2017年6月15日木曜日

エレベーター相承のウソ

 創価学会の第二代会長・戸田城聖は、昭和33年(1958年)4月2日に死去したが、生前、
後継者を明確に指名していなかったため、その2年後、昭和35年(1960年)5月3日に池田大
作が第三代会長に就任するまで、会長職は空位だった。

 しかし、池田大作は第三代会長に就任した後になって、戸田の死の一月ほど前の3月1日、
大石寺で大講堂落慶法要が営まれた際に、自分が後継者として指名されていた、と言い出
した。『人間革命』第十二巻には、その場面が以下のように描かれている。


>  清原かつ、森川一正もやって来て、戸田を囲むようにしてエレベーターに向かった。
>  エレベーターが上昇しはじめると、戸田は、伸一の顔をのぞきこむように見すえた。
> そして、静かだが、力をこめて言った。
>  「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、
> あとはお前だ。頼むぞ!」
>  伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。二人の眼と
> 眼が光った。
>  「はい!」
>  自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった。それだけで、言葉はなかった。静
> 寂のなかに、戸田のやや荒い息遣いが聞こえた。師と弟子は、無限の生命の言葉を交
> わすかのように、沈黙したまま互いの顔を見つめ合った。それは厳粛な瞬間であった。
>  清原と森川も、緊張した表情でこのやりとりを見ていた。二人は、戸田と伸一の厳
> 粛な瞬間の姿のなかに、師から弟子への広布の継承を鋭く感じとったにちがいない。
>  それから戸田は、大きく頷くと、にっこりと微笑を浮かべた。エレベーターは六階
> に着いた。

 ※ 『人間革命』では、ほとんどの登場人物が仮名で書かれている。
   清原かつ=柏原ヤス、森川一正=森田一哉、山本伸一=池田大作。


 この逸話は、学会内では「エレベーター相承」と言われている。『人間革命』第十二巻
は、平成5年(1993年)に出版されているが、「エレベーター相承」の話は、学会機関誌
『大白蓮華』などで早くから広められていた。

 しかし、誰を第三代会長にするかについて、学会内で意見がまとまっていなかった時期
には知られていなかった話が、池田が会長になった後に広められたというの奇妙である。

 学会幹部であった柏原氏や森田氏が、本当に「エレベーター相承」に立ち会っていたの
ならば、なぜ彼らはこの話をもっと早くに言い出さなかったのだろうか。

 当時、創価学会理事だった石田次男氏が、この後継者問題について、著書『内外一致の
妙法 この在るべからざるもの』で、まったく別の証言をしている。


>  戸田先生は、この儀式の祝宴散会後の午後四時頃、その場その席で、理事長以下祝
> 宴に参加した全員に対して『次の会長は皆で相談して決めろ、皆で仲良くやっていけ』
> と仰言ったではないか。そしてその席に池田氏は参加していなかったし、それでも当
> 日の内には耳にしたはずではないか。池田氏の言いぶりでは、戸田先生は理事長以下、
> 理事・支部長・常任委員・婦人部長・男女青年部長の全員を騙したことになる。考え
> てもみるべきだ。学会にとっての大事が、エレベーターの中などと、こんな中で行わ
> れるものか。万人仰天の巻ではないか。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より引用〔孫引き〕)


 戸田城聖の死の直後は、初代会長が死去してから七年間、会長職は空位だったのだから、
当面は次の会長は指名しなくてはよいのではないか、という空気が学会内部では支配的だ
ったという。

 もし本当に、その当時学会理事だった柏原ヤス氏と、青年部参謀だった森田一哉氏との
立会いのもと、戸田城聖が池田大作を後継者として指名していたならば、第三代会長はす
んなりと決まっていたはずである。

 石田氏が主張するように、『人間革命』第十二巻に書かれているような「エレベーター
相承」など、実際にはなかったと考える方が自然だろう。

 しかしながら、この作り話は学会内で〝池田神話〟の一部として、広く信じられるよう
になり、かつて石田次男氏が後継者候補の筆頭だったことなど、ほとんど忘れ去られるま
でになった。

 池田大作は、昭和33年(1958年)当時は、創価学会の青年部参謀室長だったが、大蔵商
事の営業部長でもあり、破格の給料を得ていた。そして、その金で他の学会幹部に食事を
おごるなどして手なづけていた。
 元公明党都議・龍年光氏は著書で、当時の池田の動きを述べている。


>  池田は、先生の死期を察して、次の会長の座を睨んで動き回っていたのだ。学会の
> 最も重大な時期に先生の側を離れ、派閥作りを始める。戸田先生が常に戒めてきた、
> 学会にとって最も害のある行動である。
>  実は池田は、戸田先生のお元気な時から、青年部の主要なメンバー(北条浩、森田
> 一哉、中西治雄、星野義男等)に自分を「先生」と呼ばせていたことを、私は後で知
> って愕然とした。
 (龍年光著『池田創価学会を解散させよ』より引用)


 池田大作に、人を従わせるカリスマ性があったのは事実なのであろう。また、金貸しと
しての天分に恵まれ、金融会社・大蔵商事では随一の稼ぎ頭でもあった。人をまとめ上げ
る統率力もあった。

 しかし、どう考えても彼に宗教指導者としての資質があるとは思えない。
 戸田城聖も、日蓮正宗という宗教を金儲けのために利用したが、それでも一方では狂信
的なまでに日蓮正宗を信仰してもいた。

 戸田城聖のもとでの創価学会も、反社会的なカルトだったが、多くの新興宗教は創成期
には社会と衝突しても、次第に丸くなってトラブルは少なくなるのが普通である。

 もし仮に、石田次男氏が第三代会長になっていたならば、創価学会もそうなっていたの
ではないだろうか。

 池田大作は、宗教とビジネスを一体化させる戸田城聖のやり方を受け継ぎ、それを自分
の権勢欲を満たすために利用した。そのために創価学会を〝池田教〟に作り変えた。

 現在の創価学会では、権力を握るためなら平然とウソをつき、勝つためなら手段を選ば
ない池田大作を信者の模範とし、「永遠の師匠」と呼んで崇め奉っている。

 創価学会は、池田大作が後を継ぎ、長年にわたり支配しつづけたことにより、戸田時代
よりも悪質になってしまったのだ。

 このような邪悪なカルトを、これ以上のさらせるわけにはいかない。いま現在でも多く
の被害者が、十分すぎるほど迷惑しているのだ。

 学会員の皆さんには、創価学会が垂れ流してきたウソやデタラメに気づいてほしい。そ
して信仰を口実に他人を苦しめることを、即刻やめてもらいたいと願う。

2017年6月13日火曜日

「長男はツギオで、次男はダイサク」

 『人間革命』第五巻に昭和26年(1951年)7月11日、創価学会青年部の部隊結成式の模
様が描かれている。その時、演壇に立った戸田城聖は、その年の5月、自身が第二代会長
に就任したばかりであったにもかかわらず、次期会長について言及したという。


> 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現われるで
> あろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお
> 祝いを申し上げておきたいのであります」
>  戸田の言葉は、低くあり、高くあり、真情あふれんばかりの声であった。意外な言
> 葉に、青年たちは思わず体を硬直させたにちがいない。――第三代会長が、このなか
> にいるという。いったい誰のことなのであろうか。――それは、彼らの思念をはるか
> に越えた問題であった。
>  戸田は場内の中央の一隅に山本伸一班長を見かけると、ふと眼をそらした。この瞬
> 間、山本伸一は半年前のあの日のことを、咄嗟に思い出さずにはいられなかった。


 『人間革命』ではこの後、山本伸一(池田大作)が「半年前のあの日」に、戸田城聖か
ら「私にもし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のこと
も、一切君に任せる」と言われたことを回想する場面が描かれている。

 しかし、この青年部結成式に出席していた一人である藤原行正氏は、当時の青年部員は、
『人間革命』の記述とは異なる受け止め方をしたと述べている。


>  また、この日青年部ナンバーワンの地位の第一部隊長には二十六歳の石田次男(聖
> 教新聞初代編集長、元参議院議員)が任命された。石田は学会の次期後継者と目され
> た若手屈指の人材であった。その石田を中央にした青年部に向かって、戸田会長はさ
> らに熱っぽく語りかけた。
> 「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現われるであろう。
> かならずこのなかにおられることを私は信ずる」
 (中略)
>  その場にいた全員が、その言葉は石田第一部隊長へ向けられたものだと受け止めた。
> 池田大作もその一人だった。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)


