2019年12月29日日曜日

令和元年をふりかえって

 創価学会・公明党をめぐっては、今年一年の間にも様々な出来事があった。
 4月の統一地方選、7月の参議院選という大きな選挙もあり、多くの学会員がF取りに
励んだことだろう(獲得議席だけを見れば、公明党はおおむね健闘した)。

 9月には創価学会を破門した日蓮正宗の先代法主・阿部日顕氏が逝去した。
 11月には、原田会長の再任が決まった(下馬評では次期会長との噂もあった、谷川氏が
任命されることはなかった)。

 こうした出来事の中で、私が最も重要だと考えるのは、参議院選挙の比例区で公明党の
獲得票数が約654万票と、前回より100万以上も減少したことである。創価学会の組織力の
低下を、議論の余地なく示した結果である。

 この選挙にはもう一点、関心をひかれたことがある。それは選挙前の6月5日、公明党が
東京ドームで決起集会を開催し、昼夜2回で10万人を集めたことだ。

 「公明フォーラム」と称するこの集会は、ネット上では事前に何の情報もなかった。
 にもかかわらず、1日で10万人を集め、最寄り駅は大根混雑となり、事情を知らない多
くの利用客を困惑させたのである。

 そして、東京選挙区から立候補した公明党の山口代表は、前回よりも得票を増やして当
選した。

 この事実を見ると、創価学会は全体としては退潮傾向にあるものの、大都市部では依然
として侮れない組織力を保っていると言わざるを得ない。

 どう受け止めるかは人それぞれだろうが、私にとっては、創価学会の反社会性を訴え続
けることの意義を再確認させられた出来事だった(一個人の影響力など微々たるもの過ぎ
ないことは、百も承知しているが)。

 閑話休題。

 話は飛ぶが、当ブログの方針についても併せて述べさせていただく。
 このブログでは、『人間革命』などの創価学会による出版物や、創価学会ウォッチャー
と称される批判的なジャーナリストの書籍に依拠することが多い。

 それらの出版物の多くは20年以上も前に世に出たものであり、もっと新しい情報や、現
在の創価学会について取り上げるべきではないか、という方も少なくないかと思う。

 私もできることなら、そうしたいと思うのだが、それは困難だというのが正直なところ
である。

 私は過去に学会員であったことがないので、自分の経験を参照することができない。
 情報提供してくれる親しい学会員がいるわけでもない(まさか、過去に私を折伏しよう
とした学会員に「創価学会を批判するために必要なので、内情を教えてくれ」と頼むわけ
にもいかない)。

 もちろん、元学会員による批判ブログの中には、近年の創価学会の実情を物語る内容の
ものもあるが、人様のブログの引き写しばかりの記事を投稿するのは、流石に躊躇われる。

 ブログ以外にも、ネット上には興味深い情報もあるにはある。
 例えば、先日、5chの創価・公明板を閲覧していて、以下の書き込みを見つけた。


> 財務は強要「と感じる」のではなく、現場では完全に「強要している」のは、活動家
> 2世3世や元活動家なら知ってるはずだよ。

> 広布部員の申し込み書が提出されていなければ、昼夜問わず訪問攻撃、訪問者も一人
> が2人、3人と増え、来る人の役職が上がっていき、長時間一方的に説得、その場で書
> かせ、書くまで居座る。

> 申し込み書を出して振り込まないと、また訪問攻撃で、銀行まで同行される。
> 居留守なんてしようものなら、近所で待ち伏せされる。

> これは「強要」だよ。嫌ならしない選択肢はなく、この嫌がらせに屈して渋々財務が、
> ずいぶんたくさんいるよ。
 (5ch 創価・公明板「創価学会員の皆さん、今年の「財務」どうしますか?」)


 具体的な記述であり、それなりの信憑性があるように思える。
 近年は財務の総額もかつてよりは減っていると伝えられてはいるが、依然として強制を
伴う搾取的な実態が、創価学会にはあるのだと思いたくなる。

 だが、匿名掲示板の書き込みを、信用できる確たる証言というわけにはいかない。
 裏を取るべきだが、私は残念ながらジャーナリストとしての訓練を受けたことはない。

 私にできることは、図書館で文献をあさることくらいだ。
 なので、忸怩たる思いはあるが、これからも現在の創価学会がなかったことにしようと
している、後ろ暗い過去に光をあて続けたいと思う。


お知らせ

 本文でも書いた通り、当ブログでは今後も創価学会の過去を取り上げるつもりです。
 次々回からは、言論出版妨害事件について書く予定です。

 そして、その後は思うところがあり、しばらくブログを休もうと考えています。
 活動を止めるわけではなく、あり方を検討する必要があると考えたからです。

 悪しからず、ご了承ください。

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2019年12月22日日曜日

創価学会と軍国主義

 創価学会が急速に拡大できた理由の一つとして多くの論者が指摘していることに、第二
代会長・戸田城聖が軍隊式の組織運営を導入した点が挙げられる。

 入信してさほど日を経ずして聖教新聞の編集主幹に抜擢されるなど、戸田から何かと目
を掛けられてきた石田次男氏を押しのけて、池田大作が第三代会長に就任できたのも、池
田が「参謀室長」という役職についており、青年部を掌握していたことが大きかった。

 参謀室長に就任した際、池田は以下のように語っている。


>(前略)参謀室の任務はあくまでも広宣流布成就の青年部の立法機関であり、十五部隊
> は行政機関である、又参謀室は大本営であり、各部隊長は武将であり将軍である。新
> しき闘争は民衆を相手とするものであり、広宣流布遂行途上に起る大衆性の問題政治
> 経済等あらゆる一切の源泉の命令は参謀室より発せられる。

(『聖教新聞』昭和29年4月11日付)

 また、創価学会は昭和30年代まで、軍歌を学会歌として用いていた。昭和32年(1957年)、
10歳の時に母親と同時に入信した女性の証言を引く。


>  そのころ夜には座談会に一時間位歩いて会場に行き、ついたら寝て学会歌が始まる
> と起きるという子供時代でした。今では覚えている人も少ないですが、当時の学会歌
> は軍歌で、“貴様と俺とは同期の桜”で壮年部が扇子を振って指揮を執るものでした。
 (創価学会・公明党を糾すOB有志の会 編著『サヨナラ私の池田大作』)


 それだけでなく、創価学会が多数の青年部員を「部隊」と称する組織に編成し、大挙し
て大石寺に結集して閲兵式もどきの大集会を行ったりしたことから、当時のマスコミから
も「新手の右翼団体か?」と警戒された。

 『週刊読売』(昭和30年10月30日号)に掲載された「“軍旗”のある新興宗教」という特
集記事は、創価学会の強引な折伏の事例とともに、その組織が軍隊と酷似していることや、
「部隊旗」と称して軍旗に似た旗を用いていることなどを伝えている。

 創価学会のこうした体質については、前述のように多くの方が論じているが、それらの
中で私がもっとも的確だと感じたのは、哲学者・鶴見俊輔氏の以下の論考である。


>  敗戦によって日本の文化に欠落が生じた。軍隊がない。天皇が人間宣言を出したの
> で、戦前の現人神信仰を、もはや支えとすることができない。教育勅語がなくなって、
> それまでの倫理的背骨とされたものが失われた。子供のしつけをどうするか。親が年
> 老いてから子供をたよりにできるか。あふれるエネルギーを持つ少年少女を、どのよ
> うに調教できるか。金の価値がなくなったり、たのみにしていた会社がつぶれたり、
> そういう不安定な状況の中で、しかも、戦争中まで残っていた親類や隣近所の助け合
> いの慣習が薄れた。こうした不安に悩む人びとのあいだに、創価学会は急速にのびて
> いった。それは仲間の助け合いの習慣をつくり、青少年を訓練する道場をつくった。
> 天皇が戦前スタイルの観兵式をやめているその時期に、戸田城聖は白馬にまたがって、
> 青年団男女の観兵式をおこなった。そこにあったのは、自衛隊にも増して戦力なき軍
> 隊であった。目標は平和日本の建設であるとされたが、この団体訓練でとられた方式
> は、旧軍隊でとられたものと瓜ふたつである。軍人勅諭のかわりに、与えられたお経
> のテキストの暗誦。そのテキストの文句についての問答。たえず要求される集団への
> 参加。規則的な昇進。かつて軍隊において身分や学歴にかかわらず、軍務そのものに
> よる公平な競争をとおして昇進がおこなわれたとおなじように、ここでも、身分や富
> や学歴にかかわらず、努力と才能に対して公平な昇進が約束された。まさにおなじ時
> に、外の社会においては資本の独占化が進み、会社は系列化され、学歴なく一流会社
> から外れた人びとにとっては公平な昇進の希望は失われつつあった。
>  独占資本主義下に安定した社会において、不安的な状態にさらされるのは、中小企
> 業、農業、炭鉱労働に属する人びとである。それらの階層が、創価学会信者の急速に
> 膨張する部分だった。
>  今日の創価学会は、戦前日本の軍隊、在郷軍人会、青年団、少年団、さらにそれら
> を最終的に一本に編みあげた体制翼賛運動の思想から多くのものをゆずり受けた。そ
> の共同体信仰。行動力。論争形式。それらは、戦後直後、誰もゆずり受けて住もうと
> しない廃屋として、誰も利用しようとはしないが、しかし依然として存在する国民的
> 慣性としてそこにあった。その国民的遺産をそっくりそのまま、創価学会がゆずり受
> けたのである。
 (『鶴見俊輔著作集』第三巻所収 「牧口常三郎と戸田城聖」)

 ※ 引用にある「戸田城聖は白馬にまたがって、青年団男女の観兵式をおこなった」と
  は、昭和29年(1954年)10月31日、創価学会が1万人を結集して、大石寺への登山を
  行った時のことを指す(この出来事は『人間革命』第八巻にも描かれている)。


 現在でも大半の人は軍国主義には反対だろうが、 昭和20年代から30年代にかけての日
本では、戦争の傷跡がまだ生々しかったことや、新憲法のもとで民主的な社会を築こうと
いう機運が強かったことから、軍国主義との決別はより切実な問題だった(軍閥の復活を
策動する者もいたという)。

 こうした時勢にあったにもかかわらず、創価学会は軍隊式の組織運営を行い、大規模な
集会でそれを誇示しさえしたのだ。

 世間の反感を買った面もあるにせよ、それを意に介さず創価学会に入信した者が多数い
たこともまた事実である。軍隊方式の何が人を惹きつけたのだろうか。

 軍隊には厳しい規律があり、上官の命令には絶対に服従しなければならない。窮屈な組
織なのは確かである。

 一方で軍隊においては、何が正しいか、いかに生きるべきかを自分で考える必要はない。
上官の指示に従い、敵と戦うことが正しいのだ(士官には作戦立案能力が求められるが、
一兵卒にはそんな能力は必要ない)。

 戦後の日本は自由な社会になった。
 しかし、何が正しいか、いかに生きるべきかを各人が自己責任で考え、実践しなければ
ならなくなった。

 この自由を重荷に感じる人にとって、「絶対に正しい」生きる指針や、同じ目標を共有
する同志を与えてくれる創価学会は、魅力的に見えたのかもしれない。

 軍隊からの復員者の中には、従うべき命令が何もない状況で、与えられた自由を前にし
て途方に暮れていた人もいただろう。そんな人にとっては、なおさらのことそうだったの
ではないか。

 自分から進んで自由を投げ出し、盲信を選ぶ人はいつの時代にもいた。
 そして、「自分には大衆を導く使命がある」と自称する、ペテン師のような連中も……。

 多くの学会員にとって、そして日本にとって不幸だったことは、長年にわたって創価学
会の意思を担ってきたのが、池田大作という邪悪な俗物だったことである。

 公明党の政策に異を唱える学会員を軍法会議さながらの査問にかけ、恭順しない者には
除名処分を下していることから明らかなように、池田が表舞台から去った現在も、創価学
会の体質は変わっていない。自分の頭で考えることは、末端の学会員には期待されていな
いのだ。

 今でも学会員の大部分は、何も考えずに上意下達に従い、「自分たちは地涌の菩薩で、
学会員でない人より格上の存在なのだ」という選民思想に酔い痴れて、満足しているのだ
ろう。

 そのような学会員たちによる組織的な投票が、現在でも日本の国政に小さくない影響を
与えているのである(良識あるマスコミはなぜ問題視しないのだろう)。

 学会員から折伏などで迷惑をかけられた経験のある人なら、こうしたことは許しがたい
と思うだろうし、そうでない人でもおかしいと感じている方は少なくないはずである。

 そうした人々が一斉に声を上げれば、現状を少しでも変えられるのではないかと私は考
えるのだが、いかがだろうか……。


補足 『週刊読売』(昭和30年10月30日号)の創価学会特集記事について

 本文でも触れたとおり、週刊読売はこの号で創価学会についての特集記事を掲載した。
その概略を述べる。

 まず冒頭で、強引な勧誘の事例として、静岡県沼津市に住む仏立宗――日蓮系宗派の一
つ――の信者である女性のもとに、二人組の学会員が折伏に訪れ、女性が創価学会への入
信を拒んだところ、学会員たちが仏壇に祭られていた日蓮像を奪い去り、ドブ川に投げ捨
てたという事件が報じられている。

 また、別の事例として、福島県相馬郡で地元の人から信仰されていた観音堂を複数の学
会員が打ちこわし、安置されていた観音菩薩像を焼き払ったことも伝えられている。

 創価学会の実態にも言及されており、「会費を取らない」と言いながら新聞購読料や書
籍の購入代金などで、かなり稼いでいるとも述べられている。

 その後、青年部の組織と軍隊との類似性が論じられ、各部隊が「部隊歌」と称して軍歌
の替え歌を用いていることを述べ、そのことについて後に第五代会長となる秋谷城栄(栄
之助)が記者の質問に答えている。

>  部隊長クラスになると戦後、大学を出た若いインテリが主だが、第五部隊長秋谷城
> 栄君(二五)(早大仏文卒)はこういう。
>  「私どもの教えの中に“依義判文”というのがある。例えば戦陣訓の歌でも、日本男
> 子と生れきて戦の場にたつならば――とあるのは、邪宗との戦いの場と解釈する。散
> るべきとき清く散れ――は、弾圧にひるむなであれ、御国にかおれ桜花――は日蓮正
> 宗はサクラのようにかおれであると解釈するから、少しも右翼とは思わない」
>  教義のためには、宗教戦争も辞せずといった表情である。

 現在の創価学会は、外面を取り繕う知恵を身につけはしたものの、実態としてはこの記
事で述べられている折伏大行進の頃と、そう変わらない体質を少なからず残していると見
てもよいのではないかと思われる。


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2019年12月15日日曜日

どのような人々が創価学会に引き寄せられたのか?

 退潮傾向にあるとはいえ、創価学会は現在でも日本最大の新興宗教である。それのみな
らず、公明党の支持母体として、多くの票を集める力を持っている。

 創価学会がこれほど発展できた理由は、宗教学・社会学の研究対象となっており、戦後
の高度経済成長と関係づけて論じられることが多い。

 宗教学者・島田裕巳氏は、「なぜ創価学会が高度経済成長の時代に成長したのかという
謎を解く鍵」となるとして、昭和37年(1962年)に福岡市在住の創価学会員を対象として
実施された調査研究を参照し、以下のように述べている。


>  調査によれば、福岡市の学会員は、学歴が低く、高卒以上は全体の三割を占めるに
> すぎない。多くは小学校や中学校しか出ていない。職業の面では、「零細商業・サー
> ビス業の業主・従業員と、零細工場・建設業の工員・単純労働者など」が中心である。
> つかり、創価学会はたんに都市型組織であるというだけでなく、論文の副題にもあっ
> たように、都市下層のための宗教組織なのである。
 (中略)
>  つまり、学会員となった人間たちは、福岡市に生まれ育ったわけではなく、最近に
> なって、農村や漁村、山村から福岡市に出てきたばかりの人間たちであった。彼らは、
> 学歴が低く、そのため、大企業に就職することもできない。労働者ではあっても、労
> 働組合の恩恵にあずかることができず、未組織の労働者として不安定な生活を送らざ
> るを得ない境遇にあった。
 (島田裕巳著『創価学会』)

 ※ 島田氏は社会学者・鈴木広氏の論文「都市下層の宗教集団――福岡市における創価
  学会」に準拠している。


 戦後の日本での都市部への人口集中が、創価学会発展の下地となった。都市は新たな産
業の労働力を求めていた。一方で地方においては、重要な産業が衰退しつつあった。

 近代以前の日本社会では、燃料と言えば木炭であった。山村において炭焼きは、現金収
入を得られる重要な産業だった。

 しかし、昭和30年代になると電気や化石燃料が普及したことにより、燃料としての木炭
需要は急速に減少していった。

 地方では収入を得られる仕事が失われていく一方、都市部では製造業やサービス業での
労働需要が急速に伸びていたのだから、地方の過疎化、都市部の過密化が同時並行して進
むことになったのは当然である。

 創価学会は、こうして新たに都市住民となった人々を信者として取り込んでいった。
 これらの人々の多くは、誇るべき家柄も学歴もなく、専門的な技能を身につけていたわ
けでもなかった。

 故郷にいても家計の足しになる収入を得ることは難しく、生家にとどまったところで、
厄介者あつかいされかねない者も少なくなかっただろう。

 故郷から離れ、頼るべきものも心の支えも持たなかった人々が、創価学会の信仰に拠り
所を見出したのはなぜだろうか。

 その理由としては、創価学会が相互扶助的で密度の濃い人間関係を構築していたこと、
御書講義などの教学重視の在り方に、教育を補完する作用があったこと等が挙げられるだ
ろうが、創価学会の教義にも、ある種の人々を引き付ける要素があったと考えられる。

 創価学会の教義の特色は、その極端な独善性・排他性にある。


>  実際に、神道にはなんら教えらしいものはなく、神主の家など、決して幸福な生活
> をしていない。代々、浄土宗、浄土真宗、禅宗、真言宗の家の檀家総代をしている家
> は、家族に病人が絶えなかったり、不幸が続いたり、どんな財産家も三、四代すると
> つぶれるのが多い。仏教各派が釈尊の教えと違ったことを教えていることや、いわゆ
> る日蓮宗が日蓮大聖人の教義と違反していることは、別の項で説き尽くされているか
> ら、ここでは、教義のことは省略するが、俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に
> 不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたり
> して、四代法華、五代法華と誇っている家ほど悲惨な生活をしているのである。この
> ようにして、先祖代々の宗教は皆、人を不幸にする力をもっているゆえに捨てなけれ
> ばならないのである。
 (創価学会教学部 編『折伏経典』改訂29版)

