2017年4月26日水曜日

蔵の財、心の財

 創価学会の教義がまとめられている『折伏経典』に、信仰の目的を論じた箇所がある。
その一節は、信仰を心のよりどころとすることを、以下のように批判している。


>  なるほど信仰というものが心の満足を目的としているものであるならば、野球をや
> って心の満足を得、心の慰安のために囲碁をやり、華道・茶道によって精神的な満足
> をうることとなんら変わりないものとなってしまう。信仰を、たんに趣味、娯楽とし
> か考えないところに間違った宗教が横行し、無知な者を惑わし、社会に対して害毒を
> 流す一つの原因がある。


 信仰に精神性を求めることは、スポーツによる充足や趣味を楽しむことと同列であり、
社会に対して害毒を流す原因となるのだという。随分と一方的で、心というものをないが
しろにした物言いである。

 創価学会においては、心の問題などとるに足らないものと考えられていることが、よく
わかる。では、彼らが信仰に求めるものは何なのだろうか。同書はこう述べている。


>  世の中が、すべて宿命であり、運命であるならば、よくなろうとして努力する人が
> いなくなるのではないか。この宿命を見つめ運命を打開していくことこそ信仰の目的
> であり、不幸な生活を幸福な生活へと転換していくための実践方法がすなわち宗教で
> ある。このことがわかれば、宗教はたんに精神的な満足を得るという趣味・娯楽とは
> 比較にならない重大問題であることがわかるのである。


〝幸福になるための実践方法が宗教〟だというが、精神的な充足を信仰にもとめることを
否定している以上、創価学会のいう〝幸福〟は、物質的な充足のみを指していることは明
らかである。

 即物的な現世利益のみを追求し、崇高さ、敬虔さといった精神的価値を認めない考え方
こそが、「無知な者を惑わし、社会に対して害毒を流す」ものではないのか。現に創価学
会員といえば、常識や規律を軽視し、他者への思いやりに欠けた人間ばかりではないか。

 彼らが「大聖人」と呼ぶ日蓮は、このような教えなど説いてなどいない。日蓮が心とい
うものを、どのように考えていたかを示す遺文を以下に引用する。


>  蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらん
> よりは心の財をつませ給うべし。
 (『崇峻天皇御書』より引用)

 ※ 引用中の「財」は「たから」と読む。


 この遺文からは、日蓮が物質的な事柄よりも、「心の財第一」と考えていたことが窺え
る。創価学会が日蓮の名を騙っているだけで、実際には、その教えを尊重していないとい
う証拠である。

 それに、創価学会の信仰から、物質的な充足を得ているのは、信者から巻き上げた金か
ら高額の所得を得ている、一部の幹部だけではないのか。

 末端の学会員には、地域の学会幹部から紹介された、低賃金の職場で働かざるを得ない
者や、公明党議員の斡旋で生活保護を受給して「功徳をいただいた」などと言っているよ
うな、どうしようもない連中も少なくない。

 創価学会のようなインチキ宗教にご利益を願うくらいなら、自分自身の意思で未来を切
り開く生き方を選んだ方が、余程マシであろう。それに生きづらさを感じる人にとって、
宗教が心のよりどころとなるのならば、それがまっとうな宗教であればだが、信仰を持つ
ことも悪くないかもしれない。

 しかし、創価学会はそんな心の支えにはならない。その理由は上記をお読みいただけれ
ば明白だろう。どうしても宗教にすがりたい人も、社会には一定数いるだろうが、そのよ
うな方には、創価学会だけはやめておくべきだと、強く言いたい。


 話は変わるが、上記の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」と
いう文言は、実は現在の創価学会では、しばしば幹部が言及する言葉となっている。

 これは別に、彼らが即物的な現世利益のみを追求する教義を改めたからではない。では、
なぜだろうか。

 創価学会が毎年、「財務」と称する金集めを行っていることは、これまでに当ブログで
述べたとおりである。

 財務の際には、「財務をすると倍になって福をもたらす」「高額の財務であればあるほ
ど功徳が大きい」と幹部が煽りたて、他の会員への見栄もあって、無理をしてでも金を捻
出し、高額財務を行う学会員も少なくない。

 しかし、学会に金を貢いだからといって、それが倍になって返ってくるなどという虫の
いいことがあるわけもなく、中には地区の幹部に不平を言う者もいる。

 そんな時に幹部が言うのが、「蔵の財よりも身の財、身の財より心の財」という日蓮の
言葉である(「愚痴は福運を消す」ということもある)。

 学会員は上から下まで、現世利益に目のくらんだ連中であり、当然のことながら、くだ
んの幹部も、常日頃は「心の財」になど、何の興味も持っていない。財務についての苦情
をかわす時にだけ、にわかに「心の財」が大事になるらしい。

 まったく、ふざけ切ったインチキ宗教である。



補足

 今回引用した『崇峻天皇御書』は、日蓮が在家の弟子である、四条金吾に宛てて出した
手紙である。崇峻天皇にまつわる逸話が紹介されていることからこう呼ばれる。

 この遺文は身延山久遠寺に伝わっていたが、明治時代に焼失している。日蓮が晩年を過
ごした身延には、複数の真蹟遺文が残っていたが、明治八年の大火で焼失した。このよう
な遺文は「真蹟曽存」と呼ばれる。