 『人間革命』に、池田大作(作中では「山本伸一」)が登場するのは第二巻からである。
『人間革命』の記述では、戸田城聖は池田と初めて出会ったその日に、「いま牧口の遺業
を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現した」と直感したと書かれている
が、これは大ウソである。

 昭和26年(1951年)の青年部部隊結成の時点では、池田大作は第四部隊長に任命された
龍年光氏の下の一班長でしかなかった。

 藤原氏の前掲書には、昭和30年前後には戸田城聖は「長男はツギオで、次男がダイサク
だぞ」と語っていたと述べられている。
 藤原氏の著書から、当時について引用する。


>  この頃は誰もが石田を戸田二代会長の跡継ぎだと考えていた。池田自身もそうだっ
> たから、彼の石田に対するオベッカ遣いは凄かった。年に一度の子供会の席などで、
> 池田は石田に対してだけは懸命にゴマをすった。石田が腰を上げると見るや、池田は
> 素早い。パッと立って、石田の手荷物を持とうとするのである。いくら相手が次期会
> 長候補とはいえ、宗教団体の創価学会でそこまで媚びを売る人間はほかにいなかった。


 石田氏が創価学会に入信したのは、昭和25年(1950年)11月だが、その翌年には聖教新
聞の初代編集長として抜擢され、昭和28年(1953年)には、牧口門下の古参幹部と並んで
理事に就任した。戸田城聖からそれだけ買われていたのである。

 しかし、この理事就任が後に裏目に出ることになる。創価学会では、青年部が重要な役
割を担っており、石田氏が青年部から抜けた後、第一部隊長には池田大作が就任し、その
翌年には新設された参謀室長に抜擢された。池田はその後、青年部ナンバーワンとしての
地位を最大限に利用した。

 石田氏は、初代編集長として聖教新聞を基礎から作り上げたという功績があり、それな
りの人望もあったが、会長を目指そうとする野心はまったくなかった。

 戸田城聖は、教学面では抜きんでていた石田次男氏を長男に擬し、事業面での貢献が大
きかった池田大作がそれを補佐してくことを期待して次男と言ったのだろうが、天性の野
心家である池田大作は、戸田が58歳で死去したことをチャンスと見なして、策謀をめぐら
し、ついには第三代会長の地位を手に入れたのである。

 『人間革命』第十二巻には、戸田が「幸男は長男だな、伸一は次男だよ」とよく言った
が、それは「惣領の甚六」という批判的な意味合いだったと述べられている(『人間革命』
には、石田次男氏は「石川幸男」として登場する)。

 この記述は、藤原行正氏や龍年光氏が造反して、〝『人間革命』には戸田二代会長が生
きている間から、池田が後継者になることが決まっていたかのように書かれているが、そ
れはウソだ〟という批判を開始し、藤原氏が著書で、戸田会長が「長男はツギオで、次男
はダイサク」と言っていたと暴露したので、言い訳をしたものであろう。

 戸田城聖没後、石田氏を会長に推す動きもあったが、石田氏は固辞した。その後、参議
院議員を二期務めたものの、三期目の立候補は池田大作が許さなかった。その頃には池田
は〝戸田門下生の中の第一人者〟ではなく、絶対権力者としての地位を確立していたので
ある。その後の石田氏について、ジャーナリスト・溝口敦氏は以下のように描いている。


>  石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、つ
> いには最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に
> 重用されすぎたという理由だけである。
>  池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田
> 次男は二十年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にと
> っての「地獄」の持つ意味の重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しに
> して断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、異常な競争心と報復心の激しさ、底
> 深さをみる思いがする。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 石田氏は、彼を敵視する池田大作の策謀により、若くして事実上の引退を強いられたわ
けである。彼はそれにめげずに、池田大作の教義上の誤りを批判し続けたが、創価学会側
は、石田氏は「気がふれて再起不能」「アル中で廃人寸前」などという噂を流して黙殺し
た。

 ジャーナリスト・内藤国夫氏が、昭和60年(1985年)に石田氏にインタビューし、その
内容を著書に記している。それによると、石田氏は池田大作の事業面での貢献は評価して
いるが、教学については酷評している。


> 「大作が戸田先生を助けたというのは、ある意味で本当だな。借金取りに追いかけら
> れちゃあ、それをなんとか追っ払い、こっちが逆に借金取り立てる時には、追っかけ
> てなんとか払わせる。それは、大作一人だけがやった仕事だよォ。たしかに大作は戸
> 田先生を助けたさ。だけど、一面で大作は戸田先生に助けられたんだ。モノもわから
> ねえチンピラが、戸田先生によって働く場所を与えられたんだもの。助けられたのに、
> そっちを忘れて、あるいはいわずに、助けたことばかりいってたんじゃ、これはサカ
> サマだァ。そこがタチが悪いんだよ。知ってて、いわねえんだもの」
> 「それに、これは金のことだけだろう。大蔵商事は金を扱う会社だから。教学のこと
> に関しちゃ、戸田先生、大作のことなんか全然信用してなかったもの。大作自身が先
> 生の講義をろくに聞いてねえんだよ。なにしろ、平気で偽の本尊を作ったりする男だ
> からな。宗教のことなんか、なあんにもわかっちゃいない」
 (内藤国夫著『創価学会池田大作のあくなき野望』より引用)


 石田次男氏は、平成4年(1992年)2月4日に死去した。池田大作はもちろんのこと、実
弟の石田幸四郎氏(当時、公明党委員長)と義弟の秋谷栄之助氏(当時、創価学会会長)
さえも、その葬儀に出席しなかったが、通夜には戸田城聖の未亡人と子息の戸田喬久氏が
出席した。

 ジャーナリスト・乙骨正生氏が戸田未亡人・幾氏に出席の理由を質問したところ、「生
前、主人が大変、お世話になりましたので」との返答があったとのことである。

 師である戸田城聖が世話になった人の葬儀に参列しないというのは、「師弟不二」とい
う創価学会の教義に照らしてどうなのだろう……。

 「歴史にIFはない」というが、もし仮に創価学会の第三代会長に就任したのが、池田
大作ではなく、石田次男氏だったならば、どうなっていただろうか。
 溝口敦氏は、石田氏を以下のように評している。


>  かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように避難しようと、石
> 田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々
> しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版
> 妨害などを少なくともひき起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがい
> ない。
>  が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田
> の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 長年にわたる池田大作の支配により、反社会性が組織の体質になってしまった現在の創
価学会が、その体質を改めるのは容易なことではないだろう。

 また、ほとんどの学会員にとって、池田名誉会長の存在がない創価学会など、考えるこ
とさえできないことなのかもしれない。

 しかしながら、第三代会長が池田大作ではなく、今の創価学会よりは社会とうまく折り
合うことができたであろう、別の可能性も有り得たことを、ある種の〝ユートピア〟とし
て想像することは、創価学会の在り方を批判的に考察し、今後まともな組織になり得るか
を検討する上で、何がしかの意味はあるのではないだろうか。

2017年6月11日日曜日

藤原行正氏について

 『人間革命』の最終巻である第十二巻は、平成5年(1993年)4月2日付で刊行されてい
る。創価学会が日蓮正宗から破門されてから二年後のことであり、この頃には古くからの
幹部の中からも造反者が何人も出て、池田大作への批判をしていた。

 『人間革命』第十二巻では、石田次男氏(作中では「石川幸男」)、龍年光氏(作中で
は「滝本欣也」)、藤原行正氏(作中では「藤川一正」)に対して、かなり辛辣な批判が
加えられている。

 石川幸男は「横柄で冷たい」、滝本欣也は「人間として異常」などと、かなり手厳しい。
両者とも、それまで作中では、学会幹部として重要な役回りを演じてきたにも関わらず、
一転して悪役のような描かれ方になっている。

 これらの人物は、『人間革命』第十二巻刊行時には、いずれも公然と池田大作を批判す
るようになっていた(石田氏は平成4年〔1992年〕死去)。そのために、悪しざまに書か
れる羽目になったのであろう。

