手立てだとは思うので、日蓮の思想を論ずる際には、できるだけ真蹟遺文
であるか否かに留意し、真蹟が現存しない場合は、その旨を記すようにするつもりである
(正直にいうとかなり荷が重いけれど)。

 仏教学にも歴史にもズブの素人の私だが、インターネットの普及は、情報の収集を飛躍
的に容易にし、検索するだけで、まったくの素人であっても、相当の知識を得ることを可
能にしてしまった。

 言いかえれば、たとえ素人でも杜撰なことを書けば、知的怠慢のそしりを甘受しなけれ
ばならなくなった。しかし、検索するだけなら一瞬だが、読んで理解するのにはそれなり
の時間を要する。

 言い訳がましく見えることは重々承知だが、当ブログの更新が滞ることがあった際には、
このような自己弁護を私がしていたことを思い出していただき、ご寛恕いただけると幸甚
である。