 ※ 「いわゆる日蓮宗が日蓮大聖人の教義と違反していること」とは、日蓮宗が日蓮正
  宗総本山大石寺の大御本尊の権威を認めていないこと等を指す(「大御本尊と池田大
  作」参照)。


 常軌を逸していると言っていいほど、一方的で差別的な記述である。
 世の中の大部分の人は、その信仰心の程度によらず、先祖代々のやり方で葬式等を行う
が、創価学会はそれを「人を不幸にする力をもっているゆえに捨てなければならない」と
いうのだ。

 もちろん『折伏教典』の独善的な主張のほとんどは、根拠がなかったり矛盾していたり
するたわ言ばかりである(「創価学会の信心の現証について」参照。)

 人間は誰しも、自分の存在を肯定できる根拠を求めるものだ。創価学会の荒っぽい主張
が一部の人の心をつかんだのは、粗雑ながらも心をひかれる要素があったからだろう。

 「自分には何もない」と感じざるを得なかった人にとっては、「自分たち以外は間違っ
ている」という根拠のない独善性が、心地よかったのではないか。

 世間の成功している人、権威ある家柄の人、それ以外の平凡ではあってもそれなりに幸
福な生活を送っている人、そうした人々の信仰はすべて間違っているのであり、正しいの
は自分たちだけなのだ、という創価学会の主張が、渇いた土地が水を吸い込むように劣等
感に苛まれた心にしみ入ったのである。

 私はこれまでに何回も折伏を受けたことがあるが、現在でも学会員の中には、「創価学
会は絶対に正しい。これは決まっていることだ」と言い張るだけで、その根拠など示せな
い者が少なくない。

 根拠がないことを信じることに不安を感じないのかという疑問を、かつては私も抱いた
ものだが、実は彼らは根拠など必要としていないのだ。

 正当性の根拠を追求することは、それなりの知的能力を必要とする。知性が欠如した者
は、そんな面倒なことなど御免蒙りたいのである(「狂信者の心理」参照)。

 つまるところ、おツムの出来があまりいいとは言い難い人々が創価学会に入り、その後、
強引な勧誘や悪質な選挙違反等を行って、社会に迷惑をかけたのである。

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2019年12月8日日曜日

川邊メモ・教学部レポート・遠藤文書

 「川邊メモ」とは、日蓮正宗の高僧だった川邊慈篤氏がつけていたメモである。
 川邊氏は阿部日顕氏と親しく、法主に就任する以前からの阿部氏の言動について、詳細
なメモを残していた。

 このメモが流出し、阿部氏が大石寺の大御本尊を偽物だと断定していたことが判明した。
 それを日蓮正宗から離脱した僧侶たち――「憂宗護法同盟」と称した――が発行してい
た『同盟通信』(平成11年〔1999年〕7月7日付)が報じたことから騒動が起こった。
 問題のメモの内容は、以下のようなものである。


> S53・2・7、A面談 帝国H
> 一、戒旦之御本尊之件
>   戒旦の御本尊のは偽物である。
>   種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)
>   多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の
>   題目と花押を模写し、その他は時師か有師の
>   頃の筆だ。
>   日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている
> 一、Gは話にならない
>   人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の
>   事ではGでは不可能だ。
> 一、Gは学会と手を切っても又二三年したら元に戻
>   るだらうと云う安易な考へを持っている
>   ※日禅授与の本尊は、初めは北山にあったが北山の
>   誰かが売に出し、それを応師が何処で発見して
>   購入したもの。(弘安三年の御本尊)
 (憂宗護法同盟 著『法主詐称』)

 ※ Aとは阿部氏、Gとは猊下(当時の法主・細井日達氏)を指す。


 日蓮正宗にとって、大石寺の大御本尊は教義の根幹である。法主に就任する1年前、当
時、教学部長だった阿部氏がこれを偽物呼ばわりしていたことが事実であれば、宗教とし
ての正統性が根本から崩れることになる。

 当然のことながら、阿部氏と川邊氏は釈明の必要に迫られた。
 時を置かずして、同年7月9日付の宗務院通達に、阿部氏の言い分が掲載された。


>  この度、御法主上人猊下には、川辺メモ中の記載事項と、実際の面談とには、内容
> に大きな差異がある旨を仰せになられました。
>  即ち、二十年以上も以前のことであり、その発言内容の全てを正確に御記憶されて
> いるわけではありませんが、当時は裁判も含め、以前より外部からの「戒壇の大御本
> 尊」に対する疑難が多く来ていたこともあり、御法主上人猊下におかれては、教学部
> 長として、それらの疑難について川辺師に対して説明されたものであります。
 (平成11年7月9日付 日蓮正宗宗務院通達)


 次いで翌7月10日付の通達に、川邊氏による「お詫びと証言」が掲載された。川邊氏も
当時、阿部氏から「外部から大御本尊について、こういった批判がある」との説明を受け、
それをメモに書き記したのであり、阿部氏が自らの意見として「大御本尊は偽物」と述べ
たわけではないという旨の弁解している。

 大石寺の大御本尊については、古くから偽作説があった。
 昭和53年(1978年)の時点でも、元民音職員の松本勝弥氏らが「大御本尊は偽物なので、
正本堂建立にあたっての寄付金の返還を求める」と訴え、裁判で係争中だったのも事実で
ある。

 しかし、松本氏らは「大御本尊を筆跡鑑定して偽物と判明した」などと、主張していた
わけではない。

 また、「大御本尊は、弘安三年に日蓮が弟子の日禅に与えた本尊の模刻である」と主張
する者が、当時いたわけでもない(犀角独歩氏がこのような主張をしておられるが、彼が
大御本尊を検証したのは、川邊メモが明らかになった後のことである)。

 阿部氏と川邊氏の弁解には、難があると言わざるを得ない。
 阿部氏は、日蓮正宗の内部では本尊鑑定の専門家と見られていたという。

 大御本尊と日禅授与本尊を比較して筆跡鑑定することも、大石寺の教学部長だった阿部
氏ならば、その機会はいくらでもあっただろう。

 川邊メモの内容は、大御本尊が偽物だということも、阿部日顕氏がそれを承知していた
ということも、両方ともが事実だったと考えてよさそうである。

 創価学会はこの件について、聖教新聞や創価新報で「日顕の発言は宗旨破壊の大謗法で
あり、そのような人物に法主の資格はない」といった旨の批判を繰り返し行った。
 その一例として、聖教新聞から秋谷会長(当時)の談話を引く。


>  一、極悪・日顕が、“大御本尊偽物”という大邪説を唱えていたことが“川辺メモ”に
> よって七月に発覚し、宗内に大激震が走ったことは、すでにご承知の通りであります。
 (中略)
>  一、宗旨(しゅうし)の根幹である戒壇の大御本尊を、一宗の法主が「偽物である」
> と断じたなどは、前代未聞の出来事であります。この大謗法は、未来永劫(えいごう)
> の歴史に残る大汚点であり、滅亡の因となることは、疑う余地がありません。
 (『聖教新聞』1999年〔平成11年〕9月12日付)


 大御本尊は偽物だという事実を指摘したことが、日蓮正宗の「滅亡の因」となるのなら、
「受持の対象にしない」と宣言した創価学会はどうなるのだろうか……。


 さて、前回述べた通り、この騒動から15年後の平成26年(2014年)、創価学会は会則を
改正し、大石寺の大御本尊を信仰の対象から外した。

 この教義変更については、推進派の首脳部――原田会長、秋谷前会長、八尋顧問弁護士、
谷川事務総長――と、反対派の教学部との間で確執があった。

 結果は見えていたであろうが、教学部側が敗北し教義変更は強行された。
 反対を主張し続けた遠藤総合教学部長は更迭されたが、彼らも一矢報いたかったのか、
教義変更に関する内部事情を記した文書を2回にわたって流出させた。

 それが、「教学部レポート」と「遠藤文書」である。
 既にご覧になった方も多いと思われるが、両文書を読んで私が関心を持った箇所につい
て要約を記す。

・ 「戒壇の大御本尊は、謗法の宗門の本尊であり、学会とは何の関わりもない」と教義
 を変更し、それを池田が存命中に池田の意志として発表するという方針は、首脳部が決
 定しており、教学部にはそれを正当化する役割が求められた。

> この一連の計画を主導しているのは、A議長、H会長、T事務総長、Y弁護士の4人です。
> 信仰の根本の問題なのだから、もっと皆の意見を聞いて、もっと時間をかけて、慎重
> に進めるべきだ」と心配の声が上がっています。
> にもかかわらず、A、H、T、Yの4人は、
> 「池田先生の強い意向」と「教義の裁定権は会長にあるという会則」
> を盾に、独断専行に近い状態で強行突破を企てています。
 (教学部レポート)

 ※ A、H、T、Yとは、それぞれ秋谷前会長、原田会長、谷川事務総長、八尋顧問弁護
  士のことである。


・ 上記の方針が本当に池田の了承を得たものか疑問に感じた遠藤氏らが、第一庶務室長
 に確認したところ、「池田先生は全くそんなことを言われていない」「会長もそうした
 指導は受けていない」との回答だった。

> 「先生のご意向のもと、大御本尊との決別を今この時に宣言する」
> という、先生のご指導は、全くの作り話だったのです。
 (教学部レポート)


・ 教学部としては、創価学会の本尊はすべて大御本尊を書写したもので「之を書写し奉
 る」と明記されていることから、大御本尊を否定すれば信仰の根拠が不安定となり、学
 会員が動揺することになると懸念していた。


・ 教義変更に必要な調査に、女性問題で失脚した弓谷元男子部長が従事していた。

>  先月、宮地の方から、弓谷の言動に関してお伝えいたしました。弓谷は、前代未聞
> の女性問題を起こして男子部長を頚になった人間です。池田先生が、弓谷の不祥事で、
> 大変に苦しまれたとうかがっています。先生御自身、「あいつは将来、絶対に叛逆す
> る。絶対に使うな」と断じられたと聞き及んでおります。その弓谷が、大御本尊とい
> う学会にとって最重要の事項について、どういう資格、どういう立場で調査に当たっ
> たのでしょうか。
 (遠藤文書)


 また、教学部レポートに記された幹部の発言からは、外部の人間には容易にはうかがい
知れない学会本部の体質を垣間見ることができ、興味深く感じた。

> 教学部以外の5人は、論理として完全に破綻していました。率直に申せば、素人談義
> の域を出ず、これが学会の最高首脳の教義理解かと別の意味で衝撃を受けました。
> 例えば、A議長は
> 「弘安二年の御本尊については、南無妙法蓮華経の法体を文字曼荼羅に図顕された御
> 本尊であるが、唯一絶対の御本尊と大聖人が定められた証拠はない。 
> 日寛上人より『究竟中の究竟』等宗派の確立のために確立されたとも推察される」
> 「弘安二年の御本尊も何の徳用も働かない。・‥
> 他宗の身延派や、中山系、京都系が保持している真筆の御本尊と同じ事になる」
> と主張していました。
 (教学部レポート)

 秋谷前会長が述べているとおり、現在の日蓮正宗の教義は、第26世法主・日寛が自派の
正当性を訴えるためにデッチ上げたものだというのは史実である。
 だが、これを一般の学会員の前で言うことができるのだろうか。


> また聖人御難事の「余は二十七年なり」という大聖人の「出世の本懐」の表明につい
> ても、T総長は
> 「『出世の本懐』の意味だって変えればいいんだ。独立した教団なんだから、変えて
> もいいんだし、変えられるんだ。南無妙法蓮華経の御本尊を顕したことにすればいい
> んじゃないか」
> と述べていました。
 (中略)
> 「過去との整合性などどうでもいい。自語相違と批判されてもかまわない。
> 完全に独立した教団として出発するんだから。
> 結論は決まっているんだ。
> 教義なんて、それを後付けすればいいんだ」
> と、T総長は何度も繰り返していました。
> “何でも自分たちで決められる”という全能感がにじみ出ていて、何を言っても取り
> 付く島がありません。支離滅裂な不毛な会議となりました。
 (教学部レポート)

 『聖人御難事』にある「出世の本懐」という言葉の意味を、「特別な本尊として大御本
尊を作ったこと」と解釈する日蓮正宗の教義は、確かにこじつけでしかないので、それを
「変えてもいい」という谷川氏の主張は理解できなくもない。

 だからといって「過去との整合性などどうでもいい」「教義なんて後付けでいい」とい
うのは、宗教団体の幹部としてがいかがなものであろうか。

 秋谷氏・谷川氏の発言は現実主義的ではある。その一方で、誠実な信仰者というよりは、
信者を操る権力者としての相貌が色濃く表れてもいる。

 ご両名とも選挙の指揮において実績を積んで来られたとのことなので、教義のことなど
本音ではあまり関心を持っておられないのだろう。

 創価学会の幹部にとっては、教義など学会員を操るためのツールに過ぎないのである。
 失脚した遠藤氏は、実直に信仰し、池田センセイを尊敬していたのかもしれない。だが、
彼をセンセイとの「師弟不二」の実践者と呼ぶわけにはいかない。

 池田センセイは金と権力、そして女性が大好きな方だった。秋谷氏や谷川氏、弓谷氏の
方こそが、真の「師弟不二」の実践者ではないかと思うのは私だけだろうか。

 大石寺の大御本尊を中核とする日蓮正宗の教義は、第67世法主・阿部日顕上人がいみじ
くもご指摘なされたとおりデタラメだし、その日蓮正宗から破門されて都合が悪くなった
点について取り繕った、創価学会の現在の教義もインチキである。

 所詮、どちらもカルトに過ぎないのだ。


追記

 秋谷氏や谷川氏をはじめとする学会幹部が、「日蓮正宗の教義は誤りだった」と気づい
たのならば、それは大いに結構なことである。

 しかし、「だから教義を変更するのだ」というのであれば、まず、その誤った教義を広
めるために強引な折伏を行い、多く人を傷つけ苦しめてきたことについて反省し、謝罪す
るべきではなかったのか。

 実際には、創価学会は平成28年(2016年)、会則前文に「創価学会仏」なる言葉を加
え、自己神格化を進めることを選んだ。つくづく度し難い連中である。


補足

 創価学会の教義変更と、教学部レポート・遠藤文書の関係については、以下のサイトの
解説が分かりやすい。

 よくわかる創価学会

 また、教学部レポートのほぼ全文が、樋田昌志氏が開設されているサイトで閲覧できる。

 樋田氏のサイト・toyoda.tv

 ※ 「創価教学部からの流出資料か」と題されたファイル

 遠藤文書については以下のサイトで閲覧できる。

 顕正会の崩壊は近い

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2019年12月1日日曜日

大御本尊と池田大作

 創価学会は元々、富士大石寺を総本山とする日蓮正宗の在家信者団体として発足した。
 そして、その信仰の核心にあったのは、まぎれもなく大石寺の大御本尊だった。

 創価学会が教義書として出版していた『折伏教典』には、大石寺の大御本尊だけが正し
い信仰の対象である旨が、繰り返し説かれている。


 P-89
>  しかして根本の本尊たる一閻浮提総与の大御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱
> 題することによって、末法の一切衆生は救われるのである。この一閻浮提総与の大御
> 本尊は弘安二年十月十二日に顕わされ、この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は根本
> 的に幸福にはなれないのである。
 (中略)
>  日蓮大聖人の出世のご本懐は、末法の一切衆生に一閻浮提総与の御本尊をお与えく
> ださることであり、この御本尊が、すなわち弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本
> 尊であり、今日、厳然として日蓮正宗富士大石寺に厳護され、学会員は登山して御開
> 扉をうけ、拝することができるのである。

 P-238
>  日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることに間
> 違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人のご遺志を継ぎ、一切民衆を救わ
> んとするものである。したがってこれは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にし
> て唯一の宗教である。

 P-339
>  御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もない
> のである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である。

 P-340
>  また信仰の対象として一切をささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山
> においてはご相伝により、代々の御法主猊下お一人が、おしたためあそばされるもの
> であり、三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊
> を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。

 ※ 創価学会教学部 編『折伏経典』改訂29版(昭和43年発行)から引用。『折伏教典』
  は何度も改訂されており、それぞれ内容が少しずつ異なっている。


 日蓮正宗の教義では、大御本尊は「末法の御本仏」である日蓮と「南無妙法蓮華経」と
を合わせた存在とされている(これを「人法一箇」という)。

 「大御本尊を拝まないものはすべて謗法」とされ、一方ではどんな願いでも叶える力が
あるとも宣伝されたことから、かつての創価学会では「登山会」と称して、大石寺の大御
本尊を参拝することが定例行事となっていた。往時は、そのために特別列車が仕立てられ
るほどの盛況だったという。

 創価学会は日蓮正宗の信徒団体でありながらも別の宗教法人でもあり、ある程度、独立
した行動を取り得る立場にあったが、絶対的な信仰の対象である大御本尊が富士大石寺に
あり、学会員たちの心がそちらを向いている以上、教義の解釈等については日蓮正宗に従
うしかなかったし、幹部であっても好き勝手なことはしにくかった。

 これが面白くなかった池田大作は、『人間革命』等を通じて「創価学会の会長は『御本
仏』と同等の存在である」という会長本仏論・池田本仏論を創価学会内に定着させること
で、学会員たちに対して日蓮正宗以上の影響力・支配力を持とうと画策した。

 また、出版物だけでなく、創価学会の会合でも幹部の指導により、池田に対する個人崇
拝が教えられた。元婦人部員が以下のような証言をしている。


>  私が結婚して、あるヤングミセスの集まりでのことです。「ご本尊様と池田先生と
> は、どちらが上か」という話になりました。手を挙げさせられたんです。ご本尊様と
> 思う人――ほとんどの人が「はい!」って手を挙げます。ところが、それは違う――
> 私たちは池田門下生だから、池田先生を通じてご本尊様の偉大さを教えていただくわ
> けだから、池田先生の方が上だ、ということを学会最高幹部が言うわけです。昭和四
> 十九、五十年ぐらいの幹部指導での話です。
 (創価学会・公明党を糾すOB有志の会 編著『サヨナラ私の池田大作』)