 『人間革命』は、池田大作が自画自賛するような「恩師の真実を伝える伝記」などでは
なく、池田を宣揚し、敵対する者を貶めるために書かれたものであることの証拠である。

 藤川一正(藤原行正氏)は、第十二巻ではじめてその名が登場するが、藤原氏がこの巻
が上梓される4年前に造反し、批判本『池田大作の素顔』を出版していたためか、人間的に
相当に問題があるかのように書かれている。


>  ――前年の夏、戸田は大洋精華の社員の表情が暗いことが気になった。関係者に聞
> くと、営業部長の藤川の常軌を逸したやり方に、社員が苦慮しているとのことであっ
> た。藤川は、社員に休日も与えずに働くことを強い、営業成績が悪いと怒鳴りつけ、
> 時には、コップを床に叩きつけたりもするという。そして、社長をしている十条潔が、
> 社員を温かく激励するのを冷ややかに見ながら、自分は、社員への監視の眼を光らせ
> ているというのである。

 ※ 「大洋精華」とは学会関連企業の東洋精光、「十条潔」とは第四代会長を務めた北
  条浩氏のことである。


 『人間革命』では、大洋精華の社員が休日出勤の挙げ句に交通事故死したことが描かれ、
その報を聞いた戸田は、「藤川は、一将功成りて万骨を枯らすことになる。とんでもない
ことだ。しかし、女房も女房だ。あの見栄っぱりの性格が、ますます亭主を狂わせている。
悪いのは女房だ」と述べたとされている。

 藤原行正氏の妻、郁子氏は、池田大作の愛人だった渡部通子氏の実姉である。藤原郁子
氏は、ジャーナリスト・内藤国夫氏に対して、池田の女性関係について話し、内藤氏はそ
れを雑誌で書き立てた。「悪いのは女房だ」というのは、池田大作の意趣返しであろう。

 『人間革命』には、その後、事故死した社員の通夜に藤川が出席しなかったことを知っ
た戸田が、「なにッ! 藤川は人間として許せん。先輩でありながら、無責任極まりない
態度ではないか。今後、藤川のことは、いっさい信じるな!」と言ったと書かれている。

 もしこれが事実なら、池田大作は師である戸田の命に背いたことになる。なぜなら、戸
田の死後、池田の第三代会長就任と時を同じくして、藤原行正氏は創価学会理事となり、
その翌年には渉外部長にも就任しているからである。

 藤原氏は学会幹部として、マスコミ対応や右翼団体との折衝を行い、公明党都議を七期
務めている。また、昭和44年(1969年)に藤原弘達氏が『創価学会を斬る』を出版しよう
とした際には、出版取り止めの依頼に出向いている。

 藤原行正氏は著書で、昭和36、7年当時「池田側近ナンバーワン」と呼ばれていたと述
べているが、実際にそれだけの働きはしていたのであろう。

 池田大作が、会長就任後の数年間、藤原氏を重用していたのは事実である。もし本当に
戸田城聖が、藤原氏のことを「いっさい信じるな!」と言ったのなら、そうはならなかっ
たであろう。『人間革命』は「永遠の師匠」であるはずの、戸田城聖の言葉を捏造してい
るのである。

 都議会議員としての藤原氏は、清廉潔白とは言い難かったようである。下水道関連の利
権を握り、往時は「東京都の下水道工事は藤原行正のお墨付きがもらえないと、工事が出
ない」と言われるほどだったという(古川利明著『シンジケートとしての創価学会=公明
党』による)。

 藤原氏はその後、昭和63年(1988年)に公明党衆議院議員・大橋敏雄氏とともに、創価
学会および池田大作への批判を開始した。平成元年(1989年)には、『池田大作の素顔』
を出版している。

 藤原行正氏は、創価学会および公明党の幹部として、少なからず問題行為に加担してき
た人物である。だが、造反して『池田大作の素顔』を出版した功績は、多としなければな
らないだろう。この本は、池田大作について知る上で重要な資料の一つである。

 さて、藤原氏については、もう一つ言及すべきことがある。それは〝池田大作を暗殺し
ようと企てた〟との風説についてである。
 ウィキペディアの藤原氏の項目には、以下の記述がある。

> 池田大作暗殺計画
> 1988年(昭和63年)9月18日、東京都新宿区西新宿のヒルトン東京である暴力団幹部
> に会い、着手金2億5千万円と成功報酬2億5千万円で池田の殺害を依頼した。しかし藤
> 原が着手金を払えなかったため、10月5日、契約は頓挫し発覚した。


 この情報の初出は、創価学会がかつてバラ撒いていた怪文書「地涌」である。とてもそ
のまま鵜呑みにしていい情報とは思えない。以下に当該の記述がある「地涌」第20号の一
部を引用する。


>  池田名誉会長を倒し、自分の息子を創価学会会長に据える――、こんな野心を持っ
> た男・藤原行正がたくらんだウルトラCは、池田名誉会長の殺害を暴力団に依頼する
> ことだった。
>  藤原行正は、昭和六十三年九月十八日午後二時五十分、新宿区のヒルトンホテルで
> 暴力団幹部のMに会った。九月二日に大橋が国会に「質問主意書」を出した後で、藤
> 原、大橋が脚光を浴びていた頃のことだ。
>  以下の会話記録は、殺人依頼の契約が頓挫したことから白日のもとにさらされた。
> 以下はその一部抜粋である。
>   藤原 Mさんの方で、池田を処分してくれませんか。
>   M  処分というのは、殺すということですか?
>   藤原 そうです。
>   M  いやあ驚きましたね。信仰の世界にいる人が……。よほど、腹をくくった
>      んですね。
>   藤原 そうです。私の手の者でも行くという人間はいるのですが、なかなか……。
>   M  それはそうでしょう。カタギの人がそんな事は簡単にできる訳はないです
>      よ。
 (『地涌からの通信①』より引用)


 この話は事実であろうか。相手の男が「いやあ驚きましたね。信仰の世界にいる人が」
と言ったことになっているが、この時点での藤原氏は、現職の都議会議員である。驚いて
みせるとしたら、まずその点ではないだろうか。不自然な印象は拭いがたい。

 この話とは逆に、創価学会側が藤原氏の暗殺を企てたという話もある。これは元公明党
委員長・矢野絢也氏が著書で述べていることである。


>  藤原氏は、公明党創立当時からの古参の議員で、池田氏には批判的な人物として知
> られていた。その藤原氏を学会が公然と敵視するようになったのは、マスコミに藤原
> 氏の夫人と池田氏との不倫を印象付ける記事が掲載されて以来である。学会は、この
> 情報を藤原氏側からのリークとみなし、熾烈な攻撃を始めたのだ。
>  また学会側は、藤原氏とその次男が、次期会長の座を狙っているとして、批判を強
> めた。これだけなら、学会内部ではよくある権力闘争のひとつだと片付けてしまえな
> くもないが、この一件には世間にはおおっぴらに公開できない秘話があった。
>  当時、公明党都議会の藤井富雄幹事長が、私の自宅を訪ねてきて、真剣な表情で、
> 次のように依頼した。
> 「学会首脳が第三者を使って藤原氏の暗殺を計画している。そういうことは学会の自
> 殺行為になる。なんとか止めてもらえないか」
>  暗殺とは穏やかではない。学会首脳が藤原氏の殺害を計画しているなどとは、とて
> も信じがたかったが、事が事である。私は当時会長だった秋谷栄之助氏に、藤井幹事
> 長の依頼を伝えた。
>  暗殺依頼が本当にあったのかどうかは、わからないが、藤井幹事長が深刻な懸念を
> 抱いて、「取りやめ」を学会首脳陣に進言するよう、私に求めてきたには厳然たる事
> 実である。
>  学会が暗黒街の組織のごとく、邪魔者は消せとばかりに殺人を依頼する。今でも、
> あれは藤井氏の杞憂だったと思いたいが、離反した議員に殺害を仄めかすような脅し
> を、創価学会や公明党の幹部がかけたという話は、たびたび耳にする。
>  私自身、手帖強奪の過程で、議員OBから「あなたの身に危険が及ぶ」という趣旨
> の恫喝を何度も受けたし、実際に幾度も身の危険を感じた。
 (矢野絢也著『黒い手帳 創価学会「日本占領計画」の全記録』より引用)


