『人間革命』第五巻に昭和26年(1951年)7月11日、創価学会青年部の部隊結成式の模
様が描かれている。その時、演壇に立った戸田城聖は、その年の5月、自身が第二代会長
に就任したばかりであったにもかかわらず、次期会長について言及したという。
> 「きょう、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現われるで
> あろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお
> 祝いを申し上げておきたいのであります」
> 戸田の言葉は、低くあり、高くあり、真情あふれんばかりの声であった。意外な言
> 葉に、青年たちは思わず体を硬直させたにちがいない。――第三代会長が、このなか
> にいるという。いったい誰のことなのであろうか。――それは、彼らの思念をはるか
> に越えた問題であった。
> 戸田は場内の中央の一隅に山本伸一班長を見かけると、ふと眼をそらした。この瞬
> 間、山本伸一は半年前のあの日のことを、咄嗟に思い出さずにはいられなかった。
『人間革命』ではこの後、山本伸一(池田大作)が「半年前のあの日」に、戸田城聖か
ら「私にもし万一のことがあったら、学会のことも、組合のことも、また大東商工のこと
も、一切君に任せる」と言われたことを回想する場面が描かれている。
しかし、この青年部結成式に出席していた一人である藤原行正氏は、当時の青年部員は、
『人間革命』の記述とは異なる受け止め方をしたと述べている。
> また、この日青年部ナンバーワンの地位の第一部隊長には二十六歳の石田次男(聖
> 教新聞初代編集長、元参議院議員)が任命された。石田は学会の次期後継者と目され
> た若手屈指の人材であった。その石田を中央にした青年部に向かって、戸田会長はさ
> らに熱っぽく語りかけた。
> 「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現われるであろう。
> かならずこのなかにおられることを私は信ずる」
(中略)
> その場にいた全員が、その言葉は石田第一部隊長へ向けられたものだと受け止めた。
> 池田大作もその一人だった。
(藤原行正著『池田大作の素顔』より引用)
『人間革命』に、池田大作(作中では「山本伸一」)が登場するのは第二巻からである。
『人間革命』の記述では、戸田城聖は池田と初めて出会ったその日に、「いま牧口の遺業
を彼と分かつ一人の青年が、四十七歳の彼の前に、出現した」と直感したと書かれている
が、これは大ウソである。
昭和26年(1951年)の青年部部隊結成の時点では、池田大作は第四部隊長に任命された
龍年光氏の下の一班長でしかなかった。
藤原氏の前掲書には、昭和30年前後には戸田城聖は「長男はツギオで、次男がダイサク
だぞ」と語っていたと述べられている。
藤原氏の著書から、当時について引用する。
> この頃は誰もが石田を戸田二代会長の跡継ぎだと考えていた。池田自身もそうだっ
> たから、彼の石田に対するオベッカ遣いは凄かった。年に一度の子供会の席などで、
> 池田は石田に対してだけは懸命にゴマをすった。石田が腰を上げると見るや、池田は
> 素早い。パッと立って、石田の手荷物を持とうとするのである。いくら相手が次期会
> 長候補とはいえ、宗教団体の創価学会でそこまで媚びを売る人間はほかにいなかった。
石田氏が創価学会に入信したのは、昭和25年(1950年)11月だが、その翌年には聖教新
聞の初代編集長として抜擢され、昭和28年(1953年)には、牧口門下の古参幹部と並んで
理事に就任した。戸田城聖からそれだけ買われていたのである。
しかし、この理事就任が後に裏目に出ることになる。創価学会では、青年部が重要な役
割を担っており、石田氏が青年部から抜けた後、第一部隊長には池田大作が就任し、その
翌年には新設された参謀室長に抜擢された。池田はその後、青年部ナンバーワンとしての
地位を最大限に利用した。
石田氏は、初代編集長として聖教新聞を基礎から作り上げたという功績があり、それな
りの人望もあったが、会長を目指そうとする野心はまったくなかった。
戸田城聖は、教学面では抜きんでていた石田次男氏を長男に擬し、事業面での貢献が大
きかった池田大作がそれを補佐してくことを期待して次男と言ったのだろうが、天性の野
心家である池田大作は、戸田が58歳で死去したことをチャンスと見なして、策謀をめぐら
し、ついには第三代会長の地位を手に入れたのである。
『人間革命』第十二巻には、戸田が「幸男は長男だな、伸一は次男だよ」とよく言った
が、それは「惣領の甚六」という批判的な意味合いだったと述べられている(『人間革命』
には、石田次男氏は「石川幸男」として登場する)。
この記述は、藤原行正氏や龍年光氏が造反して、〝『人間革命』には戸田二代会長が生
きている間から、池田が後継者になることが決まっていたかのように書かれているが、そ
れはウソだ〟という批判を開始し、藤原氏が著書で、戸田会長が「長男はツギオで、次男