 こんなことを幹部が一般信者に指導していたのだから、日蓮正宗が創価学会を破門した
のは当然ではないかと思われる。

 学会幹部たちの指導が成果を上げたためか、婦人部員を中心に熱狂的に池田を崇拝する
学会員も増えていった(「婦人部と『無冠の友』」参照)。

 こうして創価学会には信仰上の求心力を持つ存在として、大石寺の大御本尊と池田大作
とが並立する状況が生じた。

 創価学会が破門を受けた平成3年(1991年)の時点で、学会員たちはどちらかを選ぶこ
とを突きつけられた訳だが、創価学会は破門を決定した大石寺法主の阿部日顕氏を非難す
る一方で、大御本尊の権威は尊重するという対応を取った。

 脱会者を増やさないためにも、学会員の動揺をできるだけ避けたかったのであろう。
 もっとも、当の池田センセイは破門されてからさほど時を置かずして、次のようにのた
まわれている。


> 「本門戒壇、板御本尊、何だ。ただの物です。一応の機械です。幸福製造機だから」
>  九三年九月七日の創価学会幹部会。池田は唯物論者顔負けのスピーチをしている。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』)


 御大は早々に「覚醒」されたようだが、こと信仰に関することだけに、普通の人間はそ
う急に頭を切り換えることはできない。創価学会もすぐには教義を変更しなかった。
 創価学会の会則では、教義について以下のように規定していた。


>  この会は、日蓮正宗の教義に基づき、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、日蓮正宗
> 総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本と
> する。


 創価学会がこの教義を変更したのは、破門されて11年後の平成14年(2002年)のことで
ある。この時、日蓮正宗に関する記述が削られ、以下のように会則が変更された。


>  この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊
> を信受し、日蓮大聖人の御書を根本として、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流
> 布を実現することを大願とする。


 創価学会はさらに11年後の平成25年(2013年)、彼らが「精神の正史」と呼び、池田セ
ンセイが「恩師の真実の伝記」と自賛されるところの『人間革命』から、「教義を変更す
るのは誤った宗教」(第二巻)等の不都合な記述を削除したり、「大御本尊」という記述
をただの「御本尊」に変更したりといった改変を加えた第二版を発行するという小細工を
弄した後、翌平成26年(2014年)、ついに大御本尊を信仰の対象から外す教義改正を行っ
た。現在の会則は以下のとおり。


>  この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具
> 現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人
> が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願
> とする。


 新たな会則が規定する「御本尊」が具体的にどのようなものかは、聖教新聞に掲載され
た原田会長の談話で明らかにされた。


>  末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを
> 書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等し
> く「本門の本尊」であります。
 (中略)
>  したがって、会則の教義条項にいう「御本尊」とは創価学会が受持の対象として認
> 定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしま
> せん。
 (『聖教新聞』平成26年11月8日付)


 過去に「大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もない。富
士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法」と主張してきたことと、まったく整合
しない教義の変更である。

 さらに平成27年(2015年)には、初代牧口常三郎、第二代戸田城聖、第三代池田大作の
三代の会長を「永遠の師匠」とする会則変更がなされた(それ以前は「永遠の指導者」と
規定されていた)。

 平成28年(2016年)、三代会長の規定に第2項が加えられ、「『三代会長』の敬称は、
『先生』とする」とされた。これにより、創価学会内において「先生」という敬称で呼ば
れるのは、牧口、戸田、池田の三代会長のみに限られることになった。

 こうした教義改正がなされた背景には、創価学会がいつまでも大石寺の大御本尊に執着
する姿勢を見せていることが、脱会して日蓮正宗の信徒になる者が出る一因となっている
ことや、池田大作への個人崇拝をより強固なものとする以外に、組織への忠誠心を維持す
る術がなくなったことがあると考えられる。

 聖教新聞では、毎日のように池田センセイの偉大さを称える記事が掲載されて続けてい
るが、9年前に病に倒れ人前に姿を見せなくなった池田が、カリスマ性を維持し続けるの
は難しいだろう。

 創価学会が創立記念日に合わせて打ち出した来年の方針では、『人間革命』『新・人間
革命』の熟読に取り組むことを学会員に求めている。

 『人間革命』には池田センセイが恩師・戸田センセイにいかに忠実に仕えたかが描かれ、
『新・人間革命』では創価学会会長に就任した池田センセイがいかに偉大だったかが自賛
されている。どちらもセンセイの代表作である(実際はゴーストライターが書いた)。

 一方で、創価学会から脱会して日蓮正宗に移る者も、毎年、それなりにいるらしい。
 大御本尊と池田大作という2つの求心力の間での綱引きは、現在も続いているのだ。両
方ともインチキの塊なので、私には度し難いとしか言いようがないが……。

 池田に残された時間は長くはないし、大御本尊もいずれは腐朽するであろうが、どちら
が長持ちするかと言えば、それは大御本尊の方であろう。

 日蓮正宗もカルトなのであまり肩入れしたくはなくないが、創価学会よりはマシなので、
法華講の皆さんには学会員相手に折伏に励んでいただきたいと思う(個人的には、一般人
を巻き込まずに、カルト同士で潰しあってほしいと強く希望したい)。

参考文献
柿田睦夫著『創価学会の“変貌”』


補足1 創価学会の来年の活動方針

 本文に記した創価学会の活動方針では、その第1に「折伏・弘教」が掲げられ、第2は
「励ましの拡大」と題し、内部での活動家育成を訴えている。

 そして第3には「前進・人材の要諦は小説『新・人間革命』」と銘打って、次のように
主張している。

>  ◇小説『人間革命』(全12巻)『新・人間革命』(全30巻)の研さん・熟読に取り
> 組もう。「聖教電子版」や「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」なども
> 活用し、師弟の道を学び、自ら実践しながら、自分自身の人間革命に挑戦していこう。
 (『聖教新聞』2019〔令和元年〕11月19日付)

 『人間革命』『新・人間革命』の学習を通じて、池田大作に対する個人崇拝を強化する
狙いがあると考えられる。


補足2 日蓮正宗に供養する学会員

 前回引用した聖教新聞の教学特集には、日蓮正宗への供養を戒める記述もあった。

>  人々を間違った方向に導いてしまう日顕宗などに供養することは、利益するどころ
> か、かえって衆生を悪道に導いてしまうことにほかなりません。
 (『聖教新聞』2019年〔令和元年〕11月12日付)

 ※ 創価学会は破門されて以来、日蓮正宗を「日顕宗」と呼び続けている。

 学会員の中にも、葬儀等に際して日蓮正宗の僧侶に導師を依頼し、その際にお布施する
者がそれなりにいることから、こうして釘を刺す必要があるのだろう。

 池田大作が高齢のために姿を見せなくなり、求心力も低下しつつあることが、学会員の
日蓮正宗への回帰を促しているのかもしれない。

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2019年11月24日日曜日

三たび「財務」について

 創価学会の毎年恒例の金集め、財務が今月末から始まる。すでに多く学会員が振込用紙
を兼ねた広布部員証を受け取っていることであろう。

 学会員の財務への意欲を盛り上げるため、聖教新聞でもその意義が強調されている。今
月12日付には「御書に学ぶ御供養の精神」と題された、教学の特集記事が掲載された。


 〈一部抜粋〉
>  広宣流布のために供養する真心は、必ず大きな福徳となって、自分自身だけでなく、
> 三世にわたって一家一族をも包み込んでいくことは間違いありません。
>  世界広布が進む今、一閻浮提広宣流布を現実のものとする学会への真心の供養は、
> 平和と幸福の光を世界に広げていくことになるのです。
 (『聖教新聞』2019年〔令和元年〕11月12日付)


 この記事には「池田先生の指導から」として、『新・人間革命』第四巻から、供養の意
義を説いた箇所が引用されていた。


>  学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のための
> ものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養
> に通じよう。ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る
> 大功徳もないはずである。


 創価学会の財務を、唯一の正法である日蓮仏法を世界に広めるためのものと純真に信じ
ている学会員も、もちろんいるのであろう。

 しかし、多額の金が動くこの機会に乗じて、良からぬことを企てる輩もいるようである。
 今月20日付に掲載された原田会長の指導の一部に、過去に問題があったことを示唆する
記述があった。当該箇所を以下に引く。


>  一、いよいよ今月28日からは、財務納金が始まります。御聖訓に「供養し給ういづ
> れも・いづれも功徳に・ならざるはなし」(御書1098ページ)と仰せの通り、総本部
> が着々と整備され、創立90周年、さらには100周年へと、世界広布が勢いを増す中で、
> それを支える財務の功徳は計り知れません。
>  世間では、架空請求のハガキやSNS・メールが届くなど、年々、詐欺事件が巧妙
> になっています。改めて確認すれば、振込用紙に記載された振込先が変わることはあ
> りませんし、財務を誰かが預かるようなことも決してありません。
>  絶対無事故で、福徳あふれる財務となるよう真剣に祈りながら、本年の総仕上げを
> 飾っていきたい。
 (『聖教新聞』2019年〔令和元年〕11月20日付)


 原田会長の言葉からは、「振込用紙に記載された振込先が変わった」と偽って金を騙し
取ろうとしたり、高齢者等に「代わりに振り込んでおく」などと言って金を預かり、その
まま着服しようとしたりした者が、過去にいたのであろうことが読み取れる。

 30年ほど前まで、財務は振り込みではなく現金で集められていたそうだが、その当時は
どれほどの不正がはびこっていたのだろうか……。

 仮に財務に便乗した詐欺がなかったとしても、私のような不信心者からすれば、そもそ
も創価学会の財務は職業幹部の高給やゼネコンから票を買って権力を維持することを目的
としたもので、それに崇高な宗教的意義があるように説くこと自体、インチキである。

 財務から高給を受け取っている原田会長をはじめとする本部職員には、「功徳」は間違
いなくあるのだろうが、金を貢ぐ一方の末端信者には「功徳」も「福徳」もありはしない
のだ。ただの搾取とどう違うと言うのだろう。

 財務の欺瞞については、これまでに多くの批判者が言及している。
 前回、創価学会の会館建設には、裏金作りという隠された役割があることを述べたが、
財務で集められた莫大な金も、その一部は裏金になっていたという。


>  ある現役の学会幹部が絶対匿名を条件に明かす。
>  「会員から集まった財務などは最終的には三菱銀行(現・東京三菱銀行)の学会
> 本部の口座に入るわけですが、そのうち、オモテの金となる一般会計にいくら入れ
> るかは、池田のツルの一声で決まる。で、池田の指示を受けた学会本部の経理局長
> が三菱銀行のお偉いさんのところに行って、最終的に『じゃあ、今回は○億円を一
> 般会計に入れます』と話をつけてくるわけです」
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』)


 裏金にはこの他にも公明党議員からの上納金である「P献金」などがあり、その使途
は池田大作の個人的な蓄財――税務申告などしていない不正な蓄財――や、池田が海外
の要人と会ったり名誉学位等を手に入れたりするための工作費用だったという。

 池田が健在だったころは、彼が創価学会の金も人事もすべてを掌握していたというが、
現在はどうなのだろう。

 今年、原田会長の任期が満了するのにあわせて、新たな会長として谷川佳樹氏が選ば
れるのではないかとの予想もあったが、実際には全会一致で原田氏が再任された。

 ことが巨額の金と権力が関係する重要人事である以上、水面下で闘争があったのではな
いかと考えたくなるが、実情は杳として知れない。

 こうしたことは往時であれば週刊誌等の格好のネタだったはずだが、かつては薄給だ
った本部職員が高給取りになり、情報をリークする者が少なくなった事や、出版産業が
斜陽化する中で無視できないスポンサーとなった創価学会への忖度が背景となって、創
価学会の内部事情に関する報道は、以前より確実に少なくなっている。

 公明党が政権与党に入り込み、しかも自民党との政策のすり合わせは公明党の頭越し
に創価学会首脳部が行っていると言われる現在、創価学会の動向が持つ意味はかつてよ
り大きくなっているにもかかわらず……。

 創価学会のような得体の知れないカルトが、一般国民のあずかり知らないところで国
政に影響力を行使することが好ましいことのはずがない。

 このカルトの影響力の源泉は、その集票力と資金力にある。財務に疑問を持つ学会員
が増えることは、間違いなく創価学会の力を削ぎ、社会を健全化する一助になる。

 学会員の皆さんには、「真心の供養」だと信じてきた財務が、実は犯罪の温床になっ
たり裏金作りや不正蓄財に利用されたりしてきた現実を直視し、そんなものが本当に功
徳や福運をもたらすかどうか、是非とも自分の頭で考えていただきたいと思う。

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2019年11月17日日曜日

創価学会はなぜ会館建設を続けるのか?

 これまでの人生を創価学会との関わりをほとんど持たずに送ってこられたという、幸運
な方であっても、その他を圧する巨大な会館を目にして驚いた経験ならばある方は、多い
のではないだろうか。

 創価学会は全国各地に「○×会館」等の施設を建てているが、中でも地域の中心となる
施設ともなると、前述のように周囲の建造物よりもひときわ大きいことも珍しくなく、学
会員でない者にとっては、異様な存在として目に映ることだろう。

 そうした学会施設が特に密集しているのが、彼らの本部が所在する信濃町(東京都新宿
区)である。

 信濃町には先ごろ、聖教新聞社の新社屋となる「世界聖教会館」が竣工し、創立記念日
の11月18日に開館する予定となっている。

 世界聖教会館の敷地には、以前、東京電力病院があったが、東京電力が経営合理化に迫
られて手放し、創価学会が購入した。世界聖教会館は、地上5階、地下2階、延床面積1万
4500㎡の規模だという。

 創価学会はこの他にも、今年9月に牧口記念墓地公園を開園させている。これは66万㎡
の敷地に墓石2万基が並ぶという巨大墓園で、創価学会の初代会長・牧口常三郎の出生地
である新潟県柏崎市に建設された。

 創価学会がこのような巨大施設を作り続けているのは、学会員たちに対して目に見える
成果を示す必要があるからだという。

 このことについて、ジャーナリスト・野田峯雄氏が創価学会の元最高幹部の述懐を著書
に記している。


> 「こんなサイクルを描いています――学会員数の増加と彼らの心の吸引→より豪華な
> 施設づくり→大量の建設活動資金の確保→新学会員の獲得もしくは現学会員に対する
> 献金とか布施(財務や広布基金)の要求→より豪華な施設づくり。そうしたサイクル
> のどこかがひとつでも崩れるとたちまち組織は危殆に瀕してしまう。けっしておおげ
> さにいっているわけじゃありません。施設づくりが学会の死命を制しているのです。
> 最高の『売り』になっている。ややこしい抽象的な用語、観念用語で金の集まる時代
> じゃない。『心』なんて、目にみえない。施設づくりは一般学会員たちを結集させ金
> を出させるまさに具体的な、目にみえる材料。じつにわかりやすい材料です。だから、
> それは見栄えのするものであればあるほどいい。利用価値があるのかどうかはたいし
> て重要ではない。同じようなものがいくつあったってかまわない、『そこに私たちの
> 会館がある』『いま私たちの会館をつくっている』、それで十分なのです。彼らにと
> っては施設をつくること自体が目的なのです。たとえば信濃町の異常膨張は、このコ
> ンテクストでみないと理解することができません。彼らは施設づくりを目的化してし
> まっている。いや、『彼らは』というより『彼は』といったほうが正確ですね」
>  このような組織経営による利益を最大限享受している「彼」こそ、そのしくみをも
> っともよく知っていると元最高幹部の一人はつけ加えた。
 (野田峯雄著『増補新版 池田大作 金脈の研究』)

 ※ 「彼」とは、言うまでもなく池田大作のことである。


 本書は平成9年(1997年)に原著が出版され、その後、平成12年(2000年)に増補版が
出ている。

 引用中の「学会員数の増加」は、現状では「学会員数の維持」もしくは「減少に歯止め
をかけること」に変わっていると言うべきだが、それ以外の学会員の心理についての考察
は、現在でもおおむね妥当だと見てよいだろう。

 加えて、学会員活動家の高齢化と減少が進んだ昨今では、選挙で公明党候補を当選させ
るために必要なゼネコン票の重みが増しているため、学会施設を作り続けることの意味は
より大きくなっているものと考えられる。

 また、学会施設の建設は、もっと直接的な利益をも池田大作にもたらしていた。
 それは、キックバックによる裏金づくりである。ジャーナリスト・古川利明氏が著書に
現役の学会幹部による証言を記している。


>  前出の現役学会幹部は言う。
>  「私が直接、間組(現・ハザマ)の幹部から聞いたことがありますが、そのキック・
> バックの額はズバリ、工事費の二〇%です」
>  仮に会館建設に五十億円がかかった場合、その五十億円は学会本部から「オモテの
> 金」としてゼネコンに支払われるわけだが、逆に、同時にその二〇%にあたる十億円
> がキック・バックとして池田の手元に「裏金」になって戻ってくるわけだ。
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』)

 ※ 現在のハザマは安藤建設と合併して「安藤ハザマ」になっている。


 この本が出版されたのは平成11年(1999年)、今から20年も前の話である。
 当時は健在だった池田大作も、現在では表に姿を見せることはなくなった。

 毎年のように大規模な施設を作り続けている創価学会の建設費の20%となると、数十億
円、あるいはそれ以上あっても不自然ではない。

 巨額の裏金は、その後、どうなったのであろうか。
 利権をめぐる暗闘があったではないかと想像できるが、確たる情報はない……。

 創価学会は、今後も学会施設の建設を続けるという。
 信濃町では現在、創価宝光会館(新接遇センター)が建設中であり、来年4月には城北
池田記念講堂(東京都北区)の着工が予定されている。全国各地でも、より小規模であろ
うが、会館の新築や建替えが続けられてゆくのだろう。

 真心からの信心を形にする機会とされる「財務」が今月末から始まるが、学会員の真心
が実は「裏金」に化けていたことを知ったら、彼らはどう思うだろうか。

 真心からだろうが何だろうが、カルトに金を貢いでもロクなことに使われはしないのだ。
 一人でも多くの学会員に、一日も早く目を覚ましてもらいたいものである。

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2019年11月10日日曜日

創価批判コピペ集‐⑯(「創価学会と韓国」他)

◇◆◇ 創価学会と韓国 ◇◆◇

創価学会には在日韓国人の信者が多い。近年、創価学会は海外布教に力を入れているが、
日本以外で最も多くの信者がいる国も韓国である。そのため、韓国には気を遣ってきた。

創価学会の福岡研修道場にある「韓日友好の碑」には、日本を「小国」とし韓国を「師
恩の国」と述べる池田大作名誉会長の詩が刻まれている。また、日本と韓国の創価学会
の代表者が出席した「韓日友好代表者会議」で、池田は以下のようなスピーチを行った。