 どちらの話も確たる証拠はなく、事実か否か不明である。
 しかし私には、「地涌」のようないかがわしい怪文書などより、元公明党委員長である
矢野氏の述懐の方が、ずっと説得力があるように思える。

 矢野氏に暗殺計画を話したという藤井富雄氏は、創価学会において暴力団との窓口役を
長年務めてきた人物。その手の情報を、入手しやすい立場であったのは事実である。

 創価学会を代表する出版物であり、学会員から「現代の御書」と呼ばれるほど重視され
ている『人間革命』にすら捏造があることは、上述のとおりである。その創価学会が出し
ていた怪文書「地涌」にどれほどの信憑性があるかは、言わずもがなであろう。

 今後も、藤原氏や矢野氏のように造反して、創価学会の真実を明かす公明党議員が出て
くるかはわからない。願わくは勇気と良識に目覚める人士が、現在の公明党にもいてほし
いものである。

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2017年6月9日金曜日

大阪事件

 昭和31年(1956年)の参議院選挙で、創価学会から6人が立候補し、うち3名が当選した。
創価学会が国政選挙に候補を立てたのは、この時が初めてだった。

 この時、大阪府選挙区から立候補した白木義一郎氏(『人間革命』では「春木征一郎」)
の選挙参謀を務めたのは池田大作であった。この選挙では、創価学会員の中から多数の選
挙違反者が出た。当時についての記述を以下に引用する。


>  ここで「参議院議員当選」という三つの「金星」のうちの一つを池田が手にしたこ
> とで、次期会長へ向けた足場を固めることになるのだが、このときやった戸別訪問の
> すさまじさは学会内部では語り草になっている。
>  「〝折伏〟ということで、信者獲得と合わせて池田はローラー作戦をかけたんだが、
> 運動員が有権者の自宅に乗り込んでいって、まくし立てるということをやった。だが、
> こういう派手な活躍があって実際に会員数はものすごい勢いで増えていった。大阪で
> の地盤を切り開いたのは池田だ」(元側近)
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』)


 この選挙については、『人間革命』では第十巻において言及されており、学会員の中か
ら選挙違反での逮捕者が多数出たことについて、率直に認めている。

 一方で、池田(作中では「山本伸一」)が「法律に違反するような行動は、けっしてあ
ってはなりません」と誡めたにも関わらず、「当局の創価学会に対する無知と、会員の法
律知識の欠如による無知とが輪をかけて一つになり、重なる無知が非常識な事件の続発を
もたらした」としている。

 『人間革命』には、選挙違反を引き起こしたのは、あくまでも法律に疎い一部の学会員
であり、幹部からの指示はなかったと述べられているのだが、実際には布教活動に偽装し
た戸別訪問を組織的に行っていたのである。

 その翌年、昭和32年(1957年)同じ大阪府選挙区で、参議院補欠選挙が実施された。こ
の選挙でも創価学会は、候補者を擁立した。結果は落選だったが、今回も戸別訪問および
買収の容疑で多数の学会員が逮捕された。

 それだけでなく、選挙後、選挙違反を指示した容疑で、当時理事長だった小泉隆と渉外
部長だった池田大作も逮捕起訴された。これが「大阪事件」である。

 この事件の端緒は、タバコの箱に現金を入れて職業安定所などでばら撒くという、悪質
な買収行為が発覚したことだった。この現金ばら撒きについては、池田の指示はなかった
という説と、逆に指示があったという説、両方がある。

 戸別訪問については池田の指示によるものと疑われ、池田自身、拘留中に全面自供し、
調書にサインしていた。

 池田大作が黙秘を通さず全面自供したことについて、『人間革命』第十一巻には、検事
から「君が容疑を認めなければ、戸田会長を逮捕する」と脅され、「身に覚えのないこと
であっても、罪を一身に被るべき」と考えてのことだったとされている。
 しかし、元公明党都議の藤原行正氏は、別の見解を述べている。


>  学会絡みの事件で真相を明かせば、逆に会長に責任が及ぶ。これはわかりきったこ
> とである。それを承知で大阪事件での池田はペラペラ全面自供した。刑事が怖くてた
> まらず、早く勘弁してもらいたい。池田の頭にはその一念しかなかったのだろう。し
> かも大阪事件の場合、池田自身が大阪でしでかした選挙違反行為だった。常識的に考
> えて、東京にいた戸田先生とは無関係だった。池田は戸田先生の名前を語ることで追
> 及をかわしたわけである。
>  このウソがバレるのを恐れて、池田は学会内部でいろいろ手を打った。最初は弁解
> がましく「戸田先生へ責任が及ばないため」といっていたのが、戸田会長が亡くなり、
> 自分の代になると「私は戸田先生の身代わりで罪を被った」と脚色した。そのウソを
> 何年もかけてそれこそ百遍以上繰り返したため、それが「真実」で通るようになった。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)

 
 どちらを真実と思うかは立場によって違うであろうが、この逮捕拘留が池田大作に権力
への恐怖を植え付けたことは事実であろう。

 その後の池田が、国会への証人喚問を免れるために、公明党の政治力を浪費してきたの
は、権力を持つ者に屈服し、全面自供するまでに追い詰められたことがトラウマになって
いるからではないか。また、「総体革命」と称する浸透工作を、警察・検察に対して進め
る大きな動機にもなっていると思われる。

 大阪事件の裁判では、昭和33年(1958年)に小泉隆が無罪となり、昭和37年(1962年)
には池田大作にも無罪判決が出た。池田が無罪になったのは、検察の調書が裁判長から却
下され、戸別訪問の指示があったと立証できなかったからである。

 『人間革命』十一巻には、この無罪判決について、「遠く、険しい道のりであった。し
かし、学会の正義は、伸一の無実は、ここに証明され、欺瞞の策謀に真実が打ち勝ったの
だ」と述べられ、池田大作は無実であったにもかかわらず、権力によって罪を着せられた
かのように描いている。

 だが、この点についても、当時を知る元学会幹部は、異なる意見を述べている。
 元公明党都議・龍年光氏の著書から、当該部分を引用する。


>  原島宏治氏が心配していた大阪事件の裁判は、判決を言い渡す前に、田中裁判長が
> 弁護団を呼んで一枚の紙を渡した。
>  その紙は、「拘置所の中で、検事が三人がかりで、池田に手錠をかけたまま、夜十
> 一時まで、食事も与えず調べた事、従って検事調書はすべて却下する」とあった。田
> 中裁判長が一人で拘置所に赴き職権で調査し、検事の行き過ぎを発見したお陰である。
> 後でわかったことだが、この事件の前年、昭和三十一年の参議院選挙で池田は大阪地
> 方区で白木義一郎を当選させた。そのやり方があまりにもヒドいので、大阪地検は激
> 怒していたという。その翌年、無責任にも池田は、またまた無差別戸別訪問の指令を
> 出していた。この事実を知った弁護団は全員、池田の有罪を確信していた。
 (中略)
>  田中裁判長が渡した一枚の紙は、当時の弁護団の一人であった松井弁護士(故・北
> 条浩会長と海軍兵学校の同期生)が持っていたので、私がコピーして故・北條浩会長
> に渡し、『人間革命』に大阪事件の裁判を書くときにはきちんとこの事実を載せろと
> 言ったのであるが、この事実をひた隠しにして、あたかも池田の無実の罪が晴れたか
> のように書いてある。これは大ウソである。
 (龍年光氏著『池田大作・創価学会の脱税を糾弾する』より引用)

 ※ 原島宏治氏は創価学会理事として、池田大作が第三代会長に就任できるよう尽力し
  た。後に公明党初代委員長に就任するも急死。造反した原島嵩氏の実父。


 刑事訴訟法 第319条は「強制、拷問又は脅迫による自白、不当に長く抑留又は拘禁され
た後の自白その他任意にされたものでない疑のある自白は、これを証拠とすることができ
ない」と規定している。池田大作は、この規定に救われたのである。

