2017年7月6日木曜日

創価学会は本当に「御書根本」か? ①

 創価学会では日蓮遺文のことを「御書」という。「御書」は学会員にとっては聖典であ
り、創価学会の会則でも以下のように規定されている。


 (教義)
 第2条 この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経
 を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各
 人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願
 とする。


 創価学会は、辞書のように分厚い『日蓮大聖人御書全集』を刊行しており、ほとんどの
学会員がそれを持っているはずだが、この御書を読んでいる者がどれほどいるか、怪しい
ものだと私は思う。

 というのも、『人間革命』の記述の中には、学会員が御書を読んでいないことを前提と
して書かれているのではないか、と思われる箇所があるからである。
 今回はその例を二つ挙げ、御書の記述に照らして検証してみたい。


>  真言宗は、平安朝の昔、伝教大師(最澄)と同時代の、空海によって、もたらされ
> た宗派である。
>  釈迦の爾前経である大日三部経を依経としたが、その教えの本質は、むしろ、イン
> ドのバラモン一派が重んじた、密儀の流れを汲むといわれる。
>  印――すなわち、手の指のさまざまな組み合わせ方や、真言陀羅尼という梵語の呪
> 文に、不可思議な力があるとする、神秘主義の思想であった。
 (中略)
>  優れた宗教が、社会の土壌にあれば、おのずと見事な、絢爛たる文化の花が咲くで
> あろう。また逆に、信仰が神秘的な、閉じた世界に押し込められてしまうと、人間精
> 神の自由な活動が抑えられ、民衆の生き生きとした鼓動も、社会の健全な発展も、い
> つしか止まってしまう――。
>  日蓮の「真言亡国」との呼号は、深い思索にもとづいていた。
 (『人間革命』第六巻より引用)


 この一節は、日蓮が立教開宗した際に、真言宗を批判した場面の説明として書かれたも
のであるが、あまりにも突っ込みどころが多すぎる。

 まず、初期の日蓮は、密教に対して批判的ではなかった。後に批判に転じてからも、法
華経を最も優れた経典だとする天台大師の教説「五時八教の教判」を擁護する立場から、
大日経や金剛頂経を重んじる密教を批判したのである。

 『人間革命』の記述は、史実に反しているのだ。日蓮の真言宗批判は、印や真言陀羅尼
を用いる神秘主義的な密儀に向けられたものではなく、空海が天台大師とは異なる独自の
教相判釈を提唱し、密教経典を法華経よりも優位に置いたことに向けられている。実際、
日蓮は、法華経も本来は密教経典であった、という見解を示している。


>  今汝等知るべし、大日経等は法華経已前ならば華厳経等の如く、已後ならば涅槃経
> 等の如し。又天竺の法華経には印・真言有れども、訳者之を略して羅什は妙法経と名
> づけ、印・真言を加へて善無畏は大日経と名づくるか。
 (『寺泊御書』(真蹟 中山法華経寺所蔵)より引用)


 また、創価学会が重んじる『御義口伝』には、次の記述がある。


>  御義口伝に云はく、陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり。其の故は、陀羅尼は諸仏の密
> 語なり。題目の五字は三世の諸仏の秘要の密語なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と
> 唱へ奉るは陀羅尼を弘通するなり。


 『御義口伝』は偽書の疑いが濃厚であるが、池田大作に『御義口伝講義』という著作が
あることからも明らかなように、創価学会では教義上重視されている(『御義口伝講義』
の本当の著者は、元教学部長の原島嵩氏である)。

 「南無妙法蓮華経」は陀羅尼だと『御義口伝』には書かれている訳だが、『人間革命』
は、その陀羅尼を「神秘主義」として批判しているのだ。支離滅裂である。

 以上で明らかなように、『人間革命』第六巻に記されている日蓮の「深い思索」とやら
は、「御書」とも、実際の日蓮の思想とも、無関係なでっち上げである。

 もう一つの例として、『人間革命』第九巻で詳述されている「小樽問答」における辻武
寿氏(『人間革命』では「関久男」)の発言を引用する。


> 「『開目抄』において『諸宗は本尊にまどえり』と、大聖人は喝破されております。
> 身延には定まった本尊がない。……日蓮大聖人の仰せられた本尊を拝んでいない。釈
> 迦を拝めとは誰が言ったか。……この本尊雑乱について、身延山はいかに大聖人にお
> 答えするつもりでしょうか。いかに創価学会に対して返答するつもりであろうか! 
> 明らかな返答を承りたい」


 『開目抄』には、確かに『諸宗は本尊にまどえり』との記述がある。しかし、この一節
を何度読んでも、〝法華経の如来寿量品に説かれる久遠実成の釈尊を本尊とすべきなのに、
諸宗は本尊に迷って他の仏を拝んでいる〟と、日蓮は主張しているとしか解釈のしようが
ない(参考までに、『開目抄』当該部分を補足で引用する)。