>  韓国は、日本にとって「文化大恩」の「兄の国」である。「師匠の国」なのであ
> る。その大恩を踏みにじり、貴国を侵略したのが日本であった。ゆえに私は、永遠
> に貴国に罪滅ぼしをしていく決心である。最大限の礼をもって、永遠に貴国と友情
> を結び、貴国の発展に尽くしていく決心である。(『聖教新聞』2000年5月22日付)

創価学会は言葉で韓国に媚びへつらうだけでなく、公明党を通じて在日参政権の実現を
目指しており、日本人信者に対しても、韓国を「兄の国」として敬うよう洗脳している。



◇◆◇ 創価学会員が神社を敵視する理由 ◇◆◇

創価学会の初代会長、牧口常三郎は戦時中、治安維持法違反で投獄され、栄養失調で獄死した。
現在の学会では牧口は国家神道と戦った殉教者で、「神道は初代会長のかたき」とされている。

牧口逮捕の理由は、当時、全戸に配布されていた神札の受け取りを、ある時期までは拒否して
いたことだが、捜査の端緒は学会員の強引な折伏を受けた被害者が、警察に訴えたことだった。

その後、当時の理事長、戸田城聖は「神札を粗末に扱わないように」との文書を会内に発した。
牧口も以前より靖国神社に参拝し神道と折り合いをつけており、全否定していたとは言い難い。

戦時中、創価学会が国家神道と戦い抜いたという事実でない説明が現在の学会でされる一因と
して、戦後、朝鮮戦争等を背景として、多くの人々が朝鮮半島から日本に流入したことがある。

創価学会はこうした人々を新たな信者としたが、日本の伝統に拒否感を持つ彼らが、学会員と
なるのに際して、代表的な日本文化である神道を全否定する姿勢を示したことが有利に働いた。
これが「鳥居をくぐると地獄に堕ちる」と、神社に近づかない学会員が多い背景となっている。



 ※ 「創価学会と韓国」は以前の投稿の要約。

解説

 よく知られているように、聖教新聞などの創価学会のメディアでは「日本と韓国」につ
いて言及する際、「日韓」ではなく「韓日」と略することが多かった。

 近年では、池田大作が韓国の自治体等から顕彰を受けたこと等を報じる記事で、韓国側
の発言を引用する形で「韓日」を使うことが多い(そうした文脈で用いるにしても、不自
然に「韓日」が強調されていることが少なくない)。

 現在では、こうした表現が韓国への過剰な配慮と見られないように、一応は工夫してい
るわけだが、数年ほど前までは、聖教新聞等では「韓日」という表現が普通に用いられて
いた。

 創価学会がそこまで韓国に気を遣ってきたのは、学会員の中に在日韓国人が占める割合
が大きいからだと考えられる。

 一般の日本人よりも、外国人の方を優先するかのような姿勢を見せてきた創価学会が、
公明党を介して与党に入り込んでいる現状には、もっと多くの国民が危機感を持つべきで
ないかと思うのは、私一人だけではないはずである。

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2019年11月3日日曜日

創価学会員の話術

 創価学会員の中には、折伏等に際して独特の話術を用いる者がいる。議論の旗色が悪く
なるとすぐに話題を変え、負けを認めないことなどがその特色である。

 個人的なことで恐縮だが、私が折伏を受けた際にも、創価学会の教義と法華経の教えが
矛盾していることを指摘したところ、相手の学会員がすぐさま話を反らし、「科学的根拠
を示せ」などと言い始めたことがある(「創価学会と法華経」参照)。

 このような話術は折伏のみならず、その他の機会にも用いられる。例えば、マイ聖教の
ノルマを他の学会員に押しつける時などである。

 こうした行為は、創価学会での役職が上の者が目下の立場の相手に対して行うことが多
いようである。以下に、そのおおよその特徴を記す。

 まず、どちらの立場が上かを誇示するために、あからさまに上から目線の態度を取る。
最初から気迫で呑んでかかるのである。

 次に話の内容が要領を得ず、聴いている側には何を言いたいのかさっぱり分からないこ
とが挙げられる。聴き手が「もっと分かりやすく話してほしい」と頼んだり、何か質問し
たりしても、上述のようにすぐに話を反らし、言語明瞭、意味不明を地でいく話を続ける。

 このような話し方をするのは、そもそも何かを伝えることが目的ではなく、相手を屈服
させるために長話をしているからである。

 活動家の中には、こうした無駄話を1時間以上も続けられる者も少なくない。
 そして聴き手が根負けした頃を見計らって、本題であるマイ聖教の話を切り出すのだ。

 「私がこんなにも時間をかけて話をしてあげたというのに、あなたはまったく理解でき
ていない。それはあなたの境涯が低いから。
 では、境涯を開くにはどうすればいいか……。聖教新聞をもう一部取りなさい。聖教新
聞は池田先生からのお手紙だから、間違いなく功徳があるし、境涯が開けるから」

 こうして、マイ聖教のノルマを押しつけるのだ。 
 説得や要請よりも、吊し上げに近いやり方である。

 普通の人が何か話をする際は、相手に何かを伝えたり共感を求めたりするものだが、創
価学会員は相手に理解できない話をすることで、自分の方が格上だと認めさせ、要求を飲
ませることを目的として、意味不明な長話をするのである。

 このようなやり方で目下の者に面倒なことを押しつける幹部は、創価学会では「生命力
が強い」などと言われ、信心が立派な証として高く評価されるのだという……。


 創価学会の内部でどんな話をしようと彼らの勝手であり、外部の一般人には関係のない
ことだと思われる方もいらっしゃるであろうが、学会員の中には上述の話術を一般社会で
も用いる者が時としている。

 取引先へのプレゼン、上司への報告、人事異動に際しての引き継ぎなど、説明をしなけ
ればならない機会はビジネスシーンにおいても多い。

 そのような場合に求められるのは、簡潔にして要を得た説明である。話をする目的が、
相手に必要な情報を伝達することにあることは言うまでもない。

 そのような状況で、長時間にわたって要領を得ない話をすることで、聴き手を屈服させ
ることを目的とした話術を披露することが、どれほど場違いなことかは言われなくても分
かりそうなものだが、学会員の中には「世の中で本当に価値のあることをしているのは、
私たち創価学会だけ。だから学会のやり方は、世界中どこでも通用するはず」と、信じて
いる者も少なくない。

 想像して欲しい。仕事の引き継ぎの際に要領を得ない話を長時間続け、こちらが困惑し
ているのを見て「どうだ! どっちが格上か思い知ったか!」と、言わんばかりの勝ち誇
った態度を取る前任者に遭遇したら、あなたならどう思うだろうか。

 たいていの人は「こいつは頭がおかしいんじゃないか」とか、「無能」と感じることだ
ろう。

 創価学会の教義では「学会員は正しい仏法を広める使命を帯びた菩薩であり、普通の人
より高い境涯にある」ということになっている。

 そのため、一般人は自分たちに対して敬意を払って然るべきと考え、学会員でない者を
見下す者までいる。

 しかし、当然のことながら、一般社会で創価学会員が無条件に尊敬されることなどない。
むしろ、カルト信者として胡乱な目で見られることの方が多いだろう。

 選民思想に毒された学会員がこうした認識のギャップに不満を持ち、他人に何かを説明
しなければならない状況を「自分たち学会員の境涯の高さを示してやる好機」と見なして、
上述のような履き違えた態度をとるのではないかと考えられる。

 あるいは「仏法は勝負」という、池田センセイの教えを実践する機会とでも思っている
のかもしれない。

 もちろん、すべての学会員がこのような態度をとるわけではない。時と場所をわきまえ、
創価学会での行動様式を外部には持ち出さない者も少なからずいる。

 だが、「創価学会の中で高く評価されているやり方を、境涯の低い一般の奴らが受け入
れないのなら、それは世間の方が間違っている」と言わんばかりに、創価学会流の非常識
を一般人に押しつけようとする学会員が一定数いることもまた、否定できない事実である。

 一般人に対して上述のような話術を用いる者は、学会員の中でも特に狂信的な部類であ
ろうから、そのような者に遭遇した場合、危険なカルト信者である可能性が高いと考え、
敬して遠ざけるのが無難であろう。

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2019年10月27日日曜日

相承疑惑について

 日蓮正宗の第67世法主を務めた故・阿部日顕氏について、創価学会は過去20年間、「先
代の細井日達氏から相承を受けていないニセ法主である」と、主張してきた。

 この相承についての疑惑を最初に公の場で述べたのは、創価学会の元顧問弁護士だった
山崎正友氏である。山崎氏は週刊文春に掲載された手記で、以下のように述べている。


>  日達上人は、事実上の“指名”なり、心づもりなりを周囲の人人に話されたことはあ
> るが、“御相伝”そのものは、なされていた形が、どこにも見当らない。見た人は、だ
> れもいなかった。
 (『週刊文春』1980年11月20日号)

>  阿部日顕は、昭和五十三年四月当時、「大僧都」の位だったから、相伝を受ける資
> 格は“緊急止むを得ざるとき”以外にない。当時の状況からみて、緊急止むを得ぬとは
> まったく云えないし、もし本当にゆずり受けたのなら、そのとき少なくとも能化にな
> っているか、宗規に従って「学頭職」についていなくてはならないのである。
>  あらゆる状況――前後を通じて――から見て、阿部日顕は、相伝を受けているとは
> 考えられず、また、宗規に照らしても、違法である。
 (『週刊文春』1981年2月12日号)


 こうした見方をしていたのは山崎氏だけではなく、日蓮正宗の僧侶の中にも、阿部日顕
氏の相承を疑う者は少なくなかった。

 当時の日蓮正宗内部には、創価学会が事実上、池田大作への個人崇拝を信仰の核とする
集団になっていること等について、教義からの逸脱であるとして憤りを隠さない僧侶も多
かった。

 法主になる前から創価学会に対して宥和的だった阿部氏は、就任後、学会への批判を禁
止した。反学会派の僧侶たちがそれに抗議して大規模な集会を開くなどしたため、阿部氏
は罷免や降格などの強硬な対応をとった。

 処分を受けた僧たちは、日蓮正宗から離脱して新たに正信会を結成。昭和56年(1981年)
1月には、阿部氏を相手どって、日蓮正宗管長としての地位不存在確認を求める訴訟を起
こした。

 この裁判の第一審判決は、昭和58年(1983年)3月30日に出され、原告側(正信会)の訴
えが退けられる結果となった。翌日の聖教新聞は以下のように伝えている。

(『聖教新聞』昭和58年〔1983年〕3月31日付)

 〈一部抜粋〉
>  御法主日顕上人猊下の血脈を否定する者(岩瀬正山ほか一七五人)が、日顕上人猊
> 下等を相手どって日蓮正宗の管長、代表役員の地位不存在確認の本訴と、それらの職
> 務執行停止を求める仮処分の裁判を起こしていたが、静岡地裁(高瀬秀雄裁判長)は
> 三十日、宗門側の主張を全面的に認め、岩瀬らの訴えをしりぞけた。
>  日顕上人猊下を訴えていたのは「正信会」を称する一派で、彼らは全員、日顕上人
> の血脈を否定し、異議異端の徒としてすでに擯斥処分(僧籍はく脱)に付されている。
 (中略)
>  当然、予測された判決とはいえ、信教の自由を守る基本精神のうえからも、高く評
> 価されてよい。


 裁判所が正信会の主張を退けた理由は、「宗教上の教義ないし信仰の内容にかかわる事
項についてまで裁判所の審判権が及ぶものではない」との判断による。

 つまり、教義上の問題について判断するのは裁判所の役割ではない、ということである。
 この裁判はその後、最高裁まで争われたが、そこでも一審と同じ理由で正信会側が敗訴
している(この事件は「審判権の限界」に関する代表的な判例の一つとされている)。

 この件は、創価学会の幹部にも感銘を与えたものと見え、副会長だった野崎勲氏がサン
デー毎日に寄港した「学会批判者たちの終焉」で論評を加えている。


>  この裁判は、山崎が昭和五十五年十一月に「週刊文春」の手記で、日蓮正宗の現法
> 主である日顕上人猊下の血脈相承についてうんぬんしたのをキッカケとして、山崎を
> “軍師”と仰ぐ元日蓮正宗僧侶グループ「正信会」が現法主を“身分詐称”呼ばわりして
> 五十六年一月に提訴したものである。しかし、この血脈論議の奇妙なところは、日顕
> 上人が先代日達上人の後を継がれて法主の座につかれた五十四年の七月時点はもちろ
> んのこと、それから一年すぎても当の「正信会」はおろか、山崎自身も含め、宗内の
> 何人も何らの異議も唱えていなかったということである。
 (中略)
>  もとより、こうしたおかしな経過に、明らかなように、この訴訟自体、到底まとも
> なものでないことはいうまでもないが、本年三月三十日、静岡地裁は、宗門側の主張
> を全面的に認め、「正信会」側訴えを却下する判決を言い渡したのである。
 (『サンデー毎日』1983年5月29日号)


 野崎氏は京大卒の俊英として、若くして池田センセイから重用された逸材というだけあ
って、その主張は一応もっともなもののように思える。少なくとも私ごときには、反論す
るスキを見つけられそうにない……。

 しかし、この野崎副会長のご高見に対し、真っ向から異議を申し立てる者が、時を隔て
ること十数年後に現われたのである。何という身の程知らずであろうか。

(『創価新報』平成11年〔1999年〕6月2日付)

 創価学会は平成3年(1991年)に日蓮正宗から破門されて以来、その決定を下した阿部
日顕氏を悪罵し続けていたが、彼の法主としての地位そのものに疑問を呈する主張をした
のは、この創価新報の記事が初めてだった。

 ※ 創価新報は平成11年5月5日付で「日顕10の大罪」と題した特集記事を掲載し、阿部
  氏を「仏法史上、最大の破壊魔」「人類の敵」などと中傷しているが、その際に挙げ
  られた10の罪過の中に、相承に関するものはなかった。

 これ以降、創価学会による阿部日顕氏への罵詈雑言に、新たに「ニセ法主」が加わった
のである。

(『聖教新聞』平成11年〔1999年〕8月10日付)

 彼ら自身が、過去に「阿部氏が法主に就任した直後に異議を唱えなかった者が、何年も
経ってから疑いの声を上げるのはおかしい」と主張していたことを忘れたのであろうか。

 私には「一目で分かる偽法主を、『御法主日顕上人猊下』と呼び奉っていた新聞がある
らしい(爆笑)」としか、言いようがない。

 学会員に言わせると「たとえ何があろうと、創価学会は絶対に正しい」らしいのだが、
実際に彼らが主張してきたことの多くは、まったく一貫性がなく、その時々で都合のいい
ことを言い張っているだけにしか見えない。

 創価学会の主張のほとんどは、何の正当性もない世迷言に過ぎないのだ。阿部日顕氏の
相承についての彼らの言い分の変遷は、それを証明する好例である。


蛇足

 阿部日顕氏が実際に相承を受けたか否かについては、私には判断のしようがない。
 創価学会は「相承はなかった」と言い張っているし、日蓮正宗は「相承はあった」と言
い続けている。部外者にとっては、不毛な水かけ論でしかない。

 当ブログで述べてきたように、私は日蓮の教えが「唯一の正統な仏法」だとは考えてい
ないし、一歩譲って日蓮の教えに何らかの意義があると認めたとしても、日蓮正宗や創価
学会がその正統な継承者だとは言えない。

 繰返しになるが、阿部日顕氏に相承があろうとあるまいと、創価学会や日蓮正宗がカル
トであることに何に変わりもないのである。


補足 山崎正友氏について

 阿部日顕氏の相承に関する疑惑について最初に口火を切った山崎正友氏は、後に前言を
翻して阿部氏を正統な法主と認め、日蓮正宗に帰服した。

 山崎氏が法主就任直後の阿部氏を敵視したのは、阿部氏が創価学会に対して過度に肩入
れしたためだと思われる。

 当時の山崎氏は、既に創価学会と激しく対立していたため、池田大作の傀儡のように振
る舞う阿部氏も許せなかったのであろう。

 しかし、後年、池田に愛想をつかした阿部氏が創価学会を破門したことを見て、評価を
改めた。山崎氏は創価学会の破門を知った感慨を、以下のように述べている。

>  平成三年暮、池田大作が日蓮正宗から破門されたニュースが新聞に掲載され、テレ
> ビで放映された。週刊誌の報道が続いた。
 (中略)
>  創価学会にかかわってから、三十五年になる。私の人生の働きざかりのすべての期
> 間である。初めの二十年はひたすら池田大作に忠節をつくし、創価学会を大きくし守
> ることに尽くした。あとの十五年は、池田大作の野望を阻止し、創価学会を倒すこと
> に全力を傾注した。創価学会にふりまわされた人生だった。それとも、いよいよお別
> れである。三十五年ぶりの、心の解放感だった。それにしても日蓮正宗の首脳は、よ
> くぞ決断されたものだと思った。
 (山崎正友著『平成獄中見聞録』)

 ※ 当時、山崎氏は創価学会に対しての恐喝事件で有罪判決を受け、黒羽刑務所に服役
  中だった。有罪になったことについて山崎氏は、「創価学会側の集団偽証のため」と
  主張していた。

 山崎氏が誠実な信仰者であったとは言い難いのも事実である。彼が阿部氏に前非を詫び
て関係修復を図ったのは、創価学会との敵対関係が抜き差しならないものになっていたた
め、日蓮正宗とも敵対し続けるのは賢明ではないという打算もあったのではないかと思わ
れる。

 信仰を人生における最重要事項とみなす人々の中には、山崎氏の変節を許せない方もい
るのだろう。創価学会に批判的な方の中にも、山崎氏には辛口の評価を下す向きも少なく
ない。

 しかし、私から見れば山崎氏は、創価学会と池田大作の反社会性を暴いた最大の功労者
の一人である。山崎氏の功罪についても、折を見て論じたいと思う。

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2019年10月20日日曜日

大石寺について

 大石寺(静岡県富士宮市)は日蓮正宗の総本山であり、開山以来、700年を超える歴史
を有する古刹である。

 破門される前の創価学会は、大石寺だけが日蓮の教えを正統に伝えているとし、「富士
の清流」と美称してその神聖さを喧伝していた。以下にその一例を挙げる。

(『聖教新聞』昭和29年〔1954年〕8月1日付)

 だが、日蓮正宗の信徒でも創価学会員でもあったことのない私にとっては、かつての創
価学会が「清純そのもの」だと主張していた大石寺のあり様は、相当にいかがわしいもの
に見える。今回は、そうした点について述べる。


1.御華水

 御華水とは大石寺の境内にある湧き水のことで、御本尊へのお供えものとしても用いら
れていた。この御華水について戸田城聖は、信者からの質問に応えて以下のように述べて
いる。