 また当時、創価学会理事(小岩支部長兼任)だった石田次男氏も、著書『内外一致の妙
法 この在るべからざるもの』で、検察への裏工作があったことを暴露している。

>  だが、正義のはずの法廷闘争から約二十人の有罪者が出たことは、ちっとも正義な
> どではなかったことを物語る。池田氏は自分の連帯の罪をこれら各個人の単発罪であ
> るかのように、偽証で形を整えて、無罪判決を貰っただけだ。
>  この事件で『戸田先生を引っ張る』と言った地検が戸田先生を引っ張らなかったの
> は何故か? 少く共、事情聴取位は有っても不思議は無さそうだが、それも無かった
> のは、決して池田が言うように「自分(池田)が泥を被った』からではない。このこ
> とは今明らかにして置く必要が在る。戸田先生に迄地検の手が伸びなかったのは、事
> 件を担当した清原次席検事(地検ナンバー2)が断念したからに過ぎない。昔のこと
> で、もう迷惑が及ぶことも無いであろうから真相を此処に明らかにして置く。
>  敗戦の昭和二十年夏、清原氏は満州(今の中国東北部)に居て、真正面からソ連軍
> に追い回された。文字通り命からがら逃げ回った。その時、椎名晴雄――今は故人―
> ─という人に命を助けられた。清原氏は椎名氏を〈生涯の命の恩人〉として重く買っ
> た。二人共何とか帰国丈は果し、それぞれの道を歩み、昭和三十二年当時、清原氏は
> 大阪で検事を務め、電源開発社員である椎名氏――第四代小岩支部長――は東京で学
> 会の小岩支部幹事をしていた。この時の小岩支部長は石田であった。
>  椎名氏は大阪事件の時、清原氏との関係を戸田先生に話し、清原氏へ〈石田紹介状〉
> という名目の親書を認め、石田がそれを持参して(十三日頃)地検へ清原氏を訪問し
> た。
> 『清原氏に弁護士を紹介して下さるよう申し人れよ』と戸田先生に言われた通り、こ
> のことだけ三十分位粘って言い張った。この日から二日後、まず田代富士男(後の砂
> 利船汚職参議院議員)氏が釈放され、次いで池田氏も拘置所から出て来た。
>  有体に言えば、清原氏は椎名氏の親書――内容は違法な懇願である――に依って、
> 満州での命の恩に報いたのである。大阪事件の搜査段階が、急にバタバタと締めくく
> られたのはこのせいであつた。戸田先生に地検の手が伸びなかつたのもこの為であっ
> た。清原検事が一切合財目を瞑って幕を引いてくれたからであった。従って、断じて、
> 池田氏が一切合財を被ったからではない。池田氏は、当時、誰からもこの事情が漏れ
> る気遣いが無いことを良いことに、萬事、自分の功績にして、学会員を総騙しにした
> 丈だ。
 (原島嵩著『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』より孫引き)


 検察への裏工作が功を奏し、捜査が中途半端になったことと、担当検事の前のめりな取
り調べが裏目に出たこととにより、池田大作は無罪になったが、戸別訪問の実動部隊を務
めた学会員20名は罰金刑となり、うち17名は公民権停止も科されたという(溝口敦著『池
田大作「権力者」の構造』による)。

 大阪事件について『人間革命』は、「この選挙で、買収と戸別訪問が行われたことは、
残念ながら明らかな事実である」と記述するなど、日蓮正宗に対する謀略や戸田城聖のビ
ジネスについての記述などと較べると欺瞞は少ない。これは、検察を刺激することを避け
るための配慮であろう。

 だがそれでも、池田大作を美化するために、大きく事実をゆがめていることは否定でき
ない。選挙違反で逮捕されたことを、あたかも法難であるかのごとく描く姿勢は、無反省
そのものである。

 創価学会は、その後も替え玉投票事件や投票所襲撃事件を引き起こすなど、悪質な選挙
違反を重ねてきた。その際にも裏工作によって、事を収めてきたと言われる。

 創価学会では、その地域組織を選挙の区割りに合致するように編成していることに典型
的に見られるように、選挙と信仰とを一体化させている。これは戸田城聖の〝選挙は信心
を引き締めるのに使える〟という発案を、池田大作が引き継ぎ、洗練させてきたものであ
る。

 学会員による戸別訪問等の選挙違反の背景には、信仰は法律に優先するという創価学会
の教義があるのではないかと疑われる。

 学会員が公明党候補を応援する理由も、大抵の場合、政策や人柄ではなく、「功徳にな
るから」である。

 現世利益を求める呪術的なご利益信仰と、選挙での投票を一体化させる創価学会のF取
りが、民主主義への愚弄でなくて何であろうか。

 投票は、有権者が自らの政治的意思を政治に反映させることができる、貴重な機会であ
る。学会員のF取りに協力することは、それを放棄することに等しい。

 有権者のうちの一部に過ぎない創価学会が、キャスティングボートを握ることで、その
意見が過剰に代表されている現状は、決して好ましい状態ではない。

 まして創価学会は、組織的に人権蹂躙を行う悪質なカルトである。そのカルトに政治を
ほしいままにさせるべきではない。これは政治的な左右以前の良識の問題である。

 政治の質は、有権者により大きく左右される。ふだん政治について考えない方も、せめ
て選挙の時だけは、投票率がいくらか上がるだけでカルトの票読みを狂わせ、その悪しき
影響力を削ぐことができることを思い起こしていただきたい。

2017年6月7日水曜日

『人間革命』の執筆体制と長期休載

 『人間革命』は、「聖教新聞」に連載されていたが、たびたび休載していた。中でも最
も長期の休載は、第十一巻分の連載を中断した時である。

 『人間革命』第十一巻は昭和55年(1980年)8月10日から連載開始されたが、同年11月
20日の掲載を最後に休載し、再開されたのは10年半後の平成3年(1991年)5月3日だった。
 長期休載の理由について、同書の「あとがき」には、以下のように記されている。


>  長い道程であった。十年一昔というが、昭和五十五年八月に、第十一巻の連載を開
> 始してから、出版にいたるまでに、実に十一年余を費やしてしまった。その間、諸般
> の事情から、「転機」「波瀾」「夕張」の三章を終えたあとは、十年半にわたる長期
> 休載を余儀なくされた。連載を楽しみにしてくださっていた読者の皆さまに、まず、
> 心よりお詫び申し上げたい。
>  私にとって、この十一年間は、まさに激動の歳月であった。学会へのさまざまな策
> 謀がめぐらされ、真実を証明するために、法廷にも立った。また、ある時は病魔に襲
> われ、病床に伏しもした。しかし、新しき希望の世紀を開くために、世界広宣流布の
> 旅路を広げ、世界の各界の有識者との対話も重ねてきた。
>  そのなかで、寸暇を惜しんで、言葉を紡ぎ出す念いで書きつづった本書の完成だけ
> に、私にとっても喜ばしい限りである。


 この文章を書いたのは、『人間革命』の表向きの著者・池田大作ということになってい
るが、極めて欺瞞的な文章であると言わざるを得ない。

 「私にとって、この十一年間は、まさに激動の歳月であった」とし、法廷での証言など
を挙げているが、日蓮正宗との間の抗争により、会長を辞任せざるを得なかったことや、
第十一巻が刊行された平成4年(1992年)の前年には、破門までされたことについては、
まったく言及されていない。

 不都合なことは、たとえそれが周知の事実であっても、なかったことにするというのが、
創価学会および池田大作のやり方なのである。

 『人間革命』の本当の著者は、創価学会の外郭会社・東西哲学書院の社長だった篠原善
太郎氏である。

 創価学会には〝特別書籍〟という部署があり、池田大作名義の著作の大部分は、そこに
所属するゴーストライターによって書かれていた。かつては、表向きは教学部長だった原
島嵩氏が、特別書籍のキャップを務めていた。

 池田大作は、その特別書籍に所属する原島氏らに対しても、『人間革命』だけは自分で
書いているように見せかけようと、さまざまな小細工を弄していた。

 池田が口述したものを、妻のかねが筆記しているのだと言って、『人間革命』の原稿を
録音したテープを聞かされたこともあったと、原島氏は述べている。
 だが原島氏は、『人間革命』は実際には篠原氏が書いたものだと知っていた。