 つまり、辻氏は日蓮が〝釈迦を拝め〟と言っている一節を引いておいて、「釈迦を拝め
とは誰が言ったか」と居直っているのである。この部分を読んだ学会員は、何も思わなか
ったのだろうか。『開目抄』は三大部の一つであり、日蓮系宗教では創価学会を含めて、
どこでも重視されている遺文なのだが。

 『寺泊御書』や『開目抄』と照らし合わせて、『人間革命』を読めば、その記述は日蓮
の教えに基づいていないことが一目瞭然である。

 創価学会は日蓮の名を騙っているだけであり、彼らが自称する「御書根本」というのは、
大ウソと言わざるを得ない。

 『人間革命』の実際の著者である篠原善太郎氏は、おそらく日蓮正宗から受け継いだ創
価学会の教義が、日蓮遺文と矛盾することに気づいていたであろうが、ほとんどの学会員
は御書など読めないので、疑問視されることはないだろうとの考えから、上述のような欺
瞞に満ちた記述をしたのであろう。

 学会員が、御書の記述と創価学会の教義との矛盾に気づかないのは、「創価学会は絶対
に正しい」と信じ込まされ、疑問を持つことがないように、思考停止するようにマインド
コントロールされているからであろう。

 当ブログで示してきたように、『人間革命』や『日蓮大聖人御書全集』を、虚心坦懐に
読むだけでも、創価学会の矛盾に気づくきっかけになり得る。

 しかも現在はインターネットの普及により、情報を得ることは以前よりもたやすくなっ
た。創価学会ではネット禁止令があるそうだが、禁を侵して当ブログをご覧になっている
学会員もおられるかもしれない。

 そんな方には、創価学会で教えられていることと、あなたがインターネットで目にした
ことと、どちらが多くの真実を含んでいるかを、自分の頭で考えることをお願いしたい。

 そうした方が、カルトの教えを唯々諾々と信じるよりも、きっと、より実り多い人生に
つながるはずである。



補足1 「小樽問答」について

 「小樽問答」とは、昭和30年(1955年)3月11日、北海道小樽市で行われた、日蓮宗と
創価学会の公開法論である。

 創価学会は、この法論に勝ったと主張しているが、実際には学会員を大勢動員して、ヤ
ジで圧倒しただけのようである。

 しかしながら、日蓮宗の僧侶が言葉に詰まる場面もあったという。
 本文で示したように創価学会側を代表して、この法論に臨んだ当時の青年部長・辻武寿
氏の主張は、日蓮が明らかに〝釈迦を拝め〟と主張している遺文を引用した直後に「釈迦
を拝めとは誰が言ったか」と発言するなど、無茶苦茶なものであった。

 このような人物を相手に、論理的な討論など望むべくもなく、日蓮宗僧侶が言葉に窮し
たのも無理からぬことではなかったかと思う。キチガイには、言葉による説得は届かない
のだから仕方ない。

 私の個人的な経験からいっても、創価学会員は、折伏などの際に論理的に破綻した主張
をしてくることが多い。

 しかも、こちらが呆れているのを見て、何を勘違いしたものか、「どうだ、参ったか」
と言わんばかりに勝ち誇る者もいる。

 キチガイ信者と議論しても、こちらの理屈は通じないことが多いので、学会員とはまと
もな話し合いなど成り立たないものと考えて、最初から関わらない方が無難だと思う。


補足2 『開目抄』の「諸宗は本尊にまどえり」前後の引用

>  今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方阿弥陀如来の観
> 音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部、大日如来の御弟子
> の諸大菩薩、猶、教主釈尊の御弟子なり。諸仏、釈迦如来の分身たる上は、諸仏の所
> 化申すにをよばず。何に況んや、此の土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈
> 尊の御弟子にあらずや。
>  而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり。倶舎・成実・律宗は三十四心断結成
> 道の釈尊を本尊とせり。天尊の太子、迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし。華
> 厳宗・真言宗・三論宗・法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相・三論は勝応身ににた
> る仏を本尊とす。天王の太子、我が父は侍とをもうがごとし。華厳宗・真言宗は釈尊
> を下して盧舎那・大日等を本尊と定む。天子たる父を下して種姓もなき者の法王のご
> とくなるにつけり。浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とをもって、教主を
> すてたり。禅宗は、下賎の者一分の徳あって父母をさぐるがごとし。仏をさげ経を下
> す。此皆、本尊に迷へり。例せば、三皇已前に父をしらず、人皆禽獣に同ぜしがごと
> し。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。故に妙楽云はく「一代
> 教の中未だ曾て父母の寿の遠きことを顕はさず。若し父の寿の遠きことを知らざれば、
> 復父統の邦に迷ふ。徒に才能と謂ふも全く人の子に非ず」等云云。妙楽大師は唐の末、
> 天宝年中の者なり。三論・華厳・法相・真言等の諸宗、並びに依経を深くみ、広く勘
> へて、寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷へる才能ある畜生とかけるなり。