>  二十日も熱を出していた病人に御華水を飲ませた所、急に熱が下がって病気が治
> った。その人の親は信心していなくて、それは時期が来たから治ったというが、
>  御華水を飲ませれば病気は治ると、私は一遍も教えた覚えはない。水を飲ませて
> 治すというのは仏立宗や霊友会の教で当学会の教にはない。それは邪宗から転向して
> 来た者がいい始めたものである。
> 但し御華水は絶対腐らない水である。だから七百年の間大御本尊様に捧げる水はあれ
> に決まっている
>  初心者に対しては只当山には不思議な湧水があると教えれば良い。御華水によって
> 治ったのは偶然か、それとも信心の一念が水を通じて通ったものと思う。
 (『聖教新聞』昭和30年〔1955年〕8月7日付)


 戸田センセイいわく「絶対腐らない不思議な水」であるらしい御華水だが、この言葉を
信じて御華水を水筒に汲んで持ち帰り、それを飲んで食中毒になった者がいたため、後日、
大石寺では御華水を持ち帰ることを禁止したとの由である(植村左内著『これが創価学会
だ』による)。


2.御肉牙

 御肉牙とは日蓮が在世の時に自ら歯を抜き、相承の証として日興に授けたもので、代々
の法主に受け継がれてきたのだという。

 大石寺の寺伝によれば、広宣流布が実現した暁には、御肉牙が光明を放つことになって
いるらしい。

 この御肉牙の根元には歯茎の肉がついており、不思議なことにその肉が次第に増えてい
るのだとか……。

 宗祖や高僧にゆかりの品を伝えている寺院は多いが、このような奇怪なシロモノを「相
承の証」として有難がっている宗派は、あまりないのではないかと思われる。


3.大御本尊

 弘安二年(1279年)、日蓮が「出世の本懐」として作成したという木彫りの曼荼羅本尊。
楠の板に彫られており、彫刻したのは弟子の日法だという(以下、以前述べたことと重複
するが、ご容赦いただきたい)。

 日蓮直筆の曼荼羅本尊は120余り現存しているが、日蓮正宗の教義ではこの大御本尊と
大石寺法主が書写したその複製だけが、末法の衆生を救う力があるとされている(当然の
ことだが、他の日蓮系宗派はこの主張を認めてはいない)。

 かつての創価学会は、この大御本尊を拝むために「登山会」と称して大石寺に参詣し、
大御本尊とその複製以外のものを信仰することは「誤った信仰」だと主張していた(現在
では、大御本尊を拝む必要などないと言っている)。

 この大御本尊については、古くからその信憑性を疑う声が絶えなかった。
 私見を述べると、素人目に見ても大御本尊を本当に日蓮が作らせたとは信じがたい。

 まず、日蓮の真蹟遺文中に「出世の本懐」として、特別な本尊を作ったと述べているも
のなど一つもない。

 また、大御本尊は楠に彫られているが、弘安二年当時、日蓮が居住していた身延山には
楠は自生していない。

 さらに大御本尊は楠を平面に製材した上で彫られているが、板を平面に加工するために
必要な台カンナは、鎌倉時代の日本にはまだ伝わっていなかった(台カンナは室町時代に
中国から伝来した)。

 既に多くの論者が指摘してしている通り、大御本尊は後世の偽作としか考えられないの
である。


 以上、大石寺の胡散臭さを述べてきたが、大石寺に伝わるものが、何から何までマガイ
モノというわけではない。

 冒頭でも述べたとおり、大石寺は一応は由緒ある寺院であり、日蓮の真蹟遺文や日興に
よる古写本等も保有している。そうした物を「当山の寺宝」として誇るのなら、私にもま
だ理解できる。

 しかし、かつての創価学会が大石寺の宗教的荘厳を宣揚するために取り上げてきたのは、
食中毒の原因になる「御華水」や奇怪極まりない「御肉牙」だった。

 創価学会のようなインチキ宗教に引き寄せれられる手合いには、こうしたイカモノの方
が有難げに見えたということなのだろう。

 つくづく、関わり合いになりたくない連中である。


補足1 「御肉牙」についての寺伝

 創価学会がかつて出版していた『富士宗学要集』には、御肉牙について以下のような記
述がある。

> 一、日蓮聖人肉附の御歯一枚
> 又御生骨と称す、蓮祖の在日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之レを日興に賜ひ事の
> 広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之レ
> を譲り与ふ、一代に於て只一度代替蟲払の尅之を開封し奉り拝見に入れしむ常途之レ
> を開かず。
 (堀日亨編『富士宗学要集』第五巻)


補足2 質問会について

 戸田城聖は「質問会」と称して、学会員からの質疑応答に応じる機会をたびたび設けて
いた。

 病気についての質問も多く、「ガンや結核の手術を受けるように言われているが、どう
すべきか」といったものもあった。

 そうした質問に対して戸田は、医師でもないのに「手術の必要はない。信心で治る」と
いった無責任きわまりない回答をしていた。

 戸田の言葉を信じたために、寿命を縮めた者も少なくなかったのではないかと思われる。
 こうした点についても、いずれ当ブログで取り上げたい。

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2019年10月13日日曜日

日蓮正宗はカルトです

 前回、日蓮正宗の教義を示すために引用した『正しい宗教と信仰』(日蓮正宗布教研修
会編)には、「折伏弘教の手びき」という副題がつけられている。このことからも明らか
なように、同書は布教用のマニュアルとして執筆されている。

 その中には「日蓮正宗以外の宗教は、人間を苦悩の底につき落とす悪法」といった記述
もあり、さすが創価学会・顕正会の母体になっただけはあると感心させられる。

 また、他の宗教について「一見してインチキとわかるような宗教がたくさんあります」
と述べ、その例として「煙に触れるだけで無病息災になると説く宗教など」を挙げている
箇所もある。

 このようなマジナイには科学的な根拠がなく、効果など期待できないことについては、
私にも異論はない。だが、日蓮正宗にそのような批判をする資格があるのだろうか。

 当ブログでも以前ふれたが、日蓮正宗には「御秘符」と称するマジナイがある。これは
「法主の祈念が込められている」という食紅を飲むことで、病気が治る等のご利益がある
というものである。

 日蓮正宗に言わせると、煙に触れることで無病息災を祈ることは、「一見してインチキ」
だが、食紅を飲んで病気が治ると称するマジナイはそうではないらしい。

 多くの宗教は科学が未発達の前近代に起源を持っており、その中には現在では非科学的
と見られるような要素も少なからずある。しかしそれには致し方のない面もあり、特に害
のないものであれば、それらを「非科学的な迷信」としてあげつらう必要があるとは、少
なくとも私は思わない(積極的に宣揚しようとも思わないが)。

 だが日蓮正宗のように、自分たちがやっていることを棚に上げて、他の宗教を批判する
独善的な連中には強い嫌悪を感じる。

 そう遠くない過去に、「護符」と称して紙切れを飲むマジナイを大々的にやっていたに
もかかわらず、「他の宗教は非科学的」と言っている創価学会と日蓮正宗とは、似たり寄
ったりのカルトだと言えよう(そもそも両者は同根なのだから当然ではあるが)。

 日蓮正宗も、一応は伝統ある宗派の一つである。それにもかかわらず、他の伝統宗教と
比較して、首を傾げたくなる点が少なくない(創価学会や顕正会との関係を別にしてもそ
うである)。

 どの伝統宗派にも宗学というものがあり、宗祖の本来の教えがどのようなものだったか
を研究し、その伝統を守ろうとしている。

 例えば日蓮宗であれば、立正大学を設立して日蓮の思想について研究したり、その成果
として『昭和定本日蓮聖人遺文』等、学術的にも権威を認められている書籍を出版したり
している。

 しかし日蓮正宗は、『産湯相承事』をはじめとする後世に作られた偽書を核として「日
蓮本仏論」のような本来の日蓮の教えから乖離した教義を構築し、他の日蓮系宗派までも
邪教呼ばわりし続けているのである。

 日蓮正宗は他の伝統宗派よりも、いかがわしい新興宗教の方により近しい存在であると
言わざるを得ない。こういう胡散臭さが同類を招き寄せ、創価学会や顕正会を生む下地と
なったのではないかと思われる。


 以上、辛辣な見方を示しはしたものの、私は日蓮正宗が創価学会とまったく同じ程度に
危険で反社会的なカルトとまでは思わない(今のところは、ややマシだと思う)。

 創価学会員が「鳥居をくぐると地獄に堕ちる」と称して、神社に近づこうとしないこと
はよく知られた話であり、彼らの独善性を証明する事実でもある。

 学会員が神社を敵視する背景には、日蓮正宗から受け継いだ教義があるが、古くから日
蓮正宗の檀徒だった家系には、実際には神社に参拝する者も少なくないという。

 こうした事実から、日蓮正宗が独善的な傾向を強めたのは、創価学会から影響を受けた
結果ではないかとも考えられるのである。そのことを示す事例を以下に述べる。

 日本の伝統仏教には、地蔵信仰や観音信仰など、完全に土着化して習俗の一部となって
いる一面もある。

 現在の日蓮正宗の教義ではこうした信仰は「謗法」とされているが、日蓮正宗の信者が
地蔵信仰等について、昔から一貫して否定していたというわけではない。

 福島県会津坂下町にある日蓮正宗寺院・妙福寺には古くから地蔵堂があり、地元の人々
から篤く信仰されていた。

 ところが昭和28年(1953年)、妙福寺住職であった久保川法章氏が、この地蔵を謗法で
あるとして取り除こうとしたことから、信徒との間で争いが起こった。この際、創価学会
が久保川氏を支持したことから、問題が大きくなったという。

 この事件は、地蔵堂を妙福寺から切り離すことで決着したが、地蔵信仰を守ろうとした
古くからの妙福寺檀徒も、日蓮正宗から離れることになった。

 この出来事は『人間革命』第七巻にも描かれている(『人間革命』では、久保川法章氏
は「久川源章」として登場する)。

 『人間革命』によれば、久保川氏が昭和28年になって教義を厳格に解釈し、古くからの
地蔵信仰を敵視するようになったのは、創価学会員に影響されてのことのようである。

 このエピソードは「正しい信仰に目覚めた僧侶が、創価学会と協力して謗法に立ち向か
う美談」といった調子で『人間革命』には書かれていたが、現在市販されている聖教ワイ
ド文庫版『人間革命』からは削除されている。

 久保川氏が、後に創価学会に対して批判的な正信会に移ったことから、「美談」ではな
くなったということなのだろう。


 日蓮正宗の在家信者団体は「法華講」と呼ばれる。創価学会や顕正会も、かつては法華
講の一つだった。

 法華講の中でも、特に折伏を熱心に行っているのが妙観講である。元学会員も多く所属
していることから、創価学会と同様の体質を持っているらしい。

 昨今、創価学会を脱会して日蓮正宗の法華講員になる者も多いという。創価学会が弱体
化するのは結構なことだが、その結果として日蓮正宗のカルト的傾向が助長され、創価学
会と大差ない集団になってしまっては困りものである。

 実際、『正しい宗教と信仰』(日蓮正宗布教研修会編)は、その構成・内容が創価学会
がかつて出版していた『折伏教典』と類似しており、参照して執筆されたと見られる。

 創価学会は、カルトの害悪を日本社会に振りまいてきた。現在、彼らは衰退しつつある
が、その過程で別の問題を引き起こす可能性も否定できない。

 幸福の科学に入信した元学会員が、カルトの手口を伝授したのではないかという疑いも
あるのだ(「憧れの池田センセイ」参照)。

 こうしたことを踏まえて考えると、創価学会だけでなく、日蓮正宗や顕正会など、他の
カルトの動向もあわせて警戒する必要があるのかもしれない。 

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2019年10月6日日曜日

信心の血脈

 去る9月20日、日蓮正宗の第67世法主を務めた阿部日顕氏が逝去した(享年96歳)。

 ※ 誤解している方も少なくないが、日蓮正宗(総本山:富士大石寺)と日蓮宗(総本
  山:身延山久遠寺)は別の宗教法人であり、教義も大きく違う。日蓮正宗は、日蓮系
  宗派の中でも特に独善的な教義を持つ。創価学会はかつて日蓮正宗の傘下にあった。

 阿部氏は法主就任直後、創価学会に対して批判的な僧侶を大量に除名処分するなど、あ
たかも池田大作の傀儡であるかのごとく振舞っていたが、後に面従腹背し続ける池田に見
切りをつけ、破門処分を下した。

 それ以来、創価学会は、破門される前には「法主上人猊下」と呼んで表面的には敬って
いた阿部氏について、「先代から相承を受けていないニセ法主」と言いはじめ、「仏敵」
「天魔」などと罵り、撲滅唱題と称する呪詛まで行ってきた。

 年齢から言えば、阿部氏は大往生だったと言っていいと思われる。当然のことではある
が、多数の学会員による撲滅唱題は何の効き目もなかった。私は日蓮正宗から直接被害を
受けたわけではないので、一応は「ご冥福をお祈りします」と述べて置く。

 とはいうものの日蓮正宗が、創価学会・顕正会というカルトを2つも生み出したことは
否定できない事実である。両カルトが一般市民に迷惑をかけ続ける原因となっている独善
的な教義も、日蓮正宗に由来するものである。そこで今回は、日蓮正宗の教義、中でも彼
らの言う「信心の血脈」について検証したい。

 日蓮正宗は、「末法の御本仏」である日蓮の教えを正しく継承しているのは、自派のみ
だと主張し、それを以下のように説明している。


>  日蓮大聖人は入滅に先立って、門弟のなかから日興上人を選んで、本門戒壇の大御
> 本尊をはじめとする法門のすべてを相承し付属されました。
>  大聖人の精神と法義を固く守られた日興上人は、時あたかも地頭の不法によって謗
> 法の地になりつつあった身延の地を去る決意をされ、〈中略〉日本第一の名山富士山
> の麓に一切の重宝を捧持して弟子たちと共に移られ、そこに大石寺を建立されたので
> す。
>  その後、大聖人の仏法は第三祖日目上人、第四世日道上人と、一器の水を一器に移
> すように代々の法主上人によって受けつがれ厳護されて、現在御当代上人に正しく伝
> えられているのです。
 (日蓮正宗布教研修会編『正しい宗教と信仰』)

 ※ これはあくまでも日蓮正宗の主張であり、他の日蓮系宗派は引用の主張を認めては
  いない。


 日蓮正宗や創価学会では、日蓮以来の法統が相承を経て受け継がれていくことを「血脈」
という(あくまでも比喩であり、特定の家系のみが法主になれるというわけではない)。

 先に少しふれたが、現在の創価学会は、第67世法主を務めた阿部日顕氏は先代から相承
を受けていないので、信心の血脈は日蓮正宗から創価学会に移ったと主張している。

 そもそも、日蓮の教えが正統な仏法と呼べるかについては、これまでに論じてきたので
繰り返さない。また、阿部氏が相承を受けたか否かについても、今回は措く。

 日蓮正宗が主張する「血脈」は、果たしてどこまで史実の裏付けがあるのだろうか。
 結論から言って、極めて胡散臭いものだと言わざるを得ない。

 まず、日蓮正宗が第二祖と仰ぐ日興が、日蓮が指名した六老僧と呼ばれる高弟の一人だ
ったことは事実である。

 だが、日興だけが後継者として指名されたという主張に、他の日蓮系宗派が同意してい
るわけではない(日蓮宗は、同じく六老僧であった日向を第二祖としている)。
 
 また、日蓮正宗が教義上重視している古文書、『産湯相承事』『御義口伝』『百六箇抄』
『本因妙抄』は、後世に作られた偽書である(いずれも日蓮の口述を日興が筆記したもの
とされているが、日興直筆のものは存在しない)。

 日興が日蓮正宗総本山大石寺を開いたことは事実だが、現在の日蓮正宗の教義が日蓮・
日興に忠実だとは信じがたいのである(当然、創価学会・顕正会も同様である)。

 それに、日興が開山となった寺は大石寺だけではない。彼は北山本門寺(現在、日蓮宗
大本山)も開き、大石寺を日目に譲った後、晩年をそこで過ごした。「大石寺だけに日興
の法統が受け継がれている」という主張もまた信じがたい。

 日興には数多くの弟子がいたが、その一人、日尊は京都に要法寺(現在、日蓮本宗本山)
を開いた。

 実は江戸時代の大石寺法主には、要法寺から招かれた僧侶が少なくない。
 第18世日精、第19世日舜、第20世日典、第21世日忍、第22世日俊、第23世日啓はいずれ
も要法寺で出家し、その後、大石寺に移っている(日精を第17世とする説もある)。

 こうした経緯を見ると、要法寺に受け継がれた法統の支流が、大石寺にも伝わっている
と言った方がいいようにも思える。
 明治以降には、さらに異常な出来事が起こっている。

 先に引用したように、大石寺の法統は「一器の水を一器に移すように代々の法主上人に
よって受けつがれ」て来たものだという。要するに、先代法主が後継者を指名し、それを
相承の儀式によって宗内に周知してきたのである。これが守られてきたならば、後継争い
など生じようがないはずだ。

 だが実際には、次期法主を誰にするかについて争いが生じ、選挙で選ぶ事態が二度も起
こったという。

 大正15年(1926年)、第58世日柱を排斥する動きが宗内に起こり、後継者を選挙で選ぶ
ことになった。この時、堀日亨が選ばれている(堀氏は創価学会版『日蓮大聖人御書全集』
の編者ということになっている)。

 第59世日亨の後任を決める際にも混乱が起き、昭和3年(1928年)、またしても選挙に
より阿部日開――阿部日顕氏の実父――が第60世法主に選ばれたという。

 以上、述べてきたように、日蓮正宗の「信心の血脈」なるものは、相当にいい加減なも
のである。到底、唯一正統なものだとは言えない。

 そして、こうした胡散臭さを「地涌」などの怪文書であげつらってきたのが、他ならぬ
創価学会である。

 しかしそれは、天に向かって唾するが如き愚行ではないのか。
 日蓮正宗の法統がマガイモノだというなら、そこから派生した創価学会も当然にマガイ
モノであろう。

 阿部日顕氏に相承があろうとあるまいと、日蓮正宗は日蓮の仏法を正統に継承している
とは言えない。創価学会もまた然りである。

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2019年9月29日日曜日

創価批判コピペ集‐⑮(「創価学会員や顕正会員が強引な勧誘をする理由」他)