>  私たちは、当時、すでに『人間革命』は、篠原善太郎が書いていたことを知ってい
> ました。それをいかにも池田が書いたように演出し、篠原の書いたものを池田が自筆
> で書き直し、その原稿やコピーを「生涯の記念」にと言って、いろいろな人に分け与
> えたりしていました。池田の字で書かれていないものは「口述筆記だ」と言い訳をし
> ていますが、私たちには口述をしているところに絶対に立ち会わせないのです。第一
> 庶務の女性や池田夫人などの人達が立ち会っています。後に、篠原善太郎が、私にこ
> っそりと「人間革命は、実は九九%、私の書いたものを池田夫人が写しているんです
> よ」と教えてくれたこともあります。池田は、私たちが、篠原が代作していることを
> 知らないと思っていたのです。
 (原島嵩著『池田大作・創価学会の真実』より引用)


 『人間革命』第十一巻のあとがきには「真実を証明するために、法廷にも立った」とあ
るが、この法廷とは「月刊ペン」事件および山崎正友氏による創価学会への恐喝事件のこ
とである。

 造反した原島嵩氏が「月刊ペン」事件の裁判で証人として出廷し、『人間革命』は篠原
善太郎氏が執筆したものであると証言しているにも関わらず、ぬけぬけとこのようなこと
を書く厚顔無恥には呆れるほかない。

 『人間革命』の執筆には、現創価学会会長の原田稔氏も、聖教新聞の記者として関与し
ていた。執筆体制についての記述を以下に引用する。


>  篠原は『人間革命』を書いたことで本部・聖教新聞社内で特別待遇を受けるに至っ
> た。伊東に別荘をもっているのも、学会幹部の中で篠原一人だけ。篠原が書く『人間
> 革命』の原稿を聖教の記者が少しでも手直ししようものなら、怒鳴りこんでそれを元
> 通りに訂正させた。『人間革命』の担当記者だった原田稔や松本和夫らは、自ら取材
> したというよりも、篠原の手伝いをしたといった方が正確だ。篠原には本部の三階に
> あった黎明図書館の脇に書斎が与えられ、そこでいつも原稿を書いていた。
> 「山崎正友裁判」の時、裁判官から「『人間革命』はあなたが書いたのですか」と尋
> ねられ、池田がいみじくも「私の直筆です」と答えた話は有名。「私が書いた」とい
> わなかったところがミソである。
 (内藤国夫著『創価学会・公明党スキャンダル・ウォッチング』より引用)


 聖教新聞での『人間革命』の休載は何度もあったが、第十一巻連載中の十年以上もの長
期休載はやはり異例である。その本当の理由は、実際に執筆していたわけではない池田大
作が「世界広宣流布の旅路を広げ」たために、忙しかったからなどではないだろう。

 その理由の一つとして、第十一巻の内容に、池田大作が選挙違反容疑で逮捕された「大
阪事件」が含まれており、不用意な記述は検察を刺激する恐れがあったために慎重な対応
をとったのではないかと言われているが、定かではない。

 別の証言として、篠原氏が池田大作と仲違いをしたというものもある。永島雪夫著『創
価学会池田王国の崩壊』に、現職の副会長とされる人物の証言が掲載されているので引用
する。


>  ところが、彼(注:篠原善太郎氏氏)が奥さんを亡くしてね、元々体の弱かった人
> だから(肺を患っていた)、青山の鍼灸員に通った。そこの女医さんと再婚すること
> になった時に、池田名誉会長は猛反対したわけです。
>  これが池田名誉会長と対立するきっかけになり「もうオレは書かない」と言って、
> 『人間革命』の執筆を断ってしまったというのです。
>  だからですよ、『人間革命』が一時中断されたのは。その理由はそういうことでし
> た。
>  その時、池田名誉会長は皆の前でこう釈明してました。
> 「最近は海外布教に忙しくて、人間革命を書いている時間がない。暫く休ませていた
> だく」なんてね。中断したまま、篠原氏は死んだんですね。それまで、彼は箱根研修
> 所にある池田名誉会長専用宅の別棟の個室で書いていたというんですが、死んだあと
> に、必ずどこかに原稿があるに違いないと言って皆で探しまわった。これは多分、金
> 庫だろう、ということになった。ところが金庫の鍵は本人がどこかへ捨ててしまって
> いたんですね。それで壊して開けたんです。そうしたら、中に原稿があったという話
> です。
>  池田名誉会長は意気揚々として皆の前でこう言うわけです。
> 「また人間革命の執筆を始めます」
>  胸を張ってね。


 篠原氏が死去したのは平成3年(1991年)なので、この証言は連載再開の時期とは整合
している。

 『人間革命』の連載は、平成5年(1993年)2月11日に第十二巻分が完結するまで続いた
(第十二巻単行本は同年4月2日付で刊行されている)。

 篠原氏が死去前に、完結までの全原稿を執筆していたかまでは不明だが、もし仮にそう
だったとしても、『人間革命』第十二巻には、日蓮正宗からの破門(平成3年〔1991年〕)
や、藤原行正氏・龍年光氏といった大物幹部の造反を受けた記述があるので、松本和夫氏
や原田現会長らが、池田大作の指示のもと大幅に手を加えたはずである。

 なお『新・人間革命』は、松本和夫氏が執筆しているという(山崎正友氏・古谷博氏に
よる)。

 これだけの証言があるにもかかわらず、ほとんどの創価学会員は、『人間革命』は〝末
法の御本仏である池田先生が執筆された「現代の御書」〟だと信じ、批判的な情報はすべ
てウソだと思い込んでいる。それだけはでなく、『人間革命』が内包する矛盾については、
思考停止に陥ってもいる。

 これまで述べてきたように、『人間革命』の内容は矛盾と欺瞞に満ちており、まともな
知性をもつ者が読めば、こんな本を聖典扱いしている宗教は頭がおかしいカルトだと、す
ぐにわかる。

 学会員は折伏の際に『人間革命』を読むように薦めたり、場合によっては『人間革命』
の一部の巻を手渡してくることもあるが、ハッキリ言って普通の人にとっては、読む価値
はない本である。

 ただ、創価学会の欺瞞を暴くための資料としては役立つ点もあるので、当ブログをご覧
の学会員がいらっしゃるのであれば、そのような視点で再読されてはいかがであろうか。
 カルトの洗脳を解き、よりよい人生に向けて歩き出す第一歩となるかもしれない。

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2017年6月5日月曜日

「日蓮」を名乗る前の日蓮

 日蓮は、建長5年(1253年)4月28日、故郷の清澄寺で立宗を宣言し、それを機に名を
改め、「日蓮」の名を用いるようになった。

 その前には、出家する際に付けられた「是しょう房蓮長」を名乗っていた。「しょう」
と平仮名で書いたのは、この部分については音のみ伝わっており、漢字でどう書くか、長
らく不明だったからである(「是生房」または「是性房」ではないかと考えられていた)。

 昭和10年(1935年)4月14日、当時は神奈川県立図書館となっていた金沢文庫に、調査
研究のために訪れていた立正大学日蓮宗史料編纂会の高瀬乙吉氏により、未発見の日蓮遺
文ではないかと思われる古文書が見出された。この古文書は、後日の鑑定により間違いな
く日蓮遺文だと確認された。

 ※ 金沢文庫は、金沢流北条氏によって開設された私設図書館である。北条氏滅亡後は
  その菩提寺である真言律宗別格本山称名寺により、長らく管理されていた。鎌倉期の
  貴重な古文書が数多く残されていることで知られる。

 この遺文は、『授決円多羅義集唐決』という仏教書を書写したもので、その奥書に清澄
寺での修業時代の日蓮によるものと、記されていたのである。
 以下に『昭和定本日蓮聖人遺文』第四巻から、当該の奥書を引用する。


> 一 授決円多羅義集唐決上奥書

>  嘉禎四年大歳戊戌十一月十四日
>  阿房國東北御庄清澄山 道善房
>  東面執筆是聖房 生年十七歳
>         後見人々是無非謗


 「東面執筆是聖房 生年十七歳」とある。この発見により、日蓮は、そう名乗る前「是
聖房」であったことが判明したのである。


 話は飛ぶが、『人間革命』第六巻には、日蓮が立教開宗するまでの略伝が記されている。
そこには以下のような記述がある。


>  鎌倉に大雨が降り、大洪水のあった年――嘉禎三年(一二三七年)十月八日、十六
> 歳の薬王麿は、師の道善房により、剃髪の儀式をすますと、名を是生房蓮長と改め、
> 独り立ちの僧侶として清澄山を去り、勉学の旅に出た。