はダイサク」と言っていたと暴露したので、言い訳をしたものであろう。
戸田城聖没後、石田氏を会長に推す動きもあったが、石田氏は固辞した。その後、参議
院議員を二期務めたものの、三期目の立候補は池田大作が許さなかった。その頃には池田
は〝戸田門下生の中の第一人者〟ではなく、絶対権力者としての地位を確立していたので
ある。その後の石田氏について、ジャーナリスト・溝口敦氏は以下のように描いている。
> 石田次男は戸田の死後、池田に生殺与奪の包囲網を張られ、徐々に狭められて、つ
> いには最低限の餌を投げ与えられる飼い殺し状態にされた。戸田時代、石田が戸田に
> 重用されすぎたという理由だけである。
> 池田の石田に対する敵意の深さには慄然とさせられる。別の内部文書には、「石田
> 次男は二十年間苦しんで、地獄に落ちていくんだ」との発言もあり、創価学会員にと
> っての「地獄」の持つ意味の重大さを思い合わさずとも、その長期間、なぶり殺しに
> して断末魔をみるようなまなざしの冷たさには、異常な競争心と報復心の激しさ、底
> 深さをみる思いがする。
(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)
石田氏は、彼を敵視する池田大作の策謀により、若くして事実上の引退を強いられたわ
けである。彼はそれにめげずに、池田大作の教義上の誤りを批判し続けたが、創価学会側
は、石田氏は「気がふれて再起不能」「アル中で廃人寸前」などという噂を流して黙殺し
た。
ジャーナリスト・内藤国夫氏が、昭和60年(1985年)に石田氏にインタビューし、その
内容を著書に記している。それによると、石田氏は池田大作の事業面での貢献は評価して
いるが、教学については酷評している。
> 「大作が戸田先生を助けたというのは、ある意味で本当だな。借金取りに追いかけら
> れちゃあ、それをなんとか追っ払い、こっちが逆に借金取り立てる時には、追っかけ
> てなんとか払わせる。それは、大作一人だけがやった仕事だよォ。たしかに大作は戸
> 田先生を助けたさ。だけど、一面で大作は戸田先生に助けられたんだ。モノもわから
> ねえチンピラが、戸田先生によって働く場所を与えられたんだもの。助けられたのに、
> そっちを忘れて、あるいはいわずに、助けたことばかりいってたんじゃ、これはサカ
> サマだァ。そこがタチが悪いんだよ。知ってて、いわねえんだもの」
> 「それに、これは金のことだけだろう。大蔵商事は金を扱う会社だから。教学のこと
> に関しちゃ、戸田先生、大作のことなんか全然信用してなかったもの。大作自身が先
> 生の講義をろくに聞いてねえんだよ。なにしろ、平気で偽の本尊を作ったりする男だ
> からな。宗教のことなんか、なあんにもわかっちゃいない」
(内藤国夫著『創価学会池田大作のあくなき野望』より引用)
石田次男氏は、平成4年(1992年)2月4日に死去した。池田大作はもちろんのこと、実
弟の石田幸四郎氏(当時、公明党委員長)と義弟の秋谷栄之助氏(当時、創価学会会長)
さえも、その葬儀に出席しなかったが、通夜には戸田城聖の未亡人と子息の戸田喬久氏が
出席した。
ジャーナリスト・乙骨正生氏が戸田未亡人・幾氏に出席の理由を質問したところ、「生
前、主人が大変、お世話になりましたので」との返答があったとのことである。
師である戸田城聖が世話になった人の葬儀に参列しないというのは、「師弟不二」とい
う創価学会の教義に照らしてどうなのだろう……。
「歴史にIFはない」というが、もし仮に創価学会の第三代会長に就任したのが、池田
大作ではなく、石田次男氏だったならば、どうなっていただろうか。
溝口敦氏は、石田氏を以下のように評している。
> かりに戸田が今すこし永らえていたなら、はたの者がどのように避難しようと、石
> 田を後継者に指名しただろう。そして石田が会長になっていたなら、創価学会は華々
> しさに欠けても、いかにも宗教らしく発展しただろうし、電話盗聴や替玉投票、出版
> 妨害などを少なくともひき起こすことなく、世間の風当たりも弱まっていたにちがい
> ない。
> が、戸田の死後、彼の重用がすぎたために、石田の庇護者はなく、また彼には池田
> の持つ粗野なまでの自己主張も野心もマキャベリズムも乏しかった。
(溝口敦著『池田大作「権力者」の構造』より引用)
長年にわたる池田大作の支配により、反社会性が組織の体質になってしまった現在の創
価学会が、その体質を改めるのは容易なことではないだろう。
また、ほとんどの学会員にとって、池田名誉会長の存在がない創価学会など、考えるこ
とさえできないことなのかもしれない。
しかしながら、第三代会長が池田大作ではなく、今の創価学会よりは社会とうまく折り
合うことができたであろう、別の可能性も有り得たことを、ある種の〝ユートピア〟とし
て想像することは、創価学会の在り方を批判的に考察し、今後まともな組織になり得るか
を検討する上で、何がしかの意味はあるのではないだろうか。