◇◆◇ 創価学会員や顕正会員が強引な勧誘をする理由 ◇◆◇

創価学会と顕正会は、何人もの信者を動員し、一人の標的を取り囲んで入信を迫るなど
の強引な勧誘を行ってきた。どちらとも日蓮正宗の信徒団体だったが、破門されている。

強引な勧誘を行うのも、両教団に共通した教義に理由がある。どちらとも「自分たちだ
けが唯一の正しい仏法なので、それを広めることは功徳になり、ご利益をもたらす」と
信者に教えている。両教団とも以下の宗教用語を用い、独善的な布教を正当化している。

聞法下種・・・信仰のない人に「正しい仏法」を説き聞かせること。平たく言えば勧誘。
発心下種・・・勧誘を受けた人が発心する(信仰に目覚める)こと。平たく言えば入信。

勧誘だけでも功徳になるが、入信させると更に大きなご利益があるとされる。要するに、
学会員も顕正会員も自分が得をすると信じ込んでいるから、強引な勧誘を行うのである。

※ どちらも独善的で相手の迷惑や常識に配慮することはない、超危険なカルトである。



◇◆◇ 創価学会の独善性 ◇◆◇

創価学会の教義では、「創価学会だけが正しい宗教で、ほかの宗教はすべて邪教であり、
その信者や無宗教の人は地獄に落ちる。救済されるのは創価学会員だけ」とされている。

そして学会員は「自分たちは唯一の正しい宗教を信じているから、そうでない人よりも
高い境涯にある。創価学会以外の考え方はすべて無価値で間違っている」と信じている。

だから彼らは、学会員でない者に対して「地獄に落ちるとも知らずに、間違ったことを
信じていて、何が正しいかも分からない愚かで哀れな連中」と考え、見下す態度をとる。

創価学会の幹部は、こうした教義で信者を洗脳して「唯一の正しい宗教を広めるために
勧誘すればご利益があるし、相手を救うことにもなる。感謝されて当然」と教えている。

学会員が相手の迷惑を顧みることなく強引な勧誘をするのには、このような背景がある。
洗脳を受けた者が覚醒することは少ない。カルトとは関わらないのが無難な対応である。



解説

 顕正会の正式な名称は「冨士大石寺顕正会」である。かつては創価学会と同じく、日蓮
正宗の在家信者団体であり、当時は「妙信講」と称した。

 創価学会も妙信講も、ともに国会の議決を得て国立戒壇を設置することを目指していた。
 国立戒壇が実現した暁には、日蓮正宗総本山大石寺の大御本尊がそこに安置される予定
になっていた。

 しかし、創価学会は世間のバッシングを受けたために、国立戒壇の設置を目指すという
教義を取り下げ、日蓮正宗も最大の信徒団体であった創価学会を支持する見解を出した。

 妙信講はこれに異議を唱え、あくまでも国立戒壇の実現を目指すべきだと主張し続けた
ために、昭和49年(1974年)、日蓮正宗から信徒除名処分を受けた。

 その後、妙信講は顕正会と名を改めた。彼らは現在も国立戒壇の実現を主張している。
 顕正会から見れば、創価学会は当初の理想を捨てた裏切り者であるため、激しく憎悪し
ている。創価学会も顕正会を敵視している。

 一般市民にとっては、どちらも大差ない、迷惑千万なカルトである。
 顕正会員も「創価学会の独善性」で述べた学会員の特徴とまったく同じように、独善的
な教義を信奉している。

 国立戒壇以外の両者の違いとしては、創価学会は池田大作、顕正会は浅井昭衛を「先生」
と呼ぶこと、創価学会員は全国に分布しているのに対して、顕正会員は関東地方に集中し
ていることくらいである(公明党を擁して公権力に食いこんでいる分だけ、創価学会の方
がより有害ではある)。

 笑止なことに、学会員には「顕正会はカルトだけど、自分たちはそうではない」と主張
する者が少なくない。両者は鏡写しのようにそっくりであるにもかかわらず……。

 上述したように、創価学会員や顕正会員は自分たちだけが正しいと信じ、強引な勧誘を
行う連中である。不愉快な目に遭いたくないのであれば、どちらとも関わりにならない方
がよい。平穏無事な人生には、カルトは不必要な存在である。

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2019年9月22日日曜日

「言論部」と「ネットリスク対策室」

 当ブログでもこれまで何回か言及してきたが、昭和55年(1980年)、池田大作の側近中
の側近だった原島嵩氏が造反し、創価学会の実態について週刊誌等での告発を開始した。

 それらの暴露の中に、聖教新聞の紙面には、池田大作による「作り記事」が頻繁に掲載
され、時には1面から7面までが池田が指示したとおりの記事で埋められることもあった
というものがあった。それに加えて原島氏は、こうも述べている。


> 「作り記事」はそれだけではありません。『寸鉄』などを使って池田氏が言いたいこ
> とを書くのはまだいい方です。問題は「声」の欄です。本当は、読者(会員)の声の
> すべてがそのまま反映されるべきページですが、ここには多くの作り記事があるので
> す。
 (中略)
>  池田氏自身が“読者の投書”を作ったこともありますし、多くの作り投書も、池田氏
> の指示でなされます。池田氏自身の“投書”で、私が最も印象に残っているのは、昭和
> 四十五年の、あの言論出版妨害事件で創価学会が社会の批判を受けていた当時のもの
> です。それは、他宗派(確か真言宗だったと記憶しています)の僧侶と名乗って書か
> れたもので、内容は、
> 「これだけ社会から学会員がいじめられている中で、創価学会が前進していることに
> 敬意を表する」
>  という趣旨のものでした。
 (『週刊サンケイ』1980年10月30日号)


 この記事で原島氏は、池田が聖教新聞に力を注いだ理由として「最大の関心事は自己の
“本仏化”と部数の伸びにあったように思います」とも述べている。

 私は原島氏が述べている「池田大作による投稿の自作自演」に興味を引かれ、当時の聖
教新聞を確認してみたところ、該当すると思われる記事を見つけた。

(『聖教新聞』昭和45年〔1970年〕3月2日付)

 ※ 池田センセイが真言宗の僧侶を名乗られたのは、以前にも述べたように「真言はい
  みじかりけり」との、日蓮大聖人の御金言に信服されていたからであろう(「日蓮と
  真言宗と池田大作」参照)。

 これは推測だが、池田大作は平成22年(2010年)に脳梗塞で倒れるまで、聖教新聞の編
集方針に口を出し続けたのではないかと思われる(独裁者が自らのパブリックイメージを
コントロールしようとするのは当然のことだ)。

 前置きが長くなったが、池田センセイを「師匠」として仰ぐ学会員たちが、彼を模範と
して行っていた活動として「言論部」というものがあった。


>  この昭和四十四年の言論妨害時には組織内に言論部という部門があり、学会批判者
> などへひどいイヤガラセをする担当者まで準備されていた。全国の各地域から一定の
> 役職以上の婦人部幹部、あるいは筆の立つ一般学会員を抜擢して言論部員に任命して
> おき、何か問題が生じるたびに各地の創価学会会館などへ招集をかけるのだ。なにし
> ろ七百万世帯を数える巨大集団だから、その言論部員は五人や十人ではない。本部か
> ら指示が出るたびに各地の部員たちは葉書を持ち寄り、多い場所では一ヵ所百人、百
> 五十人単位で集まった。
>  現場の一室では言論部担当の学会幹部から部員一人ひとりに具体的なテーマ、宛先
> までがふり分けられる。それぞれがせっせとイヤガラセの手紙や投書を書き、その場
> で書き上げるまで帰宅させない。これを全国数十ヵ所、数百ヵ所の各支部、各会館で
> いっせいにやるわけだから、標的にされた相手はたまらない。文字どおり、イヤガラ
> セの手紙が洪水のように流れこんでくることになる。
>  たとえばこの出版妨害事件の際、学会側から相手の弘達氏の自宅に投げ込まれたイ
> ヤガラセの投書類は優にミカン箱十箱分はあったろう。
>  この投書作戦のほかに電話作戦も強烈だった。やはり本部が学会員を総動員して、
> 学会批判をやったテレビ局やラジオ局、雑誌編集部をめがけどんどん電話をかけさせ
> た。個人宅にも「家に火をつけるゾ」「夜道に気をつけろ」といった脅迫電話が殺到
> したり、散々なイヤガラセ戦術が展開されたものである。
 (藤原行正著『池田大作の素顔』)

 ※ ここで言及されているのは、評論家の藤原弘達氏が『創価学会を斬る』を出版した
  際、創価学会が引き起こした騒動についてである。


 藤原弘達氏が平成11年(1999年)に逝去した際にも、「おめでとうございます」という
嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってきたという。

 近年ではさすがにこれほどひどい話は聞かないが、創価学会の体質は本当に変わったの
だろうか。

 私見を述べると、彼らの体質が変わったのではなく、今のご時世にそんなことをすれば、
すぐにインターネットにさらされてしまうから、やらなくなっただけだと思う。

 「取り囲み折伏」のような迷惑行為を続けていることからも明らかなように、創価学会
の独善的で他者への思いやりに欠ける在り方は、現在でも昭和40年代と変わらないが、自
分の首を絞めるような愚行は避けるようになったということではないだろうか。

 また、どこまで組織的なものかは判断し難いのだが、5ch等ネット上の匿名掲示板では
創価学会への批判者を中傷する書き込みは珍しくない。

 「『創価学会員から嫌がらせをされた』と言っているのは、被害妄想に陥った統合失調
症患者」などと決めつける書き込みまである(「集団ストーカー」被害を訴えている人の
中には、実際に精神疾患のため被害妄想に陥っている人も、一定数いると推測されるのが
厄介ではあるが)。

 池田センセイの精神を受け継ぎ、匿名掲示板でかつての「言論部」と同様の活動を続け
ている学会員が少なからずいると考えられる。

 信濃町の学会本部にも、インターネット対策を専門とする部署があるとの情報もある。
 創価学会から除名処分を受けた元本部職員3人組が開設しているブログに、「私たちが
職員に在籍していた時にはすでに、青年職員が10数名ほど配属された“ネットリスク対
策室”のようなプロジェクトがあった」との記述がある。

 残念ながら情報が乏しいため、信濃町の「ネットリスク対策室」の活動実態には不明な
点が多い(この名称が正式なものかさえも分からない)。

 だが、3人組のブログにある「反学会的なツイッターやブログへの監視、荒らし行為な
どを行っているのではないか」という推測には説得力がある。

 ネットリスク対策室は、その他にも「検索エンジン最適化」なども手掛けていると考え
られる。「検索エンジン最適化」とは、Google等で検索した際、上位に表示されるように
ウェブサイトを最適化することで、主としてマーケティングを目的として行われる。

 創価学会は、学会員に見られたくないサイト――創価学会に対して批判的なブログ等―
―が、検索結果の上位に表示されないように工作しているのではないかと疑われる。

 一例を挙げると、しばらく前までは「創価学会」で検索すると、最も代表的な批判ブロ
グである「対話を求めて」が10位以内に表示されていたが、現在では「創価学会」で検索
しただけでは、このブログを見つけることは困難になっている(「対話を求めて」は、個
人運営にもかかわらず、900万以上という驚異的なアクセス数を達成したブログである)。
 
 繰り返しになるが、創価学会の反社会的体質は現在でもほとんど変わっていない。より
狡猾で目立ちにくい手法を取るようになっただけである。

 創価学会に関するマスコミの報道が減ってしまったため、現状についての情報を得るこ
とも難しくなった面もあるが、彼らが過去に何をやってきたかを知ることで、現在の在り
方についても推測することはできる。

 「言論部」が行ってきた嫌がらせ行為を、何十年も昔の問題として片づけるのではなく、
過去にそのような反社会行為に手を染め、現在も同様の体質を濃厚に受け継いでいる創価
学会が、今後も何らかのトラブルを起こすリスクは小さくないことを鑑み、警戒し続ける
べきだと私は考える。

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2019年9月15日日曜日

婦人部と「無冠の友」

 創価学会の活動において、中核的な役割を担っているのが婦人部である。
 婦人部の活動家は、座談会などの頻繁に開かれる創価学会の会合に参加し、会合がない
日も未活・非活――活動家ではない学会員――への家庭訪問や、聖教新聞の拡販活動など
に飛び回っている(「学会活動できるじゃない!」参照)。

 彼女たちは、敬愛する池田センセイの著書は必ず購入するが、学会活動があまりにも忙
しいため、それらの本を読む暇もないほどだという(婦人部に限らず、創価学会の活動家
の大部分には読書をする習慣はない)。

 学会員の中には、聖教新聞を一家で何部も取っているにもかかわらず、その紙面にはほ
とんど目を通さない者までいる。そんな人でも、数日に一度、必ず一面トップで掲載され
る、池田大作が海外から顕彰を受けたという記事は、ほぼ確実に目にしているはずである。

 聖教新聞しか購読していない学会員は、「池田先生は世界中から称賛されている。それ
は新聞でもよく取り上げられている、間違いのない事実」信じるようになるのだ。

 また、創価学会の会合でも、幹部は「池田先生は素晴しい方」「池田先生は学会員の幸
せのために、毎日、祈ってくださっている」と話す。学会員はそれを聞いて、「責任ある
立場の人も池田先生を称えている。先生はやっぱりすごい! そんな先生からご指導いた
だける私たちは幸せだ」などと、ますます思い込む。

 このようなマインドコントロールの結果、少なくない数の学会員が「池田先生は世界的
な偉人であり、その指導に従うことが正しい生き方だ」と盲信するようになっている。

 特に婦人部には、池田への崇拝がはなはだしい者が多く、創価学会の教義では表向きは
日蓮が「本仏」とされているものの、「現在では、日蓮大聖人の生まれ変わりである、池
田先生が末法の御本仏」とまで信じている者も少なくない(男性の学会員だと、そこまで
池田を崇める者は、婦人部と比較すると少ないようである)。

 池田センセイが健在だった頃は、彼と「特別な関係になりたい」と願う婦人部員も多か
ったそうである。


>  元青年部(男子部)の学会員は言う。
>  「そもそも創価学会という組織が内側で閉じているので、世界が狭いのだが、それ
> に輪をかけるように婦人部のメンバーは専業主婦が多い。まあ、学会サイドとしては、
> 毎日、会合だ何だって動き回るわけだから、もちろん外で仕事をしていない方が都合
> がいいわけだが、そういう女性たちは、現実の社会を知らないから、さらにもっと世
> 界が狭い。そんなんで『池田先生のためなら……』と邁進している人たちだからね。
> そういう人たちに、もし、『池田先生だって、間違うことだってある』なんて言った
> 日には、総スカンですよ。まあ、婦人部の十人中九人は池田の“お手つき”になりたい
> と思っている連中ですから」
>  ちなみに、この「十人中九人」という割合について、別の元学会幹部にぶつけたと
> ころ、「ちょっとその数字はオーバーですが、まあ、そういう女性が婦人部には多い
> ことは間違いありません」とのことだった。
 (古川利明 著『システムとしての創価学会=公明党』)


>  その一方で女性会員の中には、池田崇拝が高じて、池田と握手をすればその手を洗
> わないとか、池田が死んだら自分の命もないんだと思い込んでいる人さえ実際にいる
> のである。婦人部幹部などでも、とくに、創価学会が絶頂期へ向かっていた昭和四十
> 年前後は滅茶苦茶だった。池田大作を宗教上の師匠として尊敬すると同時に魅力あふ
> れる男という視線で凝視し心ときめかせるタイプが少なくなかったのである。
>  彼女たちは池田の目にとまりたいと願い、池田との親しさを競いあい誇示する。
> 「お手付きになりたい」との声まで出る始末だった。あげくに、その念願をはたした
> 当人たちは池田会長との特別の関係をほのめかして他に威張り、周りは「いいですね
> え」と羨ましがった。いってみれば人気スターと熱狂的ファンの関係、世間流にいう
> とそうなる。
 (藤原行正 著『池田大作の素顔』)


 池田センセイは身長160センチ足らずで、贅沢三昧の結果として、でっぷりと肥え太っ
ていた。お世辞にも女性からモテそうではないが、文字どおりの狂信で目が曇っていた婦
人部員にとっては、魅力的だったのである。

 当ブログでも何度も取り上げてきたように、池田大作は週刊誌等で何度も女性スキャン
ダルを報じられたが、池田と直に接する機会のない、末端の婦人部員たちは「池田先生が
ふしだらなことをするはずがない。週刊詩に書いてあることは全部デマ」として、一顧だ
にしなかった。

 「池田先生のお手つきになりたい」と願いながら、同時に「池田先生がふしだらなこと
をするはずがない」と信じるのは矛盾しているようだが、藤原氏が述べているように、婦
人部員にとって池田センセイは偶像(アイドル)だったのだろう。

 聖教新聞の配達員を創価学会では「無冠の友」と呼ぶが、その多くは婦人部員である。
 池田を崇拝する彼女たちは、「池田先生のお手紙」である聖教新聞を配達することこそ、
何よりも功徳になると信じているのだ。


> 「私はずっと無給で聖教新聞の配達をしてきました。会長先生の御手紙を配達させて
> いただいているんだ、むしろ感謝しなさい、朝日新聞を撲滅しようといわれ、すっか
> りその気になっていました」
>  聖教新聞の配達員を十五年間余り続け、地区幹部でもあった東京都内の元学会員M・
> Eさんはそう話し始めた。
> 「でも、妊娠したので辞めさせてくれと申し出たら、当時の販売店主に『とんでもな
> い、そんなことしたら功徳がなくなる、続けることがたいせつだ』といわれ、ついに
> 流産してしまったときはつらかった。罰があたったといわれました。何かまずいこと
> があると、それは全部こちらの罰。いいことは全部、池田先生のおかげ……集金でき
> ない場合は、不信心扱いされるので自腹を切るのがあたりまえ。引っ越す人が出たら、
> そのぶんを、広宣流布に役立つと思い自分が引き受けます。だから、トータルの販売
> 部数も収益も絶対に減らない、そんなしくみになっているんです。
>  配達料が出ても、みんな広布(広布基金)へまわしてしまう。みんなもっていかれ
> てしまう。以前は新聞を廃品回収に出せばいくらかの金をくれましたが、その金すら
> カンパへまわします。また、選挙になればF闘争(賛同者の獲得運動、Fはフレンド
> の略)の費用は自分持ち、おまけに候補者へもカンパ。いつも金、金、金の世界です、
> あそこは。私は聖教新聞を三~五部とっていたし、それに公明新聞、創価新報(隔週
> 刊)、大白蓮華(月刊)聖教グラフ(現・グラフSGI)なども随時とっていたので、
> 一か月の持ち出し金額は万単位にのぼっていました。私は幸せになりたかった、でも、
> 逆にどんどん吸収されてしまい、池田だけ幸せになった……いまでもにえくり返る思
> いがしますが、脱会して本当の心底からの喜びを知りました」
 (野田峯雄 著『増補新版 池田大作 金脈の研究』)