 『人間革命』には「是聖房」ではなく、「是生房」と記されている。『人間革命』第六
巻は、昭和46年(1971年)に刊行されているのも関わらず、昭和10年の発見が反映されて
いないのだ。

 その理由は、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』にある。この学会版御書には、日蓮正
宗の相伝書である『産湯相承事』が収録されている。以下にその一部を引用する。


>  御名乗りの事、始めは是生、実名は蓮長と申し奉る。後に日蓮と名乗り有りし御事
> は、悲母梅菊女は平の畠山殿の一類にて御坐すと云云。
 (中略)
>  日蓮の日は則ち日の神、昼なり。蓮は即ち月の神、夜なり。月は水を縁とす、蓮は
> 水より生ずる故なり。又是生とは日の下の人を生むと書きたり。日蓮天上天下一切衆
> 生の主君なり、父母なり、師匠なり。


 この文書は、日蓮の説法を大石寺開山である日興が記したものということになっている。
 しかし、日興直筆の古文書が現存しているわけではない。そして何より、日蓮が「是生」
と名乗っていたなどと書いてある。「是聖房」であった日蓮が、そのようなことを語るわ
けがないのであり、偽書であることは明白である。

 『人間革命』において、史料研究により明らかになった史実を無視して、日蓮が「是生
房」を名乗っていたと書かれているのは、創価学会版『日蓮大聖人御書全集』が、真蹟が
現存する遺文も偽書もクソミソに寄せ集めた、問題の多いシロモノであることを隠蔽する
ためだったのである。

 先に『昭和定本日蓮聖人遺文』から引用したが、この遺文集は、身延山日蓮宗が開宗七
百年の記念事業として、編纂したものである(学会版御書の編者である堀日亨氏も協力し
ている)。

 『人間革命』第五巻には、学会版御書の刊行時の模様が記されており、校正作業が終了
した際、戸田城聖が「聞くところによると、身延の方は、二、三冊に分割して出すとのこ
とで、しかも未だできていない。完全にわれわれの勝利です」と述べたと書かれている。

 だが、宗祖日蓮の名前も間違えるような様で、本当に「勝った」などと言えるのだろう
か(売上では勝ったと言えるかもしれないが……)。

 また、創価学会は「御書根本」「日蓮大聖人直結」などというが、そのような主張をす
る資格があるのだろうか。

 『人間革命』のいい加減な記述は、「是生房」に限るものではないが、この件は、創価
学会がいかに誠実さを欠いた宗教であるかを、証明するものといえよう。



補足1 『授決円多羅義集唐決』について

 『授決円多羅義集唐決』は第五代天台座主・円珍が著したものと仮託されているが、実
際には平安末期に別の人物が著したものだという。
 なお、金沢文庫所蔵の日蓮による写本は、現在では国法に指定されている。


補足2 『産湯相承事』について

 引用中に「日蓮天上天下一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり」とあるが、日蓮の
真蹟遺文には「主・師・親」の三徳を備えていることが、「本仏」の特性と述べられてお
り、『産湯相承事』は日蓮本仏論の根拠にもなっている(日蓮真蹟中で「本仏」とされて
いるのは、あくまでも釈尊である)。

 真蹟遺文の中に、日蓮が明確に「本仏」を自称しているものはなく、日蓮本仏論は『産
湯相承事』をはじめとする偽書にしか根拠がない教義である。

2017年6月3日土曜日

創価学会常住の本尊について

 創価学会が急速に勢力を伸ばした昭和20年代の大部分の期間において、大石寺法主とし
て日蓮正宗を率いていたのは第64世水谷日昇氏であった。

 水谷氏が法主であった期間には、創価学会が独自に宗教法人となることを認めるか否か
や、創価学会に批判的な僧侶と学会員との確執、狸祭り事件など、日蓮正宗と創価学会と
の間にはさまざまな問題が起こった。

 そして、大石寺法主であった水谷氏は、否応なく創価学会との問題に直面しなければな
らなかった。日蓮正宗にとって創価学会は、新しい信者を増やし、多額の寄進をしてくれ
る頼もしい存在であると同時に、乱暴者が多いトラブルメーカーでもあり、その舵取りに
は苦労が多かったことと思われる。

 これまで述べてきたように、創価学会は日蓮正宗に経済的利益をもたらしながらも、僧
侶が思い通りにならなければ暴力で威圧するといった、アメとムチ的な対応を取っていた。

 それに対して日蓮正宗側が、創価学会を懐柔する手段は、本尊の下賜であった。
 日蓮正宗の教義では、大石寺の大御本尊およびそれを法主が書写した複製のみに、人々
を救済する力があることになっている。

 法主が書写した本尊を印刷したものを御形木本尊といい、直筆のものやそれを木彫した
ものを常住本尊という。信者になれば御形木本尊はもらえるのだが、常住本尊は一般的に
は寺院に安置される。

 創価学会は、古くからの日蓮正宗信者から見れば新参者だったが、戸田城聖は、第二代
会長に就任して間もなくの昭和26年(1951年)5月12日付で、水谷氏にあてて「学会常住
の御本尊」の下賜を願い出ている。

 学会本部に寺院にあるような常住本尊を安置することで法主の権威を借り、創価学会を
胡乱な目で見ていた僧侶や古くからの檀信徒に、学会を認めさせようとしたのであろう。

 また、会長就任を機に立派な本尊を本部に安置することで、会員に対して「今までとは
違う」という意識を持たせ、大々的に折伏を進める上で発破をかける意味合いもあったと
考えられる。

 ジャーナリスト・溝口敦氏は『池田大作「権力者」の構造』で、「宗教法人法の宗教団
体の定義に、『礼拝の施設を備える』という一句があり、それを字義通りに受けたうえで
の、日蓮正宗から独立した宗教法人設立に向けての用意周到な布石をも兼ねていた」と指
摘している。

 常住本尊を本部に置くことは、いろいろな意味でメリットがあったのである。
 だからであろうか。創価学会の常住本尊を書写した水谷日昇氏について、『人間革命』
では歯の浮くような持ち上げ方をしている。水谷氏の法主就任を描いた場面を『人間革命』
第二巻から引用する。


>  創価学会の戦後第一回総会が開かれた十一月十七日の二日まえ、総本山大石寺では、
> 突如、六十三世嗣法、秋山日満猊下が、御退位の旨を仰せになった。
>  猊下は、昭和二十年十月二十八日就任いらい満一年を過ごされた。しかし、春いら
> いの病気も癒えず、御一身の都合から、十一月十四日、宗内の臨時参議会を招集され
> たのである。
>  翌十五日、御諮問の結果、正式に御退位を決定し、即日、水谷日昇尊能師が学頭に
> 補任せられ、次の六十四世御法主上人猊下としての御登座が決定をみたのである。
 (中略)
>  水谷日昇猊下の御登座は、戦後の宗門史にとって、重大な一大転機となった。この
> 時、猊下は六十八歳である。その端麗な容貌と、清楚闊達なお姿は、新生日本の象徴
> ともいえた。
>  昭和三十一年三月、御引退になるまでの十年間、日蓮正宗の管長としての御事蹟は、
> まことにお名前のように、旭日の昇るが如き勢いであった。創価学会の発展と相俟っ
> て、宗門の興隆はめざましく、七百年来かつて見たことのない、種々の偉業が成しと
> げられた。


 当時の日蓮正宗は、創価学会員を含めても数万人程度の檀信徒しかいない、日蓮系の弱
小宗派に過ぎない。その管長を「新生日本の象徴」と言うのは大げさ過ぎであろう。
 第十巻には、水谷氏の退座について記されてる。