 引用した実態を表現するのに、「搾取」以上に適切な言葉を私は思い浮かべることがで
きない。妊娠した女性に対して「やめたら功徳がなくなる」と脅して働き続けさせ、それ
で流産すれば、今度は「罰があたった」と貶す。あまりにもひど過ぎる話である。

 女子高生を妊娠させたりレイプ事件を起こしたりと、下劣なスキャンダルに事欠かない
池田大作を、「末法の御本仏」として崇拝する創価学会の信仰は、滑稽としか言いようが
ない(「個人崇拝の実態」参照)。

 だが、愚劣な個人崇拝を利用して「無冠の友」と称する搾取的な労働を押しつけ、さら
にわずかばかりの配達料までも広布基金等で吸い上げるという創価学会のやり方は、あま
りにも悪辣であり、先の引用のような目に遭った人までいる事実を笑うわけにはいかない。

 池田大作がいなくなれば、マインドコントロールから覚醒する学会員も増えるであろう
が、創価学会側もそれを阻止しようと池田の神格化を図ると予想される。

 バカげたカルトの被害者を減らすためにも、創価学会の悪質な実態を広め続けることに
は意義がある。私としても、今後とも微力ながら社会貢献できるよう努めたいと思う。

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2019年9月8日日曜日

「集団ストーカー」は実在するか? 2 ― 町内会・PTA等への浸透 ―

 前々回、創価学会のF取りにおいて、標的とされた人の情報を関係する学会員の間で共
有する場合があると述べた。

 こうした情報の共有は、折伏に際しても行われている。「取り囲み折伏」の場合、事前
準備としての情報共有は当然なされるだろうが、一対一の折伏の場合でも、標的の情報を
他の学会員にも教えることが多いようである。


>  学会員のメイン活動の一つは折伏(非学会員を、正しき法である日蓮仏法を実践し
> ている創価学会に入信させること)だが、実際に折伏する前、入信させたい人の名前
> を書いた紙を仏壇に備えて祈りまくる。地域のメンバーが拠点の家にきて、一緒に仏
> 壇に向き合い、折伏が決まることを祈るのは日常茶飯事。勧誘された人が、いろんな
> 学会のメンバーを紹介されると、なぜかすでに自分の名前をばっちり覚えられている。
> それは事前に祈り込みされているからだ。とはいえ、勧誘される人が学会員宅にきて、
> 仏壇に自分の名前が書かれた紙が供えられているとさすがにビックリするだろうから、
> 訪問前に仏壇から取り外すことが多い。
 (創価学会ルール研究所 著『創価学会あるある』)


 知らない間に、自分の名前を書いた紙を創価学会の仏壇に供えられ、しかも折伏の成功
を願って祈られるというのは、かなり薄気味悪い話である。

 実を言うと、私も折伏を受けた際に、相手の学会員から「お前が創価学会に入るように、
みんなで祈ったんだぞ」と言われたことがある。

 以前も述べたとおり、私はこれまでに何度も学会員から折伏を受けたことがあるが、す
べて退けてきた。言うまでもなく、その時も断った。

 私を折伏しようとした学会員は、久しぶりに会った学生時代の知人だったが、数日後、
同じ職場で働いてはいるが、部署が違うために一度も話したことがない人から唐突に話し
かけられて、「あなたは何故、創価学会に入らないのか」となじるように言われ、驚いた
経験がある(その人が学会員であることも、それで知った)。

 おそらく創価学会では、折伏について祈願する際に、氏名等の標的の個人情報を共有す
るだけでなく、作戦会議のようなことも行っているのであろう。

 創価学会では、折伏により新たな信者を獲得することは何よりの功徳であり、ご利益を
もたらすと信じられている。ご利益ほしさに相手の迷惑を顧みず、強引な折伏をする学会
員も少なくない。

 そうした学会員は、「創価学会だけが正しい信仰であり、他の宗教の人は地獄に堕ちて
当然なのだから、折伏を受けた人は感謝して創価学会に入るべきなのだ」などという、自
己中心的な考え方をしている。

 このような妄念を持った連中が、折伏を断られた時、どんな反応をするかは想像に難く
ない。

 創価学会において信仰の指針とされている聖教新聞には、数年ほど前まで、他の宗教や
脱会して批判者に転じた元学会員に対する口汚い誹謗中傷が、ほとんど毎日のように掲載
されていた。学会員にとって、敵対者に罵詈雑言をぶつけることは信仰なのである。

 折伏を拒んだ者は、即ち創価学会を認めない者であり、学会員がそのような人をよく言
うわけがないのだ(折伏の成功を祈願をしていた場合、「何時間も祈ってやったのに!」
という憤りもあって、なおさらのことそうだろう)。

 学会員たちが彼らの間だけで、勧誘を断った人を悪しざまに言うのであれば、さしたる
実害はないかもしれないが、「仏敵撲滅唱題」などという呪詛を喜々として行う連中が、
そんなに甘いわけがない。外部の人にも悪口を言いふらすだろう。

 もちろん、一般の人に対して「誰それは創価学会への入信を断ったから悪人だ」などと
は言わないだろう。「素行に問題がある」等の外部の人間にも聞き入れられ易い言い方を
するはずである。

 厄介なことに学会員は、自治会・町内会やPTAなどの地域コミュニティーにも浸透し
ている。

 創価学会は平成11年(1999年)、「地域本部」を設置し地域社会への「友好活動」を重
視することとした。


>  「友好活動」を広範囲にという「地域本部」設立の目的は、布教と同時に選挙活動
> の拡充にほかならない。その地域本部・地域部が、各方面区地域幹部を対象に配布し
> たのが、以下の内部文書である。
>  「今後の地域部のあり方
>  地域部員は以下の地域役職を有する人で、圏(区)地域部長が認定した人とする。
>  (1)地光会 町会・自治会(これに準ずる地域組織)の三役クラス
>  (2)盛光会 商店街の三役クラス
>  (3)寿光会 老人会の三役以上
>  (4)福光会 民生委員・保護司
>  (5)学光会 PTAの三役クラス
>  (6)勇光会 消防団
>  (7)慈光会 青少年委員、交通安全委員、体育委員など公的ボランティア
>   ★原則として現職。OBについては人によって可。」
>  商店会、老人会、民生委員、PTA,消防団、青少年委員会、交通安全委員会、体
> 育委員……いずれも地域住民の快適な生活をサポートする、公共組織としての色が濃
> い機関である。そうした地域のリーダー格である各機関の三役クラスを、学会は、
> 「地域部員」として認定しようという内部文書だ。
>  全国地域の公共機関をここまで細分化、浸透させ、「友好活動」を推進しようとす
> る創価学会の緻密な地方戦略には、目を見張るものがある。
 (乙骨正生+フォーラム21 編『公明党=創価学会の深層「自・創」野合政権を撃つⅢ』
  所収 段勲 著「集票に貢献する『地域本部』と『芸術部』」)


 町内会・自治会やPTA等は地域にとって重要なものではあるが、その役員になると活
動のために少なからぬ時間と労力を割かなければならない。そのため、こうした地域活動
の役職に就くことを忌避する人も多い。

 このような背景につけ込んで、創価学会員は地域活動の役職等を積極的に引き受け、折
伏やF取りに利用しようとしているのだ。

 地域にもよるだろうが、創価学会の座談会に町内会やPTAの役員が勢揃いしていると
いう、笑えない状況になっているところもあるのではないかと思われる。

 そうした地位にある者たちが結託して悪い噂を流せば、その標的にされた人の評判を、
極めて効果的に失墜せしめることが可能だろう。

 創価学会員は「仏法(=創価学会)は、国法や世法(常識・道徳)に優先する」という
教義を信奉している連中である(「反社会的な教義」参照)。

 地域のために責任を負うべき立場にあったとしても、その者が学会員であった場合、信
仰の論理を優先させ、立場を悪用して折伏に応じなかった者を貶めようとすることは、大
いにあり得ることなのだ。

 心を病んだ人が「特に悪いことをしたわけでもないのに、周りの人が自分の悪口を言っ
ている」という被害妄想を抱くことがあるが、創価学会から敵視されてしまった人の場合、
妄想でも何でもなく、実際にそのような苦境に立たされかねないのである。

 これまでの人生で、創価学会員からF取りや折伏を受けた経験がないという幸運な方に
は想像できないかもしれないが、学会員は常識では考えられないような言動をする連中で
ある。

 何度でも繰り返すが、創価学会は邪悪なカルトである。しかも、学会員は今なお数百万
人もいる。事実上、日本中いたるところにいるのだ。その危険性に対しては、他のカルト
以上の警戒が必要であろう。


追記

 評論家の佐高信氏とテリー伊藤氏との共著『お笑い創価学会 信じる者は救われない』
が出版された際、版元には多数の読者からの手紙が寄せられたという(七割が賛同で、三
割が批判だったとのこと)。

 同書は後に文庫化されたが、佐高氏は文庫版あとがきで読者からの手紙のいくつかを紹
介している。その中に、次のようなものがあった。

>  また都の教員をやっている人は、「勇気ある著書、ありがとうございました」とい
> う書き出しで、学会員の教員の比率が着実に増えていることに言い知れない恐怖を抱
> いてきた、と訴えてきた。
>  同じ職場に必ず数名の学会員職員がおり、軽く話したことでも、あっという間に、
> 地域の学会員保護者を巻き込んでそれが広がるという実感があるとか。
 (佐高信・テリー伊藤 著『お笑い創価学会 信じる者は救われない』文庫版)

 地域社会の中に創価学会員だけのコミュニティーが別にあり、それを介して様々な情報
が共有されていることに不安を感じている人が、それなりの数いるのだと思われる。

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2019年9月1日日曜日

エア本MADについて

 表題については既にほとんどの方がご存知のため、説明は不要かもしれないが、簡単に
述べると「エア本」とは、創価学会の外郭企業・シナノ企画が作成した信者勧誘用のビデ
オ『すばらしきわが人生』『Future』等を元ネタとしたMAD動画のことである。

 2007年(平成19年)11月30日、「久本雅美の頭がカービィのBGMに合わせて爆発し
たようです」がニコニコ動画に投稿されたことをきっかけとして、創価学会をネタにした
動画が次々に公開された。

 しかし、2012年(平成24年)、創価学会員である星野康二氏がニコニコ動画を運営する
株式会社ドワンゴの社外取締役に就任して以降、創価学会側の著作権に基づく要請により、
こうした動画が大量に削除された(エアコースト事件)。

 エアコースト以後、削除を避けるために、シナノ企画の動画をモチーフとした手書きの
イラスト等を用いてMAD動画を作る動きが広まり、現在に至っている。

 以下、エア本MADについての私見を述べる。
 端的に言って、これらの動画は創価学会への批判的意図に基づいて作成されたものであ
り、私としてはその心意気を高く評価している。

 ニコニコ動画やYouTubeの登場により、権力や財力を持たない普通の人々でも、自分の
主張を動画という形で発信出来るようになった。

 創価学会を揶揄するMAD動画には、それまで押さえつけられていた市井の人々による
巨大教団への異議申し立てという意義もあったと思う。

 しかしながら、批判のために作成されたものだったとしても、著作権を侵害していれば、
権利者の申し立てにより削除されてしまうことがあるのは、致し方ないことである。

 模範的な批判とは、明晰な論理により対象の輪郭・限界を描き出しすことで、その本質
や問題点を鋭く指摘しつつ、しかも法的にも道義的にも瑕疵のないものであるべきなのだ
ろう。

 だが、そのようなインテリ然とした非の打ち所がない批判は、ともすれば高踏的なもの
となり、「大衆の原像」から乖離したものとなってしまうきらいがあるのではないか。

 様々な欠点を内包しつつも、一面では正鵠を射ている、大衆の声とは本来そのようなも
のであるはずである。

 池田大作名誉会長は公明党の創立にあたり、その理念を「大衆とともに語り、大衆とと
もに戦い、大衆の中に死んでいく」と語ったという。

 正当な権利の行使とはいえ、権柄ずくで大衆の声を封じ込めようとするやり方を創価学
会が取るようになったことは、彼らが池田センセイから離れ、当初の志を失ってしまった
ことの現れなのかもしれない……。


動画紹介

 代表的なエア本MADをいくつか紹介する。
 未視聴の方は、この機会に是非一度ご覧いただきたい。

 ※ 最初の二つ「マチャリョシカ」「創価100%狂気」にはメッセージ性の強い歌詞が
  付されているので、予備知識がなくても楽しめるが、他は元ネタの知識がないと分か
  りにくいかも……。

マチャリョシカ
 今や国民的アーティストとなったハチ氏の初期の楽曲「マトリョシカ」の替え歌。

創価100%狂気
 人気アニメ「忍たま乱太郎」主題歌の替え歌(この作品はエア本MADではない)。

決戦!サルーイン Parn Battle With SGI All Stars
 人気RPG『ロマンシング サガ』を元ネタにした作品。

Q.Q.T.T.Q.T.T.
「すばらしきわが人生part4」に登場する杉並区の婦人部員、斉藤ふさ子さんの名言「ク
ンツォ!」をモチーフとした作品。

運営に消されてすぐ増える ~ 狂気の必須アモト酸
 人気STG『東方プロジェクト』を元ネタにした作品。「東方頭破七分」というジャンル
に分類される。

D.S池田先生は完成しているのか?最終鬼畜カルト教団・SGI
 東方頭破七分の一つ。

hrhr
 深遠より呼び覚まされし真なる恐怖。その正体は、南太平洋の海底都市に眠る邪神の眷
属とも、南極大陸狂気山脈に跋扈する不定形生物とも言われるが、実は「月のウサギ」な
のだとか……。

池田が膣から生えて来るんだw
 エアコーストを諷刺した作品。


補足
 リンク以外にも優れたエア本作品は多いので、興味のある方は検索していただきたい。
 また、エア本についてより詳しく知りたい方は、以下が参考になると思う。

 頭がパーン@wiki

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2019年8月25日日曜日

「集団ストーカー」は実在するか? 1 ― 「張りつき」と「取り囲み折伏」 ―

 「集団ストーカー」という言葉から、胡散臭い印象を受ける方も少なくないことと思う。
 それには致し方ない面もある。ネット上で見られる「集団ストーカーの被害を受けた」
という主張の中には、心を病んだ者の被害妄想ではないかと疑われるものも少なくない。

 しかしながら、創価学会について言えば、彼らが何人もの学会員を動員し、一般人に心
理的圧迫を加える行為を組織的に行っていることは、間違いのない事実である。

 例えば前回まで論じてきた「F取り」では、一人の標的に対して、複数の学会員で繰り
返し投票依頼を行う場合がある。


>  例えば、もし支援を依頼したFが「家族や知人にも公明党に投票するよう頼んでみ
> るよ」と言ってくれれば、活動家は目を輝かせて歓喜するに違いない。それは、Fか
> らより確実な投票が期待できるマルFへの“昇格”を意味するからだ。
>  また、Fに対し複数の活動家が支援依頼を行えば、「Fが重なれば票が固まる」と
> の理由から投票してくれる可能性が高まると考えられているという。
 (『週刊ダイヤモンド』2018年10月13日号)


 これは仮定の話だが、あなたが近所に住む学会員A――自宅にも公明党のポスターを掲
げる熱心な活動家――から「今度の選挙で公明党に投票してほしい」と依頼され、承諾し
たとしよう。

 その数日後に、職場の同僚Bから「公明党に投票してくれるんだってね。忘れずにね」
と念押しされたとする。

 Aが学会員であることは以前より知っていたが、Bまでもが学会員だったことをこの件
で始めて知った場合、居住地と職場という別の場所での知人が、実は創価学会を通じてつ
ながっていたことになり、たいていの人は驚くことだろう。

 それだけでなく、公明党への投票依頼に応じたという、自分に関する情報が共有されて
いたということでもあり、薄気味悪くも感じるのではないか。他にどんな話をされている
かと、不安に思う人もいるはずである。

 また、創価学会員は標的とした相手に対し、常識では考えられないような執着を見せる
ことがある(経験したことのない人には分からないかもしれないが、連中はとにかくしつ
こい)。


>  F作戦に絡んだ言葉に「張りつき」がある。会社から帰宅する友だちをFにするた
> めに、家の前で待つことをいう。
> 「定時に帰る人ばかりではありませんからね。二、三時間車の中で、Fにしたい人が
> 家に戻るのをじっと待つ。F取りがうまくいかないと、幹部は“張りつけ”って言いま
> すよ」
>  選挙期間中の学会員は、張り込みが得意の刑事さんに早変わりするというわけだ。
 (別冊宝島『となりの創価学会』所収 
  村山和雄・原田信一 著「これが学会選挙の舞台裏だ!」)


 選挙のためにここまでする者は、創価学会員以外にはそうはいないだろうし、こんなこ
とをされる側にとっては、とんだ迷惑である。

 学会員による迷惑行為は、「F取り」だけではない。
 実際に公明党に投票するなどし、創価学会に対して理解があると思われた場合、入信の
勧誘、つまり「折伏」の標的にされることもある(F取りに協力しなくても、折伏の標的
にされることもあるので要注意)。

 当ブログをご覧の方の中にも、複数の学会員に取り囲まれて折伏され、不愉快な思いを
したことのある人もいらっしゃることと思う。

 学会員は口実をつけて標的を呼び出し、何人もで取り囲んで入信を迫ることがある。こ
れを「取り囲み折伏」という。逃げられにくい状況を作るのと、数をたのんで圧伏しよう
という意図があるものと考えられる。
 
 呼び出す際の口実は「是非、話を聞いてほしい人がいる」とか、「芸能人が出演してい
るビデオの鑑賞会がある」と、折伏であることを隠すことが多い。「趣味のサークル」な
どと、ウソをつく場合もある。

 取り囲み折伏ではいきなり本題に入る場合もあれば、久本雅美などの学会員の芸能人が
出演しているビデオを鑑賞してから、入信を迫る場合もある。

 折伏経験が豊富な学会員が中心になって喋り、創価学会独自の宗教用語を連発して自分
のペースに巻き込み、議論になれば「ああ言えばこう言う」を地でいく屁理屈を弄する。

 標的が頑として応じなければ、周りの学会員も一緒になって「創価学会に入らないと地
獄に堕ちる」などと脅したりもする。

 入信を拒む人の方が多いだろうが、長時間の折伏に根負けして、入会手続きに同意して
しまう人もいる。

 いずれにせよ、標的とされた人のほとんどは、口車に乗せられてその場に来てしまった
ことを後悔することだろう。

 創価学会は、このような行為を組織的に行っているのだ。こんな目に遭った人が「創価
学会員につきまとわれて、怖い思いをした。集団ストーカーの被害を受けた」と言い出す
のは当然である。

 ことによると、迷惑行為で一般市民を苦しめている当の本人が「私たちはF取りや折伏
などの学会活動で忙しい。一般人にストーカーとかするわけない。『創価学会が集団スト
ーカーをしている』などと言っているのは、被害妄想に取りつかれた統合失調症患者に決
まってる」と、本気で思い込んでいるかもしれない(学会員の身勝手さを考えると、あり
得ないことではない)。

 創価学会は日本最大のカルトであり、その信者はいたるところにいる。今まで被害にあ
ったことのない人も、十分に注意していただきたい。


補足1 「集団ストーカー」という言葉について

 私はこれまで「集団ストーカー」という表現を用いることを避けてきた。
 その理由は、この言葉に手垢がつき過ぎているからである。

 本文でも述べたが、ネット上での「集団ストーカー」被害の訴えの中には、統合失調症
などの精神疾患を病んだ者による被害妄想でないかと思われるものが少なくない。

 その一方で、「集団ストーカー」という言葉は、一人の標的を大勢でつきまとって苦し
めることを、的確に言い表してもいることから、悩んだ末、今回はこの言葉を用いること
にした。

 上述のように、創価学会は組織的な迷惑行為を現在も続けている。
 「集団ストーカーは統合失調症患者の被害妄想」という主張の中には、創価学会員によ
る隠蔽工作もあるのではないかと疑われる。この件については、稿を改めて論じたい。


補足2 「取り囲み折伏」の実態

 元学会員や活動家をやめ非活になった方のブログの中には、取り囲み折伏の経験を述べ
ているものもある。興味のある方は、以下をご覧いただきたい。

  創価学会を卒業します!