>  一月十八日、総本山大石寺では、水谷日昇上人猊下が重役会議を招集していた。席
> 上、猊下は諸般の事業の完成、奉安殿落成を機として、この際、老齢のゆえに辞意を
> 表明なされた。
(中略)
>  一宗を率いる猊下の御苦心といい御努力といい、歴代猊下のなかでもっとも苦しま
> れた猊下であったにちがいない。
(中略)
>  御勇退発表のこの際、戸田は「いかなる時代いかなる御方が御法主になられようと
> も、学会の総本山に対する忠誠はいささかも変わりのない」旨の声明書を発表した。


 『人間革命』には、水谷氏の法主退任は老齢のためと記されているが、実はこの時も、
若き日の池田大作の暗躍があったのだという。


>  三十一年三月、大石寺では水谷日昇が退座し、堀米日淳が第六十五世法主になった。
> 水谷日昇は池田の義父・白木薫治が大石寺大奥(大坊。法主が住み、宗務をとる)に
> 勤めさせた女性と情を通じ、子までもうけたという。当時、水谷は夫人を亡くし、高
> 齢ではあったものの「ネコにカツブシ」の状態だったと事情を知る元僧侶は語ってい
> る。このことを柏原ヤスが池田に知らせ、池田は「狸祭り事件」で、謝罪文提出、大
> 講頭罷免、登山停止の罰を戸田に課した水谷日昇に報復するため、この醜聞をもとに
> 日昇に退座を迫ったとされる。
>  日昇は引退後、生まれた子を正式に認知したというが、創価学会による宗門支配の
> 試みには、早くから謀略の臭いが漂う手法がとられていたことを知るのである。
 (溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)


 『人間革命』を実際に執筆したのは篠原善太郎氏であるが、池田大作とも綿密に打ち合
わせの上、池田が決裁して『聖教新聞』に掲載されていた。

 「歴代猊下のなかでもっとも苦しまれた猊下であったにちがいない」と書かせた張本人
である池田大作が、水谷氏を苦しめていたのである(この件については、水谷氏の自業自
得の面もあるが)。


 現在、創価学会の総本部は、平成25年(2013年)完成した「広宣流布大誓堂」に置かれ
ている。

 そしてそこには、清楚端麗な狒々じじいこと水谷日昇氏が書写し、さらにそれを池田大
作の指示で、木板に模刻した本尊が安置されている。
 創価学会の中心となる礼拝所には、まことにふさわしい本尊といえよう。

 上述したように日蓮正宗の教義では、本尊の複製は大石寺法主のみができることになっ
ている。池田大作が勝手に本尊模刻をしたことは、日蓮正宗から問題視された。

 それだけにとどまらず、この問題が明るみに出た際には、学会員の中には創価学会をや
め、日蓮正宗の直属の信者となる者が相次いだという。

 池田大作は、『聖教新聞』のカメラマンに本尊の写真を撮らせて、それをもとに業者に
彫らせ、さらに昭和50年元旦には、自ら入仏式まで行ったという(原島嵩著『絶望の淵よ
り甦る』による)。

 池田の指示で勝手に複製した本尊は、日蓮正宗に没収されたそうだが、本部の本尊だけ
は、水谷氏が書写した紙の本尊は傷みが激しいからということで、当時の法主・細井日達
氏から特別に許され、細井氏が昭和52年(1977年)11月に入仏開眼を行った。
 このいわくつきの本尊が、現在も「創価学会常住の本尊」となっているのである。

 信教は自由であり、何を拝もうが当人の勝手ではあるが、創価学会の場合、「唯一の正
しい宗教」を自称しているくせに、信仰の対象がいい加減すぎると思う。

 一昨々年の教義改正で、創価学会は「会則の教義条項にいう『御本尊』とは創価学会が
受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対
象にはいたしません」(『聖教新聞』平成26年〔2014年〕11月8日)と宣言した。

 ※ 「弘安二年の御本尊」とは大石寺の大御本尊のことである。

 破門されるまでは「幸福製造機」だと言って崇め奉っていた、大石寺の大御本尊を、現
在では「大謗法の地にあるから受持の対象としない」といいながら、その複製を「創価学
会が受持の対象として認定した御本尊」として拝むというのは、理解し難い教義である。

 大石寺の大御本尊は、「御本仏」である日蓮が末法に生きる一切衆生を救済するために
作った「出世の本懐」という触れ込みだが、そもそも日蓮は自分のことを「御本仏」など
と不遜なことは言っていないし、特別な本尊をこしらえたと書いてある日蓮遺文など存在
しないし、大御本尊とやらもどう考えても贋作だし、大石寺法主だけが日蓮の正統な後継
者として、本尊の複製ができるという日蓮正宗の教義も、本当は誰が書いたかも定かでは
ない偽書にもとづくもので、日蓮が唱えたものではない。

 日蓮正宗の教義がインチキだとわかったから、そこから「魂の独立」を図ったのだと創
価学会が主張するのならば、その意気やよしと言いたいところだが、その前に学会員の皆
さんには、やるべきことがあるのではないか。

 日蓮正宗創価学会だけが正しい宗教で、それ以外の宗教だと不幸になると主張し、強引
な折伏で社会に迷惑をかけてきたことについて、まず総括し反省すべきだろう。

 それなのに、創価学会は破門されて、教義の支離滅裂さにさらに拍車がかかったにもか
かわらず、相変わらず「唯一の正しい宗教」とぬかして、強引な折伏や非学会員への嫌が
らせなどで、世間に迷惑をかけ続けている。

 外部の私から言わせてもらえば、エロじじいの水谷日昇氏が書写し、それを超絶エロじ
じいの池田大作が模刻させた本尊になど、まったく有難みはないし、そんなものを広宣流
布大誓堂とやらに安置して拝んでいる創価学会は、ただのインチキ宗教であり、学会員は
頭がおかしいカルト信者でしかない。

 言葉が過ぎると思われた方には、本来、私は争いを好まず、信教の自由を重んじる人間
であり、学会員から不快な目に遭わされたりしなければ、上記のようなことは書かないし、
このようなブログを立ち上げることもなかったと申し上げたい。



補足 常住本尊について

 日蓮正宗では、常住本尊は一般的には寺院に安置されるものだが、特に信心深いものが
申請した際には、一般信徒でも常住本尊が特別に与えられることもあり、一種のステータ
スになっていた。

 また、戸田城聖が「常住本尊の方が功徳がある」と言っていたので、多くの学会員が、
〝信心深いよき信者〟と認められることで、常住本尊をいただきたいと願ったのである。

 学会員で常住本尊がもらえるのは、原則として信者歴が長い幹部に限られたが、池田大
作は、入信してから日が浅いお気に入りの若い女性のために、日蓮正宗に口利きして常住
本尊をもらえるよう計らい、古参の学会員から顰蹙をかったこともあるという。


蛇足 

 私は学会員から折伏を受けた際に、「是非『人間革命』を読んで欲しい。そうすれば創
価学会の素晴らしさがわかる」と言われたことがある。

 その時には読まなかったが、当ブログでネタにするために通読してみた。
 結果、『人間革命』は、創価学会がインチキ宗教であることを証明するための資料とし
て、非常に有用だとわかった。

 今回引用した20行あまりにも、本文では触れなかった突っ込みどころが二つある。
 まず、第二巻からの引用について、水谷日昇氏の前の法主が、病気のために法主を退任
せざるを得なかったとある。

 頻繁に大御本尊を拝んでいるはずの法主の病気が治らないのだから、大御本尊には病気
を治す力などないのではないか、とこれを読んだ学会員は思わなかったのだろうか。

 次に第十巻からの引用に、「いかなる時代いかなる御方が御法主になられようとも、学
会の総本山に対する忠誠はいささかも変わりのない」と、戸田城聖が声明したとあるが、
大石寺の先代法主である阿部日顕氏に対する誹謗中傷は、一体どういうことなのか。

 阿部日顕氏の法主就任の際に相承がなかったなどと、創価学会は主張しているが、大石
寺法主の血脈相承など最初から嘘八百であり、そのデタラメな宗教を強引なやり方で布教
してきた共犯者である創価学会が、何を今さらカマトトぶったことを言っているのだろう
としか、私には思えない。

 『人間革命』を読んで、創価学会に疑問を感じない人は、カルトの洗脳で頭がおかしく
なっているのだろう。そうでなければよほど頭が悪いのか、それとも両方かも知れない。