  創価学会は本当に正しいのか?

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2019年8月18日日曜日

F取りの実態3 ― 公明党の票田 ―

 これまで見てきたように、創価学会員は時として戸別訪問のような違法行為に手を染め
てでも、公明党の得票を増やすために活動してきた。

 だが、学会員から依頼されたからといって、言われるままに公明党の候補者に投票する
一般人が、それほど多くいるとは考えにくい。

 学会員でもないのに公明党に投票するのは、どのような人たちなのだろうか。今回はこ
の疑問について考える。
 まず、前回に引き続き、信平信子氏の証言を引用する。


>  F取りと不在者投票での作戦が渾然一体となった作戦にはこんなものがあります。
>  例えば病院の票というのは馬鹿になりません。
>  大きな病院になると、そこだけで何十、何百という票になるのです。
>  五十ベッド以上の病院に入院している患者には不在者投票がおこなわれます。選管
> の人間がついて来て、ある日、不在者投票をおこなうのです。しかし、これは一斉で
> はなく、それぞれの病院で日程が違います。
>  学会では各病院に学会員の看護婦を送り込んでいますから、その日程が逐一、情報
> として入ってくるんです。
>  幹部はその日程を表にして壁に貼り、その日に向けて対策を立てていく。
>  二、三カ月前から、婦人部は徹底した見舞い作戦を始めます。学会員が入院してい
> る部屋を足場にして、一つ一つの病室を固めていくんです。
>  お見舞いの際に果物や菓子をお裾分けして入院患者と親しくなり、選挙前になって
> 初めて投票依頼をするんです。
>  中には教えても、すぐ候補者の名前を忘れる老人だっていますから、そんな人には、
> 手のひらに候補者の名前をマジックで書いたりもします。もちろん、担当の部屋は婦
> 人部で決め、見舞いの品など全て個人の持出しです。自分の功徳のためにやるんです
> からそれは当然なんです。
>  だから、婦人部の会合では、病院で知合いの老人が死んだりすると、
> 「ああ、これで一票減ってしまった」
>  なんて、不謹慎な話が飛び交ったりもするんです。
 (『週刊新潮』1996年3月7日号)


 病院に入院している患者の中には、高齢により正常な判断力を失っている者も少なくな
い。創価学会はそのような人を標的とし、「手のひらに候補者の名前をマジックで書いた
り」して、公明党の得票を増やしていたのである。

 創価学会婦人部の活動家の中には、一人でF票を百以上も集める猛者もいるというが、
それにはこのようなカラクリがあったのだ。

 公明党のもう一つの票田は、創価学会から仕事をもらっている企業の社員だ。
 創価学会は、信濃町本部や地方会館に勤務する職員、民主音楽協会やシナノ企画などの
傘下の団体・企業を合算すると、約5000人もの職員を擁する巨大組織である。

 また、聖教新聞の売り上げだけでも年間1000億円以上あり、財務等の「お布施」でも巨
額の資金を集める超金満教団でもある。

 様々な物品の購入や役務の提供など、創価学会との取引で潤っている民間企業は少なく
ない。創価学会はそのような企業に対して、公明党の票の取りまとめを依頼している。


> 〈特定団体への協力依頼について〉
>  こう題された社内メールを受け取った大手旅行代理店「JTB」グループの中堅男
> 性社員が明かす。
> 「任意の協力とはいえ、特定の候補者の応援署名を集めろというのは入社してから初
> めて。しかも、それが創価学会からの要請で公明党を応援するというんだから驚きま
> した」
>  文書は11月27日付で、JTB取締役旅行事業本部長の名前で社員向けに送られた。
> 文書にはこうある。
> 〈国内研修会をはじめとした各種需要を頂戴している創価学会様より、支援政党であ
> る公明党への支援要請がJTBグループにあり、営業政策上の観点から各事業会社に
> おいても可能な範囲での協力を求められております。
>  まず東京・神奈川・千葉に住む社員には比例代表向けに〈公明党の政治活動を支援
> します〉と題した用紙への署名集めを、太田昭宏国交相と前職の上田勇氏がそれぞれ
> 出馬した東京12区と神奈川6区の居住者には各候補の支援者名簿を作るための署名集
> めを要請している。
 (『週刊ポスト』2014年12月19日号)


 上記は平成26年(2014年)12月14日に投開票が実施された、衆議院総選挙を特集した記
事の一部である。

 JTB社員が求められたのは「任意の協力」だったとはいえ、取締役営業部長名で送ら
れ、「営業政策上の観点から」求められた要請を退けるのは、心理的な抵抗があったので
はないかと思われる(サラリーマンなら、出世への影響が脳裏をよぎるだろう)。

 創価学会によるJTBへの要請を週刊ポストが記事にしたのは、社員がリークしたから
であろうが、同様の要請が他の取引先に対してもなされた可能性は高い。

 創価学会が行っている取引の中でも特に金銭的に大きいのは、何と言っても会館等の建
設である。彼らは日本のどこかで、恒常的に新しい施設を建設中である。

 そうした背景もあって、会館建設を請け負うゼネコン各社は、公明党の票集めに非常に
協力的だという。F票の大半は建設業界によるものとの報道もある。


> 「選挙で勝つことは、信仰そのもの」――学会員の多くはそう語る。“池田教”とも言
> われる今の学会にとって、選挙こそが最も高揚感を抱くことのできる“宗教行事”だ。
>  そうやって獲得されるのが、全国七百万以上の学会票だ。ただ、近年は「F(フレ
> ンド)票」でかさ上げされているのが実態だという。その大半は建設業界から回され
> てくる票だ。全国で会館をつくり続ける学会はゼネコンにとって大の得意先である。
> 「建設関係にお願いすれば、名簿出しから投票の連れ出し(=学会で『Z』と呼ぶ活
> 動)までしてくれましたね」――。選挙活動について元本部職員はそう振り返る。
 (『文藝春秋』2015年1月号)


 創価学会は、直接、票を金で買っている訳ではないし、要請に応じなければ取引を切る
と脅したといった報道があった訳でもない。だから、こうした行為を犯罪だと断定するこ
とはできない。

 しかし、金銭の授受を伴う取引関係を利用して票の取りまとめを依頼するのは、問題の
あるやり方である。グレーゾーンの中でも、黒に近い方と言ってもいいのではないか。

 創価学会員による公明党の選挙運動の実態は、「公明選挙」よりも「金権選挙」の方に
ずっと近いと思う。

 買収などの経済的な利益に理由づけられた選挙違反は、許されない犯罪ではあるものの、
動機だけならば理解できなくもない。

 だが、「選挙で勝つことが信仰」だとか、「公明党に投票する人を増やすと功徳がある」
だとかいう理由で身銭を切ったり、法に触れるリスクを冒して選挙運動を行うというのは、
常軌を逸していると言わざるを得ない。

 もちろん、創価学会員の中には、公明党議員の口利きで生活保護を受給するなど、選挙
で公明党候補が当選することから利益を得ている者もいる。

 そういう人にとっては、選挙運動には経済的見返りがあることになるが、多くの学会員
は、そのような目に見える利害関係ではなく、信仰(=公明党の選挙運動)が、超自然的
な力で「ご利益」をもたらすと純粋に信じている。

 このような常人には理解できない理由で選挙運動に入れ込む学会員たちの愚かさを嘲る
のは簡単だが、その愚昧さを利用して操る本当にごく一部の幹部が、日本の国政を左右で
きる力を持っている現状は笑えない。

 原田会長をはじめとする信濃町の宗教官僚たちは、日本国民に対し、一切の説明責任を
負ってはいない。それどころか学会員に対してでさえ、池田大作の現状や財務の使い道な
どを正直に説明したことは、ただの一度もない。

 彼らは一体、何を目指しているのだろうか。
 誰にも何も説明しない連中が、国政に大きな影響力を持っていることに、私は空恐ろし
さを感じる。本稿をお読みになった皆さんは、どのように思われただろうか……。

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2019年8月11日日曜日

F取りの実態2 ― 戸別訪問 ―

 創価学会は建て前としては宗教団体であるが、実態としては政治団体といっても過言で
はない。唱題や勤行などの普通の意味での宗教活動以上に、選挙運動に力を入れている。

 前回述べたように、創価学会は選挙運動に宗教的な意味づけを行っており、学会員はご
利益があると信じて、公明党を応援してきた。

 また、当ブログで以前取り上げたように、創価学会には法律や道徳を軽視する教義が存
在する(『反社会的な教義』参照)。

 こうしたことが背景となり、創価学会は組織を挙げて悪質な選挙違反を行ってきた。
 創価学会の選挙の実態について、本部の副婦人部長を務めた経験がある信平信子氏が証
言している(信平氏は、池田大作のレイプを告発したことで知られている)。


>  私は昭和四十六年以降、学会本部の副婦人部長を平成四年まで二十一年間、務めま
> した。そして、北海道の副総合婦人部長を昭和六十年以降、同じく平成四年まで務め
> ました。
>  その中で、婦人部が中心となる学会選挙を指導し続けたのです。
>  その経験からひと言でいえば、創価学会は「選挙のために」存在するのです。
> 「権力には権力。金力には金力」
> 「数こそ力。王仏冥合の戦いに勝ち抜け」
>  これが池田の口癖です。池田はことあるごとに選挙に勝つために幹部たちを叱咤し
> ていました。
>  つまり、創価学会は池田が国政を牛耳る野望のために存在する組織なのです。宗教
> の仮面を被った選挙マシーンといった方が正確でしょうか。
 (『週刊新潮』1996年3月7日号)


 信平氏は「折伏の鬼」と呼ばれるほどの実績を上げ、昭和63年(1988年)には広布功労
賞を受けている。F取りでも大きな成果を上げ、選挙の際、他の地域から招聘されたこと
もあるという。

 信平氏はF取りにおいて、公職選挙法違反に該当する行為であるにもかかわらず、それ
を「違反にならない」とする、ウソの指導が行われていたとも証言している。


>  しかし、どんなひどいことでも法律に違反しない活動ならまだましです。でも、創
> 価学会は平気で選挙違反をおこなっているんです。
>  例えば、戸別訪問。これを学会では、
> 「一軒ごとに飛ばして訪問すれば、公選法に抵触しない」
>  と教え込んでいるんです。
>  そのために、学会員はそれを信じて、精力的に戸別訪問を展開している。
>  しかも、哀れなことに、選挙違反で捕まったら、各個人で責任を取れ――というこ
> とが徹底されているんです。
 (同上)


 週刊新潮編集部は、戸別訪問について自治省選挙課へ照会しており、その回答も記事に
付されている。


>  大竹邦実・自治省行政局選挙部選挙課長の話。
> 「公選法一三八条が禁じている戸別訪問の定義は、たとえ一軒でも個別に家を訪問し、
> 投票を勧誘したり、候補者や政党の宣伝をしてはならない、ということです。一軒ず
> つ飛ばしていけば抵触しないなどというのはとんでもありません。もちろん特定の宗
> 教団体がある候補者に投票してもらうよう個別に働きかけることも許されません」
 (同上)


 創価学会による組織的な選挙違反については、別の証言もある。
 自民党の平沢勝栄代議士は、平成8年(1996年)と平成12年(2000年)の2回、公明党の
山口那津男氏と衆議院東京17区の議席を争った(平成8年は、山口氏は新進党から立候補)。

 平沢氏は平成12年(2000年)の衆議院総選挙に際しての、創価学会による悪質な選挙違
反の実態を著書に記している。

 
>  具体的に、彼らから私がどんな妨害を受けたか。
>  なにしろ公明党の得意技といえば、名にしおう人海戦術である。二、三人の組にな
> り、まず私に対する謀略・中傷ビラを、パーッと一晩で全戸にまいていく。しかし面
> 白いことに、私の熱烈な支持者のところは避けている。
>  この動員力は怖い。人通りのない夜間とはいえ、わずか一、二時間のうちに十万戸
> を超える家庭にまくには、どう考えても、千人以上動員していないとやり遂げられる
> はずがない。
 (中略)
>  ともかく、私はどれだけ、怪文書の類を流されたか、わからない。
>  そのうち、六月十三日の公示日の早朝、中傷ビラをまいていた男たちを、私の陣営
> の運動員が見つけ、警察に突き出したことがある。
>  亀有署に七人、小岩署に三人、連れていった。すると男たちから連絡を受けて、さ
> っそく身元を引き受けにきた人間がいる。公明党の都議と区議だ。
>  公明党と創価学会が中傷文書を流している、なによりの証拠だ。自分たちでやって
> いる汚いことを、堂々と公明党が認めたようなものである。
 (平沢勝栄著『明快!「国会議員」白書』)


 選挙期間中に頒布できる文書については、公職選挙法で規制されており、それ以外の怪
文書等をポスティングすることは選挙違反である。

 こうしたことを行っているのは創価学会・公明党だけに限らないが、千人以上も動員し
て、大々的に違法行為を遂行できる組織は、彼らくらいのものだろう。

 平沢氏は同書で、戸別訪問についても言及している。


>  相手の陣営がやったことのなかには、こんなこともあった。漬物を一軒一軒持って
> 回って歩く。漬物を配りながら、平沢はダメだ、ウチの候補をお願いしますといって
> 歩くのである。
>  これと同じことを、もし、わが陣営がやったら、これはもう大変な騒ぎになる。す
> ぐに警察に突き出されたにちがいない。
>  ところが、私の応援団というか、自民党の応援団は、人がいい。相手が漬物を配っ
> たからといって、すぐに警察に届けるような人はいない。ちなみにポスターでも相手
> の応援団は、私のポスターは一切貼らせてくれない。逆に私の応援団は、相手方から
> 「自公連立ですので」といわれると、すぐに相手のポスターを貼らせてしまう。
 (中略)
>  このほかにも、地方公務員でありながら相手候補への投票を呼びかけるといった、
> 明らかに地方公務員法違反の情報もいくつかあった。いろいろな違反を目撃した人は
> いるが、警察に通報しようなどという人はいない。まったくもって、自民党の応援団
> は人がいい。
 (同上)


 引用のような数々の選挙違反まで行ったにもかかわらず、衆議院選挙で平沢氏に2連敗
し、浪人生活を余儀なくされた山口氏だが、その後、参議院に鞍替えし、平成21年(2009
年)からは党首を務めている。

 山口代表が創価学会員が行ってきた違法行為について、どの程度認識しているかは分か
らない。

 だが、東大卒の弁護士という華麗な経歴を持ち、早くから公明党のプリンスとして期待
されていた山口氏の選挙戦からして、この体たらくだったのである。他の公明党議員につ
いても、その実態は推して知るべしであろう。

 すねに傷を持つ公明党代表は、山口氏ひとりだけではない。
 山口氏の先々代の神崎武法氏は、検事時代に創価学会による共産党への盗聴事件に関与
していたことが問題視され、職を辞している。

 辞書で「公明」という言葉を引くと「ごまかしたり、不正な事をしたりするなどの、人
目をはばかるようなことが少しもない様子」(『新明解国語辞典』)とある。

 ご立派な党名を麗々しく掲げてはいるものの、選挙違反といい、政教一体で池田大作の
支配下にあった実態といい、実際には「人目をはばかる」ことばかりだったのが、公明党
の立党以来の在り方ではないのか。

 そもそも「公明党」という党名は、「クリーンな選挙」を実現することを標榜して名づ
けられたものだったという。


>  ちなみに「公明」の名の由来は、直接的には、池田愛読の『三国志』に出てくる
> 「蜀」の将軍・諸葛孔明の「公明」の音から来ている。また、当時「違反しない、ク
> リーンな選挙を」という意味で、自治省は「公明選挙」と言っていたが、この「公明」
> という言葉も換骨奪胎する形で取り入れた(そのため、自治省は公明党結成後、「公
> 明選挙」という言葉を使えなくなったのである)。
 (古川利明著『システムとしての創価学会=公明党』)


 先月の参議院選挙でも、自民党は単独過半数の議席を獲得できず、公明党がキャスティ
ングボートを握る形となった。

 私としては非常に不愉快であり、社会にとっても好ましくないことだと確信するが、弱
小勢力が大局に影響力を行使するための策として、孔明が立案した「天下三分の計」を地
でいく形には、一応なっている。

 しかしながら、創価学会・公明党が実際に行ってきたことを見るならば、彼らは『三国
志』の孔明ではなく、『史記』の「鶏鳴狗盗」の故事の方に範を仰いでいると言うべきで
あろう。

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